軍医

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軍医(ぐんい)とは、軍隊に所属する医師をいう。

日本の軍医制度は、明治の建軍とともに始まった(ただし、江戸幕府末期には幕府の一部部隊に同様の制度が取り入れられている事に留意する必要がある)。陸軍においては明治4年3月、松本順が兵部省病院御用掛となり、ついで8月に軍医頭(ぐんいのかみ)に任ぜられた。明治6年5月には少将相当官の軍医総監から少尉相当官の軍医補までの階級が規定された。後に陸軍軍医の最高官は陸軍軍医中将(陸軍軍医総監が改称される)、最終職は陸軍省医務局長となる。

海軍においては、明治5年5月に戸塚文海が海軍省5等出仕となり、翌年の8月には中佐相当官の大医監に就任した。

第二次世界大戦終戦後、陸海軍の解体と共に陸海軍病院は国立病院へと移管される。また、戦後の医師不足から軍医に対する公職追放は現職幹部などに限定されて多くが国立病院の医師として留まった。

自衛隊の医官・歯科医官制度[編集]

詳細は 医官 を参照
詳細は 歯科医官 を参照

帝国陸軍の軍医補充[編集]

陸海軍ともに、明治の初期は軍医学校で医師を養成して、軍医を補充していたが、のちには帝国大学医学部医学専門学校の卒業生を公募採用する方法に変った。

陸軍の場合、現役の軍医は、医学部の一年生の中から陸軍委託生を試験で採用し、卒業後は歩兵連隊で軍医見習士官として隊附勤務を行う。陸軍軍医委託生は、毎年夏休みに、歩兵連隊に一カ月ほど入営し、主として歩兵の兵卒としての実務を訓練された。ちなみに一年生と二年生は歩兵連隊で訓練を受け、三年生以上は騎兵連隊か砲兵連隊で乗馬教育を受けた。これは、軍医が乗馬本分である事から考慮されたものである。入営中の軍医委託生は、士官候補生に準じる者として取り扱われた。服装は普通の兵服に、士官候補生や見習士官と同じ、金星の徽章を右襟につけ、左襟には連隊番号を付する。 さらに金星の隣には、医学の神である大国主命(オオクニヌシノミコト)の神話にちなむ、五本の蒲の穂をデザインし、衛生部の色である深緑を塗った特別な徽章を襟につけていた。

その後、大学・専門学校を卒業と同時に衛生部軍医見習士官(曹長)となり、歩兵連隊において三カ月の歩兵科見習士官教育を受ける。その後、軍医学校乙種学生となり、陸軍軍医学校入校と同時に大学卒は軍医中尉・専門学校卒は軍医少尉に任官した。乙種学生の教育期間は一年であった。さらに上級の教育課程として甲種学生課程があった。これは乙種学生卒業者から、師団軍医部長の推薦を経て、選抜試験を行い採用する。期間はやはり一年であった。

また専門的な科目を専攻するものは、(精神科や口腔外科や基礎医学など)二年間の部外研修も認められた。

予備役軍医の場合は、もともと一年志願兵制度により、予備役軍医に任官したが、昭和7年から幹部候補生制度に改められた。

これは医師免許を有する者が現役兵として入営した場合、一期の師団長検閲後、衛生部軍医予備役士官を志願するというものである。試験と選考により、合格者は甲種(将校要員)と乙種(下士官要員)とに分けられ、階級は上等兵になる(軍医には幹部候補生不合格は無く、乙種幹部候補生制度も無いと、従来は言われていたが、ごくごく少数ながら不合格者や、乙種幹部候補生も存在した。)。

部隊内で実務を訓練されながら、三カ月後、甲種幹部候補生は軍曹になり、陸軍軍医学校に入校し半年間の教育を受けて、曹長となり軍医見習士官となる。乙種は陸軍病院などで訓練を受け三カ月後、衛生伍長となり、部隊に配属された。

昭和十二年から医師の不足が深刻化し、軍医予備員制度が発足した。あらかじめ軍医予備員を志願した、四十五歳以下の医師は、教育招集を受けても、いきなり衛生上等兵の階級が与えられる。そして、一般の内務班とは別に、軍医予備員のみで歩兵連隊で一カ月教育され、そののち伍長と成り三カ月間陸軍病院で教育を受けて、招集解除の時に予備役衛生軍曹になる。そして再び招集されたときには、ただちに軍医見習士官に任官させたのである。このように陸軍の予備役軍医の制度には二種類があった。

同じ予備役軍医になるにしても、幹部候補生では三カ月間、初年兵として殴られながら辛い生活を余儀なくされる。その点、軍医予備員を志願しておけば、はるかに安全で、楽をして軍医になれるので、中年以上の医師は、ほとんど全てが軍医予備員を志願した。しかし、中には志願しない医師もおり、軍当局は、そのような医師を懲罰の意味で召集して、衛生兵のまま戦地に送ったので、志願しない医師は、まず存在しなくなった。この制度では、大学教授であっても、軍医科見習士官の待遇で、いきなり将校には成れなかった。

帝国海軍の軍医補充[編集]

海軍の場合は、現役はやはり学生時代に海軍委託生として採用し、卒業と同時に大学では海軍軍医中尉・専門学校出は海軍軍医少尉に任官する。そして海軍砲術学校で基礎教育の後、軍医学校に入校した。海軍の軍医委託生は、月々10円程度の手当が支給されたが、軍事訓練などの義務はなく、適宜、軍艦見学などの誘いがあったのみである。

予備役軍医は、海軍軍医見習尉官の公募試験を受験する。合格すると軍医見習尉官(少尉候補生に準じる待遇)となり、砲術学校などで教育を受けたのち、海軍軍医学校を経て海軍軍医に任官した。その場合は大卒と専門学校卒との区別はなく、予備役軍医少尉となる。

