大相撲

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大相撲(おおずもう)は、日本相撲協会が主催する相撲興行。主たる開催地である日本国内においても、その他の国においても一般に「相撲」と言えば大相撲を指すほど著名な競技興行である。東京での開催場所が国技館であるが、国技と言う法制度は日本にないため、特に国技と言うわけではない。詳しくは国技館国技#日本の国技の項目でも述べているが、「自称・国技」のようなものである。ただし後述するように、相撲の歴史は非常に長く、天皇家との関わりも深いと考えられている。

歴史[編集]

現在の日本相撲協会の前身として、人的・組織的につながる相撲興行組織は、江戸時代の江戸および大坂における相撲の組織である。大坂の相撲組織に関しては、大坂相撲の項目を参照のこと。ここでは、江戸時代以来の江戸相撲の歴史について叙述する。

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大小のを佩刀し武士と同じ待遇であった力士[1]

江戸時代[編集]

興行としての相撲が組織化されたのは、江戸時代の始め頃(17世紀)と言われている。しかし、浪人集団との結びつきが強いという理由で、1648年正保4年)には幕府によって江戸における辻相撲禁止令が出された。その後、1684年天和4年)、寺社奉行の管轄下において、職業としての相撲団体の結成と、年寄による管理体制の確立が条件とされて、相撲の興行が許可された。この時、興行を願い出た者に、初代の雷権太夫がいて、それが年寄名跡の創めともなった。この時の興行は江戸深川の富岡八幡宮境内で行われた。このとき、寺社奉行の管轄となったことで、江戸時代の間、興行は江戸市中の神社や寺院の境内で行われた。本所の回向院での開催が定着したのは、1833年天保4年)のことである。

『相撲傳書』によるとこの頃は土俵はなく「人方屋」という見物人が直径7~9m(4~5)の人間の輪を作り、その中で取組が行われた。寛文年間(17世紀半ば)には格闘技のリングのように柱の下へ紐などで囲った場所で行われた。それが後に俵で囲んだ四角い土俵になった。次に延宝年間(1670年頃)に土俵の四隅に四神を表す4色の布を巻いた柱を立て、屋根を支えた方屋の下に五斗俵による3.94m(13)の丸い土俵が設けられた。享保年間(18世紀始め)に俵を2分の1にし地中に半分に埋めた一重土俵ができた。これに外円をつけて二重土俵(これは「蛇の目土俵」とも言う)となった。これは内円に16俵、外円に20俵用いることから「36俵」と呼ばれた。

江戸の他にも、この時期には京都や大坂に相撲の集団ができた。当初は朝廷の権威、大商人の財力によって看板力士を多く抱えた京都、大坂相撲が江戸相撲をしのぐ繁栄を見せた。興行における力士の一覧と序列を定めた番付も、この頃から、相撲場への掲示用の板番付だけでなく、市中に広めるための木版刷りの形式が始まった。現存する最古の木版刷りの番付は、江戸では1757年宝暦7年)のものであるが、京都や大坂では、それよりも古いものが残されている。各地の相撲集団に所属する力士たちは薄給で酷使され、その実態は男の売春業だったとする説もある(日下公人「あと三年で、世界は江戸になる」ビジネス社、p.74)。

しかし江戸相撲は、1789年寛政元年11月)、司家の吉田追風から二代目・谷風梶之助小野川喜三郎への横綱免許を実現。さらに征夷大将軍徳川家斉観戦の1791年(寛政3年6月11日)上覧相撲を成功させる[2]雷電爲右衞門の登場もあって、この頃から江戸相撲が大いに盛り上がった。やがて、「江戸で土俵をつとめてこそ本当の力士」という風潮が生まれた。

各団体間の往来は比較的自由であり、江戸相撲が京都や大阪へ出向いての合併興行(大場所)も恒例としてほぼ毎年開催された。力量も三者でそれほどの差はなく、この均衡が崩れ始めるのは幕末から明治にかけてのことである。

1827年文政10年)、江戸幕府が「江戸相撲方取締」という役を江戸相撲の吉田司家に認めた。

幕末に「相撲VSレスリング」や「相撲VSボクシング」の異種試合が行われた事がある。また、アメリカ合衆国海軍マシュー・ペリー提督が黒船で来航した1853年(嘉永6年6月11日)に、雷權太夫や玉垣額之助ら年寄総代は文書により攘夷協力を番所に申し出している。一方、翌年ペリーが再来日して条約を締結した際には、米国へ返礼として贈られた米200俵を江戸相撲の力士たちが軽々と運び、米軍人を驚嘆させた。

1863年文久3年6月3日)、大阪北新地で壬生浪士組(後の新選組)と死傷事件を起こしたのは大阪相撲の力士で死亡したのは中頭の熊川熊次郎肥後出身)であった。この事件の手打ちとして京都での興行では京都、大阪の両相撲が協力した。力士の中には、後に勤皇の志士となったものもいた。


明治・大正時代[編集]

