羽田孜

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羽田 孜
(はた つとむ)


80
日本の旗日本国 内閣総理大臣
在任期間 1994年4月28日
 - 1994年6月30日

生年月日 1935年8月24日
出生地 東京都大田区
(出身地:長野県上田市
出身校 成城大学
学位・資格 経済学士

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国務大臣副総理
新生党党首

前職 外務大臣
国務大臣副総理
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世襲の有無 2世
父・羽田武嗣郎(衆議院議員)
選挙区 衆院長野3区

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当選回数 衆14回

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党派 新生党

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没年月日

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花押 {{{花押}}}

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羽田 孜(はた つとむ、1935年8月24日 - )は、日本政治家衆議院議員(14期)。民主党最高顧問。

内閣総理大臣第80代)。(在任期間:1994年4月28日 - 6月30日)。農林水産大臣第9代12代)、大蔵大臣第88代)、副総理(細川内閣)、外務大臣第120代)、新生党党首、新進党副党首、太陽党党首、民政党代表、民主党幹事長、同党特別代表などを歴任。

自民党出身で、細川護煕羽田孜政権に参加後、鳩山由紀夫政権までの間、自民党との連立政権(自社さ・自自公等)に参加することなく、一貫して選挙による政権交代を目指した国会議員の一人である。

概要[編集]

生い立ち[編集]

東京都大田区蒲田にて羽田武嗣郎、とし子夫妻の長男として生まれる。父武嗣郎は朝日新聞記者を経て衆議院議員となった人物であり、母とし子は、志賀高原を命名した長野電鉄の創設者神津藤平の娘である。名付け親は、武嗣郎の東北帝国大学時代の恩師に当たる阿部次郎で、「孜孜(しし)として働く」から取られた。1942年に第二延山小学校に入学するが、戦争が激しくなったため、1944年3月に父の郷里である長野県に疎開。1946年、父、武嗣郎が、公職追放1951年、上田第二中学校に入学。この頃から、議論好き、世話好きの片鱗を見せ始める。長野県上田高等学校を受験するが、不合格となり、東京の成城学園高等学校に入学。1954年成城大学経済学部に入学する。大学3年生の時に、ハンガリー動乱で亡命してきた学生をかくまう。 1958年、成城大学を卒業。父と同じくジャーナリズムに憧れ、朝日新聞、日本経済新聞などを受験したが、失敗。父のコネで、小田急バスの試験を受け入社した。小田急バスでは、吉祥寺営業所を経て、観光課に配属される。観光課では企画を担当し、春夏秋の観光シーズン以外に顧客を掘り起こすため、武嗣郎の友人である野田宇太郎の協力を得て、「文学散歩」「史跡散歩」などに力を入れた。その他に学生、老人、会社などの慰安旅行や幼稚園の遠足や学校修学旅行、更には皇族の旅行を企画し、時には車掌も勤めた。1965年に綏子夫人と結婚。羽田は父親の後継者となって、政界入りする気持ちは無かったが、1963年に武嗣郎が脳出血で倒れたため、後援会を中心に政界入りを打診され、1968年10月に小田急バスを退職する。

政界入り[編集]

1969年12月、第32回衆議院議員総選挙に旧長野2区から自由民主党公認で立候補し、7万3325票を獲得し、トップ当選となる。自由民主党では、田中派に所属した。羽田は、郵政政務次官を経て、農林政務次官となり、農林族としてそのキャリアを歩むこととなる。衆議院農林水産委員長、自民党林政調査会長、総合農政調査会長などを歴任した。農林族としての羽田は、それまでのいわゆる「ベトコン議員」に代表される毎年米価を引き上げて、農村に一方的に利益を傾斜配分するものではなく、国内産業としての農業の位置づけや、国際経済における農業貿易問題を思考するもので、加藤紘一などとともに、「総合農政族」と呼ばれた。1984年には、自民党を代表し牛肉とオレンジをめぐる日米農産物交渉解決に取り組んだ。翌1985年12月、牛肉オレンジ交渉の実績が認められて、第2次中曽根内閣第2次改造内閣農林水産大臣として初入閣する。ちなみにこの時自治大臣として小沢一郎も初入閣している。農水相としては「タブーへの挑戦」を掲げ、日米間で対立が大きくなってきたコメの自由化問題に対応する。羽田は、外国米に対して価格の高い日本米に国際競争力をつけるため、農産物価格の引き下げを断行しようとした。しかし、1986年の衆参同日選挙後、成立した第三次中曽根内閣で農水相は羽田から安倍派の加藤六月に交代し、農協の反対にもあい、米価は据え置かれることとなった。しかし、農水相を降りた羽田は、翌1987年、生産米に関しては、生産者価格を引き下げるという政府・自民党合意を取り付け、米価の引き下げを断行するに至る。

田中派から竹下派へ[編集]

