夏目漱石
夏目 漱石(なつめ そうせき、1867年2月9日(慶応3年1月5日) - 1916年(大正5年)12月9日)は、日本の小説家、評論家、英文学者。本名、金之助(きんのすけ)。江戸の牛込馬場下横町(現在の東京都新宿区喜久井町)出身。俳号は愚陀仏。
大学時代に正岡子規と出会い、俳句を学ぶ。帝国大学(後の東京帝国大学、現在の東京大学)英文科卒業後、松山で愛媛県尋常中学校教師、熊本で第五高等学校教授などを務めた後、イギリスへ留学。帰国後、東京帝国大学講師として英文学を講じながら、「吾輩は猫である」を雑誌『ホトトギス』に発表。これが評判になり「坊っちゃん」「倫敦塔」などを書く。
その後朝日新聞社に入社し、「虞美人草」「三四郎」などを掲載。当初は余裕派と呼ばれた。「修善寺の大患」後は、『行人』『こゝろ』『硝子戸の中』などを執筆。「則天去私(そくてんきょし)」の境地に達したといわれる。晩年は胃潰瘍に悩まされ、「明暗」が絶筆となった。
経歴[編集]
幼少期[編集]
1867年2月9日(慶応3年1月5日)、江戸の牛込馬場下に名主・夏目小兵衛直克、千枝の末子(五男)として出生。父・直克は江戸の牛込から高田馬場一帯を治めている名主で、公務を取り扱い、大抵の民事訴訟もその玄関先で裁くほどで、かなりの権力を持っていて、生活も豊かだった[1]。 母は子沢山の上に高齢で出産した事から「面目ない」と恥じたといい、漱石は望まれない子として生まれたといえる。
漱石の祖父・夏目直基は道楽者で、死ぬときも酒の上で頓死(とんし)したといわれるほどの人であったから、夏目家の財産は直基一代で傾いてしまった[2]。しかし父・直克の努力の結果、夏目家は相当の財産を得ることができた。
金之助という名前は、生まれた日が庚申の日(この日生まれた赤子は大泥棒になるという迷信があった)だったので、厄除けの意味で「金」の文字が入れられた。また3歳頃に罹った疱瘡により、痘痕は目立つほどに残ることとなった。
当時は明治維新後の混乱期であり、生家は名主として没落しつつあったのか、生後すぐに四谷の古道具屋(一説には八百屋)に里子に出されるが、夜中まで品物の隣に並んで寝ているのを見た姉が不憫に思い、実家へ連れ戻した。
その後、1868年(明治元年)11月、塩原昌之助のところへ養子に出された。塩原は直克に書生同様にして仕えた男であったが、見どころがあるように思えたので、直克は同じ奉公人の「やす」という女と結婚させ、新宿の名主の株を買ってやった[3]。しかし、養父・昌之助の女性問題が発覚するなど家庭不和になり、7歳の時、養母とともに一時生家に戻る。一時期漱石は実父母のことを祖父母と思い込んでいた。養父母の離婚により、9歳の時、生家に戻るが、実父と養父の対立により21歳まで夏目家への復籍が遅れた。このように、漱石の幼少時は波乱に満ちていた。この養父には、漱石が朝日新聞社に入社してから、金の無心をされるなど実父が死ぬまで関係が続く。養父母との関係は、後の自伝的小説『道草』の題材にもなっている。
家庭のごたごたのなか、市ヶ谷学校を経て錦華小学校と小学校を転校していた漱石だったが、錦華小学校への転校理由は東京府第一中学への入学が目的であったともされている。12歳の時、東京府第一中学正則科(府立一中、現在の日比谷高校)[4]に入学。しかし、大学予備門(のちの第一高等学校)受験に必須であった英語の授業が行われていない正則科に入学したことと、また漢学・文学を志すため2年ほどで中退した。中退ののちも長兄・夏目大助に咎められるのを嫌い、弁当を持って一中に通う振りをしていた。のち漢学私塾二松學舍(現二松學舍大学)に入学する。ここで後の小説で見られる儒教的な倫理観、東洋的美意識や江戸的感性が磨かれていく。しかし、ここも数か月で中退。長兄・大助が文学を志すことに反対したためでもある。長兄は病気で大学南校を中退し、警視庁で翻訳係をしていたが、出来の良かった末弟の金之助を見込み、大学を出て立身出世をさせることで夏目家再興の願いを果たそうとしていた。
2年後の1883年(明治16年)、英語を学ぶため、神田駿河台の英学塾成立学舎[5]に入学し、頭角を現した。
1884年(明治17年)、無事に大学予備門予科に入学。大学予備門受験当日、隣席の友人に答えをそっと教えて貰っていたことも幸いした。ちなみにその友人は不合格であった。大学予備門時代の下宿仲間に後の満鉄総裁になる中村是公がいる。1886年(明治19年)、大学予備門は第一高等中学校に改称。その年、漱石は虫垂炎を患い、予科二級の進級試験が受けられず是公と共に落第する。その後、江東義塾などの私立学校で教師をするなどして自活。以後、学業に励み、ほとんどの教科において首席であった。特に英語が頭抜けて優れていた。
正岡子規との出会い[編集]
1889年(明治22年)、同窓生として漱石に多大な文学的・人間的影響を与えることになる俳人・正岡子規と初めて出会う。子規が手がけた漢詩や俳句などの文集『七草集』が学友らの間で回覧されたとき、漱石がその批評を巻末に漢文で書いたことから、本格的な友情が始まる。このときに初めて漱石という号を使う。漱石の名は、唐代の『晋書』にある故事「漱石枕流」(石に漱〔くちすす〕ぎ流れに枕す)から取ったもので、負け惜しみの強いこと、変わり者の例えである。「漱石」は子規の数多いペンネームのうちの一つであったが、のちに漱石は子規からこれを譲り受けている。
同年9月、房州(房総半島)を旅したときの模様を漢文でしたためた紀行『木屑録』(ぼくせつろく)の批評を子規に求めるなど、徐々に交流が深まっていく。漱石の優れた漢文、漢詩を見て子規は驚いたという。以後、子規との交流は、漱石がイギリス留学中の1902年(明治35年)に子規が没するまで続く。
