新幹線
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新幹線(しんかんせん)は、旧日本国有鉄道(国鉄)が1964年(昭和39年)10月1日に営業運転を始めた東海道新幹線を初の路線とし、現在JRグループが運行する高速鉄道路線およびそれに用いられる車両、並びに関連する鉄道輸送システム全体をも指す呼称である。
目次 |
[編集] 定義・概況
画像:Mountfujijapan.jpg 富士山を背に走る新幹線 |
全国新幹線鉄道整備法(全幹法)第2条では、新幹線鉄道を「主たる区間を200キロメートル毎時以上の速度で走行できる幹線鉄道」と定義している。新幹線はその性質から在来線とは構造も役割も異なり、一般の鉄道敷設法などに加えて、新幹線特例法などにより、法律的にも一般の鉄道とは違った扱いを受ける。
建設は独立行政法人鉄道建設・運輸施設整備支援機構(鉄道運輸機構)が行ない、その費用は国や沿線自治体が負担する[1]。運営は旅客鉄道会社(JRグループ)が専ら行なっている。「新幹線の運営はJRでなければならない」など、法律面で鉄道事業者を特定していないが、運営がJRグループに継承される理由としては、
- 新幹線の経営には莫大な費用がかかり、それを負担できる資本力があるのは旧国鉄の業務を継承するJR各社しかない。
- 旧国鉄には、東海道新幹線・山陽新幹線・東北新幹線・上越新幹線を経営してきた実績があり、それがJR各社に分割民営化されたことで、運営ノウハウを知っている人間がJR各社にしかいない。
ということが挙げられる。
[編集] 呼称
新幹線とは、元々は従来の幹線に対して「新しい幹線」という意味で、東海道新幹線は在来線である東海道本線の線増として建設された為こう呼ばれた。 日本以外の国々では Bullet Train (弾丸列車)、 Super Express (超特急)、もしくはそのまま Shinkansen (シンカンセン)の名で広く知られている。一般的には Shinkansen Bullet Train と説明されることが多い。1964年の東海道新幹線開業当初は、 New Tokaido Line (東海道新線)とも案内された(現在でも横浜市営地下鉄では車内電光掲示板で使われている)。なお現在では駅内の案内板等では路線名としては Shinkansen を使用し、列車名を表す場合は、例えば NOZOMI Superexpress などと、 Superexpress という名称が使われている。これはJRグループで特急を表す Limited Express より上位の列車という意味で Super という単語を用いている(日本語で言えば「超特急」)と考えられる。 ちなみに、車内放送では "Welcome to the Shinkansen. This is the NOZOMI superexpress bound for Shin-Osaka." などと放送される。
[編集] 新幹線に関する主な技術
新幹線鉄道は、その大部分の区間において200km/hを超える速度で運行するため、在来線鉄道とは異なった様々な技術が用いられている。速度のみならず、乗り心地や安全面でも高い水準が確保され、その成功は日本以外の世界各国において鉄道の価値を見直すきっかけともなった。
[編集] 路線・軌道設備
画像:Shinkansen nagaoka.jpg 新幹線のホーム(上越新幹線長岡駅) 画像:Shinkansen high bridge.jpg 新幹線の高架橋 画像:Tokyo-Station-2005-7-21 4.jpg 安全柵やカラーの電光掲示板が設置されている駅(東海道新幹線東京駅) |
- 路線は、在来線と別ルートで新規に建設した線路設備を用いる(ミニ新幹線を除く)。
- 事故防止のため以下の設計を行う。
- 自動車との衝突事故を防ぐため、踏切を一切設けない(ミニ新幹線として運行されている在来線の場合は、踏切数を削減すると共に保安設備を強化している)。
- 線路内に一般の人が立ち入れない様にする。前項も含めた対策として全線立体交差とする(ミニ新幹線を除く)。また、列車の運行妨害等に対しては法律面でも「新幹線特例法」によって在来線より厳しい罰則を定めている。
- 通過列車との接触など人身事故を防ぐため、プラットホームに可動ゲート付きの安全柵を設ける(例:新横浜駅や新神戸駅など)か、通過線と待避線を分ける(例:静岡駅、福島駅など)。ただし、大宮駅や軽井沢駅など通過列車の通過速度が低い駅には安全柵のみ設けられている。また、東海道新幹線の東京駅や名古屋駅、新大阪駅など全列車が停車する駅には、当初柵などは設けられてはいなかったが後に安全柵のみが設けられた。
