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しかし実際には、[[鈴木邦男]]が主張している「三島が[[女系天皇]]を容認していたことを示すメモ」なるものは存在していない。鈴木が見解の元としている出典の[[松藤竹二郎]]の著書『血滾ル 三島由紀夫「憲法改正」』、『日本改正案 三島由紀夫と楯の会』、『三島由紀夫「残された手帳」』にも、三島が女系天皇を容認していたことを示すようなメモや記述、あるいは伝言の提示はない。松藤の著書で示された三島が残した憲法改正案は、第一・「新憲法に於ける『日本』の欠落」と、第二・「戦争の放棄」と、第三・「[[非常事態法]]について」の3章から成る『問題提起』<ref name="hyouron36"/>という論文のみである。そこには、天皇の[[皇位継承]]の男系・女系については一切触れられていない。松藤竹二郎の著書を仔細に読むと、鈴木邦男が言う「皇位は世襲であって、その継承は男系子孫に限ることはない」という案は、三島の死後に、「憲法研究会」で討議案をまとめた中の、あくまで一会員の一つの意見であるにすぎず、それに異議を唱える会員の意見もあり、楯の会の「憲法研究会」の総意ですらない。よって「憲法研究会」の話し合いの結論も、「“継承は男系子孫に限ることはない”という文言は憲法に入れる必要ない」という結論となっている。さらに、「憲法研究会」のリーダー的役割であり、改正案の話し合いの記録を保管していた班長・[[阿部勉 (民族主義者)|阿部勉]]の提案した「[[女帝]]を認める」という意見に関しても、「皇統には複数の女帝がおられたんで、女帝は絶対だめだというような意見には反対だという意味ですよ、消極的な」と阿部勉は語り、「積極的な一つの主義として確立しろという意味ではない」と述べている<ref>[[松藤竹二郎]]『日本改正案 三島由紀夫と[[楯の会]]』(毎日ワンズ 2005年)</ref>。 | しかし実際には、[[鈴木邦男]]が主張している「三島が[[女系天皇]]を容認していたことを示すメモ」なるものは存在していない。鈴木が見解の元としている出典の[[松藤竹二郎]]の著書『血滾ル 三島由紀夫「憲法改正」』、『日本改正案 三島由紀夫と楯の会』、『三島由紀夫「残された手帳」』にも、三島が女系天皇を容認していたことを示すようなメモや記述、あるいは伝言の提示はない。松藤の著書で示された三島が残した憲法改正案は、第一・「新憲法に於ける『日本』の欠落」と、第二・「戦争の放棄」と、第三・「[[非常事態法]]について」の3章から成る『問題提起』<ref name="hyouron36"/>という論文のみである。そこには、天皇の[[皇位継承]]の男系・女系については一切触れられていない。松藤竹二郎の著書を仔細に読むと、鈴木邦男が言う「皇位は世襲であって、その継承は男系子孫に限ることはない」という案は、三島の死後に、「憲法研究会」で討議案をまとめた中の、あくまで一会員の一つの意見であるにすぎず、それに異議を唱える会員の意見もあり、楯の会の「憲法研究会」の総意ですらない。よって「憲法研究会」の話し合いの結論も、「“継承は男系子孫に限ることはない”という文言は憲法に入れる必要ない」という結論となっている。さらに、「憲法研究会」のリーダー的役割であり、改正案の話し合いの記録を保管していた班長・[[阿部勉 (民族主義者)|阿部勉]]の提案した「[[女帝]]を認める」という意見に関しても、「皇統には複数の女帝がおられたんで、女帝は絶対だめだというような意見には反対だという意味ですよ、消極的な」と阿部勉は語り、「積極的な一つの主義として確立しろという意味ではない」と述べている<ref>[[松藤竹二郎]]『日本改正案 三島由紀夫と[[楯の会]]』(毎日ワンズ 2005年)</ref>。 | ||
− | その天皇主義的な側面から、三島を[[右翼]] | + | その天皇主義的な側面から、三島を[[右翼]]と評する向きもあるが、生前には[[『風流夢譚』事件]]で右翼の攻撃対象となるなど、必ずしも既存右翼と常に軌を一にしていたわけではない(もっとも、1965年(昭和40年)頃に[[毛呂清輝]]らとの交流があったことが、書簡等で明らかとなっている)。しかしその右翼陣営も、三島自決後は三島をみずからの模範として崇敬(もしくは政治利用)するようになる。 |
なお、[[磯田光一]]が三島が亡くなる1ヶ月前に三島から言われた言葉として、本当は腹を切る前に[[宮中]]で天皇を殺したいが、宮中に入れないので自衛隊にした、と聞かされたと[[島田雅彦]]との対談で述べているが<ref>[[島田雅彦]]・[[磯田光一]]『模造文化の時代』([[新潮] 1986年8月号に掲載)</ref>、これに対しては、用心深かった三島が事前に決起や自決を漏らすようなことを部外者に言うはずがないと指摘されている<ref name="mochimaru"/>。 | なお、[[磯田光一]]が三島が亡くなる1ヶ月前に三島から言われた言葉として、本当は腹を切る前に[[宮中]]で天皇を殺したいが、宮中に入れないので自衛隊にした、と聞かされたと[[島田雅彦]]との対談で述べているが<ref>[[島田雅彦]]・[[磯田光一]]『模造文化の時代』([[新潮] 1986年8月号に掲載)</ref>、これに対しては、用心深かった三島が事前に決起や自決を漏らすようなことを部外者に言うはずがないと指摘されている<ref name="mochimaru"/>。 |
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三島 由紀夫(みしま ゆきお、本名:平岡 公威(ひらおか きみたけ)、1925年(大正14年)1月14日 - 1970年(昭和45年)11月25日)は、日本の小説家・劇作家。第二次世界大戦後の日本文学界を代表する作家の一人である。代表作は小説に『仮面の告白』、『潮騒』、『金閣寺』、『鏡子の家』、『憂国』、『豊饒の海』四部作など。戯曲に『鹿鳴館』、『近代能楽集』、『サド侯爵夫人』などがある。人工性・構築性にあふれる唯美的な作風が特徴。
晩年は自衛隊に体験入学したほか、民兵組織「楯の会」を結成。右翼的な政治活動を行い、その後の新右翼・民族派運動に大きな影響を及ぼした。1970年11月25日、前年の憂国烈士・江藤小三郎の自決に触発され、 楯の会隊員4名と共に、自衛隊市ヶ谷駐屯地(現:防衛省本省)を訪れて東部方面総監を監禁。その際に幕僚数名を負傷させ、部屋の前のバルコニーで演説しクーデターを促し、その約5分後に割腹自殺を遂げた。この一件は世間に大きな衝撃を与えた(詳しくは三島事件を参照)。
筆名の「三島」は、日本伝統の三つの島の象徴、静岡県三島の地名に由来する。「三島」の命名を想起した清水文雄が修善寺での同人誌の編集会議を兼ねた一泊旅行のとき、「三島」を通ってきたことと、富士を見ての連想から「ゆき」という名前が浮かんだという[1]。
三島の著作権は酒井著作権事務所が一括管理している。2010年11月時点で三島の著作は累計発行部数2400万部以上[2]。
目次
生涯[編集]
出自[編集]
家族 親族も参照のこと。
1925年(大正14年)1月14日、東京市四谷区永住町2番地(現・東京都新宿区四谷4丁目22番)に父・平岡梓と母・倭文重(しずえ)の間に長男として生まれた。「公威」の名は祖父・定太郎による命名で、定太郎の同郷の土木工学者・古市公威から取られた。兄弟は、妹・美津子(1928年 - 1945年)、弟・千之(1930年 - 1996年)。
父・梓は、一高から東京帝国大学法学部を経て、高等文官試験に1番で合格したが、面接官に嫌われて大蔵省入りを拒絶され、農商務省(公威の誕生後まもなく同省の廃止にともない農林省に異動)に勤務していた。後に内閣総理大臣となる岸信介、日本民法学の泰斗と称された我妻栄とは一高以来の同窓であった。1924年(大正13年)、橋倭文重と結婚する。
母・倭文重は、加賀藩藩主・前田家に仕えていた儒学者・橋家の出身。東京開成中学校の5代目校長で、漢学者・橋健三の次女。
祖父・定太郎は、兵庫県印南郡志方村(現・兵庫県加古川市志方地域)の農家の生まれ。帝国大学法科大学(現・東京大学法学部)を卒業し、内務省に入省、内務官僚となる。1893年(明治26年)、武家の娘である永井なつと結婚。福島県知事、樺太庁長官等を務めたが、疑獄事件で失脚した(後に無罪の判決)。
祖母・夏子(戸籍名:なつ)は、父・永井岩之丞(大審院判事)と、母・高(常陸宍戸藩藩主・松平頼位が側室との間にもうけた娘)の間に長女として生まれ、12歳から17歳で結婚するまで有栖川宮熾仁親王に行儀見習いとして仕えていた。
作家・永井荷風の永井家と祖母・夏子の実家の永井家は同族(同じ一族)になる。夏子の9代前の祖先永井尚政の異母兄永井正直が荷風の12代前の祖先にあたる[3]。父・梓の風貌は荷風と酷似していて、公威は父のことを陰で「荷風先生」と呼んでいた。ちなみに、祖母・夏子は幼い公威を「小虎」と呼んでいた。
幼少年期[編集]
公威と祖母・夏子とは、中等科に入学するまで同居し、公威の幼少期は夏子の絶対的な影響下に置かれていた。公威が生まれて49日目に、「二階で赤ん坊を育てるのは危険だ」という口実の下、夏子は公威を両親から奪い自室で育て始め、母・倭文重が授乳する際も、夏子が時間を計ったという。坐骨神経痛の痛みで臥せっていることが多い夏子は、家族の中でヒステリックな振舞いに及ぶこともたびたびだった。車や鉄砲などの音の出る玩具は御法度で、公威に外での男の子らしい遊びを禁じた。遊び相手は女の子を選び、女言葉を使わせたという。1930年(昭和5年)1月、5歳の公威は自家中毒に罹り、死の一歩手前までいく。病弱な公威に対し、夏子は食事やおやつを厳しく制限し、貴族趣味を含む過保護な教育を行った。また、夏子は、歌舞伎や能、泉鏡花などの小説を好み、後年の公威の小説家および劇作家としての作家的素養を培った。
1931年(昭和6年)4月、公威は学習院初等科に入学した。当時の学習院は華族中心の学校で、平岡家は定太郎が樺太庁長官だった時期に男爵の位を受ける話があったにせよ、平民階級だった。にもかかわらず公威を学習院に入学させたのは、大名華族意識のある祖母・夏子の意向が強く働いていたと言われる。学習院入学当時のことを、級友だった三谷信は、「初等科に入って間もない頃、つまり新しく友人になった者同士が互いにまだ珍しかった頃、ある級友が 『平岡さんは自分の産まれた時のことを覚えているんだって!』と告げた。その友人と私が驚き合っているとは知らずに、彼が横を走り抜けた。春陽をあびて駆け抜けた小柄な彼の後ろ姿を覚えている」[4]と語っている。
公威は初等科1、2年から詩や俳句などを初等科機関紙「小ざくら」に発表し始める。読書に親しみ、小川未明、鈴木三重吉、ストリンドベルヒの童話、印度童話集、及び講談社「少年倶楽部」(山中峯太郎、南洋一郎、高垣眸ら)などを愛読する。自家中毒や風邪で学校を休みがちで、4年生の時は肺門リンパ腺炎を患い、体がだるく姿勢が悪くなり教師によく叱られる。当時の綽名は虚弱体質で青白い顔をしていたことから、「アオジロ」だった。しかし初等科6年の時、校内の悪童から、「おいアオジロ、お前の睾丸もやっぱりアオジロだろうな」とからかわれたとき、公威は即座にサッとズボンの前ボタンを開けて一物を取り出し、「おい、見ろ見ろ」とその悪童に迫った。それは、揶揄った側がたじろく程の偉容で、濃紺の制服のズボンをバックにした一物は、貧弱な体に比べて意外と大きかったという[4]。1936年(昭和11年)6月、作文『わが国旗』を書く。
1937年(昭和12年)4月、中等科に進む。両親の転居に伴い、祖母・夏子のもとを離れ、渋谷区大山町15番地(現・渋谷区松濤2丁目4番8号)の両親のもとより通う。文芸部に入る。同年7月、学習院校内誌「輔仁会雑誌」に随筆『春草抄―初等科時代の思ひ出』を発表。国語教師の岩田九郎に作文の才能を認められ成績も上がる。以後、輔仁会雑誌には、中等科・高等科の約7年間(中等科は5年間、高等科の3年は9月卒業)で多くの詩歌や散文作品、戯曲を発表することとなる。同年の秋、8歳年上の高等科3年の文芸部員・坊城俊民と出会い、文学交遊を結ぶ。初対面の時の公威の印象を坊城は、「人波をかきわけて、華奢な少年が、帽子をかぶりなおしながらあらわれた。首が細く、皮膚がまっ白だった。目深な学帽の庇の奥に、大きな瞳が見ひらかれている。『平岡公威です』 高からず、低からず、その声が私の気に入った。『文芸部の坊城だ』 彼はすでに私の名を知っていたらしく、その目がなごんだ。『きみが投稿した詩、“秋二篇”だったね、今度の輔仁会雑誌にのせるように、委員に言っておいた』 私は学習院で使われている二人称“貴様”は用いなかった。彼があまりにも幼く見えたので。… 『これは、文芸部の雑誌“雪線”だ。おれの小説が出ているから読んでくれ。きみの詩の批評もはさんである』 三島は全身にはじらいを示し、それを受け取った。私はかすかにうなずいた。もう行ってもよろしい、という合図である。三島は一瞬躊躇し、思いきったように、挙手の礼をした。このやや不器用な敬礼や、はじらいの中に、私は少年のやさしい魂を垣間見たと思った」[5]と語っている。
1938年(昭和13年)3月、輔仁会雑誌に短篇小説『(酸模(すかんぽ)- 秋彦の幼き思ひ出』と『座禅物語』が掲載された。これが三島の活字となった初めての小説らしい小説といわれている。同年10月、祖母・夏子に連れられて、初めて歌舞伎(『仮名手本忠臣蔵』)を観る。また、同月、母方の祖母・橋トミに連れられて、初めて能(『三輪』)を観る。以後、歌舞伎、能の観劇に夢中になる。
1939年(昭和14年)1月18日、祖母・夏子が他界。享年62。同年4月、清水文雄が学習院に国語教師として赴任し、国文法、作文の担当教師に加わる。清水は三島の生涯の師となり平安朝文学への目を開かせた。同年9月、ドイツ対フランス・イギリスの戦争が始まった(第二次世界大戦の始まり)。
1940年(昭和15年)1月に、退廃的心情が後年の作風を彷彿とさせる詩『凶ごと』を書く。同月、母・倭文重に連れられ、詩人・川路柳虹を訪問する。倭文重の父・橋健三と川路柳虹は友人だった。何度が川路宅を訪れ師事を受ける。同年2月に俳句雑誌「山梔(くちなし)」に俳句や詩歌を発表。以後、渾名のアオジロをもじって自ら平岡青城の俳号を名乗り、1年半ほどさかんに俳句や詩歌を「山梔(くちなし)」に投稿する。同年11月に短編『彩絵硝子』を輔仁会雑誌に発表。これを読んだ東文彦から始めて手紙をもらい、文通が始まる。徳川義恭とも交友を持ち始める。一方、坊城俊民との交友は徐々に疎遠になっていく。この頃の心情は、後に短篇『詩を書く少年』に描かれ、この頃の詩歌はのち、『三島由紀夫選集1 花ざかりの森』(新潮社、1957年)に「十五歳詩集」として掲載された。この頃、レイモン・ラディゲ、オスカー・ワイルド、ジャン・コクトー、リルケ、トーマス・マンのほか、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)、北原白秋、草野心平、丸山薫、芥川龍之介、谷崎潤一郎、伊東静雄、森鴎外、そして『万葉集』、『古事記』、『枕草子』などを愛読した。
戦時下の思春期[編集]
1941年(昭和16年)4月、公威は輔仁会雑誌の編集長に選任される。同年7月に小説『花ざかりの森』を書き上げ、清水文雄に提出する。感銘を受けた清水は、自らも同人の日本浪曼派系の国文学雑誌「文藝文化」に掲載を決定する。同人は蓮田善明、池田勉、栗山理一など、斎藤清衛門下生で構成されていた。このとき筆名・三島由紀夫を初めて用いる。「三島」の命名を想起した清水文雄によると、修善寺での「文藝文化」編集会議を兼ねた一泊旅行のとき、「三島」を通ってきたことと、富士を見ての連想から「ゆき」という名前が浮かんだという。そして、「伊藤左千夫(いとうさちお)」のような万葉風の名を希望した公威本人が提示した「三島由紀雄」の名に対して、清水が「由紀雄」は重過ぎると助言をし、「三島由紀夫」となった[1]。『花ざかりの森』は「文藝文化」昭和16年9月号から12月号に掲載された。編集後記で蓮田善明は公威について、「この年少の作者は、併し悠久な日本の歴史の請し子である。我々より歳は遙かに少いが、すでに、成熟したものの誕生である」と激賞した[6]。
この頃から公威は、随筆『惟神之道(かんながらのみち)』などを書き、天皇制に関して深い傾倒を見せることとなり、美的天皇主義(尊皇思想)を、蓮田善明から託された形となった(蓮田は終戦直後の1945年(昭和20年)8月19日に南方にて自決)。なお、蓮田は1943年(昭和18年)11月、戦地へ向かう出兵前に、「にはかにお召しにあづかり三島君よりも早くゆくことになつたゆゑ、たまたま得し一首をば記しのこすに、 よきひとと よきともとなり ひととせを こころはづみて おくりけるかな」という別れの一首を三島に遺した。1941年(昭和16年)12月8日(ハワイ時間:12月7日)に、日本はイギリスやアメリカ、オランダなどの連合国と開戦となった。公威は同年11月から書き始めていた評論『王朝心理文学小史』を、翌年の1942年(昭和17年)1月に、学習院図書館懸賞論文として提出する(この論文は、1943年(昭和18年)1月に入選し、希望賞品の豪華本『文楽』(光吉夏弥編、筑摩書房刊)を貰う)。
1942年(昭和17年)3月24日、席次2番で中等科を卒業。学習院高等科文科乙類(独語)に進む。独語をロベルト・シンチンゲルに師事、ほかに独語教師は新関良三、野村行一(1957年に東宮大夫在職中に死去)らがいた。なお、ドナルド・キーンが後年、ドイツで講演をした際、会場でおじいさんが立ち上がって、「私は平岡君の(ドイツ語の)先生だった。彼が一番だった」と言ったという[7]。公威は、体操と物理を除けば極めて優秀な学生であった(教練の成績は甲で、三島はそのことを生涯誇りとしていた)。
1942年(昭和17年)4月、詩『大詔』を文藝文化に発表。同年5月23日、文芸部委員長に選出される。同年7月1日、公威は同人誌「赤絵」を東文彦、徳川義恭と共に創刊する。彼らとの友情を深め、特に病身の東とはさらに文通を重ねた[8][9]。同年8月26日、祖父・定太郎が他界。享年79。
1942年(昭和17年)11月、学習院講演依頼のため、清水文雄に連れられて、日本浪曼派の小説家・保田與重郎(よじゅうろう)に出会い、以後、何度か訪問する。公威は伊東静雄や、蓮田善明のロマン主義的傾向の影響の下で詩や小説を、次々と発表する。公威が『伊勢物語のこと』を掲載した「文藝文化」昭和17年11月号には、蓮田は『神風連のこころ』と題した一文を掲載した。これは蓮田にとって熊本済々黌の数年先輩にあたる森本忠が書いた『神風連のこころ』(国民評論社、1942年)の書評である(なお、三島は後年、1966年(昭和41年)に神風連の地、熊本を訪れた際に森本忠と会っている)。
1943年(昭和18年)2月24日、学習院輔仁会の総務部総務幹事となる。同年6月6日、輔仁会春季文化大会で、公威の作・演出の『やがてみ楯と』(2幕4場)が上演される(当初は翻訳劇を企画したが、山梨勝之進学習院長から許可が出ず、やむなく公威が創作劇を書いた)。同年8月、富士正晴が『花ざかりの森』の出版の話を蓮田善明に提案する。同年9月頃から、公威は富士正晴を介して、詩人で医師の林富士馬を知り、以降親しく交際する。同年10月8日、東文彦が23歳の若さで急逝。公威は弔辞[8]を奉げた。東の死によって『赤絵』は2号で廃刊となった。文彦の父・東季彦によると、三島は死ぬまで、文彦の命日に毎年欠かさず墓前参りに来ていたという[10]。
なお、三島自身は、「私は今までの半生で、二回しか試験を受けたことがない。幸いにしてそのどちらも通つた」[11]と書いている。これに対し、高校受験のとき一高の入試に[12]、就職のとき(健康上の理由で面接の)日本勧業銀行の採用試験に失敗しているという反論もあるが、そもそもテンプレート:要検証範囲ため受験にいたらなかったという説もある[13][14]。また日本勧業銀行の採用試験についても筆記試験には合格しており、面接で不採用となっている[13]。三島と開成学園については、母方の祖父・(橋健三)が開成中学の校長を務めた他に、三島の父・(平岡梓)と、祖母・夏子の実弟・(大屋敦)が旧制開成中学出身だった縁がある。また、三島の長男・威一郎はお茶の水女子大学附属小学校卒業後、中学から開成に学んでいる[15]。
1944年(昭和19年)4月、公威は本籍地・兵庫県印南郡志方村村長発信の徴兵検査通達書を受け取り、同年5月16日、兵庫県加古郡加古川町(現・加古川市)の加古川公会堂(現・加古川市立加古川図書館)で徴兵検査を受け、第2乙種合格となる。公会堂の現在も残る松の下で40kgの米俵を持ち上げるなどの検査もあった。自著の『仮面の告白』によれば、加古川で徴兵検査を受けたのは、「田舎の隊で検査を受けた方がひよわさが目立つて採られないですむかもしれないといふ父の入れ知恵」であったが、結果は合格した。級友の三谷信など同級生の大半が特別幹部候補生として志願していたが、三島は一兵卒として応召するつもりであった。徴兵検査合格の帰途の5月17日、遺作となるであろう『花ざかりの森』の序文依頼のため、大阪の伊東静雄を訪れるも、伊東からは悪感情を持たれ、日記に悪し様に書かれた。しかし、伊東は、のち『花ざかりの森』進呈の返礼で、「会う機会が少なすぎた感じがする」と公威に言っている。
1944年(昭和19年)9月9日、学習院高等科を首席で卒業。卒業生総代となる。卒業式に臨席した昭和天皇に初めて接し、恩賜の銀時計を拝受。ドイツ大使よりドイツ文学の原書3冊、華族会館から図書数冊を贈られた。大学は文学部への進学という選択肢も念頭にはあったものの、父・梓の勧めにより、同年10月1日、東京帝国大学法学部法律学科(独法)に入学(推薦入学)した。そこで学んだ法学の厳格な論理性、とりわけ助教授であった団藤重光(三島没後の定年後に最高裁判所判事)から叩き込まれた刑事訴訟法理論の精緻な美しさに魅了し、この時修得した法学の論理性が、小説や戯曲の創作において極めて有用であった旨を自ら回顧している[16]。息子が文学に熱中するのを苦々しく思い、事あるごとに執筆活動を妨害していた父ではあったが、帝大文学部ではなく法学部に進学させたことにより、三島文学に日本文学史上稀有な論理性を齎したことは平岡梓唯一の文学的貢献であるとして、後年、このことを三島は父に感謝するようになった。この頃、出版統制の中、「この世の形見」として『花ざかりの森』刊行に奔走。同年10月に処女短編集『花ざかりの森』(装幀は友人・徳川義恭が担当)が七丈書院から出版された。三谷信ら友人、知人に本を渡す。
1945年(昭和20年)1月10日から、東京帝国大学勤労報国隊として、群馬県の中島飛行機小泉製作所に勤労動員される。総務部配属で事務作業しつつ、『中世』を書き続ける。中河与一の好意により、『中世』第一回と第二回の途中までを「文芸世紀」に発表する。同年2月4日に入営通知の電報を受け取り、遺書を書き、遺髪と遺爪を用意する(なお、中島飛行機小泉製作所は1945年(昭和20年)2月25日以降、アメリカ軍の爆撃機による主要目標となって徹底的な爆撃を受け壊滅。多数の動員学生も死亡した。結果的に応召は三島に罹災を免れさせる結果となった)。同年2月6日、父・梓と一緒に兵庫県富合村へ出立し、入隊検査を受けるが、折からひいていた気管支炎を軍医が肺浸潤と誤診し、即日帰郷となる。偶然が重なったとはいえ、「徴兵逃れ」とも受け取られかねない、国家の命運を決めることとなった戦争に対する自らの消極的な態度が、以降の三島に複雑な思い(特異な死生観や「戦後は余生」という感覚)を抱かせることになる。
1945年(昭和20年)5月5日から、神奈川県高座郡大和の海軍高座工廠に勤労動員される。この頃、『和泉式部日記』、『上田秋成全集』、『古事記』、『日本歌謡集成』、『室町時代小説集』などの古典、泉鏡花、イェーツなどを濫読した。また、保田與重郎に謡曲の文体について質問した際、期待した浪漫主義的答えを得られなかった思いを、『中世』を書くことで、人工的な豪華な言語による絶望感に裏打ちされた終末観の美学の作品化に挑戦した。そして、戦禍が激しくなる中、遺作となることを意識した『岬にての物語』を起稿する。戦時下でただひとつ残った文芸誌「文藝」(編集長は野田宇太郎)に寄稿した『エスガイの狩』の発表は終戦後に遅れた。このとき初めて原稿科を貰う。処女短編集『花ざかりの森』は野田を通じ、川端康成にも献呈されていた。
1945年(昭和20年)8月15日、終戦、第二次世界大戦が終わった。「感情教育の師」として私淑していた蓮田善明はマレー半島で陸軍中尉として終戦を迎えたが、同年8月19日に駐屯地のマレー半島のジョホールバルで、天皇を愚弄した連隊長・中条豊馬大佐を軍用拳銃で射殺し、自決。享年41であった。翌年の1946年(昭和21年)11月17日に行われた「蓮田善明を偲ぶ会」に出席した三島は、「古代の雪を愛でし 君はその身に古代を現じて雲隠れ玉ひしに われ近代に遺されて空しく 靉靆の雪を慕ひ その身は漠々たる 塵土に埋れんとす」という詩を、亡き蓮田に献じた。
1945年(昭和20年)10月23日には、妹・美津子が腸チフス(菌を含んだなま水を飲んだのが原因)により、17歳の若さで急逝。三島は号泣する。同年11月末か12月頃、公威は三谷邦子(のちに『仮面の告白』に描かれる初恋の女性。親友・三谷信の妹。父親はのちに侍従長となる三谷隆信。[17])が、銀行員・永井邦夫(父は永井松三)と婚約したことを知る。翌年の1946年(昭和21年)5月5日に両者は結婚。三島はこの日、泥酔する。恋人を横取りされる形になった三島は、「戦争中交際してゐた女性と、許婚の間柄になるべきところを、私の逡巡から、彼女は間もなく他家の妻になつた。妹の死と、この女性の結婚と、二つの事件が、私の以後の文学的情熱を推進する力になつたやうに思はれる」[18]と書いている。邦子の結婚後の同年9月16日、三島は偶然、邦子と道で会う。このときのことを三島は、「偶然邦子にめぐりあつた。試験がすんだので友達をたづね、留守だつたので、二時にかへるといふので、近くをぶらぶらあてどもなく歩いてゐた時、よびとめられた。彼女は前より若く却つて娘らしくなつてゐた。(中略)その日一日僕の胸はどこかで刺されつゞけてゐるやうだつた。前日まで何故といふことなく僕は、『ゲエテとの対話』のなかの、彼が恋人とめぐりあふ夜の町の件を何度もよんでゐたのだつた。それは予感だ。世の中にはまだふしぎがある。そしてこの偶然の出会は今度の小説を書けといふ暗示なのか?書くなといふ暗示なのか?」[19]と、ノートに記している。この頃、三島は初の長編小説『盗賊』を執筆中であった。
文壇デビューと『仮面の告白』[編集]
1946年(昭和21年)1月27日、鎌倉に在住していた川端康成のもとを三島は始めて訪問し、短編『中世』、『煙草』の原稿を渡す。それは、野田宇太郎の紹介状を持参した訪問だったが、野田は当時を次のように語っている。「君は文学者になりたいのか、文壇人になりたいのかと言ったら、"有名な作家になりたい"と来るんだよ。まだ学生で一本立ちしてないのに、最初から有名な作家になるつもりで、僕を利用するために来ていたのかと怒ったら、だいぶこたえたようだった。川端さんのところへ行った折に"こういう人間が来るから"と言っておいたら彼は訪ねて行った。そして、川端さんに庇護されて、どんどん翼を伸ばして行った」 しかし、野田の知らないところで、三島と川端との繋がりはそれ以前の学習院在学中の頃からあった。三島の母・倭文重によると、1943年(昭和18年)、三島の同人誌での詩や短編を読んだ川端から突然、手紙(宛名は平岡公威)が来て、三島は、「名もない僕に大作家の川端さんが、お手紙を下さるなんて天にも昇る気持だ」と大喜びし、はしゃいでいたという。翌年の1944年(昭和19年)、『花ざかりの森』出版まで、2・3度手紙をやりとりし、三島は本ができあがると、川端に贈呈した。誰の紹介状もなくとも、1946年(昭和21年)1月27日に川端宅を初訪問してもよかったが、慎重深く礼儀を重んじる三島は、野田宇太郎の紹介状を持って訪問したという[20]。
当時、鎌倉文庫の幹部であった川端は、雑誌「人間」(編集長:木村徳三)に『煙草』の掲載を推薦した。これが文壇への足がかりとなり、以来、川端とは生涯にわたる師弟関係となる(ただし三島自身は終生、川端を「先生」とは絶対に呼ばず、「川端さん」と呼ぶことに固執していた)。敗戦後、川端が、「私はこれからもう、日本の悲しみ、日本の美しさしか歌ふまい」と言った言葉は、三島の心に、「一管の笛のなげきのやうに聴かれて胸を搏つた」[21]という。同年6月、『煙草』は「人間」に発表されたが、三島は大学の勉強と執筆活動をする中、高等文官試験を受けるか文筆で立つか悩む。同年11月、敗戦前後に渡って書き綴られた『岬にての物語』が文芸雑誌「群像」に、12月には『中世』全編が「人間」に掲載される。ある日、木村徳三は、三島と帝大図書館前で待ち合わせ一時間ほど雑談した際、講義に戻る三島を好奇心から、あとをつけて教室を覗いたという。その様子を木村は、「三島君が入った二十六番教室をのぞいてみると、真面目な優等生がするようにあらかじめ席をとっておいたらしい。教壇の正面二列目あたりに着席する後姿が目に入った。怠け学生だった私などの考えも及ばぬことであった」[22]と述べている。
1946年(昭和21年)12月14日、三島は紺絣の着物に袴を身につけ、矢代静一と一緒に、太宰治、亀井勝一郎を囲む集いに参加した。この時、三島は太宰に対して面と向かって、「僕は太宰さんの文学はきらいなんです」と言い切った。このときの顛末について、後の三島自身のエッセイ『私の遍歴時代』(東京新聞 1963年1月10日 - 5月23日に連載)[23]によれば、この三島の発言に対して太宰は虚を衝かれたような表情をして誰へ言うともなく、「そんなことを言ったって、こうして来てるんだから、やっぱり好きなんだよな。なあ、やっぱり好きなんだ」と答えた、と解説されている。しかし、その場に居合わせた編集者の野原一夫によれば、酒を飲めない三島が、森鴎外の文学について太宰治に質問したが、太宰はまともに答えず、なにかはぐらかすように、「鴎外もいいが、全集の口絵のあの軍服姿は、どうもねえ」と顔を横に向けて呟いた。すると、三島は、「ぼくは、太宰さんの文学はきらいなんです」とまっすぐ太宰の顔を見て、にこりともせずに言ったという。そして一瞬、座が静かになり、「きらいなら、来なけりゃいいじゃねえか」と吐き捨てるように太宰は言って、顔をそむけたのだという[24]。しかし、他のその場に居合わせた詩人の中村稔によると、太宰はそう言ったあとで、それがきっかけで場がしらけてしまったのをまずいと思ったのか、「そんなこといったって、ここに来ているんだからやっぱり好きなんだよなあ」と、誰へ言うともなく、あわてて言ったという。また、宴会が終わったあとで、「あの三島という学生はいろんな雑誌で作品を出していますよ」というのを太宰は聞いて、「彼の小説を読んでいたら俺も話もできていたのになあ」と、事前に三島を紹介されていれば応対も違い、文学の話もできたと残念がっていたという[25][26]。この挿話のように、三島は太宰嫌いを公言し、そのことは夙に有名だが、その一方、翌年の1947年(昭和22年)10月の川端康成宛の書簡の中では、「太宰治氏『斜陽』第三回も感銘深く読みました。滅亡の抒事詩に近く、見事な芸術的完成が予見されます。しかしまだ予見されるにとどまつてをります。完成の一歩手前で崩れてしまひさうな太宰氏一流の妙な不安がまだこびりついてゐます」 とも述べていた。
1947年(昭和22年)6月27日、「新夕刊」で林房雄と出会う。三島は林に好感を持ち、以後、親交を持つようになる。林への書簡で自身の文学論や、高見順ら左翼的文壇への憤慨などを吐露する(後年、三島は『林房雄論』(1963年)を書き、また林との対談『対話・日本人論』(1966年)、『現代における右翼と左翼』(1969年)も実現する)。同年7月、日本勧業銀行の入行試験を受験する。論文や英語などの筆記試験には合格したが、健康上の理由により面接で不採用となった。この頃、加藤周一、福永武彦、中村真一郎、窪田啓作らのマチネ・ポエティックの人々と交流を持つ。しかし、その批評活動のあからさまなフランス臭に、「フランスはフランス、日本は日本じゃないか」[23]と反感をおぼえる。
