平成

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平成(へいせい)は、日本の元号の一つ。昭和の後。西暦でいう1989年1月8日から[[テンプレート:CURRENTYEAR-JST年]]現在に至るまでの期間を指す。平成13年(2001年)には21世紀世紀の転換もあった。今年は平成テンプレート:CURRENTGENGOYEAR-JST年(西暦テンプレート:CURRENTYEAR-JST年)である。

改元[編集]

皇太子明仁親王(今上天皇)の即位の為、元号法に基づき平成元年(1989年)1月8日に改元。元号法によって改元された最初の元号である。

「平成」は、改元時の内閣総理大臣竹下登ら政府首脳も決定前から執心していたという(渡部恒三[1]。また、閣僚などを通じ、「平成」や「修文」などの候補が外部に漏れ、幾ばくかの国民の間では予想する事も可能であった。しかし、佐野眞一は『文藝春秋』に載せた記事の中で、的場順三内閣内政審議官(当時)が「元号は縁起物であり改元前に物故した者の提案は直ちに廃案になる」[2]と発言している。一方、宇野精一目加田誠山本達郎が新元号提案の委嘱があったことといわれ、目加田が「修文」を宇野が「正化」を提案したことを認めている。山本だけが「ノーコメント」を貫いたため佐野は山本が「平成」の提案者ではないかと「断定してよさそうである」と書いている[3]

政府は、昭和天皇崩御を受け、その当日(昭和64年(1989年1月7日)の午後、「元号に関する懇談会」(8人の有識者で構成)と両院正副議長に「平成」「修文」「正化」3つの候補を示し、意見を聴いた。その際、委員の間から「修文(しゅうぶん)」、「正化(せいか)」の2候補はローマ字表記の頭文字が「昭和」と同じ「S」になるので不都合ではないかという意見が出て、全員一致で「平成」に決まったと伝えられる。このことから、「修文」、「正化」ははじめからダミーの案であったと考えられている。

同日14時10分から開かれた臨時閣議に於いて新元号を正式に決定し、14時36分、内閣官房長官小渕恵三が記者会見で発表。

只今終了致しました閣議で元号を改める政令が決定され、第1回臨時閣議後に申しました通り、本日中に公布される予定であります。新しい元号は、平成であります

と言いながら新年号を墨書した台紙を示す姿は、新時代の象徴とされた。

同日、「元号を改める政令」(昭和64年政令第1号)は新天皇の允裁(いんさい)を受けた後、官報号外によって公布され、翌1月8日から施行された。また、「元号の読み方に関する件」(昭和64年内閣告示第6号)が告示され、新元号の読み方が「へいせい」であることが明示された。

尚、大正昭和の際と異なり、平成改元の際に翌日から施行された背景として、当時は文書事務の煩雑化・ワードプロセッサをはじめとするOA化に伴うプログラム等の変更を行うためと報道された。

「平成」の出典[編集]

「平成」の名前の由来は、『史記』五帝本紀の「内(内平かに外成る)」、『書経』大禹謨の「地(地平かに天成る)」からで「内外、天地とも平和が達成される」という意味。元号に「成」が付くのは初めてであるが、「大成」「成化」など外国の年号や13代成務天皇の諡号にも使用されており、「平成」は慣例に即した古典的な元号と言える。

江戸時代最末期、「慶応」と改元された際の別案に「平成」が有り、出典も同じ『史記』と『書経』からとされている。

但し典拠・故実に由来する反対意見に以下のようなものがある。

  • 典拠として史記書経よりも重視するのはおかしい。書経のみを以て典拠とするべきである。
  • 書経の当該部分は、清代中国における研究によって偽書偽古文尚書)である事が確定したものであり、典拠として書経を挙げるべきではない。
  • 平治以来「平」で始まる元号がないのは、平治が戦役によって混乱した時代であったためであり、「平」で始まる元号はこれを避けるのが故実である。また、「平」「成」の文字の中に「干(=楯)」「戈(=鉾)」があり「干戈(戦争を意味する)」に通じる。

なお最終案である「平成」「修文」「正化」の他に、「文思」「天章」「光昭」などの案も存在したとされる。

時代の流れ[編集]

時代概説[編集]

ソ連崩壊まで[編集]

平成元年(1989年)から平成4年(1992年)まで。

日本は、土地への投機熱でバブル景気が起こっていた時期である。冷戦終結の時期であり、平成元年(1989年)にはベルリンの壁が崩壊して冷戦が終わり、東ヨーロッパでは次々と革命が起こって共産党政権が倒された。平成2年(1990年)には湾岸戦争が勃発し、平成3年(1991年12月25日には冷戦の盟主国の一角であるソ連が崩壊した。

ソ連崩壊からアメリカ同時多発テロ前まで[編集]

平成5年(1993年)から平成13年(2001年9月10日まで。

ソ連崩壊により、アメリカナイゼーショングローバル資本主義が世界を席巻した時代で、完全にアメリカ一極体制の時代である。冷戦の政治構造が崩壊して、日本の政治・経済のアメリカナイゼーションが始まった時期であり、アメリカ型の政治・経済のシステムが「普通の国」と呼ばれ、親米政治家と親米資本家が大手を揮った時代である。日本社会は「日銭の世界」に巻き込まれ、「失われた10年」と呼ばれた時代である。

アメリカ同時多発テロ以後[編集]