- 乗り心地や安全性の向上、騒音対策などから、レールや分岐器(ポイント)にも様々な工夫が施されている。
[編集] 信号システム
- 地上の信号機を車上から目視確認して運転する事は高速運転のため不可能であり、自動列車制御装置 (ATC) を備え、運転室内に車内信号による運行指示が表示される。
- 運転指令所の列車集中制御装置 (CTC) から、全ての列車の運行状況を一括管理している。現在では列車運行管理システム (PTC) も導入されており、通常のポイント操作や信号制御、駅自動放送から車両の管理整備、輸送障害時の復旧ダイヤの作成に至るまで、あらゆる業務がコンピュータによって高度にシステム化されている。
[編集] 電源方式
- 単相交流25,000Vで電力を供給する。電源周波数は以下の通り。
- ミニ新幹線である山形新幹線と秋田新幹線は、改軌前より50Hz・20,000V交流電化された区間であったため、改軌後もこれをそのまま採用し、直通車両を複数電源対応とした。
[編集] 車両技術
- 機関車などにみられる「動力集中方式」(無動力の客車を牽引する方式で、ヨーロッパで多く採用されているプッシュプル方式もこの形式に属する)ではなく、動力を編成各車両に分散させる「動力分散方式」(電車方式)を用いて、加減速能力の向上・軽量化・軌道への負荷軽減を図っている。ただし、車両に装備されるモーターが増える結果コスト高となるため、海外への販売(一時期韓国KTXなどにも導入計画があったが、コスト面を理由に動力集中方式であるフランスのTGV方式に変更された)では不利になることや、修理時の費用が高いことが短所である。
- 編成全体で大出力を確保するため、編成内における電動車(動力車)の比率を極力多くする。東海道・山陽新幹線の初代車両0系や、東北・上越新幹線開業時の車両である200系は全車が電動車であった。また東海道・山陽新幹線で使用されている500系は最高速度300km/hの高速運転を行うために、九州新幹線の800系は急勾配を走行するために、全車が電動車となっている。ちなみに、全電動車方式は上記の様にコスト面での不利はあるものの、その分のコスト高は足回りの統一でカバー可能な上、制御がしっかりしていれば加減速能力(特に減速能力は高く、現在では停止寸前までは回生ブレーキだけで減速可能な仕様となっている)の高さもあり、技術面の問題が無ければそれ程不利にはならないとも言われている。
- 車両は、高速運転時にトンネルに進入するなどの気圧変動による居住性の低下を防ぐために気密構造となっている。
- このほか、運転台構造ではマスコンとブレーキの配置が在来線通勤電車とは左右逆の配置になっているほか、速度メーターも200km/h以上の運転に対応するため、在来線のような丸型式は基本的に無く、初期の車両は横線式、中期の車両は途中まで斜線その後横線、その右下には細かな速度が表示されるデジタルタイプ、そして最近の車両に関してはグラスコクピットを採用しているものもある。但し一部の形式においては在来線車両を髣髴とさせるアナログ式丸型速度メーターを採用している例もあった(400系やE1系。現在はDS-ATC導入により速度メーターも変更され、その姿は見られない)。
[編集] 他線区への直通
- ミニ新幹線と呼ばれる区間(山形新幹線の福島~新庄間、秋田新幹線の盛岡~秋田間)は、在来線の線路を標準軌に改軌改良し、新幹線直行特急として直通乗り入れを行っているもので、法律や設備などの上では正式な新幹線路線ではなく、あくまで在来線である(これらの路線を新幹線と呼ぶのは、利便性やイメージ戦略上の理由である)。そのため、最高速度は一般の在来線と同じく130km/h程度に制限されている。とは言うものの、在来線ではもっとも速い部類にあたる速度である。また、このような運転形態を、新幹線と在来線を直通することから「新在直通(運転)」と呼ぶことがある。
- 在来線を改軌せずに新幹線への乗り入れを可能にするフリーゲージトレインの開発が鉄道総合技術研究所により進められているが、現在のところ実用化の時期は未定である。
[編集] 営業中の路線
[編集] 新幹線(フル規格)
| 名称 | 始点 | 終点 | 路線長 | 営業キロ | 運営会社 |
|---|---|---|---|---|---|
