戊辰戦争

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戊辰戦争

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戦線の変遷}}
戦争鳥羽・伏見の戦い東北戦争函館戦争 ほか
年月日1868年1月27日慶応4年1月3日) - 1869年6月27日明治2年5月18日
場所日本
結果:新政府軍の勝利、徳川幕府解体
交戦勢力
徳川幕府15px
奥羽越列藩同盟15px
蝦夷共和国15px
新政府軍15px
指揮官
徳川慶喜
輪王寺宮公現入道親王
榎本武揚
有栖川宮熾仁親王
西郷隆盛
大村益次郎
戦力
損害

戊辰戦争(ぼしんせんそう、慶応4年/明治元年 - 明治2年(1868年 - 1869年))は、王政復古で成立した明治新政府が薩長土肥の軍事力を用いて、親江戸幕府勢力(佐幕派)を一掃した日本内戦。慶応4年/明治元年の干支が戊辰だったことからこの名で呼ばれる。

明治新政府が同戦争に勝利し、国内に他の交戦団体が消滅したことにより、これ以降、同政府が日本を統治する政府として国際的に認められた。

以下の日付は、断りのない限り旧暦で記す。

概要[編集]

戊辰戦争は、

  1. 新政府下での薩長と幕府の主導権争いに起因する「鳥羽・伏見の戦い」の段階
  2. 会津藩・庄内藩の処分問題に起因する「東北戦争」の段階
  3. 旧幕府勢力の最後の抵抗となった「箱館戦争」の段階

の3段階に大きく区分される。この3段階に区別された戦争のうち最大の戦争であるのが、「東北戦争(南北戦争)」である。

陣営の呼称として、新政府側については官軍、西軍、薩長軍、旧幕府側については東軍、といった呼び方もなされるが、本項目では便宜上新政府軍旧幕府軍に呼称を統一する。「東北戦争」における列藩同盟軍は同盟軍と記述する。

ペリー来航以来の幕末の混乱した政局の中、政局の中心は将軍のいる江戸から孝明天皇のいる京都へと移っていた。京都守護職(幕府侍所)である会津藩主の松平容保は、配下の京都見廻組新撰組を使って、討幕派の過激派藩士、浪士を厳しく取り締まった。新撰組は池田屋事件で長州藩過激派を弾圧し、京都見廻組は薩長同盟を成立させた坂本竜馬近江屋事件で暗殺した。しかし、第14代将軍徳川家茂第二次長州征伐に失敗すると、第15代将軍徳川慶喜は朝廷に統治権を返上する大政奉還を行い、倒幕運動の大義名分を失わせた。朝廷が行政能力をもっていないため、引き続き旧幕府が新政府下の実質的な政権を担う予定だった。これに対し討幕派(薩摩藩・長州藩や岩倉具視らの一部公家)は、政治上の劣勢を挽回すべく幼帝明治天皇を利用してのクーデターを計画。徳川慶喜や親徳川派の公家を排除し王政復古を宣言する。これは旧幕府と上級公家を廃して薩長派を中心とした新体制の内容だった。さらに会議で徳川慶喜に対し内大臣の官位辞退と領地の一部返上(辞官納地)の要求を決定した。さらに薩摩藩は藩士に命じ江戸で騒擾を起こさせたため、旧幕府軍は討薩表を掲げて、京都を軍事力によって鎮定するべく兵を進めた。 旧幕府軍と新政府軍は激突し戊辰戦争が開始された。 政治的な経過については幕末も参照のこと。

戊辰戦争中の薩摩藩の藩士(着色写真

戦争終結までほぼ一貫して新政府軍の優勢のうちに戦いが進められた。「近代化を進めた新政府軍に対して、遅れた旧幕府側の軍隊が対抗できなかったために敗れた」というのは誤りで、実際は旧幕府軍も早くから軍隊の西洋化に取り組んでおり、新政府軍に対して劣っていなかった。特に海軍は旧幕府軍のみが持っていた強力な戦力だった。開戦時での兵力や兵站は旧幕府軍が圧倒的に優勢だったが、小銃での戦闘に習熟した新政府軍に対応できず大敗した。それでも旧幕府軍の兵力は上回っており洋化部隊も温存されていたのだが、徳川慶喜が将兵を置き去りにしたまま脱出したこともあり士気が低下し自壊した。以降、徳川慶喜が降伏恭順に徹したため、反抗を続ける旧幕府勢力は糾合の核を欠き、戦力の結集が行えなかった。東北戦争では奥羽同盟に参加した藩の多くが、改革の遅れや財政難から軍備が立ち後れており、新政府軍とは兵力での開きが大きかった。同盟に合流した旧幕府軍の精鋭部隊も弾薬が欠乏すると、旧式の小銃を使用せざるをえない状況に追い込まれた。

兵力として藩士からなる正規兵だけでなく、町民や農民や他国藩士などによって結成された混成部隊が戦力とされ活躍した。長州奇兵隊を結成した高杉晋作は「太平の世で堕落した武士より戦力になる」と考えていたとされる。

戊辰戦争においては、新政府軍・旧幕府軍双方による焼き討ちや物資の現地接収、捕虜の私刑、味方への制裁、また略奪、暴行、放火、強姦や殺戮のような戦争犯罪が発生したことの記録も多い。

新政府軍は主にイギリスから、旧幕府軍は主にフランスから、列藩同盟軍は主にドイツから、軍事教練や武器供与などの援助を受けていた。しかし両陣営とも外国の軍隊の派兵を要請することはなかったため、欧米列強による内政干渉や武力介入という事態は避けられた。

鳥羽・伏見の戦い[編集]

ファイル:Yodokoj7.jpg
戊辰戦場址碑
ファイル:Kinki (1868).jpg
戊辰戦争で官軍が用いた錦旗(錦の御旗)の模写図。
詳細は鳥羽・伏見の戦いを参照

旧幕府陣営では王政復古後の新政府による、徳川慶喜に対する辞官納地の決議により薩摩藩に対しての反発が強まっていた。さらに薩摩藩は旧幕府側を混乱させ戦端を開かせる誘いとして、西郷隆盛の命令で江戸で浪士に放火、強盗、乱暴狼藉を行わせ、騒擾を引き起こしていた。江戸市中警護の任についていた庄内藩は上山藩と共同し、この浪士の拠点となっていた薩摩藩邸を焼討ちし、薩摩藩士約50人が戦死した(江戸薩摩藩邸の焼討事件)。これにより旧幕府では薩摩打倒の機運が高まり、「薩摩の不法行為を誅する」とした上奏表(討薩表)を携え、京都を兵力で抑えるべく、旧幕府側の幕府歩兵隊会津藩兵、桑名藩兵などが大坂から進軍し、薩摩藩・長州藩の軍勢と慶応4年1月3日(1868年1月27日)、京都南郊外の鳥羽と伏見で衝突した。両軍の兵力は、旧幕府軍が約1万5000人、新政府軍が約5000人である。