1947年(昭和22年)11月28日、東京大学法学部法律学科卒業(同年9月に東京帝国大学から名称変更)。同年12月13日、高等文官試験に合格する(成績は合格者167人中138位)。一時宮内省入省の口利きがあったが、結局は父の強い勧めにより同月24日、大蔵省事務官に任官され、銀行局国民貯蓄課に勤務する(銀行局長に愛知揆一、主計局長に福田赳夫がいた)。同じく学習院から東大を経て大蔵省入りした先輩に橋口収、入省同期に長岡實がいる。同月、初の長編『盗賊』が発表される。入省以降も小説家としても旺盛な創作活動を行う。一方、この頃の心境を、三島は『私の遍歴時代』の中で、「せつせと短編小説を書き散らしながら、私は本当のところ、生きてゐても仕様がない気がしてゐた。ひどい無力感が私をとらえてゐた。(中略)私は自分の若さには一体意味があるのか、いや、一体自分は本当に若いのか。といふやうな疑問にさいなまれた」[23]と記している。
1948年(昭和23年)6月、雑誌「近代文学」の第2次同人拡大の際し参加。この第2次参加の顔ぶれは、椎名麟三、梅崎春生、武田泰淳、安部公房、原民喜、高橋義孝、寺田透、船山馨、日高六郎、中田耕治らがいた。(この件りは『私の遍歴時代』[23]に詳しい)。同年の7月か8月、出勤途中の朝、三島は役所勤めと執筆活動の二重生活による過労のため、渋谷駅のホームから線路に落ちる。事なきをえたが、この事故をきっかけに職業作家になることを、父・平岡梓が許す。同年8月下旬、河出書房の編集者坂本一亀(坂本龍一の父)と志邨孝夫が、書き下ろし長篇小説の執筆依頼のために大蔵省の三島を訪ねた。三島は快諾し、「この作品に作家的生命を賭ける」と宣言する。そして、同年9月2日、創作に専念するため大蔵省に辞表を提出し、9月22日、辞令を受け依願退職した。同年11月25日に、三島は『仮面の告白』を起筆する。
1949年(昭和24年)7月5日、書き下ろし長編小説『仮面の告白』(河出書房)が出版される。同性愛を扱った本作はセンセーションを呼び、高い評価を得て作家の地位を確立した。以降、1950年6月30日に書き下ろし長編『愛の渇き』(新潮社)を発表。同年7月 - 12月に、光クラブ事件の山崎晃嗣をモデルとした『青の時代』を連載。1951年(昭和26年)1月 - 1953年(昭和28)8月にかけて、『禁色』を1951年(昭和26年)を連載するなど、戦後文学の旗手として脚光を浴びた。また、その間も数々の短編や、『邯鄲』・ 『綾の鼓』・『卒塔婆小町』[27]などの戯曲も発表するなど旺盛な活動を見せた。また、1952年(昭和27年)に発表された短編小説『真夏の死』は、のちの1967年(昭和42年)にフォルメントール国際文学賞第2位を受賞することとなる。
1951年12月25日には、朝日新聞特別通信員として約半年間の世界一周旅行へ旅客船で出発した(この世界一周旅行の実現には、父・梓の一高時代の同期である朝日新聞重役の嘉治隆一が尽力した)。ハワイ、サンフランシスコ、ロサンゼルス、ニューヨーク、フロリダ、マイアミ、サン・フアン、リオ・デ・ジャネイロ、サン・パウロ、ジュネーブ、パリ、ロンドン、アテネ、ローマを経て、翌年の1952年(昭和27)5月10日、羽田に帰国。このときの世界旅行記は、同年10月5日に紀行文集『アポロの杯』としてまとめられ、朝日新聞社から刊行された。
1953年(昭和28年)3月と、8月 - 9月に、三島は三重県鳥羽港から神島(かみしま)に行く。八代神社、神島灯台、島民の生活、例祭神事、漁港、歴史、漁船員の仕事や生活、台風などについて取材し、翌年の1954年(昭和29年)6月10日、『潮騒』(新潮社)を発表する。ギリシャの古典『ダフニスとクロエ』に着想を得たこの恋愛小説はベストセラーとなり、東宝で映画化された。神島を舞台に選んだ理由を三島は、「日本で唯一パチンコ店がない島だったから」と、大蔵省同期の長岡實に語ったという。『潮騒』は第1回新潮社文学賞を受賞した[28]。
自己改造と『金閣寺』[編集]
世界一周旅行中に三島が発見した「太陽」、「肉体」、「官能」は、以後の作家生活に大きな影響を及ぼすことになる。世界一周旅行後の翌年1953年(昭和28年)、『潮騒』の取材で滞在した神島の島民に、初め三島は、病気療養のために島に来ている人と勘違いされ、「あの青びょうたんみたいな顔の男は誰やろ?体が悪くて養生しに来とるのか」と噂された。島民たちに島の話を聞きながら、熱心にメモをとる痩せた白い肌の三島の姿は、屈強な島の逞しい男達を見慣れている島の女性たちにはかなり珍しかったという。そんな経験や、胃弱や虚弱体質に悩んでいたこともきっかけとなり、1955年(昭和30年)9月、三島は、週刊読売のグラビアに取り上げられていた玉利齊(当時、早大バーベルクラブ主将。現在は社団法人日本ボディビル協会会長)の写真と、「誰でもこんな身体になれます」というキャプションに惹かれ、早速、編集部に電話をかけ、玉利を紹介してもらい、週3回のボディビルを始めるなど、「肉体改造」に取り組み始める。
最初は自宅の庭に玉利齊を招いて指導を受けていたが、1956年(昭和31年)1月、後楽園ジムのボディビル・コーチ鈴木智雄に会い、弟子入りする。同年3月頃、鈴木が自由ヶ丘にボディビルジムを開き、三島のジム通いが始まった。また、自由ヶ丘で知り合った町内会の人に誘われ、同年8月、自由ヶ丘の熊野神社の夏祭りで、生まれて初めて神輿をかつぐ。元々痩身で虚弱体質の三島であったが、弛まぬ鍛錬で後に知られるほどの偉容を備えた体格となった。最初は10キロしか挙げられなかったベンチプレスも、鍛錬の結果、晩年は90キロを挙上したという[29]。同年9月には、鈴木の紹介で、日大拳闘部の好意により、小島智雄監督の下、ボクシングの練習も始め、1年ほど続けた(1953年(昭和28年)頃も、三島は安部譲二の紹介でボクシングに挑戦したが、その時はいつもシャドーボクシングだった)。1957年(昭和32年)5月、小島智雄をスパーリング相手に練習を行っている三島を、石原慎太郎が訪ね、8ミリに撮影する。これを観た三島は、「石原慎太郎の八ミリシネにとつてもらひましたが、それをみていかに主観と客観には相違があるものかと非常に驚き、目下自信喪失の状態にあります」[30]と記し、以後はもっぱらボクシング観戦の方に回り、何人かの選手のスポンサーになった。
1948年(昭和23年)頃からの友人で、小説家の中井英夫が小学館で『原色百科事典』の編集に携わっていた頃、ボディビルの項目に載せる写真のモデルにならないかと三島に冗談を言い、そのまま忘れていると、次に会った時、三島から妙に声をひそめるようにして、「この間のボディビルの話ねえ、もし本当なら急いでもらえない? オレ、もしかするとまた外国に行かなくちゃならないかも知れないから」と催促された。それは遠慮深く真剣な口調だったので、中井は三島が本気であると感じ、編集部に話を通して実現の運びとなった[31]。
三島の同世代の作家には、星新一や遠藤周作など比較的長身の者もいたが、三島は身長163センチと、当時としては平均的であった。ちなみに三島の1941年(昭和16年)4月22日付の身体検査記録表には、「平岡公威 身長162.2センチ、体重44.0キロ」と記録され(このときの成績通知表に記された文部省による全国の同年齢平均標準値は158.8センチ、体重50.0キロとなっている)、1942年(昭和17年)4月13日付の身体検査記録表は、「平岡公威 身長163.1センチ、45.4キロ」と記録され、こちらも同年・同学年の平均値よりは高い数値である[32]。あるとき、新聞記者が三島に身長を尋ねると、「173センチです」との返答だったため、その新聞記者は奇異の念を抱いた(その新聞記者の身長が173センチだったのに、どう見ても三島の方が小さかったからである)、との逸話もある。しかし現在残っている質問形式の雑誌記事には三島が正直に身長を答えている記載がある[33]。
ボディビルを始めた同年の1955年(昭和30年)11月には、京都に取材に行き、1950年(昭和25年)に起こった、青年僧による金閣寺放火事件を題材にした次回作の執筆にとりかかる。『仮面の告白』から取り入れていた森鴎外的な硬質な文体をさらに鍛え上げ、「肉体改造」のみならず「文体改造」も行った。その双方を磨き上げ昇華した独特の壮麗な文体を確立し、広く高い評価を得たのが長編小説『金閣寺』である。この作品は1956年(昭和31年)1月から10月まで「新潮」に連載され、三島文学の代表作となった。第8回読売文学賞も受賞した。
この時期の三島は、1956年(昭和31年)に『永すぎた春』、1957年(昭和32年)に『美徳のよろめき』などのベストセラー小説を多数発表。作品のタイトルのいくつかは流行語(「よろめき」など)にもなり、映画化作品も多数にのぼるなど、文字どおり文壇の寵児となる。また同時期には、1955年(昭和30年)に第2回岸田演劇賞を受賞した『白蟻の巣』、1956年(昭和31年)に『鹿鳴館』など戯曲発表も旺盛に行い、同年、国際的にも評価の高い戯曲集『近代能楽集』(「邯鄲」、「綾の鼓」、「卒塔婆小町」、「葵上」、「班女」から成る[34])も刊行された。戯曲上演には、文学座をはじめとする劇団で自ら演出、端役出演なども行った。
また、この時期、花嫁候補を探していた三島が、銀座6丁目の小料理屋「井上」の2階で、独身時代の皇后美智子と見合いを行ったのもこの頃の1957年(昭和32年)頃であると考えられている[35]。同年の3月15日、三島は母・倭文重とともに、皇后美智子が首席で卒業した聖心女子大学卒業式を参観している。
三島は文学以外の評論や批評を行うことも多く、映画や劇画、時事、風俗などへの多岐にわたる評論もした。1954年(昭和29年)の「ゴジラ」公開当時、多くの文化人が「ゲテモノ映画」と酷評する中、特撮部分だけでなく内容についても「文明批判の見地がある」など高い評価を与えていた。次第にその審美眼は、プロの映画評論家にも一目置かれるようになり、荻昌弘や小森和子らと対談などもした。淀川長治は、「ワタシみたいなモンにでも気軽に話しかけてくださる。自由に冗談を言いあえる。数少ないホンモノの人間ですネ。(中略)あの人の持っている赤ちゃん精神。これが多くの人たちに三島さんが愛される最大の理由でしょうネ」と三島について「平凡パンチ」のインタビューで述べていた[36]。また、当時の文学者には珍しくSFやSF的なものに関心を寄せ、肯定的な評価をしていた。日本空飛ぶ円盤研究会にも所属し、1957年(昭和32年)6月8日には、日活国際会館屋上での空飛ぶ円盤観測会に初参加した。のちの1962年(昭和37年)には、自らもSF性の強い作品である『美しい星』を執筆し、1963年(昭和38年)9月には、SF同人誌「宇宙塵」に寄稿するなどした。また、クラークの「幼年期の終り」を絶賛し、「随一の傑作と呼んで憚らない」と評した。劇画については、「平田弘史の時代物劇画がなどに、そのあくまで真摯でシリアスなタッチに、古い紙芝居のノスタルジヤと“絵金”的幕末趣味を発見してゐた」[37][38]と三島は述べている。
世界的評価と『鏡子の家』[編集]
1959年(昭和34年)9月、三島は書き下ろし長篇小説『鏡子の家』を発表する。起稿から約1年半をかけ、『金閣寺』では「個人」を描いたが本作では「時代」を描こうとした野心作だった。三島は『鏡子の家』について、「この小説は、いはゆる戦後文学ではなく、『戦後は終つた』文学だとも云へるだらう。『戦後は終つた』と信じた時代の、感情と心理の典型的な例を書かうと思つたのである。(中略)四人の青年が、鏡子といふ巫女的な女性の媒(なかだ)ちによつて、現代の地獄巡りをする。現代の地獄は、都会的でなければならない。おのづからあらゆる挿話が、東京と紐青(ニューヨーク)に集中する」と述べた。奥野健男はこの小説を「最高傑作」と評価し、橋川文三も高評価を与えた。だが、平野謙や江藤淳は「失敗作」と断じ、世間一般の評価も必ずしも芳しいものではなかった。これは、作家として三島が味わった最初の大きな挫折(転機)だったとされている[39]。同年1月には『文章読本』を「婦人公論」に発表。『鏡子の家』執筆中の1958年(昭和33年)7月 - 1959年(昭和34年)11月には、エッセイ『不道徳教育講座』を「週刊明星」に連載する。また同時期には、公開日記・随筆『裸体と衣裳』も「新潮」に連載された。1958年(昭和33年)に発表された戯曲『薔薇と海賊』は、週刊読売新劇賞を受賞した。
その後、文壇の寵児として、1960年(昭和35年)に『宴のあと』(フォルメントール国際文学賞第2位受賞)、『百万円煎餅』、『熱帯樹』、『弱法師』、1961年(昭和36年)に『獣の戯れ』、『憂国』、『十日の菊』(第13回読売文学賞戯曲部門賞受賞)、『黒蜥蜴』、1962年(昭和37年)に『美しい星』、1963年(昭和38年)に『午後の曳航』(フォルメントール国際文学賞候補作品)、『雨のなかの噴水』、『剣』、『喜びの琴』、1964年(昭和39年)に『絹と明察』など、長編、短編、戯曲を旺盛に発表した。
私生活では、1958年(昭和33年)6月1日に、日本画家・杉山寧の長女・瑤子と結婚。大田区南馬込にビクトリア風コロニアル様式の新居を建築し(設計・施工は清水建設)、同年11月からは、ボディビルに加えて、本格的に剣道を始める。この頃には、70キロのバーベルを持ち上げられるようになっていた。翌年の1959年(昭和34年)6月2日には長女・紀子が誕生し、1962年(昭和37年)5月2日には長男・威一郎が誕生した。また、舩坂弘と剣道を通じて交友を持つようになる。
文学活動以外でも、1960年(昭和35年)に、永田雅一の肝煎りで大映映画『からっ風野郎』(増村保造監督)にチンピラやくざ役で主演した。1961年(昭和36年)9月には、写真家・細江英公の写真集『薔薇刑』のモデルとなり、自宅で撮影が行われた。写真発表は翌年1962年(昭和37年)1月に銀座松屋の「NON」展でなされ、その鍛え上げられた肉体を積極的に世間に披露した。写真集『薔薇刑』は、1963年(昭和38年)3月に限定版で刊行された。このような小説家以外での三島の数々の行動に対しては、一部で「露悪的」として嫌悪する見方がある一方、戦後マスメディア勃興期においていち早くマスメディアの効用を積極的に駆使し、いわゆる「マスコミ文化人の先駆」と位置づけて好意的に見る向きもある。だが、三島自身は死の4ヶ月前にサンケイ新聞夕刊で発表した『果たし得てゐない約束―私の中の二十五年』において、「私の中の二十五年間を考へると、その空虚に今さらびつくりする。私はほとんど『生きた』とはいへない。鼻をつまみながら通りすぎたのだ」[40][38]と告白している。
私生活や多方面の活躍で、その充実ぶりを見せる一方、1961年(昭和36年)2月には、深沢七郎の『風流夢譚』をめぐるいわゆる嶋中事件に関連して右翼から脅迫状を送付され、2ヶ月間警察の護衛を受けて生活することを余儀なくされる。ジョン・ネイスンによると、この時の右翼に対する恐怖感が後の三島の思想を過激な方向に向かわせたのではないか、とする実弟・平岡千之の推測があるとされたが、弟の千之はそのようなことは言っていないと、これを否定した[41]。三島は嶋中事件の起こる2年以上前から剣道を本格的に習い、事件以前に『憂国』も書き上げているので、ジョン・ネイスンの見解は見当違いである。同年3月には、『宴のあと』をめぐり有田八郎から告訴され、同年4月からプライバシー裁判が始まった。三島は1964年(昭和39年)9月に敗訴し、80万円の賠償を求められた(三島側は10月に控訴するが、翌年3月の原告・有田八郎の死去に伴い、のちに遺族と和解成立)。この事件で有田側についた吉田健一と三島は疎遠となった。
劇団「文学座」をめぐっても、様々なトラブルにも見舞われた。1963年(昭和38年)1月、反杉村春子であった福田恆存の裏工作により、芥川比呂志、岸田今日子ら29人の劇団員が文学座を脱退し、福田が中心となる「劇団雲」が結成された。三島は新聞に載る直前まで何も知らされていなかった。岸田今日子は、「福田さんに誘われたわたしは 『三島さんが一緒なら』と言った。『もちろん僕から誘います。三島君に言うと直ぐ洩れるから話さないように』と念を押された。(中略)新聞に脱退の記事が出た。三島さんの名前はない。帰京してすぐ三島さんのお家へ行くと、『新聞に出る前の晩に聞かされて、動けると思う?』と言われた。福田さんにだまされたと思ったけれど、どうしようもなかった。」[42]と回顧している。吉田健一の件と、この一件で、1951年(昭和26年)から続いた「鉢の木会」も自然消滅する。残された三島は文学座の再建に力を注ぐが、同年11月には、『喜びの琴』をめぐり、三島と杉村春子らが対立する文学座公演中止事件(喜びの琴事件)が起こり、再びトラブルが相次いだ。このように、この時期には、安保闘争を経た時代思潮に沿う形でいわゆる『文学と政治』にまつわる事件にも度々関与した。このときはまだ晩年におけるファナティックな政治思想を披瀝するほどの関わりをもつことはなかったが、同年8月には、三島はすでに晩年の自死に通じるような『剣』を書き上げている。翌年の1964年(昭和39年)初めには、『浜松中納言物語』を読み、のちの『豊饒の海』の構想が始まる。
1963年(昭和38年)10月、三島は『絹と明察』を起筆する。この小説は、『鏡子の家』で描いた「時代」の「青年」から、日本の「家長」というものへテーマを変えた作品だった。三島は『絹と明察』について、「書きたかつたのは、日本及び日本人といふものと、父親の問題なんです。(中略)父親というテーマ、つまり男性的権威の一番支配的なものであり、いつも息子から攻撃をうけ、滅びてゆくものを描かうとしたものです」[43]と述べている。三島は近江絹糸の労働争議(近江絹糸争議)を背景に、伝統的な日本(駒沢)と、西洋かぶれの日本(大槻、岡野)との対立を描くことで、日本の究極の家長とは何かを探ろうとした。この小説の翻訳は当初、ジョン・ネイスンが担当したが、ネイスンは翻訳途中状態でこれを放置し、大江健三郎の翻訳担当に移った。のちネイスンは『絹と明察』の翻訳を三島に断ったが、この非礼に怒った三島とネイスンの関係は感情的もつれを生んだ。三島はネイスンのことを、「左翼に誘惑された与太者」と呼び、ネイスンも米誌に三島の酷評を書いた。『絹と明察』は第6回毎日芸術賞文学部門賞を受賞した。
この時期には、三島文学が翻訳を介しヨーロッパやアメリカなどで紹介されるようになり、舞台上演も数多く行われた(世界各国への三島文学紹介者として、アイヴァン・モリス、ドナルド・キーン、エドワード・G・サイデンステッカーなどが著名である)。以降、三島作品は世界的に高く評価されるようになる。国連事務総長だったダグ・ハマーショルドは1961年(昭和36年)に亡くなる直前、三島の『金閣寺』を読み、ノーベル財団の、ある委員に宛てた手紙で大絶賛したという。また、『真夏の死』、『宴のあと』は、フォルメントール国際文学賞第2位を受賞した。ドナルド・キーンは、「三島以前の日本文学者の翻訳は、特殊に研究している人や関心のある人によって読まれていたが、三島の場合は一般の人達まで興味を持って読まれている。『サド侯爵夫人』は古典劇にも近いために、フランスでは地方の劇場でも上演されている。それは特別な依頼ではなく、見たい人が多いから」としている。[44]
日本国外での評価が高さを示すこととして、監督・ポール・シュレイダー、制作総指揮・ジョージ・ルーカス、フランシス・フォード・コッポラにより、映画『Mishima: A Life In Four Chapters』も製作されているが、日本での公開は行われていない。コッポラは、映画『地獄の黙示録』の撮影時には、三島の『豊饒の海』も手に取り、構想を膨らませていたと述べている。また、三島原作で海外で映画化されたものは、『午後の曳航』がある。『The Sailor Who Fell from Grace with the Sea』という題で、1976年(昭和51年)に日米合作で映画化された(サラ・マイルズ、クリス・クリストファーソン出演)。フランスでは、1998年(平成10年)に『肉体の学校』が、『L'Ecole de la Chair』(英題:『The School of Flesh』)という題で映画化された(ブノワ・ジャコ監督、イサベル・ユベール、ヴァンサン・マルチネス出演)。
イギリスのロックバンド・ストラングラーズも、三島の生き方、作品に着想を得た『Death & Night & Blood (Yukio)』(『死と夜と血』)という楽曲を発表している。『Ice』という楽曲にも、「ハガクレという言葉が使われている。ベースのジャン=ジャック・バーネルは、三島の愛読者であるという。映画『戦場のメリークリスマス』のテーマ曲は坂本龍一が作曲したが、この楽曲にデヴィッド・シルヴィアンが詞をつけた『禁じられた色彩』は、三島の『禁色』から着想されたもので、デヴィッド・シルヴィアンは三島の大ファンだという。なお、YMOの『BEHIND THE MASK』は、『仮面の告白』のタイトルをヒントに坂本龍一が作曲した楽曲だが、これはマイケル・ジャクソンにカバーされている。
二・二六事件と『英霊の声』[編集]
1965年(昭和40年)4月、三島は短編『憂国』(擱筆・1960年10月)を、自ら脚色・監督・主演・美術・制作する映画『憂国』の撮影に入った。映画『憂国』は、翌年の1966年(昭和41年)1月に、ツール国際短編映画祭劇映画部門第2位となった。日本での一般公開は同年4月からなされ、話題を呼びヒットした。映画『憂国』は、後の自決を予感させるような切腹シーンがあるため、三島の死後の1971年(昭和46年)に瑤子夫人の希望によりネガフィルムが全て焼却され、画質劣悪な海外版以外は現存しないとされてきたが、2005年(平成17年)8月にオリジナルのネガフィルムの発見が報じられた。夫人が死去した数年後に発見されたという。これは、瑤子夫人の要請により上映用フィルムはすべて焼却処分にされたものの、共同製作者・藤井浩明の「ネガフィルムだけはどうか残しておいてほしい」という要望で、瑤子夫人が自宅に密かに保存していたものであった。茶箱の中に、ネガフィルムのほか、映画『憂国』に関するすべての資料が数個のケースにきちんと分類され収められていた。ネガフィルムの存在を半ば諦めていた藤井浩明はそれを発見したとき、「そこには御主人(三島)に対する愛情と尊敬がこめられていた。ふるえるほどの感動に私は立ちつくしていた」[45]と語った。
1966年(昭和41年)5月に剣道4段に合格した三島は、居合(大森流)も始めるようになる。同年6月には、二・二六事件と特攻隊の兵士の霊の呪詛を描いた『英霊の声』を発表した。この本は、『憂国』、戯曲『十日の菊』と共に、二・二六事件三部作としてまとめられ出版された。三島は後記の『二・二六事件と私』の中で、「……たしかに二・二六事件の挫折によつて、何か偉大な神が死んだのだつた。当時十一歳の少年であつた私には、それはおぼろげに感じられただけだつたが、二十歳の多感な年齢に敗戦に際会したとき、私はその折の神の死の怖ろしい残酷な実感が、十一歳の少年時代に直感したものと、密接につながつてゐるらしいのを感じた。(中略)かくも永く私を支配してきた真のヒーローたちの霊を慰め、その汚辱を雪ぎ、その復権を試みようといふ思ひは、たしかに私の裡に底流してゐた。しかし、その糸を手繰つてゆくと、私はどうしても天皇の『人間宣言』に引つかからざるをえなかつた。昭和の歴史は敗戦によつて完全に前期後期に分けられたが、そこを連続して生きてきた私には、自分の連続性の根拠と、論理的一貫性の根拠を、どうしても探り出さなければならない欲求が生まれてきてゐた。(中略)どうしても引つかかるのは、『象徴』として天皇を規定した新憲法よりも、天皇御自身の、この『人間宣言』であり、この疑問はおのづから、二・二六事件まで、一すぢの影を投げ、影を辿つて『英霊の声』を書かずにはゐられない地点へ、私自身を追ひ込んだ。自ら『美学』と称するのも滑稽だが、私は私のエステティックを掘り下げるにつれ、その底に天皇制の岩盤がわだかまつてゐることを知らねばならなかつた。それをいつまでも回避してゐるわけには行かぬのである」と述べている。
昭和天皇が「人間宣言」したのは、終戦後の1946年(昭和21年)1月1日であった。新聞には天皇とマッカーサーが並ぶ写真が載った。三島はこの時、憤怒する。級友の三谷信は、「天皇が人間宣言をなさり、背広姿の御写真が新聞に掲載された時、彼は非常な不満、むしろ忿懣を抱いていた。なぜ衣冠束帯の御写真にしないのかというのである。又、焼跡だらけのハチ公前の広場を一緒に歩いていた時、彼は天皇制攻撃のジャーナリズムを心底から怒り、『ああいうことは結局のところ世に受け入れられるはずが無い』と断言した。そういう彼の言葉には理屈抜きの烈しさがあった。だから、彼は自分が敗戦後、日本の伝統から離れて楽しむうちに、混乱の方が、いつか多数派になったのに驚いたのではないか。美酒の瓶が倒れたように、日本の美質がどんどん流失しているのに気付き慄然としたのではないか。(中略)彼が自分の好きな国々を思いきり歩いて故郷に戻って来た時、心の拠り処の日本の古典は滅びかけていた」[4]と述べている。
『英霊の声』について、橋川文三は、「二・二六における天皇と青年将校というテーマは、ほとんどドストエフスキーの天才に俟たなければ描ききれないであろうというのが、私の以前からの独断であった。それは何よりも神学の問題であり、正統と異端という古くから魅力と恐怖にみたされた人間信仰の世界にかかわる問題だからである。(中略)ある至高の浄福から追放されたものたちの憤怒と怨念がそこにはすさまじいまでにみちあふれている。幽顕の境界を哀切な姿でよろめくものたちのの叫喚が、おびやかすような低音として、生者としての私たちの耳に迫ってくる。三島はここでは、それら悪鬼羅刹と化したものたちの魂が憑依するシャーマンの役割をしている。(中略)三島はやはりここで、日本人にとっての天皇とは何か、その神威の下で行われた戦争と、その中での死者とは何であったか、そして、なかんずく、神としての天皇の死の後、現に生存し、繁栄している日本人とは何かを究極にまで問いつめようとしている。これが一個の憤怒の作品であるということは、それが現代日本文明の批判であるということにほかならない」[46]と論評している。
加藤典洋は、「わたしの考えでは、1966年に書かれた『英霊の声』は、日本の戦後にとってたぶんもっとも重要な作品の一つである。(中略)わたしは、日本の戦後に三島のような人間がいてくれたことを日本の戦後のために喜ぶ。わたしがこう言ったとしてどれだけの人が同意してくれるかわからないが、彼がいるといないとでは、日本の戦後の意味は、大違いである」[47]と論評している。
楯の会と『豊饒の海』[編集]
1965年(昭和40年)2月26日、自らライフワークとした長編四部作『豊饒の海』の第一巻『春の雪』の取材のため、三島は奈良帯解の円照寺を1人で訪ねる。『春の雪』は同年9月より『新潮』で連載開始された(1967年(昭和42年)1月まで)。同年11月には、戯曲『サド侯爵夫人』と、評論・随筆『太陽と鉄』も発表された。また、同年はAP通信がストックホルム発で、三島由紀夫と谷崎潤一郎がノーベル文学賞最終候補の模様と報じ、三島は以降の年も引き続きノーベル文学賞候補として話題に上った。翌年の1966年(昭和41年)には国内のマスコミから受賞を期待され予定談話まで受けたが、受賞者は別人だった。三島はこのバツの悪い思いの教訓で、その翌年の1967年(昭和42年)には、記者の追跡を避けバンコクへ滞留する。バンコクでの三島を捕まえた特派員の徳岡孝夫は予定談話を頼んだが、三島に断られた[48]。川端康成がノーベル文学賞を受賞するのは、この翌年の1968年(昭和43年)である。なお、川端は、その7年前の1961年(昭和36年)5月に、三島にノーベル賞推薦文を依頼し、三島が推薦文を書いていたこともあった。
三島は自死の2か月ほど前、「このごろはひとが家具を買いに行くというはなしをきいても、吐気がする」と村松剛に告白したという。村松が、「家庭の幸福は文学の敵。それじゃあ、太宰治と同じじゃないか」と言うと、三島は、「そうだよ、おれは太宰治と同じだ。同じなんだよ」と言い、小市民的幸福を嫌っていたという[41]が、その一方で、1965年(昭和40年)、月刊雑誌の幼稚園特集号を見て編集部に電話を入れ、幼稚園事情に詳しい記者の紹介を依頼し、都内の料理店でその記者と会い、「長男を東大に入れるにはどんなコースがあるか、幼稚園の選び方から教えて欲しい」と40分余りにわたって記者に質問し、真剣にアドバイスを聴き、メモをとった一面もあったという[25]。さらに、三島は家庭的といえる一面は、母に対する愛情の濃やかさにも顕れ、『愛の渇き』と『仮面の告白』の著作権を自分の死後、母に譲渡する内容の遺書を作成している。また、自身の死後も、子供たちに毎年クリスマス・プレゼントが届く手配をしていたという[49]。伊藤勝彦によると、三島はある種の芸術家にみられるような、家庭を顧みぬような人間ではなかったという[50]。
1966年(昭和41年)8月、三島は、『豊饒の海』の第二巻『奔馬』の取材のため、奈良県の大神神社や、熊本県の神風連の地などを訪れ、途中、広島県の江田島の海上自衛隊第一術科学校にも立ち寄った。この神風連の地への旅について三島は清水文雄への書簡の中で、「天皇の神聖は、伊藤博文の憲法にはじまるといふ亀井勝一郎説を、山本健吉氏まで信じてゐるのは情けないことです。それで一そう神風連に興味を持ちました。神風連には、一番本質的な何かがある、と予感してゐます」[51]と記している。同年10月には、三島は林房雄との対談『対話・日本人論』の中で、藤原定家を書こうと思っていると述べた。また、同月、三島は自衛隊体験入隊を希望し、防衛庁関係者や元陸将・藤原岩市などに接触し、体験入隊許可のための仲介や口利きを求める。同年12月、舩坂弘著『英霊の絶叫』の序文を書いた返礼として、舩坂弘から日本刀・関孫六を贈られた。さらに、同月には、小沢開策から「論争ジャーナル」創刊準備をしている青年の話を聞いた林房雄の紹介で、同誌の万代潔が三島宅を訪ねて来る。翌年の1967年(昭和42年)1月、民族派雑誌「論争ジャーナル」が創刊され、編集長・中辻和彦と副編集長・万代潔が三島宅を訪問し、雑誌に寄稿を正式依頼。以降、同グループとの親交を深める。同年4月12日から5月27日まで、三島は単身で自衛隊体験に入隊し、民兵組織による国土防衛の一端を担う祖国防衛隊構想を固め、のち学生らを引き連れた自衛隊体験入隊を定期的に行なった。以降、三島は航空自衛隊のロッキードF-104戦闘機への搭乗体験や、陸上自衛隊調査学校情報教育課長・山本舜勝とも親交し、共に民兵組織(のち「楯の会」の名称となる)会員への指導を行った。
第二巻『奔馬』は、これと平行し1967年(昭和42年)2月から連載開始された(1968年(昭和43年)8月まで)。この小説は、血盟団の時代を背景に昭和維新に賭けた青年の自刃を描き、美意識と政治的行動が深く交錯した作品である。同時期には、政治への傾斜とともに『葉隠入門』、『文化防衛論』などの評論も発表された。特に『文化防衛論』においては、「近松も西鶴も芭蕉もいない」昭和元禄を冷笑し、自分は「現下日本の呪い手」であると宣言するなど、戦後民主主義への批判を明確にした。同年の3月には、中共に対して「文化大革命に関する声明」を東京新聞に川端康成、石川淳、安部公房と共に発表もした。同年6月、三島は日本空手協会道場に入門。中山正敏(日本空手協会首席師範)の下、7月から空手の稽古を始める。同年10月には、戯曲『朱雀家の滅亡』を発表した。翌年の1968年(昭和43年)8月、三島は剣道5段に合格。同年10月5日には、祖国防衛隊の名称を変更し、「楯の会」とした。これは、万葉集防人歌の「今日よりは 顧みなくて大君の 醜の御楯と出で立つ吾は」より由来したものである。同年12月には、戯曲『わが友ヒットラー』を発表した。