| 東海道新幹線 | 東京駅 | 新大阪駅 | 515.4km | 552.6km | JR東海 |
| 山陽新幹線 | 新大阪駅 | 博多駅 | 553.7km | 644.0km | JR西日本 |
| 東北新幹線 | 東京駅 | 八戸駅 | 593.1km | 631.9km | JR東日本 |
| 上越新幹線 | 大宮駅 | 新潟駅 | 269.5km | 303.6km | |
| 北陸新幹線※ | 高崎駅 | 長野駅 | 117.4km | 117.4km | |
| 九州新幹線鹿児島ルート | 新八代駅 | 鹿児島中央駅 | 126.8km | 137.6km | JR九州 |
※2007年現在はまだ北陸地方へ達していないため、便宜上「長野新幹線」という愛称が付けられている。開業当初は「長野行新幹線」と「行」の字が入っていたが、これは当時「『長野新幹線』という名称だと、『長野までで完成』というイメージが多少あり、長野以遠への延伸の芽を潰すことになりかねない」という、北陸の強い反対があったため。
なお、東海道新幹線と山陽新幹線を合わせて「東海道・山陽新幹線」、東北新幹線と上越新幹線を合わせて「東北・上越新幹線」と呼ぶことがある。
他社の車両が乗り入れているのは東海道・山陽新幹線(東海道新幹線にJR西日本の車両、山陽新幹線にJR東海の車両)のみで、それ以外の新幹線はすべて自社車両(山形新幹線及び秋田新幹線用の車両の一部は正確には保有会社からの貸出)で運行されている。
ちなみに、東京駅では東海道新幹線と東北新幹線の線路が接続されていないため、現在、博多から八戸まで(その逆も)直通で行くことはできず、必ず東京駅での乗り換えが必要とされる。国鉄時代には、当初両線の直通運転を前提として建設の計画がなされていたが(直通運転の実験用に試験車両961形が製造された。また、東京駅14・15番ホームは直通を想定して作られたため、ホームがカーブしている)、東京を貫通する需要がほとんどないという調査結果や、周波数の違い(東海道・山陽・九州新幹線は60Hzで、その他は50Hz)、それに東北・上越新幹線用のものには降雪対策が施されるなどといった車体設計の違いから、実現には至らなかった。現在では、湘南新宿ラインの利用が好調なことや東北縦貫線計画が進められていることなどから、関東内相互の近距離では東京を貫通する需要(特に通勤需要)もあると考えられるが、国鉄時代と違い別会社の運行となっていることから、実現の可能性は低いと見られている。
[編集] 新幹線直行特急(ミニ新幹線)
東北新幹線盛岡以北、及び長野新幹線の軽井沢以西はミニ新幹線として建設することも検討されたが、結局フル規格で建設された。
[編集] 新幹線規格在来線
新幹線の回送線を旅客扱いするようにしたものであるが、距離が短く高速運転を行わないなどといった理由で在来線扱いになっている。しかし車両は新幹線のものであるため、同線を走る列車は一般の「特急列車」扱いとされ、乗車の際に特急券を乗車券の他に要する。また博多南線の列車はJRにおける列車愛称がない唯一の特急列車ともなる。
- 博多南線 博多駅~博多南駅間 8.5km (車両基地への回送線を旅客化)(JR西日本)
- 上越線(支線) 越後湯沢駅~ガーラ湯沢駅間 1.6km (保守用の引き込み線を旅客化。上越新幹線と接続し、線路名称上も上越線の一部となっている。通称ガーラ湯沢線)(JR東日本)
新幹線では、東京駅から上野駅・品川駅などの短距離区間でも自由席特定特急料金が840円となるのに対し、この区間は在来線特急扱いの列車しか走らないこともあり、特定特急料金がJRの特急料金では最低の100円となる。
[編集] 新幹線鉄道規格新線
新幹線鉄道規格新線とは、路盤・トンネルなどの構造物を新幹線規格で建設し、軌間1,067mmのレールを敷設して在来線の車両を走らせるもので、「スーパー特急方式」とも呼ばれる。以下の様な例がある。
- 海峡線 新中小国信号場~木古内駅間。線路間隔4.4m、ゲージ1,435mmに対応するスラブ軌道を採用。現在は1,067mmにボルトで固定してあるが、北海道新幹線の建設後は三線軌道となる予定。青函トンネル内は国鉄時代に製造された旧型特急車両(通常制限最高速度120km/h)でも140km/h現示まで出せ、新幹線のアナログATCと互換性のあるATC-L形を採用している(ただしJR各社はATCシステムのデジタル化を進めており、北海道新幹線建設後は置き換えられる可能性が高い)。なお、勾配は±15‰以内、カーブ半径もR=6500程度と、新幹線規格の範囲で抑えている。架線電圧は現在は交流20kVであるが、新幹線開業時に25kVに昇圧予定で、貨物列車・夜行列車用には複電圧電気機関車が新規に必要となる。