前述の通り、開戦時の兵力では旧幕府軍が上回っており、新政府軍では天皇を連れて京都から撤退することも検討していたと言われる。戦闘初日は朝廷内で薩長側への支持が鮮明ではなく、戦闘初日には薩長軍は官軍として認定されなかった。その後朝廷内で、戦闘初日の薩長有利との情報により、朝廷は仁和寺宮を征夷大将軍に任命し東寺に送り、併せて朝廷は戦闘開始前に薩長側が作成していた錦の御旗の使用許可を薩長軍に与えた。この時薩長軍は官軍となった。親王は戦闘二日目に薩摩藩の本営だった東寺に到着し、錦の御旗が掲げられ、親王が官軍の代表となった。この錦の御旗は戦闘以前に岩倉具視が依頼し薩摩藩邸内で密造されたものであるが、朝廷が使用許可を出したものであり、正規の錦旗であった。そのため旧幕府軍の戦意は低下した。洋化部隊が温存されたことや指揮そのものも稚拙だったため、新政府軍の圧勝に終わった。

この時点での総戦力では未だに幕府軍が圧倒的に上回っており、巻き返すのも時間の問題と思われたが、慶喜は軍を捨てて大坂城を脱出(1月6日)、海路で江戸へ逃走した。このとき慶喜は、松平容保(会津藩主、元・京都守護職)と松平定敬(桑名藩主)の兄弟および愛妾を同道させた。最高指揮官であり当事者であるはずの徳川慶喜が敵前逃亡したことにより、旧幕府軍は自壊し、抗戦をやめて各藩は兵を帰した。また戦力の一部は江戸方面へと撤退した。

こうして旧幕府軍と新政府軍との決戦、「鳥羽・伏見の戦い」は、明治新政府の勝利で幕を閉じた。なお「鳥羽・伏見の戦い」における両軍の戦死者数は、不明とされている。

西国の状況[編集]

西日本では、新政府軍と佐幕派諸藩との間ではほとんど戦闘が起きず、諸藩は次々と新政府に降伏、協力を申し出た。

丹波・山陰道[編集]

すでに鳥羽・伏見の戦中の5日、新政府は西園寺公望山陰道鎮撫総督に任じて薩摩・長州藩兵を添えて丹波国に進軍させていた。これは佐幕派の丹波亀山藩の帰順および、鳥羽・伏見に敗戦した場合の退路の確保を目的としたものだったが、園部藩篠山藩田辺藩福知山藩などが次々と新政府軍に降伏。そのまま丹後国に入り宮津藩を開城させたのち、因幡国を通って出雲国に進み、2月下旬には佐幕派の松江藩をも降伏させ、山陰を無血で新政府の傘下に従えた。

四国の状況[編集]

公議政体派から倒幕派へ転換した土佐藩が中心となり、丸亀藩多度津藩が協力して、讃岐国の旧幕府方高松藩に進軍。戦意を喪失した高松藩側が家老2名に切腹を命じ、正月20日に降伏に及んだ。27日には残る伊予松山藩も開城し、四国は新政府方に統一された。

中国路の状況[編集]

長州藩兵が上京の途中の正月9日に備後福山藩領に侵入し、家老に勤王の誓詞を提出させた。また新政府の征討令を受けた備前藩が15日に備中松山藩に派兵してこれを降伏させる。姫路藩は藩主酒井忠惇(老中)が慶喜とともに江戸へ脱走して留守だったが、在藩家臣が降伏している。

九州の情勢[編集]

正月14日、長崎奉行河津祐邦は秘かに脱走し、佐賀藩大村藩薩摩藩福岡藩などの諸藩により長崎会議所が構成され、治安を担当した。新政府からは沢宣嘉が派遣され、九州鎮撫総督兼外国事務総督に任ぜられて長崎に入った。日田代官所にあった西国郡代窪田鎮勝は17日に脱走。周辺諸藩が接収し、閏4月には日田県が設置された。老中小笠原長行を世子とする唐津藩は討伐の対象となったが、松方正義がこれを抑え、藩主小笠原長国が長行との養子関係を義絶するとともに降伏を願い出た。天草の幕府領も程なく薩摩・肥後藩によって接収されている。他の佐幕派高鍋藩府内藩も降伏。鳥羽・伏見の戦いで敵対した延岡藩も4月に藩主内藤政挙が上京して許された。

江戸への進軍[編集]

甲州勝沼及び野州梁田の戦い[編集]

詳細は甲州勝沼の戦いを参照

江戸へ到着した徳川慶喜は、1月15日、幕府の主戦派の中心人物、陸軍奉行小栗忠順を罷免。さらに2月12日、慶喜は江戸城を出て上野寛永寺に謹慎し、明治天皇に反抗する意志がないことを示そうとした。一方、明治新政府によって「朝敵」に指定され「死謝」を求められた松平容保は、本拠地の会津へ戻ると新政府に哀訴嘆願書を提出して恭順の姿勢を示す一方で、庄内藩と「会庄同盟」を結成し、戦いの準備を進めた。新政府は有栖川宮熾仁親王を大総督宮とした東征軍を組織し、東海道軍東山道軍北陸道軍に別れ、江戸へ向けて進軍した。

旧幕府軍では、近藤勇らの率いる甲陽鎮撫隊を組織して甲府城を押さえようとした。東山道を進み信州にいた土佐藩士板垣退助・薩摩藩士伊地知正治が率いる新政府の東山道軍は、この動きを封じるために板垣退助が指揮する東山道軍の別働隊を甲州へ向かわせ、旧幕府軍よりも早く甲府城に到着し接収した。甲陽鎮撫隊は甲府盆地へ兵を進めたが、慶応4年3月6日(同3月29日)新政府軍に敗れた。

一方、東山道を進んだ東山道軍の本隊は、3月8日に武州熊谷宿に到着、3月9日に近くの梁田宿(現・足利市)で宿泊していた旧幕府歩兵隊の脱走部隊(衝鋒隊)に奇襲をかけ、これを撃破した。

江戸開城[編集]

詳細は江戸開城を参照

駿府に進軍した新政府の東海道軍は、3月6日(同3月29日)の軍議において江戸城総攻撃を3月15日と定め、準備を始めた。しかし、新政府は新政府の後ろ盾であるイギリスからの要請を受け、江戸城を攻撃しないことを決めた。江戸で戦いが起きると、イギリスの対日貿易に支障が生じるためである。恭順派として旧幕府の全権を委任された陸軍総裁の勝海舟は、幕臣山岡鉄舟を東征大総督府参謀の西郷隆盛に使者として差し向け会談、西郷より降伏条件として、徳川慶喜の備前預け、武器・軍艦の引渡しを伝えられた。

