阪神タイガース
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阪神タイガース(はんしん-、Hanshin Tigers)とは、日本のプロ野球球団で、セントラル・リーグの球団のひとつ。2005・2006年度ペナントレース実数での観客動員数は12球団の中で唯一300万人を超え最多。阪急阪神東宝グループの系列。なお「Tigers」の英語での発音は「タイガーズ」の方が正しい。
目次
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[編集] 球団の歴史
[編集] 戦前期
- 1935年、前年末の大日本東京野球倶楽部(東京ジャイアンツ)設立をうけて、阪神電気鉄道が職業野球団を組織する準備を始めた。ジャイアンツは読売新聞が部数の拡大を目的として設立した球団で、特定のリーグに所属しないそれまでのプロ球団とは違い、数チームでリーグを結成した上で安定した興行を行いたいという新聞本社の考えから対戦相手を探していた。特に、東京、大阪、名古屋の三大都市圏で試合を行うことを目指していたので、大阪近郊に甲子園球場という日本最大の球場を持っていた阪神電気鉄道が球団を設立することになったのである。
- 1935年10月25日の門前眞佐人との入団契約を皮切りに山口政信、藤村富美男、藤井勇といった甲子園のスター選手と都市対抗野球の強豪・大連実業の松木謙治郎らを集め、同年12月10日に「株式会社大阪野球倶楽部」、球団名大阪タイガース(おおさか-)が発足した。日本運動協会(のち宝塚運動協会)、天勝野球団、大日本東京野球倶楽部に続く日本で4番目のプロ野球チームであった。
- 翌1936年にも、川崎コロムビアの若林忠志(1月9日)や立教大学の景浦將(2月28日)等の有力選手と契約し、同年4月の球団結成記念試合までに17名の選手を獲得した。同年2月5日には、東京ジャイアンツ、名古屋、阪急等とともに日本職業野球連盟を結成している。これは、現在の日本野球機構にあたる組織であり、同日が日本プロ野球リーグのはじまりである。
- 1936年の公式戦は、春(第1回日本職業野球リーグ戦)・夏(連盟結成記念全日本野球選手権)・秋(第2回全日本野球選手権)の3シーズンに分けて東京、大阪、名古屋の各都市圏でいくつかの大会を開催する方式だった。最初のシーズンである春は、東京ジャイアンツがアメリカ合衆国遠征を行っていて出場しなかった(後に名古屋金鯱軍も内外遠征を行っている)ためシーズン優勝は決めなかったが、開催された3大会でタイガースはいずれも1位を逃した。松木や景浦率いる打線にエース若林といった豪華な布陣を考えれば、これは芳しくない成績であった。
- 1936年夏と秋のシーズンは、各大会で1位になった回数でシーズン優勝を決める勝ち点制だった。夏、名古屋大会で1位になったタイガースは、東京大会、大阪大会で1位になった名古屋、阪急と優勝決定戦を行うこととなっていたが、直前になって中止され、初優勝を逃した。また親会社同士が競争関係にある阪急に勝てなかったことから、初代監督の森茂雄が解任され、石本秀一が新監督に就任した。同年秋、打倒沢村栄治に闘志を燃やす松木や景浦を中心として各大会を戦い抜き、24勝6敗1分と抜群の成績を残したが、優勝を決める勝ち点は2.5で東京ジャイアンツと並んだ。このため、同年12月に洲崎球場で優勝決定戦が行われたが、1勝2敗で惜敗した。
- 戦前・戦中は常に東京ジャイアンツ(1940年に東京巨人に改称)と優勝争いを繰り広げた強豪チームであった。特に1937年秋、1938年春には、御園生崇男に加えて1937年春から豪腕西村幸生が加入した磐石の投手陣と、松木、山口、景浦、藤井、田中義雄らの強力打線を擁してプロ野球初の2連覇を達成した。さらに、春秋2シーズン制を採用していたこの2年間は、春と秋のシーズン優勝チーム同士が戦う年度優勝決定戦でいずれもジャイアンツを破り、年度優勝に輝いた。
- 1940年9月、戦局悪化による敵性英語の使用禁止をうけ球団名を大阪タイガースから阪神に改称した。軍の召集により選手数が不足する苦しい状況で、1944年には監督兼主戦投手の若林忠志が35試合中31試合に登板してタイトルを総なめにし、3度目の優勝を遂げた。戦争が激化するなか、1944年の総進軍大会、ならびに1945年1月の正月大会(非公式大会)に「猛虎(阪神と産業の合同チーム)」の名称で参加したのを最後に、同年3月に活動を停止した。
[編集] 戦後期(40年代、50年代)
- 戦後、1945年11月の東西対抗戦(非公式大会)より復帰し、翌年3月に球団名を大阪タイガースに戻した。したがって、翌1947年に大リーグに倣って職業野球全球団がニックネームを導入したさい、タイガースだけは球団名の変更を行う必要がなかった。1946年の愛称は「猛虎」(参照)。
- 1947年、若林が1944年と同様に投手兼監督として最高殊勲選手賞(MVP)を受賞する活躍をみせ、戦後初優勝となる通算4度目の優勝を飾った。1番打者・呉昌征から始まり金田正泰、藤村、土井垣武などリーグ屈指の強打者を並べた打線は「ダイナマイト打線」と呼ばれた。特に4番打者であった藤村は、物干し竿と呼ばれる長いバットを用いて本塁打を量産し、ミスタータイガースと呼ばれた。1949年には、チーム順位が6位にもかかわらず藤村が最高殊勲選手賞を受賞した。
