スペイン
目次
国名[編集]
正式名称は特に定められていないが、1978年憲法ではスペイン語で、エスパーニャ、エスタード・エスパニョールなどが用いられている。レイノ・デ・エスパーニャも用いられることがある。
日本語の表記はそれぞれ、スペイン、スペイン国、スペイン王国。これは英語のSpainに基づく。漢字で西班牙と表記し、西と略す。ただし、江戸時代以前の日本においては、よりスペイン語の発音に近いイスパニアという呼称が用いられていた。
スペインは、国王を元首とする王国であるが、スペイン1978年憲法では、それまでの憲法では明記されていた国号は特に定められていない。憲法で国号が定められなかったのは、君主制は維持するものの、その位置付けは象徴的な存在に変わり、国を動かすのは国民によって選ばれた議会が中心になることを明確化するためにとられた措置であった。
歴史[編集]
スペインの歴史参照
先史時代から前ローマ時代[編集]
アタプエルカ遺跡の考古学的研究から120万年前にはイベリア半島に人類が居住していたことが分かっている。3万5000年前にはクロマニョン人がピレネー山脈を越えて半島へ進出し始めている。有史以前の最もよく知られた遺物が北部カンタブリア州のアルタミラ洞窟壁画で、これは紀元前1万5000年の物である。
この時期の半島には北東部から南西部の地中海側にイベリア人が、北部から北西部の大西洋側にはケルト人が住んでいた。半島の内部では2つの民族が交わりケルトイベリア文化が生まれている。またピレネー山脈西部にはバスク人がいた。アンダルシア地方には幾つものその他の民族が居住している。南部の現在のカディス近くにはストラボンの『地理誌』に記述されるタルテッソス王国(紀元前1100年頃)が存在していたとされる。
紀元前500年から紀元前300年頃にフェニキア人とギリシャ人が地中海沿岸部に植民都市を築いた。ポエニ戦争の過程でカルタゴが一時的に地中海沿岸部の大半を支配したものの、彼らは戦争に敗れ、ローマ人の支配に代わった。
ローマ帝国とゲルマン系諸王国[編集]
ヒスパニア参照
紀元前202年、第二次ポエニ戦争の和平でローマは沿岸部のカルタゴ植民都市を占領し、その後、支配を半島のほぼ全域へと広げ属州ヒスパニアとなり(帝政期にヒスパーニア・タラコネンシス、ヒスパーニア・バエティカ、ルシタニアの3州に分割)、法と言語とローマ街道によって結びつけられ、その支配はその後500年以上続くことになる。原住民のケルト人やイベリア人はローマ化されてゆき、部族長たちはローマの貴族階級に加わった。ヒスパニア州はローマの穀倉地帯となり、港からは金、毛織物、オリーブオイルそしてワインが輸出された。キリスト教は1世紀に伝えられ、2世紀には都市部に普及した。現在のスペインの言語、宗教、法原則のほとんどはこの時期が原型となっている。
ローマの支配は409年にゲルマン系スエビ族、ヴァンダル族、サルマタイ系アラン族が、それに続いて西ゴート族が侵入して終わりを告げた。410年頃、スエビ族はガリシアと北部ルシタニア(現ポルトガル)の地にスエビ族のガリシア王国 を建て、その同盟者のヴァンダル族もガリシアからその南方のドウロ川にかけて王国を建てている。415年頃、西ゴート族が南ガリアに西ゴート王国を建て、418年頃に最終的にヒスパニア全域を支配した。552年、東ローマ帝国もジブラルタル海峡の制海権を求めて南部に飛び地のスパニアを確保してローマ帝国再建の手がかりにしようとした。
イスラームの支配[編集]
アンダルス参照
711年、西ゴート王国は北アフリカから侵入したウマイヤ朝とのグアダレーテの戦いで敗れて718年に滅び、イベリア半島のほとんどがイスラーム勢力に征服された。イスラームに征服された半島はアンダルスと呼ばれる。半島北部の一部(現在のアストゥリアス州、カンタブリア州、ナバーラ州そして 北部アラゴン州)のみが征服を逃れて幾つかの小王国を築き、やがてレコンキスタ(再征服運動)を始めることになる。
イスラームの支配下ではキリスト教徒とユダヤ教徒は啓典の民として信仰を続けることが許されたが、ズィンミー(庇護民)として差別を受けた。イスラームへの改宗が進み、10世紀頃のアンダルスではムデハル(イベリア半島出身のムスリム)が住民の大半を占めていたと考えられている。
半島のイスラーム社会自体が緊張に取り巻かれており、北アフリカのベルベル人が侵入してアラブ人と戦い、多くのムーア人がグアダルキビール川周辺を中心に沿岸部のバレンシア州、山岳地域のグラナダに居住するようになっている。
カリフが住まう首都コルドバは当時西ヨーロッパ最大都市で、最も豊かかつ洗練した都市であった。地中海貿易と文化交流が盛んに行われ、ムスリムは中東や北アフリカから先進知識を輸入している。そして、新たな農業技術の導入により、農業生産が著しく拡大した。
だが、11世紀に入るとイスラームの領域は互いに対立するタイファ諸王国に分裂してしまい、小規模だったキリスト教諸国が大きく領域を広げる契機となった。北アフリカから侵入したムラービト朝とムワッヒド朝が統一を取り戻し、北部へ侵攻したもののキリスト教諸国の勢力拡大を食い止めることはできなかった。
イスラーム支配の終焉と統一[編集]
詳細はレコンキスタ参照
レコンキスタ(再征服運動:Reconquista)は数百年にわたるスペイン・キリスト教諸国の拡大であった。レコンキスタは722年のコバドンガの戦いに始まると考えられ、イスラームの支配時期と同時に進行していた。キリスト教勢力の勝利によって北部沿岸山岳地域にアストゥリアス王国が建国された。イスラーム勢力はピレネー山脈を越えて北方へ進軍を続けたが、トゥール・ポワティエ間の戦いでフランク王国に敗れた。その後、イスラーム勢力はより安全なピレネー山脈南方へ後退し、エブロ川とドウロ川を境界とする。739年にはイスラーム勢力はガリシアから追われた。しばらくのちにフランク軍はピレネー山脈南方にキリスト教伯領(スペイン辺境領)を設置し、後にこれらは王国へ成長した。これらの領域はバスク国、アラゴンそしてカタルーニャを含んでいる。
アンダルスが相争うタイファ諸王国に分裂してしまったことによって、キリスト教諸王国は大きく勢力を広げることになった。1085年にトレドを奪取し、その後、キリスト教諸国の勢力は半島の北半分に及ぶようになった。12世紀にイスラーム勢力は一旦は再興したものの、13世紀に入り、1212年のラス・ナバス・デ・トロサの戦いでキリスト教連合軍がムワッヒド朝のムハンマド・ナースィルに大勝すると、イスラーム勢力の南部主要部がキリスト教勢力の手に落ちることになった。1236年にコルドバが、1248年にセビリアが陥落し、グラナダ王国が朝貢国として残るのみとなった。