羽田は田中派の中堅議員として、次第に実力を蓄えていくが、一方で派内の世代交代を意識するようになっていった。1985年2月、竹下登による田中派の派中派・創政会に参加する。田中は2月27日脳梗塞で倒れるが、最後に政治家として公の場で発言したのは、羽田のパーティーにおいてであった。竹下派結成に際しては、竹下派七奉行の一人に数えられ、金丸信から「平時の羽田、乱世の小沢、大乱世の梶山」と称される。1987年11月、中曽根康弘首相に指名される形で念願の竹下内閣が成立する。1988年12月27日、竹下改造内閣で農水相として再入閣。しかし、竹下内閣はリクルート事件消費税導入による世論の逆風を受け、1989年に退陣した。

政治改革[編集]

海部俊樹内閣が成立すると、羽田は党幹事長となった小沢一郎に、党選挙制度調査会長就任を求められ、これを受けた。自民党内に設置された政治改革推進本部の本部長となった伊東正義、本部長代理の後藤田正晴とともに政治改革推進派の中核となる。羽田は、政治と金の問題と、国際政治に日本が対応するために政治改革を必要と考え、選挙制度改革を中心にした政治改革を主張し、金丸信から「熱病にうかされている」とまで言われる。また、党内議論の中で石破茂などの改革派若手とひざ詰めで議論し、若手の信頼を得た。羽田は、小選挙区比例代表並立制の導入を主張するが、加藤紘一山崎拓小泉純一郎(いわゆる「YKK」)らは、竹下派支配に反対し海部内閣倒閣を目論み、選挙制度改革を中心とする政治改革に反対して、1991年9月に政治改革関連法案は、廃案となった。政治改革が頓挫する中で若手議員は敗北感を覚えるが、羽田は、そんな中にあって若手を叱咤し、政治改革は伏流として残ることになる。

自民党離党、細川連立内閣[編集]

1991年11月に成立した宮沢喜一内閣で大蔵大臣として入閣。1992年、金丸の佐川急便事件に端を発した竹下派分裂に際しては、派閥会長ポストをめぐり、会長代行の小沢一郎と竹下の最側近である小渕恵三の間で派を二分する争いが起こる。羽田は、竹下から中立の立場を求められるが、小沢の側に立ち、人の悪口を言わないことで知られる竹下をして「孜がこんなに無定見とは知らなかった」と言わしめる。羽田は、小沢、奥田敬和渡部恒三らとともに改革フォーラム21(羽田派)を結成し代表に就任。党内第5派閥に転落した羽田派は内閣改造で冷遇され、政治改革実現を旗頭に、集団離党するのではとの観測が流れる。こうした中、1993年4月に病気辞任した渡辺美智雄の後任として、外相就任を宮沢に打診される。これは羽田を閣内に封じ込めるために後藤田正晴副総理が考えた”天元の一石”であった。しかし、羽田は、野にあって自由な行動を取ることを選択、外相就任を断った。
同年6月、宮沢内閣は政治改革関連法案成立を断念したため、羽田派は、野党の提出した宮沢内閣不信任案に賛成投票をした。
6月23日離党し、新生党を結成。党首に就任。代表幹事となった小沢による二重権力支配という批判に対しては、自分が表紙で小沢が黒子と反論ともつかぬ主張をした。ともあれ、羽田は新生党党首として全国を遊説し、新党ブームに乗って新生党は55議席を獲得する。これに先立つ、6月24日に既に、新生党、社会党公明党民社党社会民主連合の5党首が非自民・非共産連立政権を目指すことに合意し、羽田は連立政権の首班候補として最有力視されていたが、日本新党代表の細川護煕を連立政権首班とすることに合意する。羽田は細川内閣の副総理兼外相となる。

改新騒動[編集]

細川政権は政治改革、コメの部分的自由化を実現し、新生党は連立与党の中核としてこれを支えたが、細川首相は金銭スキャンダルなどを理由に1994年4月8日電撃的に辞意を表明。後継首相について小沢は、自民党の渡辺美智雄に多数の同調者を引き連れて合流すれば首相に擁立すると持ちかけ、渡辺も一時は離党を表明するが、同調者が少数にとどまり撤回。結局、連立与党は後継首相に羽田を推すことで合意し、4月25日国会で羽田が首相に指名された。ところがその直後、連立与党のうち新生党、日本新党、民社党などが衆議院で統一会派「改新」を結成すると発表。改新は総勢130議席で、与党第1党であった社会党の74議席を大きく上回るもので、社会党の連立与党内での地位低下を図った動きであった。首相指名後の統一会派発表という事態に社会党の村山富市委員長は信義に反すると強く反発し、4月26日、社会党は連立政権を離脱すると発表。羽田は懸命に社会党の連立復帰を試みたが功を奏さず、4月28日に羽田内閣は少数与党内閣として発足した。元来、小沢は羽田が細川の後継首相となることには、平成6年度予算成立後の政局を見据え反対ないし消極的であり、渡辺美智雄との提携を企図していたこともあって、羽田と小沢の関係にひびが入り始める。ただ小沢が、細川の後継首相に羽田を擁立するのを躊躇したのは、乱世ゆえに「平時の羽田」のキャリアが傷つくのを避けるためだったという見方もある。