- 1949年オフの新球団加盟問題では、当初は毎日オリオンズら新球団の加盟に消極的ながら賛成していた。しかし最終的には反対派にまわり、2リーグ分立に際して読売ジャイアンツ等とともにセ・リーグを創設した。阪神に裏切られた形となった新球団毎日は、戦力確保のためにタイガースの選手を集中的に引き抜いた。監督兼主戦投手の若林を始め、打撃、守備の中心である呉(1番中堅手)、別当薫(3番右翼手)、土井垣(5番捕手)、本堂保次(6番二塁手)ら6名が毎日に移籍した(ちなみに別府星野組の左腕投手・荒巻淳もタイガース入団が内定していたが、毎日に奪われている)。さらに遊撃手・長谷川善三までもが西鉄クリッパースへ移籍。門前眞佐人が大洋ホエールズへ移籍するなど、ダイナマイト打線は崩壊した。
- セ・リーグ元年の1950年、阪神は移籍した若林にかわり松木が監督に就任し、毎日の引き抜きにあわずに残留した藤村、金田、後藤次男、藤村隆男、梶岡忠義、白坂長栄らを中心にチームを構成して前年を上回る4位という順位を確保した。しかし新規に加盟した球団を除けば最下位であり、レギュラーの3分の2が流出した影響は深刻であった。
- 一方、チームの再建のため、ファームの結成や本格的なスカウト制度の導入などの改革により、世代交代の準備を進めた結果、1950年代には吉田義男、渡辺省三、小山正明、田宮謙次郎、藤本勝巳などの若手選手達が次々と主力になり、好成績を収めた。しかし投打が今一歩噛み合わず、水原茂監督率いる巨人が黄金時代の真っ直中にあるなかでタイガースは優勝から遠ざかることになった。
[編集] 2度のリーグ制覇(60年代)
- フランチャイズ制度の正式導入に伴い保護地域が兵庫県となったことから、1961年に社名を「株式会社阪神タイガース」、チーム名も阪神タイガースに変更して、心機一転をはかった。しかし同年はチームの成績が低迷した上に、主力選手と度々衝突を繰り返した金田正泰監督がシーズン中に解任されるなど、チームは混乱した。金田の後任として、巨人時代に7度のシーズン優勝を誇る名将・藤本定義ヘッドコーチが監督に就任した。
- 1962年、藤本監督の下、小山、村山実の両エースの力投と遊撃手・吉田、三塁手・三宅秀史、二塁手・鎌田実らによる守りの野球で2リーグ分立後では初となる通算5度目の優勝を果たした。日本シリーズでは東映フライヤーズと対戦したが、2勝4敗1分で敗退した。村山の最高殊勲選手賞(MVP)選出が当時の慣行で日本シリーズ開催の直前に発表されたため、両輪として活躍した小山をはじめとして、チーム内の雰囲気が悪かったことが大きく影響したといわれる(シーズンMVP発表は翌年よりシリーズ後に変更)。
- 1964年、エース小山と大毎オリオンズの4番打者山内一弘とのトレードを成立させて打撃を強化する一方、ジーン・バッキーらが小山の穴を埋め、6度目の優勝を果たした。大洋ホエールズがあと1勝すれば優勝という絶体絶命のピンチに追い詰められながらも、最後に9連勝で逆転優勝を決めた奇跡的なシーズンであった。しかし、東京オリンピックの影響で早く始まった日本シリーズでは、南海ホークス相手に先に王手を掛けながらジョー・スタンカに2試合連続完封負けを喫し、3勝4敗で惜敗した。
[編集] 迷走から日本一へ(1970年~1985年)
- 1970年、村山が選手兼任監督に就任。江夏豊と田淵幸一の「黄金のバッテリー」や吉田からレギュラーを奪った藤田平といった個性的で人気と実力を兼ね備えた選手達とミスタータイガース村山監督をそろえたチームは、1964年以来の優勝を期待させた。しかし、当時は王貞治や長嶋茂雄ら群を抜いた戦力を持つ巨人が絶頂期を迎えていた。そのため、1970年2位、1971年5位、1972年2位と期待に応えられなかった。1972年には村山が監督の肩書のまま投手に専念したため、金田正泰が監督代行を務めている。村山はこの年限りで引退。
- 1973年、金田監督が復帰。同年、9連覇を目指す巨人と激しい優勝争いを行い、残り2試合で1勝すれば優勝というところまでこぎつけたものの中日球場での中日ドラゴンズ戦では星野仙一を攻略できずに2-4で敗れ、地元甲子園での最終戦では巨人に0-9と完敗して優勝を逃した。試合終了後敗戦に怒ったファンが球場に乱入し、巨人の主力選手に殴る蹴るの暴行を加えるなど混乱した。
- 1975年、吉田が監督に就任。優勝が期待されたが、エース江夏の不調などから3位に終わった。その年のオフに江夏を江本孟紀、島野育夫らとのトレードで南海へ放出。翌1976年は当時新記録のシーズン193本塁打など打撃陣は好調。ハル・ブリーデン、マイク・ラインバック、掛布雅之らの活躍により、巨人と激しく優勝争いを演じるが結局2ゲーム差の2位に終わる。後藤次男監督時代の1978年には球団初の最下位に沈み、後藤は責任を取る形で辞任した。