1890年(明治23年)、創設間もなかった帝国大学(後に東京帝国大学)英文科に入学。この頃から厭世主義・神経衰弱に陥り始めたともいわれる。先立1887年(明治20年)の3月に長兄・大助と死別。同年6月に次兄・夏目栄之助と死別。さらに直後の1891年(明治24年)には三兄・夏目和三郎の妻の登世と死別と次々に近親者を亡くした事も影響している。漱石は登世に恋心を抱いていたとも言われ[6]、心に深い傷を受け、登世に対する気持ちをしたためた句を何十首も詠んでいる。
翌年、特待生に選ばれ、J・M・ディクソン教授の依頼で『方丈記』の英訳などする。1892年(明治25年)、兵役逃れのために分家し、貸費生であったため、北海道に籍を移す。同年5月あたりから東京専門学校(現在の早稲田大学)の講師をして自ら学費を稼ぎ始める。漱石と子規は早稲田の辺を一緒に散歩することもままあり、その様を子規は自らの随筆『墨汁一滴』で「この時余が驚いた事は漱石は我々が平生喰ふ所の米はこの苗の実である事を知らなかったといふ事である」と述べている。7月7日、大学の夏期休業を利用して、松山に帰省する子規と共に、初めての関西方面の旅に出る。夜行列車で新橋を経ち、8日に京都に到着して二泊し、10日神戸で子規と別れて11日に岡山に到着する。岡山では、次兄・栄之助の妻であった小勝の実家、片岡機邸に1か月あまり逗留する。この間、7月19日、松山の子規から、学年末試験に落第したので退学すると記した手紙が届く。漱石は、その日の午後、翻意を促す手紙を書き送り、「鳴くならば 満月になけ ほととぎす」の一句を添える。その後、8月10日、岡山を立ち、松山の子規の元に向かう。子規の家で、後に漱石を職業作家の道へ誘うことになる当時15歳の高浜虚子と出会う。子規は1893年(明治26年)3月大学を中退する。
イギリス留学[編集]
1893年(明治26年)、漱石は帝国大学を卒業し、高等師範学校の英語教師になるも、日本人が英文学を学ぶことに違和感を覚え始める。前述の2年前の失恋もどきの事件や翌年発覚する肺結核も重なり、極度の神経衰弱・強迫観念にかられるようになる。その後、鎌倉の円覚寺で釈宗演のもとに参禅をするなどして治療をはかるも効果は得られなかった。
1895年(明治28年)、東京から逃げるように高等師範学校を辞職し、菅虎雄の斡旋で愛媛県尋常中学校(旧制松山中学、現在の松山東高校)に赴任する。ちなみに、松山は子規の故郷であり、2か月あまり静養していた。この頃、子規とともに俳句に精進し、数々の佳作を残している。
1896年(明治29年)、熊本市の第五高等学校(熊本大学の前身)の英語教師に赴任(月給100円)後、親族の勧めもあり貴族院書記官長・中根重一の長女・鏡子と結婚をするが、3年目に鏡子は慣れない環境と流産のためヒステリー症が激しくなり白川井川淵に投身を図るなど順風満帆な夫婦生活とはいかなかった。家庭面以外では、この頃漱石は俳壇でも活躍し、名声を上げていく。
1898年(明治31年)、寺田寅彦ら五高の学生たちが漱石を盟主に俳句結社の紫溟吟社を興し、俳句の指導をする。同社からは多くの俳人が輩出し、九州・熊本の俳壇に影響を与えた[7]。
1900年(明治33年)5月、文部省より英語研究のため(英文学の研究ではない)英国留学を命じられる。最初の文部省への申報書(報告書)には「物価高真ニ生活困難ナリ十五磅(ポンド)ノ留学費ニテハ窮乏ヲ感ズ」と、官給の学費には問題があった。メレディスやディケンズをよく読み漁った。大学の講義は授業料を「拂(はら)ヒ聴ク価値ナシ」として、ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンの英文学の聴講をやめて、『永日小品』にも出てくるシェイクスピア研究家のウィリアム・クレイグ(William James Craig)の個人教授を受け、また『文学論』の研究に勤しんだりするが、英文学研究への違和感がぶり返し、再び神経衰弱に陥り始める。「夜下宿ノ三階ニテツクヅク日本ノ前途ヲ考フ……」と述べ、何度も下宿を転々とする。このロンドンでの滞在中に、ロンドン塔を訪れた際の随筆『倫敦塔』が書かれている。
1901年(明治34年)、化学者の池田菊苗と2か月間同居することで新たな刺激を受け、下宿に一人こもり研究に没頭し始める。その結果、今まで付き合いのあった留学生との交流も疎遠になり、文部省への申報書を白紙のまま本国へ送り、土井晩翠によれば下宿屋の女性主人が心配するほどの「驚くべき御様子、猛烈の神経衰弱」に陥り、1902年(明治35年)9月に芳賀矢一らが訪れた際に「早めて帰朝(帰国)させたい、多少気がはれるだろう、文部省の当局に話そうか」と話が出て、そのためか「漱石発狂」という噂が文部省内に流れる。漱石は急遽帰国を命じられ、同年12月5日にロンドンを発つことになった。帰国時の船には、ドイツ留学を終えた精神科医・斎藤紀一がたまたま同乗しており[8]、精神科医の同乗を知った夏目の親族は、これを夏目が精神病を患っているためであろうと、いよいよ心配したという[9]。
当時の漱石最後の下宿の反対側には、「ロンドン漱石記念館」が恒松郁生によって1984年(昭和59年)に設立された。漱石の下宿、出会った人々、読んだ書籍などを展示し一般公開されている。
朝日新聞社入社と文豪への道[編集]
英国留学から帰国後、1903年(明治36年)3月3日に、本郷区駒込千駄木町57番地(現在の文京区向丘2-20-7)に転入。
1903年(明治36年)4月、漱石は第一高等学校と東京帝国大学から講師として招かれる(年俸800円)。当時の第一高等学校長は、親友の狩野亨吉であった[10]。東京帝大では小泉八雲の後任として教鞭を執ったが、学生による八雲留任運動が起こり、漱石の分析的な硬い講義も不評であった。また、当時の一高での受け持ちの生徒に藤村操がおり、やる気のなさを漱石に叱責された数日後、華厳滝に入水自殺した。こうした中、漱石は神経衰弱になり、妻とも約2か月別居する。1904年(明治37年)には、明治大学の講師も務める(月給30円)。