羽田内閣[編集]

詳細は羽田内閣を参照

羽田は「改革と協調」を掲げ、平成6年度予算の成立に全力を挙げた。永野茂門法相が「南京大虐殺はでっち上げだと思う。」と発言すると組閣早々に罷免した。公共料金値上げの年内凍結や、首相官邸直通のFAX設置などを打ち出していった。しかし、予算案は成立したが、少数与党状態の解消をねらって行われた連立与党と社会党との間の政策協議は決裂し、自民党は内閣不信任案を衆議院に提出した。内閣不信任案の成立が不可避と判断した羽田は、解散総選挙に打って出る構えも見せたが、政治空白と従来の中選挙区制による総選挙実施を招くということで、結局、6月25日に内閣総辞職を選択し、羽田内閣は在任期間64日、戦後2番目の短命政権に終わった。

1994年5月12日の衆議院本会議では「1969年月佐藤・ニクソン会談において有事の際に沖縄への核持ち込みを日本が事実上認めるという秘密協定に署名」に関する村山富市の質問に対し、内閣総理大臣として「密約の事実はない」と否定する答弁をした[1]

新進党、太陽党を経て、民主党へ[編集]

6月30日村山自社さ連立内閣が発足し、野党に転落する。小沢の主導によって、旧連立の新生党、民社党、日本新党などは相次いで解党し、1994年12月10日に新進党が結党。羽田は党首選挙に立候補するが、小沢の支持を得た海部俊樹に敗れ、小沢らの打診で副党首となる。

1995年12月にも党首選挙に立候補し、小沢と激突する。羽田支持グループは、党内非主流派ともいうべき興志会を結成し、小沢執行部と対立を深めていく。1996年、新進党が第41回衆議院議員総選挙に敗北すると、小沢執行部に対する更なる不満を強め、新進党を離党し太陽党を結成、党首となる。
1997年12月に新進党分党すると、1998年1月に新進党の存続政党である小沢自由党不参加の保守系諸派を糾合し、民政党を結成し、代表となる。民政党は旧民主党新党友愛民主改革連合による統一院内会派「民主友愛太陽国民連合」(民友連)へ参加。さらに4月27日には民政党合流による民主党が結成され、初代幹事長に就任。その後、特別代表、最高顧問を歴任する。

2004年5月、国民年金への加入が義務付けられた1986年4月から首相在任期間を含む1995年7月までの9年間余り未加入であったことを自ら発表し、党最高顧問を辞したがその後再び最高顧問に就任。現在に至る。

2009年8月、脳梗塞後遺症等の体調不安が囁かれる中、8月30日に行われる衆院選への立候補を最後に政界を引退する考えを表明した。衆院選について、「大きく考えれば、最後の選挙になるだろうというのが常識的なところだ」「後継者は党や後援会と相談して決めたい」と述べ、また長男の羽田雄一郎について周辺に「世襲は認めない」と伝え、後継として擁立しない考えを示した[2][3]

人物[編集]

略歴[編集]

  • 1935年
    • 8月24日 出生(父・武嗣郎、母・とし子)。
  • 1969年
    • 12月 第32回衆議院議員総選挙に旧長野2区から自由民主党公認で立候補し、初当選。
  • 1992年
    • 6月23日 離党。新生党を結成し、党首に就任。
    • 8月9日 細川内閣で副総理兼外相に就任。
  • 1994年
    • 4月25日 内閣総理大臣に指名される。直後に改新騒動。
    • 4月28日 羽田内閣が成立。社会党の連立離脱により少数与党内閣として発足。
    • 6月25日 自由民主党による内閣不信任案の提出を受け、内閣総辞職。
    • 12月10日 新進党結成に参加。副党首に就任。
  • 1995年
    • 12月27日 第2代新進党党首選挙で小沢一郎に敗れる。
  • 1996年
    • 新進党を離党。太陽党を結成し党首となる。
  • 1998年
    • 1月 民政党を結成し、代表となる。
    • 4月28日 民主党に合流し、初代幹事長に就任。以後、特別代表、最高顧問を歴任

関連項目[編集]

脚注[編集]

  1. 衆議院本会議1994年5月12日議事録
  2. 羽田家は秦氏の末裔であり、秦氏は始皇帝の末裔と自称しているためであるが、明確な根拠が得られているわけではない。
  3. 日本前首相自称徐福后人 热衷中日友好{{#if:| {{{3}}}}}
  4. パチンコチェーンストア協会理事・会員リスト
  5. 『崇教真光』誌平成17年12月号」
官職
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第80代:1994年
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第79代
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