- 1978年オフ、小津球団社長が就任。小津は低迷するチームの改革を図るためには大規模な改革が必要と考え、正捕手・4番打者の田淵とエース級の古沢憲司を西武ライオンズの竹之内雅史、真弓明信、若菜嘉晴との交換トレードで放出。さらに江川事件で巨人が江川卓と契約しようとすると、これに対抗してドラフト会議で江川を1位指名した。しかし巨人入団を強く望む江川との交渉に難航し、結局江川を巨人に移籍させ、その見返りとして巨人のエース・小林繁を獲得した。
- 主力級選手の放出獲得を次々と行ったことで批判を浴びた上、1979年以降も最下位は免れたもののチーム成績は低迷が続いた。この間、監督はドン・ブレイザー、1980年途中からの中西太と監督がめまぐるしく交代するがチームは3~5位という状況であった。
- 1982年、安藤統男が監督に就任。成績は奮わなかったが、戦力が厚みを増し1985年の日本一につながった。
- 1985年、吉田が監督に復帰。この年は21年ぶりのリーグ優勝を果たすが、それを目前にした8月12日、中埜肇球団社長が日航機墜落事故で死亡するという悲劇も起こる。結果的にはこの大事件により、阪神ナインは一層奮起したとも言われる。1番・真弓、3番・ランディ・バース、4番・掛布、5番・岡田彰布らの強力打線(第2次ダイナマイト打線)がシーズン219本塁打を記録(2004年に読売ジャイアンツに破られるまではセ・リーグ記録だった)し、中西清起、福間納、山本和行らがリリーフ投手として大車輪の活躍をした。1985年の日本シリーズでは、4勝2敗で西武を下し日本一を達成した。同年の最優秀選手(MVP)となったバースは同年、翌年にわたり、2年連続で三冠王という偉業を成し遂げた。1986年にはシーズン打率.389・シーズン長打率.777・7試合連続本塁打・13試合連続打点の日本新記録をマークし、いずれの記録も現在でも破られていない。
- また、阪神は1985年の日本シリーズで西武ライオンズ球場では3戦(第1戦、第2戦、第6戦)全勝しており、2005年の交流戦においても(ただし球場はグッドウィルドームとなっている)2連勝して20年越しでの所沢5連勝を飾った。
[編集] 低迷期(1986年~2001年)
- 日本一になった1985年からわずか1年後の1986年は、掛布の骨折と平田の負傷による戦線離脱、岡田などの主力選手の不振が影響し、夏のロードで広島・巨人との優勝争いから脱落して、3位に。その翌年の1987年に最下位に沈み、吉田監督は辞任。その後長らく成績不振がつづいた。
- 1988年、村山監督が復帰。「少年隊」トリオの和田豊、大野久、中野佐資を登用するなど若手への世代交代を進める。しかし、バースの帰国、掛布の引退などアクシデントが重なり最下位に沈む。1989年は新外国人のセシル・フィルダーが大活躍するも三振してバットを叩きつけた際に骨折して帰国。シーズン中から監督問題が浮上し、村山監督が辞任。
- 1990年、中村勝広監督が就任。ヤクルトを解雇されたラリー・パリッシュを獲得し、打ち勝つ野球を目指し、5月中盤までは岡田・パリッシュが好調だったが、両名の失速と投手陣の不振とともに順位を下げ、6月20日に最下位に転落して以降、2度と浮上することはなく、最下位に終わる。1991年は開幕55試合で15勝40敗という目を覆わんばかりの成績不振で、中村監督の途中解任まで取り沙汰されたほどであった。しかし、この年の後半戦は、猪俣隆、葛西稔といった若手投手が台頭し、5連続先発投手完投勝利を収めたこともある。
- 1992年、不振に陥っていた主砲の岡田に代わり、それまでほとんど実績がなかった亀山努、新庄剛志の両俊足外野手が大活躍(亀新フィーバー)。甲子園のラッキーゾーンが撤去されて外野が広くなったこともあり、仲田幸司、中込伸、湯舟敏郎、野田浩司、弓長起浩、田村勤ら投手陣も大活躍し、和田豊、トーマス・オマリー、ジム・パチョレック、八木裕らと共に、ヤクルトスワローズと久々に優勝争いを繰り広げ最終カードまで優勝争いを持ち込んだが、惜しくも2位に終わった。
- 中村監督は1995年シーズン途中で辞任。
- 1996年、藤田監督が就任。怪我の亀山に代わり桧山進次郎が台頭するも、新庄や主力選手との確執によりシーズン途中で辞任。
- 1997年に吉田監督が再復帰。しかしチームを再生することはできず1998年限りで辞任。
- 1999年、「ID野球」の教祖・野村克也監督を招聘して猛虎再生を託した。野村は新庄の投手起用や、伊藤敦規、葛西稔、遠山奨志らの奇抜な投手交代、赤星憲広をはじめとする俊足選手の獲得、エース井川慶(現・ニューヨーク・ヤンキース)、若き主砲濱中治の育成、不逞選手の解雇など手を尽くし低迷脱出を図った。しかし、チームの柱となる選手の獲得をたびたび球団に要請するも金銭的な理由で断られ、深刻な戦力不足から3年連続最下位に沈むと、沙知代夫人の脱税の責任を取って2001年シーズン限りで退団した。
[編集] 猛虎復活(2001年~2006年 )
- 2001年オフ、野村の後任監督に中日監督を辞任したばかりの星野仙一が就任。
