福井県

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福井県
国/地方 日本の旗 日本 
団体コード 18000-9
ISO 3166-2:JP JP-18
面積 4,188.99(34位) km²
境界未定:なし
総人口 821,589(43位)
( 2005年国勢調査)
人口密度 - 人 /km²
隣接都道府県 京都府滋賀県岐阜県石川県
県の木
県の花 水仙
県の鳥 つぐみ
他のシンボル 県の魚:越前蟹
県の歌:福井県民歌
ふるさとの日:2月7日
知事 西川一誠
都道府県庁
所在地 〒910-8580
福井県 福井市大手3丁目17番1号
外部リンク http://www.pref.fukui.jp 福井県庁
位置
福井県の位置
特記事項:
ファイル:Fukui-pref.png
市町村境界図
テンプレート
福井県の位置(紫で表示されているのが福井県)

福井県(ふくいけん)は、若狭湾に面する、日本の一つである。

県庁所在地福井市

概要[編集]

山中峠~木ノ芽峠~栃ノ木峠の稜線を境にして、北側の嶺北越前地方と、南側の嶺南若狭地方より構成される。

越前の緑豊かな山々と、若狭の清らかな水の流れに代表されるように、自然が美しい場所であり、それを代表する語に越山若水(えつざんじゃくすい)がある。

一般的には、北陸地方近畿地方の、両方に分類される事が多い。しかし、中央省庁や企業のエリア区分では、北陸地方に入れられる場合、近畿地方に入れられる場合、中部地方に入れられる場合の3パターンが混在している。これらのエリア区分については「#福井県の分類」を参照すること。

2006年3月上旬以後は、嶺南が福井県から離脱して、道州制でも嶺南は近畿州に加入しようという動きが出始めている。

地理[編集]

気候[編集]

嶺北の山間部(奥越前地区)は全国屈指の豪雪地帯であり、年間の降水量は多い時に3000mm以上に達する。ただし、近年は暖冬傾向で、降水量は昔に比べ減少しつつある。

一方で、沿岸部では対馬暖流の影響により、冬でも比較的暖かく、よりもの日が多い。このために、「弁当忘れても傘忘れるな」という天気の格言が存在する。

地形[編集]

嶺南の海岸線はリアス式海岸として有名である。

自然公園[編集]

白山国立公園
越前加賀海岸国定公園若狭湾国定公園
奥越高原県立自然公園

隣接府県[編集]

福井県の分類[編集]

全域を一括する場合[編集]

中央省庁や民間企業の管轄は、北陸地方に入れる機関、近畿地方に入れる機関、中部地方に入れる機関が混在している。特に中央省庁には、同一省庁内の部局でも、エリアが異なる場合がある。

福井県から富山県までの3県を北陸地方とする機関や、福井県から新潟県までの4県を北陸地方とする機関や、福井県から長野県までの5県を北陸地方とする(この場合は「北信越」と呼ばれる事もある)機関もある。
若狭は元より、越前のうち越前岬以南も若狭湾に面している。この為、福井県全域が近畿地方の一部として見なされる事もある。又、福井県を含めて8府県同士の地方内交流も盛んである。尚、中央省庁のエリア区分では、福井県と滋賀県が含まれる一方で、三重県が外される場合がある。
福井県を濃尾と一緒に中部地方に編入する場合、「中部」と呼ばれたり「東海北陸」と呼ばれたりする場合がある。又、三重県と福井県が中部に入れられる一方で、結節地域である滋賀県が外される場合がある。尚、地区本部の所在地は、名古屋である場合が多い。

県を分割する場合[編集]

木ノ芽峠を境に分割して、若狭を近畿地方に入れて、越前を北陸地方に入れる機関もある。

歴史[編集]

※ 地域ごとの歴史は「越前国」「若狭国」を参照すること。

原始・古代[編集]