  • 明治維新文明開化に伴い、1871年(明治4年)東京府のいわゆる「裸体禁止令」により東京相撲の力士は罰金、鞭打ち刑に処された。また、「相撲禁止論」が浮上した事もある。これは、自らも相撲をとることの多かった明治天皇と、その意を受けた伊藤博文たちの尽力により、1884年(明治17年)に天覧相撲が実現し、大相撲が社会的に公認されることで危機を乗り越えることができた。この天覧相撲の力士は58連勝(史上3位)を記録した15代横綱初代・梅ヶ谷藤太郎
  • 東京相撲協会と大阪相撲協会ができ、組織としての形態が確立した。
  • 1890年(明治23年)に入幕から39連勝で大関に駆け上がった初代・小錦八十吉と横綱免許を受けた大関初代・西ノ海嘉治郎のねじれ現象の解決のため、番付に初めて〈横綱〉の表記が登場する。これはなかば偶然の産物ではあったが、これをきっかけに横綱・大関が実質的な地位として確立していくようになる。
  • この頃から映像が映され出し、小錦大砲が映された貴重な映像(1900年撮影)が現存している。
  • 20世紀の変わり目の頃には、横綱常陸山谷右エ門(明治29年に名古屋相撲から大阪相撲へ、後広島相撲から東京相撲へ)と二代目・梅ヶ谷藤太郎の「梅常陸時代」による東京相撲の隆盛が生じ、東京が相撲の中心という意識が広がっていく。
  • 1907年(明治40年)常陸山が渡米。本格的な日本国外への相撲の紹介の最初であった。
  • 1909年(明治42年)6月2日、初の常設相撲場となる両国国技館の落成。相撲が国技とされた。土俵入りは、東の横綱、常陸山と西の横綱、梅ヶ谷により行われた。
    • この時、東西制(後述)と呼ばれる団体優勝制度が生まれ、優勝旗が授与された。
    • 時事新報社(現在は毎日新聞社)の優勝額贈呈により、現在の優勝制度が始まる。
    • この時から、今までは幕内力士の出場がなかった千秋楽にも、幕内全力士が出場するようになり、名実共に10日間興行の体裁が整った。興行日数は、1923年(大正12年)5月から11日間に増加した。
  • 1910年(明治43年)5月の夏場所に行司の衣装がそれまでのから烏帽子直垂となった。
  • 1917年(大正6年)11月29日に両国国技館が火災で焼失し、一時期靖国神社境内で本場所が行われたこともあった。
  • 栃木山が登場し、スピード感のある近代相撲の原型を作る。
  • 興行としての相撲が定着することで、力士の待遇の近代化への要求があらわれ、いくつかの紛擾事件が起きるようになった。
    • 大阪相撲においては、1922年(大正11年)竜神事件と呼ばれる紛擾が発生し、力士他多くの関係者が廃業し、大阪相撲の実力が低下する。
    • 東京相撲でも、1923年(大正12年)に三河島事件と呼ばれる力士待遇の改善を求めるストライキが発生し、その処理を巡って横綱大錦卯一郎が廃業する事件が起こる。
    • 1923年(大正12年)9月1日の関東大震災により両国国技館も屋根柱などを残して焼失。
    • 1924年(大正13年)1月春場所は、両国国技館再建中のために名古屋で開催された。それを不満に思った一部の力士は、本場所に出場しなかった。
  • 1925年(大正14年)、皇太子裕仁親王・後の昭和天皇)の台覧相撲に際して、皇太子の下賜金により摂政宮賜杯、現在の天皇賜杯が作られる。これを契機に、東京・大阪の両相撲協会の合同が計画され、技量審査のための合同相撲が開かれる。また、1926年(大正15年)1月場所から、今までは優勝掲額のみであった個人優勝者に賜杯が授与されることになり、個人優勝制度が確立する。

昭和時代[編集]

  • 1927年(昭和2年)、東京相撲協会と大阪相撲協会が解散し、大日本相撲協会が発足したのち、本場所は1月(両国)、3月(関西)、5月(両国)、10月(関西)の計4回:11日間で開催(1929年(昭和4年)は10月でなく9月)されるようになる。ただしこの時期には、番付編成は若干の試行錯誤も伴いながらも、1月と3月、5月と10月のそれぞれを合算して行われ、関西本場所では優勝額の授与も行われなかった。(この時期の番付編成については能代潟錦作の項目参照)
  • この時期、勝負に関する様々な改定が行われた。1928年(昭和3年)からラジオ中継が始まったために、仕切り線と仕切りの制限時間が設けられた。個人優勝制度確立の中で、不戦勝・不戦敗制度の全面施行、物言いのついた相撲での預かりの廃止と取り直し制度の導入、二番後取り直しによる引き分けの縮小化がこの時期に実施され、勝負を争うスポーツとしての要素が強くなった。
  • 1931年(昭和6年)4月の天覧相撲の際、二重土俵の内円を無くし径4.55m(15尺)の一重土俵にした。またこの際にそれまで四本柱の下に座布団を敷いて土俵上に据わっていた勝負検査役を土俵下に降ろし現在と同じ配置の5人とした。
  • 1932年(昭和7年)1月に起こった春秋園事件で大規模な待遇改善要求を掲げて多くの力士が脱退したため、2月、3月は各8日間の変則興行となり、脱退組が関西角力協会を翌年作ったことで1933年から関西場所は廃止され、年2回の開催(1月、5月)となった。
  • 69連勝を記録した双葉山の影響で興行日数は1937年(昭和12年)5月場所より13日間となり、1939年(昭和14年)5月場所より15日間と移り変わる。
  • 戦争の影響が次第に相撲界にも及び、1944年(昭和19年)に両国国技館が大日本帝国陸軍に接収され、5月場所から本場所開催地を小石川後楽園球場に移した。そのために1月場所開催は困難になり、1944年には10月に本場所を繰り上げて開催した。1945年5月場所は晴天7日間、神宮外苑相撲場(現明治神宮第二球場)で開催予定だったが空襲などのために6月に延期、両国国技館で傷痍将兵のみ招待しての晴天7日間非公開で開催された。今日まで唯一の本場所非公開開催である。これが戦争中最後の本場所となった。ちなみにこれらの場所の幕下以下の取組は事前に1944年の10月は神宮外苑、1945年の6月は春日野部屋で非公開で行われ、このことを記念して、春日野部屋では後々まで稽古場に当時の土を保存していた。また、兵役に就いた力士や、戦死・戦災死・捕虜として抑留された力士もいた。
  • 東京大空襲で両国国技館や相撲部屋を焼失。
  • 戦後には、各部屋の離散状態、又は本場所開催などに対して連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)に許可を仰がなければならないなど様々な問題を抱えながらも大相撲の復興は始まる。1945年(昭和20年)9月に土俵を4.84m(16尺)と大きくし、焼失した両国国技館を若干修復し、本場所の秋場所(11月:10日間)が開催された。土俵については力士会の反対で元の大きさ4.55m(15尺)に戻された。1946年(昭和21年)に両国国技館が連合国軍最高司令官総司令部によって接収されメモリアルホールとして改装された。そのこけら落としとして、同年の11場所(13日間)が行われた。連合国軍最高司令官総司令部によって本場所開催を年3回認められたが、メモリアルホールを使用することは許可されず、1947年(昭和22年)には明治神宮外苑相撲場にて行うこととなる。青天井のこの相撲場では正月場所は行われず、6月、11月、又は1948年(昭和23年)の5月をそれぞれ執り行うに留まった。同じ年の1948年(昭和23年)の秋場所(10月:11日間)には、戦後初の大阪場所が大阪市福島公園内に建築された仮設国技館で開催された。この時期に、優勝決定戦三賞制度の制定、東西制から系統別総当たり制への変更が行われた。
  • 1949年(昭和24年)になり日本橋の浜町公園内に仮設国技館(木造)を建設し、ようやく1月場所(13日間)を開催する。5月場所では戦後初めて15日間行われ、以後興行期間は15日間となる。この浜町公園の仮設国技館は公園内に設置されていたことが問題となり、この2場所しか使用されず取り壊しとなった。そのため戦前に次期国技館建設用に用意していた蔵前の土地に仮設国技館を建設することとなる。ところがこの浅草蔵前仮設国技館(蔵前国技館)も消防署からの命令によって仮設であっても鉄筋造りの国技館が必要となった。その為、蔵前仮設国技館の鉄筋化をはかり、その後5か年計画として年々充実されていった。
  • 1950年(昭和25年)から1952年(昭和27年)は、本場所(1月、5月、9月)各15日間行われた(ただし1952年(昭和27年)には大阪場所が行われず、全て東京での開催であった)。大阪場所は、1950年(昭和25年)の秋場所より開催地を阿倍野区に、1951年(昭和26年)の秋場所からは大阪市難波(現在の大阪府立体育会館のある場所)にそれぞれ変更し、仮設国技館が建築されたが、最終的には1953年(昭和28年)に仮設国技館を立替て、大阪灘波府立体育会館(旧大阪府立体育館:現在の府立体育館と同じ場所)を完成させた。同年3月に大阪場所を行い、以後3月場所は大阪場所を行うようになる。
  • 横綱の相次ぐ不成績が問題となり、1950年4月に有識者からなる横綱審議委員会が発足した。1957年には理事長に重要事項の建議を行える「運営審議会」も発足し財界トップや政治家が名を連ねた。
  • 栃錦初代・若乃花の栃若時代が到来し、年間の場所数が増えていく。1957年(昭和32年)には11月場所(九州場所、福岡スポーツセンター)、1958年(昭和33年)には7月場所(名古屋場所、名古屋市金山体育館)を行うようになり、現在のような6場所(1月、3月、5月、7月、9月、11月)、15日間という体系になった。また、1965年(昭和40年)1月場所から完全部屋別総当たり制が実施され、それぞれ2017年現在に至っている。
  • 国会で公益法人としての相撲協会のあり方について質疑が行われたこと(1957年4月、衆議院文教委員会)を受けて、相撲茶屋制度の改革、月給制の導入、相撲教習所の設立などの改革がこの当時行われた。横綱審議委員会の内規もこの時期に充実した。また、1961年には年寄の停年制が実施された(「停年」の表記については後述)。1968年には役員選挙の制度を導入、また前頭・十両の枚数削減も実施した。
  • 全国的にテレビが普及するに従い、NHKの相撲のテレビ中継が始まる。一時は民放各社も中継していたが、間もなく撤退した。
  • 1971年(昭和46年)に中学在学中の入門が禁止され、当時在籍していた中学生力士は、卒業まで東京場所の日曜日のみの出場となった。
  • 1972年(昭和47年)1月場所からは、公傷制度が導入された(2003年11月場所まで)。
  • 吉田司家が二度の不渡りを出したために、日本相撲協会と不仲になる。
  • 1965年(昭和40年)にはソ連、1973年(昭和48年)には中国、1981年(昭和56年)にはメキシコと海外公演が行われ、国際的な認知が始まる。
  • 1985年(昭和60年)1月、現在の国技館が完成し、再び両国に相撲が戻った。