- 瀬戸大橋線 茶屋町駅~宇多津駅間。但し児島駅~宇多津駅間の鷲羽山トンネルと瀬戸大橋は新幹線と在来線の複々線にできる空間が確保されているだけで、新幹線用の線路は未敷設である。茶屋町駅~児島駅間は一部で勾配やカーブが新幹線規格に適合していない区間があるので、その区間は別途新幹線用の線路が敷設される。
北陸新幹線と九州新幹線鹿児島ルートの一部はスーパー特急方式で着工されたが、後にフル規格に変更された。また、九州新幹線長崎ルートについても一部スーパー特急方式で建設することが検討されている。
その他の路線については、新幹線鉄道規格新線を参照のこと。
[編集] 計画中の路線
整備新幹線も参照の事。
[編集] 着工済
- 北海道新幹線 新青森駅~新函館駅間 148.8km(2015年度開業予定)
- 東北新幹線 八戸駅~新青森駅間 81.2km(2010年度開業予定)
- 北陸新幹線 長野駅~金沢駅~白山総合車両基地間 (2014年度開業予定・えちぜん鉄道の駅舎改良に伴う福井駅の着工を含む)
- 九州新幹線鹿児島ルート 博多駅~新八代駅間 129.9km(2010年度開業予定)
[編集] 次期着工予定
- 九州新幹線長崎ルート 武雄温泉駅~諫早駅間(着工時期未定)
[編集] 未着手区間
- 北海道新幹線 新函館駅~札幌駅間 211.5km
- 北陸新幹線 金沢駅~大阪市間 254km
- 九州新幹線長崎ルート 博多駅~長崎市間 118km(博多駅~新鳥栖駅間は鹿児島ルートと共用)
[編集] 基本計画線
1970年に発布された全国新幹線鉄道整備法に基づき、以下の新幹線が基本計画線として挙げられたが、オイルショックや国鉄の経営悪化などの影響を受けて着工は見送られた。現在でも着工の目処は全く立っていないものの、一部では建設を望む声が根強く残っている。
- 北海道新幹線 札幌市~旭川市間 約130km
- 北海道南回り新幹線 長万部町~札幌市間 約180km
- 羽越新幹線 富山市~青森市間 約560km
- 奥羽新幹線 福島市~秋田市間 約270km
- 中央新幹線 東京都~大阪市間 約480km
- JR東海がリニア新幹線として自力で建設する意向を示しており、2025年に首都圏~中京圏間の開業を目指すとしている。
- 北陸・中京新幹線 敦賀市~名古屋市間 約50km
- 山陰新幹線 大阪市~下関市間 約550km
- 中国横断新幹線 岡山市~松江市間 約150km
- 四国新幹線 大阪市~大分市間 約480km
- 四国横断新幹線 岡山市~高知市間 約150km
- 東九州新幹線 福岡市~鹿児島市間 約390km
- 九州横断新幹線 大分市~熊本市間 約120km
[編集] 未成線
[編集] 新幹線の列車愛称
新幹線の列車愛称はJR東海・西日本が運営している東海道・山陽新幹線では速度別に付けられているが、JR東日本が運営している路線では方向・目的地別に付けられている。E1系・E4系「Max」を使用する場合は列車愛称の前に「Max」が付く。JR東日本の長野新幹線およびJR九州が運営している九州新幹線は単一愛称である。
- 東海道・山陽新幹線
- 「のぞみ」 - 最速列車。料金も下記2種とは別建てとなっている。500系、700系、N700系、まれに臨時で300系が使用される。
- 「ひかり」 - 「のぞみ」の補完列車。当初は大都市駅のみに停車し、各駅停車の「こだま」に対して超特急の代名詞であった。しかし利便性から徐々に乗降客数の少ない駅の停車が増やされ、「のぞみ」が加わった以降では「のぞみ」でも「こだま」(各駅停車)でもない列車という定義になる。山陽新幹線では"ひかりレールスター"と呼ばれる、顧客ニーズに応える形で登場した列車も運行されている。過去には"ウエストひかり"や"グランドひかり"などもあった。「のぞみ」と違い、一部区間が各駅停車となる列車もある。700系、500系、300系が使用される。
- 「こだま」 - 各駅停車の列車。早朝、深夜のものには、時刻表に「普通車全車自由席」や「全車自由席」と書かれたものがある。東海道区間と山陽区間をまたがる「こだま」は存在しない。700系、300系、100系、0系が使われるほか、早朝・夜にひかりレールスター用700系7000番台を使用する列車がある。