- 2002年は、開幕7連勝と好スタートを切り、優勝争いに絡んだが、その年に開催されたサッカーワールドカップの日本開催による変則スケジュール後にバテてしまい、また夏場以降読売ジャイアンツに圧倒され4位に終わった。それでも最下位脱出には成功し、オフにはチームの活性化を目的とした選手の入れ替えを実施し、実績のない選手を解雇や2軍へまわす等の血の入れ替えを行い、伊良部秀輝、金本知憲、下柳剛の獲得など、積極的な補強を進めた。
- 2003年、桧山進次郎、今岡誠、赤星憲広、金本知憲、矢野輝弘、藤本敦士、井川慶ら充実した戦力で開幕より快進撃を続け、稀にみる独走で18年ぶりのリーグ優勝を果たした。その後の日本シリーズでは福岡ダイエーホークスと戦い、金本、桧山、吉野誠らの活躍で10年ぶりに第7戦までもつれ込むなどシリーズを盛り上げたが、惜しくも3勝4敗で敗れた。日本シリーズ終了後、星野は体調不良を理由に勇退し、星野によって招聘されたコーチ陣のうち、島野育夫はフロントに転出して管理部長として、オマリーは駐米スカウトとして球団に残ったが、田淵、達川光男、西本聖は退団した。
- 後任には岡田コーチが監督に就任。1年目の2004年は、主力選手の不振、更に藤本、安藤、ウィリアムスのアテネ五輪出場による離脱で、大幅な戦力低下が響き4位であった。
- 2005年は、「JFK」(ジェフ・ウィリアムス、藤川球児、久保田智之の頭文字)や「SHE」(桟原将司、橋本健太郎、江草仁貴の頭文字)などの救援陣の活躍や、アンディ・シーツ、金本、今岡によるクリーンナップの安定した成績により、同年導入された交流戦で好成績を収めて首位に立つとシーズン終了まで1度も譲ることなく、9度目のリーグ優勝を飾った。日本シリーズでは、ロッテに四連敗を喫してしまった。(ちなみに、千葉マリンスタジアムで行われたこの日本シリーズの第一試合は7回裏途中(一死無走者)で濃霧コールドゲームという椿事が起きた。)しかし、翌年の2006年の交流戦では、ロッテに5勝1敗で勝ち越し日本シリーズでの雪辱を晴らしている。この年のオフ、島野の2軍監督就任と木戸克彦2軍監督の退団を発表。
- 2006年は、シーズンの最後まで中日ドラゴンズとの優勝争いを繰り広げ、シーズン終盤に9連勝を飾るも、今岡の不振と負傷、久保田の負傷等、主力選手の不振が響き、2位となった。だが、1985年(首位)~1986年(3位)以来20年ぶりに2年連続のAクラス及び球団史上初の2年連続80勝を達成。2005年から実施された実数での観客動員数も2年連続300万人を超え、1試合平均観客動員数も4万3千人台と何れも12球団一の動員数であった。
[編集] チーム成績・記録
- リーグ優勝 9回
- (1937年秋、1938年春、1944年、1947年、1962年、1964年、1985年、2003年、2005年)
- 日本一 1回
- (1985年)
- Aクラス 42回
- (1937春~1940年、1942年~1948年、1951年~1960年、1962年~1970年、1972年~1973年、1975年~1976年、1981年~1982年、1985年~1986年、1992年、2003年、2005年~2006年)
- Bクラス 28回
- (1941年、1949年、1950年、1961年、1971年、1974年、1977年~1980年、1983年~1984年、1987年~1991年、1993年~2002年、2004年)
- 最多勝利 87勝(2003年、2005年)
- 最多敗戦 84敗(1995年)
- 最多引分 13分(1976年)
- 最高勝率 .829(1938年春)
- 最低勝率 .331(1987年)
- 最多連勝 14連勝(1937年、1946年)
- 最多連敗 12連敗(1998年、1999年)
[編集] その他の記録
- 最小ゲーム差 0.5ゲーム(1937年春、1973年)
- 最大ゲーム差 37.5ゲーム(1987年)
- 最多本塁打 219本(1985年)
- 最少本塁打 1本(1944年)
- 最高打率 .345(1936年夏)
- 最低打率 .197(1941年)
- 最高防御率 1.53(1944年)
- 最低防御率 4.79(1978年)
[編集] チーム特徴
- ニックネームの「タイガース」は阪神電鉄社員の公募によって決定した。この際、何人かが「タイガース」という名称を応募したが、抽選の結果、事業課所属の松原三郎が考案者として認定された。松原は大阪の姉妹都市であるデトロイトを本拠地としていたデトロイト・タイガースを参考にしてこの名称を応募したとされているが、デトロイト・タイガースとは無関係に「タイガース」というニックネームを考えた者も多数いたと言われている。このニックネームについては、英語表記「Tigers」を正しく発音すると「タイガーズ」であるが、正式名称は片仮名表記であるため、タイガーズとするのは誤りである。当時の球団名においては、複数形のsを英語で「ズ」と発音する場合にも正式名称を「ス」とすることは一般的であった。