13世紀と14世紀に北アフリカからマリーン朝が侵攻したが、イスラームの支配を再建することはできなかった。13世紀にはアラゴン王国の勢力は地中海を越えてシチリアに及んでいた。この頃にヨーロッパ最初期の大学であるバレンシア大学(1212年/1263年)とサラマンカ大学(1218年/1254年)が創立されている。1348年から1349年の黒死病大流行によってスペインは荒廃した。
1469年、イサベル女王とフェルナンド国王の結婚により、カスティーリャ王国とアラゴン王国が統合される。再征服の最終段階となり、1478年にカナリア諸島が、そして1492年にグラナダが陥落した。これによって、781年に渡ったイスラーム支配が終了した。グラナダ条約 (1491年)ではムスリムの信仰が保障されている。この年、イサベル女王が資金を出したクリストファー・コロンブスが新世界に到達している。またこの年にスペイン異端審問が始まり、ユダヤ人に対してキリスト教に改宗せねば追放することが命ぜられた。その後同じ条件でムスリムも追放された。
イサベル女王とフェルナンド国王は貴族層の権力を抑制して中央集権化を進め、またローマ時代のヒスパニア(Hispania)を語源とするエスパーニャ(España)が王国の総称として用いられるようになった。政治、法律、宗教そして軍事の大規模な改革が行われ、スペインは史上初の世界覇権国家として台頭することになる。
スペイン帝国[編集]
スペイン帝国参照
1516年、ハプスブルク家のカール大公がスペイン王カルロス1世として即位し、スペイン・ハプスブルク朝が始まる。1519年に神聖ローマ皇帝カール5世としても即位する。
16世紀前半にエルナン・コルテス、ペドロ・デ・アルバラード、フランシスコ・ピサロをはじめとするコンキスタドーレスがアステカ文明、マヤ文明、インカ文明などアメリカ大陸の文明を滅ぼす。アメリカ大陸の住民はインディオと呼ばれ、奴隷労働によって金や銀を採掘させられ、ポトシやグアナフアトの銀山から流出した富はオスマン帝国やイギリスとの戦争によってイギリスやオランダに流出し、ブラジルの富と共に西ヨーロッパ先進国の資本の本源的蓄積の原初を担うことになった。これにより、以降5世紀に及ぶラテンアメリカの従属と低開発が規定された。
スペイン帝国は南アメリカ、中央アメリカの大半、メキシコ、北アメリカの南部と西部、フィリピン、グアム、マリアナ諸島、北イタリアの一部、南イタリア、シシリー、北アフリカの幾つかの都市、現代のフランスとドイツの一部、ベルギー、ルクセンブルク、オランダを領有していた。また、1580年にポルトガル王国のエンリケ1世が死去しアヴィシュ王朝が断絶すると、以後スペイン王がポルトガル王を兼ねている。植民地からもたらされた富によってスペインは16世紀から17世紀のヨーロッパにおける覇権国的地位を得た。
カール5世(1516年 - 1556年)とフェリペ2世(1556年 - 1598年)の治世が最盛期で、スペインは初めての「太陽の没することなき帝国」となった。海上と陸上の探検が行われた大航海時代であり、大洋を越える新たな貿易路が開かれ、ヨーロッパの植民地主義が始まった。探検者たちは貴金属、香料、嗜好品、新たな農作物とともに新世界に関する新たな知識をもたらした。この時期はスペイン黄金世紀と呼ばれる。
この時期にはイタリア戦争(1494年 - 1559年)、コムネロスの反乱(1520年 - 1521年)、ネーデルラントの反乱(八十年戦争)(1568年 - 1648年)、モリスコの反乱(1568年)、オスマン・ハプスブルグ戦争(レパントの海戦, 1571年)、英西戦争(1585年 - 1604年)、モリスコ追放(1609年)、そしてフランス・スペイン戦争 (1635年-1659年)(1635年 - 1659年)が起こっている。
16世紀末から17世紀にかけて、スペインはあらゆる方面からの攻撃を受けた。急速に勃興したオスマン帝国と海上で戦い、イタリアやその他の地域でフランスと戦火を交えた。更に、プロテスタントの宗教改革運動との宗教戦争の泥沼にはまり込む。その結果、スペインはヨーロッパと地中海全域に広がる戦場で戦うことになった。
1588年のアルマダの海戦で無敵艦隊が英国に敗れて弱体化を開始する。三十年戦争(1618年 - 1648年)にも部隊を派遣。白山の戦いの勝利に貢献し、ネルトリンゲンの戦いでは戦勝の立役者となるなど神聖ローマ皇帝軍をよく支えた(莫大な財政援助も行っていた)。しかしその見返りにスペインが期待していた皇帝軍の八十年戦争参戦やマントヴァ公国継承戦争への参戦は実現しなかった。戦争の終盤にはフランスに手痛い敗北を受けている。これらの戦争はスペインの国力を消耗させ、衰退を加速させた。
1640年にはポルトガル王政復古戦争によりポルトガルが独立し、1648年にはオランダ共和国独立を承認、1659年にはフランス・スペイン戦争を終結させるフランスとのピレネー条約を不利な条件で締結するなど、スペインの黄金時代は終わりを告げた。
18世紀の初頭のスペイン継承戦争(1701年 - 1713年)が衰退の極みとなった。この戦争は広範囲の国際紛争になったとともに内戦でもあり、ヨーロッパにおける領土の一部と覇権国としての地位を失わせることとなる。しかしながら、スペインは広大な海外領土を19世紀初めまで維持拡大し続けた。
この戦争によって新たにブルボン家が王位に就き、フェリペ5世がカスティーリャ王国とアラゴン王国を統合させ、それまでの地域的な特権を廃止し、2国で王位を共有していたスペインを真に一つの国家としている。
18世紀には帝国全域において再建と繁栄が見られた。ブルボン王朝はフランスの制度を導入して行政と経済の近代化を行い、また啓蒙思想が一部の貴族や王家の中で地歩を築くようになっていた。世紀の終わりには貿易が急速に成長し、アメリカ独立戦争への独立派への軍事援助で国際的地位を向上させている。
斜陽の帝国[編集]
1793年、スペインは革命を起こしたフランス共和国との戦争(フランス革命戦争)に参戦したが、戦場で敗れて和平を結んだ。その後、スペインはフランスの衛星国となってしまいイギリス、ポルトガルに宣戦布告し、フランス海軍とともにトラファルガー海戦を戦ったがイギリスに惨敗している。戦争とその他の要因で経済が崩壊状態になり、フェルナンド7世が退位させられ、ナポレオンの兄のジョゼフが即位した。