平成13年(2001年9月11日以後。

イスラム過激派アメリカ同時多発テロ事件を惹き起こし、自爆テロが吹き荒れた時代。アメリカ一極体制が揺らぎ始めるが、日本では政治・経済のアメリカナイゼーションが強まった時期であり、親米政治家と親米資本家は「聖域なき構造改革」と称してアメリカナイゼーションを一層強めた。「格差社会」が大々的に問題化したのもこの時期である。

平成20年(2008年)には、アメリカのサブプライムローンを引き金とする世界同時不況が勃発し、日本を含めて世界中が丸ごと不況に陥る時代になった。

政治史[編集]

内閣総理大臣[編集]

昭和57年(1982年) - 昭和62年(1987年)の中曽根康弘内閣を最後に、平成に改元された当時の竹下登内閣以降、短命な内閣が続き、平成13年(2001年)までの12年間に首相が10人、平均の在任期間が1年強という混迷の時代が続いた。この中には日本政治史上記録的な2つの短命内閣も含まれている(宇野宗佑内閣(69日)、羽田孜内閣(64日))。小泉純一郎内閣(平成13年(2001年)4月 - 平成18年(2006年)9月)が平成初の長期政権で、小泉の首相在任期間は戦後3位(1980日)である。派閥領袖ではない人物が多く首相に就任している。平成21年(2009年)現在、12人の首相のうち、派閥領袖として首相に就任した人物は竹下登宮沢喜一小渕恵三森喜朗麻生太郎の5人のみである。東京大学出身者は、宮澤喜一 (唯一の官僚出身者) と鳩山由紀夫 (唯一の理系出身者) のみでそれ以外は私大出身者である。

又、首相就任時の年齢が低下傾向にあるといわれ、平成期では約半数が50歳代で首相に就任しており、海部俊樹細川護熙羽田孜橋本龍太郎、小泉純一郎、安倍晋三が、50歳代で首相に就任している。ただし、宇野宗佑麻生太郎は65歳以上での就任で、宮澤喜一村山富市福田康夫の3人は70代という高齢で総理就任しており、一概に総理就任年齢が低下したとは言いがたい。橋本龍太郎、小沢一郎、小泉純一郎、福田康夫といった世襲政治家が一挙に増えた。平成6年(1994年)の村山政権以来の首相は全員、世襲政治家が占めている。

安倍晋三、福田康夫、麻生太郎の3人の内閣総理大臣では、自民党はぐらぐら状態だった。そのため、平成21年(2009年)8月30日に行われた 衆議院総選挙では民主党が政権を握った。

政党[編集]

平成期は日本新党新党さきがけ新生党新党みらいスポーツ平和党真理党自由連合柿沢自由党自由改革連合新進党新社会党太陽党フロムファイブ国民の声民政党新党友愛新党平和民主党自由党保守党保守新党国民新党新党日本新党大地改革クラブ幸福実現党みんなの党など新党結成・政党合併が相次いだ。

平成元年(1989年)、竹下内閣による消費税導入と、リクルート事件による自民党金権汚職への国民世論の反発・農産物の輸入自由化による農民の自民党離れの現象、宇野宗佑首相の女性スキャンダルによる女性有権者の反発などの理由から7月の第15回参議院議員通常選挙で自民党は過半数割れの大敗。社会党が一人勝ちをして参議院は与野党逆転した。土井たか子委員長の女性政策によってマドンナ旋風がおき女性議員が倍増。以後平成期は国会でも地方でも女性議員が増加している。社会党は平成2年(1990年)の第39回衆議院議員総選挙でも勝利したが、自民党も安定多数で勝利した事で政権獲得に失敗する。小沢一郎幹事長のもと自民党政権が竹下派経世会支配で安定する。自民党最大派閥竹下派は平成4年(1992年)に小渕派羽田派・小沢派に分裂。小沢一郎は衆議院議員選挙制度小選挙区への変更で派閥解消・二大政党制選挙・金がかからない選挙を目指す政治改革論議を提起した。宮澤内閣不信任決議に賛成して嘘つき解散に追い込んだ小沢一郎は自民党を離党して新生党を旗揚げ、別の政治改革グループが新党さきがけを旗揚げ、日本新党新生党新党さきがけが躍進して新党ブームがおきた。

平成5年(1993年)、日本社会党新党さきがけ新生党民主改革連合公明党民社党社会民主連合日本新党が連立した細川内閣が成立。非自民連立政権の成立により、自民党は一時野党に転落して55年体制は崩壊するも、平成6年(1994年)には自民党は社会党との村山連立政権で早くも政権に復帰し、その後は公明党と連立で政権を維持した。政権与党は自民党単独、→非自民・非共産連立政権新生党公明党日本社会党民社党新党さきがけ日本新党社会民主連合民主改革連合)、→(自由民主党日本社会党新党さきがけ自社さ連立政権、 →自由民主党自由党公明党連立、→自由民主党公明党保守党その後保守新党連立、 →(自由民主党公明党自公連立と移り変わり、自民党を中心にした連立政権の時代となった。~平成5年(1993年)の政治体制は、自民党対日本社会党の保守・革新による二大政党制・55年体制。平成5年(1993年)~平成6年(1994年)の政治体制は、多党制による連立政権対野党自民党。平成6年(1994年)~平成9年(1997年)の政治体制は、日本社会党が自民党との連立政権で政策転換、その後衰退・社会民主党に党名変更。自民党対新進党の二大政党制が成立。第三極民主党成立後に新進党が解体する。