その年の暮れ、高浜虚子の勧めで精神衰弱を和らげるため処女作になる「吾輩は猫である」を執筆。初めて子規門下の会「山会」で発表され、好評を博す。1905年(明治38年)1月、『ホトトギス』に1回の読み切りとして掲載されたが、好評のため続編を執筆する。この時から、作家として生きていくことを熱望し始め、その後「倫敦塔」「坊つちやん」と立て続けに作品を発表し、人気作家としての地位を固めていく。漱石の作品は世俗を忘れ、人生をゆったりと眺めようとする低徊趣味(漱石の造語)的要素が強く、当時の主流であった自然主義とは対立する余裕派と呼ばれた。
1906年(明治39年)、漱石の家には小宮豊隆や鈴木三重吉・森田草平などが出入りしていたが、鈴木が毎週の面会日を木曜日と定めた。これが後の「木曜会」の起こりである。その門下には[[内田百間|内田百テンプレート:CP932フォント]]・野上弥生子、さらに後の新思潮派につながる芥川龍之介や久米正雄といった小説家のほか、寺田寅彦・阿部次郎・安倍能成などの学者がいる。
1907年(明治40年)2月、一切の教職を辞し、池辺三山に請われて朝日新聞社に入社(月給200円)。当時、京都帝国大学文科大学初代学長(現在の文学部長に相当)になっていた狩野亨吉からの英文科教授への誘いも断り、本格的に職業作家としての道を歩み始める。同年6月、職業作家としての初めての作品「虞美人草」の連載を開始。執筆途中に、神経衰弱や胃病に苦しめられる。1909年(明治42年)、親友だった満鉄総裁・中村是公の招きで満州・朝鮮を旅行する。この旅行の記録は『朝日新聞』に「満韓ところどころ」として連載される。
修善寺の大患[編集]
1910年(明治43年)6月、『三四郎』『それから』に続く前期三部作の3作目にあたる『門』を執筆途中に胃潰瘍で長与胃腸病院(長與胃腸病院)に入院。同年8月、療養のため門下の松根東洋城の勧めで伊豆の修善寺に出かけ転地療養する。しかしそこで胃疾になり、800gにも及ぶ大吐血を起こし、生死の間を彷徨う危篤状態に陥る。これが「修善寺の大患」と呼ばれる事件である。この時の一時的な「死」を体験したことは、その後の作品に影響を与えることとなった。漱石自身も『思い出すことなど』で、この時のことに触れている。最晩年の漱石は「則天去私」を理想としていたが、この時の心境を表したものではないかと言われる。『硝子戸の中』では、本音に近い真情の吐露が見られる。
同年10月、容態が落ち着き、長与病院に戻り再入院。その後も胃潰瘍などの病気に何度も苦しめられる。1911年(明治44年)8月、関西での講演直後、胃潰瘍が再発し、大阪の大阪胃腸病院に入院。東京に戻った後は、痔にかかり通院。1912年(大正元年)9月、痔の再手術。同年12月には、「行人」も病気のため初めて執筆を中絶する。1913年(大正2年)は、神経衰弱、胃潰瘍で6月頃まで悩まされる。1914年(大正3年)9月、4度目の胃潰瘍で病臥。作品は人間のエゴイズムを追い求めていき、後期三部作と呼ばれる『彼岸過迄』『行人』『こゝろ』へと繋がっていく。
1915年(大正4年)3月、京都へ旅行し、そこで5度目の胃潰瘍で倒れる。6月より『吾輩は猫である』執筆当時の環境に回顧し、「道草」の連載を開始。1916年(大正5年)には糖尿病にも悩まされる。その年、辰野隆の結婚式に出席して後の12月9日、大内出血を起こし「明暗」執筆途中に死去(49歳10か月)。最期の言葉は、寝間着の胸をはだけながら叫んだ「ここに水をかけてくれ、死ぬと困るから」であったという。だが、四女・愛子が泣き出してそれを妻である鏡子が注意したときに漱石がなだめて「いいよいいよ、もう泣いてもいいんだよ」と言ったことが、最後の言葉ともされる。
死の翌日、遺体は東京帝国大学医学部解剖室において長與又郎によって解剖される。その際に摘出された脳と胃は寄贈された。脳は、現在もエタノールに漬けられた状態で東京大学医学部に保管されている。重さは1,425グラムであった。戒名は文献院古道漱石居士。墓所は東京都豊島区南池袋の雑司ヶ谷霊園。
1984年(昭和59年)から2004年(平成16年)まで発行された日本銀行券D千円券に肖像が採用された。
略年譜[編集]
※日付は1872年までは旧暦
- 1867年(慶応3年)1月5日 - 江戸牛込馬場下横町(現・東京都新宿区喜久井町)に父・夏目小兵衛直克、母・千枝の五男として生まれる。夏目家は代々名主であったが、当時家運が衰えていたので、生後間もなく四谷の古道具屋に里子に出されるが、すぐに連れ戻される。
- 1868年(明治元年)11月 - 新宿の名主・塩原昌之助の養子となり、塩原姓を名乗る。
- 1869年(明治2年) - 養父・昌之助、浅草の添年寄となり浅草三間町へ移転。
- 1870年(明治3年) - 種痘がもとで疱瘡を病み、顔にあばたが残る[11]。「一つ夏目の鬼瓦」という数え歌に作られるほど、痘痕は目立った。
- 1874年(明治7年) - 養父・昌之助と養母・やすが不和になり、一時喜久井町の生家に引き取られた。浅草寿町戸田学校下等小学第八級(のち台東区立精華小学校。現・台東区立蔵前小学校)に入学。
- 1876年(明治9年) - 養母が塩原家を離縁され、塩原家在籍のまま養母とともに生家に移った。市ケ谷柳町市ケ谷学校(現・新宿区立愛日小学校)に転校。
- 1878年(明治11年)
- 2月 - 回覧雑誌に『正成論』を書く。
- 10月 - 錦華小学校(現・千代田区立お茶の水小学校)・小学尋常科二級後期卒業。
- 1879年(明治12年) - 東京府第一中学校正則科(東京都立日比谷高等学校の前身)第七級に入学。
- 1881年(明治14年) - 1月 - 実母・千枝死去。府立一中を中退。私立二松學舍(現・二松學舍大学)に転校。
- 1883年(明治16年) - 9月 - 神田駿河台の成立学舎に入学。
- 1884年(明治17年) - 小石川極楽水の新福寺二階に橋本左五郎と下宿。自炊生活をしながら成立学舎に通学。