この外国の傀儡国王は恥辱とみなされ、1808年3月にマドリードで反乱が発生する。これが全土へ広がり、いわゆるスペイン独立戦争に突入する。ナポレオンは自ら兵を率いて介入し、連携の悪いスペイン軍とイギリス軍を相手に幾つかの戦勝を収めるものの、スペイン軍のゲリラ戦術とウェリントン率いるイギリス・ポルトガル軍を相手に泥沼にはまり込んでしまう。その後のナポレオンのロシア遠征の破滅的な失敗により、1814年にフランス勢力はスペインから駆逐され、フェルナンド7世が復位した。
フランスの侵略はスペインの経済に破滅的な影響を及ぼし、その後の1世紀に及ぶ政治的不安定と分裂をもたらすことになった。1825年にシモン・ボリーバルをはじめとするリベルタドーレスの活躍によってボリビアが独立し、キューバとプエルトリコ以外の全てのアメリカ大陸の植民地を失った。
19世紀のスペインは政治的不安定と経済的危機にあり、史上初の共和制移行(スペイン第一共和政)も起こったが、短期間で王政復古した。この最中にフィリピンとキューバで独立運動が発生した。これらの植民地の独立戦争にアメリカが介入する(米西戦争)。1898年に開戦したこの戦争では、スペイン軍は幾つかの部隊では善戦が見られたものの、高級司令部の指揮が拙劣で短期間で敗退してしまった。この戦争は"El Desastre"(「大惨事」)の言葉で知られている。
スペイン内戦終結まで[編集]
スペインはアフリカ分割では僅かな役割しか果たさず、スペイン領サハラ(西サハラ)とスペイン領モロッコ(モロッコ)、スペイン領ギニア (植民地)(赤道ギニア)を獲得しただけだった。モロッコでのリーフ戦争で大損害を出し、国王の権威は更に低下した。ミゲル・プリモ・デ・リベラ将軍の愛国同盟(後にファランヘ党に吸収)による軍事独裁政権(1923年 - 1931年)を経て、1931年にアルフォンソ13世が国外脱出して君主制が崩壊し、スペイン第二共和政が成立した。共和国はバスク州、カタルーニャ州そしてガリシア州に自治権を与え、また女性参政権も認められた。
だが、左派と右派との対立は激しく、政治は混迷を続け、1936年に人民戦線政府が成立すると軍部が反乱を起こしスペイン内戦が勃発する。3年に及ぶ内戦はナチス・ドイツとイタリア王国の支援を受けたフランシスコ・フランコ将軍が率いる反乱軍が勝利した。この内戦によってスペインは甚大な物的人的損害を被り50万人が死亡 、50万人が国を捨て、社会基盤が破壊され国力は疲弊しきってしまっていた。
フランコ独裁政権[編集]
1939年4月1日から1975年11月22日まで、スペイン内戦の終結からフランシスコ・フランコの死去までの36年間は、フランコ独裁下のスペイン国 (1939年-1975年)の時代であった。
フランコが結成したファランヘ党(1949年に国民運動に改称)の一党独裁となり、党は反共主義、カトリック主義、ナショナリズムを掲げた。第二次世界大戦ではフランコ政権は枢軸寄りではあったが中立を守った。
第二次世界大戦後、ファシズム体制のスペインは政治的、経済的に孤立し、1955年まで国際連合にも加入できなかった。だが、冷戦の進展とともにアメリカはイベリア半島への軍事プレゼンスの必要性からスペインに接近するようになり状況は緩和した。
王政復古から現在[編集]
1975年11月22日にフランコ将軍が死ぬと、その遺言により フアン・カルロス王子(アルフォンソ13世の孫)が王座に就き、王政復古がなされた。フアン・カルロス国王は専制支配を継続せず、スペイン1978年憲法が成立して民主化がなされ、スペイン王国は制限君主制国家となった。1981年には軍政復帰を目論む一部軍人によるクーデターが発生したものの、軍部の大半は王に忠誠を誓い、無血で鎮圧された。
民主化されたスペインは1982年にNATOに加入、同年にはスペイン社会労働党 (PSOE) が政権に就き43年ぶりの左派政権が誕生している。1986年にはヨーロッパ共同体(現在の欧州連合)に加入。1992年にはバルセロナオリンピックを開催した。一方、国内問題も抱えており、スペインはバスク分離運動のETAによるテロ活動に長年悩まされている。
21世紀に入ってもスペインは欧州連合の平均を上回る経済成長を続けているが、住宅価格の高騰と貿易赤字が問題となっている。
2002年、ペレヒル島危機が起こり、モロッコとの間で緊張が高まったが、アメリカの仲裁で戦争には至らなかった。 2004年3月11日にイスラーム主義者の犯行によるスペイン列車爆破事件が起き、多数の死傷者を出した。この対応を巡って政治問題となり、右派アスナール政権が倒れ、社会労働党のサパテロ政権に代わっている。
ユーロ危機から国家破綻危機へ[編集]
正念場のスペイン、救済は避けられるか(2012年6月)[編集]
発足して半年足らずのマリアノ・ラホイ首相率いるスペインの中道右派政権が、一時は回避できると確信していた政治・金融の大惨事の可能性に直面している。ギリシャやアイルランド、ポルトガルといったユーロ参加国に既に提供されている、国際社会による屈辱的な救済措置を受ける可能性が浮上している。
ラホイ首相に三つの選択肢[編集]
昨年の総選挙で社会労働党に圧勝してから経済改革プログラムを打ち出した国民党のラホイ首相は先週末に参加した会合で、不安を募らせている財界人に自信を取り戻してもらおうと次のように語りかけた。スペインは「断がい絶壁の縁に立っているわけではない」「楽な状況ではないが、この世の終わりの前夜というわけでもない」と述べた。
しかしラホイ首相は今後数週間、場合によっては数日のうちに、スペインの将来の経済的繁栄を守ると同時にユーロ圏内で生き残る方法を選択しなければならない。資本が国外に逃げ出し、スペイン国債の利回りも持続不可能な高水準に近づいている(10年債の利回りは6月1日には6.5%を超えていた)ことから時間的な余裕はない。
ラホイ首相の選択肢は主に3つあると考えられるが、スペインが特に喜びそうなものは1つもなく、3つともスペイン、欧州、そして世界の経済をリスクにさらす。しかし、それぞれがもたらす政治的・経済的な結果は明らかに異なったものになる。
全面的な救済には4000億ユーロ超必要[編集]
(1)全面的な国際的救済措置。ラホイ政権は欧州連合(EU)の諸機関や国際通貨基金(IMF)による正式な救済を何としても回避したいと考えている。介入はそれ自体屈辱であり、厳しい緊縮財政を義務づけられる可能性も高いことから、救済を受ければ国民党の信用が失墜し、数十年は政権から遠ざかってしまうという恐怖心がある。