- 九州新幹線
- 東北新幹線
- 秋田新幹線
- 「こまち」 - E3系を使用し、盛岡以南は基本的にはやてと併結(一部は秋田〜仙台を単独運転し、仙台ではやてと併結)。
- 山形新幹線
- 「つばさ」 - 400系・E3系を使用し、福島以南は基本的にやまびこと併結(一部は単独運転する)。
- 上越新幹線
- 長野新幹線
また、かつて使われていた列車の愛称として下記のものがある。
- 東北新幹線
- 「あおば」 - 各駅停車の列車。1997年10月1日のダイヤ改正で「なすの」・「やまびこ」へ統合して消滅した。
- 上越新幹線
- 「あさひ」 - 速達型列車(長野新幹線開業後は各駅停車もあった)。「あさま」と名称が紛らわしいため、2002年12月1日のダイヤ改正で「とき」へ改称された。
[編集] 新幹線車両
詳細は新幹線車両を参照
0系や100系など国鉄時代の東海道・山陽新幹線車両では車体の素材に普通鋼が使われていたためやや重かったが、東北・上越新幹線用の200系からは耐雪装備による重量増加を抑えるためアルミニウムが用いられて軽量化が図られた。国鉄民営化後に開発された新幹線車両はアルミニウム車体が一般化、さらにアルミ材の加工手法の発達により、製作費のコストダウンとさらなる軽量化の両立が図られた。この結果、近年の車両は国鉄時代に開発された初期新幹線車両より著しく軽量化されている。
現在の新幹線車両の価格は、1両あたり概ね2~3億円と言われている。なお、新幹線車両の製作を行っているメーカーは現在、日本車輌製造・川崎重工業・日立製作所・近畿車輛(JR西日本のみ)・東急車輛製造(JR東日本のみ)の5社である。
一方で、JR発足以降積極的に行われた高速化に伴い、走行中のパンタグラフと架線の接触や風切り音による騒音の発生や、接触部の著しい消耗などが問題とされた。このため、0系では2両おきに付いていたパンタグラフが300系では8両毎に1つに減ったほか、500系では翼型と呼ばれるT字型の特殊なパンタグラフが設置されるなど改良されて、集電効率も向上した。また、ふくろうの羽ばたく音が他の鳥と比べ静かであることをヒントに、パンタグラフに流線型の突起物を取り付けるなどの改良も加えられた。その他、高速でのトンネルの突入時のトンネル内部の急激な気圧変化による騒音(トンネル微気圧波)の発生を抑えるための、走行時の空気の流動性やトンネル進入時の面積変化率を考えた先端車両の開発などが行われているため、初期の0系に比べ先頭車先端部が長く伸ばされるとともに、通常の電車とは著しく異なった形態(鋭い流線型やカモノハシのような形)を呈する傾向にある。
新幹線においても定期的な車両整備を要する事から、沿線各地には車両基地が置かれている(検査項目についての詳細は鉄道車両の検査を参照の事)。
[編集] 新幹線の歴史
[編集] 新幹線の実現まで
[編集] 戦前における高速鉄道
日本の鉄道は明治時代の草創期にコストの面から狭軌を採用したため、その規格の低さに制約を受け、欧米の鉄道の様な高速運転とは無縁であった。最高速度は1910年代から1950年代まで100km/h以下に留まっていた。
そこで標準軌に改軌する提案も、明治から大正にかけて何度か出されていたが、政争や予算問題などから結局実現しなかった(日本の改軌論争も参照)。
また1910年代には、東京~大阪間に電車による高速新路線「日本電気鉄道」を敷設する計画が民間から出されたが、国の許可するところとならず、実現していない。
日本における現実的な高速列車開発は、日本の勢力下に在った満州(現在の中国東北部)を縦断する南満州鉄道(満鉄)に始まる。同社は日本の資本と技術により運営されており、ほとんどの幹部・技術者が日本人で、実質的に日本の鉄道と言っても過言ではない。
当時の満鉄は電化以前の鉄道で蒸気機関車牽引であったが、1,435mmの国際標準軌(日本では広軌と称した)を用いた高規格路線であり、保守的な日本内地の鉄道省とは一線を画した先進的な試みを早くから行っていた。
1934年、満鉄は自社設計によって当時の欧米の潮流に互した流線形蒸気機関車「パシナ形」を開発、これに新開発の流線形客車編成(全車冷暖房完備)を組み合わせ、大連~新京(現・長春)間701kmに特急「あじあ」号を運転開始した。この列車は最高速度120km/h以上を誇り、最高95km/hに留まる鉄道省の列車を遙かに凌駕した。所要8時間30分、表定速度は82km/hに達した。