- 1885年(明治18年) - 中村是公、橋本左五郎ら約10人と猿楽町の末富屋に下宿。
- 1886年(明治19年)7月 - 腹膜炎のため落第。この落第が転機となり、のち卒業まで首席を通す。中村是公と本所江東義塾の教師となり、塾の寄宿舎に転居。
- 1887年(明治20年) - 3月に長兄・大助、6月に次兄・栄之助が共に肺病のため死去。急性トラホームを病み、自宅に帰る。
- 1888年(明治21年)
- 1月 - 塩原家より復籍し、夏目姓に戻る。
- 7月 - 第一高等中学校予科を卒業。
- 9月 - 英文学専攻を決意し本科一部に入学。
- 1889年(明治22年)
- 1月 - 正岡子規との親交が始まる。
- 5月 - 子規の「七草集」の批評を書き、初めて“漱石”の筆名を用いる。
- 1890年(明治23年)
- 1891年(明治24年)
- 7月 - 特待生となる。
- 12月 - 『方丈記』を英訳する。
- 1892年(明治25年)
- 1893年(明治26年)
- 1894年(明治27年)2月 - 結核の徴候があり、療養に努める。
- 1895年(明治28年)
- 1896年(明治29年)
- 1897年(明治30年)6月 - 実父・直克死去。
- 1898年(明治31年)10月 - 俳句結社紫溟吟社の主宰に[7]。
- 1899年(明治32年)5月 - 長女・筆子誕生。
- 1900年(明治33年)5月 - イギリスに留学(途上でパリ万国博覧会を訪問)。
- 1901年(明治34年)1月 - 次女・恒子誕生。
- 1902年(明治35年)9月 - 正岡子規没。
- 1903年(明治36年)
- 4月 - 第一高等学校講師になり、東京帝国大学文科大学講師を兼任。
- 10月 - 三女・栄子誕生。水彩画を始め、書もよくした。
- 1904年(明治37年)4月 - 明治大学講師を兼任。
- 1905年(明治38年)1月 - 「吾輩は猫である」を『ホトトギス』に発表(翌年8月まで断続連載)。
- 12月 - 四女・愛子誕生。
- 1906年(明治39年)4月 - 「坊っちゃん」を『ホトトギス』に発表。
- 1907年(明治40年)
- 1908年(明治41年)
- 1月「坑夫」( - 4月)、6月「文鳥」、7月「夢十夜」( - 8月)、9月「三四郎」( - 12月)を朝日新聞に連載。
- 12月 - 次男・伸六誕生。
- 1909年(明治42年)3月 - 養父から金を無心され、そのような事件が11月まで続いた。
- 1910年(明治43年)
- 3月 - 五女・雛子誕生。
- 6月 - 胃潰瘍のため内幸町長与胃腸病院に入院。
- 8月 - 療養のため修善寺温泉に転地。同月24日夜大吐血があり、一時危篤状態に陥る。
- 10月 - 長与病院に入院。
- 1911年(明治44年)
- 1913年(大正2年)
- 1月 - 酷いノイローゼが再発。
- 3月 - 胃潰瘍再発。5月下旬まで自宅で病臥した。北海道から東京に転籍し東京府平民に戻る。
- 1914年(大正3年)
- 4月 - 「こゝろ」を朝日新聞に連載( - 8月)。
- 11月 - 「私の個人主義」を学習院輔仁会で講演。
- 1915年(大正4年)
- 1916年(大正5年)
- 1984年(昭和59年)11月 - 千円札に肖像が採用される。
作品一覧[編集]
小説[編集]
中・長編小説[編集]
- 吾輩は猫である(1905年1月 - 1906年8月、『ホトトギス』/1905年10月 - 1907年5月、大倉書店・服部書店)
- 坊っちゃん(1906年4月、『ホトトギス』/1907年、春陽堂刊『鶉籠』収録)
- 草枕(1906年9月、『新小説』/『鶉籠』収録)
- 二百十日(1906年10月、『中央公論』/『鶉籠』収録)
- 野分(1907年1月、『ホトトギス』/1908年、春陽堂刊『草合』収録)
- 虞美人草(1907年6月 - 10月、『朝日新聞』/1908年1月、春陽堂)
- 坑夫(1908年1月 - 4月、『朝日新聞』/『草合』収録)
- 三四郎(1908年9 - 12月、『朝日新聞』/1909年5月、春陽堂)
- それから(1909年6 - 10月、『朝日新聞』/1910年1月、春陽堂)
- 門(1910年3月 - 6月、『朝日新聞』/1911年1月、春陽堂)
- 彼岸過迄(1912年1月 - 4月、『朝日新聞』/1912年9月、春陽堂)
- 行人(1912年12月 - 1913年11月、『朝日新聞』/1914年1月、大倉書店)
- こゝろ(1914年4月 - 8月、『朝日新聞』/1914年9月、岩波書店)
- 道草(1915年6月 - 9月、『朝日新聞』/1915年10月、岩波書店)
- 明暗(1916年5月 - 12月、『朝日新聞』/1917年1月、岩波書店)
短編小説・小品[編集]
- 倫敦塔(1905年1月、『帝国文学』/1906年、大倉書店・服部書店刊『漾虚集』収録)
- 幻影の盾(1905年4月、『ホトトギス』/『漾虚集』)
- 琴のそら音(1905年7月、『七人』/『漾虚集』収録)
- 一夜(1905年9月、『中央公論』/『漾虚集』収録)
- 薤露行(かいろこう)(1905年9月、『中央公論』/『漾虚集』収録)
- 趣味の遺伝(1906年1月、『帝国文学』/『漾虚集』収録)
- 文鳥(1908年6月、『大阪朝日』/1910年、春陽堂刊『四篇』収録)
- 夢十夜(1908年7月 - 8月、『朝日新聞』/『四篇』収録)
- 永日小品(1909年1月 - 3月、『朝日新聞』/『四篇』収録)
評論・随筆・講演など[編集]
- 評論
- 文学論(1907年5月、大倉書店・服部書店)
- 文学評論(1909年3月、春陽堂)
- 随筆
- 思ひ出すことなど(1910年 - 1911年、『朝日新聞』/1911年8月、春陽堂刊『切抜帖より』収録)
- 硝子戸の中(1915年1月 - 2月、『朝日新聞』/1915年3月、岩波書店)