他の欧州諸国もスペインには債券市場にとどまってほしいと考えており、そのようなドラスチックなやり方は歓迎しない。既に救済された3国については介入の必要性を認めていたが、スペインの経済規模はそれらの合計よりはるかに大きい。
スペインを救済するとなればEUの資源を限界まで使うことになる。一方でイタリアやベルギー、さらにはフランスでさえ支援が必要ではないかとの疑問が生じ、ユーロそのものの存続が脅かされる。
ロイヤル・バンク・オブ・スコットランド(RBS)のアナリストの試算によれば、スペイン救済のコスト(苦境に陥った銀行の資本増強、財政赤字の補てん、既存のソブリン債務の借り換えなどに必要な資金)は2014年末までの合計で4090億~4550億ユーロに達する。これに対し、今年7月1日以降に設立される予定の欧州安定メカニズム(ESM)に利用できる資金は計5000億ユーロだ。「イタリアは、事態の推移をはらはらしながら見守るだろう」とRBSは語った。
条件なしの銀行救済を求める[編集]
(2)「軽め」の救済措置。これが最も有力なシナリオで、現在も様々なバージョンがスペイン政府、EU本部、欧州中央銀行(ECB)、ドイツ政府で検討されている。EUの資金を使ってスペインの銀行の自己資本を増強するのがポイントで(現行規則では、資金はスペイン政府経由で分配されなければならない)、ECBの国債買い入れも併せて再開する可能性がある。
7つの貯蓄銀行が合併してできた大手銀行バンキアを国有化し、赤字の同行には190億ユーロの資本の追加注入が必要と発表したスペイン政府は、銀行システムを救う資金を外部から調達しなければならないことは認識している。国債市場での調達が難しくなっているからだ。
ただしスペイン政府は、他国で政権を崩壊させた「コンディショナリティー(条件)」をほとんど課されずに、救済パッケージについて合意できそうだと期待している。「介入や、トロイカ(欧州委員会、ECB、IMF)からの条件を課されずに、資金だけ手に入れるにはどうすればよいかが焦点になる」。マドリード在勤の経済アナリスト、ロレンソ・ベルナルド・デ・キロス氏はこう指摘する。
この選択肢の利点は、欧州の資金の短期的な活用は全面的な救済より実行しやすいことだ。ただし、スペインの銀行に必要な追加資本の試算は300億ユーロから1000億ユーロを優に上回る額まで幅広い。
スペインの政府高官らは無条件のEU基金を要求し、スペインでデフォルト(債務不履行)が生じた場合に最も大きな打撃を受けるのはスペインの債権者、つまりドイツとフランスの銀行だとまでほのめかしてEUとドイツの当局者を怒らせた。
EUとドイツの関係者は動じていない様子で、無条件の支援策はないと話している。もっともEUは、実際にはスペインがまだ手掛けていないことをいくつも要求することはないだろうとも語っている。
「静観」戦略はうまくいかない[編集]
(3)何もせず静観。スペインの財務省は大胆にも6月7日に国債入札を実施すると発表した。スペイン政府内には我慢が大事だと考える向きがある。この見方によるとスペインは銀行改革、労働改革、財政改革をはじめ、長期的に経済を健全な状態に戻すために必要なことはほぼすべてやっており、高い金利を払ってでも、今後数カ月間のために蓄えなければならないという。
財務省が今年、差し迫った資金需要よりも多めに借り入れてきたことや、輸出業者が堅調なこと、5年前には国内総生産(GDP)比10%の赤字だった経常収支が均衡に向かいつつあることは、助けになるだろう。
しかし今、この戦略がうまくいくと考えるエコノミストや投資家はほとんどいない。経済があまりに悲惨な状況にあるため、政府はEUと合意した財政目標を達成できそうにないからだ。ベルナルド・デ・キロス氏は、GDP比5.3%を目標としている今年の財政赤字が同7%に達する一方、GDP自体が2%縮小すると予想している。
失業問題は既に労働人口の4分の1を苦しめており、失業者数は600万人に迫りつつある。6月1日に発表されたマークイットの購買者担当者指数は、5月の製造業の経営環境が、リーマン・ブラザーズ破綻後の危機のどん底だった2009年5月以来、最も急激な悪化を見せたことを示していた。
ギリシャ、そしてギリシャほどでないにせよアイルランドとポルトガルと同様、成長のない緊縮は、政権の座にある人間にとって政治的に有害であり、財政の安定を取り戻すのに役立つかどうか疑わしい。
10年債利回りが6.857%と過去最高、銀行支援懸念(2012年6月)[編集]
6月12日のユーロ圏金融・債券市場では、合意されたスペインの銀行支援策をめぐる懸念から同国の国債利回りが上昇し、10年債利回りは6.857%と過去最高を更新した。
スペイン国債は短期債から長期債にわたり利回りが上昇。10年債利回りは前日比25ベーシスポイント(bp)上昇し、前年11月につけたこれまでの1999年のユーロ導入以来の最高水準を超えた。
6月9日にユーロ圏財務相がスペインの銀行の資金増強に向け最大1000億ユーロの支援を行うことで合意したものの、デフォルト(債務不履行)が発生した場合、この支援のための融資の返済がスペイン国債の償還に優先して行われ、国債が劣後化するとの懸念から、スペイン国債が大幅に売られた。
INGの金利ストラテジスト、アレッサンドロ・ジャンサンティ氏は「ギリシャ支援の経験から、公的融資は損失から守られる一方で、民間の国債保有者が最も大きく影響を受けるということは学んでいる」としている。
6月14日に国債入札を控えるイタリアの国債利回りも上昇。10年債利回りは6.17%と、前日から13.5bp上昇した。前日は29bp上昇している。
イタリア政府は14日に総額45億ユーロの3年債入札を実施。ラボ銀行の債券ストラテジスト、リン・グラハム・テイラー氏は「入札は良好に推移するとみている。ただ、落札利回りは上昇すると予想している」と述べた。
前日に急伸した独連邦債先物には利食い売りが発生。高い格付けを得ているユーロ加盟国による国債発行が今週相次ぐことによる供給過剰感も相まって、高利回り債券に資金が流れる動きが見られた。独連邦債先物は140ティック安の142.49。独10年債利回りは1.38%と、12.5bp上昇した。
独連邦債が米国債をアンダーパフォームしたことで、両国債の利回り格差は3カ月ぶりの水準に縮小した。独政府は13日に総額50億ユーロの10年債入札を実施する。
ムーディーズがスペインを3段階格下げ。銀行救済で財政悪化へ(2012年6月13日)[編集]