西郷は3月13日(同4月5日)、高輪の薩摩藩邸に入り、同日から勝と西郷の間で江戸開城の交渉が行われた。なお交渉した場所は諸説あり、 池上本門寺の東屋でも記録が残っている。 翌日3月14日(同4月6日)、高輪の薩摩藩邸で勝は

  • 慶喜は隠居の上、水戸にて謹慎すること
  • 江戸城は明け渡しの後、即日田安家に預けること

等の旧幕府としての要求事項を伝え、西郷は総督府にて検討するとして15日の総攻撃は中止となった。結果、4月4日 (旧暦)(同4月26日)に勅使(先鋒総督橋本実梁・同副総督柳原前光)が江戸城に入り、

  • 慶喜は水戸にて謹慎すること
  • 江戸城は尾張家に預けること

等とした条件を勅諚として伝え、4月11日(同5月3日)に江戸城は無血開城され、城は尾張藩、武器は肥後藩の監督下に置かれることになった。同日、慶喜が水戸へ向けて出発した。4月21日(同5月13日)には東征大都督である有栖川宮熾仁親王が江戸城に入城して江戸城は新政府の支配下に入った。 ここに事実上江戸幕府は滅亡し、初代、徳川家康以来260余年続いた徳川氏の天下に終止符が打たれた。

船橋の戦い[編集]

詳細は市川・船橋戦争を参照

慶応4年(1868年)4月11日に行われた江戸城無血開城に従わぬ旧幕臣の一部が千葉方面に逃亡、船橋大神宮に陣をはり、閏4月3日5月24日)に市川鎌ヶ谷船橋周辺で両軍は衝突した。この戦いは最初は数に勝る旧幕府軍が有利だったが、戦況は新装備を有する新政府軍へと傾き、新政府側の勝利で幕を閉じた。この戦いは、江戸城無血開城後の南関東地方における最初の本格的な戦闘(上野戦争は同年5月15日)であり、新政府側にとっては旧幕府軍の江戸奪還の挫折と関東諸藩を新政府への恭順に動かした点での意義は大きい。

宇都宮城の戦い[編集]

詳細は宇都宮城の戦いを参照

江戸城は開城したものの、徹底抗戦派の幕臣は大量に江戸を脱走し、北関東を転戦した。その道中、小山付近や宇都宮伝習隊などの旧幕府軍と新政府軍が戦った。4月19日、(同5月11日)に旧幕府軍が宇都宮城を占領するも、奪い返され、今市日光方面に退却した。

上野戦争[編集]

詳細は上野戦争を参照

徳川慶喜が謹慎していた上野寛永寺には、旧幕府徹底抗戦派の彰義隊約4000人が集結して反政府軍の拠点となっており、しばしば新政府軍の兵士と衝突した。「江戸無血開城」に成功し、事実上幕府を滅亡させた新政府の東海道軍を率いる大総督府参謀西郷隆盛は、旧幕府の恭順派勝海舟との関係から、彰義隊への対応の甘さが指摘されていた。大総督府は長州藩士大村益次郎軍防事務局判事として赴任させた。大村は5月1日、旧幕府による江戸府中取締の任を解き、東北地方、北海道、新潟で仙台藩主導による奥羽列藩同盟(北部政府)が誕生した約1ヶ月後の5月15日(同7月4日)、彰義隊を攻撃した。新政府軍はわずか一日の戦いで彰義隊を壊滅させ、両軍合わせて300余人の戦死者がでた。これにより新政府は江戸以西を掌握することとなり、7月には江戸が東京と改称された。

東北戦争[編集]

東北諸藩は激動する政局の中心、京都から遠かったという事情もあり、もともと佐幕的立場をとる藩が多かった。しかも、京都で暗殺や放火・強盗などの凶悪犯罪を起こしていた長州藩などの過激派藩士・脱藩浪士を取り締まった京都守護職松平容保会津藩主)が、1868年(明治元年)1月10日、明治天皇を操る明治新政府によって「朝敵」に指定され追討の対象となったため、東北諸藩の会津藩への同情はさらに強まった。同じく江戸で放火・強盗などの凶悪犯罪を起こした薩摩藩の藩士・脱藩浪士を取り締まった江戸市中警護役酒井忠篤庄内藩主)も、朝敵の指定こそ受けていないものの新政府から事実上の朝敵扱いを受けており、庄内藩も何らかの処分を受けるのは時間の問題となっていた。長州藩は「禁門の変」で御所を砲撃した朝敵であり、明治新政府による会津藩・庄内藩への理不尽な処分・対応が長州藩・薩摩藩の「逆恨み」からでたものであることは明らかで、ここにこそ「東北戦争」の原因・本質があった。

同年3月、明治天皇は五摂家左大臣九条道孝を総督に、同じく公家沢為量を副総督に、公家の醍醐忠敬を参謀に任じ、奥羽鎮撫総督府をつくった。総督府の実権を握るのは、下参謀の長州藩士世良修蔵と薩摩藩士大山綱良だった。

新政府は総督府と軍の部隊(薩摩藩兵・長州藩兵、570人)を、海路雄藩仙台藩へ派遣した。当時仙台藩の最大兵力は約3万8800人で、「日本最大の兵数」を誇っていた。松島湾から仙台領に入った新政府軍は、仙台城下で強盗・強姦などの乱暴狼藉を働き、仙台藩士らを激怒させた。こうして仙台藩は、「会津擁護」の立場を固めた。九条総督は東北諸藩に「会津・庄内追討」を命じた。会津討伐の先鋒は仙台藩で米沢藩がこれを助けること。庄内討伐の先鋒は久保田藩で、弘前藩や羽州諸藩は応援兵を出すように命じた。

3月27日、仙台藩主伊達慶邦は重い腰をあげ、仙台藩兵約1000人を会津藩境へ送った。さらに「江戸開城」の同日、4月11日、伊達慶邦は約8000人の将兵を自ら率いて会津藩境へ出陣した。当時、会津藩の最大兵力は約7000人だった。仙台藩の大軍を目の当たりにした会津藩は、仙台藩の説得により降伏を決意した。ところが、関東地方で旧幕府軍が善戦していることを知った会津藩は、仙台藩に対して「開城・恭順」を撤回し、「武装・恭順」を譲らなかった。仙台藩・米沢藩は会津藩の説得を断念し、会津藩は武装恭順することになった。しかし、新政府は徳川慶喜が「開城・恭順」(江戸無血開城)した前例もあったため、会津藩の武装恭順を認めなかった。同年4月、下参謀大山綱良率いる新政府軍300人は、庄内藩を討つため仙台から出陣した。天童藩織田氏)が新政府軍の先導役を務め、「列藩同盟」はまだ結成されていなかったため、仙台藩兵約100人も新政府側に加わった。新政府軍の残り270人は、そのまま仙台領にとどまった。