- 講演
- 現代日本の開化(1911年、和歌山県会議事堂/1911年11月、朝日新聞合資会社刊『朝日講演集』収録)
- 私の個人主義(1914年)
- 紀行
- カーライル博物館(1905年、『学鐙』/『漾虚集』収録)
- 満韓ところどころ(1909年10月 - 12月、『朝日新聞』/『四篇』収録)
- 句集・詩集
- 漱石俳句集(1917年11月、岩波書店)
- 漱石詩集 印譜附(1919年6月、岩波書店)
- 新体詩
- 従軍行(1904年5月、『帝国文学』10巻5号)
- 画
- 我輩はお先真っ暗の猫である
- 自作の『我輩は猫である』のパロディ[15]。
全集[編集]
- 漱石全集(1993年 - 1999年、岩波書店、全28巻別巻1巻)
- 漱石文学全集(1982年 - 1983年、集英社、全10巻)
- 漱石新聞小説復刻全集(1999年、ゆまに書房、全11巻)
- 漱石雜誌小説復刻全集(2001年、ゆまに書房、全5巻)
- 漱石評論・講演復刻全集(2002年、ゆまに書房、全8巻)
映像化作品[編集]
- 吾輩は猫である(1935年、PCL、監督:山本嘉次郎)
- 坊っちゃん(1953年、東宝、監督:丸山誠治)
- こゝろ(1955年、監督:市川崑)
- 三四郎(1955年、監督:中川信夫)
- 坊っちゃん(1958年、監督:番匠義彰)
- 坊っちゃん(1966年、監督:市村泰一)
- 心(1973年、原作「こゝろ」監督:新藤兼人)
- 吾輩は猫である(1975年、監督:市川崑)
- 坊っちゃん(1977年、監督:前田陽一)
- それから(1985年、監督:森田芳光)
- ユメ十夜(2006年、監督:山口雄大)
家族 親族[編集]
夏目家は江戸時代には名主身分の町人だったが、祖先は武家で、三河松平氏(徳川氏)家臣の夏目吉信の曾孫にあたる夏目吉之を祖とする。漱石の子孫には、著述や音楽で名をなした著名人が多数いる。
- 夏目家( 夏目氏系譜(武家家伝))
- 夏目家の系図によると、何代目か前の先祖が武田家に仕え、八代郡夏目邑を賜わり、それから数代後に武田勝頼が没落したので、甲州から武州埼玉郡岩槻邑に移り、更に後武州豊島郡牛籠村に隠れて郷士となった。1702年(元禄15年)旧暦4月、兵衛直情のとき、名主に任じられた[16]。
- 現在も新宿区に存在する“夏目坂”は、漱石の父・直克により名付けられた。生誕の地の碑も坂に面している。
- 家紋(定紋)が“井桁に菊”であることから町名を喜久井町としたのも、直克であった。※『硝子戸の中』に関連する記述あり。なお、漱石自身の家紋は『菊菱』である。これは漱石が長男でないため、分家の証として用いていると考えられる(本家と分家は基本、違う家紋を用いる)。
- 父・直克、母・千枝(ちゑ)に五男一女があり、漱石は五男である。千枝は直克の後妻であり、伊豆橋という新宿の遊女屋の娘だった。『夏目漱石 人と作品3』 11頁によると、「遊女屋は当時はそれほど卑(いや)しい職業とみなされず、一種の社交場とされていた。その家族は店と別に住み、遊芸や茶の湯をして過ごすというふうで、趣味的な生活をしていたのである。しかし直克はやはり世間体を考えに入れた。そこで千枝の姉の嫁入り先の、芝の薩摩藩お出入りの炭問屋高橋長左衛門の妹として結婚したが、表向きは四谷大番町の鍵屋という質屋から嫁いだことにしていた。それで漱石は、終生母の実家は質屋だと思い込んでいたらしい。」という。直克と先妻との間に二女(異母姉)がいる。
- 妻 - 夏目鏡子との間に2男5女。
- 三兄・和三郎(夏目直矩)の子孫に、VISAカードのCFで、漱石役を演じた孫(芸能プロダクション経営)がいる[18][19][20]。
長男家[編集]
長女家[編集]
- 長女 - 夏目筆子(作家)
- 娘婿 - 松岡譲(作家、筆子の夫)
- 孫 - 松岡陽子マックレイン(オレゴン大学名誉教授、筆子の次女)[21]
- 孫 - 半藤末利子(エッセイスト、筆子の四女)
次男家[編集]
門下生[編集]
代表的なのは、安倍能成・小宮豊隆・鈴木三重吉・森田草平で、四天王と称せられる。それに加えて、漱石と四天王が中心となって開いた木曜会に馳せ参じた文士がいわば漱石門下とされ、後に評論家・本多顕彰によって漱石山脈と命名されている。
思想[編集]
アジア観[編集]
1909年(明治42年)11月6日付けの満洲日日新聞に掲載された漱石の随筆「韓満所感(下)」の記事において、「歴遊の際もう一つ感じた事は、余は幸にして日本人に生れたと云ふ自覚を得た事である。内地に跼蹐(きょくせき)してゐる間は、日本人程憐れな国民は世界中にたんとあるまいといふ考に始終圧迫されてならなかつたが、満洲から朝鮮へ渡つて、わが同胞が文明事業の各方面に活躍して大いに優越者となつてゐる状態を目撃して、日本人も甚だ頼母しい人種だとの印象を深く頭の中に刻みつけられた 同時に、余は支那人や朝鮮人に生れなくつて、まあ善かつたと思つた。彼等を眼前に置いて勝者の意気込を以て事に当るわが同胞は、真に運命の寵児と云はねばならぬ。」などと書いており[23][24]、当時の漱石の「アジア観[25]」が示されている。この一連の記事に対し、比較文学者の平川祐弘東京大学名誉教授は、「漱石は植民地帝国の英国と張り合う気持ちが強かったせいか、ストレートに日本の植民地化事業を肯定し、在外邦人の活動を賀している。日韓併合に疑義を呈した石黒忠悳や上田敏のような政治的叡智(えいち)は示していない。正直に「余は幸にして日本人に生れたと云ふ自覚を得た」「余は支那人や朝鮮人に生れなくつて、まあ善かつたと思つた」と書いている。「まあ」に問題はあろうが、ともかくも日本帝国一員として発展を賀したのだ。」と評している[26][27]。
伊藤博文暗殺事件への反応[編集]