格付け会社ムーディーズ・インベスターズ・サービスは6月13日、スペイン国債の格付けを「A3」から「Baa3」へ3段階引き下げた。ユーロ圏が決定したスペインの銀行向け支援により政府の財政状況が悪化すると指摘した。
またスペイン政府の国際金融市場へのアクセスが「非常に限られている」ことや、ぜい弱な国内経済を理由に挙げた。ムーディーズは格付けを引き下げ方向で見直すとしており、3カ月以内に再び格下げする可能性がある。スペイン経済省の報道官はコメントを拒否した。
ムーディーズは声明で「政府の財政は弱体化し、突然の資金調達停止に対するぜい弱さは増しているが、スペイン経済の低迷が続いているために、数年以内に健全な経済成長が見込める場合と比べて、こうした状況に対する懸念が大きくなっている」と指摘した。
「Baa3」は投機的(ジャンク)等級を1段階上回る水準。
ムーディーズのソブリン担当アナリスト、キャスリン・ミューエンブロナー氏は、スペインの銀行セクター支援策が不十分な場合、スペインは国際社会にさらなる支援を要請する可能性がある、との認識を示した。同氏は「われわれは、スペインが今後数カ月、あるいは数年以内にさらなる支援を要請する必要が生じるリスクが高まっていると考えている。われわれの見方では、それ(支援要請)は強さではなく、弱さを示す兆しになる」と述べ、スペインは国債を発行する上で国内銀行への依存度を高めている、と指摘した。
スタンダード&プアーズ(S&P)のスペイン格付けは「BBBプラス」と、ムーディーズよりも2段階高い水準で、見通しは「ネガティブ」となっている。
フィッチは7日にスペインの格付けを3段階引き下げ「BBB」としたが、依然としてムーディーズの水準を1段階上回っている。見通しは「ネガティブ」。
スペイン利回り7.63%=南欧株価、急落―欧州市場(2012年7月)[編集]
7月24日の欧州市場では、取引終盤にスペイン国債10年物利回りが上昇(価格は下落)し、7.63%(前日終盤は7.5%前後)と、1999年のユーロ導入以降の最高水準を更新した。
スペイン・バレンシア自治州政府が前週末、中央政府に財政支援を要請する方針を示したことをきっかけに、自治州の財政悪化など同国財政をめぐる懸念が再燃。また、スペイン政府が欧州連合(EU)諸国に対する暫定的な支援要請を検討していると一部で報じられるなど、同国がEUなどに全面救済を仰ぐとの観測が強まっている。 同じく債務問題を抱えるイタリアの国債10年物利回りも6.6%台(前日終盤は6.3%台)に急上昇した。また、南欧諸国の株価は急落。ロンドン時間午後4時40分現在、スペインIBEX指数は前日比3.58%安、イタリアMIB指数は2.71%安。
政治[編集]
スペインの政治参照
政体は立憲君主制(制限君主制)。1975年のファン・カルロス1世の即位による王政復古により成立した現在の政体では、王は存在するものの、象徴君主という位置づけであり、主権は国民に在る。王は国家元首であり、国家の統一と永続の象徴と規定されており、国軍の名目上の最高指揮官である。議会の推薦を受けて首相の指名を行なうほか、首相の推薦を受けて閣僚の任命を行なう。
スペインの首相参照
国会は両院制であり、代議院(下院)は定数350議席で4年ごとの直接選挙で選ばれ、元老院(上院)は定数264議席で208議席が選挙によって選ばれ、残り56議席が地方自治体の代表で構成される。
スペインの政党参照
軍事[編集]
スペイン軍参照
スペイン軍は陸軍、海軍、空軍、グアルディア・シビルの4つの組織から構成されている。国王は憲法によって国軍の最高指揮官であると規定されている。2001年末に徴兵制が廃止され、志願制に移行した。2007年の時点で総兵力は147,000人、予備役は319,000人である。
イージス艦や軽空母、ユーロファイター タイフーン、レオパルト2EA6等最新鋭の兵器を配備している。
国際関係[編集]
1986年のEC加盟以降、EUの一員として他のEU諸国との関係が密接になっている。
旧植民地であったラテンアメリカ諸国との伝統的友好関係も非常に重要となっており、毎年スペイン・ポルトガルとラテンアメリカ諸国の間で持ち回りで開催されるイベロアメリカ首脳会議にも参加しているが、ラテンアメリカにスペイン企業が進出し過ぎていることから一部には、ラテンアメリカに対するレコンキスタ(本来はイスラームに征服された国土の回復運動だが、ここでは文字通り「再征服」)であるという批判もある。
また、特に南部アンダルシア地方にイスラーム文化の影響が非常に強く残っていることなどもあり、他のEU諸国と比べるとイスラーム諸国との友好関係の構築に比較的積極的であるといえる。
スペインはアフリカ大陸に位置するスペイン領のセウタとメリリャの帰属を巡り、モロッコと領土問題を抱えている。また、スペインが1801年以来実効支配しているオリベンサに対してポルトガルが返還を求めているが、ポルトガルとの間には両国を統一すべきであるとのイベリスモ思想も存在する。
日本との関係については日西関係史を参照。
地方行政区画[編集]
スペインの県参照
スペインは、17の自治州から構成される。また、各州は50の県に分かれる。
- アンダルシア州
- アラゴン州
- アストゥリアス州
- バレアレス諸島州
- バスク州
- カナリアス諸島州
- カンタブリア州
- カスティーリャ=ラ・マンチャ州
- カスティーリャ・イ・レオン州
- カタルーニャ州
- エストレマドゥーラ州
- ガリシア州
- ラ・リオハ州
- マドリード州
- ムルシア州
- ナバラ州
- バレンシア州
また、アフリカ沿岸にも5つの領土がある。セウタとメリリャの諸都市は、都市と地域の中間的な規模の自治権を付与された都市として統治されている。チャファリナス諸島、ペニョン・デ・アルセマス島、ペニョン・デ・ベレス・デ・ラ・ゴメラは、スペインが直轄統治している。
主要都市[編集]
人口の多い上位10都市は次のとおり(2006年1月、スペイン統計局の2007年1月発表のデータによる)。
都市 | 州 | 人口 | |
---|---|---|---|
1 | マドリード | マドリード州 | 3,128,600 |
2 | バルセロナ | カタルーニャ州 | 1,605,602 |
3 | バレンシア | バレンシア州 | 805,304 |
4 | セビリア | アンダルシア州 | 704,414 |
5 | サラゴサ | アラゴン州 | 649,181 |
6 | マラガ | アンダルシア州 | 560,631 |
7 | ムルシア | ムルシア州 | 416,996 |