会津藩への穏便な処分を願う伊達慶邦は、閏4月11日、首席家老但木成行に命じて東北地方14藩の首脳を仙台領白石に召集し、「白石列藩会議」を開いた。この時点で東北諸藩は、松平容保と酒井忠篤の赦免嘆願を目的としていた。伊達慶邦と上杉斉憲は、会津藩への寛大な処分を嘆願する東北諸藩の連名による嘆願書、会津藩の嘆願書、仙台・米沢両藩主の連名による嘆願書を仙台領岩沼まで出陣してきていた九条総督に直接手渡した。九条総督はこの三通の嘆願書を受け取り、「八月十八日の政変」で京都を追われ長州藩に落ち延びた三条実美のように自分も仙台藩・米沢藩を頼って第二の王政復古を待とう、と述べた。

しかし、これらの嘆願書は、世良修蔵によって握りつぶされてしまう。さらに、世良が大山綱良に宛てて書いた、東北地方への攻撃を呼びかける密書が発覚する。閏4月20日、仙台藩は世良修蔵への報復として、世良を福島で捕らえて処刑した。同日、会津軍が新政府に先制攻撃をかけ、新政府から白河城を奪い取った。こうして東北諸藩の団結は軍事同盟へと変質し、戊辰戦争における最大の戦争、「東北戦争」(南北戦争)の火蓋が切られた。仙台藩は仙台領に残っていた新政府軍270人を駆逐して、岩沼に滞陣していた九条総督、醍醐参謀らを捕らえ、仙台城下の重臣の屋敷に軟禁した。東北地方、北海道の27藩の首脳は再び仙台領、白石に集結し、「白石盟約書」に調印した(のちに2藩が脱落し25藩)。白石城には同盟政府の最高機関である「列藩同盟公議府」が置かれた。5月3日、「白石盟約書」が修正されて調印され、ここに奥羽列藩同盟(北部政府)が誕生した。のち河井継之助越後長岡藩ら新潟の6藩も同盟政府に加わり、合計31藩によって奥羽越列藩同盟が成立した。

一方、久保田藩を中心とする庄内討伐軍は閏4月20日本荘藩に集合、総攻撃をかけることを決め戦闘準備をしているところ、4月23日庄内藩家老の石倉右衛門の3小隊が突如討伐軍に奇襲をかけ、討伐軍は武器や兵糧を捨てて逃げ去ることになる。その後、列藩同盟締結などの諸事情により、庄内討伐軍は本格的戦闘がなく解兵することになる。

新政府は東北地方および新潟の各藩を、庄内白河越後平潟の四方面から順次攻撃した。また、列藩同盟側の久保田藩佐竹氏が、関ヶ原での恨みや、関ヶ原で同じく徳川と敵対した薩摩(島津氏)、長州(毛利氏)との繋がりもあり、新政府側に寝返った。そのため、初期から庄内戦線に秋田戦線が加わる形となった。結果、久保田藩は周りに味方がいない中、奥羽越列藩同盟軍から集中攻撃を受け続けるという、絶望的な状況になる。しかし久保田藩が新政府軍についたことが、戦況を大きく動かすことになる。

奥羽越列藩同盟政府[編集]

詳細は奥羽越列藩同盟を参照

慶応4年(1868年)、新政府は会津藩の武装恭順を認めず仙台藩(伊達氏)、米沢藩(上杉氏)をはじめとする東北地方の諸藩に会津藩追討を命じ、鎮撫使と軍の部隊を派遣した。奥羽14藩は会議を開き、会津藩・庄内藩赦免の嘆願書を九条総督に提出するも却下されたため、朝廷へ直接建白を行う方針に変更し、閏4月23日新たに11藩を加えて白石盟約書が調印された。さらに後に25藩による奥羽列藩盟約書を調印した。会津・庄内両藩への寛典を要望した太政官建白書も作成された。奥羽列藩同盟には、武装中立が認められず新政府軍との会談に決裂した越後長岡藩、ほか新発田藩等の北越同盟加盟6藩が加入し、計31藩によって奥羽越列藩同盟が成立した。

当時、国後島、択捉島などの北方四島を含む北海道は、函館周辺を支配する松前藩を除けば、仙台藩、会津藩、庄内藩、盛岡藩、久保田藩、弘前藩の支配下に置かれていた。特にタカ派の仙台藩と会津藩、およびハト派の米沢藩は北海道に広大な領地と警衛地を有し、この三藩だけで北海道の約3分の2を支配していた。そのため奥羽越列藩同盟(北部政府)の領土は、東北地方、北海道、新潟、すなわち「日本列島の約半分」に及んだのである。こうして戊辰戦争は、日本を南北に二分する事実上の「南北戦争」に発展した。

6月には上野戦争から逃れてきた孝明天皇の弟、輪王寺宮公現法親王(のちの北白川宮能久親王)が、列藩同盟の盟主として据えられた。当初は軍事的要素も含む同盟の総裁への就任を要請されたが、6月16日に盟主のみの就任に決着した。仙台藩と会津藩は輪王寺宮を「東武皇帝」として即位させ、「東武朝廷」を樹立する計画を進めていた。新朝廷では伊達慶邦が征夷大将軍に、松平容保が征夷副将軍にそれぞれ就任する予定だった。この「東武朝廷」に関しては、“輪王寺宮は天皇への即位を辞退した”とする説や“輪王寺宮は天皇に即位した”とする説などがあり、未だに謎が残されている。7月10日、輪王寺宮は全国の10万石以上の大名に対して、「動座布告文」と「輪王寺宮令旨」を発令した。この中で輪王寺宮は諸大名に対して、『幼君明治天皇を操る君側の奸、薩摩・長州を取り除く』ことを強く主張している。

奥羽越列藩同盟政府は旧幕府艦隊を率いて脱走していた榎本武揚に対して再三の援軍要請を行うも、榎本はこれに同調せず、後に仙台港で同盟軍と旧幕府軍の敗兵約2500人を収容するにとどまった。

奥羽越列藩同盟の諸藩はドイツの武器商人、エドワード・スネルなどから武器を購入していたが、前装式で射程距離が短い旧式の小銃を買わせられるなど、新政府軍がイギリスから最新式の小銃を購入したのとは雲泥の差があった。これが東北戦争の勝敗の行方を大きく左右した。

庄内・秋田戦線(庄内戦争)[編集]

江戸警護役として「薩摩藩邸焼討ち」を断行した庄内藩酒井氏)と、仙台藩伊達氏)の使節を殺害して列藩同盟(北部政府)から離脱した久保田藩(秋田藩)(佐竹氏)を中心とする戦い。中でも庄内藩家老酒井玄蕃率いる二番大隊の奮戦は、連戦連勝しながら、会津藩などの降伏により撤退した話は有名である。

