継体天皇
継体天皇 | ||
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第26代天皇 | ||
在位期間 | 継体天皇元年2月4日(507年3月3日) - 同25年2月7日(531年3月10日) | |
在位中の時代 | ||
在位中の年号 | ||
在位中の首都 | ||
在位中の皇居 | 樟葉宮 筒城宮 弟国宮 磐余玉穂宮 | |
諱 | ||
幼称 | ||
別名 | 袁本杼命・男大迹王 彦太尊 雄大迹天皇 乎富等大公王 | |
印 | ||
出生 | 450年? | |
死没 | 継体天皇25年2月7日(531年3月10日) | |
陵墓 | 三島藍野陵 | |
皇子女 | 安閑天皇 宣化天皇 欽明天皇 他多数 | |
皇后 | 手白香皇女 | |
中宮 | ||
女御 | ||
更衣 | ||
夫人 | ||
夫 | ||
父親 | 彦主人王 | |
母親 | 振媛 | |
特記事項:(特になし) |
継体天皇(けいたいてんのう、允恭天皇39年(450年)? - 継体天皇25年2月7日(531年3月12日))は第26代の天皇(在位:継体天皇元年2月4日(507年3月5日) - 同25年2月7日(531年3月12日))。オホド王。継体天皇以降、大和の勢力と越前や近江など北方の豪族の勢力が一体化し、ヤマト王権の力が国内で強くなった。また天皇家の系譜として伝わるものは彼以降はほぼ正確であるとされる。しかし継体の出自に関しては諸説ある。
別名として伝わるのは『古事記』に袁本杼命(おおどのみこと)、『日本書紀』に男大迹王(おおどのおおきみ)、彦太尊(ひこふとのみこと)、『筑後国風土記』逸文に「雄大迹天皇(おおどのすめらみこと)」、『上宮記』逸文に乎富等大公王(おおどのおおきみ)。なお、隅田八幡宮(和歌山県橋本市)蔵の人物画像鏡銘(允恭天皇32年(443年)説と武烈天皇5年(503年)説)に見える「孚弟王(男弟王?)」は継体天皇を指すとする説がある(詳細は異説にて後述)。
生没年[編集]
- 推定生年:『古事記』には顕宗天皇元年(485年)、『日本書紀』には允恭天皇39年(450年)。
- 推定没年:『古事記』には丁未4月9日(527年5月26日)、『日本書紀』には辛亥2月7日(531年3月12日)または甲寅(534年)とされる。
生涯[編集]
『古事記』、『日本書紀』によると継体天皇は応神天皇5世の孫であり、父は彦主人王。近江国高嶋郷三尾野(現在の滋賀県高島市あたり)で誕生したが幼い時に父を亡くし、母の故郷である越前国高向(たかむく、現在の福井県坂井市丸岡町高椋)で成長した。『日本書紀』によれば武烈天皇8年(506年)に武烈天皇が後嗣定めずして崩御したため、大連(おおむらじ)・大伴金村らは越前に赴いて男大迹王を大王に推戴した。これを承諾した王は翌年58歳にして河内国樟葉宮(くすばのみや)で即位。武烈天皇の姉(妹との説もある)にあたる手白香皇女(たしらかのひめみこ)を皇后とした。継体天皇20年(526年)、大倭(後の大和国)に都をおいた。その直後、継体は百済救援の軍を送ったが新羅と結んだ磐井により九州北部で九州で磐井の乱が勃発し、その平定に苦心している(磐井の乱については諸説ある)。
しかしこの記述が事実とすれば、継体は継体天皇元年(507年)に即位してから大和に都をおくまで約20年かかっており、天皇家周辺で何らかの混乱があったとする見方もある。継体天皇25年(531年)に後継を皇子の勾大兄に譲位(記録上最初の譲位例)し、その即位(安閑天皇)と同日に崩御したという。また『日本書紀』は『百済本記』(「百濟本記爲文 其文云 大歳辛亥三月 軍進至于安羅 營乞乇城 是月 高麗弑其王安 又聞 日本天皇及太子皇子 倶崩薨 由此而言 辛亥之歳 當廿五年矣」)を引いて天皇及び太子、皇子が同時に死んだという説を紹介しており、何らかの政変によって殺害されたとの見方もある(「辛亥の変」説)。また、『古事記』では没年を継体天皇21年(527年)としている。