平成時代[編集]

  • 若貴兄弟(貴乃花光司若乃花勝)の活躍により、一時相撲ブームが起こった(二人の名を取って若貴ブームとも呼ばれた)。伯父が名横綱・初代若乃花、父が名大関・初代貴ノ花という血統が、オールドファンを呼び戻すとともに、貴乃花の精悍な風貌、若乃花の人好きのする童顔は、それまで相撲に興味のなかった層の女性ファンも獲得した。
  • 平成の大相撲の最大の特徴は、外国出身力士の活躍である。横綱千代の富士貢の引退が呼び水になったように生じた横綱不在、群雄割拠の中、まず小錦が抜け出した。彼は膝の故障をついに克服しきれず、史上初の外国出身横綱を逸したが、ハワイ出身の後輩、(現:プロレスラー)、武蔵丸が共にこれを果たし、優勝も二桁10回以上を重ねた。平成1ケタ代後期から10年代初期にかけては、若貴兄弟らの二子山部屋勢対曙・武蔵丸のハワイ勢の様相を呈した。
  • 貴乃花は曙らを抑えて優勝22回を数え日本人力士の体面を保ったが、その引退と入れ違いのように外国出身力士の主流はモンゴル勢に移った。2006年(平成18年)3月場所では、優勝と三賞をすべてモンゴル勢で占めることになった。ブルガリア出身の琴欧洲エストニア出身の把瑠都が大関に昇進するなど、旧東欧圏出身力士も目立ち始めた。2006年1月場所の栃東を最後に、日本人力士による幕内最高優勝は達成されていない。
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土俵と各配置(行司・力士・勝負審判・控え力士・力水・塩)

本場所と地方巡業[編集]

プロ興行としての大相撲では、公式戦(技量を査定し、待遇(地位と給与)を決める性質がある)である本場所は年間6回行われる。

本場所のない時期には、地方巡業を行う。本場所の回数の少なかった時代には、各部屋や一門別に巡業をしていたが、年間6場所制が確立した以後は、協会が管理して行われるようになった。この巡業での収入が、協会や各部屋にとっても大きな位置を占めていたので、明治から大正・昭和初期にかけての力士の待遇改善の要求には、巡業収入の配分の明朗化がスローガンとして掲げられることが多かった。

地方巡業は、各地の興行を希望する〈勧進元〉と呼ばれる人たちが協会に巡業開催の契約金を支払い、興行権を譲り受ける形(売り興行)で長年行われてきた。しかし1995年の巡業改革により、当時の境川理事長の下で勧進元主催から協会の自主興行に変更された。ところが地方巡業は1992年の年間94日間をピークに減少を続け、ついに2005年には1958年(昭和33年)以降最小の15日間までに落ち込んだ。そのため、北の湖理事長の下で再び勧進元形態に戻すことになった。2006年に再開された海外巡業についても、地方巡業の増加対策と並ぶ巡業改革の一環となっている。

地方巡業における各地の相撲ファンとの接触は、相撲の全国の普及に力を発揮している。かつては巡業で現地の有望な青年を入門させ、そのまま巡業に帯同させて、帰京して初土俵をふませたケースも多くあり、夏休み終了後の9月場所の初土俵力士にはそういうケースが目立っていた。

本場所一覧[編集]