1967年(昭和42年)9月から10月に、三島は『豊饒の海』の第三巻『暁の寺』の取材を兼ね、インド、タイ、ラオスなどへ旅行。『暁の寺』は、翌年の1968年(昭和43年)9月から連載開始された(1970年(昭和45年)4月まで)。このとき三島が感受したインドにおけるベナレス体験は、『暁の寺』全体にみなぎっている巨大で徒労なニヒリズムに結実した。それは終結部においても、不意にフーガのように作品内に立ち現れてくる[52]。三島は『小説とは何か』(雑誌・波 1970年5・6月号に掲載)[53][54]の中で、『暁の寺』を脱稿したとき、いいしれぬ不快だったと述べ、「『暁の寺』の完成によつて、それまで浮遊してゐた二種の現実は確定せられ、一つの作品世界が完結し閉ぢられると共に、それまでの作品外の現実はすべてこの瞬間に紙屑になつたのである。私は本当のところ、それを紙屑にしたくなかつた。それは私にとつての貴重な現実であり人生であつた筈だ。しかしこの第三巻に携はつてゐた一年八ヶ月は、小休止と共に、二種の現実の対立・緊張の関係を失ひ、一方は作品に、一方は紙屑になつたのだつた」と述べている。三島はちょうどこの『暁の寺』を執筆中、国際反戦デーの左翼デモ・10.21国際反戦デー闘争 (1969年)に対抗するための自衛隊治安出動と「楯の会」の出番を期待し、それに乗じたクーデターによる憲法改正・自衛隊国軍化を実現する「作品外の現実」に賭けていたのである。しかし、その夢はなくなったのであった。三島は『暁の寺』が未完に終ること、つまり死を賭けたクーデターを実現することを期待していた。
1969年(昭和44年)7月、戯曲『癲王のテラス』(主演は北大路欣也)を発表し上演。三島は、自決の1週間前の清水文雄への書簡の中で、「『豊饒の海』は終りつつありますが、『これが終つたら……』といふ言葉を、家族にも出版社にも、禁句にさせてゐます。小生にとつては、これが終ることが世界の終りに他ならないからです。カンボジアのバイヨン大寺院のことを、かつて『癩王のテラス』といふ芝居に書きましたが、この小説こそ私にとつてのバイヨンでした」[51]と記している。また、西尾幹二によると、『癩王のテラス』の中の台詞、「今の王様にとつては、ただこのお寺の完成だけがお望みなのだ。そしてお寺の名も、共に戦つて死んだ英霊たちのみ魂を迎へるバイヨンと名づけられた。バイヨン。王様はあの目ざましい戦の間に、討死してゐればよかつたとお考へなのだらう」という言葉は、三島自身の心境の述べていたという[55]。 同年11月、最後の短編『蘭陵王』と、曲亭馬琴原作の歌舞伎台本『椿説弓張月』(主演は8代目松本幸四郎)を発表する。
1969年(昭和44年)2月11日(建国記念の日)に国会議事堂前で決行された憂国烈士・江藤小三郎青年の壮絶な自決に三島は大きな衝撃を受け、その心情を、『若きサムラヒのための精神講話』(PocketパンチOh! 1969年5月号に掲載)に記した[56][57]。同年5月13日には、東大教養学部教室における全共闘主催の討論会に出席し、当時東大の学生であった芥正彦、小阪修平らと国家・天皇などについて激論を交わした。三島は、「もし君らが、『天皇陛下万歳』と叫んでくれたら、共に戦う事ができたのに、言ってくれないから、互いに“殺す殺す”と言っているだけさ」と、意外な近似の面を覗かせた。その時のやり取りは同年6月に出版された[58]。また、同年6月からは、勝新太郎、石原裕次郎、仲代達矢らと共演する映画『人斬り』(五社英雄監督)の撮影に入り、三島は薩摩藩士田中新兵衛役を演じた。映画は同年8月に封切られた。
1969年(昭和44年)10月、楯の会の運営資金の問題をめぐり、万代潔、中辻和彦、持丸博(学生長)らが退会した(中辻らが田中清玄に資金を求めていたことで三島と齟齬が生じたという)。それに伴い、森田必勝が楯の会の学生長に任命された。このことについては、林房雄は、「彼ら(NとM)は小沢開策氏や私を感動させたのと同じ物語で、青年ぎらいの三島君を感動させた。少なくとも当初は彼らは見かけどおりに純粋で誠実であったかもしれぬ。だが、彼らは結局『天人五衰』の主人公のような悪質の贋物だった。(中略)ある“大先輩”の一人は、『ひどい目にあったな。結局彼らは戦後派青年の最悪のタイプ、いわば光クラブの連中みたいな奴らばかりだった』とまで極言した。(中略)『楯の会』はいち早く彼らを除名した。三島君は村松剛君を立会人としてNとMに破門と絶縁を申しわたした。その激怒ぶりは尋常ではなかった、と村松君は証言している。(中略)『楯の会』の会員は何度もフルイにかけられて精選された。(中略)前記NやMの光クラブ派は厳しく排除された」のだと述べている。そして、楯の会結成1周年記念パレードの前々日あたりに、三島は林房雄に、「あなたのお嫌いな連中はもういませんから、安心して見に来てください」と電話してきたという[59]。一方、村松剛によると、三島は持丸博が退会するときには、「楯の会の仕事に専念してくれれば生活を保証する」と引き止めたが、持丸はこれを断り去っていったという[41]。この時期、持丸は会の事務を手伝っていた松浦芳子と婚約していた。山本舜勝によると、三島は山本に、「男はやっぱり女によって変わるんですねえ」と悲しみと怒りの声でしんみり言ったという[60]。
1969年(昭和44年)10月25日、蓮田善明の25回忌に三島は、『蓮田善明全集』の刊行の協力要請を小高根二郎に願い出る。同年11月3日、楯の会結成1周年記念パレードを国立劇場屋上で行なう。三島は、このパレードに川端康成も招待したが断られ、落胆したという。1970年(昭和45年)1月17日、三島は坊城俊民夫妻との会食の席で、「ぼくは五十になったら、定家を書こうと思います。(中略)定家はみずから神になったのですよ。それを書こうと思います」と今後の執筆の抱負を語ったという[5]。同年2月、未知の男子高校生が三島宅を訪れ、「先生はいつ死ぬんですか」と問う。同時期には、徐々にクーデター計画をめぐり山本舜勝と意見が合わなくなり、1970年(昭和45年)4月頃から、三島と森田必勝ら先鋭メンバーが具体的な最終決起計画を練り始める(その経緯や詳細は三島事件を参照のこと)。
1970年(昭和45年)3月頃、三島は村松剛に、「『豊饒の海』第四巻の構想をすっかり変えなくてはならなくなった」と洩らしたという[41]。三島は、森田必勝らとの決起計画を進める一方、最終巻の取材のため、同年5月に清水港、駿河湾、6月に三保の松原に赴き、タイトルも決定し、7月から第四巻『天人五衰』の連載を開始した。同年8月、家族とともに下田に行く。帰京後の同月には、取材のため新富町の帝国興信所を訪れた。この頃にはすでに『天人五衰』はほぼ書き上がっていたという。同年9月に評論『革命哲学としての陽明学』を発表。また、同月には対談集『尚武のこころ』を、10月には対談集『源泉の感情』を出版する。
1970年(昭和45年)11月25日、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地内東部方面総監部の総監室を森田必勝ら楯の会メンバー4名とともに訪れ、面談中に突如益田兼利総監を、人質にして籠城。バルコニーから檄文を撒き、自衛隊の決起・クーデターを促す演説をした直後に割腹自決した(詳細は三島事件参照のこと)、(1970-1925)+((11-1)*100+(25-14)>=0)-1歳没。
決起当日の朝に、間接的に担当編集者(小島千加子)へ『豊饒の海』の第四巻『天人五衰』最終回が渡された。この小説が遺作となった。1970年(昭和45年)8月の時点で既に、結末部は脱稿していたが、巻末日付は11月25日と三島は記載していた。また、介錯に使われた自慢の名刀「関孫六」は当初白鞘入りだったが、三島が特注の軍刀拵えを作らせそれに納まっていた。事件後の検分によれば、目釘は固く打ち込まれさらに両側を潰し、容易に抜けないようにされていた。刀を贈った友人の舩坂弘は、死の8日前の「三島展」で孫六が軍刀拵えで展示されていたことを聞き、言い知れぬ不安を感じたという。
三島の自決の2か月前に対談した文学仲間で友人の武田泰淳は、自決する時期は、雑誌「海」に、戦中の精神病院を舞台にした長編小説『富士』を連載していた。三島事件が起こる直前の11月20日に脱稿した連載原稿に、三島を彷彿とさせる患者(自分を宮様と自称し、皇族宅に乱入して、「無礼者として殺せ」と要求し、最後は自決する)が描写されていた。担当編集者だった村松友視は、「この発表タイミングでは、『三島事件』をモデルにしたと読者に思われる」と懸念したが、武田はこの偶然に驚き、作品完成後は、「三島のおかげで、この小説を書きあげることができた」と語った[61]。武田泰淳は三島への追悼文で、「息つくひまなき刻苦勉励の一生が、ここに完結しました。疾走する長距離ランナーの孤独な肉体と精神が蹴たてていった土埃、その息づかいが、私たちの頭上に舞い上り、そして舞い下りています。あなたの忍耐と、あなたの決断。あなたの憎悪と、あなたの愛情が。そしてあなたの哄笑と、あなたの沈黙が、私たちのあいだにただよい、私たちをおさえつけています。それは美的というよりは、何かしら道徳的なものです。あなたが『不道徳教育講座』を発表したとき、私は『こんなに生真じめな努力家が、不道徳になぞなれるわけがないではないか』と直感したものですが、あなたには生まれながらにして、道徳ぬきにして生きて行く生は、生ではないと信じる素質がそなわっていたのではないでしょうか。あなたを恍惚とさせようとする『美』を押しのけるようにして、『道徳』はたえずあなたをしばりつけようとしていた」と記した[62]。
三島の辞世の句は、「益荒男が たばさむ太刀の 鞘鳴りに 幾とせ耐へて 今日の初霜」 、「散るをいとふ 世にも人にも 先駆けて 散るこそ花と 吹く小夜嵐」の2句。事件の翌日の11月26日、三島の自宅の部屋で、「限りある命ならば永遠に生きたい。 三島由紀夫」という遺書風のメモが見つかった。
翌年の1971年(昭和46年)1月14日、府中市多摩霊園の平岡家墓地に遺骨が埋葬された。この日は三島の誕生日でもある。同年1月24日に、築地本願寺で告別式(葬儀委員長・川端康成、弔辞・舟橋聖一ほか)が行われ、多くの一般会葬者が参列に来た。戒名は、彰武院文鑑公威居士。現在も忌日には、「三島由紀夫研究会」による憂国忌(主に九段会館)をはじめ、全国各地で民族派運動の諸団体が、追悼慰霊祭を行っている。三島を取材した通信社の元記者の取材ノートが、松戸市内の古書店の店主宅から見つかり元記者の長女に返還された。[63]
なお、川端康成の養女・政子の夫・川端香男里によると、三島が川端康成に宛てた手紙の最後のものは、自衛隊富士学校滝ヶ原駐屯地から出された鉛筆書きのもので、この手紙は川端康成によって焼却されたという。香男里によると、「文章に乱れがあり、これをとっておくと本人の名誉にならないからすぐに焼却してしまった」という[64]。しかし、これは川端の名誉にならないから焼却されたという見方もある[65]。
略年譜[編集]
- 1月 - 自家中毒に罹り、死の一歩手前までいく。
- 1931年(昭和6年)
- 4月 - 学習院初等科に入学。
- 1934年(昭和9年)
- 1937年(昭和12年)
- 4月 - 学習院中等科に入学。文芸部に入部。
- 1938年(昭和13年)
- 1939年(昭和14年)
- 4月 - 成城高校から清水文雄先生就任。
- 1940年(昭和15年)
- 1941年(昭和16年)
- 4月 - 「輔仁會雑誌」編集長に選任される。
- 7月 - 川路柳虹の紹介で萩原朔太郎を訪問。
- 9月 - ペンネームを三島由紀夫とし、『花ざかりの森』(同人誌「文藝文化」9月号から12月号まで4回連載)。蓮田善明に激賞される。
- 1942年(昭和17年)
- 3月 - 学習院中等科卒業(席次は2番)。
- 4月 - 学習院高等科文科乙類(ドイツ語)に入学。
- 5月 - 文芸部委員長に選任される。
- 7月 - 東文彦、徳川義恭の3人で、同人誌「赤繪」を創刊。
- 11月 - 清水文雄と共に、初めて保田與重郎を訪問。
- 1943年(昭和18年)
- 1月 - 『王朝心理文學小史』懸賞論文入選する。
- 2月 - 「輔仁會」の総務部総務幹事となる。
- 3月 - 『世々に残さん』(「文藝文化」10月号まで連載)。
- 6月 - 富士正晴に神田の七丈書院で会う、知己を得る。富士正晴は早速池袋の精神科開業医で詩人林富士馬に電話をして三島を連れて行く。その後、林と文学的文通、交際が深まる。この時期、蓮田善明とも顔を会わせる。
- 7月 - 徳川義恭と共に、志賀直哉を訪問。
- 10月 - 富士、林と共に、佐藤春夫を訪問。東文彦が死去。
- 1944年(昭和19年)
- 4月 - 徴兵検査通達書を受け取る。発信者は、本籍地・兵庫県印南郡志方村村長・陰山憲二。
- 5月 - 兵庫県加古郡加古川町(現・加古川市)の加古川公会堂(現・加古川市立加古川図書館)で徴兵検査を受け、第二乙種に合格。その足で伊東静雄を訪問。
- 9月 - 学習院高等科を首席で卒業し、宮中に参内し、天皇陛下より恩賜の銀時計を拝受。
- 10月 - 東京帝国大学法学法律学科(独法)に推薦入学。処女小説集『花ざかりの森』(七丈書院)刊。
- 1945年(昭和20年)
- 1月 - 学徒動員に伴い、東京帝国大学勤労報国隊としての群馬県の中島飛行機小泉製作所に配置される。群馬県新田郡太田町東矢島寮11寮35号室に入る。
- 2月 - 『中世』第一回、第二回(未完)(雑誌「文藝世紀」2月号)。入営通知の電報が来る。出立までに遺書を書き、遺髪と遺爪を用意する。兵庫県富合村で入隊検査を受け、右肺浸潤の診断が下され、即日帰郷となる。
- 5月 - 学徒動員に伴い、神奈川県の海軍高座工廠に配置される。神奈川県高座郡大和局気付高座廠第五工員寄宿舎東大法学部第一中隊第二小隊に入る。
- 8月 - 『エスガイの狩』(雑誌「文藝」5・6月合併号)。蓮田善明が自死。
- 10月 - 妹・美津子が死去。
- 1946年(昭和21年)
- 1947年(昭和22年)
- 4月 - 『軽王子と衣通姫』(「群像」)
- 6月 - 林房雄と出会う。以降、親交を持つ。
- 11月 - 東京大学法学部法律学科卒業。
- 12月 - 高等文官試験合格。大蔵省大蔵事務官に任官。銀行局国民貯蓄課に勤務。『盗賊』第2章(「文学会議」)。
- 1948年(昭和23年)
- 2月 - 『盗賊』第1章(「午前」)。
- 3月 - 『盗賊』第3章(「思潮」)、第5章(「新文学」)。
- 9月 - 願に依って大蔵省本官を退職。
- 10月 - 『盗賊』第4章(「文学会議」)。河出書房の同人誌「序曲」の創刊に参加。
- 11月 - 『盗賊』(真光社)刊。
- 1949年(昭和24年)
- 1950年(昭和25年)
- 1951年(昭和26年)
- 1952年(昭和27年)
- 1953年(昭和28年)
- 1954年(昭和29年)
- 1955年(昭和30年)
- 1956年(昭和31年)
- 1月 - 『金閣寺』(「新潮」10月号まで連載)。『白蟻の巣』、第2回岸田演劇賞受賞。
- 3月 - 「文学座」に入座。
- 4月 - 戯曲集『近代能楽集』(新潮社)刊。
- 9月 - ボクシングを始める(1957年6月ごろまで)。
- 11月 - 『鹿鳴館』を文学座が初演。
- 12月 - 『鹿鳴館』、毎日演劇賞。『永すぎた春』(講談社)刊。
- 1957年(昭和32年)
- 1958年(昭和33年)
- 6月 - 画家杉山寧の娘・瑤子と結婚。
- 7月 - 『薔薇と海賊』を文学座が初演。エッセイ『不道徳教育講座』(「週刊明星」1959年11月29日号まで)。
- 10月 - 『鏡子の家』第1章と第2章途中まで(「声」創刊号)。
- 11月 - 本格的に剣道を始める。
- 12月 - 『薔薇と海賊』、週刊読売新劇賞受賞。
- 1959年(昭和34年)
- 1960年(昭和35年)
- 1961年(昭和36年)
- 1月 - 『憂国』(「小説中央公論」冬季号)。
- 3月 - 『宴のあと』モデル問題で、有田八郎に提訴される(1966年和解)。
- 4月 - 剣道初段に合格。
- 6月 - 『獣の戯れ』(「週刊新潮」9月4日号まで連載)。
- 11月 - 『十日の菊』を文学座が初演。
- 1962年(昭和37年)
- 1963年(昭和38年)
- 1月 - 文学座から芥川比呂志、岸田今日子ら29人の劇団員が脱退し、福田恆存が中心となる「劇団雲」が結成され、三島は残される。
- 3月 - 剣道2段に合格。
- 9月 - 書き下ろし長編『午後の曳航』(講談社)。
- 10月 - 『剣』(「新潮」)。
- 11月 - 『喜びの琴』が上演中止になり、三島は文学座を退団(喜びの琴事件)。朝日新聞紙上にて『文学座の諸君への「公開状」―「喜びの琴」の上演拒否について』を発表。
- 1964年(昭和39年)
- 1月 - 『絹と明察』(「群像」10月号まで連載)。文学座を一緒に脱退したメンバーと「劇団NLT」を結成。
- 3月 - 剣道3段に合格。
- 5月 - 『宴のあと』がフォルメントール国際文学賞第2位受賞。
- 1965年(昭和40年)
- 1月 - 『絹と明察』、第6回毎日芸術賞受賞。
- 4月 - 短編映画『憂国』完成。
- 9月 - 『豊饒の海』第一巻『春の雪』(「新潮」1967年1月号まで連載)。
- 11月 - 『太陽と鉄』(「批評」12号(1968年6月)まで連載)。『サド侯爵夫人』を劇団NLTが初演。
- 1966年(昭和41年)
- 1月 - 映画『憂国』、ツール国際短編映画祭劇映画部門第2位受賞。
- 5月 - 剣道4段に合格。居合を始める。
- 6月 - 『英霊の聲』(河出書房)刊。
- 10月 - 自衛隊体験入隊を希望し、防衛庁関係者に依頼。
- 1967年(昭和42年)
- 1月 - 「論争ジャーナル」の万代潔、中辻和彦と、日本学生同盟の持丸博と出会う。
- 2月 - 『豊饒の海』第二巻『奔馬』(「新潮」1968年8月号まで連載)。居合初段に合格。
- 4月 - 自衛隊に体験入隊する(5月27日まで)。
- 5月 - 『真夏の死』がフォルメントール国際文学賞第2位受賞。『午後の曳航』もフォルメントール国際文学賞候補作品となる。
- 6月 - 早大国防部の代表・森田必勝と出会う。
- 7月 - 森田ら早大国防部と自衛隊北海道北恵庭駐屯地で体験入隊。空手を始める(6月に日本空手協会道場に入門)。
- 9月 - 『葉隠入門』(光文社)刊。
- 10月 - 『朱雀家の滅亡』を劇団NLTが初演。
- 11月 - 「論争ジャーナル」グループと民兵組織「祖国防衛隊」構想の試案パンフレットを作成。
- 12月 - 航空自衛隊のF-104戦闘機に試乗。山本舜勝に出会う。
- 1968年(昭和43年)
- 3月 - 自衛隊富士学校滝ヶ原駐屯地で、学生らを引率する第1回自衛隊体験入隊(30日まで)。(以降、1970年まで第5回の体験入隊と、2回のリフレッシャー・コース体験入隊が行なわれる)
- 4月 - 劇団浪曼劇場を結成。
- 7月 - 『文化防衛論』(「中央公論」)。
- 8月 - 剣道5段に合格。
- 9月 - 『豊饒の海』第三巻『暁の寺』(「新潮」1970年4月号まで連載)。
- 10月 - 祖国防衛隊から「楯の会」正式結成。
- 1969年(昭和44年)
- 1月 - 『わが友ヒットラー』を劇団浪曼劇場が初演。
- 5月 - 東大全共闘委員会主催の討論会に出席。
- 6月 - 映画『人斬り』(五社英雄監督)出演(8月封切)。
- 7月 - 『癲王のテラス』を劇団浪曼劇場+劇団雲+東宝が初演。『若きサムラヒのために』(日本教文社)刊。
- 10月 - 持丸博の退会に伴い、楯の会の学生長が森田必勝になる。
- 11月 - 『蘭陵王』(「群像」)。歌舞伎『椿説弓張月』が初演。
- 1970年(昭和45年)
- 6月 - 空手初段に合格。
- 7月 - 『豊饒の海』第四巻『天人五衰』(「新潮」1971年1月号まで連載)。
- 9月 - 対談集『尚武のこころ』(日本教文社)刊。
- 10月 - 対談集『源泉の感情』(河出書房新社)刊。
- 11月25日 - 陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地・東部方面総監部にて益田兼利総監を拘束し、バルコニーで演説(三島事件)。森田必勝と共に割腹自決。
作風・評価[編集]
三島文学の文体は、終始レトリックを多様に使っているところが最大の特徴である。日本人作家でありながら、その表現方法は、他の日本人作家よりも、外国人作家に近い。長岡實は、「日本の文学愛好者の中にはどちらかというと淡泊でむしろ余韻のある文章を好んで読む傾向があるが、三島作品はどちらかというと濃密な表現を積み重ねていく文学である。こうした点で外国の文豪にも通じ、世界的に高い評価を得ているのではないか?」と分析している[66]。
三島文学の作風としては生と死、文と武、精神と肉体、言葉と行動といった二元論的思考がみられるが、単純な対立関係ではないところに特徴がある(本人曰く、「『太陽と鉄』は私のほとんど宿命的な二元論的思考の絵解きのようなものである」と述べている[67])。
代表作の一つ『仮面の告白』の題については、「仮面を被る」のが告白と反対になる概念であるが、両者をアイロニカルに接合している事が指摘される。『純白の夜』、『愛の渇き』、『美徳のよろめき』、『春の雪』なども、反対の概念をアイロニカルに組み合わせた題の例である。
近代日本文学史の傾向においては、ロマン主義、耽美主義に分類されている。ジョルジュ・バタイユ的な生と死の合一といったエロティシズム観念も、『憂国』、『春の雪』で顕著に表れるが、バタイユのエロティシズムとは禁止を犯す不可能な試みで、三島のロマン主義的憧憬とも一致するものであった。三島はバタイユについて、「人間の神の拒否、神の否定の必死の叫びが、実は“本心からではない”ことをバタイユは冷酷に指摘する。その“本心”こそ、バタイユのいはゆる“エロティシズム”の核心であり、ウィーンの俗悪な精神分析学者などの遠く及ばぬエロティシズムの深淵を、われわれに切り拓いてみせてくれた人こそバタイユであつた」[53][54]と論じていた。また、死の1週間前に行なわれた対談の中では、「バタイユは、この世でもっとも超絶的なものを見つけだそうとして、じつに一所懸命だったんですよ。バタイユは、そういう行為を通して生命の全体性を回復する以外に、いまの人間は救われないんだと考えていたんです」[68][69]と述べている。
また作品の人工性も指摘される。その人工性について、川端康成は三島の初の長編『盗賊』の書評の中で、「すべて架空であり、あるひはすべて真実であらう。私は三島君の早成の才華が眩しくもあり、痛ましくもある。三島君の新しさは容易には理解されない。三島君自身にも容易には理解しにくいのかもしれぬ。三島君は自分の作品によつてなんの傷も負はないかのやうに見る人もあらう。しかし三島君の数々の深い傷から作品が出てゐると見る人もあらう。この冷たさうな毒は決して人に飲ませるものではないやうな強さもある。この脆そうな造花は生花の髄を編み合せたやうな生々しさもある」[70]と記している。
女優・村松英子によると、三島は、「基本としてドメスティック(日常的)な演技を必要だけど、それだけじゃ、“演劇”にならない。大根やイワシの値段や井戸端会議を越えた所に、日常の奥底に、人間の本質のドラマがあるのだからね」、「怒りも嘆きも、いかなる叫びも、ナマでなく濾した上で、舞台では美しく表現されなければならない。汚い音、汚い演技は観客に不快感を与えるから」[71]と表現の指導をしていたという。また、荻昌弘との対談でも三島は、「アーサー・シモンズの言葉、『芸術でいちばんやさしいことは、涙を流させることと、わいせつ感を起させることだ』というのがあるが、これは千古の名言だと思う」と述べ、「日本人の平均的感受性に訴えて、その上で高いテーマを盛ろうというのは、芸術ではなくて政治だよ。(中略)国民の平均的感受性に訴えるという、そういうものは信じない。進歩派が『二十四の瞳』を買うのはただ政治ですよ」[72]という芸術論を持っていた。
10歳の時に書いたという小品『世界の驚異』、14歳の時の詩『凶ごと(まがごと)』から、『金閣寺』、『鏡子の家』、最晩年の『豊饒の海』で寂寞のうちに閉じるという印象的な結末まで、数多くの作品にはニヒリズム的な傾向が認められる。三島自身、「『鏡子の家』は、いはば私の“ニヒリズム研究“だ」と言い、意気込んで書いたが期待とは裏腹に世間では評価されなかった[73]。佐伯彰一も『鏡子の家』について、登場人物の「ぶつかり合いが起こらない」として、低評価を与えているが、三島の「創作ノート」では、人物間の絡み合う場面がいくつか構想されていた。それらは皆廃案とされたのである。井上隆史は、「人物が複雑に絡み合うことのない展開は、相応に考え抜かれた構成なのであって、この点を考慮することなしには、『鏡子の家』に対する充分に行き届いた理解も、意味のある批判も不可能であるように思われる」[74]と述べている。佐藤秀明は、「4人の人間が干渉し合わないというのも、今の目から見れば、現代的な人間関係のあり方を早くも捉えていたと言えるのである」、「彼らの危機は、一様に“ニヒリズム”と呼ぶことができる。そのニヒリズムの芽を彼らは待ち続け、より大きな破壊を待望していた気配はある」[75]という見解を示している。
三島は劇作家でもあり、唯一翻訳出版したのも戯曲である。演劇は、二項の対立・緊張による「劇」的展開を得意とした。「告白の順番は詩・戯曲・小説の順で、詩が一番、次が戯曲で、小説は告白に向かない、嘘だから」と述べ、また戯曲は小説よりも「本能的なところ」にあると述べていることからも、私小説的な従来のものと逆の観念を持っていたことがうかがえる。これは戯曲がそもそも虚構の舞台に捧げられているのに対し、小説が現実世界と紙一枚隔てるに留まり容易に「侵入」を許すという構造の違いに由来すると思われ、三島は『豊饒の海』第3巻『暁の寺』脱稿後の心境を、「いひしれぬ不快」[53]だったと述べている。戯曲『薔薇と海賊』は要するに書き手とその作品世界との幸福な合体がテーマであり、自決の直前に上演されたこの劇を見て三島が涕泣したというエピソードからも告白の意味の重みが了解されよう[76]。これらも「作品・芸術」と「作者・現実」といった二分法を仮定しており、多く小説では分裂の悲劇性となって表れる。『潮騒』は例外的に2項対立を無化したものであるが、同時に2年前にギリシア旅行で得た、明朗な「アポロン的」イメージ(旅行記『アポロの杯』など)を反映している。晩年5年間は政治性に傾斜していった。
『午後の曳航』などを翻訳したことのあるジョン・ネイスンは、「たしかに、三島の何とも優美で華麗な表現力をそなえた日本語は、多少熟れすぎではあったが、骨の髄まで日本的であった。三島が毎夜、真夜中から明け方までかけて紡ぎ出した日本語こそが彼にとって真の重大事であり、その一生を規定したのだ」、「(三島の死は)一つの国民的苦悩の明快で適切無比な表現であったことも理解されなければならない。これぞ文化的廃嫡の苦悩であった」[77]と述べている。
三島の創作傾向は、古代ギリシアの『ダフニスとクロエ』から着想した『潮騒』、能楽や歌舞伎、エウリピデスなどを下敷きにした数々の戯曲、『浜松中納言物語』を典拠とした『豊饒の海』など、古典から、その源泉を汲み上げ、新しく蘇らせようとする作風傾向がある。
三島の持論[編集]
改憲論[編集]
三島が楯の会での憲法研究を踏まえて没年に著した『問題提起』の第二・「戦争の放棄」(憲法改正草案研究会配布資料、1970年7月)[38]では、日本国憲法第9条は「敗戦国日本の戦勝国への詫証文」であると断じている。そして憲法第9条第2項では、自衛権・交戦権およびいかなるすべての戦力の所有を否定しており、それを遵守すれば、日本は侵略されても自衛すら許されないまま「“国家として死ぬ”以外にはない」から、そのため政府はいわゆる緊急避難の解釈理論という「牽強付会の説を立てた」と述べ、それは、「実際に執行力を持たぬ法の無権威を暴露するのみか、法と道徳との裂け目を拡大」しているとし、「国家理念を剥奪された日本」は、「生きんがためには法を破らざるをえぬことを、国家が大目に見るばかりか、恥も外聞もなく、国家自身が自分の行為としても大目に見ることになつた」と断じている。
また三島は、法的には明らかに違憲である自衛隊の創設は、皮肉にも、「新憲法を与へたアメリカ自身の、その後の国際政治状況の変化による要請に基づくものである」が、朝鮮戦争やベトナム戦争という難関を突破した1970年以降も、ただ護憲を標榜するだけの政府について、「消極的弥縫策(一時のがれにとりつくろって間に合わせるための方策)にすぎず」、「しかもアメリカの絶えざる要請にしぶしぶ押されて、自衛隊をただ“量的に”拡大し」、「平和憲法下の安全保障の路線を、無目的無理想に進んでゆく」と問題提議を唱えている。
なお、いわゆる「押しつけ憲法論」について三島は、同条が日本の戦力の所有を徹頭徹尾否定する内容である以上、「この詫証文の成立が、日本側の自発的意志であるか米国側の強制によるかは、もはや大した問題ではない」とし、この条約が「国家としての存立を危ふくする立場に自らを置くものであることは明らかである」と断じている。
さらに、改憲に当たっては憲法第9条第2項だけを削除すればよい、という意見に対しては、そのためには「第九条第一項の規定は、世界各国の憲法に必要条項として挿入されるべきであり、日本国憲法のみが、国際社会への誓約を、国家自身の基本法に包含するといふのは、不公平不調和」であると断じ、「敗戦憲法の特質を永久に免かれぬことにならう」と批判し、「第九条全部を削除」すべしと主張している。
また同論では、改憲にあたっては憲法第9条のみならず、第1章「天皇」の問題と、第20条「信教の自由」に関する神道の問題と関連させて考えなければ、日本は独立国としての体面を回復できず、アメリカの思う壺にはまるだけであると警告している。憲法9条のみを改正し、日米安保を双務条約に書き変えるだけでは、韓国その他アジア反共国家と並ぶだけの結果に終ると警告し、正しい日本の体面回復のためには、憲法9条を全部破棄し、その代わりに、日本国軍を設立し憲法に、「日本国軍隊は、天皇を中心とするわが国体、その歴史、伝統、文化を護持することを本義とし、国際社会の信倚と日本国民の信頼の上に健軍される」という建軍の本義を規定・明記するべきであると主張している。
また三島は、平和憲法と呼ばれる憲法9条について、「完全に遵奉することの不可能な成文法の存在は、道義的退廃を惹き起こす」と、闇市の取締りを引き合いに出して批判し、「戦後の偽善はすべてここに発したといつても過言ではない」[78][38]と断じた。
三島が自衛隊を違憲だとし、政府の「解釈改憲」を批判したのは以上の論点による。
なお、三島は1969年(昭和44年)12月から楯の会会員のうち13人を募って「憲法研究会」を発足した(班長・阿部勉)。翌年1970年(昭和45年)1月以降、三島が執筆した『問題提起』第一・「新憲法における『日本』の欠落」(1970年5月に配布)、第二・「戦争の放棄」(1970年7月に配布)、第三・「非常事態法について」(1970年9月に配布)を基本資料とし、研究会は憲法改正案を起草し続けた。結局、三島の死後の1971年(昭和46年)2月になって、研究会による一連の議論の記録及び憲法改正案から成る「維新法案序」を完成[79]。楯の会は同月28日に解散した。この「維新法案序」は産経新聞の2003年(平成15年)11月2日号により初めて紹介された[7]。
自衛隊論[編集]
上記のように、三島にとって日本の再軍備は日本の存続において不可欠なものであった。『問題提起』[38]。でも、「防衛は国の基本的な最重要問題であり、これを抜きにして国家を語ることはできぬ。 物理的に言つても、一定の領土内に一定の国民を包括する現実の態様を抜きにして、国家といふことを語ることができないならば、その一定空間の物理的保障としては軍事力しかなく、よしんば、空間的国家の保障として、外国の軍事力(核兵器その他)を借りるとしても、決して外国の軍事力は、他国の時間的国家の態様を守るものではない」と、ロン・ノルが「赤化した」シハヌーク国家元首を追放した1970年(昭和45年)のクーデターを引き合いに出して日米安保に安住することを批判し、日本の自主防衛を訴えている。