1909年(明治42年)11月5日付けの満洲日日新聞に掲載された漱石の随筆「韓満所感(上)」の記事において、伊藤博文の暗殺事件に触れており、「昨夜久し振りに寸閑を偸(ぬす)んで満洲日日へ何か消息を書かうと思ひ立つて、筆を執りながら二三行認め出すと、伊藤公が哈爾浜で狙撃されたと云ふ号外が来た。哈爾浜は余がつい先達て見物(けぶ)に行つた所で、公の狙撃されたと云ふプラツトフオームは、現に一ケ月前(ぜん)に余の靴の裏を押し付けた所だから、希有の兇変と云ふ事実以外に、場所の連想からくる強い刺激を頭に受けた」[28]などとした上で「余の如き政治上の門外漢は(中略)報道するの資格がないのだから極めて平凡な便り丈(だけ)に留めて置く」などと書いており、伊藤博文の暗殺事件に対する感想が綴られている。これに対し、作家の黒川創は、「漱石は政治家や運動家のような民衆の代弁者ではなく、ぐずぐずした個人の自由や生活を守ったまま、距離をおいて国家に向き合った。当時の日本人は現代の尖閣諸島問題に対するのとは違い、伊藤博文暗殺事件に過敏に反応するのではなく、何となくやり過ごそうとしていたような印象を受ける」と評している[29][30]。
その他[編集]
漱石と病気[編集]
漱石は、歳を重ねるごとに病気がちとなり、肺結核、トラホーム、神経衰弱、痔、糖尿病、命取りとなった胃潰瘍まで、多数の病気を抱えていた。『硝子戸の中』のように直接自身の病気に言及した作品以外にも、『吾輩は猫である』の苦沙弥先生が胃弱だったり、『明暗』が痔の診察の場面で始まっていたりするなど、小説にも自身の病気を下敷きにした描写がみられる。「秋風やひびの入りたる胃の袋」など、病気を題材にした句も多数ある。
酒は飲めなかったが、胃弱であるにもかかわらずビーフステーキや中華料理などの脂っこい食事を好んだ[31]。大の甘党で、療養中には当時貴重品だったアイスクリームを欲しがり周囲を困らせたこともある。当時出回り始めたジャムもお気に入りで、毎日のように舐め、医師に止められるほどだったという[32]。
胃弱が原因で頻繁に放屁をしたが、その音が破れ障子に風が吹き付ける音にそっくりだったことから、破障子なる落款を作り、使用していたことがある。
また、漱石は天然痘に罹っており、自分の容姿に劣等感を抱いていた。しかし当時は写真家が修正を加えることがよく行われており、今残っている写真には漱石が気にしていた「あばた」の跡が見受けられない。
精神医学上の研究対象[編集]
漱石は、神経衰弱やうつ病あるいは統合失調症を患っていたとされているが[33][34]、このことが当時のエリート層の一員であり、最上級のインテリでもあった漱石の生涯および作品に対して如何に影響を及ぼしているのかが、精神医学者の病跡学上の研究対象となっており、実際にこれを主題としたいくつかの学術論文が発表されている。
夏目漱石と森鴎外(近代文学の成立)[編集]
望まれぬ末子として江戸の町方名主の家系に生まれ、薄幸な少年時代を過した漱石が反官的(国家に反抗する姿勢)な態度を貫いた事に対して、津和野藩典医の長男として早くから家族中の期待と愛情により育てられた森鴎外は死ぬまで国家官僚の職を歴任し、官側の人間で在り続けた、という対照が在る(夏目漱石は「余裕派」、「低徊派」、森鴎外は「高踏派」と呼ばれた)。しかし、その一方では二人共、〝自然主義文学の姿勢〟とははっきりした距離を保ちながら洋の東西を問わぬ広い知識を以て文学活動を進め、歪んで行く近代化に於ける価値観の主流に於いても自分達の認識をしっかりと見据え、後続の文学世代に相応の影響を与えた。
神格化[編集]
「晩年の漱石は修善寺の大患を経て心境的な変化に至った」とは、後の多くの批評家、研究家によって語られた論評である。また、この心境を表す漱石自身の言葉として「則天去私」という語句が広く知られ、広辞苑にも紹介されている。しかしながら、この「則天去私」という語は漱石自身が文章に残した訳ではなく、漱石の発言を弟子達が書き残したものであり、その意味は必ずしも明確ではない。
この点については、小宮豊隆の書いたもの、とりわけ『夏目漱石』(1938)も改めて精査する必要がある。山下浩 初校ゲラを通してみた小宮豊隆の『夏目漱石』を参照。
北海道に本籍を移す[編集]
徴兵を避ける目的で北海道に籍を移すことが当時行われていた。北海道の徴兵が本州よりも遅れていたためである。
明治25年、26歳の夏目漱石は8人の家族と共に北海道岩内郡吹上町(現・岩内町)に本籍を移した。大正3年に東京に籍を戻した。これを徴兵忌避のためという論者もいる(丸谷才一「徴兵忌避者としての夏目漱石」 - 『コロンブスの卵』所収)。
言葉遊び[編集]
夏目漱石の作品には、順序の入れ替え、当て字等言葉遊びの多用が見られる。
- 例
- 単簡(簡単)
- 笑談(冗談)
- 八釜しい(やかましい)
- 非道い(ひどい)
- 浪漫(ロマン)
- 沢山(たくさん)等
「兎に角」(とにかく)のように一般的な用法として定着したものもあると言われている。しかし、漱石が生きた時代は現在では使われない当て字が多く用いられており、たとえば「バケツ」を「馬尻」と書くのも当時としてはごく一般的であり、「単簡」などは当時の軍隊用語であるなど、漱石固有の当て字や言葉遊びであるということは、漱石以前のすべての資料を確認しない限り、確定はできない。
造語[編集]
「新陳代謝」、「反射」、「無意識」、「価値」、「電力」、「肩が凝る」等は夏目漱石の造語であると言われているが、実際には漱石よりも古い用例がある。一例としては、漱石が「肩が凝る」という言葉を作ったとする説があるが、18世紀末頃からの歌舞伎、滑稽本に用例が見られる。学術的に「漱石の造語」であると言える言葉はまだ一語も確認されていないが、「浪漫」については『教育と文芸』中に「適当の訳字がないために私が作って浪漫主義として置きました」との記述がある。
漢詩[編集]
日本人が作った漢詩の中には平仄が合っていても中国語での声調まで意識していないものもあるため、中国語で吟じられた場合には優れた漢詩とされにくい場合がある。しかし、漱石の漢詩は中国語で吟じられても美しい[35]とされ、2006年には『中国語で聞く 夏目漱石漢詩選』(耕文社)というCDつきの書籍も出版されている。