- 品太(ほむだ)王の五世(いつせ)の孫(みこ)、袁本杼(をほどの)命、伊波禮(いわれ)の玉穂宮に坐しまして、天の下治らしめしき(この後は、何人かの妻を娶って産ませた子供が19人でこれらの子から後の三人の天皇が出たことを書いている。即ち欽明、安閑、宣化の3天皇である)。この御世に竺紫君石井(いはい)、天皇の命(みこと)に従わずして、多くの禮無かりき。故、物部荒甲(もののべのあらかひ)の大連(おほむらじ)、大伴の金村(かなむら)の連二人を遣わして、石井を殺したまひき。天皇の御歳、四十三歳(よそじまりみとせ)。〔丁未の年の四月九日に崩りましき。〕御陵は三島の藍の御陵なり(『古事記』より。〔〕は分注)。
出自を巡る議論[編集]
記紀によると先代の武烈天皇に後嗣がなかったため、越前(近江とも)から応神天皇5世の孫である継体天皇が迎えられ群臣の要請に従って即位したとされるが『日本書紀』の系図一巻が失われたために正確な系譜が書けず、『上宮記』逸文によって辛うじて知ることが出来る。しかし、この特殊な即位事情を巡っては議論がある。
記紀の記述を尊重して継体天皇を大王家(「天皇」号成立は7世紀)の「遠い傍系に連なる有力王族」とする旧来の説に対し、戦後、歴史とりわけ天皇に関する自由な研究が認められることになったことから継体は従来の大王家とは血縁のない「新王朝の始祖(初代大王)」とする説(水野祐「三王朝交代説」)が提唱され、にわかに有力となった。この説によれば、いわゆる万世一系は否定され出自不明の第26代・継体天皇から新たな大王家が始まったということである。さらに論を進め、近江の皇別氏族(皇族が臣籍降下して誕生した氏族)息長氏(おきながうじ)の出身と見なし、大和王権を武力制圧して王位を簒奪したとする説も出された。
ところが1980年代に入り、継体の出自を伝える『上宮記』の成立が推古朝に遡る可能性が指摘され(黛弘道「継体天皇の系譜について」『律令国家成立史の研究』吉川弘文館、昭和57年(1982年))、傍系王族説が再び支持を集めるようになった。要出典『上宮記』逸文が載せられている『釈日本紀』の記述内容は「上宮記曰一伝」という文章があり、『上宮記』の作者が別の史料を引用していることが判る。ただ単に継体即位から1世紀後の推古朝の伝承を書いたものではなく、さらに古い資料に基づき系譜を載せている。
近年では継体以前には大王の地位は特定の血縁に固定されなかったとする見解も出されている。つまり、継体を含め祖先の異なる複数の豪族があり、祖先が誰かは分からないという意味である。武光誠は継体以前の大王は複数の有力豪族から出たとの見方を紹介している(以下の文献参照)。現在は「王族」「王朝」の概念自体を根本的に問い直す時期に来ていると言えよう。武光によれば、武烈天皇などは実在した天皇でなく創作との見方が現在では有力であり、応神天皇の実在に関しても諸説ある。また、現在伝わる継体の系譜は事実ではなく信用できるのはせいぜい継体の祖父まであり、それ以前については『上宮記』の成立時点で既に伝説上の人物だった応神天皇を継体の祖先として系譜に持ってきたのみとする見方もある。
現在の歴史学界では継体が応神の5世孫かどうか不明とする慎重な立場をとる学者も多くいるものの、中央豪族の支持を得て平和裏に即位したとする説が有力である。記紀の記録も継体以降の系譜は、ある程度信用できるとされている。
系譜[編集]