旧石器時代
  • 県内には遺跡が各地に点在しており、数万年以上前から人が住んでいた事が窺える。各遺跡からは多数の石器が出土している。
縄文時代
  • 鳥浜貝塚(若狭町)からは縄文式土器をはじめ竪穴式住居跡や丸木舟、弓矢、土器に模様をつけるための縄などが出土している。その他、県内各地の遺跡からも多くの遺物が出土し、土器の形式から畿内飛騨国などの地域との交流があったことがうかがえる。
弥生時代
  • 前期頃には稲作が伝わったとみられ、それを窺わせる土器が出土している。
  • 金属器、玉、布の生産も行われていたようである。嶺北は銅鐸が出土した日本海側の北限である。
  • 中期頃には首長の墓が作られ始め、後期後半になると大型化してくる。
古墳時代
  • 4世紀初め頃には嶺北前方後円墳がつくられはじめ、4世紀中頃からは九頭竜川中流域で大規模な古墳がつくられはじめる。手繰ケ城山古墳(4世紀末)や六呂瀬山古墳群(4世紀後半~5世紀前半)などは北陸地方最大規模であり、この地域が強大な勢力を持っていた事がうかがえる。
  • 5世紀になると嶺南でも主に若狭町付近で前方後円墳がつくられはじめる。
  • 5世紀後半から6世紀にかけて若狭、高志、三国、角鹿の国造が分立した。三国国造があった地域は、継体天皇がその即位まで過ごしたとされている。現在の嶺北出身である継体天皇がヤマトの大王として迎え入れられたことが契機となって、ヤマトの勢力と越国の勢力とが合一した。
  • 570年574年高句麗使が越国近辺に来着する。
  • 継体天皇以来、古墳に船と馬の埴輪が埋葬されるようになり、日本は後期古墳時代となる。
  • 6世紀後半以降は前方後円墳に代わって小規模な円墳群集墳がつくられはじめるが、7世紀になると古墳自体つくられなくなる。

飛鳥時代から平安時代まで[編集]

飛鳥時代奈良時代
  • 7世紀後半頃には律令制の導入に伴い「若狭国」が成立したと見られ、7世紀末には「越前国」が成立したと考えられる。
  • 若狭国は若狭湾で精製した塩を調(地方特産物を納税)として都に納めていた。現在も製塩遺跡が残る。
  • また調とは別に(にえ)と呼ばれる海産物を直接天皇家に貢いだことが平城京の木簡や延喜式から分かっている。これにより若狭国は万葉集にでてくる「御食国」の一つと推定されている。
  • 749年東大寺が越前国の豪族から土地の寄進を受け、また墾田を買収して、福井平野に多くの荘園を獲得する。この頃には条里制が布かれる。現在でも福井平野には条里遺構が存在する。
  • 8世紀になると渤海との交流が盛んになり、若狭国や越前国は渤海使の来航や遣渤海使の派遣の拠点となる。8世紀後半には交易が中心になる。
  • 764年、クーデターに失敗した恵美押勝藤原仲麻呂)が越前国に逃れようとするも愛発関が閉じられたため失敗する(恵美押勝の乱)。
平安時代
  • 10世紀になると越前国の東大寺領荘園は荒廃し、代わって皇室領、摂関家が中心になる。
  • この頃は泰澄の開基とされる白山信仰が盛んになり、11世紀末にはその拠点である平泉寺(勝山市)が延暦寺の末寺になり興隆する。
  • 10世紀末に人が来航し交易が行われるようになる。特に院政期以降は敦賀津などを中心に貿易が盛んに行われるようになる。
  • 11世紀末より主に院分国となり、保元平治の乱以降は平氏の知行国となる。
  • 源平の戦いにおいて、越前国では斎藤氏など多くの武士が木曽義仲に味方する。しかし、その後の東国御家人中心の鎌倉幕府の下では、地頭に任命される越前、若狭の国御家人たちはいなかったようである。

鎌倉時代から室町時代まで[編集]

鎌倉時代
  • 島津氏後藤氏等が守護職に任ぜられる。
  • この頃になると廻船業が発達し、敦賀津や小浜津、三国湊などが整備され、海上交易が盛んになる。また、それらの港は年貢を京に輸送するための拠点ともなる。
  • 1243年には、道元が越前国志比庄にある吉峰寺(永平寺町)に入り、翌年に大佛寺(後の永平寺)を創建する。
  • 13世紀末以降には高田系浄土真宗が越前国北部を中心に広まる。
室町時代
  • 1336年足利尊氏の入京により恒良親王尊良親王を奉じて北陸落ちした新田義貞金ケ崎城(敦賀)に入るが、越前国守護斯波高経の軍勢により翌年落城する。義貞は脱出するも、1338年に越前国藤島燈明寺畷(福井市新田塚)にて戦死する。この後も越前国内は戦乱が続き1341年、北朝方が平定する。この後、主に斯波氏が越前国の守護となる。しかし、実質的に越前国を統治していたのは守護代甲斐氏であった。
  • 若狭国では南北朝時代には守護の交代が頻繁に行われるが、1366年一色氏が守護となり、国人一揆を抑えて若狭を支配する。しかし、1440年、一色氏の勢力拡大を恐れた将軍足利義教武田氏を守護に任命する。武田氏は一色氏残党や一揆を抑えて若狭を支配する。
  • 15世紀後半になると斯波氏と甲斐氏の対立が深まり、やがて越前国内で内乱が起きる。最終的には幕府の支援を受けた甲斐氏が勝利するものの、応仁の乱時、朝倉孝景が台頭、甲斐氏に代わって越前国を掌握する。後に朝倉氏戦国大名として勃興する。