8 | ラス・パルマス・デ・グラン・カナリア | カナリア諸島自治州 | 377,056 |
9 | パルマ・デ・マリョルカ | バレアレス諸島自治州 | 375,048 |
10 | ビルバオ | バスク州 | 354,145 |
このほかに、歴史上有名な都市としては、サンティアゴ・デ・コンポステーラ、バリャドリード、ブルゴス、コルドバ、グラナダ、トレドなどが挙げられる。
地理[編集]
スペインの地理参照
地形[編集]
スペイン本土は高原や山地(ピレネー山脈やシエラ・ネバダ山脈)に覆われている。高地からはいくつかの主要な河川(タホ川、エブロ川、ドゥエロ川、グアディアナ川、グアダルキビール川)が流れている。沖積平野は沿岸部に見られ、最大のものはアンダルシア州のグアダルキビール川の平野である。東部の海岸にも中規模な河川(セグラ川、フカール川、トゥリア川)による平野が見られる。
南部と東部は地中海に面し、バレアレス諸島が東部の海岸沖にある。北と西は大西洋に面し、北部で面している海域はカンタブリア海(ビスケー湾)と呼ばれる。カナリア諸島はアフリカ大陸の大西洋沖にある。
スペインが接する国境の長さは、アンドラ63.7km、フランス623km、ジブラルタル1.2km、ポルトガル1,214km、モロッコ6.3kmである。
気候[編集]
典型的な地中海性気候であるが、夏の日中は暑く、高緯度のため夏場は22時頃まで陽が沈まない。
経済[編集]
スペインの経済参照
IMFによると、2010年のスペインのGDPは1兆3747億ドルであり、世界第12位である。
1960年代以来、「スペインの年」と一部では呼ばれていた1992年頃までの高度成長期が過ぎ去り、低迷していたが、ヨーロッパの経済的な統合と、通貨のユーロへの切替えとともに経済的な発展が急速に進んでいる(2003年現在)。市場為替相場を基とした国内総生産は2008年は世界9位で カナダを超えるがサミットには参加していない。企業は自動車会社のセアトやペガソ、通信関連企業のテレフォニカ、アパレルのザラ、金融のサンタンデール・セントラル・イスパノ銀行などが著名な企業として挙げられる。またスペイン人の労働時間はEU内で第1位である。
しかし、近年の世界金融危機の影響からスペインも逃れられず、2011年1月から3月までの失業率21.29%、失業者は490万人と過去13年間で最悪の数字となっている。
鉱業[編集]
スペインの鉱業資源は種類に富み主要な鉱物のほとんどが存在するとも言われる。しかし歴史的に長期に渡る開発の結果21世紀以降、採掘量は減少傾向にある。
有機鉱物資源では、世界の市場占有率の1.4%(2003年時点)を占める亜炭(1228万トン)が有力。品質の高い石炭(975万トン)、原油(32万トン)、天然ガス(22千兆ジュール)も採掘されている。主な炭鉱はアストゥリアス州とカスティーリャ・イ・レオン州にある。石炭の埋蔵量は5億トンであり、スペインで最も有力な鉱物である。
金属鉱物資源では、世界第4位(占有率9.8%)の水銀(150トン)のほか、2.1%の占有率のマグネシウム鉱(2.1万トン)の産出が目立つ。そのほか、金、銀、亜鉛、銅、鉛、わずかながら錫も対象となっている。鉱山はプレート境界に近い南部地中海岸のシエラネバダ山脈とシエラモリナ山脈に集中している。水銀はシエラモリナ山脈が伸びるカスティーリャ地方のシウダ・レアル県に分布する。アルマデン鉱山は2300年以上に渡って、スペインの水銀を支えてきた。鉄は北部バスク地方に分布し、ビルバオが著名である。しかしながらスペイン全体の埋蔵量は600万トンを下回り、枯渇が近い。
その他の鉱物資源では、世界第10位(市場占有率1.5%)のカリ塩、イオウ(同1.1%)、塩(同1.5%)を産出する。
国民[編集]
民族[編集]
スペイン人参照
ラテン系を中核とするスペイン人が多数を占める。一方で統一以前の地方意識が根強く、特にカタルーニャ、バスクなどの住人はスペイン人としてのアイデンティティを否定する傾向にあり、ガリシアやカナリア諸島の住民も前二者に比べると、穏健ではあるが、民族としての意識を強く抱いており、それぞれの地方で大なり小なり独立運動がある。一般に「スペイン人」とされる旧カスティーリャ王国圏内の住民の間でも、イスラーム文化の浸透程度や歴史の違いなどから、アラゴン、アンダルシアの住人とその他のスペイン人とでは大きな違いがあり、それぞれの地方で、風俗、文化、習慣が大きく異なっている。
近年は、世界屈指の移民受け入れ大国となっていて、不況が深刻化した現在では大きな社会問題となっている。外国人人口は全人口の11%にあたる522万人にも上る。(2000年の外国人人口は92万人であった。)
民族の一覧[編集]
言語[編集]
スペインの言語参照
スペイン語(標準スペイン語。カスティーリャ語とも呼ばれる)が全国の公用語であり、その他カタルーニャ語、バレンシア語、バスク語、ガリシア語、アラン語が地方公用語になっているほか、アストゥリアス語とアラゴン語もその該当地域の固有言語として認められている。バスク語以外は全てラテン語に由来している、また、ラテンアメリカで話されているスペイン語は、1492年以降スペイン人征服者や入植者が持ち込んだものがその起源である。ラテンアメリカで話されるスペイン語とは若干の違いがあるが、相互に意思疎通は問題なく可能である。
ローマ帝国の支配以前にスペインに居住していた人々はケルト系の言語を話しており、ケルト系の遺跡が散在する。現在はケルト系の言葉はすたれている。
北スペインのフランス寄りに、バスク語を話すバスク人が暮らしている。バスク民族の文化や言葉は、他のヨーロッパと共通することがなく、バスク人の起源は不明である。このことが、バスク人がスペインからの独立を望む遠因となっている。地域の学校ではバスク語も教えられているが、スペイン語との共通点はほとんどなく、学ぶのが困難である。
言語の一覧[編集]
現在、エスノローグはスペイン国内に以下の言語の存在を認めている。
- ガリシア語(ガリシア州)
- スペイン語(国家公用語)
- カタルーニャ語(カタルーニャ州)
- バレンシア語(バレンシア州)
- アストゥリアス語(アストゥリアス州、カスティーリャ・イ・レオン州)
- アラゴン語(アラゴン州)
- エストレマドゥーラ語(エストレマドゥーラ州)
- バスク語(バスク州、ナバラ州)
宗教[編集]
スペインの宗教参照