- 球団名「阪神タイガース」は、親会社が「阪神」電鉄である事と、本拠地である甲子園球場が大阪市と神戸市の間の「阪神」地区に位置している事との2つの意味をあわせもった球団名である(ちなみに西宮市を所轄する兵庫県の県民局は「阪神南県民局」である)。設立当初は「大阪タイガース」という球団名であったが、タイガース以外にも阪急、南海が大阪にあったことから略称として「阪神」が使われており、さらに甲子園球場が大阪府ではなく兵庫県に位置していたため、当時ヘッドコーチだった青田昇等の意見により、1961年に改称した。改称以前の1954年に発足したファームの新日本リーグにも、神戸を本拠とした事もあり、阪神ジャガースの名称でチームを組織していた。
- 球団名を一文字で表記する時は一般的に「神」とする。本来であれば略称「阪神」の一文字目の「阪」の字を用いるべきだが、かつて阪急との混乱を避けるために、阪神は「神」、阪急は「急」としていた名残りである。1993年に横浜大洋ホエールズ(「洋」)が横浜ベイスターズとなって以降は、現存するプロ野球チームの中では略称に最初の文字を使わない唯一の球団となっている。
またプロ野球の歴史に関して記述した本の中では球団名が「大阪タイガース」だった頃にも球団名を「大阪」ではなく「阪神」としているものもあるが、これは一文字で表記した場合に「大」だと大洋・大映・大毎・太平洋クラブなど、また「阪」では前述のように阪急と混同する可能性があるためのやむをえない措置である。 - 球団歌は『阪神タイガースの歌(旧:大阪タイガースの歌)』である。空をかける太陽と、輝く選手達を掛けて覇気を歌い上げる見事な歌詞と美しい曲調で知られ、阪神ファンのみならず、プロ野球ファンの間で最も有名な応援歌とされる。特に阪神地域では、野球に興味が無かったり、他球団のファンであっても歌う事が出来るほどである。歌詞の冒頭をとって六甲颪(ろっこうおろし)と呼ばれる。
- 球団マスコットは次の2人である。ともに、チーム名「タイガース」にちなんで虎をモチーフとしている。初期のトラッキーには初登場の年を表す背番号があったが、背中には名前を書くようになり、初登場の年は胸番号に移行した。なお、親会社の阪神電気鉄道およびその関連企業のマスコットとしても使われている。
- ホームゲームでは本拠地である阪神甲子園球場を使う事が多いが、1948年のフランチャイズ制仮導入までは、ホームゲームを本拠地で行う習慣はなく、甲子園球場や後楽園球場、西宮球場などの中から日程上都合のいい球場を選んで行っていた。又、フランチャイズ制導入後も、甲子園球場のナイター設備が導入されるまでは大阪球場でナイターを行うなど、他球場での主催試合も行った。また、大阪ドーム(2006年7月1日より「京セラドーム大阪」)でも1997年の開場から主催試合を行っているが、2005年から2007年までの3年間は準本拠地として使用する。甲子園球場以外での主催試合でも関西を中心とした西日本を主にしている事が特徴である。
- 大阪ドーム開場以前は、1988~90年にはグリーンスタジアム神戸(現:スカイマークスタジアム)、91~96年には西宮球場で年間数試合が行われた。
- 現在では、大阪ドームの他に倉敷マスカットスタジアムや松山坊ちゃんスタジアム(2007年は主催試合なし)で年1~2試合程度主催試合を行う。以前は西京極球場でも毎年一試合を行っていたが、2005年(西武戦)を最後に主催試合を行っていない(2006年は一試合を予定していたが甲子園球場に振りかえ、2007年はオープン戦すら行っていない)。
- 選手寮は兵庫県西宮市の虎風荘であり、隣接するファームの本拠地阪神鳴尾浜球場と合わせて「タイガースデン(Tigers Den、虎の穴)」と称する。当初は、虎の穴とガーデンとを掛け合わせて「タイガーデン(Tiger Den)」としていたが、タイガー魔法瓶との商標権の関係で、2003年末に改称した。
- 監督はチームの生え抜き選手が就任する事が多いが、優勝から遠ざかっていた1960年代には藤本定義が、低迷が続いた近年は野村克也、星野仙一といった他球団の監督として実績を残した人材を起用することにより、両時期とも低迷を脱した。
- セントラル・リーグでは唯一の関西の球団である。1リーグ時代には南海ホークス、阪急ブレーブスなども関西の人気チームであったが、2リーグ分立後は読売ジャイアンツの試合は常にテレビ中継が行われるようになり、同一リーグのために日本シリーズや交流戦以外でも巨人と対戦するタイガースは、関西の野球ファンの人気を一身に集めるようになった。そのため、読売新聞系の「スポーツ報知」を除く関西版のスポーツ新聞の1面を飾る事が多い。
- 巨人と阪神の設立当時の名称は東京ジャイアンツと大阪タイガースであり、「アンチ東京」という意味で阪神タイガースは関西を代表する団体といえる。
- ドラフト会議においては、長期的視野を要する高校生よりも大学生、社会人選手を進んで取る傾向にあり、逆指名制度、自由獲得枠、希望選手枠といった即戦力を獲得するための制度を最も積極的に使っているため、選手の平均年齢が比較的高い。しかし、2004年ドラフト会議において指名した辻本賢人はドラフト会議史上最年少の15歳であり、球界関係者を驚かせた。
- 1985年10月16日に関西テレビ放送が放映した阪神戦(明治神宮野球場でのヤクルト戦で、21年ぶりの優勝が決まった試合)の関西地区での視聴率は56.7%(ビデオリサーチ調べ)。これは関西地区におけるプロ野球中継の最高視聴率である。