戦国時代から江戸時代まで[編集]

戦国時代
  • 1471年蓮如が越前国吉崎に入り吉崎御坊を建立、北陸地方における本願寺系浄土真宗の布教拠点となる。その後、一向一揆が相次ぐこととなる。
  • 1506年加賀国から本願寺門徒らが侵入する。しかし、朝倉教景(宗滴)指揮する朝倉方はこれを九頭竜川で迎え撃ち勝利する(九頭竜川の戦い)。
  • この後、朝倉氏は本願寺系浄土真宗を禁圧する。そのため、多くの本願寺門徒や僧は加賀国に逃れる。そして、たびたび越前国に侵入することになる。
  • 16世紀以降、若狭国では内乱が相次ぎ武田氏は次第に弱体化する。また、朝倉氏が武田氏支援のため若狭国に軍事介入するようになる。
  • 足利義秋(義昭)が上洛を果たすため、1566年に武田氏を頼って若狭国に、1567年には朝倉義景を頼って越前国に入る(この時、義昭に改名)。しかし、上洛を果たせず、1568年織田信長を頼って美濃国に出国してしまう。
  • 1568年、朝倉氏が若狭国に侵攻する。
  • 1569年、将軍義昭は台頭してきた織田信長を封じるために本願寺と朝倉氏を和睦させる、この時、本願寺系浄土真宗の禁圧も解かれる。また、武田信玄らとも連携をとる(反信長包囲網の形成)。
  • 1570年4月、信長が朝倉攻めを開始し、金ヶ崎城などを開城させる。しかし、浅井長政の離反により京に撤退する(金ヶ崎の退き口)。
  • 1570年9月、信長が大坂、野田・福島で三好三人衆や本願寺と交戦している最中、義景が兵を率い、浅井・朝倉連合軍が3万の軍勢で京に攻め上り、京の口、比叡山に築城する。六角氏の挙兵などもあり、信長は孤立するが、将軍義昭の仲介で講和が成立する(志賀の陣)。
安土桃山時代
  • 1573年8月、信長が刀禰坂の戦いを経て朝倉氏の本拠地である越前国一乗谷に侵攻、義景は大野に逃れるも家臣の裏切りにより自刃、朝倉氏は滅亡する。越前国は朝倉氏の旧臣に、若狭国は丹羽長秀に統治させる。
  • 1574年、朝倉方から織田方に寝返った武将同士で抗争が発生、それに乗じて一向一揆が蜂起する。本願寺門徒は武将や国人、平泉寺などを襲撃し、越前国を本願寺領国化する。
  • 1575年8月、信長が越前国に再侵攻し本願寺門徒や僧を弾圧、柴田勝家に越前北ノ庄をはじめ越前八郡を、金森長近らに越前大野郡を、不破光治佐々成政前田利家(府中三人衆)に越前府中二郡を与える。
  • 1583年清洲会議羽柴秀吉と柴田勝家の対立が深まり、賤ヶ岳の戦いにおいて秀吉が勝利、勝家の居城である北ノ庄城を攻め落とす。その後、丹羽長秀が越前の大半を、蜂屋頼隆が敦賀郡を、金森長近が引き続き大野郡を統治する。その後も領主の交替が相次ぐ。
  • 一方若狭では丹羽長秀が越前に移った後、木村隼人佐らが治めていたが、1585年には長秀の子丹羽長重の領地となり、1587年には浅野長吉(長政)が統治し、その後も領主の交替が相次いだ。
  • 1586年に若狭で、1598年には越前で太閤検地が実施され、結果、若狭が8万5000石、越前が68万石となった。
江戸時代
  • 越前国
    • 1600年関ヶ原の戦いの後、戦功第一の恩賞として結城秀康に越前一国および下野国結城郡75万石が与えられる(越前北ノ庄藩)。越前松平家は、将軍家徳川秀忠の兄弟の家ということから、制外の家または、御三家に次ぐ家という意味で四家とよばれる。のち、越前松平家は、美作国主として続いた。
    • 1623年、秀康の長男松平忠直狼藉を理由に豊後国荻原に配流される。そして、翌年には忠直の長男松平光長越後国に転封され、かわりに秀康次男で庶流の松平忠昌が越前の大部分を与えられ入封する。忠昌の越前入部の際には北ノ庄は福居(後に福井)に改称される。是が県名になったとされている。このとき越前は複数の藩に分割され、越前勝山藩大野藩丸岡藩などが成立。また、敦賀郡はいったん幕府領となった後、小浜藩領となり、後に小浜藩支藩の敦賀藩などが成立する。
    • その後、鯖江藩などが成立する。越前には幕府領や旗本領、国外の大名の領地もあり、多数の領主によって分割統治される状態が明治まで続いた。本来の藩主家である越前松平家は越後高田を経て美作津山藩主として幕末まで続き、越前には忠昌の子孫で傍系である福井藩主家松平家が残った。出雲松江藩主家や播磨明石藩主家、上野前橋藩主家などの大藩の藩主家も忠直の弟達から始まる越前松平家傍流にあたる。幕末期には、本、枝流あわせた越前松平家の総石高は、かるく100万石を超えていた。
  • 若狭国
  • 江戸時代前期は上方北国を結ぶ年貢米などの中継地として、小浜や敦賀の湊が多用された。
  • 江戸時代中ごろ以降は北前船が三国や敦賀に寄港し、蝦夷地大坂を結んでいた。小浜の古河、越前河野浦の右近などの北前船主が活躍した。
  • 1774年、小浜藩医である杉田玄白中川淳庵前野良沢らとともに「ターヘル・アナトミア」を翻訳し、「解体新書」を刊行する。
  • 幕末期には福井藩主である松平春嶽や福井藩士橋本左内、元小浜藩士の梅田雲浜らが活躍する。また、丸岡藩や小浜藩などが台場を建設する。