平成10年(1998年)からは自民党vs民主党の二大政党制が成立し、自民党は小泉内閣郵政解散による選挙で大勝して絶対多数の議席を獲得したが、後継の安倍内閣第21回参議院議員通常選挙で民主党に大敗し、参議院は与野党逆転をしてねじれ国会の構図が生じている。また、平成21年(2009年)には、第45回衆議院議員総選挙で民主党が大勝して自由民主党が野党に転落、民社国連立政権鳩山由紀夫内閣が誕生して政権交代がおきた。

政治思想・法制度改革[編集]

平成期は様々な政治改革・法制度改革が行われた。選挙制度改革(小選挙区比例代表並立制の導入)、政治改革(政治資金規正法政党助成金制度)、行政改革(省庁再編公務員改革)、司法制度改革として新司法試験制度、法科大学院の設置、裁判員制度の導入・少年法の改正が行われた。 有事法制の整備や自衛隊の海外派遣、国旗国歌法の法制化、教育基本法の改正など、第二次大戦前への「逆コース」の傾向が強い政策への抵抗感が弱まり、日本社会党日本共産党など革新勢力は弱まった。

相次ぐ政界再編、政治家のスキャンダルもあり国民の政治不信を呼んだ。そのため、特定の支持政党を持たない「無党派層」が既存政党への支持者を大きく上回っている。政治不信対策・政党政治の復活のため平成15年2003年第43回衆議院議員総選挙から公職選挙法が改正されて、民主党が先駆けてマニフェスト選挙を行った。

しかし、ソ連死滅以後のグローバル資本主義アメリカナイゼーション、特に小泉内閣聖域なき構造改革の結果、いわゆる格差社会の中、蟹工船ブームなどで共産主義・社会主義・反グローバリゼーションへの支持が拡大すると思われた。しかし、平成21年(2009年)の都議選では、自民党に対する逆風にも拘らず、共産党や社民党は惨敗し、民主党は上げ調とは言えども「自民党とあまり違いはない」とする意見も根強い[4]。このように、反グローバリゼーションの思想が支持を殆ど得られていないとする見方の一方で、グローバリゼーションの思想が支持を得られているかどうかを疑う見方もある。

政治家[編集]

平成12年(2000年)の中央省庁再編により、官邸主導が強まった。平成13年(2001年)から平成18年(2006年)にかけての小泉政権下では社会保険庁問題・無駄使い・天下り批判がされ脱官僚の声が強まり、政権主導の改革を推進した。しかし、安倍内閣・福田内閣と後継政権の迷走が続き、小泉政権の時のような官邸のリーダーシップが発揮できなくなっている。「竹下派七奉行」「清和会四天王」と呼ばれた焼け跡世代(特に真珠湾攻撃以前の1930年 - 1941年生まれ)の政治家が1990年代の政界を主導したが、2000年代に入るとこれらの政治家の多くが死去・引退した。2000年代になると、戦中生まれ世代からポスト団塊世代までの世代が主導権を握りつつある。与野党で戦後生まれの党首が誕生している。小選挙区比例代表並立制に選挙制度が変わり自民党民主党の二大政党はサラリーマン化した議員を輩出して、中選挙区制時代のような地主型政治家・労組出身者は激減した。
地方政治
地方では、ユニークな「改革派首長」が登場し、財政再建や過疎対策などに辣腕を振るうようになった。平成11年(1999年) - 平成18年(2006年)頃、総務省の政策で平成の大合併による市町村合併が行われて地方自治体は大幅に削減されて多くの市町村が消滅。東京一極集中が再び加速して地方経済の衰退が顕著になった。これに伴い財政再建団体に転落した自治体や医療崩壊に至った地域が現れ問題になっている。

経済史[編集]

バブル景気の崩壊により経済は停滞期に入った。更に、バブル時代以後には米軍占領時代の「ギブ・ミー・チョコレート」で育った焼け跡世代が企業のトップに座り、企業や経済のシステムを根こそぎアメリカ型に変え、冷戦末期のアメリカを襲った整理解雇ブームを「リストラ」という名で日本に持ち込んだ。この結果、就職氷河期が12年以上に亘って続き、結婚したくてもできない青年や「フリーター」「ニート」と呼ばれるプレカリアートが急増し、中高年は整理解雇ブームに襲われ、経済的理由からの自殺が相次いだ。

平成9年(1997年)の橋本内閣で行われた消費税増税は、バブル崩壊の痛手から立ち直りかけていた日本経済に打撃を与え、企業の倒産・合併・再編が増加した。さらに、この頃から金融機関の含み損が再び表面化して、多額の不良債権を抱えた企業の経営破綻が相次いだ。この反省から小渕内閣では積極財政・景気対策路線がとられ、財政赤字が増大した。