『日本書紀』によれば応神天皇5世の孫(曾孫の孫)で父は彦主人王(ひこうしのおおきみ)、母は垂仁天皇7世孫の振媛(ふりひめ)である。ただし、応神から継体に至る中間4代の系譜について『記紀』では省略されており、辛うじて鎌倉時代の『釈日本紀』に引用された『上宮記』逸文という史料によって知ることが出来る。これによると、男子の直系は「凡牟都和希王(ほむたわけのおおきみ・応神天皇) ─ 若野毛二俣王 ─ 大郎子(一名意富富等王) ─ 乎非王 ─ 汙斯王(=彦主人王) ─ 乎富等大公王(=継体天皇)」とされる。『上宮記』逸文は近年、黛弘道の研究によって推古朝の遺文である可能性も指摘され、その内容の信憑性や実際の血統については前述のとおり議論が分かれているものの原帝紀の編纂(欽明朝か)と同じ頃に系譜伝承が成立したものと思われる。
- 皇后:手白香皇女(たしらかのひめみこ。仁賢天皇の皇女)
- 天国排開広庭尊(あめくにおしはらきひろにわのみこと。欽明天皇)
- 妃:目子媛(めのこひめ。尾張連草香の女)
- 妃:稚子媛(わかこひめ。三尾角折君の妹)
- 大郎皇子(おおいらつこのみこ)
- 出雲皇女(いずものひめみこ)
- 妃:広媛(ひろひめ、黒比売。坂田大跨王の女)
- 神前皇女(かむさきのひめみこ)
- 茨田皇女(まんたのひめみこ)
- 馬来田皇女(うまぐたのひめみこ)
- 妃:麻績娘子(おみのいらつめ、麻組郎女。息長真手王の女)
- 荳角皇女(ささげのひめみこ) 斎宮
- 妃:関媛(せきひめ。茨田連小望の女)
- 茨田大娘皇女(まんたのおおいらつめのひめみこ)
- 白坂活日姫皇女(しらさかのいくひひめのひめみこ)
- 小野稚娘皇女(おののわかいらつめのひめみこ、長石姫)
- 妃:倭媛(やまとひめ。三尾君堅楲の女)
- 大郎子皇女(おおいらつめのひめみこ、大郎女)
- 椀子皇子(まろこのみこ、丸高王) 三国公・三国真人の祖
- 耳皇子(みみのみこ)
- 赤姫皇女(あかひめのひめみこ)
- 妃:荑媛(はえひめ。和珥臣河内の女)
- 稚綾姫皇女(わかやひめのひめみこ)
- 円娘皇女(つぶらのいらつめのひめみこ)
- 厚皇子(あつのみこ、阿豆王)
- 妃:広媛(ひろひめ。根王の女)
皇居[編集]
- ※『日本書紀』に拠る。
- 507年2月、樟葉宮(くすばのみや、大阪府枚方市楠葉丘の交野天神社付近が伝承地)で即位。
- 511年10月、筒城宮(つつきのみや、現在の京都府京田辺市多々羅都谷か)に遷す。
- 518年3月、弟国宮(おとくにのみや、現在の京都府長岡京市今里付近か)に遷す。
- 526年9月、磐余玉穂宮(いわれのたまほのみや、現在の奈良県桜井市池之内か)に遷す。
上叙の遷都は政治上の重大な変革があったからではないかとする説もあるが、憶説の域を出ない。ただし、この記録が事実ならば継体が大和にいたのは最後の5年のみである。
異説[編集]
隅田八幡神社旧蔵の国宝「人物画像鏡」の銘文に『癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻念長寿遣開中費直穢人今州利二人等取白上同二百旱作此竟』「癸未の年八月十日、男弟王が意柴沙加の宮にいます時、斯麻が長寿を念じて河内直、穢人今州利の二人らを遣わして白上銅二百旱を取ってこの鏡を作る」(判読・解釈には諸説あり)とあり、このように読むと「癸未」を武烈天皇5年(503年)、「男弟王」を(おおと)=男大迹王と解釈出来、継体天皇は癸未=武烈天皇5年8月10日(503年9月18日)の時点では大和の意柴沙加宮=忍坂宮にいたとする仮説が成り立つ。もしこの説が正しければ継体天皇が畿内勢力の抵抗にあい、長期に渡って奈良盆地へ入れなかったとする説も崩れる。また、鏡を作らせて長寿を祈った「斯麻」は百済の武寧王(別名斯麻)のことと思われ、鏡は百済王より継体天皇に贈られた品という見方も出来る。ただ、「古事記」に見える王名「袁本杼(ヲホド)」と鏡の銘文に記された「男弟(ヲオト)」とは6世紀初頭における発音は異なっていたので要出典、この説は根本部分に無理があるのは否めない。