三島は、人生最後の日の檄文で、「自衛隊は敗戦後の国家の不名誉な十字架を負ひつづけて来た。自衛隊は国軍たりえず、建軍の本義を与へられず、警察の物理的に巨大なものとしての地位しか与へられず、その忠誠の対象も明確にされなかつた」と訴えた(同様の趣旨は『問題提起』でも示されている)。そして、「政体を警察力を以て守りきれない段階に来て、はじめて軍隊の出動によつて国体が明らかになり、軍は建軍の本義を回復するであらう」と説き、前述のように前年の国際反戦デーの左翼デモ・10.21国際反戦デー闘争 (1969年)の際に自衛隊治安出動がおこなわれなかったことに憤った。
檄文では、「諸官に与へられる任務は、悲しいかな、最終的には日本からは来ないのだ。(中略)国家百年の大計にかかはる核停条約は、あたかもかつての五・五・三の不平等条約の再現であることが明らかであるにもかかはらず、抗議して腹を切るジェネラル一人、自衛隊からは出なかつた。沖縄返還とは何か? 本土の防衛責任とは何か? アメリカは真の日本の自主的軍隊が日本の国土を守ることを喜ばないのは自明である。あと二年の内に自主性を回復せねば、左派のいふ如く、自衛隊は永遠にアメリカの傭兵として終るであらう」とも警告した。
この警告について西尾幹二は、「三島由紀夫はNPTのことを語っているのだ。(中略)彼が自衛隊に蹶起を促すのは、明らかに核の脅威を及ぼしてくる外敵を意識しての話なのである。このままでよいのかという切迫した問いを孕んでいる」、「六年前に中国が核実験に成功し、核保有の五大国として“核停止条約”(NPTのこと)で特権的位置を占め、三島が死んだこの年に台湾を蹴落として国連に加盟、常任理事国となるのである。『五・五・三の不平等条約』とは、ワシントン会議における米英日の主力戦艦の保有比率であることは見易い。三島は、NPTに署名し核を放棄するのは『国家百年の大計にかかはる』と書いている。NPTの署名を日本政府が決断したのは1970(昭和45)年2月3日で、同じ年の11月25日に三島は腹を切った。そして、NPTの署名と核武装の放棄を理由に、佐藤栄作はノーベル平和賞の名誉に輝いた。(中略)『あと二年』とは1972(昭和47)年を指す。沖縄返還が72年に実現した。その頃から準備と工作を続け、74年にノーベル平和賞である」[80]と述べている。
三島の『「変革の思想」とは ― 道理の実現』(読売新聞 1970年1月19・21・22日に連載)という文章には、檄文や演説では言い尽くされていなかった三島の自衛隊に対する考えが、余すところなく書かれている[81][38]。
この中で三島は、「改憲サボタージュ」が自民党政権の体質となっている以上、「改憲の可能性は右からのクーデターか、左からの暴力革命によるほかはないが、いずれもその可能性は薄い」と指摘。そして、本来、祭政一致的な国家であった日本は、現在、「統治的国家(行政権の主体)」と「祭祀的国家(国民精神の主体)」の二極分化を起こし、「後者が前者の背後に影のごとく揺曳してゐる」と指摘し、国民に対しそのどちらかに忠誠を誓うかを問うた。それに合わせて、“現憲法下で”という条件付であるが、
- 航空自衛隊の9割、海上自衛隊の7割、陸上自衛隊の1割で「国連警察予備軍」を編成し、対直接侵略を主任務とすること。この軍は統治国家としての日本に属し、安保条約によって集団安全保障体制にリンクする。根本理念は国際主義的であり、身分は国連事務局における日本人職員に準ずる。
- 陸上自衛隊の9割、海上自衛隊の3割、航空自衛隊の1割で「国土防衛軍」を編成し、絶対自立の軍隊としていかなる外国とも軍事条約を結ばない。その根本理念は祭祀国家の長としての天皇への忠誠である。対間接侵略を主任務とし、治安出動も行う。
という「自衛隊二分論」の提案をおこなっている。2.の「国土防衛軍」には多数の民兵が含まれるとし、「楯の会」はそのパイオニアであるとしている。
『文化防衛論』(中央公論 1968年7月号に掲載)[57]。では、天皇が自衛隊の儀仗を受けることと、連隊旗を直接下賜することを提言し、自衛隊の名誉回復を主張している。
このように、三島が自衛隊に望んでいたことは以下の2点に集約される。
- 自衛隊の名誉回復、国軍化
- 日米安保体制からの将来的な脱却と自主防衛
天皇論[編集]
一方、三島の天皇に対する態度は複雑であった。
三島は、最期の日の演説や檄文などで、「歴史と文化の伝統の中心」、「祭祀国家の長」として天皇を絶対視していた。さらに『文化防衛論』[57]においては、「文化概念としての天皇」という概念を主張し、日本の文化の中心であった天皇は、「国と民族の非分離の象徴であり、その時間的連続性と空間的連続性の座標軸である」としている。また、伊勢神宮の造営や、歌道における「本歌取り」の法則などに例をみるように、本来、オリジナルとコピーの弁別を持たない日本文化では、「各代の天皇が、正に天皇その方であつて、天照大神(あまてらすおほみかみ)とオリジナルとコピーの関係にはない」とし、天皇は宗教的で、神聖な、インパーソナルな存在であると主張した。そして、「文化概念の定義は、おのづから文化を防衛するにはいかにあるべきか、文化の真の敵は何かといふ考察を促すであらう」と述べ、「“守る”とはつねに剣の原理である」とし、「菊と刀の栄誉が最終的に帰一する根源が天皇なのであるから、軍事上の栄誉も亦、文化概念としての天皇から与へられなければならない。(中略)天皇に栄誉大権の実質を回復し、軍の儀仗を受けられることはもちろん、聨隊旗も直接下賜されなければならない」、「天皇と軍隊を栄誉の絆でつないでおくことが急務」であると主張している。
インパーソナルな天皇像を希求するがゆえ、1966年(昭和41年)の林房雄との対談では、「僕はどうしても天皇というのを、現状肯定のシンボルにするのはいやなんですよ」、「天皇というのは、僕の観念のなかでは世界に比類のないもので、現状肯定のシンボルでもあり得るが、いちばん先鋭な革新のシンボルでもあり得る二面性をもっておられる」[82]などと発言し、天皇イコール「革新のシンボル」との位置づけを頻繁に試みるようになる。その流れから、国民と天皇を現代的感覚で結びつけようという、大衆社会化に追随した戦後の象徴天皇制を、「週刊誌的天皇制」(皇室が週刊誌のネタにされるほど貶められた、という意味)として唾棄し、「国民に親しまれる天皇制」のイメージ作りに多大な影響力を及ぼし、民主化しようとしてやり過ぎた小泉信三を、皇室からディグニティ(威厳)を奪った「大逆臣」と呼んで痛罵するなどした。さらに、昭和天皇に対しては、「ぼくは、むしろ(昭和)天皇個人にたいして反感を持っているんです。ぼくは戦後における天皇人間化という行為を、ぜんぶ否定しているんです」[68][69]と死の1週間前に行なわれた対談で発言している。
昭和天皇に対する否定的な感情は、二・二六事件三部作の最後を飾る『英霊の聲』で端的に表されている。三島はその作中で、「たつたお孤りで、あらゆる辛苦をお忍びになりつつ、陛下は人間であらせられた。清らかに、小さく光る人間であらせられた。それはよい。誰が陛下をお咎めすることができよう」と前置きした上で、昭和天皇に、「だが、昭和の歴史においてただ二度だけ、陛下は神であらせられるべきだつた。何と云はうか、人間としての義務(つとめ)において、神であらせられるべきだつた」と批判する。「二度」のケースとは、
- 「兄神たちの蹶起の時」。すなわち、誠忠の士であった二・二六事件の青年将校らを、人間的な感情から、「叛逆の徒」として銃殺の極刑にはずかしめたこと。
- 「われらの死のあと、国の敗れたあとの時」。すなわち、戦後の「人間宣言」により、「神としての天皇のために死んだ」神風特攻隊隊員らの至誠を裏切ったこと。
であり、三島は、二・二六事件の蹶起将校と特攻隊隊員の霊に「などて天皇(すめろぎ)は人間(ひと)となりたまひし」と、ほとんど呪詛に近い言葉を語らせている。また同時に、昭和天皇の側近でだった幣原喜重郎も批判している。
高橋睦郎によると、三島は昭和天皇について、「彼にはエロティシズムを感じない、あんな老人のために死ぬわけにはいかない」と発言し、さらに当時の人気歌手を引き合いに出して「三田明が天皇だったらいつでも死ぬ」と発言したことがあったという[83]。
だが、その一方で、旧制学習院高等科を首席で卒業した際、恩賜の銀時計を拝受し昭和天皇に謁見したことを感慨深く回想している。1969年(昭和44年)5月13日におこなわれた東大全共闘との討論集会においても、学習院高等科の卒業式に臨席した昭和天皇が「3時間(の式の間)、木像のごとく全然微動もしない」御姿が大変ご立派であったと、敬意を表することも一再ならずあった。同討論集会で三島は、「天皇を天皇と諸君が一言、言ってくれれば、私は喜んで諸君と手をつなぐ(共闘する)のに、言ってくれないから、いつまでたっても“殺す、殺す”といっているだけのことさ」[58][69]と言い放ち、全共闘学生を挑発した。
三島は福田恆存との対談『文武両道と死の哲学』(論争ジャーナル 1967年11月号に掲載)[56][84]において、井上光晴の「三島さんは、おれよりも天皇に苛酷なんだね」との評を引用し、天皇に過酷な要求をすることこそが天皇に対する一番の忠義であると語っている。また、同対談では、「天皇というのは、国家のエゴイズム、国民のエゴイズムというものの、一番反極のところにあるべきだ。そういう意味で、天皇は尊いんだから、天皇が自由を縛られてもしかたがない。その根元にあるのは、とにかく“お祭”だ、ということです。天皇がなすべきことは、お祭、お祭、お祭、お祭、― それだけだ。これがぼくの天皇論の概略です」と三島は語っている。
なお、鈴木邦男によると、楯の会の「憲法研究会」において、三島は自身の持論をメモに残しているという。その中では、天皇は国体であり、「神勅を奉じて祭祀を司り」、「国軍の栄誉の源」であるという原則とともに「皇位は世襲であって、その継承は男系子孫に限ることはない」と書かれており、三島が女系天皇を容認していたことが分かるという要出典。また、当時この持論はほとんど賛同を得られなかったが、近年皇位継承問題が表面化したことから注目を集めているという見解を、鈴木邦男は示し、戦後昭和天皇が側室制度を廃止し、11宮家を臣籍降下させたことなどにより、将来皇統問題が必ず起こることを三島は予見していたのではないか、と推測している[85]。つまり、この見解も昭和天皇への批判ということになるという。
しかし実際には、鈴木邦男が主張している「三島が女系天皇を容認していたことを示すメモ」なるものは存在していない。鈴木が見解の元としている出典の松藤竹二郎の著書『血滾ル 三島由紀夫「憲法改正」』、『日本改正案 三島由紀夫と楯の会』、『三島由紀夫「残された手帳」』にも、三島が女系天皇を容認していたことを示すようなメモや記述、あるいは伝言の提示はない。松藤の著書で示された三島が残した憲法改正案は、第一・「新憲法に於ける『日本』の欠落」と、第二・「戦争の放棄」と、第三・「非常事態法について」の3章から成る『問題提起』[38]という論文のみである。そこには、天皇の皇位継承の男系・女系については一切触れられていない。松藤竹二郎の著書を仔細に読むと、鈴木邦男が言う「皇位は世襲であって、その継承は男系子孫に限ることはない」という案は、三島の死後に、「憲法研究会」で討議案をまとめた中の、あくまで一会員の一つの意見であるにすぎず、それに異議を唱える会員の意見もあり、楯の会の「憲法研究会」の総意ですらない。よって「憲法研究会」の話し合いの結論も、「“継承は男系子孫に限ることはない”という文言は憲法に入れる必要ない」という結論となっている。さらに、「憲法研究会」のリーダー的役割であり、改正案の話し合いの記録を保管していた班長・阿部勉の提案した「女帝を認める」という意見に関しても、「皇統には複数の女帝がおられたんで、女帝は絶対だめだというような意見には反対だという意味ですよ、消極的な」と阿部勉は語り、「積極的な一つの主義として確立しろという意味ではない」と述べている[86]。
その天皇主義的な側面から、三島を右翼と評する向きもあるが、生前には『風流夢譚』事件で右翼の攻撃対象となるなど、必ずしも既存右翼と常に軌を一にしていたわけではない(もっとも、1965年(昭和40年)頃に毛呂清輝らとの交流があったことが、書簡等で明らかとなっている)。しかしその右翼陣営も、三島自決後は三島をみずからの模範として崇敬(もしくは政治利用)するようになる。
なお、磯田光一が三島が亡くなる1ヶ月前に三島から言われた言葉として、本当は腹を切る前に宮中で天皇を殺したいが、宮中に入れないので自衛隊にした、と聞かされたと島田雅彦との対談で述べているが[87]、これに対しては、用心深かった三島が事前に決起や自決を漏らすようなことを部外者に言うはずがないと指摘されている[10]。
長く昭和天皇に側近として仕えた入江相政の日記(『入江相政日記』)の記述から、昭和天皇自身が三島や三島事件に少なからず意を及ぼしていたのではないかとの指摘がある[88]。
漫画に対して[編集]
三島は水木しげる、つげ義春や好美のぼるらの漫画を複数所蔵していたことが明らかになっている[89]。
手塚治虫や水木しげるについて三島は、「劇画や漫画の作者がどんな思想を持たうと自由であるが、啓蒙家や教育者や図式的風刺家になつたら、その時点でもうおしまひである。かつて颯爽たる『鉄腕アトム』を想像した手塚治虫も、『火の鳥』では日教組の御用漫画家になり果て、『宇宙虫』ですばらしいニヒリズムを見せた水木しげるも『ガロ』の『こどもの国』や『武蔵』連作では見るもむざんな政治主義に堕してゐる。一体、今の若者は、図式化されたかういふ浅墓な政治主義の劇画・漫画を喜ぶのであらうか。『もーれつア太郎』のスラップスティックスを喜ぶ精神と、それは相反するではないか」、「折角『お化け漫画』にみごとな才能を揮ふ水木しげるが、偶像破壊の『新講談 宮本武蔵』(1965年)を描くときは、芥川龍之介と同時代に逆行してしまふ」[37]と辛辣な評を残す一方、赤塚不二夫に関しては、「いつのころからか、私は自分の小学生の娘や息子と、少年週刊誌を奪い合つて読むやうになつた。『もーれつア太郎』は毎号欠かしたことがなく、私は猫のニャロメと毛虫のケムンパスと奇怪な生物ベシのファンである。このナンセンスは徹底的で、かつて時代物劇画に私が求めてゐた破壊主義と共通する点がある。それはヒーローが一番ひどい目に会ふといふ主題の扱ひでも共通してゐる」[37]と絶賛している。このことから当時の同世代人の中では三島は相当量の漫画の読み手であったことが窺える。また、「平田弘史の時代物劇画がなどに、そのあくまで真摯でシリアスなタッチに、古い紙芝居のノスタルジヤと“絵金”的幕末趣味を発見してゐたのである」[37]と述べ、白土三平はあまり好まないと述べている。
ボクシング観戦好きで、自身も1年間ほどジムに通った経験のあった三島は、雑誌「週刊少年マガジン」に連載されていた『あしたのジョー』を愛読していたという。夏のある日の深夜、講談社のマガジン編集部に三島が突然現れ、今日発売されたばかりのマガジンを売ってもらいたいと頼みに来たという。理由を聞くと、三島は毎週マガジンを買うのを楽しみにしていたが、その日に限って映画の撮影(『黒蜥蜴』)で、帰りが夜中になり買うところもなくなったため、編集部で売ってもらおうとやって来たという。三島は、「『あしたのジョー』を読むために、毎週水曜日に買っている」と答えた。財布を出した三島に対して、編集部ではお金のやりとりができないから、1冊どうぞと差し出すと嬉しそうに持ち帰ったという。当時は24時間営業のコンビニなどはなかったため、夜になって書店が閉店してしまうと、もう雑誌を買うことができなかった。三島は『あしたのジョー』が読みたくて翌日まで待てなかった[90]。
裁判[編集]
『宴のあと』裁判[編集]
三島は、日本で最初のプライバシーの侵害裁判の被告でもある。もの珍しさから、「プライバシーの侵害」という言葉は当時、流行語となった[91]。
1961年(昭和36年)3月15日、元外務大臣・東京都知事候補の有田八郎は、三島の『宴のあと』という小説が自分のプライバシーを侵すものであるとして、三島と出版社である新潮社を相手取り、損害賠償100万円と謝罪広告を求める訴えを東京地方裁判所で起した。裁判は、「表現の自由」と「私生活をみだりに明かされない権利」という論点で進められたが、1964年(昭和39年)9月28日に東京地方裁判所で判決[92]が出て、三島側は80万円の損害賠償の支払いを命じられた(ただし謝罪広告の必要はなし)。三島側は10月に控訴するが、この後、1965年(昭和40年)3月4日に有田が死去したため、1966年(昭和41年)11月28日、有田の遺族と三島・新潮社との間に和解が成立した。
当初、この件で三島は友人である吉田健一(父親・吉田茂が外務省時代に有田の同僚であった)に仲介を依頼したものの上手くいかず、吉田健一が有田八郎側に立った発言をしたため、この事が後に三島と吉田が絶交に至る機縁になったといわれている。
三島の死の1週間前に行なわれた古林尚との対談『三島由紀夫 最後の言葉』によると、この『宴のあと』裁判の一件で三島は裁判というものを信じなくなったという。法廷で弁護人から、「三島に著名入りで本(有田八郎著『馬鹿八と人はいう』)をやったか」と質問が出たとき有田八郎は、「とんでもない、三島みたいな男にだれが本なんてやるもんか…(後略)」と答え、弁護人が、「もしやっていらっしゃったら、ある程度三島の作品を認めたか、あるいは書いてもらいたいというお気持があったと考えてよろしいですね?」と念押しされ、「そのとおりですよ」と有田は、断固、本は渡していないと主張したという。ところが、三島は有田から、「三島由紀夫様、有田八郎」と著名された本を貰っていた。それを三島側が提示すると、傍聴席が驚いたという。三島は、あの裁判がもし陪審制度だったら、自分は勝っていただろうと述べている。裁判所の判断は、有田が老体であるとか、社会的地位や名声を配慮して有田八郎に有利に傾き、民事裁判にもかかわらず、刑事訴訟のように、被告は「三島」と呼び捨てにされていたという。ときどき気が付いて「さん」付けになるものの、ほぼ呼び捨てだったという[68][69]
『三島由紀夫-剣と寒紅』裁判[編集]
1998年(平成10年)3月20日、福島次郎が文藝春秋社から小説『三島由紀夫-剣と寒紅』を発売した。内容は三島と福島の同性愛の関係を描いたセンセーショナルなものであった。三島から福島に送られた15通の書簡の全文も掲載されているなど話題を呼んだ。ただし、この本は著者自身が巻末に、「この“小説”を書くに当って」と書いているように、決してノンフィクションであるとはどこにも断られてなく、出版社も「文学」、「自伝小説」を強調する宣伝をしていた。これについて板坂剛は、内容がすべて事実であると言い切る自信が出版社にないからだと述べ、同性愛行為を描いている文章部分も、意識を失っていたはずの福島が克明に描写するのはおかしいと矛盾点を指摘している。また、「明らかなことは福島次郎も結局は三島に対するストーカーでしかなかった」という見解を示し、「文藝春秋の人間でさえ、福島には妄想癖と虚言癖がある、と認めている」と述べている。板坂剛は、「スーパースターとの過去をひけらかすことで売名に成功した松田聖子の元愛人を自称する外国人たちと、福島次郎は結局同類である」と述べ、三島研究者にとって参考になるのは、小説中に掲載された三島の書簡だけという見解を示している[93]。
1998年(平成10年)3月24日、小説中に掲載された三島の書簡について、「手紙を無断で掲載・公表、複製するのは著作権侵害」である」として、三島由紀夫の相続人である三島の長女・冨田紀子と、長男・平岡威一郎の2人は、著者・福島次郎と出版元である文藝春秋社に出版差し止めを求める仮処分を東京地方裁判所に申請し、民事裁判を起こした。
1998年(平成10年)3月30日の一審、1999年(平成11年)10月18日の二審ともに、東京地裁は、文藝春秋社側の主張である「手紙の内容は実用的な通信文であり著作物にあたらない」との言い分を退け、「書簡は事務的な内容の他、三島の自己の作品に対する感慨、抱負や折々の人生観などが、文芸作品とは異なる飾らない言葉で述べられている」とし、書簡を著作物であるという判決を下し、原告が勝訴した。被告側は500万円の損害賠償などを命じられ、控訴した。
2000年(平成12年)5月23日、東京高等裁判所は、被告側の主張は、事実誤認や単なる法令違反で上告理由にあたらないとし、福島次郎と文藝春秋側の控訴を棄却した。判決文の「著作権侵害による損害賠償は、文学的価値ではなく財産的価値の侵害による賠償であって、三島由紀夫と控訴人福島の知名度や文学者としての名声を比較すれば、本件各手紙が本件書籍において、財産的に重要なものであること、すなわち、本件書籍購入の意欲をそそり、本件書籍の商業的成功をもたらすという点で重要なものであることは明らかである」[94]により、書簡も著作物にあたる場合があるとの高裁判決が確定した。なお、裁判は著作権上の判断であり、争点は福島の著書の内容に関しての真偽についてではなかった。というのは、あらかじめこの著書にはアリバイ的に巻末の中で「小説」と銘うっていたからである。当初より異例の初版10万部の発行を行なっており、判決にもかかわらず大半は流通し9万部が販売された。板坂剛はこれについて、「遺族に無断で書簡を公表してはならないことぐらいプロの出版人なら知らないはずはない。(中略)最初から裁判沙汰は予定の宣伝戦略であり、その効果を考えれば平岡家に対して支払う謝罪金など安いものだと内心では計算ずくだったのだろう」と述べている[93]。
家族 親族[編集]
出自も参照のこと。
- 実家
- 1863年(文久3年)6月4日生 - 1942年(昭和17年)8月26日没(享年79)
- 1892年(明治25年)、帝国大学法科大学(現・東京大学法学部)卒業。内務省に入省。その後、徳島県参事官、栃木県警部長、衆議院書記官、衆議院書記官兼内務省参事官、内務省参事官兼内務事務官、高等文官試験官、広島・宮城・大阪府内務部長を歴任。1906年(明治39年)7月、福島県知事に就任。1908年(明治41年)6月11日、樺太庁長官に就任。1914年(大正3年)6月、反政友会の農商務大臣・大浦兼武の策謀による公金流用疑惑のため樺太庁長官を辞任(のちに無罪判決)。1930年(昭和5年)8月、定太郎を顕彰する銅像が樺太神社に建立される。1942年(昭和17年)8月26日、死去。菩提寺は愛宕の青松寺。
- 「三島由紀夫の無視された家系」(『月刊噂』1972年8月号)59-60頁によれば、「祖父の定太郎が永井奈徒と結婚したのは明治二六年、大学を卒業した翌年のことである。何と言っても帝大出の“学士さま”である。“学士さまならお嫁にやろか”と言われた時代だから、奈徒も不自然なく嫁いできたものと思われる。奈徒は、父は永井玄番頭の嗣子、その母は宍戸藩の松平頼位の娘、松平大炊守の妹というれっきとした名流の士族であった。百姓の定太郎が士族の娘を嫁にもらえたのも“学士さま”のお蔭であったろう。平岡家の家系には、この時はじめて名血と結びついた。しかし奈徒という女性は非常に気位が高く気性も激しかった。徳川家重臣の嫡流という意識を強く持ち、その上に美貌であったから、一介の百姓生まれの定太郎を内心では軽蔑していたようである。つね日頃から、『お殿様と駿河へ行って……』という話をし始めると、それは永井家が家臣として最後まで徳川慶喜と行動を共にしたというプライドからくるものであった。語学にも堪能で、ドイツ語、フランス語を七十歳すぎても流暢に読んだり話したりすることができたともいう。定太郎は原敬に重用された性格でわかるように、能吏というよりは事業家肌であった」という[95]。
- 1876年(明治9年)6月27日生 - 1939年(昭和14年)1月18日没(享年62)
- なつの母・高は、水戸の支藩・宍戸藩の藩主松平頼位とその側室との間に生まれた。なつは1888年(明治21年)の12歳から1893年(明治26年)11月27日、17歳で平岡定太郎と結婚するまでの期間、有栖川宮熾仁親王の屋敷に行儀見習いとして仕える。定太郎との間に一人息子の梓を儲ける。1939年(昭和14年)1月18日、潰瘍出血のため死去。
- 野坂昭如の著書『赫奕たる逆光』129-130頁によれば、「明治二六年、なつは満十七で定太郎の妻となった。ほんの二十年前までは、名門の武家の娘と町人、ましてや百姓の男が結婚するなど、考えられぬ仕儀、江戸時代なら直参と陪臣、御目見(おめみえ)以上と以下の縁組もない。士分以上の者が、百姓に娘を与える場合、これは捨てたことで、それにしても、間に仮親をつくり、その養女として後、嫁がせた。鹿鳴館時代を過ぎ、教育勅語も発布された。文明開化の波は日増しに高まるとはいえ、母方の祖父は徳川の枝に連なり、父方のそれは幕府若年寄である娘と、播州の、二代前は所払いとなっている百姓の倅(せがれ)、いかに帝大出とはいえ、卒業は八年おくれているのだ、まことに不自然」という[96]。
- 梓によれば、「…子供が僕一人というのは、あながち母の邪推を待つまでもなく、その平常の振舞いからして父があるいはトリッペルにとっつかれていたためかと思われます。母自身も猛烈な坐骨神経痛にかかり、一生を苦しみ通したのですが、これも父のしわざだとの医者のひそひそ話を小耳にはさんだことがありました。大家族の中における長女たる自分の身分、家柄を過信するプライド、父の天衣無縫の行動、坐骨神経痛等々が重なり合って、母は精神肉体両面からの激痛でひどいヒステリーになる。この大型台風はたちまち家中をところせましと吹きまくり、その被害や以て想うべしという惨状でした」という[97]。
- 1894年(明治27年)10月12日生 - 1976年(昭和51年)12月16日没(享年82)
- 1920年(大正9年)、東京帝国大学法学部(現・東京大学法学部)法律学科(独法)卒業。農商務省(現・農林水産省)に入る。1942年(昭和17年)3月、水産局長を最後に農林省を退官。日本瓦斯用木炭株式会社社長に就任するが、終戦で会社は機能停止、1948年(昭和23年)1月に政府命令で閉鎖される。1976年(昭和51年)12月16日、肺に溜まった膿漿による呼吸困難のため死去。
- 農林省で梓の7年後輩の楠見義男によれば、「私は蚕糸局の繭糸課でしたが、平岡さんはすでに蚕業課に2年おられた。(中略)入って一か月くらいのとき僕は繭糸課長に呼ばれ“隣の課の平岡君はあまり仕事熱心でなく業務が滞りがちなので手伝ってやってくれんかね”と言われた」、「退庁時間が近づくとソワソワするような人だった。同期の岸さんも“あいつは駄目だからなぁ”と放ってました」という[91]。一方、増村保造(三島が主演した映画『からっ風野郎』の監督)は映画完成後、三島邸に招待された際、梓から、「下手な役者をあそこまできちんと使って頂いて」と礼を言われ驚いたという。増村は三島に怪我をさせて申し訳ないと思っていたのに逆に礼を言われ、帰り道に、「明治生まれの男は偉い」と梓をほめていたという[98]。
- 1861年(万延2年)1月2日生 - 1944年(昭和19年)12月5日没(享年84)
- 加賀藩士の父・瀬川朝治と母・ソトの間に二男として生まれ、武士の血をひく。健三は幼少より漢学者・橋健堂に学んだ。1873年(明治6年)、12歳のとき、学才を見込まれて健堂の三女・こうの婿養子となり、橋健三と名乗る。健三は14、5歳にして、養父の健堂に代わり、藩主・前田直行に講義を行うほどの秀才だったという。やがて健三は妻子を連れて上京し、小石川に学塾を開く。1888年(明治21年)、共立学校に招かれて漢文と倫理を教え、幹事に就任する。妻・こうの死去により、健堂の五女・トミ(を後妻とした。1894年(明治27年)、学校の共同設立者に加わる。1910年(明治43年)、第二開成中学校(神奈川県逗子町)の分離独立に際して、健三は開成中学校の第5代校長に就任した。校長を辞職後は、昌平中学(夜間中学)の校長として、勤労青少年の教育に尽力した。1944年(昭和19年)12月5日、故郷の金沢で永眠[99]。
- 1884年(明治17年)2月6日生 - 1936年(昭和11年)4月18日没(享年52)
- 健行は、開成中学、一高、東京帝国大学医科大学(現・東大医学部)精神医学科と進むが、常に首席であったという[100]。1925年(大正14年)、東大精神科の付属病院の東京府巣鴨病院(のちの松沢病院)の講師から副院長に就任。その後、1927年(昭和2年)、千葉医科大学(現在の千葉大学医学部)助教授に就任した。歌人の斎藤茂吉とは親友同士であった。1936年(昭和11年)4月18日、肺炎をこじらせ急逝する[99]。
- 母・倭文重(漢学者・橋健三の次女。加賀藩学問所・「壮猶館」教授・橋健堂の孫)
- 1905年(明治38年)2月18日生 - 1987年(昭和62年)10月21日没(享年82)
- 倭文重の母・トミは、加賀藩学問所、「壮猶館」教授・橋健堂の五女。橋家は加賀藩主・前田家に代々仕えた。倭文重は1922年(大正11年)、三輪田高等女学校を卒業後、1924年(大正13年)4月19日、平岡梓と結婚。梓との間に、公威、美津子、千之の二男一女を儲ける。1987年(昭和62年)10月21日、心不全のため死去。
- 妹・美津子
- 1928年(昭和3年)2月23日生 - 1945年(昭和20年)10月23日没(享年17)
- 聖心女学院専門部在学中の1945年(昭和20年)10月10日、学徒動員で疎開されていた図書館の本の運搬作業中、菌を含んだなま水を飲んだのが原因で腸チフスを発病する。母・倭文重と三島が交代で看病するが、同月23日、大久保の避病院で死去。三島は号泣したという。
- 三輪田高等女学校時代の同級生に板谷諒子(湯浅あつ子の妹)、聖心女学院の同級生に佐々悌子(佐々淳行の姉)がいた。美津子の死後、三島は佐々悌子と1947年(昭和22年)から1948年(昭和23年)頃[101]、板谷諒子とは1950年(昭和25年)から1951年(昭和26年)頃、親交を持つ[102]。
- 1930年(昭和5年)1月19日生 - 1996年(平成8年)1月9日没(享年65)
- 1954年(昭和29年)、東京大学法学部政治学科卒業。同年、外務省に入省。フランスやセネガルなど各国に駐在。1987年(昭和62年)3月31日、4月2日付で駐モロッコ大使に任命される。駐ポルトガル大使などを歴任した。引退後、1996年(平成8年)1月9日、肺炎のため死去。
- 自家
- 1937年(昭和12年)2月13日生 - 1995年(平成7年)7月31日没(享年58)
- 日本女子大学英文科2年在学中の1958年(昭和33年)6月1日、三島と結婚(大学は2年で中退する)。三島との間に、紀子、威一郎の一男一女を儲ける。1995年(平成7年)7月31日、急性心不全のため死去。
- 1962年(昭和37年)5月2日生 -
- 映画の助監督を経て、1988年(昭和63年)9月9日、東京都中央区銀座に宝飾店「アウローラ」を開店したが、後に閉店。映画『春の雪』、『三島由紀夫映画論集成』(ワイズ出版、1999年)の監修、編集に携わる。
系譜[編集]
平岡家[編集]
- 祖父・平岡定太郎の故郷、兵庫県加古川市志方地区
- 祖父・定太郎の本籍は、兵庫県印南郡志方村上富木(現在の加古川市志方町上富木)で、その昔、まだ村と呼ばれていた頃、ここは農業、漁業、塩田が盛んであった。附近には景行天皇の皇后・播磨稲日大郎姫の御陵があり、その皇子・日本武尊の誕生の地という古代史上、意義のある地でもある。この地は古代において港であったので、三韓征伐の折、神功皇后が龍船を泊めた。皇后は野鹿の群が多いのを見て、この地を「鹿多」と呼んだ。のちに、この「鹿多」を「志方」と改めたというのが地名の由来である。1573年 - 1591年頃(天正の頃)櫛端左京亮が観音城(別名、志方城)を築城したため、港町から城下町となる。秀吉の中国征伐にあたり、城主・櫛橋は、東播の三木城主・別所長治と共に抗戦し落城した。このため多くの武士、学者は土着化し、城下町志方の様子は著しく変化したという[20]。またこの地は地盤が強く震災の被害が少ないことから、関東大震災のあとに登場した遷都論で候補地の一つに挙がった[103]。阪神大震災のときも加古川流域はほとんど被害がなかったという。