平成13年(2001年)に首相に就任した小泉純一郎によって推進された「聖域なき構造改革」「新自由主義」以降、銀行の不良債権処理が進んで金融機関は健全化して、長く緩やかな景気回復(平成14年2月以降)が続き、失われた10年からは脱した。この景気拡大は専ら外需主導であり、公共投資の縮小及び企業の人件費抑制に伴う労働分配率低下により、内需と個人消費は冷え切ったままである。新興国の経済発展に伴い、重厚長大産業を含む製造業の復権が起こった一方、新しい産業としてはIT産業・(主に高齢者世代を対象とする)介護サービス事業人材派遣業が成長したが、これらはいずれも劣悪な労働条件が問題になっている。介護サービス事業人材派遣業は経済効果がマイナスの産業で、介護産業(主に昭和戦前生まれ世代が対象)は心身ともに勤労能力がない老人に投資する福祉であるのが前提で死期が近い老人に投資しても経済的還元がなくて、人材派遣業(昭和15年生まれ~昭和30年生まれ世代の新自由主義的経営者が育成した産業)は製造業の崩壊や企業への忠誠心を低下させて、情報産業(昭和39年生まれ~昭和52年生まれの六本木ヒルズ族世代の起業家が主導した産業)もマスコミ・流通手段の革命産業だが経済効果はそれほどなかった。平成期はバブル期インフレ経済からデフレ経済に移行して、100円ショップマクドナルド吉野家円高還元セールなどの商品の値下げ競争が注目された。ギャンブルが変化して、数字選択式全国自治宝くじロト6スポーツ振興くじ競馬ワイドが導入される。ミニマムライフ世代(1980年代生まれ)の若者が車離れをするようになった。

2000年代後半に入ると、六本木ヒルズ族と呼ばれる富裕層が話題を振り撒く一方、「プレカリアート」と呼ばれる非正規雇用の増大(15歳~19歳は約7割が非正規雇用)や、フルタイムで働いても貧困から脱却できないワーキングプアの存在が表面化し、「格差社会」の到来が叫ばれるようになった。平成21年(2009年)の日本政府の発表では、平成18年(2006年)の時点で貧困率は15.7%であった。平成20年(2008年)に入ると、景気は再び後退し始め、資源価格上昇の中で景気後退が続くスタグフレーションの進行が憂慮された。2000年代は輸出産業である製造業が好調だったが、人手不足は外国人労働者を含む派遣社員を中心にプレカリアートでまかなわれた。そのため、海外市場の減速が製造業を直撃した平成20年(2008年)秋頃から、派遣労働者の解雇や雇い止めをする「派遣切り」が増加。職を失った派遣社員が大量に寮を追い出され、ホームレスと化して日比谷公園など全国各地に年越し派遣村が開設された。アメリカのサブプライムローンを引き金とする平成20年(2008年)末からの世界同時不況は、「100年に1度の不況」や「第二次世界恐慌」と呼ばれており、製造業以外の業種にも深刻な打撃を与えている。世界同時不況では、主にプレカリアートが解雇や雇い止めに襲われ、平成21年(2009年)3月までに19万人が失職した。

教育史[編集]

偏差値重視の現行教育制度の改革が進められており、臨時教育審議会の提言で文部科学省はゆとり教育を掲げ授業時間数の削減、教育内容の減少を推進して総合学習の時間を設けた。教育改革として、総合制高校・単位制高校・国際高校・中高一貫高校を新設して、地理歴史科生活科学校設定教科の新設・世界史の必修化・家庭科の男子必修化・社会奉仕体験活動・飛び入学週休2日制を導入した。学力低下を招いた事から、再び授業数を増やす方針に転換されて、その一環として全国学力・学習状況調査テストを平成19年度から実施した。

教員の資質向上のための教育改革として、教職大学院の創設と検討されたのは教員免許更新制である。これに伴って日本の教育問題として、経済格差地域格差を背景とした能力格差の拡大が表面化している。この原因は公教育機能が低下しているためと言われ、公教育への不信感が増大している。それを補うため、東京都を中心に公立学校選択制の導入や公立学校以外の学習塾私立学校へ進学希望者が増加している。

東京大学学閥が没落した。財界大企業の社長数1位が慶應義塾大学に抜かれて・財界トップの大学から転落して、政界でも宮澤喜一首相以降、東京大学出身の総理大臣鳩山由紀夫首相まで長らく誕生せず、東大卒官僚の不祥事への批判も集まった。

夜間・通信制高校大学大学院社会人高齢者を対象に生涯学習社会になり、情報化社会・知識社会の到来で子ども・青年期以外の全ての世代が教育対象になる。

いじめによる自殺が平成6年(1994年)と平成18年(2006年)に繰り返し報じられ、問題となる。不登校問題やフリースクールの試みが行われた。就職難と雇用不安定化に遭遇して「氷河期世代」と呼ばれる1970年1984年生まれの青年たちは、学校を卒業しても社会に参加しないニート引きこもりに陥る者が多く現れ、メディアで盛んに報道され、問題視されるようになった。これは経済的には1993年以来の不景気を背景にしているが、学校と実社会の間にギャップがあるという日本独特の問題が潜んでいるとされる。余りに学校社会に慣れた子供は、卒業しても社会に適応することが困難になると言われる。現在の引きこもりは1970年代生まれ(氷河期世代の初期と中期)の人々が最も多く(後の世代では引きこもりは減少傾向)、引きこもりの長期化・高齢化が深刻になっている。

少子化の進展で平成17年(2005年)には大学全入時代を迎えて、ブランド大学以外の地方大学、私立大学は定員割れで経営危機に立たされている。親の収入・学歴の高低が子供の学歴の高低に直結する「格差の遺伝」とも言われる現象が広く知られるようになった。一方で、逆に高い学歴を持ちながら生活に苦しむ学歴難民と呼ばれる層も発生している。