とはいえ、当時の欧米の鉄道はさらに上を行っていた。例えばイギリスの London and North Eastern Railway がロンドン~エディンバラ間に運転していた特急列車「フライング・スコッツマン」は、蒸気機関車牽引で最高速度160km/h以上での営業運転を行っており、ドイツ国鉄では気動車列車「フリーゲンダー・ハンブルガー」が150km/h以上の高速で営業運転していた。さらにアメリカの私鉄各社には、定期運転列車を牽引して優に180km/hに達する蒸気機関車さえ存在していたのである。
120km/h運転そのものは、当時の欧米の主要幹線では標準的な水準であり、「あじあ」号の水準はそれに達したものでしかなかった(ただし、冷暖房装置完備は世界の最先端であった)。
この技術が、日本本土の鉄道に直接活かされる事はなかった。しかし同列車の開発関係者には鉄道技術者の島安次郎がおり、その長男の島秀雄と共に後述する「弾丸列車計画」を推し進める事になる。
なお前述した日本電気鉄道のように、民間による大規模な都市間電車は実現しなかったが、中近距離の都市間電車に関しては、新京阪鉄道や阪神急行電鉄、関西急行鉄道、阪和電気鉄道のように、アメリカのインターアーバンの技術を取り入れるなどして、実現させた所もあった。これら路線の多くは、既存の鉄道線と競合する形で敷設されたものとなっており、「(既存の並行線よりも)高規格な路線において、高速運転を行うこと」がその建設目的となっていた。「新しい高規格線を敷く」という意味では、新幹線に通じる所もある。
その中でも、関西急行鉄道は途中での乗り換え(伊勢中川駅)こそあるものの、大阪と名古屋という中距離の2大都市間(当時の営業キロで、189.5km)を電車で結ぶことに成功しており、また阪和電気鉄道は「あじあ」号の水準に匹敵する、表定速度81.6km/hの「超特急」を狭軌路線で運転していた。
これらの私鉄で用いられた電車は、当然ハイレベルな仕様の物が多く(新京阪デイ100形、参急2200系、阪和モヨ100形など)、後述する国鉄における動力分散方式の開発にも、いくらか影響を与えている。
[編集] 弾丸列車計画
詳細は弾丸列車を参照
1930年代に入ると満州事変・日中戦争などによる日本から中国へ向かう輸送需要の激増で、東海道・山陽本線の輸送量も増大した。
この頃鉄道省内部に「鉄道幹線調査会」が設立され、主要幹線の輸送力強化についての検討が行われた。ここから抜本的な輸送力増強手段として1939年に発案されたのが「弾丸列車計画」であった。
これは、東京から下関まで在来の東海道・山陽本線とは別に広軌(1,435mm・標準軌)の新路線を建設し、最高速度200km/hと満鉄「あじあ」号を超える高速運転を行い、東京~大阪間を4時間、東京~下関間を9時間で結ぶ事を計画したものであった。この計画は翌1940年9月に承認され、建設工事が始められる事になった。
既にこの時点で、新しい幹線を引くという事から「新幹線」や「広軌新線」という呼称を内部関係者は用いていた。「新幹線」の語はここが起源だとされている。
また将来的には対馬海峡に海底トンネルを建設して朝鮮半島へ直通、釜山から奉天(現・瀋陽)を通り満州国の首都新京(現:長春)、さらには北京・昭南(現:シンガポール)に至る、という構想も一部では描かれていた。
当時の鉄道はまだ機関車が客車を牽く方式が一般的で、「弾丸列車」も電気機関車と蒸気機関車を併用する方式で計画された。
1941年の太平洋戦争勃発後も工事は続けられ、日本坂トンネル(後に新幹線に利用)などの工事が進展したが、最終的には戦況の悪化で頓挫した。しかし、そのルートの相当部分が後の東海道新幹線建設で役立てられた。特に、土地買収が戦時中の時点で半ば強制的な形で相当な区間において終わっていた事は、新幹線建設をスムーズにした。
この弾丸列車計画の技師たちが居住した地として、静岡県田方郡函南町には「新幹線」という地名が、東海道新幹線の開業前から存在した。
[編集] 動力分散化への流れ
太平洋戦争終結後数年間、鉄道をも含めて混乱の極みにあった日本も、1950年の朝鮮戦争以降本格的に復興し、鉄道の都市間輸送需要も急激に伸張していった。
旧日本軍の研究部門や軍需企業に所属し、戦後その職を失ったり技術を持て余していた優秀な人材を、昭和20年代の国鉄が多数獲得した事は見逃せない事実である。高速走行中の車両の振動や、空力特性の研究は、旧軍出身技術者の存在によって大きく進展した。
