金閣寺 (小説)
1956年(昭和31年)、文芸誌「新潮」1月号から10月号に連載され、同年10月30日に新潮社から単行本刊行。豪華限定版200部も同時刊行された。『金閣寺』は、読売新聞アンケートで、昭和31年度ベストワンに選ばれ、第8回(1956年度)読売文学賞(小説部門)を受賞した。累計売上330万部[1]を超えるベストセラー小説である。
硬質で精緻な文体で記述され、近代日本文学を代表する傑作の一つと見なされる。多数の言語に訳され、海外でも評価は高い。
題材は、1950年(昭和25年)7月2日に実際に起きた金閣寺放火事件から取られ、作者独自の人物造型、観念を加え構築した文学作品である。物語は、金閣寺の美にとりつかれた「私」こと溝口の一人称告白体で進められ、事件の動機として主人公・溝口のもつ重度の吃音を核に、金閣寺放火に至る経過を観念的に描いてゆく。
あらすじ[編集]
日本海に突き出た成生岬の貧しい寺に生まれた溝口(「私」)は、僧侶である父から、金閣ほど美しいものはこの世にないと聞かされ育った。父から繰り返し聞く金閣寺の話は、常に完璧な美としての金閣であり、溝口は金閣を夢想しながら地上最高の美として思い描いていた。
体も弱く、生来の吃音のため自己の意思や感情の表現がうまくできない溝口は、極度の引っ込み思案となり、人から愛されなかった。内攻したコンプレックスのために、海軍機関学校の生徒が持っていた短剣の鞘に醜い傷をつけたこともあった。また、官能的で美しい娘・有為子に嘲られ、軽蔑されたこともあり、女と自分とのあいだに精神的な高い壁を感じ、青春期らしき明るさも恋愛もすべて抛棄して生きていた。
やがて溝口は、病弱であった父の勧めで、父の修業時代の知人が住職を務める金閣寺に入り、修行生活を始めることとなった。金閣を見たことがなかったときは、様々に金閣の美を想像していたが、いざ実物を見てみると心象の金閣ほど美しくはなかった。しかし、戦争が激しくなり、自分も金閣もろともに空襲で焼け死ぬかもしれないと思うと、金閣は、「悲劇的な美しさ」を増してきた。溝口は、室町時代から続く金閣寺を、永劫に続くと思われながらも、実はいつ破壊されるとも限らない完璧で永遠の儚い美として捉えていた。そしてその観念は、自己の不遇と孤独の中で実際の金閣よりも遙かに強力な精神的な美として象徴化し、固定化していた。一方、病に衰えていた父が死んでから母は、一生懸命勉強して金閣寺の住職になれと溝口に野望の火を焚きつけようとする。母はかつて、溝口が13の時のある夜、同じ蚊帳の中で父と子も寝ているそばで、親戚の男と交わっていた。目が覚めた息子の目を、父は後ろから手で目隠しをした。
同じ徒弟生活で出会った同学の鶴川は、溝口と対照的な明るい青年だった。彼は溝口の吃音を馬鹿にしない唯一の友であり、溝口の心の陰画を陽画に変えてしまう存在でもあった。戦争末期のある日、2人は南禅寺の天授庵の茶室で、1人の美しい女が軍服の若い陸軍士官に茶を供しているのを見た。女は男に促され、自身の乳房から乳を鶯色の茶に注いだ。溝口はその女に有為子を重ねた。
やがて、戦争が終わり、金閣と「私」こと溝口とが同じ世界に住んでいるという夢想も崩れた。金閣寺のまわりには娼婦を乗せた米兵のジープなど俗世のみだらな風俗が群がるにいたった。溝口は住職の老師の計らいで入学した大谷大学(仏教系大学)で、足に内反足の障害をもち松葉杖をつきながら移動する、いつも教室の片隅でひっそりとたたずんでいる級友・柏木と出会う。一見した柏木の障害に自分の吃音を重ね合わせ、僅かな友人を求めるべく話しかけた溝口だったが、柏木は実は女を扱うことにかけては詐欺師的な巧みさを持ち、高い階層の女を次々と籠絡している男であった。障害を斜に構えつつも克服し、それどころか利用さえして確信犯的に他人への心の揺さぶりを重ねることでふてぶてしく生きる柏木の姿を、当初は全く理解し難いと思っていた溝口だが、精神的な距離を置きつつも友人を続けていた。柏木の溝口への批評はいつも心臓を抉り出す様に残酷で鋭く、溝口の心の揺れや卑怯を常に蔑み、突き飛ばすものであった。溝口は、そんな柏木から女を紹介されるが、女を抱こうとすると目の前に金閣の幻影が立ち現れ、失敗に終わった。