詳細は本場所を参照

2017年現在

開催月 正式名称 通称 開催場所
1月 一月場所 初場所 両国国技館
3月 三月場所 春場所 大阪府立体育会館
5月 五月場所 夏場所 両国国技館
7月 七月場所 名古屋場所 愛知県体育館
9月 九月場所 秋場所 両国国技館
11月 十一月場所 九州場所 福岡国際センター

花相撲[編集]

詳細は花相撲を参照

海外公演[編集]

海外公演とは、日本国外から招待を受けて日本相撲協会主催で日本国外にて取組を行うことである。日本の伝統国技を日本国外で披露すると同時に、相手国との友好親善、国際文化交流に寄与することを目的にしている。力士は「裸の親善大使」などと呼ばれ、これまでに13回開催している。

回数 開催年月 名 称 都 市 備 考
第1回 1965年7月-8月 [[ファイル:テンプレート:country flag alias URSURS|{{{size}}}}}|テンプレート:country alias URSの旗]]ソ連公演 モスクワハバロフスク 日ソ復交調印10周年記念
第2回 1973年4月 [[ファイル:テンプレート:country flag alias CHNCHN|{{{size}}}}}|テンプレート:country alias CHNの旗]]中国公演 北京上海 日中国交正常化記念
第3回 1981年6月 [[ファイル:テンプレート:country flag alias MEXMEX|{{{size}}}}}|テンプレート:country alias MEXの旗]]メキシコ公演 メキシコシティ
第4回 1985年6月 アメリカ合衆国の旗アメリカ公演 ニューヨーク 東京ニューヨーク姉妹都市25周年記念
第5回 1986年10月 テンプレート:country alias FRAの旗 パリ公演 パリ 東京パリ友好都市提携5周年記念
第6回 1990年6月 ブラジルの旗ブラジル公演 サンパウロ
第7回 1991年10月 [[ファイル:テンプレート:country flag alias UKUK|{{{size}}}}}|テンプレート:country alias UKの旗]] ロンドン公演 ロンドン 日英協会設立100周年記念
第8回 1995年10月 オーストリアの旗 テンプレート:country alias FRAの旗 ヨーロッパ公演 ウィーン、パリ
第9回 1997年6月 [[ファイル:テンプレート:country flag alias AUSAUS|{{{size}}}}}|テンプレート:country alias AUSの旗]]オーストラリア公演 メルボルンシドニー 日豪外交100周年記念
第10回 1998年6月 カナダの旗カナダ公演 バンクーバー
第11回 2004年2月 [[ファイル:テンプレート:country flag alias KORKOR|{{{size}}}}}|テンプレート:country alias KORの旗]]韓国公演 ソウル釜山 日韓共同未来プロジェクト
第12回 2004年6月 [[ファイル:テンプレート:country flag alias CHNCHN|{{{size}}}}}|テンプレート:country alias CHNの旗]]中国公演 北京、上海 日中定期航空路線開設30周年記念
第13回 2005年10月 アメリカ合衆国の旗 ラスベガス公演 ラスベガス ラスベガス市制100周年記念
第14回 2009年10月(中止) [[ファイル:テンプレート:country flag alias UKUK|{{{size}}}}}|テンプレート:country alias UKの旗]] ロンドン公演 ロンドン 世界的な不況により中止

海外巡業[編集]

協会とは別に主催者となる地元の興行主(勧進元)がいて、日本国外の大相撲ファン拡大と収益を目的にしている。ただし、力士が土俵で取組を披露したり、国際文化交流を図ったりするなどの形態は海外公演と変わらない。海外公演より歴史は古く、これまでに11回開催している。

国威発揚のために大相撲が利用された昭和戦前期には、満州をはじめとする大陸巡業が恒例となっており、国際連盟委任統治領であった南洋群島に巡業したこともある。しかし、これらの巡業は各部屋・一門による海外巡業であり協会全体での巡業ではなかった。戦後はハワイ巡業がしばしば行われ、そこでスカウトされたジェシー・ジェームス・ワラニ・クハウルア青年が高見山大五郎の四股名で関脇にまで昇進した。

回数 開催年月 名称 都市 備考
第1回 1962年6月 アメリカ合衆国の旗 ハワイ巡業 ホノルル
第2回 1964年2月 アメリカ合衆国の旗 ハワイ、ロサンゼルス巡業 ホノルル、ロサンゼルス 角界拳銃密輸事件が起こる
第3回 1966年 アメリカ合衆国の旗 ハワイ巡業 ホノルル
第4回 1970年6月 アメリカ合衆国の旗 ハワイ巡業 ホノルル
第5回 1972年2月 アメリカ合衆国の旗 ハワイ巡業 ホノルル
第6回 1974年6月 アメリカ合衆国の旗 ハワイ巡業 ホノルル
第7回 1976年6月 アメリカ合衆国の旗 ハワイ、ロサンゼルス巡業 ホノルル、ロサンゼルス
第8回 1981年6月 アメリカ合衆国の旗 アメリカ巡業 サンノゼ、ロサンゼルス
第9回 1992年6月 テンプレート:country alias ESPの旗 スペインドイツの旗 ドイツ巡業 マドリードデュッセルドルフ
第10回 1993年2月 [[ファイル:テンプレート:country flag alias HKGHKG|{{{size}}}}}|テンプレート:country alias HKGの旗]] 香港巡業 香港
第11回 1993年6月 アメリカ合衆国の旗 アメリカ巡業 ホノルル、サンノゼ
第12回 2006年8月 中華民国の旗 台湾巡業 台北 13年ぶりに海外巡業が復活
第13回 2007年6月 アメリカ合衆国の旗 ハワイ巡業 ホノルル 14年ぶりのハワイ巡業
第14回 2008年6月 アメリカ合衆国の旗 ロサンゼルス巡業 ロサンゼルス
第15回 2008年8月 [[ファイル:テンプレート:country flag alias MongoliaMongolia|{{{size}}}}}|テンプレート:country alias Mongoliaの旗]] モンゴル巡業 ウランバートル

番付と取組[編集]

大相撲では、成績などを考慮して大きく2つ、小さくは6つのクラスに分けられ、このクラス内で対戦をするのが基本である。クラス内の地位は「番付」と呼ばれる順位表で示される。

上位リーグは幕内十両(十枚目)からなり、いわゆる関取と呼ばれるクラスの力士で構成される。その中でも最上位リーグに位置するのが幕内であり、番付上位から横綱大関関脇小結前頭の順位となる。三役とは小結以上を指し、前頭は「平幕」と呼ぶことが多い。