仙台藩に会津追討を命じた総督府は庄内藩を討つため、大山綱良率いる新政府軍約300人を仙台から出陣させた。先導は天童藩が勤め、仙台藩兵約100人も新政府側に加わっていた。4月24日、庄内藩は清川口から侵攻してきた新政府軍を迎え撃った。新政府軍の侵攻を予想して豪商・本間家からの献金で最新鋭の小銃を購入し洋化を進めていた庄内藩は、戦術指揮も優れていたため、新政府軍を圧倒した。

その頃、奥羽越列藩同盟の一角、久保田藩は、秋田出身の尊皇攘夷思想家平田篤胤の影響で、なおも藩内の意見が不安定だった。そうした情勢のなか、新政府は佐賀藩前山精一郎率いる佐賀藩兵・小倉藩兵330余人を仙台藩に送り込んだ。前山は仙台藩首席家老但木成行に、「この戦争を終わらせるために、九条総督らを開放してほしい」と懇願した。但木らは前山の“戦争を終結させるために”という言葉を信じ、九条総督と醍醐参謀を佐賀藩・小倉藩に引き渡した。しかし、これは前山らのはかりごとだった。

九条総督、醍醐参謀を奪還することに成功した佐賀藩・小倉藩は、まず盛岡藩に到着した。盛岡藩の勤王派は喜び、藩主南部利剛は1万両の大金を軍資金として献金したが、態度は曖昧なままだった。続いて九条総督は尊皇攘夷派が勢力を保っていた久保田藩に入った。そのため、久保田藩では尊皇攘夷派が勢いづいた。沢為量副総督は弘前藩説得のために弘前藩に入ろうとしたが、藩内の勤王派が勢いづきなし崩し的に勤王派が主導権を握ることを恐れた弘前藩の佐幕派によって矢立峠の巨大な杉の木は切られ、矢立峠は封鎖された。そのため沢為量副総督は久保田藩にとどまることになり、久保田で九条総督と合流することになった。

仙台藩は久保田藩の真意を確認するため、久保田藩に使者7名を派遣した。しかし新政府の大山綱良、桂太郎らに扇動された久保田藩の尊皇攘夷派は、7月4日、仙台藩の使者と盛岡藩の随員を全員殺害。なし崩し的に列藩同盟を離脱して、新政府側へと寝返った。こうして久保田藩は、東北地方における新政府軍の拠点となった。

新政府側は薩摩藩兵・佐賀藩兵らの新政府軍に久保田藩兵が合体し、新政府・久保田連合軍となった。「久保田藩の裏切り」により列藩同盟軍は、「庄内・秋田戦線」で優位に立っていた庄内藩が、苦戦していた「白河戦線」に援軍、約900人を送る作戦を、途中で中止せざるを得なくなった。逆に「白河戦線」で苦戦していた仙台藩は、将兵を「庄内・秋田戦線」に投入する緊急事態となり、列藩同盟軍は「白河戦線」の兵力が一層手薄になってしまった。

久保田藩に続いて、新庄藩本荘藩矢島藩亀田藩も新政府側に寝返った。新庄藩の寝返りに対して庄内藩は、白河救援のために移動していた部隊、約900人が7月14日、舟形で合流し、新庄藩主、戸沢氏の居城、新庄城を一気に攻め落とした。新庄藩兵は強力な庄内藩兵を前に戦意を喪失し、新庄城から脱走した。

数に勝る新政府軍・新庄藩の連合軍に対して、数に劣る庄内藩が最新兵器と巧みな戦術で攻撃・撃破する。庄内藩は日本海側と新庄側から同時に久保田藩に迫った。久保田藩は、南から庄内藩、南東から仙台藩、北東から盛岡藩に攻め込まれた。特に庄内藩には領内深くまで攻め込まれ、久保田城の支城までが落とされた。9月16日、庄内軍は、久保田城の目前にまで迫った。

しかし、庄内軍は列藩同盟の中核となっていた米沢藩・仙台藩が降伏したため、9月19日、一斉に領内へ撤退した。新政府軍は「庄内・秋田戦線」の兵力を増強し、庄内藩は防衛戦を行った。庄内藩は奮戦して一進一退の攻防が続いたが、9月22日、会津藩が降伏して「東北戦争」の勝敗がほぼ決すると、9月24日、開城し恭順した。

南部・秋田戦線[編集]

盛岡藩は盛岡城で奥羽列藩同盟、新政府側のどちらに味方しようか連日論議が続いていた。勤王攘夷思想のある有力者も多数いたからである。そこへ京都へ上洛していた家老楢山佐渡が帰国し、各国の情勢を伝えた。楢山佐渡は京都で会見した西郷隆盛らの態度に不信感を募らせ、幕府側に味方することに心を決めていた。部下の一人は楢山を諫めるために切腹をし、また一人は脱藩をして楢山に抗議をしたが、楢山には伝わらなかった。盛岡藩は列藩同盟に味方し、久保田藩に攻め込むことを決定した。

盛岡藩は将兵を鹿角地区に集め、戦闘準備を行った。8月9日(書面は8月8日)に戦書を久保田藩側に提出、白石同盟の脱退を名分に戦闘を始めることを告げた。戦闘は十二所から始まり、十二所の兵は潰走し後退した。盛岡藩兵は11日大館南方の扇田に進駐、楢山佐渡も隊列を組み進駐した。扇田の住民は盛岡藩兵を酒肴で歓待した。ところがこれは罠で、酒肴で酔いつぶれた所を、十二所の兵が襲おうとした計略であった。ところが、なぜか楢山佐渡ら将兵の主力は帰国しており、扇田神明社前に小数の盛岡藩の宿陣が駐屯しているだけであった。12日十二所勢は午前4時に盛岡藩兵を攻撃し、双方に死傷者が続出する。(扇田神明社の戦い)

8月13日、盛岡藩は一時将兵を久保田領内から引き上げた。小康状態に陥ったので、大館城城代の佐竹大和は将兵の再配置を行う。11日には、弘前藩の対馬寛右衛門の銃士隊も庄内との戦いを中止し、大館に集合していた。しかし、銃は旧式銃がほとんどで新式のゲベロ銃がわずか5挺、兵力の質も量も盛岡側と比較して貧弱なのは明らかであった。8月14日には弘前藩からの鉄砲100挺、弾薬1万発の陣中見舞いが届いた。

楢山佐渡の再攻撃は20日に始まった。楢山佐渡自ら指揮をして、日没までに一気に扇田村まで攻め寄せた。12日朝の攻撃は、扇田村住民の手引きがあると断定し、盛岡藩軍は扇田村に火をつけ400戸のうちわずか6戸を残して扇田村は灰燼となった。このとき、女軍夫の山城ミヨが流れ弾に当たり死亡している。その後、山城は靖国神社に祀られた最初の女性となった。扇田村の敗戦を受けて、久保田側は大館城近辺に将兵を集め部隊の再編を行い、大館城を防衛しようとした。