もう1人の友人の鶴川が死んだ。「事故」ということだった。溝口の孤独な生活が又はじまった。しかし、そんな中でも、柏木から禅問答「南泉斬猫」を巡る彼の持論解釈を聞いたり、尺八を教えて貰うことで、まがりなりにも若い自分の人生の1ページを刻んでいた。そして再び、柏木の計らいで、女を抱く機会を与えられる。その女はいつか天授庵の茶室で見たあの女だった。しかし、またしても女の乳房の前に金閣が出現し、溝口は不能に終わる。溝口は金閣に対し憎しみを抱くようになる。
溝口が女の美を目の前にすると、いつも金閣が現れていたが、溝口はある日、菊の花と戯れる蜂を見ている時、自分が蜂の目になって、菊(女、官能の対象)を見るように空想する。その時、ふと、自分が蜂でなく人間の目に還ると、それはただの「菊」に変貌した。その蜂の目を離れた時こそ、自分が金閣の目をわがものにしてしまい、生(女)と自分の間に金閣が現れ、性的な自己の存在を無価値化してしまうという構造に行きつく。このように金閣(虚無)の目で見、変貌した世界では、金閣だけが形態を保持し、美を占領し、この余のものを砂塵に帰してしまうことを溝口はおぼろげながら確信してゆく。
正月のある日、溝口は雑踏の中で、女(芸妓)連れの老師に偶然、行き会ってしまう。追跡されていたと誤解した老師は溝口を叱咤した。しかし、明る日は呼び出しもなく、溝口には釈明の機会もなかった。その後も無言の放任が続き、溝口を苦しませた。以前、溝口が米兵に命令され娼婦を踏みつけ、後で女からゆすられた時も老師はなぜか溝口を不問に附していた。溝口は老師を試そうと、愛人の芸妓の写真を、老師が読む朝刊にはさみ、憎しみを誘うことで老師との対峙を待った。自ら、後継住職になる望みを永久に失うことになる糸口をつけながら、その一方、溝口は人間と人間が理解し合う劇的な熱情の場面も夢想し、ゆるされることさえ夢みていた。だが写真は無言で溝口の机の抽斗に戻された。
これらのわだかまりが累積し、次第に溝口は学業の成績も落ち、大学も休みがちになっていった。溝口は自ら決定的に将来の望みを断ち切ってゆく。学校からの注意が老師にもいった。寺に修行に来た当初は父の縁故で老師に引き立てられ、ゆくゆくは後継にと目されていた溝口だったが、ついに老師から、もう後継にする心づもりはないとはっきり宣告された。老師は溝口に、芸妓の一件のことについても、「知っておるのがどうした」と開き直る。
溝口は柏木から金を借り、寺から家出した。舞鶴湾に向かい由良川から裏日本海の荒れる海を眺め、溝口はそこで、「金閣を焼かねばならぬ」という想念を掴む。由良の宿で不審に思われた溝口は警官に連れられ金閣寺に戻された。息子が金閣寺住職になることに強い期待を抱いていた母は、必死に住職に謝ることで息子の将来をつなごうとあがいていた。醜く歪んだ母の顔に、溝口は「不治の希望」の醜さを見る。
孤独を増す溝口に、柏木は破滅的なものを感じ、鶴川から死の直前に届いた手紙を見せる。溝口には柏木との交友を非難しながらも、鶴川は、自殺の前に柏木のみに本心を打ち明けていたのだった。鶴川は翳りのない心を持っていると認識し、信じていた溝口にそれは少なからず衝撃であった。柏木は溝口に、「この世界を変貌させるの認識だ」と説く。しかし、これに対し溝口は、「世界を変貌させるのは行為なんだ」と反駁する。