本場所取組は、日曜日から翌々週の日曜日までの1場所15日間で行われる。最初の日を「初日(しょにち)」、8日目を「中日(なかび)」、最終日を「千秋楽(せんしゅうらく)」と呼ぶ。幕内の取組は、幕内力士土俵入り横綱土俵入りの後、16:15頃(以下日本時間)から行われ、千秋楽を除き大体18:00前後に全取組が終了する(大相撲中継に合わせるため)。

一日の取組のうち、幕内以後を「中入」と呼び(ニュースのスポーツコーナーで報じられる結果は全てここから)、最後の取組を「結び(の一番)」と呼ぶ。また、全取組終了後に弓取式が行われ、これが終わった時点で「打出し」としてその日の日程は終了する。また、千秋楽に限り、残り3番となったところで、取組を控えた6人の力士が東西それぞれ3人ずつ土俵に上がり揃い踏みを行う。これを「これより三役」と呼ぶ。

幕内に続く上位リーグが十両で、15:00頃から15:50頃にかけて取組が行われる。下位リーグは、上位から幕下三段目序二段序ノ口となっており、序ノ口には新規入門力士が多く登場する。関取を目指そうと、9:00頃から始まり15:00頃まで取組が行われる。さらに序ノ口の取組前には、番付にも載らない入門したての力士たちによる前相撲が行われる。

部屋別総当たり制[編集]

幕内と十両では1場所で1人15番、幕下以下は1人7番の取組を行い、勝利数で優勝者を決める。勝利数が同じ場合は優勝決定戦を行う。リーグは総当たり制ではなく、本割(ほんわり、正規の対戦)では同じ部屋に所属する力士同士は対戦しない。これは部屋別総当たり制と呼ばれる。部屋が違っても実の兄弟同士のおよび実の叔父甥の関係の取組は組まれないのが不文律であったが、2009年平成21年)1月29日の理事会において4親等以内の力士同士での本割取組を行わないことを決定し、取組編成要領に明文化されることになった。なお優勝決定戦においては現行通り、4親等以内でも対戦させる。場所中の取組で白星(勝利)を多く重ねてくると、下位であっても終盤の対戦相手に上位の力士を割り当てられる。

力士が本場所の取組で過半数(十両以上は8日、幕下以下は4日)勝つことを「勝ち越し」、これに満たないことを「負け越し」という。次の場所では勝ち越した力士の番付が上がり、負け越した力士の番付が下がる。ただし、横綱・大関は最上位の番付であるため昇進には厳しい条件がつけられているほか、横綱に降格はなく、大関の降格も2場所連続負け越しの場合に限られる(大関が負け越して翌場所陥落の可能性があることを角番という)。

十両と幕下以下では力士の待遇で示すとおり大きく待遇が異なるため、幕下上位の取組や十両下位力士と幕下との取組では熾烈なものとなる。好角家にはこれらの取組を楽しみにしているものも多い。

東西制と系統別総当たり制[編集]

番付には、東と西という区別がある。江戸時代から明治時代にかけては、東と西に分けられており、番付の昇降も東西それぞれで行われ、東西の同じ側同士の対戦はなかった。また、東と西との2枚の番付を作っていた大坂相撲とは違って、東西を1枚にまとめた江戸相撲では、東が右側に配置されていたが、最初は東西の間に優劣はなかった。

1890年(明治23年)5月に、横綱免許を受けていた大関・初代西ノ海嘉治郎張出大関にさせられることに抗議した結果、番付上に初めて〈横綱〉が明記されたとき、東に張り出されたことから、横綱を東方におくようになったことで、東が優位という印象が明確になっていった。

1909年(明治42年)の夏場所に、国技館が開館したときに、幕内に団体優勝制度ができた。番付の東と西とで対抗戦をして、勝ち星の多いほうに優勝旗を授与し、翌場所の番付を東に配置することにしたのである。これを東西制と呼んだ。優勝旗は勝った側の関脇以下の幕内力士のうち最優秀の成績をあげた者が優勝旗手の栄誉を得ることと決められた。これは好評を呼び、当時の好角家の間でも、〈出羽海びいき〉〈連合(非出羽方)びいき〉という区別もできた。ただし、東西の戦力バランスの関係や、横綱が片方に偏らないように、ときどき東西の組み替えも行われた。

なお、このシステムは幕内だけで、十両以下に関しては系統別総当たり制で東西の区別もなかった。

1932年(昭和7年)の春秋園事件の結果、脱退者が多く、幕内力士の人数が少なくなったために、春場所から東西制を中止し、一門による系統別総当たり制を幕内でも実施するようになった。しかし、出羽海部屋の幕内力士が増加し、公平な取組をつくることが難しくなったので、1940年(昭和15年)1月場所から、ふたたび東西制にもどし、団体優勝と旗手の制度を復活させた。しかし、それでも東西のバランスをとることはむずかしく、配置換えも何度もおこなわれ、伊勢ヶ濱部屋朝日山部屋の力士が東西に振り分けられることさえあった。(もちろん同部屋の力士同士の対戦はなかった)

戦後、大相撲の人気回復のために、優勝決定戦三賞制度を導入すると同時に、取組の多様化を進めるために、1947年(昭和22年)11月場所から、系統別総当たり制に戻した。しかし、立浪部屋時津風部屋が一門としては別なのに、師匠同士が兄弟弟子(羽黒山政司双葉山)というだけの関係で対戦がないことや、二所ノ関一門が次々と分離独立していったことから、再び取組が硬直化して不公平感が生じてきたので、1965年(昭和40年)1月場所から、完全な部屋別総当たり制を実施し、現在に至っている。

平成時代初期に、二子山部屋武蔵川部屋の幕内力士が上位に集中したことから、個人別総当たり制が話題になったこともあったが、養成員(幕下以下の力士)時代は大部屋で共同生活を送るという相撲部屋のしきたりから考えると、個人別総当たり制の実現は今後もまず不可能であると考えられる。

力士の条件と待遇[編集]

力士の条件[編集]

詳細は新弟子検査を参照

力士の報酬[編集]

大相撲力士の報酬制度は、地位によって与えられる給与・手当と、成績給に相当する力士褒賞金(給金)と、いわゆる2階建てになっている。

(2006年1月現在、単位:円)