22日、盛岡藩兵は朝5時大館城を総攻撃した。激戦の後、久保田藩兵は次第に総崩れとなった。城代の佐竹大和は籠城する覚悟であったが、部下に諫められ城に火をつけ午前8時に脱出することとなった。大館城の門は午前9時に破られ、盛岡藩兵が突入し占領することになる。午後1時、盛岡藩は大館と扇田の諸役をできるだけ集め「3年間の年貢を免ずる」と宣言した。

久保田藩側は険しい地形で難所として有名だったきみまち阪周辺を防衛地点と決め後退、本陣を荷上場村に置いた。一方盛岡藩側は23日は休兵とし、24日から一部の部隊を前進し始めた。25日盛岡藩本隊は綴子村に到着、さらに本道からきみまち阪方面と、間道の大沢村に向けて進撃した。

25日早朝、佐賀藩の総隊長である乾太左衛門が早朝カゴで荷上場村に向け急行した。26日には乾の部下の生駒小十郎が前線に到着、休む間もなく前線を視察し、本隊到着までの戦闘準備を行う。正午には5名の佐賀兵が到着し、前線での小競り合いに参加した。

28日盛岡藩側にも佐賀兵の救援の噂が伝わり、きみまち阪の要害を抜こうと、本道と間道両方からの攻撃を行った。本道からの攻撃は、険しい地形を利用し防衛した久保田藩兵により失敗した。本道の村々は撤退する盛岡藩兵によって火をつけられた。また、間道から大沢村に至った部隊は大沢村を占領するものの、本道の攻撃が失敗したのを見て、大沢村に火をつけ山道を越え撤退した。同夜、佐賀兵の本隊である遊兵隊300名が最新の銃砲を持って荷上場村に到着した。

29日は久保田藩側の総攻撃の日となった。早朝はきびしい寒さとなり、また数歩離れただけでも見えなくなるような濃霧の日であった。本道から攻めた久保田藩側は前山村の盛岡藩兵を攻撃、盛岡藩兵はほとんど反撃もできず砲弾を残したまま前山村から潰走し、坊沢村で防衛することになった。坊沢村では激しい戦いになったが、背後から大沢村から間道を越してきた佐竹大和率いる久保田藩側の別部隊と挟み撃ちになり、盛岡藩側は坊沢村に火をつけ総撤退した。

30日と9月1日は両陣とも攻撃準備を行っている。2日午前6時に佐賀の大砲の音を合図に、岩瀬村において久保田藩側の総攻撃が始まった。盛岡藩側も待ちかまえており、この岩瀬会戦が南部・秋田戦線の最大の戦闘となった。一進一退の情勢が続いた。この戦闘では佐賀兵も一時撤退を指揮官に訴えるなど苦戦し。また、盛岡側も楢山佐渡が敗兵を厳しく叱責するなど敢闘精神を見せたが、正午頃には大勢が決まり、盛岡藩兵は撤退した。このとき、米代川対岸にいた盛岡藩兵は久保田藩側の急迫に退路を失い、渡河する途中で多くの犠牲者を出している。

本隊は2日から5日には大館近郊での戦いが続いた。双方被害者を出しながら一進一退の攻防が続いた。大館南部の山道を辿った久保田藩の部隊は板沢村の盛岡藩の部隊を急襲、盛岡藩側は前線から離れている場所の昼食時という不意を狙われ、幹部級の戦死者4名をだし、多量の軍資金や軍需品を置き去りにして敗走した。その後、この部隊は扇田村を奪回して、扇田村に陣を置いた。

6日朝6時に大館への総攻撃を計画していた久保田藩側だったが、盛岡藩側は扇田村が占領され退路を断たれる危険性をおそれたのか、5日夜に既に大館を総撤退しており戦闘はなかった。7日久保田藩兵側は藩境の町である十二所を回復した。その後、この地区や雪沢地区で、終戦まで一進一退の攻防が続いた。盛岡藩側も藩境を突破されないように強硬に抵抗を行った。

22日盛岡藩は降伏嘆願書を正使に持たせ久保田藩側に派遣した。25日に沢尻で正式に盛岡藩の降伏が締結され、これでこの地区の戦闘は終結した。

白河戦線(会津戦争)[編集]

詳細は会津戦争を参照

藩主不在となっていた白河城は要地であり、関東地方から東北地方への入り口に当たった。この城は当初、新政府の支配下にあった。閏4月20日、仙台藩が新政府の鎮撫使、世良修蔵を処刑した同日、会津軍は白河城に先制攻撃をかけ白河城を奪い取った。ここに、「白河戦線」の戦端が開かれた。5月1日、薩摩藩士、伊地知正治率いる新政府軍・約700人は同盟軍から白河城を奪還した。以後、白河城をめぐり、100日余りも攻防戦(白河口の戦い)が行われた。会津藩兵、仙台藩兵を主力とする同盟軍、4500人弱は7次にわたって白河城の奪還を試みたが失敗に終わった。「白河口の戦い」では同盟軍、新政府軍、合わせて約1000人の死者がでた。

越後戦線(北越戦争)[編集]

詳細は北越戦争を参照

北越戦争では長岡城と、列藩同盟が武器の供給源としていた新潟港が主戦場となった。 5月2日の会談で、長岡藩は武装中立の姿勢と会津説得の猶予を嘆願したが新政府側はこれを拒否。これにより長岡藩および北越の諸藩、計6藩が列藩同盟へ参加したため、新政府軍と同盟軍の間に戦端が開かれた。越後勢の中心となっていた長岡藩の最大兵力は約1000人。長岡藩は郡奉行河井継之助により兵制改革が進められ、武装も更新されており、ガトリング砲も有していた。同盟軍は河井継之助の指揮下で善戦したが、7月末に長岡城が落城した。7月24日、同盟軍は長岡城を奪還し、新政府軍を敗走させた。しかし、この際、指揮をとっていた河井継之助が負傷する(のち死亡)。新政府軍は長岡城を再奪取。米沢藩兵・会津藩兵が守る新潟も陥落したため、8月には越後の全域が新政府軍の支配下に入った。これによって、武器類の補給を新潟港に頼っていた奥羽越列藩同盟は深刻な事態に追い込まれた。同盟軍の残存部隊の多くは会津へと敗走した。

平潟戦線(仙台戦争)[編集]