明治維新以後[編集]

明治維新から第二次大戦まで
第二次大戦後

姉妹州省・提携州省[編集]

人口[編集]

年齢構成[編集]

テンプレート:福井県/5歳階級別人口

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福井県と全国の年齢別人口分布(2005年) 福井県の年齢・男女別人口分布(2005年)
紫色 ― 福井県
緑色 ― 日本全国
青色 ― 男性
赤色 ― 女性

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福井県(に相当する地域)の人口の推移
テンプレート:人口統計/18
総務省統計局 国勢調査より

行政[編集]

  • 知事:西川一誠(2003年4月~)
  • 副知事:山本雅俊、飯島義雄
  • 出納長:旭信昭
  • 県議会議長:前田康博
  • 県議会
    • 議員 38名(議長も含めて)
    • 定例議会 2、6、9、12月の年4回開催

歴代知事(地方自治法施行後)[編集]

  • 初代 小幡治和(1947年4月16日~1955年2月4日 2期)
  • 2代  羽根盛一(1955年4月26日~1959年4月22日 1期)
  • 3代  北栄造(1959年4月23日~1967年4月22日 2期)
  • 4代  中川平太夫(1967年4月23日~1987年4月22日 5期)
  • 5代  栗田幸雄(1987年4月23日~2003年4月22日 4期)
  • 6代  西川一誠(2003年4月23日~)

「小児救急電話相談事業」の取り組み[編集]

2006年7月11日現在、小児救急の電話相談「小児救急電話相談事業」を実施している31都道府県の内、携帯電話等からの利用が容認されているのは福井県のみ。(残りの30都道府県は固定電話からのみ可能。)

経済[編集]

主な産業[編集]

  • 繊維産業
  • 楽器
  • 眼鏡産業
    • 鯖江市を中心に全国生産の90%以上を生産
  • 原子力発電
    • 敦賀市4機(内1機廃止措置中)、美浜町3機、おおい町4機、高浜町4機、計15機の原子炉

伝統工芸[編集]

国指定伝統的工芸品
福井県指定郷土工芸品

地域[編集]

健康[編集]

  • 平均寿命(2000年、実際は多少のずれがある)
    • 男 78.55歳(全国2位)
    • 女 85.39歳(全国2位)
    • 男女平均 81.97歳

インフラ[編集]

電力
都市ガス

自治体[編集]

以下の9市7郡8町、計17市町がある。町は「まち」ではなくすべて「ちょう」と読む。

嶺北[編集]

福井地区
坂井地区
奥越前(奥越)地区
丹南(南越前または南越)地区

嶺南[編集]

二州地区
若狭地区

市町村合併による動向[編集]

ファイル:GappeiChizu FukuiKen.png
平成の大合併による
2004年3月-2006年3月の合併状況

いわゆる平成の大合併が始まる前は7市11郡22町6村(計35市町村)であった。それ以前に消滅していたのは敦賀郡だけだったが、合併によって坂井・足羽・大野・遠敷の各郡が消滅し、大飯郡を除いて「一郡一町」となった。