漱石の漢詩についての先駆的研究書としては、吉川幸次郎『漱石詩注』(1967年(昭和42年))があるが[36]、これは漱石の造詣が深かった禅の用語などに関しては注釈が無いなどの不備があるとされている(『週刊読書人』勝又浩)。またそれに先立ち、1946年(昭和21年)、娘婿の松岡讓が『漱石の漢詩』[37]を出版している[38]。2008年(平成20年)には作家古井由吉によって『漱石の漢詩』[39]が発表された[40]。禅の観点から注釈されたものとしては飯田利行『新訳 漱石詩集』[41]がある。
日本国外での評価[編集]
日本での絶大な名声に比較すると、欧米での知名度はそれほど高いとはいえないものの、英語圏では主要な作品のいくつかが訳されており、一定の評価を得ている。
- 1960年代に、英国人アラン・ターニーによる『草枕』の英訳“The Three Corned World”が刊行され、この本はカナダのピアニストのグレン・グールドが愛読するところとなり、晩年に、自らラジオ番組で一部分を朗読したことがある[42]。
- アメリカ合衆国の批評家のスーザン・ソンタグは、「死後の生 マシャード・デ・アシス」(『書くこと、ロラン・バルトについて』所収)の中で漱石について、「ヨーロッパ中心の世界文学観が端に押しやってしまったもうひとりの多才な天才、夏目漱石」と評している。
- イギリスの批評家で、2005年に『倫敦塔』の翻訳“The Tower of London”を刊行したダミアン・フラナガンは、漱石をシェイクスピアやゲーテなどに並ぶ世界的な文豪であると評価した上で、イギリスなど欧米ではほとんど漱石が認知されておらず、その理由として、川端康成や三島由紀夫のような「日本らしさ」が漱石には感知されないためではないかとしている。しかし、フラナガンによれば、漱石は単に「日本文学」を代表するのみならず、人間や心の普遍性を探求した世界文学であり、現在はそのように認知されていないが、シェイクスピアが世界的な評価を得るに至ったのは、レッシングやゲーテなどドイツ・ロマン派に寄るところが大きいことを引用しながら賞賛している[43]。
- 『三四郎』論として最も包括的ですぐれているのは、アメリカの比較文学者ジェイ・ルービン(Jay Rubin) の英訳 Sanshiro A Novel(University of Toronto Press)に添付された自身執筆の評論、SANSHIRO AND SOSEKI: A Critical Essay だと思われる。残念ながら邦訳が存在しないので、平均的な日本人が読むには荷が重いが、漱石全集の本文を厳密に引用・英訳するルビンの姿勢には、漱石が世界文学の仲間入りをしていることを如実に感じさせる。ルビンは、他にも、『坑夫』などを英訳している。
中国・台湾・韓国ではよく知られており、多くの作品が中国語や韓国語に訳されている。中国語圏では周作人により紹介されて以来、多くの読書人に愛されてきた。韓国でも古くから漱石作品が親しまれてきたが、1990年代以降特に人気が高まり、「漱石ブーム」と言われるほどになった。
脚注[編集]
- ↑ 『夏目漱石 人と作品3』 9頁
- ↑ 『夏目漱石 人と作品3』 9頁
- ↑ 『夏目漱石 人と作品3』 13頁
- ↑ 当時は学校のあった地名をとって一ツ橋中学ないし一ツ橋尋常中学とも呼ばれた。
- ↑ 現在の成立学園とは無関係。
- ↑ 江藤淳説
- ↑ 7.0 7.1 熊本日日新聞社編纂『熊本県大百科事典』熊本日日新聞社、1982年、418頁
- ↑ 斎藤茂太 「赤いレンガ」 『医学芸術』 昭和57年10月号 斎藤茂吉生誕百年 坪井医院(千代田区神田和泉町1)のウェブサイトへの転載、平成23年11月3日閲覧
- ↑ 斎藤茂太 『精神科医三代』 中公新書 昭和46年刊
- ↑ 狩野宛書簡に「洋行中に英国人は馬鹿だと感じて帰つて来た。日本人が英国人を真似ろ\/と云ふのは何を真似ろと云ふのか今以て分からない」と書いている。
- ↑ 彼は其所で疱瘡をした。大きくなつて聞くと、種痘が元で、本疱瘡を誘ひ出したのだといふ話であつた。彼は暗い簾子のうちで転げ廻つた。身の肉を所嫌はず掻きむしつて泣き叫んだ。〉「道草」(39)
- ↑ 「在籍地の碑」岩内町ホームページ
- ↑ 『夏目漱石 人と作品』 41頁
- ↑ 辞退の書面が掲載「博士称号を返上」東京朝日新聞1911年2月24日『新聞集成明治編年史. 第十四卷』(国立国会図書館近代デジタルライブラリー)
- ↑ 茂木健一郎所蔵。アナザースカイ(日本テレビ) 2009年7月3日放映分にて披露。100万円で購入したそうである。
- ↑ 『夏目漱石 人と作品3』 9頁
- ↑ 共同通信2002年12月7日
- ↑ 有限会社サイアン・インターナショナル
- ↑ Visa TVコマーシャル
- ↑ 夏目房之介の「で」?2008年11月18日
- ↑ 松岡陽子マックレインの息子(米国籍)は、息子(つまり漱石の玄孫)のミドルネームに Soseki と命名した。
- ↑ 菊池寛との親交が深かったことで、「父・夏目漱石」(文藝春秋社)を発表した。
- ↑ 漱石の全集未収録随筆を発掘 作家の黒川創さんが小説に 1/2 産経新聞. (2013年1月7日). 2013年5月12日閲覧。
- ↑ 夏目漱石「韓満所感」(抜粋) 産経新聞. (2013年1月7日). 2013年5月12日閲覧。
- ↑ 漱石の全集未収録随筆を発掘 作家の黒川創さんが小説に 2/2 産経新聞. (2013年1月7日). 2013年5月12日閲覧。
- ↑ 日本人に生まれて、まあよかった 比較文化史家、東京大学名誉教授・平川祐弘 1/4 産経新聞. (2013年4月3日). 2013年8月7日閲覧。