詳細は磐城の戦いを参照

「平潟戦線」では、6月16日、土佐藩士、板垣退助率いる新政府軍・約1500人が、海路、常陸国(茨城県)平潟に上陸した。6月24日、仙台藩兵を主力とする同盟軍は、新政府軍と棚倉で激突した。さらに、7月13日には、「平城の戦い」が行われた。列藩同盟軍の準盟主、米沢藩の裏切り(戦闘不参加)よって、同盟軍は「平城の戦い」に敗れた。仙台藩兵が退却すると、新政府軍は仙台藩兵を追撃。7月26日、同盟軍と新政府軍は広野で再び戦い、新政府軍は同盟軍を破った。7月29日、新政府軍は二本松藩と「二本松の戦い」を行った。この戦いで二本松藩は三春藩の裏切りにより戦死者245人をだして敗北し、新政府軍は二本松城を攻略した。二本松少年隊の悲劇が起きたのは、このときのことである。こうして新政府軍は、会津への進路を確保した。8月上旬から9月上旬にかけて、仙台軍と新政府軍は、仙台藩南境で「旗巻峠の戦い」を行った。この「戊辰戦争最大の激戦」において、仙台藩は相馬藩の裏切り(内応・降伏)によって、仙台軍だけで戦死者1266人をだし新政府軍に敗れた。新政府軍の司令官である長州藩・大村益次郎、土佐藩・板垣退助、薩摩藩・伊地知正治は、「仙台藩を攻めるか会津藩を攻めるか」を協議した。その結果、「仙台藩より先に会津藩を攻める」ことに決定した。

若松城篭城戦と東北戦争の終結[編集]

8月22日、会津城下を目指した新政府軍は、同盟軍の裏をかいて母成峠から侵攻し、激戦(母成峠の戦い)が行われた。(狭義の)「会津戦争」の始まりである。新政府軍により同盟軍の防衛線は突破され、会津城下での市街戦にも敗れた会津藩兵と旧幕府軍残党勢力は、若松城に篭城した。この篭城戦のさなか、白虎隊の悲劇などが発生する。9月4日、「越後戦線」で新潟港を守りきれなかった米沢藩が、板垣退助の切り崩し工作によって新政府に降伏した。降伏した米沢藩は仙台藩に働きかけ、9月10日、仙台藩は洋化部隊、額兵隊などの精鋭部隊を温存したまま、本土決戦を行わず新政府に降伏した。9月22日、新政府の3万人の大軍に攻囲されていた会津藩が、一ヶ月におよんだ「若松城篭城戦」の末に新政府に降伏した。その結果、9月24日、「庄内・秋田戦線」で奮戦していた庄内藩も降伏し、これにより「東北戦争」は終結した。

野辺地戦争[編集]

詳細は野辺地戦争を参照

盛岡藩降伏後の9月23日未明、突如として弘前・黒石両藩が盛岡・八戸両藩が守備する野辺地へ侵攻したもの。一旦は盛岡・八戸藩が退却するも、反撃に転じ弘前・黒石軍を撃破する。

双方の戦死者は盛岡・八戸両藩が8名なのに対し、弘前・黒石両藩が29名(或いは43名とされる)であり津軽側の大敗であった。

この戦闘の原因は津軽側の実績作りといわれるが不明である。同様の小競り合いは鹿角郡濁川でも起こっているが、いずれも戦後処理においては私闘とされた。

箱館戦争[編集]

詳細は箱館戦争を参照

榎本武揚ら一部の旧幕府軍は、8月、旧幕府艦隊を率いて江戸を脱出。奥羽越列藩同盟政府からの再三の援軍要請を無視し、同盟政府の敗色が強まった8月26日、ようやく仙台港に寄港した。榎本は仙台で、同盟軍および大鳥圭介土方歳三等の旧幕府軍の残党勢力、約2500人を収容して兵数を倍増させることに成功すると、10月12日、仙台領・石巻湾から蝦夷地北海道)へと向かった。北海道の松前藩は、当初、奥羽越列藩同盟側に属していたが、のちに新政府側に寝返っていた。10月26日、榎本は松前藩の箱館五稜郭などの拠点を占領し、北海道を支配していた東北諸藩の敗戦後、12月5日、北海道に地域政権を打ち立てた(榎本政権(通称、蝦夷共和国))。榎本らは北方の防衛開拓を名目として旧幕臣政権による蝦夷地支配の追認を求める嘆願書を朝廷に提出したが、新政府はこれを認めず派兵した。旧幕府軍は松前、江差などを占領するも、要となる開陽丸を座礁沈没させて失い海軍兵力は低下、宮古湾海戦を挑んだものの敗れ、新政府軍の蝦夷地への上陸を許す。5月18日(同6月27日)、土方歳三は戦死。榎本武揚らは新政府軍に降伏し戊辰戦争は終結した。

戦後処理[編集]

慶応4年5月24日、新政府は徳川慶喜の死一等を減じ、田安亀之助徳川宗家を相続させ、駿府70万石を下賜することを発表した。

同年(明治元年)12月7日、東北地方(北海道)と越後の諸藩に対する処分が発表された。列藩同盟の盟主である伊達慶邦、準盟主である上杉斉憲をはじめ東北諸藩の藩主は死一等を減じられ、一旦封土没収の上、削・転封された。主な諸藩の処分は次の通りである(カッコ内は旧領石高)。

なお、同時にこの日、陸奥国および出羽国の分割も行われ、陸奥国は磐城国岩代国陸前国陸中国陸奥国 (1869-)の5ヶ国に、出羽国は羽前国羽後国の2ヶ国に分けられた。これにより、奥羽という言葉も過去のものとなった。