カトリックが94%である。イベリア半島では近代に入って多様な宗教の公認とともに、隠れて暮らしていたユダヤ教徒が信仰を取り戻し始めている。戦争時など様々な折にスペインに「帰還」し、祖国のために闘ったセファルディムもいた。残りは、ムスリムなど。
なお、国民の大多数がカトリック教徒であるにも関わらず、近年ではローマ教皇庁が反対している避妊具の使用や同性婚を解禁するなど社会的には政教分離の思想が進んでいる点も特徴である。
教育[編集]
スペインの教育参照
2003年の推計によれば、15歳以上の国民の識字率は97.9%であり、これはアルゼンチン(97.2%)やウルグアイ(98%)、キューバ(99.8%)と並んでスペイン語圏最高水準である。
主な高等教育機関としては、サラマンカ大学(1218年)、マドリード・コンプルテンセ大学(1293年)、バリャドリード大学(13世紀)、バルセロナ大学(1450年)、サンティアゴ・デ・コンポステーラ大学(1526年)、デウスト大学(1886年)などが挙げられる。
文化[編集]
スペインの文化参照
情熱的で明るい、気さくなスペイン人という印象が強いが、これはスペイン南部の人々の特徴で北側の人々は違った性格が強い。数百年の歴史を持つ闘牛は世界中に知られている。
食文化[編集]
スペイン料理参照
スペインでは日本と異なる時間帯に食事を摂り、一日に5回食事をすることで有名。
- デサユノ(Desayuno):朝食。起きがけに摂る食事。パンなどを食べる。
- メリエンダ・メディア・マニャーナ(Merienda media Mañana):朝の軽食。午前11時頃、サンドイッチ、タパス(おつまみ)などを食べる。
- アルムエルソ(Almuerzo):昼食。一日のメインの食事で、午後2時頃、フルコースを食べる。
- メリエンダ(Merienda):夕方の軽食。午後6時頃、タパス、おやつなどを食べる。
- セナ(Cena):夕食。午後9時頃、スープ、サラダなどを食べる。
アルコール類[編集]
- スペイン・ワイン
- カバ(Cava) - シャンパーニュ地方産ではないのでシャンパンとは呼べないが、シャンパンと同じ製法で作られる発泡ワインである。主にカタルーニャ地方で造られている。
- シェリー酒 - シェリーは英名。スペイン名「ヘレス」。アンダルシア地方のヘレス・デ・ラ・フロンテーラ原産。
- サングリア - 赤ワインを基にしたカクテル。
スペイン料理[編集]
文学[編集]
スペイン文学参照
12世紀中盤から13世紀初頭までに書かれた『わがシッドの歌』はスペイン最古の叙事詩と呼ばれている。
スペイン文学においては、特に著名な作家として世界初の近代小説と呼ばれる『ドン・キホーテ』の著者ミゲル・デ・セルバンテスが挙げられる。
1492年から1681年までのスペイン黄金世紀の間には、スペインの政治を支配した強固にカトリック的なイデオロギーに文学も影響を受けた。この時代には修道士詩人サン・フアン・デ・ラ・クルスの神秘主義や、ホルヘ・デ・モンテマヨールの『ラ・ディアナの七つの書』(1559)に起源を持つ牧歌小説、マテオ・アレマンの『グスマン・デ・アルファラーチェ』(1599,1602)を頂点とするピカレスク小説、『国王こそ無二の判官』(1635)のロペ・デ・ベガ、『セビーリャの色事師と色の招客』(1625)のティルソ・デ・モリーナなどの演劇が生まれた。
近代に入ると、1898年の米西戦争の敗戦をきっかけに自国の後進性を直視した「98年の世代」と呼ばれる一群の知識人が現れ、哲学者のミゲル・デ・ウナムーノやオルテガ・イ・ガセト、小説家のアンヘル・ガニベ、詩人のフアン・ラモン・ヒメネス(1956年ノーベル文学賞受賞)やアントニオ・マチャードなどが活躍した。
スペイン内戦の時代には内戦中に銃殺された詩人フェデリコ・ガルシア・ロルカなどが活躍し、内戦後にフランコ独裁体制が成立すると多くの文学者が国外に亡命して創作を続けた。フランコ体制期にはラモン・センデールやカルメン・ラフォレ、フアン・ゴイティソーロ、ミゲル・デリーベスらがスペイン内外で活躍した
民主化以後はカミーロ・ホセ・セラが1989年にノーベル文学賞を受賞している。
セルバンテスに因み、1974年にスペイン語圏の優れた作家に対して贈られるセルバンテス賞が創設された。
哲学[編集]
スペインの哲学参照
ローマ時代において活躍したストア派哲学者の小セネカはコルドバ出身だった。中世において、イスラーム勢力支配下のアル=アンダルスでは学芸が栄え、イブン=スィーナー(アウィケンナ)などによるイスラーム哲学が流入し、12世紀のコルドバではアリストテレス派のイブン=ルシュド(アウェロエス)が活躍した。その他にも中世最大のユダヤ哲学者マイモニデスもコルドバの生まれだった。コルドバにもたらされたイブン=スィーナーやイブン=ルシュドのイスラーム哲学思想は、キリスト教徒の留学生によってアラビア語からラテン語に翻訳され、彼等によってもたらされたアリストテレス哲学はスコラ学に大きな影響を与えた。
17世紀から18世紀にかけては強固なカトリックイデオロギーの下、ベニート・ヘロニモ・フェイホーやガスパール・メルチョール・デ・ホベリャーノスなどの例外を除いてスペインの思想界は旧態依然としたスコラ哲学に覆われた。19世紀後半に入るとドイツ観念論のクラウゼ哲学が影響力を持ち、フリアン・サンス・デル・リオと弟子のフランシスコ・ヒネル・デ・ロス・リオスを中心にクラウゼ哲学がスペインに受容された。
20世紀の哲学者としては、「98年の世代」のキルケゴールに影響を受けた実存主義者ミゲル・デ・ウナムーノや、同じく「98年の世代」の『大衆の反逆』で知られるホセ・オルテガ・イ・ガセット、形而上学の再構築を目指したハビエル・スビリの名が挙げられる。
音楽[編集]
スペインの音楽参照
クラシック音楽においては声楽が発達しており、著名な歌手としてアルフレード・クラウス、プラシド・ドミンゴ、ホセ・カレーラス、モンセラート・カバリェ、テレサ・ベルガンサなどの名を挙げることができる。クラシック・ギターも盛んであり、『アランフエス協奏曲』を残した作曲家のホアキン・ロドリーゴや、ギター奏者のセレドニオ・ロメロ、ペペ・ロメロ、アンヘル・ロメロ一家、マリア・エステル・グスマンなどが活躍している。その他にも特筆されるべきピアニストとしてアリシア・デ・ラローチャとホアキン・アチュカーロの名が挙げられる。近代の作曲家としては、スペインの民謡や民話をモチーフとして利用した、デ・ファリャの知名度が高い。
南部のアンダルシア地方のジプシー系の人々から発祥したとされるフラメンコという踊りと歌も有名である。
美術[編集]
スペインの芸術参照