項目 横綱 大関 三役 平幕 十両
月額給与 282万0,000 234万7,000 169万0,000 130万9,000 103万6,000
年額給与 3,384万0,000 2,816万4,000 2,028万0,000 1,570万8,000 1,243万2,000
年額賞与 564万0,000 469万4,000 338万0,000 261万8,000 207万2,000
特別手当 120万0,000 90万0,000 30万0,000    
出張手当 115万5,000 99万7,000 85万0,000 74万5,000 68万2,000
力士補助金 7万5,000 7万5,000 7万5,000 7万5,000 7万5,000
力士褒賞金 60万0,000 40万0,000 24万0,000 24万0,000 16万0,000
年額報酬 4,551万0,000 3,723万0,000 2,632万5,000 2,058万6,000 1,622万1,000
  • 力士褒賞金は、本場所ごとの最低支給金額(年額報酬では6場所分で計算)。

給与[編集]

十両以上の力士には、次の通りの金額が月額給与として支給される。支給単位は本場所ごとになっているため、11月場所で十両で負け越し、1月場所で幕下に陥落した場合でも12月分の給与は支給される。このため、幕下陥落が確実になり引退の意思を表明した力士が、翌月分の給与確保のため引退届提出を番付発表後まで遅らせ、番付に名を残すケースも多い。

  • 横綱:282万0000円
  • 大関:234万7000円
  • 三役:169万3000円
  • 平幕:130万9000円
  • 十両:103万6000円

賞与[編集]

賞与は、9月と12月にそれぞれ月額給与の1カ月分が支給される。したがって、年額賞与は月額給与の2カ月分である。賞与の支給月が世間一般の6月と12月と違っているのは、以前に支給されていた巡業手当が賞与に変わったためである。

本場所特別手当[編集]

本場所特別手当は、三役以上の力士に対して本場所ごとに年6回支給される。11日間以上出場した場合は全額、6日~10日間出場した場合は3分の2、5日間以下の出場の場合は3分の1が支給され、全休(不戦敗も含む)の場合は支給されない。

  • 横綱:20万0000円
  • 大関:15万0000円
  • 三役: 5万0000円

出張手当[編集]

出張手当は、3月場所、7月場所、11月場所の年3回、各場所ごとに次の通りの1日分支給金額を35日分支給される。

  • 横綱:宿泊費8000円、日当3000円
  • 大関:宿泊費7500円、日当2000円
  • 三役:宿泊費6500円、日当1600円
  • 平幕:宿泊費5700円、日当1400円
  • 十両:宿泊費5300円、日当1200円

力士補助金[編集]

力士補助金は、1月場所、5月場所、9月場所の年3回、髪結の補助金として支給される。

  • 横綱から十枚目(十両)まで:一律2万5000円

力士褒賞金[編集]

詳細は力士褒賞金を参照

力士養成員の報酬[編集]

幕下以下は「力士養成員」と呼ばれ、給与と力士褒賞金は支給されない。次の通りの金額が場所手当として本場所ごとに年6回支給される。

  • 幕下:15万円
  • 三段目:10万円
  • 序二段:8万円
  • 序ノ口:7万円

(2006年1月現在、単位:円)

項目 幕下 三段目 序二段 序ノ口
場所手当 150,000 100,000 80,000 70,000
年額報酬 900,000 600,000 480,000 420,000

また本場所の成績により、次の通りの奨励金が支給される。 (2006年1月現在、単位:円)

項目 幕下 三段目 序二段 序ノ口
勝星奨励金 2,500 2,000 1,500 1,500
勝越金 6,000 4,500 3,500 3,500

このほか、本場所における電車賃が乗車券で支給される。

力士養成員でも、寝食は各々相撲部屋で出来る(費用は協会から部屋持ち親方に対して、力士養成員1人につき月額70,000円、年額840,000円が支給されている)うえに、共同の食事である「ちゃんこ」もあるので、幕下以下の生活が続いても食いはぐれることはない。ただし慣習としての部屋への「持ち出し」もあるので必ずしも全額が可処分所得になるわけではない。特に親方、部屋の看板である十両以上の力士はかなりの額を「持ち出し」せねばならないが、逆に部屋に十両以上力士がいるかいないかで部屋の生活水準、ひいては本場所成績が大きく異なってくる。

懸賞金[編集]

懸賞 (相撲)を参照。

力士の退職金[編集]

十両以上の力士には、現役引退時に退職金に相当する養老金および勤続加算金(いわゆる一般功労金)が支給される。資格者は幕内連続20場所以上または幕内通算25場所以上の者で、それに満たない者は非資格者となる。

養老金[編集]

(2006年1月現在、単位:円)

横綱 大関 三役 平幕 十両
資格者 15,000,000 10,000,000 7,630,000 7,630,000 4,750,000
非資格者 -- -- 7,630,000 4,750,000+(勤続場所数-1)×120,000 1,150,000+(勤続場所数-1)×150,000

勤続加算金[編集]

番付の各地位における勤続場所数を乗じて、それぞれを加算した金額が勤続加算金の合計となる。下表の( )内の数字は、非資格者。

(2006年1月現在、単位:円)

横綱 大関 三役 平幕 十両
横綱 500,000 400,000 250,000 200,000 150,000
大関 -- 400,000 250,000 200,000 150,000
三役 -- -- 250,000 200,000 (150,000) 150,000
平幕 -- -- -- 200,000 (150,000) 150,000
十両 -- -- -- -- 150,000

特別功労金[編集]

横綱大関には、現役引退時に理事会の決議により養老金および勤続加算金とは別に特別功労金が支給される。

かつては、支給額は公表されていたが、2005年4月1日から個人情報保護法が施行されたことにより、同年5月場所から支給額は非公表となった。この措置に対しては公益法人たる財団法人日本相撲協会の方針として不適切であるとの意見もある。

力士の待遇[編集]

力士には、地位によって以下の待遇の違いがある。

地位 幕内 十両 幕下 三段目 序二段 序ノ口
大銀杏 丁髷
紋付羽織袴 着物・羽織(外套・襟巻も着用可) 着物・羽織 着物(浴衣もしくはウール)
博多帯 ベンベルグ
履物 足袋に雪駄 足袋に雪駄(エナメル製) 素足に雪駄(エナメル製) 素足に下駄
稽古廻し 白色・木綿 黒色・木綿
取り廻し 博多織繻子 黒色・木綿
下がり 取り廻しの共布
足袋の色
控えの敷物 私物の座布団(色は自由) 共用の座布団(紫) 共用(畳)