1955年に国鉄総裁に就任した十河信二は、国鉄出身の卓越した技術者であるが一時民間に在った島秀雄を再度招聘し、国鉄技師長に就任させた。彼らを中心とする人々が、その後新幹線計画を推進する事になる。
地盤が悪く山がちな日本において列車を高速運転するには、機関車が客車を牽く「動力集中方式」よりも、電車・気動車の様に編成の各車両に動力を持たせる「動力分散方式」の方が適している。カーブや勾配の多い条件でも加減速能力に優れ、また線路への負担が小さいため、脆弱な地盤に敷かれた線路でも高速を出せるからである。当時は蒸気機関車主流の時代であり、また国際的に見ても主流であることから、動力集中式に固執する者の多かった国鉄部内で、例外的に戦前から動力分散方式の特性を理解し、研究して来たのが島秀雄であった。
島は1951年に事情によって国鉄を離れていたが、彼の指揮の下で1950年に開発された東海道線普通列車用の80系は、電車が長距離運転にも優れた特性を発揮するという事実を実証し、その後国鉄の在来線に電車・気動車の普及を進める原動力となった。島の復帰以降、国鉄の動力分散化の流れはさらに加速する。
[編集] 高性能電車の出現
日本では1953年以降、欧米からの新技術移入や国内メーカーの技術開発に伴い、電車の高性能化の動きが始まった。
この過程で、振動を抑制し、乗り心地改善と高速運転に資する「カルダン駆動方式」、床面シャーシだけでなく側板や天井にも応力を分散させた「全金属製軽量車体」、全車両にモーターを搭載して加速力を高める「全電動車方式」、反応速度が速い上に取り扱いが容易な「電磁直通ブレーキ機構」など、それ以前の電車とは一線を画する重要な革新的技術が、1953年からわずか数年の間に実用化されて普及した。
この結果、高速性能・加減速性能に優れ、しかも居住性の良い「新性能電車」が、1954年以降大手私鉄を中心に続々と出現して、大きな技術的成功を収めた。国鉄もこの潮流に乗って高性能電車の開発に取り組み、1957年に新型通勤電車モハ90系(後の101系)を完成させる。
同年に小田急電鉄が完成させた低重心・連接構造の流線型特急電車3000形「SE車」は、アメリカで1941年に開発された高性能連接電車「エレクトロライナー」に影響を受けた設計で、最高速度145km/hを目指した野心作であった。
これに着目した国鉄は、高速走行時の特性に関する研究を目的に、小田急からSE車を借り入れ、1957年9月に東海道本線で速度試験を行った。結果SE車は計画通りの145km/hに到達して当時の狭軌鉄道の世界速度記録を達成した。続いて国鉄は90系通勤電車をギア比変更などで高速化改造、空気抵抗の面で不利な形態ながら135km/hの好記録を達成した。
これらの実績を踏まえて、1958年には90系の技術を応用し、東海道本線特急「こだま号」用に国鉄初の特急形電車モハ20系(後の151系)が開発された。流線型の軽量・低重心な車体は冷暖房完備で、空気バネ台車も装備し、スピードと快適な乗り心地を両立させて、動力集中方式の客車列車を完全に凌駕した。翌1959年7月には、東海道本線での速度試験で最高速度163km/hに達し、SE車の速度記録を更新した。
これらの電車における顕著な成績は、動力分散方式の資質を実証し、ひいては新幹線車両に電車を用いる事への強力な裏付けとなった。
また1955年から国鉄は交流電化方式の実用化に独自に取り組み、1957年の北陸本線を皮切りに、地方線区での交流電化を開始していた。これ自体は従来の直流電化に比べ、地上設備コストが低いと考えられたことによるものであったが、後に新幹線の電化システムに応用されることになる。超高速の電気鉄道においては大量の電力消費が生じ、これを架線から効率よく集電するには、従来から用いられて来た1,500Vの直流電源より、高圧交流電源を用いる方が適していたのである(日本の鉄道の交流電化方式は在来線20kV、新幹線25kV)。
[編集] 新幹線建設へ
これに先立ち、戦後の復興と共に鉄道及び道路輸送の需要が増大すると、当時の日本における最重要幹線であった東海道本線の貨客輸送能力は、ほぼ限界に達していた。1956年に東海道本線の全線電化が完成するが、需要の増加には焼け石に水であった。
1957年、国鉄内部の「幹線調査会」は、東海道線の輸送力飽和は早晩必至とし、現在線以外の線路増設が必要であると答申した。実際の手法として様々の案が出されたが、特に有力だったのは以下の案だった。
- 現在線に沿って線路を増設、複々線とする。
- 別ルートで狭軌新線を建設する。
- 別ルートで広軌新線を建設する。