処分をうけた藩
  • 仙台藩 - 28万石に減封(62万石)。家老6名のうち2名が処刑、さらに2名が切腹させられた。仙台藩の財政は壊滅状態に陥り、仙台藩士の一部は新天地・北海道の開拓を決意し、北海道へと移住した。仙台藩士は新政府と共に現在の札幌市を開拓したほか、単独で伊達市当別町などを開拓した。
  • 会津藩 - 陸奥斗南藩3万石に転封(23万石)。藩主父子は江戸にて永禁固(のち解除)。家老1名が処刑された。この会津藩への過酷な処分は、西郷隆盛と並ぶもう一人の大総督府参謀だった宇和島藩士林通顕によってなされた。
  • 盛岡藩 - 旧仙台領の白石13万石に転封(20万石)。家老1名が処刑された。
  • 米沢藩 - 14万石に減封(18万石)。
  • 庄内藩 - 12万石に減封(17万石)。新政府の重鎮である西郷隆盛によって寛大な処分がとられた。これは会津藩が長州藩の意向により苛酷な処分を受けた事とは対照的である。
  • 山形藩 - 近江国朝日山へ転封、朝日山藩を立藩。石高は5万石から変わらず。家老1名が処刑された。
  • 二本松藩 - 5万石に減封(10万石)
  • 棚倉藩 - 6万石に減封(10万石)
  • 長岡藩 - 2万8千石に減封(7万4千石)
  • 請西藩 - 改易(1万石)、藩重臣は死罪。藩主林忠崇は投獄。のち赦免されるが士族扱いとなる。後年、旧藩士らの手弁当による叙勲運動により、養子が他の旧藩主より一段低い男爵に叙任された。戊辰戦争による除封改易はこの一家のみ。
  • 一関藩 - 2万7000石に減封(3万石)
  • 上山藩 - 2万7000石に減封(3万石)
  • 福島藩 - 三河国重原藩2万8000石へ転封(3万石)
  • 亀田藩 - 1万8000石に減封(2万石)
  • 天童藩 - 1万8000石に減封(2万石)
  • 泉藩 - 1万8000石へ減封(2万石)
  • 湯長谷藩 - 1万4000石へ減封(1万5000石)
  • 下手渡藩 - 旧領である筑後国三池へ転封、三池藩を立藩。石高は1万石から変わらず。
加増をうけた藩
所領安堵となった藩
  • 八戸藩 - 藩主・南部信順が島津氏の血縁ということもあり、沙汰無しとなったと言われる。また、本家盛岡藩の久保田藩に対する戦闘では、遠野南部氏共々尊皇攘夷思想から参加していない。また、陰で久保田藩と通じる文書を交わしていることが明らかになっている。
  • 村松藩 - 家老1名が処刑された。
  • 村上藩 - 家老1名が処刑された。
  • 磐城平藩 - 新政府に7万両を献納し、所領安堵となった。
  • 相馬中村藩 - 新政府に1万両を献納し、所領安堵となった。
  • 三春藩
  • 新発田藩
  • 三根山藩
  • 黒川藩

明治2年(1869年)5月、各藩主に代わる「反逆首謀者」として、仙台藩首席家老但木成行、仙台藩江戸詰め家老坂英力、会津藩家老萱野権兵衛、盛岡藩家老楢山佐渡が、東京で極刑の刎首刑に処された。続いて、仙台藩家老玉虫左太夫、同じく仙台藩家老若生文十郎が、切腹させられた。しかし、但木成行、玉虫左太夫らの師である、仙台藩強硬派の精神的柱石、思想家、大槻盤渓は、死を免れた。

会津藩と庄内藩の処分については、新政府内においても「厳罰論」と「寛典論」に分かれたが対照的な処分となった。 会津藩に対する処分は厳しく「旧領の猪苗代か新天地の斗南どちらか3万石に転封」というもので、会津藩内での議論の末、斗南を選択している。斗南は風雪が厳しく実質的には8000石程度で、移住した旧藩士と家族は飢えと寒さで病死者が続出し、日本全国や海外に散る者もいた。

庄内藩に対する処分は、西郷隆盛らによって寛大に行われた。西郷隆盛の庄内藩に対する対応は巧妙であり、これに感激した庄内の人々は、西郷に対する尊敬の念を深めた。前庄内藩主酒井忠篤らは西郷の遺訓『南洲翁遺訓』を編纂し、後の西南戦争では西郷軍に元庄内藩士が参加している。

奥羽越列藩同盟政府から新政府に寝返った久保田藩弘前藩三春藩は功を労われ、明治2年(1869年)には一応の賞典禄が与えられた。しかし、いずれも新政府側から他の諸藩と同格とは見なされず恩恵を得られなかった。この仕置きを不満とした者の数は非常に多く、後に旧久保田藩領では反政府運動が、旧三春藩領では自由民権運動が活発化した。

箱館戦争が終結すると、首謀者の榎本武揚大鳥圭介松平太郎らは東京辰の口に投獄されたが、黒田清隆らによる助命運動により、明治5年(1872年)1月に赦免された。その後、彼らの多くは乞われて新政府に出仕し、新政府の要職に就いた。

大正6年(1917年)9月8日、盛岡において戊辰戦争殉難者50年祭が開かれた。事実上の祭主としては、盛岡藩家老の家に生まれた政友会総裁原敬が列席し、「戊辰戦役は政見の異同のみ」とした祭文を読み上げ、「賊軍」・「朝敵」の汚名を雪いでいる。

「戊辰戦争で奥羽越列藩同盟が新政府に勝っていれば仙台(周辺)が日本の首都になった」、という「仙台首都説」がある。 これに直接的な関連は無いが、1990年代前半に地方分権一括法案が審議され日本の遷都が検討された際に、仙台市も首都候補都市として挙げられていた。

遺恨[編集]

戊辰戦争では戦争の様々な事柄や理由において、その原因を遺恨と結びつけて説明される事がある。 京都守護職だった会津藩の京都における勤王・倒幕浪士の捕殺や、庄内藩による薩摩藩邸の焼き討ち、禁門の変による長州藩への「朝敵」指定や長州征討、会津戦争での新政府軍による暴行・略奪などが各藩の「恨み」の理由として挙げられる。ただし、薩摩藩邸浪士の副総裁だった落合直亮は「西郷は当初から使い捨てにするつもりで厄介者を薩摩邸に集めていた」と語っている[要出典]赤報隊も参照のこと。

また実際に、長州藩では官軍に立場が転じると旧幕府側の人間を敵意をこめて「朝敵」と呼称した山縣有朋や、「会津は朝敵で大罪人である」といった内容を口癖のようにしていたと伝えられる[要出典]世良修蔵のような人物が見られ、鹿児島で起きた西南戦争において旧幕府側出身の抜刀隊員達は、賊軍の汚名をすすぐべく「戊辰の仇、戊辰の仇」と叫んで斬り込んでいった。

脚注[編集]


参考文献[編集]

  • 菊地明(他)編, 『戊辰戦争全史』〈上・下〉, 新人物往来社 (1998/04), ISBN 4404025726, ISBN 4404025734
  • 佐々木克,『戊辰戦争』,中公新書 (1977), ISBN 4121004558
  • 保谷徹,『日本の戦争18 戊辰戦争』,吉川弘文館, ISBN 4642063285
  • 野口武彦(著), 『幕府歩兵隊―幕末を駆けぬけた兵士集団』, 中公新書 (2002/11), ISBN 4121016734
  • 星亮一(著), 『会津戦争全史』, 講談社選書メチエ (2005/10), ISBN 4062583429
  • 星亮一(著), 『会津藩はなぜ「朝敵」か - 幕末維新史最大の謎』, ベストセラーズ (2002/8), ISBN 4584120463
  • 稲川明雄(他)編, 『北越戊辰戦争史料集』, 新人物往来社 (2001/11), ISBN 4404029233
  • 中須賀哲朗 (訳),『英国公使館員の維新戦争見聞記』,校倉書房 (1974)
  • 『会津戦争-痛憤 白虎隊と河合継之助』,学習研究社 (1994/9), ISBN 9784056005868
  • 『映像で見る戊辰戦争・勝利と絶望』NHK教育放送,(1999/12/10)

外部リンク[編集]

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