朝鮮半島
朝鮮半島(ちょうせんはんとう)は、ユーラシア大陸の中緯度の東端に位置する半島。
陸地の幅が最も狭くなるのは平壌のやや北の平安南道 - 咸鏡南道だが、朝鮮半島と言った場合、かなり北の、中朝国境より南を指すのが普通である。また、済州島を含めた朝鮮地域全体を指して用いられることも多い。このように、自然地形の名称というよりは、政治的・文化的・歴史的な文脈で、朝鮮の同義語として使われることが少なくない。 大韓民国における呼称は韓半島。
地理[編集]
ユーラシア大陸から日本列島の九州に向かうような形をしている。東側を日本海、西側を黄海、南側の日本とは対馬海峡西水道(朝鮮海峡)にて隔てられている。北端は一般的には朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)と中華人民共和国の境界、すなわち鴨緑江と豆満江及び白頭山山頂とされる。
朝鮮半島は中国大陸と同じく中国地塊に属する安定大陸(安定陸塊)で、先カンブリア時代に原型ができていたと考えられる。非常に古く安定した大地のため、付近に断層などはなく、よって地震も非常に少ない。火山も少ない。
朝鮮半島全体の面積は、日本の本州(227,900km²)よりもやや小さく、イギリスのグレートブリテン島(216,800km²)よりもやや大きい219,000km²である。
黄海に面した西側は平野が多く、農地に適している。一方、日本海に面した東側は太白山脈をはじめ多くの山地がそびえており、平地は非常に少ない。特に北部は海抜1,000mを越える山地となっており、農業には不向きである(白頭山付近は2,000mを上回る)。
朝鮮半島の気候は、南部においては温暖で湿潤な温帯で夏は蒸し暑く、冬は緯度の割りには寒い。北部は亜寒帯から寒帯であり、山地が多いため夏も冷涼で冬の寒さは大変厳しい。同緯度の地域と比較しても、高地を除くと世界で最も亜寒帯が南下している地域である。西部は対馬海流の支流が黄海に流れ込むので比較的暖かいが、東部は対馬海流が日本海北部で冷やされて南下しており(リマン海流)、寒さに拍車を掛ける。朝鮮半島最寒の地とされるのは、鴨緑江上流の中江鎮である。北朝鮮の統治地域であるが、韓国の新聞の天気予報にも最低気温の予想が掲載される。
朝鮮戦争によって生じた軍事境界線を中心とした幅4kmの非武装地帯は地雷原のため、民間人は立ち入ることができない。そのため、渡り鳥などが集まる世界有数の野生生物の生息地となっている。
住民[編集]
中国の史書によると、3世紀頃には朝鮮半島北部や東北部沿岸には夫余諸族、南部には韓族が住み、西北部は漢や魏などの郡が置かれて移民の漢族も住んでいた。4世紀頃には高句麗領に夫余族の高句麗人が、百済に百済人(支配層は夫余族、被支配層は韓族)が、新羅・伽耶に韓族の新羅人と伽耶人が住み、7世紀、新羅により統一されると民族統合は進むが、半島北部の鴨緑江南岸と豆満江南岸一帯には高句麗継承を掲げる渤海人(渤海人は夫余系の高句麗遺民と靺鞨人の一派である粟末靺鞨人の混血である)が住んでいた。
10世紀に新羅を滅ぼした高麗は渤海から亡命してきた王族や貴族を受け入れて鴨緑江沿岸と豆満江付近まで勢力を広げ、渤海が滅びると渤海遺民を受け入れて朝鮮半島の大部分が高麗人の住む土地となった。しかしその後、ツングース系エベンギ族の金朝の南下とモンゴル帝国の侵攻により、鴨緑江と豆満江一帯は再び民族混住地域となった。
14世紀、高麗は元の北走後、鴨緑江と豆満江まで勢力を回復し、高麗に代わって建国した李氏朝鮮の初期の頃までに豆満江一帯のツングース系エベンギ族は朝鮮に同化されたと見られ、これにより朝鮮半島のほぼ全域が朝鮮民族の住む土地となった。
1910年の韓国併合により、日本本国(内地)から日本人が朝鮮半島に移り住み、都市部を中心に住んでいた。日本による朝鮮半島の統治は1945年まで続いた。この時期における日本人の朝鮮半島全人口に占める割合は3%ほどであった。
韓国が水車を制作する歴史[編集]
- 1429年 - 世宗11年12月3日 日本の水車が凄いと報告
- 1430年 - 世宗12年9月27日 水車を造ろうとする
- 1431年 - 世宗13年5月17日 「中国も日本も水車の利を得ているが我が朝鮮にはそれがない」
- 1431年 - 世宗13年11月18日 日本と中国の水車の研究の記述が散見
- 1431年 - 世宗13年12月25日 水車導入を試みる
- 1451年 - 文宗元年11月18日 20年かけて水車の導入失敗
- 1488年 - 成宗19年6月24日 水車導入の試み(成否不明)
- 1502年 - 燕山君8年3月4日 水車導入の試み(成否不明)
- 1546年 - 明宗元年2月1日 水車導入の試み。琉球(沖縄)と中国から福建式水車輸入
以後百年間水車の記述無し。一方お隣り日本では、鉄砲伝来後3年目にはすでに量産体制。
その後30年記述無し。一方お隣りの日本では、鉄砲量産10万丁
そして70年記述無し
- 1740年 - 英祖16年4月5日水車など無くなる『孝宗大王嘗頒遼瀋水車之制於外方, 今無見存者』
- 1740年 - 英祖16年11月20日 水車を造らせたと記述(18世紀時点でわざわざ記録に残す程?)
- 1764年 - 1763-64年の朝鮮通信使「日東壮遊歌」(淀城の水汲み水車の感想)「その仕組みの巧妙さ見習って作りたいくらいだ」と記述
- 1781年 - 一方お隣り日本では、水車があまりにも増えすぎて治水工事のジャマなので、水車税を導入(田沼意次)
- 1795年 - 正祖19年2月18日 水車之制について盛んに出てくる。つまりまだ試作中
- 1811年 - 純祖11年3月30日 ここの記述で水車なんか必要なのか?と書かれており全く普及していない