勝山市池田町が現段階での合併を見送る方針であるほか、福井市の合併協議会から離脱した鯖江市も態度を保留している。

地域的特徴[編集]

※ 福井県分割論については、「嶺南#道州制」「都道府県#分割論が存在する地域」も参照すること。

福井県は若狭湾に面している為、全体的に、京都府(旧山城国、旧丹波国、旧丹後国)、滋賀県(旧近江国)、岐阜県南部(旧美濃国)との親和性が強く、近畿志向が強い。しかし、木ノ芽峠を境にして、嶺北(越前地方)嶺南(若狭地方)では、風土や地域的連関が大きく異なっている。

嶺北(越前地方)は、近畿の一部という意識に加えて、「越前」の字義が「越国の前の方」を意味する通り、北陸の一部であるという意識も見られ、石川県などとの繋がりも有る。

これに対して、嶺南(若狭地方)は、木ノ芽峠より南側に位置しており、滋賀県・京都府・岐阜県南部・奈良県との繋がりが深く、嶺北との繋がりが浅い点から、北陸ではなく近畿の一部であるという意識が強い。

廃藩置県以後の経緯を見ると、当初は嶺北は足羽県、嶺南は敦賀県という単独のだったが、1873年1月14日に足羽県と敦賀県は合併させられ、現在の福井県と同じ範囲で敦賀県とされた。1876年8月21日敦賀県が分割された時に、嶺北は石川県に編入され、嶺南は滋賀県に編入された。

しかし、1881年2月7日には、石川県から嶺北が分離されて足羽県が復活するが、この時に嶺南は滋賀県から分離され、嶺北と合併させられた。嶺南が滋賀県から分離された時、当時の篭手田安定・滋賀県知事が嶺南の分離に反対し、嶺南でも滋賀県への復帰運動が起こった[1]。この要因として、嶺南と滋賀県の両地域が、畿内京都奈良大阪)に近い為に、古くから畿内との交流が深い点を共有する為だと思われる[2]

福井県の発足から120年を過ぎた現在でも、嶺北の交通網は比較的早く整備されたのに対して、嶺南の交通網の整備は遅れている。実際に、敦賀から福知山を経由して阪神を結ぶ舞鶴若狭自動車道の全通は、2014年の予定になっている。

これらの経緯から、嶺南の敦賀市や小浜市では、市長たちが福井県からの分離を主張している。

高等教育機関[編集]

国立大学
公立大学
私立大学
私立短期大学
高等専門学校

交通[編集]

空港[編集]

鉄道[編集]

西日本旅客鉄道
えちぜん鉄道
福井鉄道
日本貨物鉄道
  • 北陸本線(敦賀~敦賀港間)(敦賀港線)(旅客輸送は臨時に行うことがある)
整備新幹線
未成線

道路[編集]

高規格幹線道路高速道路
一般国道
県道
一般有料道路

港湾[編集]

マスメディア[編集]

新聞[編集]

日刊新聞

テレビ局[編集]

ラジオ局[編集]

ケーブルテレビ[編集]

(→ケーブルテレビ局の一覧#福井県

有形文化財建造物[編集]

国宝
重要伝統的建造物群保存地区

県立文化施設[編集]

観光地[編集]

城郭
寺社
景勝地
その他

スキー場[編集]

  • IZUMIクロスカントリー
  • 今庄365
  • カドハラ
  • 雁が原
  • 九頭竜

縁の有る歴史上の人物[編集]

集団

脚注・出典[編集]

  1. 福井県史 嶺南四郡の復県運動
  2. 福井県史 滋賀県下の嶺南四郡

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

日本都道府県
北海道地方: 北海道
東北地方: 青森県 | 岩手県 | 宮城県 | 秋田県 | 山形県 | 福島県
関東地方: 茨城県 | 栃木県 | 群馬県 | 埼玉県 | 千葉県 | 東京都 | 神奈川県 | 山梨県
中部地方: 新潟県 | 富山県 | 石川県 | 福井県 | 長野県 | 岐阜県 | 静岡県 | 愛知県 | 三重県
近畿地方: 滋賀県 | 京都府 | 大阪府 | 兵庫県 | 奈良県 | 和歌山県
中国地方: 鳥取県 | 島根県 | 岡山県 | 広島県 | 山口県
四国地方: 徳島県 | 香川県 | 高知県 | 愛媛県
九州地方: 福岡県 | 佐賀県 | 長崎県 | 熊本県 | 大分県 | 宮崎県 | 鹿児島県 | 沖縄県


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