[編集] 球団の伝統
- 時代に合わせて本拠地球場・応援歌など球団のあり方を変化させてきた読売ジャイアンツなどの他球団に対し、タイガースは常に伝統を重んじるとして大きな変更が行われないのが伝統となっている。
- 球団名「タイガース」は、戦前戦中の英語が使用出来なかった時期を除き、一貫して使われてきた愛称である。戦前のプロ野球チームでは「セネタース」「イーグルス」などの愛称があったが、球団の消滅にともないこれらの愛称もなくなり、現在でも使われているものは、「ジャイアンツ」と「タイガース」だけである。ただし、2005年に「イーグルス」が復活した。
- 球団歌、『阪神タイガースの歌』(六甲おろし)は球団結成と同時に『大阪タイガースの歌』として作られたもので、戦前から現在まで用いられている球団歌は他にない。他球団の応援歌は、歌詞に問題があったり、球団が消滅するなどして、いずれも現在では使われていないが、『大阪タイガースの歌』だけは、歌詞中の大阪タイガースという単語を阪神タイガースに変えただけで現在も使われている。なお、歌詞の中で連呼される感嘆詞「オウ」は大阪タイガースの「大」に掛けたものであるが、掲示板によると、球団名を改めた後もそのまま残った。
- 阪神甲子園球場は球団結成時からの本拠地であり、現在のプロ野球で本拠地となっているものの中では最古である。元々は高校野球で使用する事を目的として造られた球場だが、甲子園球場を傘下に持つ阪神電鉄の球団という事で、阪神タイガースの本拠地となり、現在にいたっている。
- プロ野球最初の公式リーグ戦である1936年春から現在まで戦争による中断を除いた全公式シーズンに参加しており、かつ創立当時から親会社が変わっていないのはタイガースのみである。同様の球団は他に読売ジャイアンツがあるが、アメリカ合衆国遠征のために1936年春のシーズンを欠場している。タイガースのように、非常に長い期間経営母体がかわらずに存続するプロ野球チームというのは、世界的にも極めて少ない。テレビ中継などでは阪神巨人戦は「伝統の一戦」と紹介される。
- 球団旗も結成当初から黒と黄色の横縞に、左上に赤い丸で囲まれた猛虎のマークが使われているが、1984年に虎のイラストと丸の大きさが変更され、「HANSHIN Tigers」の球団ロゴが付け加えられるというマイナーチェンジが施されただけである。しかし、版権という概念が確立されていなかった1960年代には他球団も含めていい加減な扱われ方をされており、正面を向いた猛虎のイラストが黄色い丸で囲まれた球団旗も当時出版された選手名鑑などで見受けられる。また、ホーム用ユニフォームの胸に描かれる"Tigers"の書体も、1960年に細部が変更されたのみで創設以来一貫して使用され続けている。
- タイガースが全選手・監督・コーチをそろえて毎年キャンプイン前の1月に広田神社(武運長久⇒優勝を祈願)に参拝する行事は、球団創立時からの伝統である。又、現在では、開幕前の3月に西宮神社(商売繁盛⇒球団収益を祈願)に参拝する事も伝統的な行事となっている。
[編集] 阪神ファン・応援スタイル
阪神ファンを参照
[編集] ユニフォームの変遷
- 1936年~1940年 球団創設時は「Tigers」2種類、「OSAKA」1種類のユニフォームを使用。縞帽子はこの頃から登場している。ロゴは黒で縁取りは黄色。
- 1940年~1944年★ 軍部の指導によりロゴを「阪神」に変更。1944年からは国防色の採用が義務付けられ、グレーの縦縞が廃止される。ホーム用はラインを廃止(袖の猛虎マークは消滅しなかったが戦後に入ってからいったん消滅している)。
- 1945年~1948年 戦前期の縦縞ユニフォームを復活。しかし、耐用期間が短くわずか3年間で廃止された。
- 1947年~1951年 縦縞なしの無地で前立てライン付きのユニフォームを採用。2リーグ分裂後も使用されたが1951年夏で廃止。
- 1948年~1949年★ ユニフォームの生地に濃紺を採用。
- このユニフォームは縦縞の生地が手に入らなかったために間に合わせで作られたものだが、第1次ダイナマイト打線の時代と重なったこともあって老若男女問わずファンの認知度は高い。
- 1951年~1953年 オールスターを境に前立てラインのないユニフォームに変更。ホーム・ビジターともに同一スタイル。
- 1953年~1960年 伝統の縦縞と白地の縞帽子が復活。
- 1954年 ビジター用のロゴが「OSAKA」となる。
- 1958年★ ロゴの黄色の縁取りがなくなる。ホーム用の白地の帽子とストッキングを廃止し、ビジター用と同じものに統一。
- 1960年 ホーム用ユニフォームの「Tigers」の書体変更。胸番号を採用。帽子のマークをOからOTに変更。
- 1961年~1965年 球団名改称によりビジター用ユニフォームを「HANSHIN」に変更。帽子はHTマークに。
- 1962年夏からビジター用胸番号は背番号と同じ丸い字体に。
- 1965年~1973年★ 襟・袖・パンツに太いラインが登場。背番号書体変更。