このほかにも以下のような違いがある。

三役以上の力士
  • 初日と千秋楽に行われる協会挨拶で理事長と共に土俵に上がる。
幕内以上の力士
  • 横綱土俵入りで露払いや太刀持ちを務めることができる。
十両以上の力士
  • 力士会に参加できる。
  • 幕下以下の力士が付け人として付く(地位が上がるほど人数も増える)。ちゃんこ作り、掃除、買出しなどの部屋の雑用も原則免除。
  • 相撲部屋において個室が与えられるか、別居が許される(幕下以下の力士は、共同の部屋で寝起きする)。
  • 起床時間など生活の自由度が飛躍的に増す。
  • 巡業・本場所などの興行で自分の名前が入ったを立てることができる(一般に後援会から寄贈される事が多い)。
  • 化粧回しを締めて土俵入りを行う(十両と幕内は別に行われる)。
  • 支度部屋に明け荷を持ち込むことができる(横綱は3個、横綱以外は1個)。
  • 取組では、力水、力紙、塩を使用する(幕下上位の取組の場合で、進行が早い場合は塩を使用することがある)。
  • 一人前の力士の敬称である「関取」「**関」と呼ばれる。
  • 優勝力士に頼まれて優勝旗を持ち、優勝力士と一緒にオープンカーに乗って優勝行進できる。

なお、幕下以下の力士養成員でも本場所で十両力士と対する場合や弓取り式を行う者、初っ切り、甚句、断髪式の時は大銀杏が結える。

待遇の歴史[編集]

歴史的に見て、力士は永く薄給で酷使されてきた。江戸時代には本場所の興行収入は一部の年寄たち(江戸相撲会所。現在の日本相撲協会の先祖)によって山分けされ、看板となるような人気力士、花形力士は別として、大半の力士への給与はなけなしのものだった。

三役力士ともなれば、大名家からお抱えとされ、藩士としての報償を受け取り、また贔屓客からの祝儀もあった。こうした力士は地方巡業へ出掛ければ各地の興行主(勧進元)から引く手あまたであって、むしろ懐は他の武士階級より潤っていたが、そうでない大半の力士は、細々と自主興行による「手相撲」で地方巡業を行い食いつないでいた。もちろん、いわゆる「力人信仰」から来る善意の喜捨も多く、本当に食うにこまるまで困窮する力士も少なかったが、本場所で「星を売る」、いわゆる八百長行為も横行していたと見られており、現在でも度々、八百長行為の存在が指摘されている(名指しされた者が認めるわけもないので事情聴取も内輪の狎れ合いで済まされ、真相解明は尻すぼみに終わる)。

明治に入って以降も、大名家が藩閥政治の有力者となった以外、こうした状況は変わらなかった。そのため力士による待遇改善要求は度々おこり、昭和における春秋園事件はその最後にして最大のものだった。相撲取りが相撲を取ることによって生計が立つようになったのは、昭和に入ってからと言って良い。

1958年(昭和33年)、こうした相撲界の体質が国会でも問題視されて以降、月給制など力士の待遇改善の試みが進んだ。それでも、年6場所と相撲協会主導の地方巡業によって、一年のほとんどを拘束される力士たちに対して、「時給で見れば世界でもっとも可哀想なプロスポーツ選手」などの声もある。一方で、税金対策や引退時の退職金制度など、表面に表れにくい部分で他のプロスポーツよりむしろ充実しているという見方もある。たとえば、国技館内には力士のみならず一般の診察も受け付ける相撲診療所があったり、社会保険組合を独自に運営していたりする点、また厚生年金制度を導入していることなど、福利厚生についてはむしろ一般企業に近いとも言える。

金銭の面に関しては、角界というのは、とにかく後援者(タニマチ)からの祝儀が大きな収入源のひとつになっている。各力士によってタニマチの大小はあるが、横綱・大関などへかなり有力な人物がタニマチとしてバックに付くと、優勝すれば1,000万以上の祝儀が集められるという。とくに千代の富士全盛時は一晩で5,000万集まったという。横綱の月給が282万であり、他のプロスポーツのトップクラスに比べて相当に安いのだが、これは角界ではこういった後援者からの祝儀が表面の給与に比べて大きな比重を占めているという現実がある。とくに年寄株の取得資金、部屋経営の資金、有力学生相撲選手の獲得資金など、角界はタニマチなしでは成り立たない構造となっている。

伝統とそれによる問題点[編集]

大相撲は、力士が大銀杏などまげ(髷)を結うなどの日本伝統的・古風な文化の他、土俵上への女性の立ち入りを認めない(春場所は2000年以降、時の大阪府知事太田房江による知事賞の直接授与が認められなかった)など、男尊女卑の「伝統」も強く保たれている。その為、一部のフェミニストからは異論の声があがっている。

横綱審議委員会と言う諮問機関や、一部の事務職を外部から採用している以外、すべて元力士(年寄)によって運営され、その閉鎖性は繰り返し指摘される。かつてはおおむね年寄は短命であり、年寄株もむしろ余り気味なのが通例だったが、近年では空き株がほとんどない状況が続いている。結果として年寄株の高騰を招き、1998年5月には「準年寄」制度の導入などで対応したが(2006年末廃止)、それでも数々のトラブルが発生している。小錦、若乃花(花田勝)、といった、大関・横綱を務め人気もあった力士たちが次々協会を退職している理由としては、芸能界格闘技プロレスなど他分野に新天地を求めたい気持ちがあるが、親方になっても将来が保証されていない現状であり、そうした先行きの不透明感も一因としてあると言われている。なお、年寄になるためには、日本国籍が必要である。運営上の閉鎖性問題もあるが、これは日本相撲協会が文部科学省所管の財団法人であることが大きい。現実に外国出身で三役、横綱まで務める者が現れているが、彼らの中には協会に残るために日本国籍を取得(帰化)している(前述の元関脇・高見山、先代・東関親方など)。

また、力士養成員への手当金の親方による着服疑惑とそれによるトラブルも繰り返し指摘され続けているが、関取になったときに力士として認められるという慣習ゆえに、対応が取られた様子は当然ない。

大相撲の公演中、升席では喫煙が認められていたが、健康増進法の施行に伴い、1月場所から全館禁煙となった(室内スポーツの観覧席で唯一タバコが吸えたのが大相撲の升席であったが、以前から他の観客や力士の健康や防災面からも異常との指摘も多く、ようやく重い腰を上げた形である)。そのため、升席で使用していた灰皿が相撲博物館に寄贈された。灰皿は陶製の物であるが、木枠に入っているなど特殊な形状をしている。