1990年代後半に、ポスト団塊ジュニア(末期氷河期世代)の高校生時代から、学校に携帯電話が普及した。ゆとり世代に至っては、小中学生まで携帯電話を使うようになった。彼らは携帯電話を使ってネットによる情報発信能力を身につけたにもかかわらず、情報リテラシーやマナー教育が追いつかなかったため、ネットいじめが社会問題になった。又、末期氷河期世代は「キレる17歳」「コギャル世代」とも呼ばれ、酒鬼薔薇事件黒磯教師刺殺事件秋葉原通り魔事件などの犯罪や、援助交際や、新成人の成人式の騒ぎが問題となった。

平成期の教育思想には、(1)和田秀樹学歴社会受験競争偏差値教育を第一とする思想と、(2)寺脇研の填め込みを排除したゆとり教育という思想、などがある。和田秀樹に対する批判としては、一流大学・高学歴者しか認めないので低学歴者の人間性否定と、経済的階層の固定化がすすむというものがある。寺脇研に対する批判としては、日本人の科学技術・経済発展の知識を低下させて、格差社会のなかで世襲・高学歴・高収入の家庭以外の子供を勉強させず負け組にする格差固定政策であるから反対であるという内容である。学歴社会を前提とする日本で和田秀樹の学力重視主義と寺脇研のゆとり教育論争が行われたが、少子化と高学歴化を要因として団塊ジュニアをピークに学力が低下したのは事実である。 小渕内閣教育改革国民会議安倍内閣教育再生会議が設置されて、学校教育法地方教育行政の組織及び運営に関する法律社会教育法の教育改革3法案が成立した。新保守主義による国旗国歌法教育基本法の改正などの愛国心を謳った教育が主張された。

国際関係史[編集]

冷戦#冷戦終結後の経過 も参照

昭和天皇崩御ベルリンの壁の崩壊が同じ平成元年(1989年)に起こった[5]ので、世界史的には、平成は「ポスト冷戦時代」とも言える。

平成3年(1991年)にソビエト社会主義共和国連邦は、領土を構成していた共和国の全てが独立し、死滅した。こうして、それまでクレムリンホワイトハウスに抑圧されて来た国々では、民族・宗教紛争が勃発した。ソビエト連邦の死滅後は、アメリカ合衆国が唯一の超大国となって絶対的な力を揮うアメリカ一極体制となり、旧東側諸国が西側経済に統合され、特に平成4年(1992年)から平成12年(2000年)までの間、世界は「アメリカナイゼーション」「グローバリゼーション」と呼ばれるグローバル資本主義に巻き込まれた。

一方で、欧州連合(EU)中国ロシアラテンアメリカなどが、アメリカ一極体制を牽制する動きを見せている。この動きは、平成13年(2001年)のアメリカ同時多発テロ事件以後に顕著となった。

その中で日本は、冷戦時代と同じく日米関係を外交の基軸として、湾岸戦争イラク戦争に協力した。そして、冷戦が終わると同時に、米軍占領時代の「ギブ・ミー・チョコレート」で育った焼け跡世代1930年代生まれ)が政治と経済の実権を握り、政治・経済・社会のシステムが根こそぎアメリカ型に変えられた。

海外ではアジア諸国、中国・インドタイマレーシアなどに急速な経済発展が見られ、それに伴って日本との経済関係も、これまで以上に緊密になった。

これらのうち、北京オリンピックを行い、上海万博を控え、「四つの近代化」を進めてきた中国は急速に経済的存在感を強め、日中関係は「政冷経熱」と呼ばれるように緊密化した(日本の最大の貿易相手国は中国である)。それとともに、ガス田開発、領土問題などで日本との摩擦が表面化している。また、中国は安全保障上の脅威が無いにも関わらず、平成元年(1989年)から年々軍備増強を強力に推し進めており、日本にとって脅威になっていると言われている(中国脅威論)。

大韓民国インドネシアタイは、平成9年(1997年)にアジア通貨危機に襲われ、IMFがこれらのアジアの国々に介入して新自由主義を強制した為、不安定雇用労働者(プレカリアート)が急増した。その最中で、韓国では盧武鉉が政権を掌握した。折からの2002 FIFAワールドカップ共催、マスコミ主導の韓流ブームと相まって、文化面では友好ムードが表面的には高まった。しかし、政治面では竹島の領有権問題の表面化や、小泉純一郎首相の靖国神社参拝により、日韓関係は冷えた。しかし、平成20年(2008年)に保守の李明博政権が発足すると、関係改善の動きが見られる。

朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)との間で日本人拉致問題核開発問題が深刻化している。日本政府は拉致問題を解決するために、経済制裁を可能とする法整備を進め、ミサイル発射訓練を機に制裁を発令した。

この他の東南アジア諸国でも自国の経済発展や華僑の人口増加、中国の経済発展に伴って、日本を先頭とした雁行型経済に代表されてきた伝統的な対日依存を見直し、新たな経済大国として浮上した中国や、EUなど他地域との関係を強化する事で、経済の多極化を図る動きがある。

なお、東南アジアにおいては東南アジア諸国連合(ASEAN)が結成され、東南アジア諸国は共同体形成を模索している。

そのため、東アジア共同体(AU)、およびアジア共同体構想が浮上している。これはEUのアジア版であり、ASEANや日中韓などの各国が共同して立ち上げた大戦略だが、ASEANや日中韓といった地域には人種、宗教、言語、文化、経済力といった地域統合を促す要素に共通性が希薄で、また共同体の主導権を巡って日中が激しく争う向きがあるものの、アジア諸国が日中の二者択一を望んでいないといった理由などで、構想自体が空中瓦解するだろうという見方も少なくない。

