純白の夜
『純白の夜』(じゅんぱくのよる)は、三島由紀夫の3作目の長編小説。1950年(昭和25年)、雑誌「婦人公論」1月号から10月号に連載された。三島にとって初の長期連載物である。単行本は同年12月20日に中央公論社より刊行された。現行版は角川文庫で刊行されている。発表の翌年1951年(昭和26年)8月31日には、木暮実千代主演で映画も封切られた。映画には三島もエキストラで出演している。
既婚者同士の恋と、そのかけひきの心理を高雅で怜悧なタッチで描いた恋愛小説。純粋なヒロインの悲劇的で不条理な結末までの愛と苦悩が繊細に綴られている。
作品背景[編集]
『純白の夜』のヒロインの名前は「郁子」であるが、これは三島の初恋の三谷邦子の「邦子」の字と感じが似ていることから付けられたとされている。「郁子」という名前が、短編『罪びと』(1948年)や、のちの戯曲『熱帯樹』(1960年)のヒロインにも付けられていることに気づいた村松剛が、このことについて三島に訊ねた際、「そんなことに気が付くのは君ぐらいのもんだよ」と言い、その後ぼつんと、「昔つきあっていた女でよく似た名前のがいた」と答え、それ以上は何も言わなかったという[1][2]。
村松は、三島が短編『罪びと』では、リヤカーで荷物運搬中、飲んだ水が原因でチフスになり亡くなるミッション・スクールの女学生「郁子」(IKUKO)を登場させ、三島の妹・美津子(MITSUKO)をモデルにし、「郁子」が、主人公の青年の許婚という設定となっていることと、「郁子」に水を飲むことを勧めた同級生が主人公と夏休みに避暑地であやまちを犯したという設定となり、三島と軽井沢で接吻をした三谷邦子(KUNIKO)(『仮面の告白』の園子)がモデルとなっていることが解るとし、また、戯曲『熱帯樹』では兄と心中する妹が「郁子」であり、『純白の夜』では人妻の「郁子」であることから、「妹の死」と「失恋」という2つの主題が、この小説群では混ぜ合わされていると解読している[2]。
あらすじ[編集]
昭和23年の秋、ある茶会の帰り、22歳の郁子は、銀行員の35歳の夫・村松恒彦とその同僚・沢田と三人で、ドラクロアの良いデッサンが出ているという有楽町のS画廊に立ち寄った。S画廊は恒彦の父の代から村松家と関係のある画商であった。デッサンはすでに売約済みとなっており、買ったのは恒彦の学友であった楠であった。楠は仕事の取引で恒彦と再び連絡を取り合うようになっていた。
楠がドラクロアのデッサンを見せに、渋谷の村松家にやって来た。恒彦の帰宅時間が予定より遅くなり、折からの雨で女中は駅まで恒彦を迎えに出て行った。郁子と楠は応接間での二人だけの短い初対面の間に心の中で惹かれ合った。次の土曜日に草野井元男爵邸で行なわれるダンス教室の小舞踏会に楠も招待されていた。ダンスの日、楠は遅れて1人でやって来た。パートナーを連れていない楠と郁子は踊った。楠は積極的にアプローチし、郁子のハンドバッグに恋文を入れた。帰宅後、郁子はそれを読み喜びでいっぱいになったが、夫にそれを見せ返事は書かなかった。1ヶ月後の紅葉の季節、楠の河口湖の別荘の集まりに村松夫婦も招待された。楠は郁子にまたアプローチした。帰京し、約束の待ち合わせの店に郁子はわざと偶然を装い、夫を伴って来た。
父親が追放令に該当し東京の家を売却したため、生活に困窮していた独身の沢田が村松家に一時、間借りすることとなった。郁子は初めは間借りに反対だったが、しだいにデリカシーや皮肉のない沢田に逆に話しやすさ、心安さを感じた。正月の年始の挨拶がてらに恒彦と郁子夫婦は麻布にある楠の家を訪ねてみた。楠の妻・由良子は病身で寝たり起きたりの身であった。ある日、郁子は夫に訊かれ、楠に呼ばれて2、3度会ったことと、すぐ逃げて来たことを告げた。しかし郁子はしだいに楠の押しに屈し、接吻を交わすようになっていた。郁子は楠を愛していたが、最後の一線は許さなかった。