溝口は、老師が訓戒を垂れる代わりに施した金で五番町の遊廓に女を買いに行った。金閣を焼こうという決心は死の準備に似ていた。万一のときのためカルチモン(催眠薬)と小刀も買った。その日が来た。その夜は、寺に福井県龍法寺の禅海和尚が来訪していた。溝口は和尚に「私を見抜いてください」と言うが、和尚は「見抜く必要はない。みんなお前の面上にあらわれておる」と答える。溝口はその言葉に、初めて空白になり、隈なく理解されたと感じ行動の勇気が湧く。
溝口は、金閣寺放火の行為の一歩手前にいた。そのとき眺めた金閣寺は、燦然ときらめく幻の金閣と、闇の中の現実の金閣が一致し、たぐいない虚無の美しさにかがやいていた。溝口は金閣寺に火を点けた。燃え盛る金閣の中で溝口は突然、究竟頂で死のうとするが扉はどうしても開かなかった。拒まれていると確実に意識した溝口は、戸外に飛び出し逃げた。一仕事終えた人のように溝口は、「生きよう」と思った。
作品評価・解説[編集]
三島自身の言葉によれば、「私は妙な性質で、本職の小説を書くときよりも、戯曲、殊に近代能楽集を書くときのはうが、はるかに大胆素直に告白できる。それは多分、この系列の一幕物が、現在の私にとつて、詩作の代用をしてゐるからであらう」[2]というように、三島は従来の常識とは反対に、詩や戯曲のように枠のしっかりきめられた形式の方が大胆に「告白」できるいうタイプの作家で、中村光夫によれば、三島にとっての告白は、「仮面」のもとにのみ可能であり、その「仮面」は作者の手製である場合より、社会の現実の事件である方がはるかに板につくものとなるという。そして本作品も、金閣寺放火事件という「事実」(ノンフィクション)を「仮面」にしていると、中村光夫は分析している[3]。また、事件に自己を含めた時代の狂気の「象徴」を見出した三島は、それを確実に所有するために、この「象徴」を芸術によって再現することを希ったとし、現代で正気を保つ方法は、その狂気を芸術的に生きて見るほかはなかったという見解を示している。よって、犯人の内面生活を、三島自身の内面の論理で代償することほど自然なことはなかったとし、そこには作者自身も、なかばしか意識しない「詩」が生まれていると、中村光夫は評している。また、「作者(三島)がここで試みて成功した“偽者の告白”あるいは自我の社会化は、日本の小説の方法の上でひとつのすぐれた達成である」[3]と述べている。
佐伯彰一は、「敗戦による断絶の意識は、現実の社会的事件に取材した長編『青の時代』(1950年)や『金閣寺』(1956年)の中にも、重要な劇的な契機として描きこまれている」とし、「金閣という日本の伝統美の象徴ともいえる建築の破壊へと駆り立てられる主人公の内的な動因のうちに、敗戦は欠くべからざる重要な一環としてしかと組みこまれている。主人公に対して、金閣寺の象徴する永続的な伝統美を一きわ魅力的なものともすれば、同時にやり切れぬ反撥をもかき立てずにおかぬものとした要因の一つは、敗戦という事態に他ならない。敗戦によって、頼るべきものを失った日本人に、自国の美的伝統は、奇妙に二重性をはらんだ厄介な対象と化した。一方では、自信回復のためのほとんど唯一の手掛りであると同時に、焦ら立たしいかぎりの内的呪縛の象徴ともうつった。そうした伝統に対する愛憎共存の微妙なアンビヴァレンスを、三島は『金閣寺』において、まことに鮮やかに小説化して見せた」という見解を示している[4]。
作中、戦時下の非日常と戦後の日常性とでは金閣像が大きく変貌するという点から、伊藤勝彦は、「戦時下において、軍人たちが求めたのは、“自我滅却の栄光の根拠”としての絶対者に帰一することであった。それは“一つの世界の全体を象徴しうるようなもの”でなければならなかった。(中略)そうした絶対の他者というのはつねに三島の前に厳然と存在しているものであった。そうした他者と自己との間の橋を見いだすことが、三島由紀夫にとっての唯一の文学的課題であったのだ。自分はこちら側におり、向うには永遠に自分を拒みつづけている世界がある。それから隔てられてあるということは彼にとっては耐えがたいことだった。だから、相手をこわしてもいいから、その中に没入してゆきたいと思う。それが『金閣寺』のテーマだったのである」[5]という見解を示している。