- 1970年 虎のワッペンが変更され、背中に名前が入る。背番号書体変更。
- 1972年 HTマークのTが白、Hが黄色となる。
- 1974年~1975年★ それまでの黒に加えて黄色のストライプを採用。ビジター用は1年間のみの使用だったが、1975年からギザギザラインが登場し、派手な印象となった。このユニフォームからニットで作られるようになる。帽子のHTマークのデザインも変更され、従来よりやや大きめの現在の形となる。
- 1975年~1978年★ ホーム用にギザギザラインが登場。また、ビジター用がグレーからブルーに変更される。ブルーの生地は1983年まで使用された。なお、2006年の交流戦での阪神主催試合では、この復刻版ユニフォームを使用。
- 1979年~1981年 プルオーバー・タイプ初登場。黒と黄色のノーマルラインに変更。同時にホーム用からパンツのラインが消え地味な印象となった(ビジター用は1983年まで使用)。また、この年からストッキングの黄色のストライプも廃止され、黒一色となっている。なお、2005年の交流戦での阪神主催試合と2006年の交流戦のビジター用では、この復刻版ユニフォームが使用され、交流戦終了後にチャリティーオークションに出された。
- 1982年~1987年 黄色を排してモノトーンスタイルと縞帽子を復活。また、1984年からホーム用の背番号の書体が角型となる。同時にビジター用もグレーの縦縞となった。
- 1988年~1990年 ボタン・タイプのユニフォームが登場。ビジター用のHTマークが白色から銀色に変更される。
- 1991年~2000年 1985年優勝時のプルオーバー・タイプが復活。ホーム用の縞帽子が1999年限りで廃止され、2000年からビジター用の黒帽子に統一された。
- 2001年~2006年 プルオーバータイプに代わって、ボタン付きプルオーバータイプ(ボタンが外れるのは上から数個、後の残りはダミー)を採用。ビジター用デザインが大きく一新され、サンディエゴ・パドレス風のスタイルとなった。背中のネームを廃止し、左袖の虎のマークをモノトーンに変更。しかし背中のネームは2年後に復活し、虎のマークは1年でカラーに戻っている。2004年からは球団のスポンサー企業である上新電機のロゴ『Joshin』が右袖に入るようになった。なお、左袖の虎のマークは2005年の1年間に限りホーム・ビジターとも70周年記念ロゴに変更されている。
- 2007年~ 前年までのユニフォームに引き続き、ボタン付きプルオーバータイプを採用。ホーム用にはチームカラーである黄色が1981年以来久々に取り入れられ、袖の下(わき腹にあたる部分)には黒色を配したデザインとなった。ビジター用は前年まで用いられてきたラケットラインを廃止し、ホーム用と同じくわき腹部分に黒色を配したデザインとなる。背番号の書体が丸みを帯び、1962年夏~65年まで使用された書体(いわゆる“オタマジャクシ”)を彷彿させるデザインとなった。帽子もデザイン変更が行われ、ホーム用が2005年・2006年の交流戦でも使用された1974年~1981年(ビジター用は1983年)タイプが復活、ビジター用は従来の黒帽子のつばのフチに白のラインが入れられている。なお、素材は従来のものに比べ軽量化が施されており、更に防汚性に強い素材となった。
- 年代の後に★がついているものに関しては、阪神タイガース公式サイト内・T-SHOPと以下の阪神タイガースショップにて「クラシックコレクション」として復刻版ユニフォームが販売されている。
- なおデザインの詳細は阪神タイガース公式サイト内・綱島理友のユニフォーム物語を参照のこと。
[編集] スポンサー
セ・リーグでは、各球団の申し合わせにより、2002年度からホーム用ユニフォームに限定して、スポンサー広告を掲載できるようになった。
[編集] 歴代本拠地
- 1936年~現在 阪神甲子園球場(1936年から1963年までは甲子園球場、1964年から現球場名に変更)
- ※2005~2007年は、兵庫県のオリックスが大阪府の近鉄を吸収合併した事によるダブルフランチャイズ問題の暫定処置として、大阪ドーム(2006年7月1日から「京セラドーム大阪」に変更)を準本拠地として使用する事が認められている。このため、高校野球で阪神甲子園球場が使えない時期などには、大阪ドーム(京セラドーム大阪)で主催試合を行う。(実際はドーム開場年から毎年使用している)
2軍の本拠地は阪神鳴尾浜球場(同県同市)を使用している。尚、阪神甲子園球場と鳴尾浜球場は互いに徒歩圏内にあり、2軍の選手も1軍から声がかかれば自転車でもすぐにファーム本拠地から1軍本拠地に行く事ができ非常に利便性が高い。12球団の中でも1軍の本拠地とファーム本拠地間の距離は西武ライオンズの次に短く、互いの球場を徒歩で行き来出来るのも12球団の中では阪神と西武の2球団のみである。
[編集] 歴代監督
※太字は優勝達成監督を表す。登録上の監督ではなく、監督代行など実際の指揮権を持っていた者を記す。
- 森茂雄(1936年春~1936年夏)
- 石本秀一(1936年秋~1939年)
- 松木謙治郎(1940年~1941年【第1次】)※1
