大正デモクラシー
大正デモクラシーとは日本の大正時代に現れた政治・社会・文化の各方面における民主主義、自由主義的な運動を指す。何をもって「大正デモクラシー」とするかの定義については諸説あり、その定義によって大正デモクラシーと呼称される期間も1905年-1925年とする説、1918年-1931年とする説、1905年-1931年とする説など諸説あるが、いずれも大正天皇の在位期間(1912年-1926年)を中心とし1918年の第一次世界大戦の終了と富山県で発生した米騒動をデモクラシー運動はじまりの中核として取り上げる点については共通している。
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[非表示]概要[編集]
大正デモクラシー運動(あるいは単に大正デモクラシー)は、大正時代に興った日本全体を巻き込む民主主義的あるいは自由主義的な風潮・思潮の総称であり、政治面においては普通選挙制度や言論・集会・結社の自由に関しての運動、外交面においては侵略戦争や植民地支配の停止を求める運動、社会面においては男女平等、部落差別解放運動、団結権、ストライキ権などの獲得運動、文化面においては自由教育の獲得、大学の自治権獲得運動、美術団体の文部省支配からの独立など、様々な方面から様々な自主的集団による運動が展開された。
「大正デモクラシー」という名称は信夫清三郎(信夫淳平三男、歴史学者)が1954年に自著でその呼称を提唱して以来定着したものである。ただし第二次世界大戦以後の造語であり、その定義や内容も曖昧であることなどから歴史用語としての「大正デモクラシー」を不適当であると否定する説も少数ではあるが存在する。
背景[編集]
日露戦争における日本の勝利はアジア諸国における国際的緊張関係の緩和要因となり、1905年には東京で中国同盟会が結成されるなど民主主義的自由の獲得を目指した運動が本格化していった。一方、資本主義の急速な発展と成長は日本の一般市民に政治的・市民的自由を自覚させ、様々な課題を掲げた自主集団が設立され自由と権利の獲得、抑圧からの解放に対して声高に叫ばれる時代背景ができ上がっていった。
このような状況の中で1911年に中国・四川省で発生した鉄道国有化の反対運動をきっかけとして、先述の中国革命同盟会が清朝に対し独立を宣言して中華民国を建国した(辛亥革命)。この中国情勢の混乱を勢力圏拡大の好機と判断した陸軍大臣の上原勇作は、当時の第三次西園寺公望内閣に対し朝鮮半島に2個師団を新設するよう提言した。しかし西園寺は日露戦争を要因とした財政難や国際関係の問題などを理由に拒否した為、上原は軍部大臣現役武官制を利用して西園寺内閣を内閣総辞職へ追い込み、陸軍主導の内閣を成立させようと画策した。
こうした背景の中、藩閥出身で陸軍の影響力が強い第三次桂太郎内閣が組閣された。この桂内閣に対し国民は怒り、また衆議院議員の尾崎行雄や犬養毅らは藩閥政治であるとして桂内閣を批判し1912年、「閥族打破・憲政擁護」を掲げた第一次護憲運動が展開され第三次桂太郎内閣は組閣してからわずか53日で内閣総辞職に追い込まれた(大正政変)。続いて設立された立憲政友会を与党とする山本権兵衛内閣は軍部大臣現役武官制の廃止など陸海軍の内閣への発言力を弱める改革に着手したが、海軍高官の贈賄事件(シーメンス事件)の影響により再び国民の怒りを買い1914年に内閣総辞職を余儀なくされた。
その頃、サラエボ事件をきっかけとして第一次世界大戦が勃発すると第二次大隈重信内閣は日英同盟に基づいてドイツに宣戦布告し、第一次世界大戦に参戦する。これは日本の国際協調気運を高め、民主主義的な運動・自由主義的な運動をさらに激化させることとなった。
大正デモクラシーの流れ[編集]
民本主義と天皇機関説[編集]
1913年、石田友治らによって言論雑誌「第三帝国」が刊行され、また1916年には東京帝国大学の吉野作造により民本主義による政治が提唱された事を背景に、次第に普通選挙運動が活発になっていった。また美濃部達吉は天皇機関説を提唱し、国家が統治権の主体であるべきと主張し政党内閣制を支持した。この説に対して上杉慎吉は天皇主権説の立場から批判を行ったが、天皇機関説は議会政治を実現する上での憲法解釈上の大きな根拠として度々取り上げられるようになった。
また東京帝国大学出身の吉野・美濃部の両人に加え、中央大学出身の長谷川如是閑や早稲田大学出身の大山郁夫といったジャーナリストや学者の発言も在り方に大きな影響を与えた。
米騒動~日本初の本格的政党内閣[編集]
1917年のロシア革命に端を発し、寺内正毅内閣により1918年7月12日にシベリア出兵宣言が出されると需要拡大を見込んだ商人による米の買占め、売惜しみが発生し米価格が急騰した。
そのような中、富山県で発生した米問屋と住民の騒動は瞬く間に全国に広がり(米騒動)米問屋の打ち壊しや焼き討ちなど2ヶ月間に渡り頻発した。戦争による格差の拡大、新聞社に対する言論の弾圧などの問題を孕んだこの騒動は1918年9月21日、寺内内閣の総辞職をもって一応の収まりを見せ「平民宰相」と呼ばれた原敬による日本で初めての本格的な政党内閣が9月27日組織されるに至った。
第二次護憲運動[編集]
1923年12月27日に発生した難波大助による摂政裕仁親王狙撃事件(虎ノ門事件)により当時の第二次山本権兵衛内閣は総辞職に追い込まれ、枢密院議長であった清浦奎吾内閣が発足した。しかし清浦内閣はほぼ全ての閣僚が貴族院議員から選出された超然内閣であり、国民の間で再び憲政擁護を求める第二次護憲運動が起こった。その結果立憲政友会・憲政会・革新倶楽部の護憲三派からなる加藤高明内閣が成立し、普通選挙法が制定され財産(納税額)によって制限される制限選挙から満25歳以上全ての男子に選挙権が与えられることとなり、普通選挙が実現した。しかし同時に共産主義思想の拡大を防ぐため治安維持法も成立し、国民の運動に対し規制がかけられる形となった。
後世の評価[編集]
大正デモクラシーは戦後民主主義を形成する遺産として大きな意味を持ったと指摘する論者もライシャワーをはじめ数多い。また、石橋湛山は自著『大正時代の真評価』において大正時代を「デモクラシーの発展史上特筆大書すべき新時期」と評価している。
昭和期にはいると軍部の台頭により日本の民主主義は後退するがその思想は受け継がれ、日本が民主的な国家に移行する起点となった。
参考文献[編集]
- 太田雅夫『増補 大正デモクラシー研究-知識人の思想と運動』、新泉社、1990年5月
- 鈴木正節『大正デモクラシーの群像』、雄山閣、1983年2月
- 住谷悦治ほか編『大正デモクラシーの思想』(『講座・日本社会思想史』2)、芳賀書店、1967年1月
- 松尾尊兌 『大正デモクラシーの研究』(『歴史学研究叢書』)、青木書店、1966年6月
- 松尾尊兌 『大正デモクラシー』(『同時代ライブラリー』184)、岩波書店、1994年5月
- 坂本多加雄『近代日本精神史』、2005年
- 今井清一『日本の歴史〈23〉大正デモクラシー』、2006年
関連項目[編集]
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