この他、国連創設60周年に当たる平成17年(2005年)には、敵国条項の削除と国連安全保障理事会常任理事国入りを目指し、グループ4(日本、ドイツインドブラジル)を結成したが、中国、韓国、さらにはアメリカなどの反対にあって挫折した。

文化史[編集]

バブル景気全盛期~崩壊期 (平成元年(1989年)~平成5年(1993年)頃)
この時期の文化は昭和60年(1985年)以後からの継続という色が濃く、アイドルブームの余韻が残る時代に当たる。
1960年代生まれ(新人類世代の中期と末期)の青壮年の間で、ハイレグ水着や、真っ赤な口紅にソバージュやトサカヘアー、太ボディコンという押しの強いファッションが流行した。イタリア料理エスニック料理が定着し、消費の多様化とブランド志向の高消費文化を築いた。『東京ラブストーリー』『101回目のプロポーズ』などトレンディドラマの最盛期であり、当時の人気俳優を起用したドラマは軒並み高視聴率を叩き出した。宮沢りえを初めとする女優のヘアヌードが解禁される。
尚、バブル景気時代の風俗の代名詞として知られる「ジュリアナ東京」が営業していた時期は、バブル崩壊期に当たる平成3年(1991年)から平成6年(1994年)であり、当時既に時代の最先端から半歩遅れていたディスコであった。情報化社会の到来も叫ばれ、パソコン通信ポケベルが最も普及したのもこの頃である。
失われた10年 (平成6年(1994年)~平成12年(2000年)頃)
バブル崩壊により「右肩上がりの時代」は完全に終わり、ソ連崩壊によりアメリカ的システムが絶対化されて世界を席巻した、グローバル資本主義の真っ只中である。
デフレ時代が到来し、日本の風俗は大きな転機を迎えた。ファッションの多様化が起こり、1980年代前半生まれ(末期氷河期世代)の青少年の間で、アムラー裏原宿系・B系などのファッションが流行した。バブル景気時代の流行から一転して細眉が流行し、1970年代ブームや茶髪が定着した。中高生が一気にファッションの中心の一部として認知され、コギャルが風俗として注目された。
PHSを含む携帯電話インターネットが爆発的に普及し始まった時期である。平成6年(1994年)末には『週刊少年ジャンプ』が653万部の歴代最高部数を達成し、平成7年(1995年)頃には漫画の売り上げがピークに達した。ビーイング系、小室系ヴィジュアル系流行の最盛期で、平成10年(1998年)頃にはCDセールスがピークとなった。
21世紀初頭・いざなみ景気(平成13年(2001年)頃~平成19年(2007年)頃)
平成13年(2001年)のアメリカ同時多発テロ事件により、自爆テロの時代が到来した。小泉純一郎政権による「聖域なき構造改革」の時期であり、イラク戦争が起こった2003年の就職状況を見ると、大卒では僅55%であり、高卒も史上最悪の就職難に遭遇した。ところが、平成18年(2006年)から平成20年(2008年)に新卒就職する者は、輸出産業の好転によって就職状況が好転した。
富裕層を除いて「景気回復」の実感は無く、「格差社会」の到来が叫ばれた。行政による福祉サービスの縮小に伴い、漫画喫茶インターネットカフェが、低所得者向けビジネスとしての機能を果たすようになった。パソコンや携帯電話は2000年代に入るとほとんどの国民に普及し、インターネットの利用が一般化した。ブログSNS動画投稿サイトなど、個人が発信者となるネットサービスが新たな媒体として普及していった。これにより、CDや漫画を始めとする出版物の発行部数が減少(出版不況)した。一部ではテレビ離れも囁かれ始め、メディア業界の不振が目立つようになった。逆に、映画では、テレビ局制作作品を初めとした邦画洋画を上回る興行成績を上げるようになり、日本映画の復活が注目を集めた。
1980年代生まれの青年層では、秋葉系おたく文化の浸透が進み、メイド喫茶フィギュアに代表される、「萌え」をめぐる社会現象が盛んに取り上げられた。又、戦中生まれ世代や団塊世代など中高年層では、『ALWAYS 三丁目の夕日』に代表されるように、1950年代高度経済成長前夜や1960年代の高度経済成長時代を懐古する風潮も広がっている。青年のファッションは著しく多様化し、世代全体に広がるようなファッションの流行はもはや見られなくなった。
世界同時不況 (平成20年(2008年)頃~)
アメリカのサブプライムローンに始まる恐慌が世界中を襲い、少子高齢化や貧困層の増大が進む日本の風俗にも深い影を落としている。平成生まれで現在高校生に当たる1990年代前半生まれ(中期ゆとり世代)は、世界同時不況による就職氷河期の再来にも巻き込まれている。
インターネット配信やウェブアプリケーションによる、従来の様々な媒体やサービスの置き換えが進んだ。雑誌の休廃刊が相次ぎ、新聞・広告業界は深刻な不振に陥った。青年のテレビ離れも進み、レジャー産業やメディア産業の縮小が著しい。一方で、携帯電話を対象にした各種サービスの成長は著しく、携帯電話からのインターネット利用がパソコンを上回った。また不振だった従来メディアの中からは新メディアを逆手にとり利用すること(ネットを取り上げた番組など)で不振を脱し共存する者も出てきた。