- ↑ 日本人に生まれて、まあよかった 比較文化史家、東京大学名誉教授・平川祐弘 2/4 産経新聞. (2013年4月3日). 2013年8月7日閲覧。
- ↑ 夏目漱石「韓満所感」(抜粋) 産経新聞. (2013年1月7日). 2013年5月12日閲覧。
- ↑ 伊藤博文暗殺 漱石「驚いた」 旧満州の新聞に寄稿文 東京新聞. (2013年1月7日). 2013年8月10日閲覧。
- ↑ 夏目漱石:伊藤博文暗殺で所感 余の如き門外漢は報道するの資格がない 作家・黒川創さんが発見 毎日新聞. (2013年1月7日). 2013年8月10日閲覧。
- ↑ 門下生が集まれば必ず牛鍋を囲む。羊羹、お汁粉、ケーキなど甘いものが好きで、特にお気に入りは自家製アイスクリームだった。胃弱のためには大量の鶏肉を使ったスープを飲んでいたという。なぜか鳥類のもらい物も多かった。シャモ、カモ、山鳥、キジなどで、知人宅での雁の料理に舌鼓を打ったこともあったらしい(河内一郎『漱石、ジャムを舐める』新潮文庫)
- ↑ 「吾輩は-」には1か月に8缶も舐めたとの記述がある。
- ↑ 医師の松本健次郎は「漱石非精神病説」を主張している。漱石の精神病説の根拠は熊本の五高を辞職する時にだされた神経衰弱の診断書と、妻、夏目鏡子の回想記『漱石の思ひ出』などに描かれた漱石の言動の記述や、同書で東大精神科の呉秀三が、漱石を診断し、鏡子に漱石が病気であると告げたという記述があることであるが、辞職のために、五高に提出した診断書も書いた呉は、漱石が親しい菅虎雄の親友であり、また夏目家の家庭医、尼子四郎とも親しかった。当時、実家に戻っていた、鏡子を、尼子を通した依頼で呉が説得した言葉が、鏡子のなかで漱石が精神病者であるという記憶に変わっていったのではないかと主張している。『漱石の思ひ出』の記述を引用しただけの漱石の病跡学は学問的でないと主張している。『漱石の精神界』松本 健次郎 (著) 金剛出版 (1981/01) ISBN 4772401377
- ↑ 『天才』p.164 宮城音弥 岩波新書(青版 621)ISBN 4004120705
- ↑ 一橋大学・景(加藤)慧(Jing, Hui)ら
- ↑ 現在は岩波文庫にある。初版岩波新書、1967年(昭和42年)。
- ↑ 初版は十字屋書店
- ↑ のち昭和41年(1966年)、朝日新聞社で復刻。
- ↑ 岩波書店刊行
- ↑ たとえば押韻の問題についてまったく踏まえていないなどの問題があるとされる要出典。
- ↑ 柏書房、1994年(平成6年)
- ↑ 『「草枕」変奏曲―夏目漱石とグレン・グールド』及び『漱石とグールド―8人の「草枕」協奏曲』参照
- ↑ 『世界文学のスーパースター夏目漱石』講談社インターナショナル、2007年
参考文献[編集]
- 秋山豊 『漱石という生き方』(トランスビュー、2006年)ISBN 4901510398
- 石原千秋 『漱石はどう読まれてきたか』(新潮選書、2010年) ISBN 9784106036590
- 江藤淳 『漱石とその時代』(新潮選書 第1・2部、初版1970年/第3・4・5部、1993 - 99年)
- 1部 ISBN 4106001268、2部 ISBN 4106001276、3部 ISBN 410600447X、4部 ISBN 4106005050、5部 ISBN 4106005751、数回を残し(作者の死で)未完となった。
- 江藤淳 『漱石論集』(新潮社、1992年)
- 江藤淳 『決定版 夏目漱石』(新潮文庫、改版2006年、ISBN 4101108021)
- 柄谷行人 『増補版 漱石論集成』(平凡社ライブラリー、1997年)ISBN 4582764029
- 小森陽一『漱石を読みなおす』(ちくま新書、1995年)ISBN 4480056378
- 小谷野敦 『夏目漱石を江戸から読む』(中公新書、1995年)ISBN 412101233X
- 長尾剛『漱石ゴシップ』(文春ネスコ、1993年)ISBN 4167336065
- 夏目鏡子 『漱石の思い出』(角川文庫、1966年/文春文庫、1994年)ISBN 4167208024
- 西部邁「118 夏目漱石」、『学問』所収(講談社、2004年、380 - 382頁)ISBN 4-06-212369-X
- 西部邁「精神の平衡感覚―夏目漱石」、『日本の保守思想』所収(ハルキ文庫、2012年、36 - 51頁)ISBN 9784758436625
- 福田清人 『夏目漱石 人と作品』(新書判:清水書院、1966年)
- 三浦雅士 『漱石 母に愛されなかった子』(岩波新書、2008年)ISBN 4004311292
- 水村美苗 『續 明暗』(筑摩書房、1990年、新潮文庫、ちくま文庫で再刊)
- 山下浩『本文の生態学――漱石・鷗外・芥川』(日本エディタースクール出版部、1993)
- 廣木寧『小林秀雄と夏目漱石 - その経験主義と内発的生』(総和社、2013)ISBN 978-4-86286-073-6
- 廣木寧『江藤淳氏の批評とアメリカ』(慧文社)2010 ISBN 978-4-86330-040-8
関連項目[編集]
- 岩波書店
- 松山と坊っちゃん
- 愚陀仏庵
- 高等遊民
- 耳納山地 - 漱石が耳納連山を歩いた体験は『草枕』に活かされている。
- ラファエル・フォン・ケーベル
- 夏目吉信 - 漱石の先祖。三河松平家に仕え、徳川家康の忠臣として知られる。
- 夏目鏡子 - 妻
- 世説新語 - 同書にある孫楚のエピソードが「漱石」の号の出典
- 横たわる漱石
- 漱石 (小惑星)
- 夏目氏
- 清和源氏
- ベッジ・パードン - 三谷幸喜作・演出の舞台。英国留学時代の漱石を元に描かれている。
外部リンク[編集]
オンライン・テキスト[編集]
施設など[編集]
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