- 家系
- ”平岡”姓について、安藤武によれば、「平岡姓は平岡連、河内国讃良郡枚岡郷(ひらおかごう)か、河内郡枚岡邑(ひらおかむら)より起こりしか。武士は出身地の名田の名から姓をつけたが明治維新後は農民もならい姓とした。津速魂一四世孫胴身臣の後継。『大和物語』で奈良猿沢の池に身投げをした猿沢采女は平岡の人。農民の平岡家も明治になってから土地の名をとって、平岡姓を太左衛門(たざえもん)から名乗った」[25]という。
- 平岡家の菩提寺、真福寺は1652年(承応元年)の建立である。過去帳によれば、初代は1688年 - 1703年(元禄時代)の孫左衛門である。二代目は孫左衛門を襲名し、次は利兵衛が三代続く。その次は太左衛門(六代)、太吉(七代)、萬次郎(八代)となり、三島の祖父・定太郎は太吉(七代)の二男である。初代の孫左衛門には屋号として「しおや」(塩屋)と付いているという。志方は同じ兵庫県の赤穂に次いで塩田が盛んであった[104]。この屋号については、「三島由紀夫の無視された家系」(『月刊噂』1972年8月号)でも初代に屋号が付いているとされているが、 猪瀬直樹によれば、屋号の「しおや」は三代目・利兵衛のところに付いており、塩屋ではなく塩物屋であるという。これは三代目利兵衛(五代)のとき、農業のかたわら商売を始めたということだという[91]。さらに、板坂剛によると、平岡家は当初、真福寺の近くの西神吉村宮前(現在の加古川市西神吉町宮前)に住んでいて、家はほとんどあばらやと呼んでいいくらいの粗末なものであったという。板坂剛は、「住職夫人や、後で地元の教育関係者等から聞いた話では、宮前で店を構えていたのは酒屋一軒だけであり、その家は庄屋だった。平岡家の先祖がやっていたことは“塩屋”ではなく塩をまぶした魚介類等を仕入れて、路上で売り歩いた程度の小商いだった、ともいう。あるいは、塩そのものを販売していたとしても、当時の状況を考えれば、それは天秤棒の両端に二つの塩桶をぶら下げて運んでいた姿を想像した方が当たっているだろう」[105]と述べている。
- 「三島由紀夫の無視された家系」(『月刊噂』1972年8月号)によると、兵庫県の平岡家(定太郎の弟・久太郎の家)とは、父・平岡梓の代からほとんど絶縁状態で、三島は兵庫県加古川市にある平岡家の墓には生涯一度も参らなかったという。多くの作品でも三島は故郷をとりあげていない。このため、地元民の一部からは批判の声もあり、現地の三島に対する評価も高いものでないという[95]。兵庫の墓参りをしていなかったことについては、三島の祖父・定太郎の墓が東京にあったから足が遠のいたことも考慮されるが、猪瀬直樹は、三島が本籍での徴兵検査の際も、故郷の平岡家に立ち寄っていないことの理由については、梓のいとこにあたる平岡義一(久太郎の二男)が変わり者で奇行癖のあった(上半身裸、褌ひとつで歩き回ったり、暗い土蔵で春画を描くことに没頭していた)人物であったことに触れ、梓の配慮で三島と義一を会わせないようにしていたと述べている[91]。
- 三島は、近畿方言が嫌いであり、東京弁・共通語以外を用いた戯曲を嫌ってもいたいう。中村光夫宛ての1963年(昭和38年)9月2日の書簡では、「関西へ久々に来てみると、関西弁は全くいただけず、世態人情、すべて関西風は性に合はず、外国へ来たやうです。尤も、小生純粋の江戸ッ子でなく、祖父が播州ですから、同属嫌悪の気味があるのかもしれません」[106]と語っている。しかし、そうは言いつつも実際は、近畿地方が舞台で主人公が方言で話している芝居や小説は、『鰯売恋曳網』、『潮騒』、『金閣寺』、『絹と明察』など、いくつか書いている。
- かつて作家の杉森久英が編集者だった時に、「われわれの仲間では三島由紀夫は貴族の出であると思い込んでいた。三島由紀夫に会ったとき『あなたは三島子爵の子孫ですか?』と聞いたところ三島は即座にこれを否定したが、自分の家柄というものは、そのへんのものではないのだということを暗に匂わせていた」と述懐しているという[95]。
- 仲野羞々子(元産経新聞四国支社の記者で男性。仲野羞々子はペンネームであるという[105])は、雑誌『農民文学』のなかで、「世間では三島のことを貴族だといい、貴族に間違いないことを信じている。本人もそれを信じ、敢えてそのようにふるまってきたところから、間違いがはじまっているように思えてならない。平岡三代目の彼は貴族であっても、初代の祖父定太郎は貧農出身の成り上がり者であることを、彼は知りつくしておりながら、とことんまでそれをかくし通して、優雅な家系のように誇示したあとが気になる。胸の底にうごめく貧農コンプレックスを、貴族のポーズで克服しようとしたとしか思えないふしがある」[107]と述べている。このように仲野羞々子は、三島が兵庫県という自らのルーツを殊更に無視していると主張し、それは、夫の定太郎を忌み嫌っていた三島の祖母・夏子の影響が関係していると述べている[107]。しかしその一方、仲野羞々子は、「三島の作品なんてほとんど読んでいない」[107]とも述べている。三島は実際にはインタビューなどで、「私は血すぢでは百姓とサムラヒの末裔だが、仕事の仕方はもつとも勤勉な百姓である」[108]と、はっきり述べており、祖先に百姓がいたことを隠してはいない。また、主な作品の主人公も、同性愛者、漁師、放火犯、殺人者、事務所の老小使、元芸者、料亭の女将、殉教者、魚の行商人、宝石泥棒、少年犯罪者、テロリストなどで、その作風も特に貴族階級賛美の傾向でもなく、三島自身が貴族のポーズで貧農コンプレックスを克服していたというような単純な作家傾向とは言えない。
- 曽祖父・平岡太吉
- 太吉(七代)の子は、萬次郎、定太郎、久太郎の3人の息子と、娘・むめである。三島の自決に衝撃を受けた父梓は急に思い立って自らの家系を調査する気になった[91]。ただし自分ではやらずに従弟の小野繁に託した[91]。小野繁は定太郎の妹むめの息子である[91]。小野繁はただちに志方町へ赴き菩提寺の住職から過去帳を閲覧させてもらい、郷土史なども集め、翌年2月、手書きの報告書にまとめた[91]。報告書は控えを取ったうえで梓へ送られた[91]。小野繁が住職から聞き出してまとめた報告書には定太郎の父親太吉(七代)の人物像は次のように記されている[91]。
- 太吉の孫の嫁(久太郎の二男・平岡義一の妻)である平岡りきによると、太吉は幼少(5、6歳)の頃に、領主から禁じられていた鶴(一説には雉子)を射ったため、一家に“所払い”が命じられ、志方村上富木へ移り住んだという[95]。また、板坂剛によると、成長した太吉は金貸し業で成功し、さらには畑仕事を一手に引き受けていた妻・つるの農業的な才覚やアイデア(果実の栽培の成功)により、平岡家に莫大な利益がもたらしたという[105]。野坂昭如は太吉について、「所払い以後、にわかに顕(あら)われた太左衛門の才覚は、太吉に継がれた。(中略)農作業は妻にゆだね、太吉は商いと金貸しに打こんだ。丹精こめて作物を育てるより、これを扱って利ざやを稼ぐ、父より手広く金融業を営み、安政四年、太左衛門が病に臥すと、二十数年間掘立小屋につぎはぎして暮した住いを、近隣の眼をそばだてしめる豪邸に建て直した」[96]と述べている。
- 「赤門事件」と「豪農“塩屋”」の真相
- 三島の父・平岡梓は、自著『倅・三島由紀夫』において、「僕の家は、家系図を開けば、なるほど父方は百姓風情で赤門事件という反体制的のことをやらかして、お上に痛い目に会うし…」[97]と述べている。志方町中央農協組合の元組合長の好田光伊によると、赤門事件とは、加賀の前田家が徳川将軍から姫君を迎えるにあたって上屋敷の正門に赤い門を構えたが、平岡太左衛門はこれを真似て、菩提寺の真福寺に赤門を寄進し、それはほんのしるし程度のものであったが、この行為が“お上をおそれぬ、ふとどきもののおこない”として所払いになったという昔からのいい伝えの話だという[109]。
- しかし、『月刊噂』は、「この梓の発言はいささか反骨の家系であることを胸を張っていう口吻(こうふん)が感じられるが、これを事実だと信じることはできない。梓のいとこ・平岡義一の妻りきの記憶によれば、赤門事件など聞いたおぼえもなく、『太左衛門の息子である太吉が、領主から禁じられている鶴を射った。その行為が表沙汰になって“所払い”を命じられた』というものだった。また梓は『平岡家も田舎の豪農“塩屋”としての誇りを堅持していた』[97]と書いているがこれも事実ではない。“反骨の赤門事件”といい、“豪農塩屋”といい、三島由紀夫亡きあとにつくられた家系としかいいようがない」[95]という主張している。また、野坂昭如は、「“しおや”の屋号があって不思議はない。元禄以前から印南郡の南は、一帯が塩田だった。(中略)播磨の塩は“花塩”といい、特に珍重された。だが“塩屋”を“豪農”とするのは無理。“折ふしは塩屋まで来る物もらひ”と路通の句があるが、粗末な小屋、苫屋(とまや)の謂(い)い、誇るに足る屋号ではない。“塩屋まで”は、貧しい塩屋までもの意味」[96]だと述べている。
- 『月刊噂』の赤門事件否定に対し、平岡梓から直接その伝承話を聞いたことがあるという越次倶子は、実際にその事件があったかどうかは、真福寺に赤門寄進の記録がないため事実であるかは真偽不明だが、「三島も幼い時からそういった伝承話を耳にしていたにちがいない」、「赤門事件を起こした太左衛門という高祖父がいた、と三島の意識に刻まれていたと思われる」[20]という見解を示している。また、「今の時代、昔平民であっても士族であっても、それを問題にすることはどんな場合でもなかろう。家系を追求することを仕事にしたり、研究対象にしている一握の人々にとっては大問題であろうが。“豪農塩屋”と“反骨精神の太左衛門”は平岡家に語り伝えられた事柄かもしれないが、三島が父方の高祖父をそう理解していたことは事実のようである」[20]と述べている。また、板坂剛は、この赤門事件は祖父・定太郎の創作で、それが梓に信じられ、またその子の三島にも伝えられたと推測している[105]。
- 平岡家部落民説
- 平岡家の本来の居住地は志方村ではなく、平岡太左衛門(六代)までは西神吉村だったが、『月刊噂』によると、志方村に移住したそもそもの理由は、三島の曽祖父・平岡太吉が幼少の頃、領主から禁じられている鶴を射るという不祥事を起こし、“所払い”にされたためだという。また52頁では、「岡住職は過去帳から平岡家の祖をたどった結果、およそ二百五十年間つづいた家だと判明したという。真福寺で明らかにされた平岡家の先代はまず元禄時代の“孫左衛門”から始まっている。しばらくは姓がなく(中略)以後はじめて平岡太左衛門、平岡太吉とつづくのである。過去帳には名前のそばに“非人”、“非人の子”、“番人”、“水番”という汚名の肩書もついているが、平岡家の初代である“孫左衛門”の肩にはもちろんそんな濁点は付されていない。記されているものは”しおや”という屋号のようなものである。(中略)初代の“孫左衛門”の俗名に“しおや”の肩書きが付されている以外は、太左衛門にいたるまでの戒名はすべて一般の農民と同程度の身分を示している。“ごくふつうの百姓だったのですよ”と岡住職はきっぱりと断言している」[95]と、主張している。しかし、この屋号に関して猪瀬直樹は、屋号の「しおや」は三代目・利兵衛のところに付いていると述べている[91]。
- 安藤武によると、平岡家部落民説は、三島が杉山瑤子と結婚した時にも問題となり、一度は杉山家が結婚解消を申し出たこともあるとされ、父・梓がこの風説を断固として否定し、結局、梓が志方町に赴いて杉山家に戸籍を確認させ、東京都目黒区に本籍を移すことで決着がついているという[25]。しかし一方、見合いの仲人をした湯浅あつ子によると、杉山瑤子との結婚の際、特に名門の家柄ではない杉山家が平岡家の家系のことで結婚解消を申し出たことも、家系調査を依頼した事実もなく、実際には、見合い後に縁談を断っていたのは三島の方であったという[110]。また、本籍を東京に移したという件については、三島事件の警視庁調査報告書の中の、被疑者・平岡公威(三島由紀夫)の本籍地の欄には兵庫県印南郡上富木と記されているという[111]。
- 福島鑄郎の『資料・三島由紀夫』(1982年版)によると、真福寺の過去帳には「知られたくないものが書かれてあった」、「それぞれの祖先の肩書きには、とうてい文字にして書き表せないような汚名が書きしるされているからである」[112]と、推測されていたが、この福島鑄郎の見解に対して村松剛は、平岡梓の言い分を裏付ける次のような反論を述べている。「問題の平岡家の過去帳は、三島研究家の越次倶子が真福寺(平岡家の菩提寺である曹洞宗真福寺)に行って調べ、写真にもとって来ている。これで見るかぎり、“文字にして書き表せないような”ことばなどどこにも出て来ない。(中略)福島鑄郎は実際には過去帳を見たことがなく、何かの思いちがいからこんな断定的な文章を書いてしまったらしい。越次倶子は平岡家の壬申戸籍の写しも昭和三十九年(1964年)ころに入手していて、これによっても格別変わった箇所は見あたらない。もしも定太郎の出自に何らかの問題があったら、差別意識がきわめてつよかった明治の中期に、夏子との結婚は成立しなかったろう。(中略)いまとちがって身許の調査はきびしく行われた」[41]と述べ、いずれの資料も平岡家が被差別階級に属していたことを示す内容ではなかったという見解を示している。後に安藤武は曹洞宗青龍山真福寺の過去帳を、実地に検証しこれらの情報の真偽を確かめようとしたが、そのときは真福寺住職の西超三が過去帳の公開を拒んだため、ついに真相は不明のままたったという。
- しかし、板坂剛は村松剛を批判し、「村松が切り札のように持ち出している越次倶子の写真の件だが、私はこれを信用することができない。というのも差別問題に関係する家系には、複数の過去帳が存在すると言われているからだ。もともと過去帳が家系を美化するためのものであるのなら、さしさわりのある部分を残した過去帳とは別のさしさわりのないように書き換えられたものが存在するのも当然である。そして、外部の人間に写真を撮らせるようなことがあったとしたら、それがさしさわりのあるものであったはずがないのだ」[105]と述べている。また板坂剛は、地元の噂に平岡家の祖先が“刑場の役人の下働き”をしていたというものがあることに触れているが、「平岡家の祖先が“刑場の役人の下働き”をしていた、といってもそれが即、“被差別部落民だった”ということに繋がるわけではない」[105]という意見も同時に述べている。真福寺の住職夫人も、「どうして差別が生まれたのか、私らには理解できんですね。その地域の出身の人の方が、優秀な人が多いみたいですしね」と語っているという。また、この件についての様々な憶測に対して、住職夫人は、「ただ名前が書いてあるだけですよ。他には何も書いてないですよ。いろんなことを言う人がいますけどね」[105]と述べている。
- 近年、過去帳を見ることができた福島鑄郎は、新版の『再訂資料・三島由紀夫』(2005年版)の中で、平岡姓は四代目利兵衛から名のっているとし、「仲野羞々子が言うような情報は見つからなかった」、「刑場の役人の下働きをしていたという地元の噂であるが、根拠については定かでない。ただ、事件と何かを結びつけたいという心理がそうさせたともうかがえる。いずれにしても平岡家の代になってからは何事もない」[109]と述べている。また、「(赤門事件が本当なのか、鶴を射った話の方が本当なのかは判らないが)いずれにせよ、“おかみをおそれぬ行為”は、三島由紀夫の血の中に受けつがれていった」[109]という見解を示している。なお板坂剛は、福島鑄郎が唯一、仲野羞々子に直接取材したことのある三島研究者だと著書で書いていたが、福島鑄郎は仲野羞々子からは直接事情を聞くことができなかったと書いている。福島鑄郎が直接取材できたのは、『農民文学』に登場する志方町農協組合の元組合長である[109]。
- 平岡家系図
孫左衛門━孫左衛門━利兵衛━利兵衛━利兵衛━太左衛門━┓ ┃ ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ ┃ ┗━太吉━━━┓ ┣━┳━萬次郎━━┓ 寺岡つる━┛ ┃ ┣┳こと ┃ 桜井ひさ━┛┗萬壽彦 ┃ ┣━定太郎━━┓ ┃ ┣━梓━┳━公威(三島由紀夫)━┓ ┃ 永井なつ━┛ ┃ ┣┳━紀子 ┃ ┃ 杉山瑤子━━━━━━┛┃ ┃ ┃ ┗━威一郎 ┃ ┣━美津子 ┣━久太郎━━┓ ┗━千之 ┃ ┣┳義夫 ┃ (?)━━┛┗義一 ┃ ┗━むめ━━━┓ ┣┳義之 田中豊蔵━┛┣義顕 ┣繁 ┗儀一
杉山寧━━━━━━瑤子━━━━━━━━━━┓ 平岡定太郎━┓ ┃ ┣━平岡梓━┓ ┣┳━紀子 永井岩之丞━━夏(なつ)━┛ ┃ ┃┃ ┣━┳━平岡公威(三島由紀夫)━┛┗━平岡威一郎 ┃ ┃ 橋健三━━━倭文重━┛ ┣━美津子 ┃ ┗━平岡千之━┓ 近藤三郎━━近藤晋一━┓ ┃ ┣━┳━夏美━━━┛ 竹中藤右衛門(14代)━┳寿美━━━┛ ┗━久美 ┃ ┣竹中宏平━━━竹中祐二━┓ ┃ ┃ ┗竹中錬一━┓ ┃ ┃ ┃ 米内光政(元首相)━━和子━━━┛ ┃ ┃ 竹下登(元首相)━━┳公子━━━┛ ┣一子 ┗まる子━┳内藤栄子(影木栄貴) ┗内藤大湖(DAIGO)
永井家[編集]
安藤武『三島由紀夫「日録」』(未知谷)、7-8頁によると、「(三島は『花ざかりの森』で)祖母平岡なつの祖父永井尚志を武家の血縁とし、なつの行儀見習先の有栖川宮熾仁親王宅を公家と表現している」[26]という。ちなみに『花ざかりの森』では、「わたしはわたしの憧れの在処を知つてゐる。憧れはちやうど川のやうなものだ。川のどの部分が川なのではない。なぜなら川はながれるから。きのふ川であつたものはけふ川ではない。だが川は永遠にある。ひとはそれを指呼することができる。それについて語ることはできない。わたしの憧れもちやうどこのやうなものだ、そして祖先たちのそれも。 珍しいことにわたしは武家と公家の祖先をもつてゐる。そのどちらのふるさとへ赴くときも、わたしたちの列車にそうて、美くしい河がみえかくれする」と、表現されているが、この作品は自伝小説というわけではない。
夏子の祖父・永井尚志は、松平乗真(奥殿藩初代城主)から五代乗尹の子として1806年(文化3年)11月3日に誕生。尚志は父の晩年に生まれた息子であった。すでに家督(六代)を養子乗羨に定めた後に生まれた。1840年(天保11年)、25歳の時、永井尚徳の養子となった。1854年(安政元)に長崎海軍伝習所の総監理(所長)として長崎に赴き、長崎製鉄所の創設に着手するなど活躍した。徳川幕府海軍創設に甚大な貢献をなし、1855年(安政2年)、従五位下・玄蕃頭に叙任。1860年(安政5年)7月に外国奉行、1861年(安政6年)2月に軍艦奉行、1862年(文久2年)8月に京都町奉行となる。京摂の間、坂本龍馬等志士とも交渉を持った。1864年(元治元年)に大目付。1867年(慶応3年)に若年寄。1868年(慶応4年)8月、榎本武揚と共に函館に走り、函館奉行となる。維新後は、1875年(明治8年)に元老院権大書記官。1891年(明治24年)7月1日没、享年76。
尚志の孫・大屋敦(夏子の弟。元住友本社理事、日銀政策委員)は、祖父・永井尚志について『私の履歴書』(日本経済新聞 1964年に連載)の中で、「軍艦奉行として日本海軍の創設者であったゆえをもって、烏帽子に直垂といったいでたちの写真が、元の海軍記念館に飾られていたことを記憶している。(中略)そういう波乱に富んだ一生を送った祖父は、政治家というより、文人ともいうべき人であった。徳川慶喜公が大政奉還する際、その奏上文を草案した人として名を知られている。勝海舟なども詩友として祖父に兄事していたため、私の昔の家に、海舟のたくさんの遺墨のあったことを記憶している」[113]と語っている。
永井亨(夏子の弟。経済学博士)によると、祖父・尚志は京都では守護職の松平容保(会津藩主)の下ではたらき、近藤勇、土方歳三以下の新撰組の面々にも人気があったという[114]。尚志の晩年については、「向島の岩瀬肥後守という、若くして死にましたが偉い人物がおりました。その人の別荘に入り、その親友の岩瀬を邸前に祭って死ぬまで祀をたたず、明治二十四年七月一日に七十六歳で死んでおります。私は数え年十四の年でしじゅう遊びに参っておりましたのでよく覚えております」[114]と語っている。
三島は映画『人斬り』(監督・五社英雄)に薩摩藩士・田中新兵衛の役で出演した際のことを、林房雄宛の書簡(1969年6月13日付)の中で、「明後日は大殺陣の撮影です。新兵衛が腹を切つたおかげで、不注意の咎で閉門を命ぜられた永井主水正の曾々孫が百年後、その新兵衛をやるのですから、先祖は墓の下で、目を白黒させてゐることでせう」[106]と記している。
夏子の父・永井岩之丞は、1846年(弘化2年9月)、永井家一族の幕臣・三好山城守幽雙の二男として生まれ、永井尚志の養子となる。水戸の支藩・宍戸藩の藩主・松平頼位の三女・松平鷹(のちに高)と結婚し、六男六女を儲ける。松平高の母は佐々木氏の娘で、松平頼位の側室であった。新門辰五郎の姪でもある。岩之丞は戊辰戦争では、父・永井尚志と共に品川を脱出し、函館の五稜郭に立て籠もり、共に戦う。維新後、1873年(明治6年)7月に司法省十等出仕を命ぜられ、1880年(明治13年)5月に判事。1883年(明治16年)1月に控訴院判事。1894年(明治27年)4月に大審院判事となる。1907年(明治40年)5月25日に没、享年62。
父・永井岩之丞について、六男・大屋敦は、「父は融通など全くきかぬ厳格そのもののような人だった。子供の教育については、なにひとつ干渉しなかったが日常の起居は古武士のようであぐらなどかいた姿を、ただの一度も見たことはなかった。当時の判事は行政官に比べるときわめて簿給で、それで十二人の子女を養わねばならなかったから、当然清貧であった。私どもと同じ上野桜木町に住む父の実弟三好晋六郎は日本の造船界黎明期の権威者で、東京帝大の教授であり、産業界にも深いつながりを持っていた関係で、今の大学の先生など想像のできぬ豊かな暮らしをしていたが、兄弟仲はすこぶるむつまじかったようである」[113]と語っている。母・高については、「私の母の生まれた家もやはり小大名で、水戸烈公の弟の家であります。長兄松平大炊頭、頼徳は有名な武田耕雲斎の乱のときに幕府から切腹を仰せつかり、家系ともどもみな切腹してしまいました。私の母は、家は貧しかったのでありますが、そこの家の娘として育って、十六歳ぐらいのころに私のおやじのところへ嫁に参りまして、その間に初めて十二人の子供ができたのであります。(中略)そんな訳で、母は水戸の宍戸藩の藩主の家でありますが、私の血筋には江戸っ子と水戸っ子の両方が伝わっておるのであります」、「かように母の家は格式は高いが小藩で、維新後は貧乏華族の一つであった。(中略)十二人の子を産み、貧乏暮らしに一生を終わった。母はそういうことをうらみにも思わず、不平もこぼさず、父なき後は、たくさんの子供たちとその友だちにかこまれ、関東大震災後、上野東照宮社務所の一室で安らかに世を去った」[113]と語っている。
- 永井家系図
┏良将━将門 桓武天皇━葛原親王━高見王━平高望┫ ┗将兼━公雅━致頼━致經━致房━行致(長田の祖)━政俊┓ ┃ ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ ┃ 後醍醐天皇━宗良親王━興良親王━良王━大橋信重━┓ ┃ ┏━━━━━━━━━━━━━┛ ┃ ┗定広━広正白次(四男)*と同一人物 ┃ ┗(六代略)━直重━白広━重広━広正*(養子、尾張国津嶋奴野城主大橋中務少輔定弘)━┓ ┃ ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ ┃ 由利姫━┓ ┃ ┣正直━直隆━正似━正治━正次━(五代略)━匡威(養子)━匡温━━┓ ┃ ┃ ┏━━━━━━━━━━┛ ┗長田重元━直勝━┫ ┗━壮吉(永井荷風) ┃ ┣尚政━尚庸(三男)━直敬━尚方(五男)━尚恕━━┓ 阿部正勝息女━┛ ┃ ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ ┃ ┗━尚友━尚徳━尚志(養子、実父は松平主水正)━━┓ ┃ ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ ┃ ┗岩之丞(養子、実父は永井一族の三好長済)━┓ ┣┳壮吉 高(松平頼位の長女)━┛┃ ┣夏(なつ)━┓ ┃ ┣平岡梓━平岡公威(三島由紀夫) ┃平岡定太郎━┛ ┃ ┣亨 ┣啓 ┣繁 ┣(五男、急逝) ┣敦(大屋敦) ┣鐘 ┣愛 ┣千恵 ┣清子 ┗文子
永井尚志系図
藤原鎌足━不比等━房前(二男)━(18代略)━本多助秀━(27代略)━┓ ┃ ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ ┃ ┗松平乗真(奥殿藩初代城主)━二代盈乗━三代乗穏┳四代乗友 ┃ ┗五代乗尹┳六代乗羨(養子) ┣女 ┣女 ┗尚志(永井尚徳へ養子)
永井岩之丞系図
幕臣三好・小笠原遠光━長清━阿波守長房(二男)(三好の祖)━(22代略)━┓ ┃ ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ ┃ ┗幽雙(三好山城守幽雙、三好長済)━岩之丞(二男)(永井尚志へ養子)
松平系図
徳川家康┳秀忠━家光━家綱━綱吉━(九代略)━慶喜 ┣義直 ┣頼宣 ┗頼房(水戸徳川の祖)┳頼重 ┣光圀 ┣頼元 ┣頼隆 ┣頼利 ┗頼雄(初代・宍戸藩藩主)━頼道(養子、頼利の実子)━┓ ┃ ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ ┃ ┗頼慶━頼多━頼救(養子、水戸藩主五代・宗翰の六男)┳頼敬━━━━━┓ ┣資原 ┃ ┣定三郎(急逝)┃ ┗頼位 ┃ ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ ┃ ┗頼筠(頼かた)(養子・松平銓之介、水戸烈公(徳川斉昭)の弟)━┓ ┃ ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ ┃ ┗頼位(養子、頼救の四男)┳頼徳 ┣雪 ┣珽 ┣頼安 ┣鷹(高)━┓ ┃ ┣┳壮吉 ┃永井岩之丞┛┃ ┃ ┣夏(なつ)┓ ┣頼平 ┃ ┣平岡梓━┓ ┣艶 ┃平岡定太郎┛ ┣┳平岡公威(三島由紀夫) ┗鋭 ┃ 橋倭文重┛┣美津子 ┣亨 ┗平岡千之 ┣啓 ┣繁 ┣(五男、急逝) ┣敦(大屋敦) ┣鐘 ┣愛 ┣千恵 ┣清子 ┗文子
橋家[編集]
母方の祖父・橋健三、曽祖父・橋健堂、高祖父・橋一巴は、加賀藩藩主・前田家に代々仕えた漢学者、書家であった。名字帯刀を許され、学塾においては藩主・前田家の人々に講義をしていた。橋一巴は「鵠山」と号した。一巴の長男で、健堂の兄・往来も漢学者、書家で、「石甫」「対蘭軒」と号した。
高祖父・一巴以前の橋家は、近江八幡(滋賀県にある琵琶湖畔、日野川の近く)の広大な山林の持主である賀茂(橋)一族である。1970年(昭和45年)、滋賀県の調査により、この土地が賀茂(橋)一族の橋一巴 - 橋健堂 - 橋健三の流れを汲む直系の子孫に所有権があることが判明した。近江八幡に移り居城していた賀茂(橋)家は、約一千年の歴史をもつ古い家柄の京都の橋家が元であり、島根県の出雲の出身だという[20]。
曽祖父・健堂は、夜学や女子教育の充実など、教育者として先駆的であった。また、「壮猶館」「集学所」など、その出処進退は藩の重要プロジェクトと連動し、健堂が出仕した「壮猶館」は、単なる儒学を修める藩校ではなく、1853年(嘉永6年)のペリー率いる黒船の来航に刺激された加賀藩が、命運を賭して創設した軍事機関であった。健堂は市井の漢学者ではなく、軍事拠点の中枢にあって、海防論を戦わせ、佐野鼎から洋式兵学を吸収する立場にあった人物であったという[99]。
三島の『春の雪』には、松枝侯爵家の別邸として「終南別業」が登場する。王摩詰の詩の題をとって号した「終南別業」は、旧加賀藩主・前田本家第16代目当主・前田利為侯爵家の広壮な別邸をモデルとしている。
- 橋家系図
橋一巴┳━往来━━船次郎 ┃ ┃ ┗━健堂┳━つね ┣━ふさ ┃ ┣━こう━━┓ ┃ ┣━━橋健行 ┃ 瀬川健三┛ ┃ ┣━より ┃ ┣━トミ━━┓ ┃ ┣┳━雪子 ┃ 瀬川健三┛┣━橋正男 ┃ ┣━橋健雄 ┗━ひな ┣━橋行蔵 ┃ ┣━倭文重┓ ┃ ┣┳━平岡公威(三島由紀夫)┓ ┃ 平岡梓┛┃ ┣┳━紀子 ┃ ┃ 杉山瑤子━━━━━━━┛┃ ┗━重子 ┃ ┗━平岡威一郎 ┣━美津子 ┃ ┗━平岡千之
主な作品[編集]
長編小説[編集]
- 『盗賊』1947年(昭和22年) - 1948年(昭和23年)
- 『仮面の告白』1949年(昭和24年)
- 『純白の夜』1950年(昭和25年)
- 『愛の渇き』1950年(昭和25年)
- 『青の時代』1950年(昭和25年)
- 『禁色』1951年(昭和26年) - 1953年(昭和28年)
- 『夏子の冒険』1951年(昭和26年)
- 『につぽん製』1952年(昭和27年)
- 『恋の都』1953年(昭和28年)
- 『潮騒』1954年(昭和29年)
- 第1回新潮社文学賞受賞。
- 『沈める滝』1955年(昭和30年)
- 『幸福号出帆』1955年(昭和30年)
- 『金閣寺』(1956年)(昭和31年)
- 第8回読売文学賞小説部門賞受賞。
- 『永すぎた春』1956年(昭和31年)
- 『美徳のよろめき』1957年(昭和32年)
- 『鏡子の家』1959年(昭和34年)
- 『宴のあと』1960年(昭和35年)
- 1964年フォルメントール国際文学賞第2位受賞。
- 『お嬢さん』1960年(昭和35年)
- 『獣の戯れ』1961年(昭和36年)
- 『美しい星』1962年(昭和37年)
- 『愛の疾走』1962年(昭和37年)
- 『肉体の学校』1963年(昭和38年)
- 『午後の曳航』1963年(昭和38年)
- 1967年フォルメントール国際文学賞候補作品。
- 『絹と明察』1964年(昭和39年)
- 第6回毎日芸術賞文学部門賞受賞。
- 『音楽』1964年(昭和39年)
- 『春の雪』(『豊饒の海・第一巻』)1965年(昭和40年) - 1966年(昭和41年)
- 『複雑な彼』1966年(昭和41年)
- 『三島由紀夫のレター教室』1966年(昭和41年) - 1967年(昭和42年)
- 出来事をすべて手紙形式で表現した異色の小説。
- 『夜会服』1966年(昭和41年) - 1967年(昭和42年)
- 『奔馬』(『豊饒の海・第二巻』)1967年(昭和42年) - 1968年(昭和43年)
- 『命売ります』1968年(昭和43年)
- 『暁の寺』(『豊饒の海・第三巻』)1968年(昭和43年) -1970年(昭和45年)
- 『天人五衰』(『豊饒の海・第四巻』)1970年(昭和45年)
短編小説[編集]
- 『酸模(すかんぽう)―秋彦の幼き思ひ出』1938年(昭和13年)
- 『彩絵硝子(だみえガラス)』1940年(昭和15年)
- 『花ざかりの森』1941年(昭和16年)
- 『苧菟と瑪耶(おっとお と まや)』1942年(昭和17年)
- 『世々に残さん』1943年(昭和18年)
- 『夜の車』1944年(昭和19年)
- のち『中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜粋』と改題。
- 『中世』1945年(昭和20年)
- 『エスガイの狩』1945年(昭和20年)
- 『菖蒲前』1945年(昭和20年)
- 『煙草』1946年(昭和21年)
- 『岬にての物語』1946年(昭和21年)
- 『軽王子と衣通姫(かるのみこ と そとおりひめ)』1947年(昭和22年)
- 『夜の仕度』1947年(昭和22年)
- 『春子』1947年(昭和22年)
- 『サーカス』1948年(昭和23年)
- 『白鳥』1948年(昭和23年)
- 『殉教』1948年(昭和23年)
- 『家族合せ』1948年(昭和23年)
- 『人間喜劇』1948年(昭和23年)