女性史[編集]

戦後女性革命
  • 昭和30年代に戦後女性革命が起きた。焼け跡世代~中期新人類世代の女性婦人から女性へ概念が変更する。家制度の崩壊・男子後継者願望の消滅・出生率が2人になる・お見合いから恋愛結婚制度へ移行・公娼制度が廃止されて実質私娼公認・男性は自営からサラリーマン社会、女性は専業主婦が一般化・スーパーの普及、産婆から産婦人科での出産制度の普及によって、女性の体は医療・物質化がされて、中絶が容認されたなどの変化がおきた世代である。
  • 平成期は世界で最も少子化高齢化が進み、2000年代には日本は人口減少社会に突入した。戦中派世代までの高齢女性はきんさん・ぎんさんの例など平均子供数4~6人で人口比が親の倍数で年金運用が黒字化して高福祉だが、焼け跡世代以後の高齢者女性は平均子供数2人で人口と年金の維持数であったので、中福祉にならざるを得ず、老人介護問題が発生して介護者は女性の方が圧倒的に多くなり、介護師もまた女性の職員が多く、厳しい労働条件である。子供と同居せずにいる高齢者単身の世帯が増加して、BB層(貧乏ばあさん)が焼け跡世代から出現して、21世紀にかけてこれ以降の世代の未婚・少子女性に急増していくと見られる。
  • 人口比が団塊世代以降出生率が2人を割ったことで逆ピラミッド型になり、年金運用が赤字化するようになる。年金問題が平成16年の参議院選挙以降議論されるが、人口アンバランスが団塊世代と真性団塊ジュニアの親子から始まっている。特に、戦中生まれ世代と団塊ジュニアの親子、団塊世代と真性団塊ジュニアの親子、ポスト団塊世代ポスト団塊ジュニアの親子は、社会主義の没落とグローバル資本主義の席巻による整理解雇ブームと就職氷河期に襲われた世代であり、真珠湾攻撃以後に生まれた世代は年金も削減・先延ばしされ、1970年生まれ以後の世代はフリーターニートといった不安定労働(プレカリアート)を強いられるなど、若者の所得低下で年金未納が増加して、社会保障制度が崩壊している。
  • 団塊世代の女性は短大志向だった。3つの教育階層が団塊世代の女性に存在する。
    • 大学・大学院卒:フェミニズム
    • 短大卒:中流層
    • 高卒・中卒:金の卵層、パート労働・専業主婦層
男女雇用機会均等法
  • 昭和60年(1985年)以後における、末期新人類世代(バブル世代)の女性 は、男女雇用機会均等法の第一世代である。女子アナウンサーを代表例に成人女性を女子とする概念に変化して、30代になってもおばさんと思わない女性の精神年齢の若返りが起きた。専業主婦時代は終わり、女性の社会進出と非婚化が進んだ事が理由で、出生率は1.5人以下の過去最低を更新し続けた。男性は数余りになり、30代未婚率が急上昇して結婚難から婚活時代になった。結婚や出産の時期も20歳前後から30代後半と長期に亘って分散する傾向になり、適齢期という概念は薄くなった。セクハラの概念が生まれた。バブル景気時代には、ジュリアナ東京アッシーくんなどの流行が生まれた。平成20年(2008年)に、アラフォー世代(=末期新人類世代)が新語・流行語大賞になる。
  • 短大志向から四年制大学志向になる。
  • 体・性の開放が行われて・宮沢りえなど女優のヘアヌードブームが起きる。
  • バブル期、韓国人女性と日本人男性の結婚が急増する。
コギャル
平成期の女性の動き

歴史的類似時代[編集]

大正時代類似説
憲法施行後に初めて即位した第2代天皇の時代。富国強兵時代(明治時代)や冷戦時代(戦後昭和時代)といった44年に亘る長い時代の後に来る短期改革時代。
平成享保説
戦後昭和時代を昭和元禄、平成時代を平成享保とする説。戦後昭和・元禄を高度経済成長時代に喩え、平成・享保を経済停滞と政治改革の時代とする。
これらを、江戸時代の三大改革(享保寛政天保)に喩えて「平成の三大改革」とする。
平成維新論
自民党を江戸幕府勢力、自民党15代総裁宮澤喜一を15代将軍徳川慶喜に置き換えて、細川連立政権や民主党を平成維新勢力に置き換える説。
恐慌戦争再現説
1930年代の昭和恐慌と1990年代の平成不況というように、歴史が30年もしくは60年といった世代規模の周期で再現され、「貧乏くじ」と「当たりくじ」は代々世襲されるという説。

年表[編集]

西暦との対照表[編集]

平成 元年 2年 3年 4年 5年 6年 7年 8年 9年 10年
西暦 1989年 1990年 1991年 1992年 1993年 1994年 1995年 1996年 1997年 1998年
干支 己巳 庚午 辛未 壬申 癸酉 甲戌 乙亥 丙子 丁丑 戊寅
平成 11年 12年 13年 14年 15年 16年 17年 18年 19年 20年
西暦 1999年 2000年 2001年 2002年 2003年 2004年 2005年 2006年 2007年 2008年
干支 己卯 庚辰 辛巳 壬午 癸未 甲申 乙酉 丙戌 丁亥 戊子
平成 21年 22年 23年 24年 25年 26年 27年 28年 29年 30年
西暦 2009年 2010年 2011年 2012年 2013年 2014年 2015年 2016年 2017年 2018年
干支 己丑 庚寅 辛卯 壬辰 癸巳 甲午 乙未 丙申 丁酉 戊戌