また、伊藤勝彦は、「この世に生きるかぎり、完璧な全体性というものを手に入れることは絶対にありえない。神としての天皇も、この場合と同じように、自分がそれから拒まれているところの“なにものか”であった。“金閣寺と私”、あるいは“美と私”という対立関係はそのまま“天皇と私”という関係に置き換えられる。天皇は私の側へ、つまり人間へと近づいてきては絶対にならないものであった。(中略)もちろん、そのような全体性がもはや再現不可能な幻影にすぎないことを彼(三島)も充分承知している。けれども、(中略)(三島は)あの死の共同体ともいうべきものの中に生きることを願わずにはおれなかった。戦時下において、彼自身はそれに参加することを逸してしまったのであるから、それだけに、よけいに、あの集団的悲劇に参与することの苦痛と恍惚を大いなるものと想像せずにおれなかったのである。(中略)三島はずっと戦時下の理念を引きずって生きてきた男であった」[5]と述べている。
田坂昮は、「美は金閣によって、人生は女によって象徴される」とし、また、主人公が「人生における異常者・異端者であることを象徴している」とし、『金閣寺』と『仮面の告白』の作品構造がかなり相似であることはだれしも気づくにちがいない述べている。また、美の象徴である金閣は、「『現実の金閣』と『心象の金閣』とにいわば分裂しており、それと同じように世界もまた“私”の内界と外界に分裂している」と述べ、「それらが統一的にあらわれるためには何かの契機が必要なのである」[6]と解説している。また、作中に、「一つ一つのここには存在しない美の予兆が、いはば金閣の主題をなした。さうした予兆は、虚無の予兆だつたのである。虚無がこの美の構造だつたのだ」とあることを挙げ、田坂昮は、美とは虚無であり、虚無が金閣の美の構造であり、美とはまた悪でもあるとし、金閣とは、「美・悪・虚無の三位一体のうえにそれを象徴して立つ建築だったのである」、「美の世界は現実の世界とは別のもう一つの世界であり、この世界に完全に縛られるならば、“私”は完全に自閉して人生とは完全に絶たれた世界の住人となるだろう」、「“私”は金閣に強く縛られていながら、一方で金閣の呪縛を脱して人生への扉を開きたいという欲求をもっている。(中略)ここに“私”の金閣にたいする愛憎併存がある」[6]と解説している。
また、田坂昮は、人生(女)への門をくぐろうとするや現れる金閣は、「『人生への渇望の虚しさ』を知らせる告知者なのであり、金閣があらわれるや人生は『塵のやうに飛び立つ』てしまうのである。美の目からみた人生はいわば俗塵にすぎないのであり、美の世界は現実世界あるいは人間界を超えた別世界なのである。金閣がわれわれの前にあらわれるとは、『美の永遠的な存在が真にわれわれの人生を拒み、生を毒する』ものとしてあらわれることであり、このような毒は『生そのものも、滅亡の白茶けた光りの下に露呈してしまふ』というわけである」[6]と、作中の語句を引用しながら解説している。そして、結びの「生きようと私は思つた」について田坂は、作中で溝口が言う「別誂への、私特製の、未開の生がはじまるだらう」という掴みどころがない生の意味を指摘し、「『生きる』としても、それは生なのか死なのかわかちがたいような『生きる』なのである」[6]と述べている。