- 『頭文字』1948年(昭和23年)
- 『宝石売買』1948年(昭和23年)
- 『不実な洋傘』1948年(昭和23年)
- 『山羊の首』1948年(昭和23年)
- 『獅子』1948年(昭和23年)
- 『魔群の通過』1949年(昭和24年)
- 『侍童』1949年(昭和24年)
- 『親切な機械』1949年(昭和24年)
- 『火山の休暇』1949年(昭和24年)
- 『怪物』1949年(昭和24年)
- 『果実』1950年(昭和25年)
- 『日曜日』1950年(昭和25年)
- 『遠乗会』1950年(昭和25年)
- 『孤閨悶々』1950年(昭和25年)
- 『牝犬』1950年(昭和25年)
- 『家庭裁判』1951年(昭和26年)
- 『偉大な姉妹』1951年(昭和26年)
- 『箱根細工』1951年(昭和26年)
- 『椅子』1951年(昭和26年)
- 『死の島』1951年(昭和26年)
- 『翼』1951年(昭和26年)
- 『手長姫』1951年(昭和26年)
- 『朝顔』1951年(昭和26年)
- 『真夏の死』1952年(昭和27年)
- 1967年フォルメントール国際文学賞第2位受賞。
- 『二人の老嬢』1952年(昭和27年)
- 『美神』1952年(昭和27年)
- 『雛の宿』1953年(昭和28年)
- 『旅の墓碑銘』1953年(昭和28年)
- 『急停車』1953年(昭和28年)
- 『卵』1953年(昭和28年)
- 『花火』1953年(昭和28年)
- 『ラディゲの死』1953年(昭和28年)
- 『鍵のかかる部屋』1954年(昭和29年)
- 『復讐』1954年(昭和29年)
- 『女神』1954年(昭和29年)
- 『詩を書く少年』1954年(昭和29年)
- 『志賀寺上人の恋』1954年(昭和29年)
- 『水音』1954年(昭和29年)
- 『海と夕焼』1955年(昭和30年)
- 『新聞紙』1955年(昭和30年)
- 『牡丹』1955年(昭和30年)
- 『十九歳』1956年(昭和31年)
- 『橋づくし』1956年(昭和31年)
- 『施餓鬼舟』1956年(昭和31年)
- 『女方』1957年(昭和32年)
- 『貴顕』1957年(昭和32年)
- 『百万円煎餅』1960年(昭和35年)
- 『愛の処刑』1960年(昭和35年)
- 『スタア』1960年(昭和35年)
- 『憂国』1961年(昭和36年)
- 『帽子の花』1962年(昭和37年)
- 『魔法瓶』1962年(昭和37年)
- 『葡萄パン』1963年(昭和38年)
- 『真珠』1963年(昭和38年)
- 『雨のなかの噴水』1963年(昭和38年)
- 『剣』1963年(昭和38年)
- 『月澹荘奇譚』1965年(昭和40年)
- 『三熊野詣』1965年(昭和40年)
- 『孔雀』1965年(昭和40年)
- 『仲間』1966年(昭和41年)
- 『悪臣の歌』1966年(昭和41年)
- 『英霊の聲』1966年(昭和41年)
- 『荒野より』1966年(昭和41年)
- 『蘭陵王』1969年(昭和44年)
戯曲・歌舞伎[編集]
- 『あやめ』1948年(昭和23年)
- 『火宅』1948年(昭和23年)
- 『灯台』1949年(昭和24年)
- 『聖女』1949年(昭和24年)
- 『邯鄲(かんたん)』1950年(昭和25年)
- 『綾の鼓(あやのつづみ)』1951年(昭和26年)
- 『艶競近松娘』1951年(昭和26年)
- 『卒塔婆小町(そとばこまち)』1952年(昭和27年)
- 『只ほど高いものはない』1952年(昭和27年)
- 『夜の向日葵』1953年(昭和28年)
- 『室町反魂香』1953年(昭和28年)
- 柳橋みどり会のために書いた舞踊劇台本。
- 『地獄変』1953年(昭和28年)
- 『葵上(あおいのうえ)』1954年(昭和29年)
- 『若人よ蘇れ』1954年(昭和29年)
- 『鰯売恋曳網』1954年(昭和29年)
- 『ボクシング』1954年(昭和29年)
- ラジオドラマ脚本。芸術祭放送部門参加。
- 『班女(はんじょ)』1955年(昭和30年)
- 『熊野(ゆや)』1955年(昭和30年)
- 能楽『熊野』をもとにした歌舞伎台本。
- 『三原色』1955年(昭和30年)
- 『船の挨拶』1955年(昭和30年)
- 『白蟻の巣』1955年(昭和30年)
- 岸田演劇賞受賞。
- 『芙容露大内実記』1955年(昭和30年)
- 『大障碍』1956年(昭和31年)
- 『近代能楽集』1956年(昭和31年)
- 戯曲「邯鄲」、「綾の鼓」、「卒塔婆小町」、「葵上」、「班女」を収む。
- 『鹿鳴館』1956年(昭和31年)
- 『道成寺(どうじょうじ)』1957年(昭和32年)
- 『朝の躑躅』1957年(昭和32年)
- 『Long After Love』1957年(昭和32年)
- 『卒塔婆小町』、『葵上』、『班女』の3つの戯曲を繋ぐ場面を新たに創作し、統一的な芝居にした3幕物。
- 『薔薇と海賊』1958年(昭和33年)
- 週刊読売新劇賞受賞。
- 『むすめごのみ帯取池』1958年(昭和33年)
- 『熊野』1959年(昭和34年)
- 『女は占領されない』1959年(昭和34年)
- 『熱帯樹』1960年(昭和35年)
- 『弱法師(よろぼし)』1960年(昭和35年)
- 『十日の菊』1961年(昭和36年)
- 第13回読売文学賞戯曲部門賞受賞。
- 『黒蜥蜴』1961年(昭和36年)
- 『源氏供養』1962年(昭和37年)
- 能楽『源氏供養』をもとにした戯曲。近代能楽集の9曲目。のちに廃曲とした。
- 『喜びの琴』1964年(昭和39年)
- 『美濃子』1964年(昭和39年)
- オペラ劇台本。黛敏郎の作曲が間に合わず、未上演。
- 『恋の帆影』1964年(昭和39年)
- 『サド侯爵夫人』1965年(昭和40年)
- 文部省芸術祭演劇部門芸術祭賞受賞。
- 『聖セバスチァンの殉教』1966年(昭和41年)
- 池田弘太郎との共訳で翻訳。原作:ガブリエレ・ダンヌンツィオ。
- 『朱雀家の滅亡』(1967年)(昭和42年)
- 『ミランダ』1968年(昭和43年)
- バレエ劇台本。
- 『わが友ヒットラー』1968年(昭和43年)
- 『癩王のテラス』1969年(昭和44年) 3幕7場
- 『椿説弓張月』1969年(昭和44年) 3幕8場
随筆・日誌・紀行[編集]
- 『芝居日記』1942年(昭和17年) - 1947年(昭和22年)
- 没後21年の1991年(平成3年)に初刊行された。
- 『平岡公威伝』1944年(昭和19年)
- 『重症者の兇器』1948年(昭和23年)
- 『反時代的な芸術家』1948年(昭和23年)
- 『アポロの杯』1952年(昭和27年)
- 「航海日記」、「北米紀行」、「南米紀行」、「欧州紀行」、「旅の思ひ出」から成る。
- 『遠視眼の旅人』1952年(昭和27年)
- 『女ぎらひの弁』1954年(昭和29年)
- 『好きな女性』1954年(昭和29年)
- 『終末感からの出発―昭和二十年の自画像』1955年(昭和30年)
- 『小説家の休暇』1955年(昭和30年) 公開日記・随筆。
- 『新恋愛講座』1955年(昭和30年) - 1956年(昭和31年) 「明星」に連載。
- 『わが漫画』1956年(昭和31年)
- 『わが魅せられたるもの』1956年(昭和31年)
- 『ボディ・ビル哲学』1956年(昭和31年)
- 『わが思春期』1957年(昭和32年) 「明星」に連載。
- 『きのふけふ』1957年(昭和32年) 「朝日新聞」コラムに連載。
- 『旅の絵本』1958年(昭和33年) ニューヨーク紀行。
- 『裸体と衣裳』1958年(昭和33年)-1959年(昭和34年) 公開日記・随筆。
- 『不道徳教育講座』1958年(昭和33年)-1959年(昭和34年) 「週刊明星」に連載。
- 『同人雑記』1958年(昭和33年)-1959年(昭和34年) 季刊雑誌「声」に連載。
- 『憂楽帳』1959年(昭和34年) 「毎日新聞」コラムに連載。
- 『十八歳と三十四歳の肖像画』1959年(昭和34年)
- 『巻頭言』1960年(昭和35年) 「婦人公論」に連載。
- 『社会料理三島亭』1960年(昭和35年) 「婦人倶楽部」に連載。
- 『発射塔』1960年(昭和35年) 「読売新聞」コラムに連載。
- 『ピラミッドと麻薬』1961年(昭和36年)
- 『美に逆らふもの』1961年(昭和36年) 香港・タイガーバームガーデン紀行。
- 『第一の性』1962年(昭和37年) - 1963年(昭和38年) 「女性明星」に連載。
- 『私の遍歴時代』1963年(昭和38年) 「東京新聞」に連載。
- 『踊り』1963年(昭和38年)
- 『小説家の息子』1963年(昭和38年)
- 『芸術断想』1963年(昭和38年) - 1964年(昭和39年) 「芸術生活」に連載。
- 『熊野路―新日本名所案内』1964年(昭和39年)
- 『秋冬随筆』1964年(昭和39年) - 1965年(昭和40年) 「こうさい」に連載。
- 『実感的スポーツ論』1964年(昭和39年) 「読売新聞」に連載。
- 『男のおしやれ』1964年(昭和39年)
- 『反貞女大学』1965年(昭和40年) 「産経新聞」に連載。
- 『英国紀行』1965年(昭和40年)
- 『をはりの美学』1966年(昭和41年) 「女性自身」に連載。
- 『闘牛士の美』1966年(昭和41年)
- 『私の遺書』1966年(昭和41年)
- 『私のきらひな人』1966年(昭和41年)
- 『ビートルズ見物記』1966年(昭和41年)
- 『男の美学』1967年(昭和42年)
- 『紫陽花の母』1967年(昭和42年)
- 『インドの印象』1967年(昭和42年) 「毎日新聞」インタビュー。
- 『「仙洞御所」序文』1968年(昭和43年)
- 『電灯のイデア―わが文学の揺籃期』1968年(昭和43年)
- 『軍服を着る男の条件』1968年(昭和43年)
- 『怪獣の私生活』1968年(昭和43年)
- 『「人斬り」出演の記』1969年(昭和44年)
- 『劇画における若者論』1970年(昭和45年)
- 『愛するといふこと』1970年(昭和45年)
評論・批評[編集]
- 『王朝心理文学小史』1942年(昭和17年)
- 学習院図書館の第4回懸賞論文に入選。
- 『檀一雄「花筐」―覚書』1944年(昭和19年)
- 『詩論その他』1945年(昭和20年)
- 『戦後語録』1945年(昭和20年)
- 『わが世代の革命』1946年(昭和21年)
- 『招かれざる客』1947年(昭和22年)
- 『宗十郎覚書』1947年(昭和22年)
- 『川端康成論の一方法―「作品」について』1949年(昭和24年)
- 『中村芝翫論』1949年(昭和24年)
- 『オスカア・ワイルド論』1950年(昭和25年)
- 『批評家に小説がわかるか』1951年(昭和26年)
- 『死の分量』1953年(昭和28年)
- 『新ファッシズム論』1954年(昭和29年)
- 『横光利一と川端康成』1955年(昭和30年)
- 『欲望の充足について―幸福の心理学』1955年(昭和30年)
- 『空白の役割』1955年(昭和30年)
- 『電気洗濯機の問題』1956年(昭和31年)
- 『永遠の旅人―川端康成氏の人と作品』1956年(昭和31年)
- 『亀は兎に追ひつくか?―いはゆる後進国の諸問題』1956年(昭和31年)
- 『楽屋で書かれた演劇論』1957年(昭和32年)
- 『川端康成の東洋と西洋』1957年(昭和32年)
- 『現代小説は古典なり得るか』1957年(昭和32年)
- 『心中論』1958年(昭和33年)
- 「文章読本」1959年(昭和34年)
- 『川端康成氏再説』1959年(昭和34年)
- 『六世中村歌右衛門序説』1959年(昭和34年)
- 『春日井建氏の「未青年」の序文』1960年(昭和35年)
- 『アメリカ人の日本神話』1961年(昭和36年)
- ”Japan: The Cherished Myths” と英訳され、米誌「HOLIDAY」に掲載された。
- 『魔―現代的状況の象徴的構図』1961年(昭和36年)
- 『現代史としての小説』1962年(昭和37年)
- 『谷崎潤一郎論』1962年(昭和37年)
- 『川端康成読本序説』1962年(昭和37年)
- 『林房雄論』1963年(昭和38年)
- 『細江英公序説』1963年(昭和38年)
- 『雷蔵丈のこと』 1964年(昭和39年)
- 『解説(「日本の文学38 川端康成」)』 1964年(昭和39年)
- 『解説(「現代の文学20 円地文子集」)』 1964年(昭和39年)
- 『文学における硬派―日本文学の男性的原理』1964年(昭和39年)
- 『生徒を心服させるだけの腕力を―スパルタ教育のおすすめ』1964年(昭和39年)
- 『現代文学の三方向』1965年(昭和40年)
- 『谷崎朝時代の終焉』1965年(昭和40年)
- 『文武両道』1965年(昭和40年)
- 『太陽と鉄』1965年(昭和40年) - 1968年(昭和43年)
- 『日本人の誇り』1966年(昭和41年)
- 『危険な芸術家』1966年(昭和41年)
- 『お茶漬ナショナリズム』1966年(昭和41年)
- 『法律と餅焼き』1966年(昭和41年)
- 『わが育児論』1966年(昭和41年)
- 『映画的肉体論』1966年(昭和41年)
- 『ナルシシズム論』1966年(昭和41年)
- 『団蔵・芸道・再軍備』1966年(昭和41年)
- 『谷崎潤一郎、芸術と生活』1966年(昭和41年)
- 『谷崎潤一郎について』1966年(昭和41年)
- 『伊東静雄の詩―わが詩歌』1966年(昭和41年)
- 『谷崎潤一郎頌』1966年(昭和41年)
- 『序(舩坂弘著「英霊の絶叫」)』1966年(昭和41年)
- 『日本への信条』1967年(昭和42年)
- 『古今集と新古今集』1967年(昭和42年)
- 『「道義的革命」の論理―磯部一等主計の遺稿について』1967年(昭和42年)
- 『私の中のヒロシマ―原爆の日によせて』1967年(昭和42年)
- 『人生の本―末松太平著「私の昭和史」』1967年(昭和42年)
- 『葉隠入門』1967年(昭和42年)
- 『祖国防衛隊はなぜ必要か?』1968年(昭和43年)
- 『愛国心』1968年(昭和43年)
- 『円谷二尉の自刃』1968年(昭和43年)
- 『ポップコーンの心霊術―横尾忠則論』1968年(昭和43年)
- 『二・二六事件について』1968年(昭和43年)
- 『小説とは何か』1968年(昭和43年) - 1970年(昭和45年) 「波」に連載。
- 『若きサムラヒのための精神講話』1968年(昭和43年) - 1969年(昭和44年) 「Pocket パンチOh!」に連載。
- 『文化防衛論』1968年(昭和43年)
- 『解説(「日本の文学40 林房雄・武田麟太郎・島木健作」)』1968年(昭和43年)
- 『日沼氏と死』1968年(昭和43年)
- 『機能と美』1968年(昭和43年)
- 『栄誉の絆でつなげ菊と刀』1968年(昭和43年)
- 『篠山紀信論』1968年(昭和43年)
- 『自由と権力の状況』1968年(昭和43年)
- 『解説(「日本の文学4 尾崎紅葉・泉鏡花」)』1969年(昭和44年)
- 『「戦塵録」について』1969年(昭和44年)
- 『現代青年論』1969年(昭和44年)
- 『反革命宣言』1969年(昭和44年)
- 『鶴田浩二論―「総長賭博」と「飛車角と吉良常」のなかの』1969年(昭和44年)
- 『自衛隊二分論』1969年(昭和44年)
- 『砂漠の住人への論理的弔辞―討論を終へて』1969年(昭和44年)
- 『北一輝論―「日本改造法案大綱」を中心として』1969年(昭和44年)
- 『日本文学小史』1969年(昭和44年)
- 第六章で中断され未完。
- 『日本文化の深淵について』1969年(昭和44年)
- ”A problem of culture” と英訳され、英国紙「THE TIMES」に掲載された。
- 『行動学入門』1969年(昭和44年) - 1970年(昭和45年) 「Pocket パンチOh!」に連載。
- 『「楯の会」のこと』1969年(昭和44年)
- 『「国を守る」とは何か』1969年(昭和44年)
- 『解説(「日本の文学52 尾崎一雄・外村繁・上林暁」)』1969年(昭和44年)
- 『「変革の思想」とは―道理の実現』1970年(昭和45年)
- 『新知識人論』1970年(昭和45年)
- 『「眠れる美女」論』1970年(昭和45年)
- 『「蓮田善明とその死」序文』1970年(昭和45年)
- 『問題提起』1970年(昭和45年)
- 『解説(「日本の文学34 内田百閒・牧野信一・稲垣足穂」)』1970年(昭和45年)
- 『士道について―石原慎太郎への公開状』1970年(昭和45年)
- 『柳田国男「遠野物語」―名著再発見』1970年(昭和45年)
- 『果たし得てゐない約束―私の中の二十五年』1970年(昭和45年)
- 『武士道と軍国主義』1970年(昭和45年)
- 『正規軍と不正規軍』1970年(昭和45年)
- 『革命哲学としての陽明学』1970年(昭和45年)
- 『独楽』1970年(昭和45年)
- 『武士道に欠ける現代のビジネス』1970年(昭和45年)
- 『わが同志観』1970年(昭和45年)
対談・座談・討論[編集]
- 『美のかたち―「金閣寺」をめぐって』1957年(昭和32年) 対:小林秀雄 [84]
- 『劇作家のみたニッポン』1959年(昭和34年) 対:テネシー・ウィリアムズ
- 『捨身飼虎』1961年(昭和36年) 対:千宗興 [84]
- 『七年目の対話』 1964年(昭和39年) 対:石原慎太郎 [84]
- 『現代作家はかく考える』 1964年(昭和39年) 対:大江健三郎 [84]
- 『戦後の日本文学』 1965年(昭和40年) 対:伊藤整、本多秋五
- 『二十世紀の文学』 1966年(昭和41年) 対:安部公房 [84]
- 『ニーチェと現代』 1966年(昭和41年) 対:手塚富雄
- 『対話・日本人論』 1966年(昭和41年) 対:林房雄
- 『エロチシズムと国家権力』 1966年(昭和41年) 対:野坂昭如 [84]
- 『われわれはなぜ声明を出したか―芸術は政治の道具か?』1967年(昭和42年) 対:川端康成、石川淳、安部公房
- 『文武両道と死の哲学』1967年(昭和42年) 対:福田恆存 [84]
- 『ファシストと革命家か』1968年(昭和43年) 対:大島渚 [84]
- 『天皇と現代日本の風土』1968年(昭和43年) 対:石原慎太郎
- 『文武の達人 国防を語る―国防対談』1968年(昭和43年) 対:源田実
- 『私の文学を語る』1968年(昭和43年) 対:秋山駿
- 『対談・人間と文学』1968年(昭和43年) 対:中村光夫
- 『デカダンス意識と生死観』1968年(昭和43年) 対:埴谷雄高、村松剛
- 『負けるが勝ち』1968年(昭和43年) 対:福田赳夫
- 『天に代わりて』1968年(昭和43年) 対:小汀利得 [116]
- 『戦後のデモクラシーと反抗する世代』1968年(昭和43年) 対:エドワード・G・サイデンステッカー、村松剛
- 『肉体の運動 精神の運動―芸術におけるモラルと技術』1968年(昭和43年) 対:石川淳
- 『原型と現代小説』1968年(昭和43年) 対:山本健吉、佐伯彰一
- 『安保問題をどう考えたらよいか―腹の底から話そう』1969年(昭和44年) 対:猪木正道
- 『「葉隠」の魅力』1969年(昭和44年) 対:相良亨
- 『政治行為の象徴性について』1969年(昭和44年) 対:いいだもも
- 『国家革新の原理―学生とのティーチ・イン』1969年(昭和44年)
- 『サムライ』1969年(昭和44年) 対:中山正敏 [116]
- 『三島由紀夫vs.東大全共闘―美と共同体と東大闘争』1969年(昭和44年)
- 東京大学での討論会。
- 『刺客と組長―男の盟約』1969年(昭和44年) 対:鶴田浩二 [116]
- 『おじさまは男として魅力あるわ』1969年(昭和44年) 対:神津カンナ
- 『十年後、BIセクシャル時代がやってくる?!』1969年(昭和44年) 対:丸山明宏
- 『軍隊を語る』1969年(昭和44年) 対:末松太平
- 『日本は国家か―「権力なき国家」の幻想』1969年(昭和44年) 対:江藤淳、高坂正尭、山崎正和、武藤光朗
- 『大いなる過渡期の論理―行動する作家の思弁と責任』1969年(昭和44年) 対:高橋和巳 [116]
- 『守るべきものの価値―われわれは何を選択するか』1969年(昭和44年) 対:石原慎太郎 [116]
- 『現代における右翼と左翼』1969年(昭和44年) 対:林房雄 [116]
- 『戦争の谷間に生きて―青春を語る』1969年(昭和44年) 対:徳大寺公英 [117]
- 『剣か花か―70年代乱世・男の生きる道』1970年(昭和45年) 対:野坂昭如 [116]
- 『二・二六事件と全学連学生との断絶』1970年(昭和45年) 対:堤清二 [116]
- 『尚武の心と憤怒の抒情―文化・ネーション・革命』1970年(昭和45年) 対:村上一郎 [116]
- 『"菊と刀"と論ずる』1970年(昭和45年) 対:伊沢甲子麿
- 『三島文学の背景』1970年(昭和45年) 対:三好行雄
- 『エロスは抵抗の拠点になり得るか』1970年(昭和45年) 対:寺山修司 [116]
- 『世阿弥の築いた世界』1970年(昭和45年) 対:ドナルド・キーン、小西甚一
- 『現代歌舞伎への絶縁状』1970年(昭和45年) 対:武智鉄二
- 『文学は空虚か』1970年(昭和45年) 対:武田泰淳
- 『破裂のために集中する』1970年(昭和45年) 対:石川淳
- 『三島由紀夫 最後の言葉』1970年(昭和45年) 対:古林尚
講演・声明[編集]
- 『私はいかにして日本の作家となつたか』1966年(昭和41年)4月18日
- 『文化大革命に関する声明』1967年(昭和42年)3月1日
- 『私の自主防衛論』1968年(昭和43年)10月24日
- 日経連臨時総会での特別講演。
- 『日本の歴史と文化と伝統に立つて』1968年(昭和43年)12月1日
- 東京都学生自治体連絡協議会、関東学生自治体連絡協議会主催の講演。
- 『日本とは何か』1969年(昭和44年)10月15日
- 大蔵省100年記念での講演。
- 『現代日本の思想と行動』1970年(昭和45年)4月27日
- 山王経済研究会例会での講演。
- 『私の聞いて欲しいこと』1970年(昭和45年)5月28日
- 皇宮警察創立84周年記念講演。
- 『悪の華―歌舞伎』1970年(昭和45年)7月3日
- 『孤立のススメ』1970年(昭和45年)6月11日
- 尚史会主催講演。
- 『我が国の自主防衛について』1970年(昭和45年)9月3日
- 『檄』1970年(昭和45年)11月25日
詩歌・献句・小品[編集]
- 『大内先生を想ふ』1934年(昭和9年)
- 『我が国旗』1936年(昭和11年)
- 『東の博士たち・九官鳥(森たち、第五の喇叭 黙示録第九章、独白 廃屋のなかの女、星座、九官鳥)』1939年(昭和14年)
- 『凶ごと(まがごと)』1940年(昭和15年)
- 『小曲集』1940年(昭和15年)
- 『青城詩抄』1940年(昭和15年) - 1941年(昭和16年)
- 『抒情詩抄』1941年(昭和16年)
- 『東徤兄を哭す』1943年(昭和18年)
- 『廃墟の朝』1944年(昭和19年)
- 『別れ』1945年(昭和20年)
- 『故・蓮田善明への献詩』1946年(昭和21年)
- 『新しきコロンブス』1955年(昭和30年)
- ニーチェの詩の翻訳。『小説家の休暇』に収む。
- 『理髪師の衒学的欲望とフットボールの食慾との相関関係』1957年(昭和32年)
- 『狂女の恋唄』1958年(昭和33年)
- 『祝婚歌 カンタータ』1959年(昭和34年)
- 皇太子ご結婚祝賀演奏会での祝婚歌。
- 『からつ風野郎』(同名映画の主題歌)1960年(昭和35年)
- 『お嬢さん』(同名映画の主題歌)1961年(昭和36年)
- 『黒蜥蜴の歌』、『黒とかげの恋の歌』、『用心棒の歌』1962年(昭和37年)
- 『造花に殺された舟乗りの歌』1966年(昭和41年)
- 丸山明宏チャリティー・リサイタルで、マドロス(船乗り)スタイルで歌唱した。作曲:丸山明宏。
- 『イカロス』1967年(昭和42年) [118]
- 『F104』1968年(昭和43年)
- 自衛隊戦闘機・F104試乗体験の小品。[118]
- 『隊歌―祖国防衛隊』1968年(昭和43年)
- 『起て! 紅の若き獅子たち―楯の会の歌』1970年(昭和45年)
- 『辞世の句』1970年(昭和45年)
- 「益荒男が たばさむ太刀の 鞘鳴りに 幾とせ耐へて 今日の初霜」と、「散るをいとふ 世にも人にも 先駆けて 散るこそ花と 吹く小夜嵐」 の2首。
写真集[編集]
映画作品[編集]
原作[編集]
主演・出演[編集]
制作年 | 作品名 | 制作(配給) | 監督名 | 三島の役柄 | 主な出演者 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|---|
1951年 | 純白の夜 | 松竹大船 | 大庭秀雄 | 端役で特別出演 ダンスパーティーのシーン |
河津清三郎 木暮実千代 |
※原作 |
1959年 | 不道徳教育講座 | 日活 | 西河克己 | 特別出演 冒頭と最後のナビゲーター |
大坂志郎 信欣三 |
※原作 |
1960年 | からっ風野郎 | 大映東京 | 増村保造 | 朝比奈武夫 | 若尾文子 船越英二 志村喬 |
※主演 |
1968年 | 黒蜥蜴 | 松竹大船 | 深作欣二 | 端役で特別出演 日本人青年の生人形 |
丸山明宏 木村功 川津祐介 |
※劇化・戯曲作 |
1969年 | 人斬り | フジテレビ /勝プロ |
五社英雄 | 田中新兵衛 | 勝新太郎 仲代達矢 石原裕次郎 |
※出演 |
監督[編集]
制作年 | 作品名 | 制作(配給) | 三島の役柄 | 主な出演者 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|
1966年 | 憂国 | 東宝/ATG | 武山信二中尉 | 三島由紀夫 鶴岡淑子 | ※制作は1965年 原作・製作・脚色・美術:三島 |
三島本人を題材[編集]
制作年 | 作品名 | 制作(配給) | 監督名 | 三島の役 | 他の出演者 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|---|
1985年 | Mishima: A Life In Four Chapters |
フィルムリンク・ インターナショナル アメリカン・ゾエトロープ ルーカスフィルム |
ポール・シュレイダー | 緒形拳 利重剛 (18-19歳) |
坂東八十助 佐藤浩市 沢田研二 永島敏行 |
日本未公開 音楽: フィリップ・グラス |
2005年 | みやび 三島由紀夫 |
パンドラ (映画会社) | 田中千世子 | 平野啓一郎 関根祥人 野村万之丞 柳幸典 |
ドキュメンタリー | |
2012年 | 11・25自決の日 三島由紀夫と 若者たち |
若松プロダクション スコーレ株式会社 |
若松孝二 | 井浦新 | 満島真之介 寺島しのぶ |
テレビドラマ作品[編集]
原作[編集]
- 名作劇場『永すぎた春』(KRテレビ)、1957年(昭和32年)8月28日 - 9月25日
- 文学座アワー『灯台』(日本テレビ)、1958年(昭和33年)4月24日
- 東芝日曜劇場『橋づくし』(KRテレビ)、1958年(昭和33年)9月7日
- 『卒塔婆小町』(NHKテレビ)、 1958年(昭和33年)10月30日
- 木曜観劇会『鹿鳴館』(フジテレビ)、1959年(昭和34年)7月9日
- 『不道徳教育講座』(フジテレビ)、1959年(昭和34年)10月15日 - 1960年(昭和35年)8月4日
- お母さん『大障碍』(KRテレビ)、1959年(昭和34年)12月10日
- 女の四季『女神』(日本教育テレビ)、1960年(昭和35年)10月4日、11日
- 田辺劇場『美徳のよろめき』(フジテレビ)、1961年(昭和36年)7月4日 - 9月26日
- 女の劇場『純白の夜』(朝日テレビ)、1961年(昭和36年)7月26日
- 近鉄金曜劇場『鹿鳴館』(TBSテレビ)、1961年(昭和36年)12月1日、8日
- 舞踊ホール『地獄変』(NHK教育テレビ)、1962年(昭和37年)6月2日
- 舞踊劇として放映。終了後に三島が出演、アナウンサーと対談。
- 『お嬢さん』(関西テレビ)、1962年(昭和37年)6月20日 - 7月25日
- 『鏡子の家』(TBSテレビ)、1962年(昭和37年)7月4日 - 8月29日
- バラ劇場『潮騒』(TBSテレビ)、1962年(昭和37年)7月10日 - 31日
- 文芸アワー『葵上』(日本テレビ)、1962年(昭和37年)8月10日
- 文芸劇場『にっぽん製』(NHKテレビ)、1963年(昭和38年)1月11日
- 文芸劇場『潮騒』(NHKテレビ)、1963年(昭和38年)7月5日
- 近鉄金曜劇場『十九歳』(TBSテレビ)、1963年(昭和38年)11月15日
- 近鉄金曜劇場『剣』(TBSテレビ)、1964年(昭和39年)5月8日
- NHK劇場『真珠』(NHKテレビ)、1964年(昭和39年)6月19日
- ゴールデン劇場『美しい星』(東京12チャンネル)、1964年(昭和39年)8月17日 - 21日
- 『お嬢さん』(フジテレビ)、1967年(昭和42年)10月8日~1968年(昭和43年)3月31日
- 東芝日曜劇場『橋づくし』(TBSテレビ)、1968年(昭和43年)9月8日
- おんなの劇場『春の雪』(フジテレビ)、1970年(昭和45年)2月27日 - 4月3日
- ドラマ『鹿鳴館』(NHKテレビ)、1970年(昭和45年)4月25日
- 銀河テレビ小説『永すぎた春』(NHKテレビ)、1975年(昭和50年)3月3日 - 14日
- 土曜グランド劇場『近眼ママ恋のかけひき』(『三島由紀夫レター教室』)(日本テレビ)、1977年(昭和52年)6月25日 - 7月23日
- 青春アニメ『潮騒』(日本テレビ)、1986年(昭和61年)5月2日、9日
- 月曜・女のサスペンス『復讐・死者からの告発状』(『復讐』)(テレビ東京)、1988年(昭和63年)10月24日
- 月曜・女のサスペンス『花火・身代わり首の男』(『花火』)(テレビ東京)、1988年(昭和63年)12月12日
- 月曜・女のサスペンス『侯爵殺人事件・呪われた別荘』(『月澹荘奇譚』)(テレビ東京)、1990年(平成2年)12月3日
- 日本名作ドラマ『美徳のよろめき』(テレビ東京)、1993年(平成5年)6月28日、7月5日
- 文學ト云フ事『美徳のよろめき』(フジテレビ)、1994年(平成6年)8月9日
- 朗読紀行 にっぽんの名作『潮騒』(NHKハイビジョン)、2001年(平成13年)2月4日
- テレビ朝日開局50周年記念ドラマスペシャル 『鹿鳴館』(テレビ朝日)、2008年(平成20年)1月5日
その他[編集]
- 『皇太子ご結婚祝賀演奏会』(NHKテレビ)、1959年(昭和34年)4月10日(NHKラジオ第一と同時放送)
- 作詞-三島。作曲-黛敏郎。演奏-NHK交響楽団。指揮-ウィルヘルム・シュヒター。
ラジオドラマ作品[編集]
原作[編集]
- 連続放送劇『潮騒』(文化放送)、1954年(昭和29年)7月11日 - 9月26日
- 現代劇場『ボクシング』(文化放送)、1954年(昭和29年)11月21日 (台本構成-三島)
- 続高峰秀子ドラマ集『遠乗会』(ニッポン放送)、1956年(昭和31年)4月13日
