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漫画(まんが)とは、狭義には笑いを企図した絵をいう。これは「戯画(「カリカチュア)」の概念と近い。また広義には、必ずしも笑いを目的としない「劇画」「ストーリー漫画」「コミック」(これも元来は、笑いと関係のある語)と呼ばれるものをも含む。「劇画」という語は、本来、「漫画」という概念に収まりきれないものものとして、1960年頃に創出されたものであるが、80年代ころにもなると、「漫画」は、これをも内包する概念となった。この広義の「漫画」は、仮名で「まんが」「マンガ」と表記することも多い。

漫画の形式[編集]

前述のように、漫画とは本来的には、笑いを目的とした絵をさし、それは、法隆寺の落書きのような卑俗な笑いから、フランス革命前夜のビラのような体制への嘲笑であったり、また時に、ゴヤのような人間存在を揺るがす鋭いブラックユーモアであったりする。その歴史は長く、時代・地域・社会層によりさまざまな形で存在してきた。形式は極めて多様であり、厳格な定義は殆ど意味をなさない。

漫画は、簡略化誇張を最大の特徴とされている。それは、意図することを直截に表現するために、現実世界を著しく抽象するからである。写実的な絵によって漫画を描く事も不可能ではないが、多くの場合、漫画の力強さを失わせる結果となる。

歴史[編集]

古代と中世[編集]

漫画は、その大衆的性格から(また時に体制批判的な内容から)、美術が権力者や宗教に従事していた古代や中世には、積極的に残される努力はされなかった。それ故に、作例がかなり限られてくる。古代エジプトの漫画としては、権力者を動物化して表現したエジプト版「鳥獣戯画」が広く知られている。これは壁画や壷絵等、複数残されている。古代ギリシアでも、壷絵には、割と多くの戯画的表現を見出すことが出来るが、古代世界から最も豊富な漫画を提供してくれるのは、なんと言ってもポンペイである。この古代ローマ時代の地方都市は、町が、ある日突然に灰に埋もれたことから、普通では残ることのないような極々日常的な絵画や落書きの類まで残されている。日本の現存する最古の漫画の作例は、法隆寺の落書きであり(複数箇所で確認されている)、偶然に残されたこと、庶民的性格、おおらかな性の表現といった点で似ている。

西洋の中世には、美術は宗教の従者であったが、それでも、写本画のごくごく目立たぬ部分に落書きがあったり、また、後期中世を通じて大量に流布していた木版画には、民衆的ユーモアを確認することができる。ゴシック末期の例えば、ショーンガウアーやボッスの作品には、様々な戯画的世界が見られる。日本の仏典の端にも、写学生の気晴らしと思われる男女の性交図などが見られる。また、信貴山縁起伴大納言絵詞鳥獣戯画等、絵巻物の傑作が生み出された。これらのうちには、現代でもなお通用する漫画的表現が見られる。

近世[編集]

ルネサンス美術は、極めて多様な作例を残している。特に、16世紀以降は、美術に従事するものは個性的であることが優れていると考えられ、そのために、表現の幅が広げられた。レオナルド・ダ・ヴィンチは、奇妙・奇怪なものに非常に関心を示し、彼の手稿には、多くの戯画が残されている。レオナルドの興味は、マニエリスムを予感させる。そしてもまた、民衆的な笑いのセンスが、芸術的な形に現れた時代でもあった。後期ルネサンスやマニエリスムには、下卑た笑い、エロティックなもの、世相批判的なもの、そういったまるでフランソワ・ラブレーの世界が、美術に展開し、枚挙に暇がない。それは漫画と密につうじている。代表的な美術家としては、ピーテル・ブリューゲル(父)、ジャック・カロジュリオ・ロマーノルーカス・クラーナハ(父)などがいる。カロや、クラーナハの場合、当時飛躍的に発展しつつあった印刷技術との関連においても重要である。

ファイル:The Rake's Progress 8.jpg
ウィリアム・ホガースによる連作『The Rake's Progress(道楽者のなりゆき)』(1733年)の最後の一枚

「コミック・アートの歴史」を著したR. セービンは、漫画は本質的に印刷媒体と関連付けられているという主張の下に、印刷術の発明により漫画の形式が具体化されたとの見解に立っている。したがって、印刷術に先立つすべての漫画のバリエーションは、あくまで漫画の先行形式であり、漫画の系譜に属するものとは見なせないとするのが、セービンの見解であった。

漫画の形式を備えていると見なせる、現在残されている初期の作品はフランシス・バーローによる『A True Narrative of the Horrid Hellish Popish Plot(恐るべき地獄のようなカトリック陰謀事件についての真実の物語)』(1682年)である。ウィリアム・ホガースの『The Punishments of Lemuel Gulliver(レミュエル・ガリヴァーの受難)』(1726年)も漫画と類似した形式を持つ初期の作品であるが、エディ・キャンベルは、これらの作品は漫画と言うよりも、風刺画の連作ではないかと反論している。この時期の特筆すべき制作者としては、トーマス・ローランドソン、ジャン・ヴァンデルフフト、ジェームズ・ギルレイ、ジョージ・クルックシャンクがいる。ローランドソンとギルレイは、それ以前に用いられていた見出しによるセリフの記述から、フキダシによる記述法を生み出したことにより特記される。

一例として、当時の政治を風刺したローランドソンの1782年の作品は、コマ漫画の初期の変化形であると見做せる。ローランドソンの作品により、絵物語としてのコマ漫画の形式が広まった。

19世紀[編集]

スイスの画家ロドルフ・テプフェールは、19世紀初期における重要人物である。テプフェールの作品はヨーロッパとアメリカの様々な地域で出版され、両大陸で漫画という形式を持つ作品のための市場を整えた。