伝承[編集]
ゆかりの地である越前はかつて湿原が広がり農耕や居住に適さない土地であった。男大迹王(おおとのみこ、のちの継体天皇)はこの地を治めると、まず足羽山に社殿を建て大宮地之霊(おおみやどころのみたま)を祀りこの地の守護神とした。これが現在の足羽神社である。次に地形を調査のうえ、大規模な治水を行い九頭竜川・足羽川・日野川の三大河川を造ることで湿原の干拓に成功した。このため越前平野は実り豊かな土地となり人々が定住できるようになった。続いて港を開き水運を発展させ稲作、養蚕、採石、製紙など様々な産業を発達させた。天皇即位のため越前を離れることになると、この地を案じて自らの御生霊を足羽神社に鎮めて御子の馬来田皇女(うまくだのひめみこ)を斎主としてあとを託したという。このような伝承から越前開闢の御祖神とされている。
陵墓[編集]
三島藍野陵(みしまのあいののみささぎ)に葬られた。
宮内庁は同陵を大阪府茨木市太田三丁目の太田茶臼山古墳(前方後円墳・全長226m)に比定しているが、近年、同府高槻市郡家新町の今城塚古墳(前方後円墳・全長190m)から兵馬俑の如き埴輪群が発見され、こちらを継体天皇陵とするのが定説になっている。
石碑[編集]
弘化4年(1847年)、飛騨高山の国学者・田中大秀の起案を受けて門弟・橘曙覧、池田武万侶、山口春村、足羽神社神主・馬来田善包らにより継体天皇御世系碑が足羽神社境内に建立されている。この碑文には、大秀の研究による応神天皇から継体天皇までの系図が彫り込まれている。
これには「玉穂宮天皇大御世系」とあり、その下に「品陀和気命(御諡 応人天皇) ─ 若沼毛二俣王 ─ 大郎子(亦名 意本杼王) ─ 宇斐王 ─ 汙斯王(書記云 彦主人王)─ 袁本杼命(書記云 更名 彦太尊 御諡 継体天皇)」と彫り込まれている。
また足羽神社の近くにある足羽山公園には継体天皇を模した巨大な石像が三国を見下ろすように建っており、観光スポットとなっている。
在位年と西暦との対照表[編集]
在位年と西暦との対照表 | ||||||||||
継体天皇 | 元年 | 2年 | 3年 | 4年 | 5年 | 6年 | 7年 | 8年 | 9年 | 10年 |
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西暦 | 507年 | 508年 | 509年 | 510年 | 511年 | 512年 | 513年 | 514年 | 515年 | 516年 |
干支 | 丁亥 | 戊子 | 己丑 | 庚寅 | 辛卯 | 壬辰 | 癸巳 | 甲午 | 乙未 | 丙申 |
継体天皇 | 11年 | 12年 | 13年 | 14年 | 15年 | 16年 | 17年 | 18年 | 19年 | 20年 |
西暦 | 517年 | 518年 | 519年 | 520年 | 521年 | 522年 | 523年 | 524年 | 525年 | 526年 |
干支 | 丁酉 | 戊戌 | 己亥 | 庚子 | 辛丑 | 壬寅 | 癸卯 | 甲辰 | 乙巳 | 丙午 |
継体天皇 | 21年 | 22年 | 23年 | 24年 | 25年 | |||||
西暦 | 527年 | 528年 | 529年 | 530年 | 531年 | |||||
干支 | 丁未 | 戊申 | 己酉 | 庚戌 | 辛亥 |
参考文献[編集]
- 宇治市教育委員会 編『継体王朝の謎 うばわれた王権』(河出書房新社、1995年) ISBN 978-4-309-22285-1