- ラジオ小説『女神』(文化放送)、1956年(昭和31年)6月25日 - 7月20日
- 大映アワー『永すぎた春』(ラジオ東京)、1957年(昭和32年)3月20日 - 5月22日
- 国際演劇月参加特別番組『道成寺』(ラジオ東京)、1957年(昭和32年)6月18日
- 人情夜話『橋づくし』(ラジオ東京)、1957年(昭和32年)7月1日 - 3日
- 淡島千景ドラマ集『美徳のよろめき』(ニッポン放送)、1957年(昭和32年)9月15日、22日
- 現代劇場『班女』(文化放送)、1957年(昭和32年)12月27日
- シネマ劇場『炎上』(『金閣寺』)(ニッポン放送)、1958年(昭和33年)7月27日 - 8月17日
- 現代日本文学特集 第5夜『金閣寺』(NHKラジオ第二)、1959年(昭和34年)6月27日
- 第二部座談会「作品をめぐって」に三島が出演。
- 『鏡子の家』(ラジオ関東)、1959年(昭和34年)10月19日~1960年(昭和35年)3月16日
- ラジオのためのオペラ『あやめ』(中部日本放送)、1960年(昭和35年)11月27日
- 昭和35年度芸術祭賞。
- 連続ラジオ小説『潮騒』(NHKラジオ第一)、1961年(昭和36年)6月26日 - 7月29日
- ラジオ小説『夏子の冒険』(NHKラジオ第一)、1962年(昭和37年)10月1日 - 31日
- お茶の間名作集『潮騒』(ニッポン放送)、1964年(昭和39年)9月1日 - 30日
- 朝のラジオ小説『肉体の学校』(TBSラジオ)、1964年(昭和39年)10月27日 - 11月14日
- ドラマ・スタジオ8『モノローグ・ドラマ 船の挨拶』(中部日本放送)、1965年(昭和40年)7月20日
- 東西傑作文学『美徳のよろめき』(TBSラジオ)、1968年(昭和43年)9月9日 - 10月5日
- 日曜名作座『美しい星』(NHKラジオ第一)、1975年(昭和50年)5月25日 - 6月15日
- 文芸劇場『沈める滝』(NHKラジオ第一)、1976年(昭和51年)2月28日
- 名作をたずねて『潮騒』(NHKラジオ第二)、1976年(昭和51年)4月23日、30日
朗読[編集]
- 小説『夏子の冒険』(ラジオ東京)、1952年(昭和27年)6月2日 - 30日
- 連続物語『夏子の冒険』(文化放送)、1953年(昭和28年)6月1日 - 27日
- 自作朗読『美神』(ラジオ東京)、1954年(昭和29年)7月1日 (朗読-三島)
- 私の本棚『真夏の死』(NHKラジオ第一)、1954年(昭和29年)7月15日 - 24日
- 文学サロン『潮騒』(ラジオ東京)、1955年(昭和30年)5月2日
- ドラマ自由席『熊野―近代能楽集のうち』(ラジオ東京)、1961年(昭和36年)11月5日
- 物語り『真珠』(NHKラジオ第一)、1963年(昭和38年)5月23日
- ラジオ劇場『卒塔婆小町』(ニッポン放送)、1963年(昭和38年)9月15日
- 自作朗読『サーカス』(NHK-FM)、1965年(昭和40年)5月1日 (朗読-三島)
- 朝の朗読『真夏の死』(中部日本放送)、1965年(昭和40年)5月4日 - 25日
- 朗読『沈める滝』(NHK-FM)、1968年(昭和43年)11月11日 - 30日
音楽作品[編集]
- キングレコード、1960年(昭和35年)3月20日発売。
- 作詞・歌唱:三島由紀夫。作曲・ギター演奏:深沢七郎。編曲:江口浩司。演奏:キングオーケストラ。
- ※ B面は春日八郎の『東京モナリザ』となっている。
- 『お嬢さん』(同名の大映映画の主題歌) (EPレコード)
- キングレコード、1961年(昭和36年)1月31日発売。
- 作詞:三島由紀夫。作曲:飯田三郎。歌唱:中原美紗緒、キング合唱団。演奏:キングオーケストラ。
- ※ B面は青山ヨシオの『たった一つの花』となっている。
- 『ポエムジカ 天と海―英霊に捧げる七十二章』 (LPレコード)
- クラウンレコード、1970年(昭和45年)4月29日発売。
- 作曲・編曲:越部信義。朗読:三島由紀夫。竜笛:関河真克。演奏:クラウン弦楽四重奏団。
- 題字「英霊の声」(ジャケット):三島由紀夫。
- ※ A面は『起て! 紅の若き獅子たち―楯の会の歌』
- クラウンレコード、1970年(昭和45年)4月29日発売。
- 作詞:三島由紀夫。作曲・編曲:越部信義。歌唱:三島由紀夫と楯の会。
- ※ B面は『英霊の声―三島由紀夫作「英霊の聲」より』
- 『軍艦マーチのすべて』 (CD)
関連人物[編集]
- 東文彦
- 年長の友人で『三島由紀夫十代書簡集』(新潮社、1999年。新潮文庫、2002年)の大半は東宛である、戦時中の1943年(昭和18年)10月8日に23歳で夭折。三島は、『東文彦作品集』(講談社、1971年。講談社文芸文庫で2007年再刊)の出版に尽力し、自決する1ヶ月前に序文を記した。文彦の父・東季彦によると、三島は死ぬまで、文彦の命日に毎年欠かさず墓前参りに来ていたという[10]。なお、東文彦の母方の祖父は石光真清である。
- 安部譲二
- 作家で元ボクサー、日本航空客室乗務員、バー経営など。三島にボクシングジムを紹介するなどした。当時の安部の半生を題材に、三島は『複雑な彼』(集英社、1968年。角川文庫で2009年再刊)を執筆。この物語の主人公の名前「宮城譲二」は、安部が作家デビューするにあたってペンネームの一部とした。
- 天知茂
- 俳優。生涯の持ち役だった明智小五郎を初めて演じたのは、三島本人から指名され、丸山明宏初主演でもある1968年(昭和43年)の舞台『黒蜥蜴』である。三島は劇場プログラムの中で、「もう一人の問題は、相手役の明智小五郎だつた。このダンディ、この理智の人、この永遠の恋人を演ずるには、風貌、年恰好、技術で、とてもチンピラ人気役者では追ひつかない。種々勘考の末、天知茂君を得たのは大きな喜びである。映画『四谷怪談』の、近代味を漂はせたみごとな伊右衛門で、夙に私は君のファンになつてゐたのであつた」[119]と記している。
- 伊東静雄
- 日本浪曼派の詩人。三島からは尊敬されていたにもかかわらず、三島とその作品を嫌っており(しかし1942年(昭和17年)の三島宛の葉書では、「これからも沢山書いて、新しき星になつて下さい、それを信じて待ちます」と、三島を励ましている)、1944年(昭和19年)5月に三島の訪問(序文の依頼)を受けた際のことを、伊東は日記で、「学校に三時頃平岡来る。夕食を出す。俗人、神堀来る。リンゴを呉れる。九時頃までゐる。駅に送る」と記し、リンゴを持参した自分の中学校の教え子と、手ぶらで来て夕食まで食べ、駅まで見送った三島を比べていた。また、その月末の日記では、「平岡からの手紙、面白くない。背のびした無理な文章」と記した(但し三島自身の弁にも、初期の自身の文章を同じように難じる記述がある)。小高根二郎は『詩人 伊東静雄』の中で、「魚棚の丁稚あがりの父をもった静雄は、かなり激しい階級的な反発心を秘めていた。(中略)上流の階級に属していた、そのボンボン(三島)に、なぜ貧乏な俺がサービスしなければならないのか?(中略)静雄は二少年を天秤にかけた常識―自分の俗物性を、日記で由紀夫に押しつけたのである」[120]と述べている。伊東歿後、三島は伊東を回想し、「あの人は一個の小人物だつた。それでゐて、飛び切りの詩人だつた」[121]と述べ、その世俗に汚れなかった繊細な魂と詩を哀悼、賞賛した。『伊東静雄全集推薦の辞』でも、「伊東静雄氏は私のもつとも敬愛する詩人であり、客観的に見ても、一流中の一流だと思ふ」と述べている。
- 石原慎太郎
- 作家。政治家、東京都知事。デビュー当時、三島に作家としての先進性を評価される。石原の作品『完全な遊戯』が文壇で全批判された際も、三島は音楽的で、詩的な文体であると評価する。しかし石原が政治家に転身してからは徐々に離れ、1970年(昭和45年)6月に三島が、石原の政治姿勢を批判する文章『士道について―石原慎太郎への公開状』を、毎日新聞に発表してからは事実上断絶した。また、三島は村上一郎との対談『尚武の心と憤怒の抒情―文化・ネーション・革命』(日本読書新聞 1969年12月29日 - 1970年1月5日合併号に掲載)[116][69]の中で、「石原と小田実って、全然同じ人間だよ、全く一人の人格の表裏ですな」と言い、石原の天皇に対する無理解を批判していた。石原は、三島事件を「狂気の沙汰」と一言に切って棄て、野坂昭如との対談や評論『三島由紀夫の日蝕』(新潮社、1991年)でも否定的な見解を述べ続けた。しかし、三島事件直後の文章『三島由紀夫への弔辞』(週刊現代 1970年12月10日号に掲載)[122]の中では、「三島氏も友人に宛てた遺書の中で、たとえ他がこれを狂気といおうとも、と断っている。ということは、氏自身が社会的政治的に見て、あの行動が他から眺めれば、狂気とも愚行ともとれ得ることを承知した上で行なった、他が何といおうと氏にとっては、絶対に社会的政治的な行為であったに違いない」とも述べていた。石原が三島の死後に、「自分は(三島と)友人だ」と公言していることについては、賛否両論があり、特に美輪明宏からは「政治利用」であると批判されている。三島自身は晩年のインタビューで、「文壇、編集者に友人は一人もいない」と述べた。また、1970年(昭和45年)11月の清水文雄宛の書簡にも三島は、「文壇に一人も友人がなくなり、今では信ずべき友は伊沢氏(伊沢甲子麿)一人になりました」と記している。
- 伊沢甲子麿
- 教育評論家。1947年(昭和22年)3月、国学院大学生であった伊沢は、豊川登(学習院教諭、ドイツ文学)と磯部忠正(元学習院長、磯部俶の兄)を介して三島と知り合い、終生の友人となる。初対面の際、伊沢は三島から、「伊沢さんは保田與重郎さんが好きですか、嫌いですか?」と聞かれ、「保田さんは私の尊敬する人物です。(中略)戦後、保田さんを右翼だとか軍国主義だとか言って非難するものがありますが、私はそのような意見とは真向から戦っています」と答えた。その時、三島は、「今、伊沢さんが言われたことで貴方を信頼できる方だと思いました」と言ったという[123]。憂国忌の発起人でもある。
- 市川雷蔵
- 歌舞伎出身の映画俳優。大映作品『炎上』(『金閣寺』が原作)と『剣』で主役を演じている。撮影現場を見学した日の三島の日記『「炎上」撮影見学 日記(5)―裸体と衣裳』には、「頭を五分刈にした雷蔵君は、私が前から主張してゐたとほり、映画界を見渡して、この人以上の適り役はない」[124]と記している。また、三島からの信頼も厚く、歌舞伎公演に際して、「目の美しい、清らかな顔に淋しさの漂ふ、さういふ貴公子を演じたら、容姿に於て、君の右に出る者はあるまい。君の演技に、今まで映画でしか接することのなかつた私であるが、『炎上』の君には全く感心した。市川崑監督としても、すばらしい仕事であつたが、君の主役も、リアルな意味で、他の人のこの役は考へられぬところまで行つていた。ああいふ孤独感は、なかなか出せないものだが、君はあの役に、君の人生から汲み上げたあらゆるものを注ぎ込んだのであらう」[125]と激励の文章を送られた。『獣の戯れ』の映画主演は多忙で、『春の雪(『豊饒の海』第1巻)』の舞台公演は病いで実現しなかった。雷蔵は増村保造監督に、二・二六事件の青年将校の役もやりたいと相談していたという[126]。1969年(昭和44年)7月に癌で没したが、池上本門寺での葬儀には、三島も夫妻で参列している。今日でも映画館でリバイバル上映され、関連書籍が多く出されている。
- 江藤小三郎
- 1969年(昭和44年)2月11日、三島自決の前年の建国記念日に、国会議事堂前で遺書「覚醒書」を残して世を警め同胞の覚醒を促すべく自決した青年。明治維新の功労者江藤新平の曾孫。その至誠と壮絶な諫死は後の新右翼・民族派運動に多大な影響を及ぼす。三島は『若きサムラヒのための精神講話』[56][57]において、「私は、この焼身自殺をした江藤小三郎青年の『本気』といふものに、夢あるひは芸術としての政治に対する最も強烈な批評を読んだ一人である」と記し、その自決の決意に大きな影響を与えたことをうかがわせる。
- 遠藤周作
- 作家。憂国忌発起人として名を連ねるなど、生命を賭して三島が投げかけたメッセージにはファナティックな意図なしに一定の理解を示していた。晩年の代表作『深い河』は、『豊饒の海』の影響も多分に受けている。
- 川端康成
- 三島の師にして、先輩作家。否定的な評価を受けることも多かった新人作家時代の三島が、文壇に地歩を築くにあたっては、川端の後押しが最も与って大きかった。三島は(かつて太宰治が谷崎潤一郎令嬢との結婚を考えたように)川端令嬢との結婚を考えたことがあると言われているが、この件に関しては1951年(昭和26年)3月に、夫人の川端秀子が、「さりげなく、しかし、きっぱりとお断りした」という[26]。三島は自決約1年前辺りから、楯の会に対する川端の冷淡さに失望していたとの証言がある[127]。1971年(昭和46年)1月24日に築地本願寺で行なわれた三島の葬儀の委員長は川端が務めた。
- 北杜夫
- 作家。年齢も近く、同じ山の手生まれから交友が始まり、三島は北の作品を好んで推薦するなどした。しかし次第に政治的に過激になっていった晩年の三島と北は疎遠となった。ちなみに北の父親の歌人・斎藤茂吉と三島の伯父で精神科医の橋健行(母・倭文重の兄)は親友同士であった[99]。
- 越路吹雪
- 独身時代に三島と恋愛関係にあったと言われている。一時期は、三島の母からも未来の嫁と見なされていたという。
- 小島千加子
- 文芸誌「新潮」での三島担当の編集者。三島事件の当日朝10時30分に、最後の作品の原稿『天人五衰』(『豊饒の海』第4巻)を取りに自宅へ行った。その時三島は既に出立しており、お手伝いさんから受け取った。経緯は『三島由紀夫と檀一雄』(構想社、1980年。ちくま文庫で1996年再刊)に詳しい。
- 佐々淳行
- 警察庁官僚でその後内閣官房内閣安全保障室長。新左翼による暴動鎮圧に警察官僚として従事していたこともあり、三島と意見を交わすことも多く、さらに実姉の紀平悌子が三島と恋愛関係にあったほか、粕谷一希や石原慎太郎など共通の知人もいた。
- 清水文雄
- 日本浪曼派系の国文学者で、和泉式部研究で著名。学習院時代の恩師で、主宰する「文藝文化」で、1941年(昭和16年)に筆名「三島由紀夫」を提案し、著作活動を促した。没後に、三島が清水へ送った書簡集『師清水文雄への手紙』(新潮社、2003年)が出版されている。当時は、学習院在学時の皇太子(現:今上天皇)の担当教師でもあったが、戦後は広島大学に赴任し終生在住した。
- 澁澤龍彦
- 作家で、フランス文学者。1956年(昭和31年)、澁澤が訳したマルキ・ド・サドの作品集序文を三島に依頼し、快諾を受けてからその没年に至るまで親交があり、公私ともに三島のよき理解者だった。澁澤は追悼文『三島由紀夫氏を悼む』(雑誌・ユリイカ 1971年1月号に掲載)の中で、「自分の同世代者のなかに、このようにすぐれた文学者を持ち得た幸福を一瞬も忘れたことはなかった」と三島を賞賛し、一方、三島も澁澤を高く評価していた。三島戯曲の代表作とされる『サド侯爵夫人』は、澁澤の『サド侯爵の生涯』(桃源社、1964年。中公文庫、1983年。他)に始まる一連の著作に想を得ており、澁澤も序文を書いている。また三島に面と向かって、「近ごろ、兵隊ごっこ(楯の会)はいかがですか」と(半ば皮肉を交えて)言えるほど親しい間柄だった。親交と信頼の深さを伝える著書・対談『三島由紀夫おぼえがき』(立風書房、1983年。中公文庫、1986年)がある。三島の死後は、憑かれたように小寺巡礼の旅に出たという。
- 篠山紀信
- 写真家。処女出版『篠山紀信と28人のおんなたち』(毎日新聞社、1968年)に、三島が序文『篠山紀信論』を書いている[128]。また、1970年(昭和45年)9月に薔薇十字社で企画が上がり、三島の指名で篠山が撮影した写真集『男の死』が、自決の直前の11月17日に撮影された。当初は、横尾忠則も被写体になる予定だったが、病気で入院中の横尾の症状が回復せず、三島だけとなった。数点が公開されたのみで、その全容は現在にいたっても未公開となっている。なお自宅書斎・庭園ほかを、多数撮影した『三島由紀夫の家』(美術出版社、1995年。普及版2000年)がある。
- 高橋和巳
- 作家・中国文学者。三島とは、1969年(昭和44年)に『大いなる過渡期の論理―行動する作家の思弁と責任』(雑誌・潮1969年11月号に掲載)[129][116]で対談している。三島自決時には、自宅の病床で通信社のインタビューに応じ、「『豊饒の海』を書き終わった三島さんはもう書くものが無くなるのでないか。作家として三島さんはどうなるのか、心配だった…」と述べた。文芸誌で、三島の自殺を主題にした談話筆記『自殺の形而上学』(文藝 1971年2月号に掲載)と、野間宏・秋山駿との座談会『文学者の生きかたと死にかた』(群像 1971年2月号に掲載)[130]を発表した。なお三島による高橋の作品・人物論は無いが、高橋が訳した唐代詩人『李商隠(中国詩人選集15)』(岩波書店、1958年)は、李賀の訳注書と並んで三島の蔵書にある。1971年(昭和46年)5月に39歳の若さで、ガンで亡くなっている。
- 手塚治虫
- 漫画家。三島がモデルと思われる作家が主人公の中編『ばるぼら』(ビッグコミック 1973年 - 1974年に連載)を描いており、三島を終生のライバルの一人として見なしていたとされる。これに対して三島は生前、『劇画における若者論』[37][38]の中で、「劇画や漫画の作者がどんな思想を持たうと自由であるが、啓蒙家や教育者や図式的風刺家になつたら、その時点でもうおしまひである。かつて颯爽たる『鉄腕アトム』を想像した手塚治虫も、『火の鳥』では日教組の御用漫画家になり果て…」と手塚の作風的変遷を辛辣に批判した。
- 田宮二郎
- 俳優。田宮本人の希望で『複雑な彼』(大映、1968年)に主演、学習院の後輩でもある。1978年(昭和53年)12月28日、自宅で猟銃自殺を遂げ死亡。享年43。
- 徳川義恭
- 学習院の先輩。 1949年(昭和24年)12月12日、若くして病没した。享年28。尾張徳川家分家の出身で、皇族との縁戚関係があり、実兄は半世紀にわたり昭和天皇の侍従・侍従長を務めた徳川義寛である。三島の短編『貴顕』は徳川義恭をモデルにしている。
- 中村伸郎
- 俳優。三島が劇団「文学座」を脱退した際、当時劇団の主要幹部でありながら三島に追随して「文学座」を離れ、以降、「劇団NLT」「浪曼劇場」と、演劇面においては三島が自決するまで行動を共にした。後年、「三島の政治信条には全く共鳴しなかったが、あの人の書く戯曲の美しさには心底惚れ込んでいた。だから文学座も迷うことなく辞めた」と語っている。『わが友ヒットラー』ではクルップを演じた。
- 長沢節
- 画家。若き日の三島が、彼に興味を持ち池袋椎名町のアトリエにしょっちゅう現れ、片隅で紙に絵を描いていた。彼が書いた小説を三島がほめ、鎌倉文庫発行の文芸誌「人間」の臨時増刊号のために、編集長・木村徳三に原稿を持ち込んだが、時を置かず鎌倉文庫がつぶれたため実現せず、その後の三島が右翼的言動を強めたので距離を置くようになる。
- 西尾幹二
- ドイツ文学者、ニーチェ研究家。評論家。西尾の『ヨーロッパ像の転換』(新潮社、1969年)には、手塚富雄と共に三島が推薦文を書いている。また、三島は三好行雄との対談『三島文学の背景』(雑誌・国文学 1970年5月臨時増刊号に掲載)の中で、「新潮の二月号に西尾幹二さんがとてもいい評論を書いている。芸術と生活の二元論というものを、私がどういうふうに扱ったか、だれがどういうふうに扱ったかについて書いている」と、西尾の三島論『不自由への情熱―三島文学の孤独』(新潮 1970年2月号に掲載)[131]に言及し評価していた。憂国忌の代表発起人でもある。
- 林房雄
- 尊敬し交流していた作家、評論家。『林房雄論』(限定版 新潮社、1963年)[132]を書き、共著『対話・日本人論』(番町書房、1966年)がある。東大法学部の先輩でもある。三島の自決後は、憂国忌の運営に積極的に参加し、『悲しみの琴 三島由紀夫への鎮魂歌』(文藝春秋、1972年)ほか多数の論考を著した。
- 蓮田善明
- 日本浪曼派系の国文学者で「文藝文化」を主宰した。元陸軍中尉。三島の少年時代の「感情教育の師」。敗戦時の1945年(昭和20年)8月19日、駐屯地のマレー半島のジョホールバルで、天皇を愚弄した上官を射殺し、自決した。『全集』(全1巻)(島津書房、1989年)が刊行されている。
- 土方巽
- 舞踏家、振付家。 暗黒舞踏派の創始者であり、三島に深く傾倒していた。1959年(昭和34年)には、三島の小説『禁色』と同名の舞踏作品を発表している。三島も土方の存在感に「震撼させられていた形跡があり」(澁澤龍彦談)、土方同様、三島の肉体を被写体とする写真集『薔薇刑』(限定版 集英社、1963年)[133]の製作につながっていく。『薔薇刑』の撮影では、土方は、自らのスタジオを提供し、後に夫人となる元藤燁子と共に撮影に参加している。
- 福田恆存
- 英文学者、劇作家・演出家、保守派の論客。鉢の木会の同人仲間として三島と親しかった。福田が、「文学座」から分裂し「劇団雲」結成を発表する前夜に、三島にも参加を呼びかけたが、大勢が決した後に声がかかったことが不服だったためか、三島はこれを拒否し、以後は共に演劇活動はしなかった。しかし、三島は「劇団雲」の機関紙に寄稿し、1967年(昭和42年)に対談『文武両道と死の哲学』(論争ジャーナル 1967年11月号に掲載)[56][84]も行うなど、関係断絶には至っていなかった。
- 藤原岩市
- 三島由紀夫を自衛隊体験入隊に導いた人物で、元陸軍将官、自衛隊調査学校学校長。三島の自衛隊体験入隊から深く関与している。
- 細江英公
- 写真家。昭和30年代半ば、当時新進気鋭の若手写真家であった細江が、舞踏家・土方巽を撮影した写真を、三島はいたく気に入り、自身の評論集『美の襲撃』(講談社、1961年)の口絵写真を依頼する。これを契機に、ボディービルに傾倒していた三島自身の肉体を被写体とした写真集『薔薇刑』』(限定版 集英社、1963年)[133]の一連の撮影が行なわれた。『薔薇刑』は細江の代表作となり、戦後日本の写真界のみならず、英語版も数度出版された写真集となった。
- 増村保造
- 映画監督。東大法学部で同窓だったが、映画『からっ風野郎』を三島主演で監督するに際しては、三島の未熟な演技を遠慮なく罵倒し、三島を徹底的にしごいた。撮影中の事故で三島が頭部を強打して脳震盪で病院に担ぎ込まれたとき、平岡梓は、「息子の頭をどうしてくれるんだ!」と激怒し、三島自身は友人ロイ・ジェームスに向かって「増村を殴ってきてくれよ、ロイ!」と喚いたと伝えられる[134]。しかし、その一方、映画が完成し三島邸に招待された際、増村は梓から、「下手な役者をあそこまできちんと使って頂いて」と礼を言われたという。三島に怪我をさせて申し訳ないと思っていたのに逆に礼を言われ、帰り道、増村は、「明治生まれの男は偉い」と、梓をほめていたという[98]。また、岸田今日子、晩年の増村保造も、三島の回想文[135]を書いているという。
- 美輪明宏
- 歌手、俳優。10代の時、美輪のアルバイト先のシャンソン喫茶『銀巴里』に客としてやってきた、当時若き新進気鋭の作家だった三島と出会い、「天上界の美」とその美貌を絶賛される。以降、三島の戯曲に多く出演し、『卒塔婆小町』[27]、『双頭の鷲』、三島が脚本を手がけた『黒蜥蜴』は今でも定番であり、近年では演出も手がけている。しかし、決して三島に媚びる様なことはなく、三島好みの、凛然として気高い「権高な麗人」像を貫いた。三島は自決決行に先駆けて、永訣として「薔薇の花束」を持って楽屋の美輪を訪れ、胸に秘めた別れを惜しんだという。三島の衝撃的な自決後、一気に髪が白髪になったといわれる。なお自伝著作『紫の履歴書』初版(大光社、1968年)には、三島が序文を寄せている。
- 村上一郎
- 作家、文芸評論家。クリスチャンで右派的な思想も持ち、独自視線の戦争批判が冴える。三島と頻繁に会談した。二人の対談は『尚武の心と憤怒の抒情―文化・ネーション・革命』(日本読書新聞 1969年12月29 - 1970年1月5日合併号に掲載)[116][69]に詳しい。村上の『北一輝論』(三一書房、1970年)は三島に高く評価された。村上は、三島の決起のニュースを聞き、市ヶ谷駐屯地に駆けつけ門衛に誰何された際、「自分の官姓名は正七位海軍主計大尉村上一郎である」と叫んだという。1975年(昭和50年)自宅で自刃した。
- 村松英子
- 女優。三島と友人であった実兄・村松剛を介して三島と知り合う。三島の指導を受け、三島戯曲の舞台に多数出演した。1963年(昭和38年)、「喜びの琴事件」では、三島、中村伸郎らと共に「文学座」を脱退し、「劇団雲」を経て「劇団NLT」に所属。1968年(昭和43年)には、再び三島らと共に「劇団NLT」を脱退し、「劇団浪曼劇場」の旗揚げに参加した。三島との思い出を綴った『三島由紀夫 追想のうた』(阪急コミュニケーションズ、2007年)がある。憂国忌の代表発起人でもある。
- 山本舜勝
- 陸上自衛隊調査学校情報教育課長。三島らを自衛隊調査学校で直接指導した陸上自衛官、元陸軍少佐。元陸軍中野学校研究部員兼教官。三島の決起に至るまでの過程に深く関与し、「楯の会」の事実上の指導官であった。陸将補で退官後に、三島に関する著書を回想[136]など数冊出している。
- 矢頭保
- 写真家。三島は、矢頭の作品集『体道・日本のボディビルダーたち』(ウェザヒル出版社、1966年)に序文を寄せており、自身でモデルも務めている。また、『裸祭り』(美術出版社、1969年)にも序文を寄せている。
- 保田與重郎
- 日本浪曼派の作家、文芸評論家。1942年(昭和17年)11月に三島は、学習院の講演依頼のため清水文雄と共に保田を初訪問する。以後、何度か三島は保田を訪れる。三島の死後、その時の回想『天の時雨』(新潮 1971年1月臨時増刊号に掲載)[137]などを保田は綴っている。
- 横尾忠則
- 美術家、グラフィックデザイナー。三島は横尾の絵を気に入り、1968年(昭和43年)に『ポップコーンの心霊術―横尾忠則論』[128]を書いている。1970年(昭和45年)9月に薔薇十字社で企画が上がり、三島の指名で篠山が撮影した写真集『男の死』が、自決の直前の11月17日に撮影されたが、当初、横尾忠則も被写体になる予定だった。しかし、病気で入院中の横尾の症状が回復せず、三島だけとなった。この写真は数点が公開されたのみである。また、横尾忠則装幀による『新輯 薔薇刑』(集英社、1971年)の装画を見た三島は、自死の直前の11月22日の夜、横尾に電話を入れ、「この絵は俺の涅槃像だろう? これは間違いなく俺の涅槃像だ」、「足の病気は俺が治して歩けるようにしてやる」、「これで君はいつインドへ行ってもいいだろう」と言っていたという[138]。それ以前に三島は横尾に、「人間にはインドに行ける者と行けない者があり、さらにその時期は運命的なカルマが決定する」と言っていたという[139]。
- 吉田健一
- 英文学者、作家。父は首相・吉田茂で、母方の曽祖父が維新の志士大久保利通。鉢の木会の同人仲間として一時期は交流があったが、のちに不和を生じ断交。その原因は、三島の転居に際して、三島家の家具の値段を次々と大声で値踏みした吉田の無神経さに三島が立腹したためとも、同時期に力作『鏡子の家』を酷評したためともいわれるが、都知事選を舞台にした『宴のあと』刊行に際し、訴訟を起こした元外相・有田八郎と旧知の仲だった吉田が、和解のための話し合いをめぐり、三島と互いに感情的な反撥になったという説もある。
- アーサー・C・クラーク
- 20世紀を代表する著名なSF作家。三島はSF好きとしても知られており、1962年(昭和37年)、SF的な小説『美しい星』にも挑戦し、1963年(昭和38年)9月にはSF同人誌「宇宙塵」第71号の中で、「私は心中、近代ヒューマニズムを完全に克服する最初の文学はSFではないか、とさへ思つてゐるのである」[140]と述べていた。また、荒井欣一・北村小松等が主宰する「日本空飛ぶ円盤研究会」にも所属していた。三島はクラークの大ファンでもあり、著作はほとんど読んでいて、アポロ計画華やかなりし1968年公開の映画『2001年宇宙の旅』も鑑賞した[141]。晩年は、『幼年期の終り』に関する感想を、「私の読んだおよそ百篇に余るSFのうち、随一の傑作と呼んで憚らない」、「不快な傑作」として、評論『小説とは何か』[53][54]の中で語っている。また、三島は、随想『F104』(1968年)[118]や、澁澤龍彦との対談『タルホの世界』(1970年5月)[142]などで宇宙飛行に触れ、澁澤との対談では、「宇宙の深淵の中に、男性原理の根本的なものとのつながりがある」と言及し、4月のアポロ13号の月面探査ミッション失敗に触れている。同対談では、映画『2001年宇宙の旅』の持つ神話学的含意を仄めかしていると思われる箇所も見受けられる。宇宙船「ディスカバリー号」が「精子」の形をしているのは有名な話である。随想『F104』にも類似の表現が見られる。また、一方、クラークの長編『グランド・バンクスの幻影』には、三島の小説『仮面の告白』への言及がある。
- アイヴァン・モリス
- 友人の日本文学者。三島の『金閣寺』英訳者であり、モリスの著書『光源氏の世界』が1965年(昭和40年)、イギリスで文学賞を受賞した際、三島も訪英しており授賞式に立ち会った。
- エドワード・G・サイデンステッカー
- 日本文学者。三島作品の翻訳を手がけるが、政治的傾向を深めて行く三島とは、徐々に疎遠になっていったようである。
- ドナルド・キーン
- 友人の日本文学者。三島の良き理解者で、高く評価していた。たびたび回想・作家論を出している。キーン宛ての三島書簡を公開した『三島由紀夫未発表書簡―ドナルド・キーン氏宛の97通』(中央公論社、1998年。中公文庫、2001年)[143]が出されている。
- ビョーク
- アイスランド出身の歌手。少女時代からの三島の熱心なファンと伝えられる。三島の初版本を集めているともいう。来日した際に、「ミシマの作品くらいは読まなくてはね」と述べた。
- フランシス・フォード・コッポラ
- 『ゴッドファーザー』『地獄の黙示録』等で知られるサンフランシスコ在住の映画監督。ジョージ・ルーカスと共に『MISHIMA』をプロデュース。『鏡子の家』の映画化権を取得。コッポラは、『地獄の黙示録』構想時、各所にちりばめられた神話的メタファー、ラストの東洋的ニヒリズムなど、三島の『豊饒の海』からモチーフのヒントを得たと語っている。また、現代文明に疑問を抱きグリーンベレーに志願した38歳の中年カーツ大佐の人物造型は三島が原型にあるともいわれている。
- ヘンリー・スコット=ストークス
- イギリスのジャーナリスト。ロンドンの「タイムズ」東京支局長だった。1970年(昭和45年)9月3日に三島を食事に招いた。その時の三島の様子を、「食事の後、三島は再び暗い話を始めた。日本にはいろんな呪いがあり、歴史上に大きい役割を果たしてきたと言う。近衛家は、九代にわたって嗣子が夭折した云云。今夜は様子が違う。延々とのろいの話。日本全体が呪いにかかっていると言い出す。日本人は金に目がくらんだ。精神的伝統は滅び、物質主義がはびこり、醜い日本になった…と言いかけて、奇妙な比喩を持ち出した。『日本は緑色の蛇の呪いにかかっている』 これを言う前に、一瞬だが、躊躇したような気がした。さらにこう説明した。『日本の胸には、緑色の蛇が喰いついている。この呪いから逃れる道はない』 ブランデーを飲んでいたが、酔って言ったのではないことは確実だ。どう解釈すればいいのか」とヘンリー・スコット=ストークスは述べている[144]。
- マルグリット・ユルスナール
- フランスの女性作家。深い西洋古典学の教養を有し、多田智満子の訳による硬質かつ格調高い作品群で知られる。欧米における三島の深い理解者の一人で作家論『三島あるいは空虚のヴィジョン』訳・澁澤龍彦(河出書房新社、1982年。河出文庫、1995年)がある[145]。女性初のアカデミー・フランセーズ会員でもあった。