イスラーム支配下のアンダルスでは、イスラーム式の壁画美術が技術的に導入された。ルネサンス絵画が定着しなかったスペインでは、16世紀に入るとマニエリズムに移行し、この時期にはエル・グレコが活躍している。バロック期にはフランシスコ・リバルタやホセ・デ・リベラ、フランシスコ・デ・スルバラン、アロンソ・カーノ、ディエゴ・ベラスケス、バルトロメ・エステバン・ムリーリョ、フアン・デ・バルデス・レアルなどが活躍した。18世紀から19世紀初めにかけてはフランシスコ・デ・ゴヤが活躍した。
19世紀末から20世紀半ばまでにかけてはバルセロナを中心に芸術家が創作活動を続け、キュビスムやシュルレアリズムなどの分野でサンティアゴ・ルシニョール、ラモン・カザス、パブロ・ピカソ、ジョアン・ミロ、サルバドール・ダリ、ジュリ・ゴンサレス、パブロ・ガルガーリョなどが活躍した。スペイン内戦後は芸術の古典回帰が進んだ。
映画[編集]
スペインの映画参照
スペイン初の映画は1897年に製作された。1932年にはルイス・ブニュエルによって『糧なき土地』(1932)が製作されている。スペイン内戦後は映画への検閲が行われたが、1950年代にはルイス・ガルシア・ベルランガやフアン・アントニオ・バルデムらの新世代の映像作家が活躍した。
民主化以後はホセ・ルイス・ボロウやカルロス・サウラ、マリオ・カムス、ペドロ・アルモドバル、アレハンドロ・アメナバルなどの映像作家らが活躍している。
世界遺産[編集]
スペイン国内には、ユネスコの世界遺産一覧に登録された文化遺産が34件、自然遺産が2件、複合遺産が1件存在する。さらにフランスにまたがって1件の複合遺産が登録されている。詳細は、スペインの世界遺産を参照。
祝祭日[編集]
日付 | 日本語表記 | スペイン語表記 | 備考 |
---|---|---|---|
1月1日 | 元日 | Año Nuevo | |
移動祝祭日 | 聖金曜日 | Viernes Santo | 復活祭の2日前の金曜日 |
5月1日 | メーデー | Día del Trabajador | |
8月15日 | 聖母被昇天の日 | Asunción | |
10月12日 | エスパーニャの祝日 | Día de la Hispanidad または Fiesta Nacional de España | |
11月1日 | 諸聖人の日 | Todos los Santos | |
12月6日 | 憲法記念日 | Día de la Constitución | |
12月8日 | 無原罪の聖母の日 | Inmaculada Concepción | |
12月25日 | クリスマス | Navidad del Señor |
スポーツ[編集]
サッカー[編集]
スペインのサッカー参照 スポーツにおいてスペインではサッカーが最も盛んである。スペイン代表はFIFAワールドカップに13回の出場を果たしている。1998年のフランス大会予選のときに「無敵艦隊」と呼ばれ、以後そのように呼ばれる事もある。しかし最高成績は1950年のブラジル大会の4位と「永遠の優勝候補」などと言われてきたが、2010年の南アフリカ大会で初めて決勝に進出し、オランダ代表との延長戦の末、初めて優勝を手にした。一方欧州選手権では2度の優勝を経験している。2014年はまさかの予選敗退した
また、国内のリーグ戦であるリーガ・エスパニョーラは、世界各国の有力選手が集結しイングランドやイタリアのリーグと並んで注目を集めている。特にFCバルセロナ対レアル・マドリードの対戦カードはエル・クラシコと呼ばれ、スペイン国内では視聴率50%を記録、全世界で約三億人が生放送で視聴するとも言われる。 キャプテン翼ライジングサンでは翼がバルセロナにいるという設定になっている
バスケットボール[編集]
バスケットボールもスペイン代表が2006年に世界選手権を制覇し注目を集めている。NBAで活躍する選手も2001-2002ルーキー・オブ・ザ・イヤーを受賞したパウ・ガソルやホセ・カルデロン、セルヒオ・ロドリゲスらがいる。
サイクルロードレース[編集]
自転車ロードレースも伝統的に盛んで、ツール・ド・フランス史上初の総合5連覇を達成したミゲル・インデュラインをはじめ、フェデリコ・バーモンテス、ルイス・オカーニャ、ペドロ・デルガド、オスカル・ペレイロ、アルベルト・コンタドール、カルロス・サストレといった歴代ツール・ド・フランス総合優勝者を筆頭に(2006年、2007年、2008年、2009年と4年連続でスペイン人による総合優勝)、著名な選手を数多く輩出している。また、例年8月末から9月中旬まで開催されるブエルタ・ア・エスパーニャはツール・ド・フランスやジロ・デ・イタリアとともに、グランツール(三大ツール)と呼ばれる自転車競技の最高峰的存在である。
モータースポーツ[編集]
近年はモータースポーツも人気を博しておりサッカーに次ぐ盛況ぶりである。ロードレース世界選手権(MotoGP)の視聴率は40%を超えることもしばしば。世界ラリー選手権ではカルロス・サインツがスペイン人初のワールドチャンピオンに輝いた。フォーミュラ1(F1)ではフェルナンド・アロンソが2005年(当時)F1史上最年少世界王者に輝き、スペインのスポーツ選手人気ランキングでサッカー選手のラウル・ゴンサレス(レアル・マドリード)を抑え1位になるなど、その人気は過熱している。
テニス[編集]
テニスの水準も高く、近年注目度の高いラファエル・ナダルをはじめフアン・カルロス・フェレーロ、カルロス・モヤといった世界1位になったことのある選手等数多くの著名な選手を輩出し、男子の国別対抗戦であるデビスカップでも毎年好成績を収めている。今でも男子世界ランキングで100位に入っている人が一番多い国である。
その他[編集]
その他にも闘牛を行う伝統が存在する。近年ではシンクロナイズドスイミングにおいて独特の表現力で世界的に注目を集めている。
科学と技術[編集]
医学[編集]
世界一の臓器移植大国である。
著名な出身者[編集]
スペイン人の一覧参照
関連項目[編集]
スペインに関する著書が多い作家・文化人[編集]
高橋陽一。キャプテン翼作者 ライジングサンは翼がバルセロナにいる
外部リンク[編集]
- 政府
- スペイン政府 (スペイン語)(英語)
- スペイン王室 (スペイン語)(英語)
- スペイン大使館経済商務部 (日本語)
- 日本政府
- 日本外務省 - スペイン (日本語)
- 在スペイン日本国大使館 (日本語)
- 観光
- スペイン政府観光局 (日本語)
- その他