1845年に、テプフェールは著書『Essay on Physiognomics(人相学試論)』において「絵物語」についての彼の考えを形式付けている。「絵物語を構成するということは、あなたが材料からあらゆる可能性を余さず引き出すような、名匠の業を身に着けることを意味しない! 軽佻浮薄な鉛筆画による単なるカリカチュアを案出することも意味しない。単に風評を脚色することも、駄洒落を図画化することも意味しない。あなたはこれらのすべてを満足させる企画と形式にそって断片を配置する、ある種の演劇を現実に発明しなければならない。あなたは単なるジョークを書き綴るのではなく、連句の中に節を繰り返し織り込むのだ。あなたは良いものや悪いもの、生真面目なものや馬鹿げたもの、狂ったものや正常なものなどの本を作る」

美術史家エルンスト・ゴンブリッチは、テプフェールを新たな絵画言語の発明者として認識している。これは読者自身の想像力によって補われる、省略された表現形式であった。

ファイル:SubstanceandShadow.jpg
ジョン・リーチによる風刺漫画『Substance and Shadow(実体と影)』(1843年

19世紀には、新聞紙上での風刺漫画が人気を博した。1841年、イギリスで風刺漫画雑誌『パンチ』が創刊された。1843年に、『パンチ』は当時フレスコ画の下絵(カートゥーン)展示会を行っていたイギリスの国会議事堂を揶揄して、誌上に掲載された風刺漫画を「カートゥーン(cartoon)」と名付けた。この用語は漫画を表す一般的な英語となり、現代でも使われている。同種の風刺漫画雑誌として、ヨーロッパ大陸ではドイツの『フリーゲンデ・ブレッター』やフランスの『シャリバリ』があり、アメリカ合衆国では『ジャッジ』と『パック』が人気を博していた。

1865年に、ドイツでヴィルヘルム・ブッシュによる『マックスとモーリッツ』が新聞紙上で発表された。この絵物語は漫画の重要な先駆作品であると考えられている。

この頃から中国では漫画の形式が整い始め、1927年には完成した。

1884年にイギリスで雑誌形式により出版された『アリー・スローパーの半休日』は、特定の主人公(アリー・スローパー)による最初の連載漫画として評価されている。1890年には、イギリスで更に二冊の漫画雑誌『コミック・カッツ』と『イラストレーテッド・チップス』が登場した。これらの漫画はアメリカでも新聞連載された。これらの作品により、定期刊行雑誌としてのブリティッシュ・コミックの伝統が確立された。

一般的な基準による、特定の登場人物が登場する最初の成功した連載漫画は、アメリカのリチャード・F・アウトコールトによる連載一コマ漫画『ホーガンズ・アレイ』(1895年)か、ドイツ系アメリカ移民のルドルフ・ダークスによる連載コマ漫画『カッツェンジャマー・キッズ』(1897年)であった。『ホーガンズ・アレイ』の主人公であるイエロー・キッドの人気は連載された新聞の売り上げ拡大に貢献し、その他の連載漫画の誕生を促した。この漫画ブームは、大衆芸術としての漫画の始まりを示すものであった。

20世紀[編集]

アメリカ合衆国において漫画を示す用語である「コミックス(comics)」は、ユーモラスな物語を特徴とした初期のコミック・ストリップ(新聞漫画)に用いられた形容詞「滑稽な(comic)」に由来する。1929年に、アクション漫画である『バック・ロジャーズ』と『ターザン』の連載開始により、コミックはその分野を拡大し始めた。更に多くの漫画が誕生する内に、「コミックス」という用語は、やがて作品の内容よりも形式を指す用語となっていった。

又、1929年にはベルギーの新聞『ル・ヴァンティエーム・シェクル(20世紀新聞)』付録の白黒漫画で、タンタンが初登場した。タンタンの物語は1930年に『タンタンソビエトへ』の一冊にまとめられ、ユーロピアン・コミックスのコミック・アルバムの形式で出版された。

その他にも、1929年には新聞漫画を再版した『ザ・ファニーズ』が出版されている。この漫画はアメリカ合衆国においてニューススタンドで発売された、最初の4色印刷の漫画として評価されており、タブロイド判のサイズで印刷されていた。この判型は当時の新聞の日曜版と混同されやすく、売り上げを伸ばせなかったため、36号で廃刊となった。

現在のアメリカン・コミックス形式で出版された最初の漫画は、日曜版のタブロイド判サイズを二つ折りにした形式による、『ファニーズ・オン・パレード』であった。ニューヨークのイースタン・カラー・プリンティング社で働いていたハリー・L・ウィルデンバーグとマックス・C・ゲインズにより、広告用の景品として1933年に出版されたこの雑誌の成功は、同種の景品雑誌出版の呼び水となった。やがてゲインズは余った雑誌に10セントの価格を表示したカバーを掛けて、ニューススタンドで販売することを思い付き、それらをすべて売り切った。これにより、イースタン社はニューススタンドで販売される漫画雑誌『フェイマス・ファニーズ』を1934年5月に創刊した。

1935年までの漫画は、主に当時のパルプ雑誌に影響された独自の素材を利用していたが、この頃から漫画外の素材が漫画に用いられるようになった。ウィル・アイズナーは漫画外の素材を漫画に持ち込んだ漫画家であり、漫画外の素材を漫画に適用すべく改良し、漫画の文法を発明した事により高く評価されている。アイズナーにより案出された漫画の手法としては、場面を突然に切り替える「ジャンプ・カット」などがある。

アメリカでは1938年に、『アクション・コミックス』第1号でスーパーマンが初登場し、アメリカン・コミックスの黄金時代と呼ばれる期間が到来した。また同年にベルギーでは、バンド・デシネの特徴である週刊形式の漫画雑誌『スピルー』が創刊された。

各国の漫画[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

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