- 水谷千秋『謎の大王 継体天皇』(文春新書、2001年) ISBN 978-4-16-660192-9
- 武光誠『大和朝廷と天皇家』(平凡社新書、2003年) ISBN 978-4-582-85180-9
- NHK大阪今城塚古墳プロジェクト『大王陵発掘! 巨大はにわと継体天皇の謎』(NHK出版、2004年) ISBN 978-4-14-080872-6
- 山中鹿次「継体天皇の即位への背景と大和進出」愛知学院大学文学研究科 文研会紀要4.5号、1994年 ISSN 0917-3633
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
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日本帝國皇帝 | ||||||||||
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1 神武 | 2 綏靖 | 3 安寧 | 4 懿德 | 5 孝昭 | 6 孝安 | 7 孝霊 | 8 孝元 | 9 開化 | 10 崇神 | |
11 垂仁 | 12 景行 | 13 成務 | 14 仲哀 | 15 應神 | 16 仁德 | 17 履中 | 18 反正 | 19 允恭 | 20 安康 | |
21 雄略 | 22 清寧 | 23 顕宗 | 24 仁賢 | 25 武烈 | 26 継体 | 27 安閑 | 28 宣化 | 29 欽明 | 30 敏達 | |
31 用明 | 32 崇峻 | 33 推古 | 34 舒明 | 35 皇極 | 36 孝德 | 37 斉明 | 38 天智 | 39 大友 | 40 天武 | |
41 持統 | 42 文武 | 43 元明 | 44 元正 | 45 聖武 | 46 孝謙 | 47 淳仁 | 48 稱德 | 49 光仁 | 50 桓武 | |
51 平城 | 52 嵯峨 | 53 淳和 | 54 仁明 | 55 文德 | 56 清和 | 57 陽成 | 58 光孝 | 59 宇多 | 60 醍醐 | |
61 朱雀 | 62 村上 | 63 冷泉 | 64 圓融 | 65 花山 | 66 一條 | 67 三條 | 68 後一條 | 69 後朱雀 | 70 後冷泉 | |
71 後三條 | 72 白河 | 73 堀河 | 74 鳥羽 | 75 崇德 | 76 近衛 | 77 後白河 | 78 二條 | 79 六條 | 80 高倉 | |
81 安德 | 82 後鳥羽 | 83 土御門 | 84 順德 | 85 九條 | 86 後堀河 | 87 四條 | 88 後嵯峨 | 89 後深草 | 90 亀山 | |
91 後宇多 | 92 伏見 | 93 後伏見 | 94 後二條 | 95 花園 | 96 光嚴 | 97 光明 | 98 崇光 | 99 後光嚴 | 100 後圓融 | |
101 後小松 | 102 稱光 | 103 後花園 | 104 後土御門 | 105 後柏原 | 106 後奈良 | 107 正親町 | 108 後陽成 | 109 後水尾 | 110 明正 | |
111 後光明 | 112 後西院 | 113 霊元 | 114 東山 | 115 中御門 | 116 櫻町 | 117 桃園 | 118 後櫻町 | 119 後桃園 | 120 光格 | |
121 仁孝 | 122 孝明 | 123 明治 | 124 大正 | 125 昭和 | 126 平成 | ※赤字は女帝、斜字は重祚 |
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