恒彦は銀行へ楠を呼んだ。恒彦は、楠の会社への融資を止めることを告げ、妻から楠への別れの手紙を渡し、公私ともに楠と絶交をすることを言い渡した。郁子は当初、朗らかさを装っていたものの楠と会えない空洞があった。そして夫の出張の時に、沢田と一夜を共にしてしまった。沢田から、そのことを聞いた楠は傷つき、郁子に手紙を出した。二人は再び、密会するようになった。郁子は、楠の疑惑を解き、自分の真心を何とかして楠にわかってもらいたいと思った。二人は、郁子が鎌倉の親戚の通夜に行く前の短い間にも、駅で会った。郁子は通夜の後、実家に立ち寄った折に、妹・露子がいつも、おまじないのように持ち歩いている青酸カリを何気なく自分のバッグに入れてしまった。
梅雨明け間近の日、楠はついに強引に郁子を鎌倉の扇ヶ谷の懐風苑という宿へ連れて行った。風呂の後、郁子は家に電話を入れると言うと、楠は、全責任はとるから、自分と一緒にいることを恒彦に告げるように言った。しかし郁子は女中に、鎌倉の親戚の家に泊まると嘘をついて切った。それを聞き怒った楠は黙って郁子を残し、宿を出て行った。あくる朝、楠が宿に戻ると、警官や泣いている恒彦がいた。郁子は服毒自殺していた。郁子は死ぬ前の夜中の3時に夫へ電話をかけ、「あたくし楠さんを愛しておりますの。それなのに、楠さんはあたくしをお捨てになったの。…とてもこわいの。どうしていいかわからないくらい。…だめなの。楠さんはもうあたくしをお嫌いなの。…迎えにいらしてね、きっと迎えにいらしてね」と子供のように泣いていた。
登場人物[編集]
- 村松郁子
- 22歳 - 23歳。旧姓は岸田。銀行資本家の娘。15歳の時に親同士の決めた相手と婚約し、20歳で結婚。お高くとまっているという印象を人に与える。生まれながらの美人だが、人が頭から美人と決めてしまわざるをえぬような化粧や服装のために、その素の魅力が割り引かれている。妹が二人いる。
- 村松恒彦
- 35歳 - 36歳。郁子の夫。銀行員。坊ちゃん育ち。父親・則彦は戦時内閣で商工大臣をつとめ、戦時中に死亡。渋谷区神山町に居住。郁子と結婚し、岸田銀行日本橋支店の貸付係長となった。郁子の実家の岸田銀行は戦後、一族郎党が追い出され、恒彦を岸田家につないだ。
- 沢田
- 村松恒彦の同僚で同年齢。独身。機智の才能が全くない。ラジオや時計の修理が巧い。浪花節ファンであることを村松夫婦には隠している。妹がいる。父親は追放令で職を失った古手の官吏で、家を売り郷里に隠栖。潔癖症でこっけいなほど自分の小さな怪我にも注意を払う。
- 楠
- 村松恒彦の学生時代の友人で同年齢。経営する合成樹脂会社は恒彦の銀行と取引関係にある。河口湖に別荘を持つ。落着いた篤実な話し方。麻布笄町の焼跡に建てられた小ぢんまりした洋館に居住。病身の妻がいる。
- 画廊の主人
- 有楽町のS画廊の若主人。名画の鑑定に堪能な男。動物的なカンを備えていて、お客の会話の些細の事柄までおぼえている。
- のぶ
- 村松家先代の女中頭。寡婦。先代の則彦夫婦の豪奢な生活の思い出をふりまわし、郁子夫婦と比べる。20歳の娘と、貿易庁の三級事務官の息子と一緒に郁子夫婦と同居している。娘と郁子の陰口を言う。村松家に下宿してきた沢田とウマが合う。
- 草野井元男爵。
- 57歳。ダンスを愛する独身。戦前から自宅で上流子女相手にダンス教習所を開いている。40代の家政婦が休暇の日には、エプロンを付けて、20歳に満たない紅顔の書生と二人で楽しそうに料理を作る。一種世捨人じみた鷹揚な風格で人々から愛されているが、恰幅のいい外見とちょび髭から、海驢という渾名で陰口をきく者もいる。
- 米人夫妻
- 楠のアメリカの大学時代の友人とその妻。小柄な婦人と、演劇趣味の夫。
- シャルパンティエ夫人
- 60代。小柄で洒脱なフランス人。日本人の年下の画家と再婚。前夫は大正末期にたびたび三面記事を賑わした殿様歌人。戦後、会員組織のフランス料理店を青山1丁目の焼跡に開いた。料理はバラック建築の料理場から、廃物のバス2台を改造したレストランに運ばれる。会員客の紡績会社、煖房会社、製陶会社、ペイント会社の社長らがそれぞれ、バスの内装や道具を寄附。
- 由良子
- 楠の妻。顔色のすぐれない病身の若い女。寝たり起きたりの身。
- 露子
- 郁子のすぐ下の妹。姉を「郁兵衛」と呼ぶ。長唄を習っている。許婚に捨てられ自暴自棄になり、ハンドバッグに青酸カリを入れ持ち歩いている。むかしはジョルジュ・サンドが好きだった。