一部の部屋では、俗に「かわいがり」と言われる(稽古名目での)私刑が横行している状況であり、下位力士に対し竹刀を用いて身体を叩くなどの厳しい指導を行うことに対する批判がある。2007年には時津風部屋力士暴行死事件が発覚。愛知県警が双津竜順一らを立件する事態にまで至り、日本相撲協会北の湖敏満理事長が文部科学省より呼び出され事情を説明する騒ぎとなっている。また、時津風部屋では日本相撲協会による事情聴取についてマスメディアが駆け付けた際に時津風部屋所属力士が憤慨しカメラマンに暴行する事件も発生している。

また2010年2月には第68代横綱・朝青龍が度重なるトラブルに対し、横綱審議委員会から初の「引退勧告書」が提出された事も有り、朝青龍自ら責任を取る形で引退に追い込まれる。さらに同年5月には大相撲野球賭博問題が発生、大関・琴光喜を筆頭に数十名の力士や親方らなどが関与したと報道、既に多くの相撲関係者が野球賭博などの違法賭博への関与を認めていた。

こうした問題点を反映してか、近年の日本では力士になりたいと思う少年が大幅に減少し、2007年の名古屋場所では新弟子検査の受検者が0人であった。さらに大学相撲出身者と外国人力士の増加により、「宗教色を帯びた伝統的な儀式」というよりも「一般スポーツ競技の一種」としか捉えていない力士が殆どで有る。

その他[編集]

  • 1961年(昭和36年)から1991年(平成3年)まで、パンアメリカン航空賞が優勝力士に送られていた。この贈呈にはパンアメリカン航空極東支配人のデビッド・ジョーンズが、「ヒョー、ショー、ジョォー」という独特の言い回しで始まる、方言なども取り入れた、ウィットに富んだ表彰状の読み上げを行い、好評を博していた。ジョーンズの注目度が非常に高かったため、多くの国々から友好杯などの賞が増えるきっかけともなった。しかし、1991年(平成3年)5月場所を最後に同賞は廃され(パンナム自体その約半年後に倒産)、ジョーンズも2005年(平成17年)2月2日に逝去している。
  • NHKがテレビ中継する際、懸賞の垂れ幕はCMになるため、文字が見えない程度まで広角に撮影し、会場の音声も出来るだけ絞って放送している(懸賞を参照)。
  • 力士が引退後協会に残らない時や年寄が停年を待たずに退職する場合などには廃業という言葉を用いてきたが、現役幕内力士であった旭道山和泰衆議院議員選挙に出馬し当選したことがきっかけとなり、語感もあまり良くないことから1996年(平成8年)11月17日から次のように表現を改めた。
区分 改称前 改称後
力士 廃業 引退
引退
年寄 廃業 退職
停年[3]、退職 
  • 満65歳(誕生日の前日)を以って年寄は定年退職となるが、日本相撲協会では停年の表現を用いる。年を取ることをやめ、余生を楽しんでもらいたいという意をこめてのことである。
  • かつては大相撲の力士がテレビのコマーシャルに出演することを全面禁止していた時代があった。これは大相撲の力士は本業の相撲でPRすることに専念するようにしてほしいという日本相撲協会の方針に沿ったものであった。ただCM禁止中の時代に特例で貴乃花若乃花兄弟が国民年金のCMに出演した例はある。現在、CM出演は再解禁されている。
  • 金星などの番狂わせがあったとき、観客が座布団を投げる光景が見られることがある。一方で、行司が務めている場内アナウンスでは「危険ですから座布団を投げないよう願います」と注意をしている。明治時代には、ひいきの力士にご祝儀を与えるために、あえて個人を特定できるものを土俵に向かって投げるという習慣もあったというが、現在のいわゆる「座布団の舞」はそうした伝統に連なるものではない。 → 詳細は「座布団の舞」の項を参照。
  • 「フランス共和国大統領杯」は、知日派で大の大相撲ファンを自他ともに認めていた第五共和国第五代大統領・ジャック・シラクが設けた優勝力士に対する大統領顕彰だったが、2007年5月にニコラ・サルコジが第六代大統領に就任すると、これをさっさと廃止してしまった。シラクとの対比を自己の選挙戦の推進力としていたサルコジは、「坊主憎けりゃ袈裟まで」の方便をあらゆる分野で繰り広げた。その結果、シラクが幕内力士の名を諳んじるほどの相撲通だったのとは正反対に、サルコジは「あんなのは長い髪を結った太った男たちがやる、決して美しいとは言えないスポーツにすぎません」と大相撲を一方的にこき下ろすこととなり、これが事実上の選挙公約の一つにまでなってしまったためである。

大相撲を主題とした作品[編集]

テレビゲーム[編集]

  • 大相撲(データイースト、1984年)
  • 出世大相撲(テクノスジャパン、1984年)
  • つっぱり大相撲テクモ、1987年)
  • 寺尾のどすこい大相撲(ジャレコ、1989年)
  • SDバトル大相撲 平成ヒーロー場所(バンプレスト、1990年)
  • 千代の富士の大銀杏(FACE、1990年)
  • スーパー大相撲熱戦大一番(ナムコ、1992年)
  • 大相撲魂(タカラ、1992年)
  • つっぱり大相撲 立身出世編(テクモ、1993年)
  • 若貴大相撲 夢の兄弟対決(イマジニア、1993年)
  • 横綱物語(KSS、1994年)
  • 64大相撲(ボトムアップ、1997年)
  • 64大相撲2(ボトムアップ、1998年)
  • 日本相撲協會公認 日本大相撲(コナミ、2000年)
  • 日本相撲協會公認 日本大相撲 格闘編(コナミ、2001年)
  • 日本相撲協會公認 日本大相撲 激闘本場所編(コナミ、2002年)

落語[編集]

佐ノ山

雑誌[編集]

以下の雑誌が定期的に刊行されている。

※NHK大相撲中継のみ隔月刊=場所前に発行、他は月刊誌。VANVAN相撲界は1998年終刊

漫画作品[編集]

映画作品[編集]

テレビドラマ[編集]

大相撲ファンの著名人[編集]

関連項目[編集]

テンプレート:Wikinewscat

[編集]

  1. 歌川国貞画:大判錦絵:杣ヶ花渕右エ門(そまがはな・ふちえもん)
  2. *「寛政の上覧相撲」(1791年)の開催経緯について : 19代目吉田善左衛門の登用をめぐって
  3. 「定年」ではない。角界特有の表現。

外部リンク[編集]

関連書[編集]

  • 風見明『相撲、国技となる』2002年9月 大修館書店 ISBN 4-469-26502-0 競技場が「国技館」と名付けられた経緯などが詳しく述べられている。zh:大相撲