- 若林忠志(1942年~1944年【第1次】)
- 藤村富美男(1946年【第1次】)※2
- 若林忠志(1947年~1949年【第2次】)
- 松木謙治郎(1950年~1954年【第2次】)
- 岸一郎(1955年)
- 藤村富美男(1955年~1957年【第2次】)
- 田中義雄(1958年~1959年)
- 金田正泰(1960年~1961年【第1次】)※3
- 藤本定義(1961年~1965年【第1次】)
- 杉下茂(1966年)
- 藤本定義(1966年~1968年【第2次】)
- 後藤次男(1969年【第1次】)
- 村山実(1970年~1972年4月21日【第1次】)
- 金田正泰(1972年4月22日~1974年【第2次】)
- 吉田義男(1975年~1977年【第1次】)
- 後藤次男(1978年【第2次】)
- ドン・ブレイザー(1979年~1980年)
- 中西太(1980年~1981年)
- 安藤統男(1982年~1984年)
- 6月13日~6月15日は佐藤孝夫が監督代行
- 吉田義男(1985年~1987年【第2次】)
- 村山実(1988年~1989年【第2次】)
- 中村勝広(1990年~1995年7月23日)
- 藤田平(1995年7月24~1996年9月11日)
- 柴田猛(1996年9月12日~1996年末)
- 吉田義男(1997年~1998年【第3次】)
- 野村克也(1999年~2001年)
- 星野仙一(2002年~2003年)
- 岡田彰布(2004年~)
- ※1 ここから阪神
- ※2 ここから大阪タイガース(第2次)
- ※3 ここから阪神タイガース
[編集] 永久欠番
- 球団初の永久欠番を与えられた藤村は球団創設時に入団し、兵役でチームを抜けた時も欠番となっていたため、藤村以外にタイガースで#10をつけた者は存在しない。日本プロ野球において、ただ1人だけが付けた永久欠番は、藤村の#10だけである(現存するチームにおいて。なお2005年創設の東北楽天ゴールデンイーグルスを除く)。「藤村の前に藤村なし、藤村の後に藤村なし」といわれる所以であり、彼がタイガース最大の功労者である証であろう。
- 阪神一筋・不滅の大エース。1960年代・1970年代の阪神は、村山の存在なくしては語れない。1959年の天覧試合での巨人・長嶋茂雄との名勝負や、1970年には、先発投手でありながら、シーズンを通して防御率が1点を切る不滅の大記録(0.98)など、記録にも記憶にも残る名投手であった。
- 吉田の背番号#23については、球史に残る名遊撃手の番号を付けるに値する実力を持った選手がいないとして、吉田が引退した1970年以降欠番となっていたが、監督としての球団史上初の日本一への貢献などが評価され、1987年に永久欠番となった。
- タイガースにおいて、その功績をたたえて永久欠番が認定されているのは上の3名のみである。
[編集] 欠番扱い
- 1993年に所属した松永浩美が背負った02番については(入団当初は2番だがシーズン途中から02番になる)、現在は日本野球機構が0と00を除く0番台と100番台以上の番号を(支配下登録選手の背番号としては)使わない方針に変更されたため、今後使用される事はないと考えられる(なお、西武ライオンズではチームスタッフの背番号として0番台の背番号が使われている。また、マンガドカベンプロ野球編では、マンガなので、実在の背番号と重ならないように01, 02, 03, 04, 05が使われている)。
- この他、正式な永久欠番ではないが、星野仙一(前監督・現シニアディレクター)の#77についても、タイガースを建て直し2003年にリーグ優勝を果たした功労者として称えるため、事実上欠番とすることを当時の球団社長が述べている。
[編集] ノーヒットノーラン達成者
阪神には球団史上9人の投手がこれまでにノーヒットノーランを達成している。
| 年月日 | 選手名 | スコア | 相手 | 球場 |
| 1940年8月3日 | 三輪八郎 | 1-0 | 巨人 | 大連 |
| 1946年6月16日 | 呉昌征 | 11-0 | セネタース | 西宮 |
| 1948年8月24日 | 梶岡忠義 | 3-0 | 南海 | 神宮 |
| 1952年5月7日 | 真田重男 | 12-0 | 広島 | 甲子園 |
| 1965年6月28日 | G.バッキー | 7-0 | 巨人 | 甲子園 |
| 1973年8月30日 | 江夏豊 | 1-0 | 中日 | 甲子園 |
| 1992年6月14日 | 湯舟敏郎 | 6-0 | 広島 | 甲子園 |
| 1998年5月26日 | 川尻哲郎 | 2-0 | 中日 | 倉敷 |
| 2004年10月4日 | 井川慶 | 1-0 | 広島 | 広島 |
- 特に江夏のケースは11回裏に自らサヨナラホームランを放ちノーヒットノーランを達成するという名勝負となった。延長でのノーヒットノーランはこれが唯一の記録である。
- 完全試合についてはまだ誰も達成していない。
- これまでノーヒットノーランを記録したシーズンはいずれも優勝を逃している。