それ以外にも、陸海軍ともに、二年間だけ現役の待遇を受け、そののち予備役に編入される、短期現役軍医制度が存在した。

帝国海軍では軍令承行令により、部隊指揮権は兵科将校が承継することとされ、官階の上下を問わず軍医は部隊指揮権を有しないこととされていた。これはあくまで部隊指揮権の承継上の問題であって、官等の上下は厳然としてあった。

歯科医制度[編集]

歯科医の場合は、歯科軍医ではなく、陸軍では歯科医将校、海軍では歯科医科士官と称するのが正しい。

歯科軍医とは俗称である。歯科軍医では、軍医にして歯科を標榜する者という意味になるので不正確である。

歯科医将校制度の発足は、長年にわたり歯科界の悲願であった。日清戦争の時に、歯科界は歯科医将校制度発足を訴えかけたが、軍当局の反応はなかった。

日本の陸海軍に於ける歯科医の採用は、日露戦争をきっかけとして、部内限り高等官待遇という嘱託歯科医師制度から始まった。明治38年、第三軍の軍医部長であった、落合軍医監の提言により、各軍司令部に歯科医が一名ずつ採用された。海軍においては、歯科を専門としていた原田朴哉(ぼくさい)軍医小監の提言で五名の歯科医師が「部内限り大尉相当待遇」で採用され、艦隊勤務をしながら将兵の歯科診療に従事した。

日露戦後、陸海軍病院で嘱託歯科医師の採用が始まり、練習艦隊において嘱託歯科医師が乗艦するのが通例になったが、歯科医将校制度発足にはなかなか至らなかった。

日中戦争が始まり、多くの若い歯科医師が予備役将校として、あるいは下士官兵として出征するに至り、歯科界は何度も歯科医将校制度発足の請願書を帝国議会に提出し、その都度、賛成多数で可決され、軍当局の検討課題とされたが、なかなか実現の兆しはなかった。

ようやく陸軍の歯科医将校制度が発足したのは、昭和15年3月30日、勅令第213号による。この日、昭和12年勅令第12号の陸軍武官官等表が改正され、陸軍歯科医少将以下、陸軍歯科医少尉までの階級が、衛生部に新たに加えられた。 現役の歯科医将校の採用は軍医と同じである。予備役の歯科医将校の補充は、甲種幹部候補生からの採用に限られ、軍医予備員制度は歯科には無かった。二年現役制度は存在した。

さらに、すでに兵科の予備役将校にして、歯科医師免許を有する者は、定員が空き次第、歯科医将校に転官する道もあった。

現役歯科医将校の一期生は昭和十六年二月、歯科医専の三年生から五名の委託生を採用した。同日、二年生と一年生からも五名ずつが採用になり、それぞれ二期生と三期生になった。

現役歯科医将校の内訳は 一期・5名、2期・5名(内戦死者1名)、3期・5名、4期・8名(内戦死者1名)5期・7名

以上、現役の歯科医将校は、総員30名と非常に少ない。

終戦時の階級は、歯科医大尉10名・歯科医中尉8名・歯科医少尉11名、別に歯科医見習士官として7名がいた。

一方、予備役陸軍歯科医将校の総数は、終戦時の階級で分類すると予備役陸軍歯科医大尉18名、予備役陸軍歯科医中尉143名、予備役陸軍歯科医少尉150名となる。

以上をまとめると

  • 予備役陸軍歯科医大尉  18名                内戦死者 1名
  • 予備役陸軍歯科医中尉  143名   うち現役特志 1名    内戦死者 12名
  • 予備役陸軍歯科医少尉  150名   うち現役特志 1名    内戦死者 1名

現役特志とは、予備役将校が志願と選考ののち、永久服役の現役将校として認められるもので、大変な狭き門でもあった。

海軍の歯科医将校制度は昭和17年1月に、3名が現役士官の第1期生として歯科医少尉候補生に任官し、終戦までに永久服役と短期現役を合わせて9期生まで、歯科医見習尉官として採用された。(歯科医少尉候補生の名前が使われたのは一期生のみで、それ以後は歯科医見習尉官に変更された。)

  • 昭和17年1月15日附 海軍歯科医少尉候補生 3名を1期生
  • 昭和17年9月30日附 海軍歯科医見習尉官 53名を2・3期生
  • 昭和18年9月30日附 海軍歯科医見習尉官 71名を4・5期生
  • 昭和19年9月30日附 海軍歯科医見習尉官 96名を6・7期生
  • 昭和20年以降任官の 海軍歯科医見習尉官 237名を8・9期生と称している。

そのうち、歯科医少尉に任官したのは五期生までであり、六期生以下は海軍賀茂衛生学校に在学中に終戦を迎えている。

他にも海軍独特のものとして、海軍嘱託歯科医師から海軍予備歯科医科士官に採用するルートがあった。(陸軍では、ついに嘱託歯科医師を歯科医科将校には採用していない。)

予備役の歯科医科士官は、海軍嘱託歯科医師から採用され、350名ほどが大尉-少尉に任官している。

  • 第一回・昭和一九年七月一日 海軍予備役歯科医大尉〔だいい〕     28名 海軍予備役歯科医中尉     8名
  • 第二回・昭和二〇年六月二〇日 海軍予備役歯科医少尉 312名
  • 第三回・昭和二〇年八月一五日 海軍予備役歯科医少尉   3名

著名な軍医[編集]

帝国陸軍[編集]

帝国海軍[編集]

関連項目[編集]

出典[編集]