- 露子の許婚
- 製紙会社社長の息子。女とジャズ・レコードのアメリカの新譜にしか関心がない。
- 照子
- 18歳。郁子と露子の妹。気むずかし屋。恋人ができない口実を自分の病弱のせいにするが、胃弱は食べすぎが原因。若いのに老婦人のようなところがある。
- ヘンリイ
- 照子の友だち。二世の青年。愛嬌に富んだ日本語を話す。
- 東洋倶楽部の客
- クリスマス・イヴに浜町河岸にある踊り場に来た客たち。チューインガムを噛んでいる少年少女。照子の知り合いの学習院高等科の少年も混じる。頭を伸ばして綺麗になでつけた彼らの顔だちは栗鼠の一群のよう。
- 老夫婦
- 村松家の近所の有名な鴛鴦夫婦。夫は引退した政客にふさわしい威丈高な美髯。
- 郁子の学校時代の友達
- 当歳(今年生れ)の男の児の母親。ふだんは郁子と付き合いがない。
- 芸妓
- 楠の道連れの女の一人。お茶っぴいな芸妓。郁子とは正反対のタイプ。
- 津川夫人
- 郁子と親しい年長の夫人。慈善団体の会長。郁子に団体の手伝いを依頼する。年下の青年との恋愛短編小説を構想中。
- 岸田夫人
- 郁子の母親。すんなりした自分の娘三人に似合わず、肥り肉の雄偉な体格。
- 賭場の客たち
- 鎌倉駅近くにある朝鮮人・朴の経営する柄の悪い倶楽部の客たち。朝鮮人、中国人、白系露人、米国人の下士官や兵隊ら。店にはオダリスク(女奴隷)の装いの踊り子がいる。
- 親戚の通夜の人々
- 郁子の大伯母。故人に世話になり書生から身を起して郷里の新潟県で地方鉄道社長となった人物。恒彦の若い従妹弟たちとその母親。
作品評価・解説[編集]
小池真理子は、「いかに天賦の才に恵まれていた作家とはいえ、わずか二十五歳の若さで、かくも緻密で完璧な恋愛心理小説を書くことができるものだろうか」[3]と驚嘆し、その心理描写の巧みさについて、「冷たく鋭利なメスで正確にさくさくと刻まれ、分断されていく時の、人の心の断面が描かれている」[3]と喩え、三島の表現力を、「怪物的才能」と評している[3]。そして、夫を裏切っていないと言い訳しながらも楠に惹かれていく郁子と、郁子ほどの女を諦めるのは神に対する冒涜だと考える楠の心理が、作者・三島の「優雅な手さばき」により、男と女のそれぞれの魂の外科手術が行われ、メスで正確に切り開かれた「魂の断面」が現われるとし、「作品の中に、言葉と化した血じぶきが飛び散る。それらの表現の、何と美しく、明晰であることか」[3]と解説している。
映画化[編集]
『純白の夜』(松竹) 1951年(昭和26年)8月31日封切。モノクロ 1時間46分。
当時、高校生だった石原慎太郎は、映画の予告編で、エキストラ出演の三島がダンスパーティーのシーンに出ているのを見て、「ああこれが鬼才の顔か」と思ったと述懐し、野坂昭如は、ずっと映画を見ていたが三島を見つけることができなかったと述懐している[4]。
スタッフ[編集]
キャスト[編集]
- 村松郁子(旧姓・岸田郁子):木暮実千代
- 楠:森雅之
- 村松恒彦:河津清三郎
- 沢田:信欣三
- 岸田夫人:村瀬幸子
- 岸田露子:津島恵子
- 市川春之介:土紀就一
- 津川夫人:森川まさみ
- 村松家女中・のぶ:高橋豊子
- 村松家女中・きく:山田英子
- 画廊の主人:十朱久雄
- ダンスの客の1人:三島由紀夫(エキストラ出演)
テレビドラマ化[編集]
おもな刊行本[編集]
- 『純白の夜』(中央公論社、1950年12月20日)
- 紙装。フランス装。白色帯。口絵写真1頁1葉(著者肖像)。
- 『純白の夜』(河出書房、1955年7月15日)
- 文庫版『純白の夜』(角川文庫、1956年7月30日。改版1969年、2009年)
脚注[編集]
参考文献[編集]
- 文庫版『純白の夜』(付録・解説 小池真理子)(角川文庫、改版2009年)
- 『決定版 三島由紀夫全集第42巻・年譜・書誌』(新潮社、2005年)
- 『決定版 三島由紀夫全集第1巻・長編1』(新潮社、2000年)
- 村松剛『三島由紀夫―その生涯と文学(第二部)』(筑波大学文学研究論集、1992年)
- 村松剛『三島由紀夫の世界』(新潮社、1990年)