結局東海道の線増計画は、従来の常道であれば複々線案が採られたところであるが、十河ら国鉄幹部は将来の発展性を視野に入れ、あえて困難の多い広軌新線を建設する事としたのである。それは戦前の弾丸列車計画を、戦後の技術革新の下で、改めて実現しようとする超高速列車計画であった。
同年5月25日には鉄道技術研究所(現:鉄道総合技術研究所)が、広軌新線ならば東京~大阪間の3時間運転は技術的に可能であるという報告を創立50周年記念講演会で述べた。十河総裁はその話を聞くや強い関心を示し、国鉄幹部を集めて技術研究所員に詳細を話させたという。
当時欧米では、将来の大量輸送手段として航空機と高速道路網による高速輸送が有望視され、鉄道はそれらに取って代わられる時代遅れのものだという見解が広まっていた。日本でもこれを範としようとする向きが一般的であり、在来線とは別規格の高速新線を建設するというプランは、国鉄内部でさえも疑問視する者が多かった。
鉄道ファンでもある作家の阿川弘之ですら、戦艦大和(大和型戦艦)・万里の長城・ピラミッドが「世界三大馬鹿」であり、この時期に莫大な投資をして新幹線を造れば「第2の戦艦大和」となって世界の物笑いの種になると批判した(後に阿川は新幹線が世界の鉄道斜陽論を覆すに至るまでの成功を収めたのを見て、十河の跡を継いで国鉄総裁を務めた石田禮助との対談において、自らの不明を悔やむ発言をしている)。
その様な厳しい状況下で、十河と島は東海道に新たな大規模高速輸送用の鉄道路線(新幹線)を実現すべく政治的活動(十河が担当)と、技術的プロジェクト(島らが担当)を続けた。
技術的裏付けの下、1958年に建設計画が承認され、翌1959年4月20日に起工式が行われた。総工費は当初予定から修正され、3,800億円にまで膨らんだ。元々十河などが国会内での承認を取るために安く見積もっていたこと、さらには新幹線建設に集中するために地方路線建設の陳情を蹴っていた事で国会議員の不興を買っていた事もあって国会で責任問題に発展。十河と島は新幹線開業前に責任を取る形で国鉄を退職する事になる。
1961年5月1日に国鉄はこのプロジェクトに対し、世界銀行から8,000万ドル(当時は1ドル=360円の固定相場制)の融資を受けたが、1964年までに完成させるという厳しい条件が付けられた(この融資は1981年に返済が完了した)。
その建設に関しては前述の通り、戦前の「弾丸列車計画」の際に掘られたトンネルや、買収された用地の多くが活用された。5年という短期間で完成したのは、このときの用地買収及び工事があったからだともいわれている。また京都府では、完成した新幹線の線路を高架工事中の仮線として用いて、暫定的に阪急京都本線の電車を走らせていたこともあった(→新幹線の線路を先に走った阪急電車)。
[編集] 鴨宮モデル線区
1962年には神奈川県小田原市近郊に鴨宮モデル線区(小田急線高座渋谷駅付近~東海道線鴨宮付近)が完成した。ここが試験地域に選ばれた理由は以下の通りである。
- 戦前の弾丸列車構想に際してすでに用地を取得しており、早い時期に着工する事が可能である。
- 直線・カーブ・トンネル・鉄橋と、線形や地上設備のシチュエーションが一通り揃っており、データ収集が容易である。
- 鴨宮付近では東海道本線と隣接しており、車両・資材などの搬入に便利である。
- 鉄道技術研究所からも近く、問題が発生した時も対処が容易である。
ここで2編成の試作電車「1000形」が走行テストを繰り返した。2両編成の「A編成」(1001・1002)と、4両編成の「B編成」(1003~1006)が製造され、台車や車内設備、窓形状などに差異を付けて比較材料としている。
試験中の1963年3月20日、1000形B編成は256km/hの国内速度記録を達成している。
鴨宮モデル線区での研究は、初代新幹線電車となる0系や、線路設備の開発に活かされる事になった。
しかし、この鴨宮モデル線区にはある欠点があった。相模湾に近く、冬でも比較的温暖な鴨宮では、降雪時の高速運転を想定した試験データは十分に得られなかったのである。
東海道新幹線の名古屋~新大阪間経路は、当初計画した鈴鹿山地経由ルートが費用や技術、工期の制約から断念され、東海道本線同様に関ヶ原を経由するルートに変更されていた。
関ヶ原周辺は谷間で標高も高く、冬期には激しい降雪のある地域でもある。この様な区間を冬期に高速列車で通過する状況の研究が、開業前には十分に行えなかった。このことは、1964年の開業後初めての冬期に関ヶ原での着雪による車両故障を頻発さ