- シガニー・ウィーバー
- 『エイリアン』で知られるハリウッドの女優。映画『黒蜥蜴』を鑑賞後、リメイク化権を取得。
憂国忌[編集]
1970年(昭和45年)12月11日、「三島由紀夫氏追悼の夕べ」が、林房雄を発起人総代とした実行委員会により、池袋の豊島公会堂で行われた。これが後に追悼集会「憂国忌」となる。司会は川内康範と藤島泰輔、実行委員は民族派学生(日本学生同盟)で、集まった人々は3,000人以上となる。500人収容の会場に入りきれず、近くの中池袋公園に集まった。この時は、事件に対する政府首脳やマスコミの反応に同調し、追悼参加を躊躇した文化人が多かったという。
翌年1971年(昭和46年)11月25日、「憂国忌」(第2回追悼の夕べ)が、林房雄を発起人代表として九段会館で行なわれた。乃木神社宮司・高山貢を斎主にした鎮魂祭、黛敏郎ほかの追悼挨拶・献花、映画『炎上』の上演、空手や剣道の奉納演武などが催された。楽屋には三島の父・平岡梓が林房雄を訪ね、礼を述べにやって来たという[146]。以降、「憂国忌」は毎年行なわれている。福岡でも1971年(昭和46年)から毎年、新嘗祭の11月23日には「福岡憂国忌」が行なわれているという。また、「憂国忌」のほか、毎年11月24日には「野分祭」という森田必勝の辞世の句にちなんで名づけられた追悼会も、一水会主催により行なわれているという[147]。
名称が「憂国忌」に決まるまでには、「潮騒忌」、「金閣忌」などの案もあったという[146]。
おもな発起人[編集]
- 追悼の夕べ(初回追悼会)
- 総代:林房雄
- 代表発起人
- 発起人
- 会田雄次、阿部正路、伊藤桂一、宇野精一、大石義雄、大久保典夫、大島康正、桶谷繁雄、
- 小野村資文、川上源太郎、岸興祥、倉橋由美子、小山いと子、坂本二郎、佐古純一郎、
- 清水崑、杉森久英、曽村保信、高鳥賢司、多田真鋤、立野信之、田中美知太郎、田辺貞之助、
- 中河与一、中村菊男、林武、平林たい子、福田信之、水上勉
- 憂国忌 (2012年(平成24年)現在。五十音順)
- 代表発起人
- 発起人
- 浅田次郎、井川一久、伊澤甲子麿、石原萌記、井上隆史、猪瀬直樹、植田剛彦、潮匡人、
- 大蔵雄之助、小田村四郎、小埜裕二、小山和伸、川口マーン恵美、久保田信之、倉田信靖、
- 黄文雄、小林よしのり、桜林美佐、佐藤和男、佐藤秀明、佐藤雅美、清水馨八郎、新保祐司、
- 杉原志啓、石平、高橋克彦、高山亨、田中英道、田中健五、田中卓、田中美代子、玉利齊、
- 柘殖久慶、堤堯、堂本正樹、戸川昌子、都倉俊一、富岡幸一郎、
- 長岡實、中川八洋、中西輝政、奈須田敬、西部邁、西村幸祐、西村眞悟、丹羽春喜、
- 花岡信昭、花田紀凱、浜田和幸、東中野修道、福田逸、福田和也、藤井巌喜、
- フランソワーズ・モレシャン、古田博司、松本道弘、水島総、南丘喜八郎、三原淳雄、宮崎正弘、
- 三輪和雄、森三十郎、八木秀次、山川京子、山崎行太郎、山本卓眞、吉田好克、吉原恒雄、
- 湯澤貞、ロマノ・ヴィルピッタ
- 発起人物故者
- 会田雄次、相原良一、浅野晃、葦津珍彦、麻生良方、阿部正路、天野貞祐、荒木俊馬、
- 荒木精之、安津素彦、飯守重任、池田弘太郎、池田弥三郎、石川忠雄、石堂淑朗、
- 市原豊太、伊東深水、井上源吾、井上友一郎、伊吹一、伊部恭之助、今泉篤男、入江通雅、
- 岩田専太郎、岩淵辰男、内海洋一、宇野精一、浦野匡彦、江藤淳、江藤太郎、遠藤周作、
- 大石義雄、大島康正、太田静六、大橋完造、大浜信泉、大平善悟、岡潔、岡崎功、緒方浩、
- 岡村光康、岡本成蹊、荻原井泉水、奥野健男、桶谷繁雄、小高根二郎、小田村寅二郎、
- 小野村資文、小汀利得、
- 嘉悦康人、景山哲夫、影山正治、春日井薫、片岡鐵哉、堅山南風、勝部真長、加藤芳郎、
- 金井兼造、神川彦松、神谷不二、川内康範、河上徹太郎、川口松太郎、川副国基、川端康成、
- 上林暁、木内信胤、気賀健三、菊地藤吉、岸田今日子、木下一雄、木下和夫、木俣秋水、
- 金田一春彦、草野心平、久住忠男、楠本憲吉、久世光彦、工藤重忠、倉橋由美子、倉林和男、
- 倉前盛通、栗原広美、呉茂一、黒岩一郎、黒川紀章、桑原寿二、源田実、河野司、
- 越路吹雪、五社英雄、古関裕而、小谷豪治郎、近衛秀麿、小林秀雄、小室直樹、今東光、
- エドワード・G・サイデンステッカー、齋藤五郎、斎藤忠、酒井忠夫、酒枝義旗、坂西志保、
- 嵯峨根辰彦、佐藤欣子、佐藤誠三郎、サトウハチロー、佐藤亮一、篠喜八郎、篠田康雄、
- 柴田勝治、柴田錬三郎、清水崑、清水文雄、進藤純孝、神保光太郎、末次一郎、助野健太郎、
- 杉森久英、世耕政隆、相場雪香、曽村保信、高田好胤、高田博厚、高鳥賢司、高橋健二、
- 高山貴、滝口宏、滝口直太郎、滝原健之、武智鉄二、立松和平、田中澄江、田中直吉、
- 田中正明、田辺貞之助、田辺茂一、田村幸策、田村泰次郎、辻美沙子、角田時雄、鶴田浩二、
- 寺内大吉、寺川知男、遠山景久、富木謙治、
- 中井勝彦、中川一郎、中河幹子、中河与一、永井正、永田雅一、中谷孝雄、中西旭、
- 永野茂門、中村粲、六代目中村歌右衛門、十七代目中村勘三郎、二代目中村鴈治郎、
- 中村菊男、中村草田男、中村泰三郎、中村汀女、中山優、中村和敬、名越二荒之助、
- 南原宏治、西泰蔵、西内雅、西川鯉二郎、西高辻信貞、西山廣喜、西脇順三郎、野島秀勝、
- 野田福雄、野村喬、
- 萩原龍洋、橋本芳契、長谷川泉、長谷川才次、林三郎、林武、林忠彦、林房雄、林富士馬、
- 弘津恭輔、平林たい子、平山重正、福田恆存、福田清人、福田信之、福地重孝、藤浦洸、
- 藤島泰輔、藤原義江、二村富久、舩坂弘、北条秀司、北条誠、坊城俊民、保昌正夫、
- 細川隆一郎、細川隆元、堀信夫、堀口大学、本多顕彰、
- 前川佐美雄、町春草、松浦竹夫、松下正寿、初代松本白鸚、松本明重、黛敏郎、三浦重周、
- 水谷八重子、光岡明、三潴信吾、宮崎清隆、三好行雄、三輪知雄、武藤光明、村尾次郎、
- 村上元三、村上兵衛、村野四郎、村松剛、村松定孝、森克己、森下泰、森下元晴、諸井薫、
脚註[編集]
- ↑ 1.0 1.1 佐伯彰一『評伝 三島由紀夫』(新潮社、1978年。中公文庫、1988年)によると、読者圏が全国に広がっていた「文藝文化」に公威の『花ざかりの森』を掲載するに際し、公威の文学活動を反対していた親(平岡梓)の思惑や、まだ学習院の中学生であったことなどを憂慮し、清水文雄と同人たちが筆名での作品発表を提案したという。清水文雄は、「今しばらく平岡公威の実名を伏せて、その成長を静かに見守っていたい ― というのが、期せずして一致した同人の意向であった」と、同人誌の修善寺での合宿会議を回想している。
- ↑ 三島由紀夫、没後40年で関連本ラッシュ “仮面”の素顔気さくな一面も (2/2ページ)(ウェブ魚拓)
- ↑ 安藤武『三島由紀夫 全文献目録』(夏目書房、2000年)p.442
- ↑ 4.0 4.1 4.2 三谷信『級友 三島由紀夫』(中公文庫、1999年)
- ↑ 5.0 5.1 坊城俊民『焔の幻影 回想三島由紀夫』(角川書店、1971年)
- ↑ 全文は、「『花ざかりの森』の作者は全くの年少者である。どういふ人であるかといふことは暫く秘しておきたい。それが最もいいと信ずるからである。若し強ひて知りたい人があつたら、われわれ自身の年少者といふやうなものであるとだけ答へておく。日本にもこんな年少者が生まれて来つつあることは何とも言葉に言ひやうのないよろこびであるし、日本の文学に自信のない人たちには、この事実は信じられない位の驚きともなるであらう。この年少の作者は、併し悠久な日本の歴史の請し子である。我々より歳は遙かに少いが、すでに、成熟したものの誕生である。此作者を知つてこの一篇を載せることになつたのはほんの偶然であつた。併し全く我々の中から生れたものであることを直ぐに覚つた。さういふ縁はあつたのである」(蓮田善明『文藝文化 昭和16年9月号 編集後記』)
- ↑ 対談『平野啓一郎が聞くドナルド・キーンの世界』(読売新聞 2007年7月31日、8月1日に掲載)
- ↑ 8.0 8.1 『三島由紀夫十代書簡集』(新潮社、1999年。新潮文庫、2002年)に収む。
- ↑ 『東文彦作品集』(講談社、1971年。講談社文芸文庫で2007年再刊)の序文で、東との交友を振り返りつつ、当時を、「文学に集中できたむしろアリストテレス的静的な時代」であったと自ら回顧している。
- ↑ 10.0 10.1 10.2 持丸博と佐藤松男との共著『証言三島由紀夫・福田恆存 たった一度の対決』(文藝春秋、2010年)
- ↑ 三島由紀夫『社会料理三島亭』(婦人倶楽部 1960年1月号 - 12月号まで連載)
- ↑ 三島の母・倭文重と、自身の母親が幼い頃からの知り合いで、平岡家と家族ぐるみの交際があった村松剛は、「倭文重さんはいくつかの愚痴をぼくにいった。(中略)『学習院の中等科を終るときに、一高を受験させたのですよ。でも学習院程度の学校では、一高は無理だったのね。一高のバンカラ生活を経験していたら、公威もあんなことしなかったと思うの』 『あんなこと』が自衛隊入りいらいの彼の生活をさすことは、いうまでもない。学習院から一高にはいった例は、近衛文麿がそうであるように少数ながら過去になかったわけではなく、それに一高の生活も外見ほどにはバンカラではない。そう思ったのだが、このときはだまってきいていた。『学習院に入れると決めてしまったのは、義母ですからね』 (中略)つまり息子を死に向かって突走らせた責任の大本は姑にあると、倭文重さんはいいたかったのである」と、『三島由紀夫の世界』(新潮社、1990年)で書いている。この著書と同種の内容は筑波論文([1])参照のこと。
- ↑ 13.0 13.1 『決定版 三島由紀夫全集第42巻・年譜・書誌』(新潮社、2005年)に記載。
- ↑ ただし近衛文麿や児島喜久雄、松平恒雄は学習院中等科から一高を出ており、一高出身の村松剛も、「学習院から一高にはいった例は、近衛文麿がそうであるように少数ながら過去になかったわけではなく」と、『三島由紀夫の世界』(新潮社、1990年)で書いている。しかし、本当に三島が一高を受験したという客観的事実関係は今のところなく、どちらか不明である。また、三島が中等科5年の時の1941年(昭和16年)9月25日付の東文彦宛の書簡には、(学習院)高等科は文科乙類(独語)にすることを東に伝えている記述があり、三島本人はそのまま学習院高等科へ進む意思であった。そのため、『決定版 三島由紀夫全集第42巻・年譜・書誌』(新潮社、2005年)の記載にも、「学習院在学者には他校の受験はできなかったという説もある」と、保留の形となっている。また、村松剛も、「文学上の師や仲間が、三島のまわりには形成されていた。(中略)中等科五年の九月からは、師の清水文雄氏の推挽によって『花ざかりの森』を、彼は“文藝文化”に連載しはじめる。(中略)三島にとっては一高よりも学校外の雑誌に発表の舞台をあたえられたことの方が魅力的であり」と、『三島由紀夫の世界』(新潮社、1990年)で述べ、小説の書き直しなどに夢中になっていた三島が、もし受験していたとしても、及第している方が不思議だという見解を示している。
- ↑ 原武史『滝山コミューン一九七四』p.262(講談社、2007年)
- ↑ 三島由紀夫『法律と文学』(東大緑会大会プログラム、1961年12月)、三島由紀夫『私の小説作法』(毎日新聞 1964年5月10日に掲載)
- ↑ なお、三谷隆信の三女・正子は鮎川義介の息子・鮎川弥一に嫁いだため、三谷邦子は、のち鮎川純太の義理の伯母の立場となった
- ↑ 三島由紀夫『終末感からの出発―昭和二十年の自画像』(文芸誌・新潮 1955年8月号に掲載)
- ↑ 『決定版 三島由紀夫全集第1巻・長編小説』(新潮社、2000年)に収む。
- ↑ 20.0 20.1 20.2 20.3 20.4 越次倶子『三島由紀夫 文学の軌跡』(広論社、1983年)
- ↑ 三島由紀夫『永遠の旅人―川端康成氏の人と作品』(別冊文藝春秋 51号、1956年4月に掲載)
- ↑ 木村徳三『文芸編集者の戦中戦後』(大空社、1995年)(底本『文芸編集者 その跫音』(TBSブリタニカ、1982年)
- ↑ 23.0 23.1 23.2 23.3 三島由紀夫『私の遍歴時代』(講談社、1964年。ちくま文庫で1995年再刊)
- ↑ 野原一夫『回想 太宰治』(新潮社、1980年)
- ↑ 25.0 25.1 25.2 25.3 安藤武『三島由紀夫の生涯』(夏目書房、1998年)ISBN 4931391397
- ↑ 26.0 26.1 26.2 安藤武『三島由紀夫「日録」』(未知谷、1996年)
- ↑ 27.0 27.1 27.2 27.3 27.4 27.5 27.6 のち戯曲集『近代能楽集』1956年(昭和31年)に収む。
- ↑ 三島は『潮騒』の名を、万葉集の歌、「潮騒(しほさゐ)に 伊良虞(いらご)の島辺(しまへ) 漕ぐ舟に 妹(いも)乗るらむか 荒き島廻(しまみ)を」からとった(万葉仮名では『潮左為』)。この歌は、持統天皇が伊勢に旅された時に、都に残った柿本人麻呂が伊良湖岬を歌ったもので、意味は、「さわさわと波がさわいでいる伊良虞の島のあたりを漕いでゆく舟に、今ごろあの娘は乗っているのだろうか、潮の荒いあの島の廻りを」である
- ↑ 昔の三島は腺病質で、あるパーティでダンスを共にした美輪明宏から、「あら、三島さんのスーツってパットだらけなのね」とからかわれたこともあったという(この時三島は顔色を変え、部屋から出て行ったとされる)。後年、映画『人斬り』(1969年)で共演し、撮影現場の京都に向かう飛行機で乗り合わせた仲代達矢が、「作家なのにどうしてボディービルを?」と尋ねた時、「僕は切腹をして死ぬからだよ」、「本当に切腹する時脂身が出ないよう、腹筋だけにしようと思っているんだ」と答えたという。料亭で呑んだ時は、仲居に向かって、「腹筋をつまんでごらんなさい」と要求して贅肉のない腹部を誇り、仲間内では「俺はミスター腹筋というのだ」と自慢していたと伝えられる。
- ↑ 三島由紀夫『私のすぽーつ・セカンドウインド』(毎日新聞 1957年6月16日に掲載)
- ↑ 中井英夫『LA BATEE』p.149(立風書房、1981年)
- ↑ 1945年(昭和20年)の20歳日本人男性の平均身長は165センチ([2])。1948年(昭和23年)の17歳日本人男性の平均身長は158.2センチという統計もあるが、「昔の日本人は今日と違って18歳以降も20代前半まで身長は伸びたようなので、単純な比較はできない」と言われている要出典。しかし三島が当時として極端に低身長であったというわけでもない
- ↑ 三島由紀夫『三島氏のプライバシー―なんでも相談 なんでも解答』(PocketパンチOh! 1968年7月号に掲載)
- ↑ のち1968年の文庫版には「道成寺」、「熊野」、「弱法師」が加わる
- ↑ 徳岡孝夫『五衰の人─三島由紀夫私記』(文藝春秋、1997年。文春文庫、1999年)、および、週刊新潮 2009年4月2日号掲載記事・「美智子さまと三島由紀夫のお見合いは小料理屋で行われた」
- ↑ 椎根和『平凡パンチの三島由紀夫』(新潮社、2007年。新潮文庫、2009年)
- ↑ 37.0 37.1 37.2 37.3 37.4 三島由紀夫『劇画における若者論』(サンデー毎日 1970年2月1日号に掲載)
- ↑ 38.0 38.1 38.2 38.3 38.4 38.5 38.6 38.7 『決定版 三島由紀夫全集第36巻・評論11』(新潮社、2003年)に収む。
- ↑ 三島は後年、大島渚との対談『ファシストと革命家か』(映画芸術 1968年1月号に掲載)の中で、「『鏡子の家』でね、僕そんなこというと恥だけど、あれで皆に非常に解ってほしかったんですよ。それで、自分はいま川の中に赤ん坊を捨てようとしていると、皆とめないのかというんで橋の上に立ってるんですよ。誰もとめに来てくれなかった。(中略)その時の文壇の冷たさってなかったんですよ。僕が赤ん坊捨てようとしてるのに誰もふり向きもしなかった」と語っている
- ↑ 三島由紀夫『文化防衛論』(ちくま文庫、2006年)に再録。
- ↑ 41.0 41.1 41.2 41.3 41.4 村松剛『三島由紀夫の世界』(新潮社、1990年)
- ↑ 岸田今日子「わたしの中の三島さん」(『決定版 三島由紀夫全集第22巻・戯曲2』付録・月報)(新潮社、2002年)
- ↑ 三島由紀夫『著者と一時間(「絹と明察」)』(朝日新聞 1964年11月23日に掲載)
- ↑ http://hometown.infocreate.co.jp/chubu/yamanakako/mishima/sympo/panel.html
- ↑ 藤井浩明「映画『憂国』の歩んだ道」(『決定版 三島由紀夫全集別巻・映画「憂国」』ブックレット内)(新潮社、2006年)
- ↑ 橋川文三『中間者の眼』(三田文学 1968年4月号に掲載)、橋川文三『三島由紀夫論集成』(深夜叢書社、1998年)に収む。
- ↑ 加藤典洋「その世界普遍性」(『決定版 三島由紀夫全集第21巻・戯曲1』付録・月報)(新潮社、2002年)
- ↑ 徳岡孝夫『五衰の人─三島由紀夫私記』(文藝春秋、1997年。文春文庫、1999年)
- ↑ 特集『知られざる家庭人・三島由紀夫』(女性自身 1970年12月12日号に掲載)
- ↑ 伊藤勝彦『最後のロマンティーク 三島由紀夫』(新曜社、2006年)
- ↑ 51.0 51.1 書簡集『師清水文雄への手紙』(新潮社、2003年)
- ↑ 森川達也『「暁の寺」解説』(新潮文庫、1977年)p.431
- ↑ 53.0 53.1 53.2 53.3 三島由紀夫『小説とは何か』(新潮社、1972年)
- ↑ 54.0 54.1 54.2 『決定版 三島由紀夫全集第34巻・評論9』(新潮社、2003年)に収む。
- ↑ 西尾幹二「世界史の分水嶺」(『決定版 三島由紀夫全集第30巻・評論5』付録・月報)(新潮社、2003年)
- ↑ 56.0 56.1 56.2 56.3 三島由紀夫『若きサムラヒのために』(日本教文社、1969年。文春文庫で1996年再刊)
- ↑ 57.0 57.1 57.2 57.3 『決定版 三島由紀夫全集第35巻・評論10』(新潮社、2003年)に収む。
- ↑ 58.0 58.1 三島由紀夫『討論・三島由紀夫vs.東大全共闘(美と共同体と東大闘争)』(新潮社、1969年。新版は角川文庫、2000年)
- ↑ 林房雄『悲しみの琴 三島由紀夫への鎮魂歌』(文藝春秋、1972年)
- ↑ 山本舜勝『三島由紀夫・憂悶の祖国防衛賦―市ケ谷決起への道程と真相』(日本文芸社、1980年)、『自衛隊「影の部隊」―三島由紀夫を殺した真実の告白』 (講談社、2001年)
- ↑ 村松友視『夢の始末書』(角川書店、1984年)
- ↑ 武田泰淳『三島由紀夫氏の死ののちに』(中央公論 1971年1月号に掲載)
- ↑ 2010年12月30日 読売新聞
- ↑ 川端香男里・佐伯彰一の対談「恐るべき計画家・三島由紀夫―魂の対話を読み解く」(書簡集『川端康成・三島由紀夫 往復書簡』)後記(新潮社、1997年。新潮文庫、2000年)
- ↑ 西法太郎「三島と川端康成」『三島由紀夫研究会メルマガ』([3])
- ↑ http://hometown.infocreate.co.jp/chubu/yamanakako/mishima/sympo/panel.html
- ↑ 虫明亜呂無編『三島由紀夫文学論集Ⅰ』序文(講談社文芸文庫、2006年) ISBN 406198439X
- ↑ 68.0 68.1 68.2 三島由紀夫と古林尚の対談『三島由紀夫 最後の言葉』(図書新聞 1070年12月12日、1971年1月1日掲載)、のち『三島由紀夫 最後の言葉 新潮CD 講演』(新潮社、2002年)
- ↑ 69.0 69.1 69.2 69.3 69.4 69.5 『決定版 三島由紀夫全集第40巻・対談2』(新潮社、2004年)に収む。
- ↑ 川端康成「序」(『盗賊』)(真光社、1948年)
- ↑ 村松英子『三島由紀夫 追悼のうた』(阪急コミュニケーションズ、2007年)
- ↑ 荻昌弘との対談『映画・芸術の周辺』(スクリーン 1956年9月号に掲載)
- ↑ 井上隆史『三島由紀夫 虚無の光と闇』(試論社、2006年)
- ↑ 井上隆史「『創作ノート』の楽しみ1 もう一つの『鏡子の家』」(『決定版 三島由紀夫全集第11巻・長編11』付録・月報)(新潮社、2001年)
- ↑ 佐藤秀明『日本の作家100人 三島由紀夫』(勉誠出版、2006年)
- ↑ 青海健『三島由紀夫の帰還 青海健評論集』(小沢書店、2000年)
- ↑ ジョン・ネイスン『新版 三島由紀夫 ― ある評伝』訳・野口武彦(新潮社、2000年)
- ↑ 三島由紀夫『「変革の思想」とは ― 道理の実現』(読売新聞 1970年1月19・21・22日に連載)
- ↑ 詳細は松藤竹二郎『血滾ル三島由紀夫「憲法改正」』(毎日ワンズ、2006年) ISBN 4901622048で紹介されている
- ↑ 西尾幹二『三島由紀夫の死と日本の核武装』(WILL 2011年2月号に掲載) [4]
- ↑ 『三島由紀夫 ― 没後35年・生誕80年』(河出書房新社、2005年)に再録。
- ↑ 林房雄との対談『対話・日本人論』(番町書房、1966年。夏目書房で新版、2002年)
- ↑ 中条省平編『続・三島由紀夫が死んだ日』(実業之日本社、2005年)p.185
- ↑ 84.0 84.1 84.2 84.3 84.4 84.5 84.6 84.7 84.8 84.9 のち『源泉の感情 三島由紀夫対談集』(河出書房新社、1970年。河出文庫で2006年再刊)に収む。
- ↑ 鈴木邦男「『女帝』を認めた三島の真意」(『遺魂 三島由紀夫と野村秋介の軌跡』)(無双舎、2010年) ISBN 4864084394
- ↑ 松藤竹二郎『日本改正案 三島由紀夫と楯の会』(毎日ワンズ 2005年)
- ↑ 島田雅彦・磯田光一『模造文化の時代』([[新潮] 1986年8月号に掲載)
- ↑ 松本健一『三島由紀夫の二・二六事件』(文春新書、2006年)、『畏るべき昭和天皇』(毎日新聞社、2007年。新潮文庫、2011年)、原武史『昭和天皇』(岩波新書、2008年)など。
- ↑ 島崎博・三島瑤子『定本三島由紀夫書誌』(薔薇十字社、1971年)
- ↑ 大野茂『サンデーとマガジン 創刊と死闘の15年』(光文社新書、2009年)
- ↑ 91.00 91.01 91.02 91.03 91.04 91.05 91.06 91.07 91.08 91.09 91.10 91.11 猪瀬直樹『ペルソナ 三島由紀夫伝』(文藝春秋、1995年)
- ↑ 「宴のあと」事件 第一審判決 損害賠償請求事件(1964年(昭和39年)9月28日)判決 [5]
- ↑ 93.0 93.1 板坂剛『真説 三島由紀夫 謎の原郷』(夏目書房、1998年)
- ↑ 三島由紀夫の手紙無断使用事件 判例全文 [6]
- ↑ 95.0 95.1 95.2 95.3 95.4 95.5 「三島由紀夫の無視された家系」(梶山季之責任編集『月刊噂』1972年8月号所載)
- ↑ 96.0 96.1 96.2 野坂昭如『赫奕たる逆光 私説・三島由紀夫』(文藝春秋、1987年)
- ↑ 97.0 97.1 97.2 平岡梓『倅・三島由紀夫』(文藝春秋、1972年)
- ↑ 98.0 98.1 藤井浩明「座談会 映画製作の現場から」(『三島由紀夫と映画 三島由紀夫研究2』)(鼎書房、2006年)
- ↑ 99.0 99.1 99.2 99.3 岡山典弘「三島由紀夫と橋家 もう一つのルーツ」(『三島由紀夫と編集 三島由紀夫研究11』)(鼎書房、2011年)
- ↑ 斎藤茂吉は『回顧』のなかで、「橋君は、中学でも秀才であつたが、第一高等学校でもやはり秀才であつた。大学に入つてからは、解剖学の西成甫君、生理学の橋田邦彦君、精神学の橋健行君といふ按配に、人も許し、本人諸氏も大望をいだいて進まれた」と記している
- ↑ 紀平悌子「三島由紀夫の手紙」(週刊朝日 1974年12月13日号連載手記)
- ↑ 解題・岸田今日子との対話「25周年 最後の秘話」(猪瀬直樹『ペルソナ 三島由紀夫伝』)(小学館、2001年)
- ↑ 今村均『今村均回顧録』(芙蓉書房出版、新版1993年)
- ↑ 小野繁『平岡家系図解説』(1971年)
- ↑ 105.0 105.1 105.2 105.3 105.4 105.5 105.6 板坂剛『極説・三島由紀夫』(夏目書房、1997年)
- ↑ 106.0 106.1 『決定版 三島由紀夫全集第38巻・書簡』(新潮社、2004年)
- ↑ 107.0 107.1 107.2 仲野羞々子「農民の劣等感 三島由紀夫の虚勢」(『農民文学』第九十三号、1971年2月号所載)
- ↑ 三島由紀夫『フランスのテレビに初主演 文壇の若大将三島由紀夫氏』(毎日新聞 1966年3月10日に掲載)
- ↑ 109.0 109.1 109.2 109.3 福島鑄郎『再訂資料・三島由紀夫』(朝文社、2005年)
- ↑ 岩下尚史『ヒタメン 三島由紀夫が女に逢う時…』(雄山閣 、2011年)
- ↑ 伊達宗克編『裁判記録「三島由紀夫事件」』(講談社、1972年)
- ↑ 福島鑄郎『資料・三島由紀夫』(双柿舎、1982年増補改訂版)
- ↑ 113.0 113.1 113.2 『私の履歴書 第22集』(日本経済新聞社、1964年)、『私の履歴書 経済人7』(日本経済新聞社出版局、1980年)
- ↑ 114.0 114.1 『永井亨博士回顧録 思い出話』
- ↑ 115.0 115.1 115.2 のち戯曲集『近代能楽集』文庫版1968年(昭和43年)に収む。
- ↑ 116.00 116.01 116.02 116.03 116.04 116.05 116.06 116.07 116.08 116.09 116.10 116.11 116.12 のち『尚武のこころ 三島由紀夫対談集』(日本教文社、1970年。1986年再刊)に収む。
- ↑ 117.0 117.1 117.2 117.3 117.4 117.5 117.6 『決定版 三島由紀夫全集第41巻・音声(CD)』(新潮社、2004年)に収む。
- ↑ 118.0 118.1 118.2 のち評論『太陽と鉄』のエピロオグに収む。
- ↑ 三島由紀夫『「黒蜥蜴」』(東横劇場プログラム 1968年4月に掲載)
- ↑ 小高根二郎『詩人 伊東静雄』(新潮社、1971年)
- ↑ 三島由紀夫『伊東静雄の詩―わが詩歌』(文芸誌・新潮 1966年11月号に掲載)
- ↑ 『近代作家追悼文集成(42)三島由紀夫』(ゆまに書房、1999年)に収む。
- ↑ 伊沢甲子麿「思い出の三島由紀夫」(『決定版 三島由紀夫全集第39巻・対談』付録・月報)(新潮社、2004年)
- ↑ 三島由紀夫『裸体と衣裳』(文芸誌・新潮 1958年4月 - 1959年9月号に連載)
- ↑ 三島由紀夫『雷蔵丈のこと』(日生劇場プログラム 1964年1月に掲載)
- ↑ 大西望「市川雷蔵の『微笑』―三島原作映画の市川雷蔵」(『三島由紀夫と映画 三島由紀夫研究2』)(鼎書房、2006年)
- ↑ 村松剛『西欧との対決―漱石から三島、遠藤まで』(新潮社、1994年)
- ↑ 128.0 128.1 のち『芸術断想 三島由紀夫のエッセイ(4)』(ちくま文庫、1995年。復刊2010年)に収む。
- ↑ 高橋和巳『生涯にわたる阿修羅として』(徳間書店、1970年)に収む。
- ↑ 遺著『自立の思想』(文和書房、1971年)に収む。
- ↑ 西尾幹二『三島由紀夫の死と私』(PHP研究所、2008年)に収む。
- ↑ のち『作家論』(中央公論社、1970年。中公文庫、1974年)に収む。
- ↑ 133.0 133.1 のち、横尾忠則装幀による『新輯 薔薇刑』(集英社、1971年)、復刻版『薔薇刑』(新版 集英社、1984年)が出版されている
- ↑ 湯浅あつ子『ロイと鏡子』(中央公論社、1984年)
- ↑ 「ユリイカ 詩と批評 特集三島由紀夫 1986年5月号」(青土社)に掲載
- ↑ 山本舜勝『三島由紀夫・憂悶の祖国防衛賦―市ケ谷決起への道程と真相』(日本文芸社、1980年)、『自衛隊「影の部隊」―三島由紀夫を殺した真実の告白』 (講談社、2001年)
- ↑ 『保田與重郎全集第10巻』(講談社、1986年)に収む。
- ↑ 横尾忠則「三島由紀夫氏のこと」『横尾忠則 画境の本懐(道の手帳)』(河出書房新社、2008年)
- ↑ 横尾忠則『インドへ』(文藝春秋、1977年)
- ↑ 三島由紀夫『一S・Fファンのわがままな希望』(宇宙塵」第71号に掲載)
- ↑ 『三島由紀夫会見記』(乗杉綜合法律事務所ホームページ・エッセー欄 参照のこと)
- ↑ 澁澤龍彦『三島由紀夫おぼえがき』(立風書房、1983年。中公文庫、1986年)に収む。
- ↑ 『決定版 三島由紀夫全集第38巻・書簡』(新潮社、2004年)にも収む。
- ↑ ヘンリー・スコット=ストークス『三島由紀夫 生と死』徳岡孝夫訳(清流出版、1998年)
- ↑ 新版は、河出の『澁澤龍彦翻訳全集15巻』(河出書房新社、2003年)や、『ユルスナール・セレクション5.空間の旅・時間の旅』(白水社、2002年)に収む、ISBN 4560047154。
- ↑ 146.0 146.1 三島由紀夫研究会編『「憂国忌」の四十年 三島由紀夫氏追悼の記録と証言』)(並木書房、2010年)
- ↑ 一水会公式サイト
参考文献[編集]
- 井上隆史『三島由紀夫 虚無の光と闇』 試論社、2006年。 ISBN 978-4903122069
- 改訂版 『日本の近代 猪瀬直樹著作集2.ペルソナ 三島由紀夫伝』(小学館、2001年11月)
主な研究目録・書誌文献[編集]
- 『定本三島由紀夫書誌』 島崎博・三島瑶子共編、薔薇十字社、1972年 - 序文は瑤子夫人
- 自決直前の三島自身に依頼を受け編まれた。生前までの書誌目録の他に、一部の蔵書目録がある。
- 『再訂資料・三島由紀夫』 福島鑄郎編・著、朝文社、2005年 - 編者は1975年以来、5度改訂刊行した。
- 『三島由紀夫 古本屋の書誌学』 大場啓志、ワイズ出版、1998年 - 編者は古書店「龍生書林」店主。
- 『三島由紀夫全文献目録』 安藤武編、夏目書房、2000年、※同書房は2007年に倒産
- 編者は大部の伝記『三島由紀夫の生涯』(夏目書房)、『三島由紀夫「日録」』(未知谷)他がある。
- 『決定版 三島由紀夫全集第42巻・年譜・書誌』 佐藤秀明・井上隆史・山中剛史編、新潮社、2005年
- 編者らは、『三島由紀夫事典』(勉誠出版、2000年))、『三島由紀夫研究』(鼎書房)など多数の関連著作を出版。
- 『三島由紀夫研究文献総覧』 山口基編、出版ニュース社、2009年
- 編者は三島と親しかった古書店「山口書店」店主で、私家版で数度刊行した。
関連項目[編集]
- 三島由紀夫賞 - 三島を記念した文学賞
- Mishima: A Life In Four Chapters - 三島を描いた米国映画
- 三嶋大社 - 三嶋大社に因んだペンネームであるという説がある
- 加古川市 - 平岡家の郷里
- 保守革命
- 二・二六事件
- 志士 - 三島は晩年自らの行動を幕末の志士にならぞえた
- 三島事件
- 磯崎叡 - 日本国有鉄道総裁で三島の父梓のいとこ
外部リンク[編集]
極右七奉行 | |
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メンバー : | 三島由紀夫 | 西村眞悟 | 戸塚宏 | 小村基 | 本村洋 | 野田憲太郎 | 桜井誠 |
オブザーバー : | 松葉裕子 | 水戸健二 |
主な事件 : | よど号ハイジャック事件 | 三島事件 | 光母子殺人事件 |
関連項目 : | 楯の会 | 戸塚ヨットスクール | 大阪市立桜宮高等学校 | 行動する保守 | 右翼 | 極右七奉行(カテゴリ) |
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