生前退位[編集]

  • 2016年8月に、明仁生前退位したいというボイスメッセージが公開された。

翌年、2017年6月16日に天皇の退位等に関する皇室典範特例法が設立され、

  • 2017年12月1日に開催された皇室会議で、「2019年4月30日に天皇陛下が退位し、5月1日に皇太子徳仁親王殿下が即位し、新元号への改元を行う」とする意見集約が行われ、同年12月8日開催の第4次安倍内閣の定例閣議で施行期日を規定する政令案が閣議決定された。
  • 2019年1月、新元号を発表する日を2019年4月1日に決定。
  • 2019年4月1日、平成の次の元号が決定。新元号は「令和」に決定。
  • 2019年4月30日、平成が終わる予定。

平成を冠するもの[編集]

企業・団体[編集]

文化・芸能・番組名[編集]

平成夫婦茶碗外伝(日本テレビ)

鉄道[編集]

地名[編集]

なお、岐阜県関市(改元当時は武儀町)の地名のみは改元以前の1988年以前も存在していた小字名である。

道の駅[編集]

  • 道の駅平成 - 上記岐阜県関市の平成(へなり)地区に建てられている。ただし駅名としての読み方は「へいせい」。

教育[編集]

小学校[編集]

中学校・高等学校[編集]

大学[編集]

博物館[編集]

病院[編集]

橋梁・トンネル[編集]

その他[編集]

平成に改元した直後の平成元年1989年1月には、平 成(たいら しげる)という名前の個人を見つけ出してインタビューする番組も見られた。

逸話[編集]

  • 小渕恵三内閣官房長官(当時)が記者会見で使用した台紙に平成と文字を墨書きしたのは、内閣総理大臣官房(当時。中央省庁再編後は内閣府大臣官房)人事課辞令専門職の河東純一である。記者発表の20分ほど前、「平成」と鉛筆で書かれた紙片を渡され、新元号名を知る。その後、河東自らが用意した4枚の奉書紙にそれぞれに平成と書き、4枚目を額に入れ、ダンボール風呂敷で梱包したものが小渕内閣官房長官の元へと運ばれた。河東本人談として、初めて平成と知った時、「画数の少ない字は形が取りにくく、書きにくい」と思ったそうである。また、4枚目を選んだのは上手い下手に関係なく、初めから4枚目を提出するつもりだったとも語っている。新元号を墨書する場所は、予め同官房内政審議室の会議室と決められていた。入室した際の同室では数人が別の作業を行っていたので、頼んで作業机の片隅を空けてもらい、「平成」を書き上げた。作業机は比較的高く、椅子はパイプ椅子で、周囲もやや喧騒であったため、非常に書きにくかったそうである(TBSラジオ伊集院光日曜日の秘密基地」より)。河東純一は、平成17年(2005年12月に職務(20万枚以上に及ぶ官記・位記・辞令及び表彰状等の作成)の功績を認められ、第18回「人事院総裁賞」個人部門を受賞した[6]
    • その『平成』の奉書紙は、平成改元時の内閣総理大臣であった竹下登に贈呈され、現在も竹下元首相私邸に飾られているとのことである。
  • 竹下登首相・小渕恵三官房長官の所属派閥の名前が「経世会(けいせいかい)」であり、「派閥の名前と一文字しか違わない」と陰口がささやかれた。竹下が経世会旗揚げ前に田中派内で結成した集団の名前も「創政会(そうせいかい)」であり、「○○せい」というのが竹下の好みであったのは確かなようである。

関連項目[編集]

参考文献[編集]

  • 昭和元禄から平成享保 著者 古田隆彦 参照 平成享保論
  • 著者 堺屋太一 知価革命・時代は変わった 参照 第3革命論
  • 平成政治20年史 著者 平野貞夫 参照 政治史
  • 平成経済20年史 著者 紺谷典子 参照 経済史
  • 平成宗教20年史 著者 島田裕巳
  • 学研 漫画 日本の歴史 平成時代 参照 通史
  • きんさんぎんさん百年の物語 参照 女性史 戦後女性革命
  • 日本女性史大事典 参照 女性史
  • 大正時代を訪ねてみた 平成日本の原景 著者 皿木喜久 参照 大正時代類似説

注釈[編集]

  1. 佐野眞一『ドキュメント昭和が終わった日2 元号「平成」の決定の瞬間』(『文藝春秋』2009年3月号掲載)
  2. 的場は新元号考案の委嘱を受けた人物には諸橋轍次貝塚茂樹坂本太郎の名をあげているが昭和天皇崩御前に物故したため彼らの提案はすべて廃案になったとしている。佐野(同掲文)
  3. 佐野(同掲文)
  4. 読売新聞2009年7月4日付 読売新聞と早大の合同世論調査
  5. 第二次世界大戦の最高権力者で、最後に死んだ者が昭和天皇である。
  6. 第18回(平成17年)「人事院総裁賞」個人部門受賞者 人事院、2009年7月23日 閲覧。

外部リンク[編集]

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