橋川文三は、溝口の、「敗戦は私にとつては、かうした絶望の体験に他ならなかつた。今も私の前には、八月十五日の焔のやうな夏の光りが見える。すべての価値が崩壊したと人は言ふが、私の内にはその逆に、永遠が目ざめ、蘇り、その権利を主張した」という告白を挙げ、橋川自身の戦時中の心境と重ね合わせながら、「戦争のことは、三島や私などのように、その時期に少年ないし青年であったものたちにとっては、あるやましい浄福の感情なしには思いおこせないものである。それは異教的な秘宴(オルギア)の記憶、聖別された犯罪の陶酔感をともなう回想である。およそ地上においてありえないほどの自由、奇蹟的な放恣と純潔、アコスミックな美と倫理の合致がその時代の様式であり、透明な無為と無垢の兇行との一体感が全地をおおっていた。(中略)敗戦は彼らにとって不吉な啓示であった。それはかえって絶望を意味した。三島の表現でいえば『いよいよ生きなければならぬと決心したときの絶望と幻滅』の時間が突如としてはじまる。少年たちは純粋な死の時間から追放され、忍辱と苦痛の時間に引渡される。あの戦争を支配した“死の共同体”のそれではなく、“平和”というもう一つの見知らぬ神によって予定された“孤独と仕事”の時間が始る。そしてそれは、あの日常的で無意味なもう一つの死 ― いわば相対化された市民的な死がおとずれるまで、生活を支配する人間的な時間である。それは曖昧でいかがわしい時代を意味した。平和はどこか“異常”で明晰さを欠いていた」[7][8]と解説している。
作品全体の評価について橋川文三は、「敗戦の日、金閣寺と主人公の共生は断たれる。金閣寺は、あの失われた恩寵の時間を凝縮して、永遠の呪詛のような美に化生する。主人公は美の此岸にとりのこされ、もはや何ごととも共生することができない。― この辺りには、戦中から戦後へかけての青年の絶望と孤独の姿が、比類ない正確さで描き出されており、金閣=美を戦中の耽美的ナルシシズムにおきかえるならば、戦後もなお主人公を支配する金閣の幻影が、青年にとって何であったかを類推するに困難ではないであろう。そこから、金閣寺を焼かねばならないという決意の誕生もまた、戦後の三島の精神史にあらわれた『裏がえしの自殺』の決意にほかならないことも明らかになるであろう。こうして、この作品は、実際の事件に仮託しながら、三島の美に対する壮大な観念的告白を集大成したような観を呈しており、美の亡びと芸術家の誕生とを、厳密な内的法則性の支配する作品の中に、みごとに定着している。『仮面の告白』に遙かに呼応する記念碑的な作品である」[9][8]と述べている。
実際の事件との関連[編集]
事件を題材としているが、事件はあくまで創作の契機と素材をあたえたにどどまり、小説『金閣寺』は一個の文学作品であるから当然ではあるが、登場人物はもとより、「私」の行動など、事実とはかなり異なる。一例として、終結部分で、「私」は生きようとして小刀とカルモチン(催眠剤)を投げ捨てているが、実際の事件の犯人・林養賢は、山中でカルモチンを飲んだ上、小刀で切腹した(未遂に終わる)。なお、林養賢も作中同様、吃音であった。
水上勉も同事件を取り上げ、長編小説で『五番町夕霧楼』(1963年)、ノンフィクションで『金閣炎上』(1979年)を出版している(各、新潮文庫ほかで再版)[10]。
映画化[編集]
- 脚本:和田夏十。監督:市川崑。音楽:黛敏郎。
- 出演:市川雷蔵(私=溝口吾市)、仲代達矢(戸刈(柏木))、中村鴈治郎(老師)、北林谷栄(溝口の母)、新珠三千代(生花の師匠)、中村玉緒(遊女・まり子)、浜村純(溝口の父)、舟木洋一(鶴川)、ほか
『金閣寺』(映像京都=ATG) 1976年(昭和51年)7月封切。
『Mishima: A Life In Four Chapters』 1985年(昭和60年) 日本未公開
- 製作会社;フィルムリンク・インターナショナル、アメリカン・ゾエトロープ、ルーカスフィルム。
- 監督:ポール・シュレイダー。音楽:フィリップ・グラス。美術:石岡瑛子。
- 出演:五代目坂東八十助(十代目坂東三津五郎)(溝口)、佐藤浩市(柏木)、萬田久子(遊女・まり子)、ほか
- ※ 第1部『美(beauty)』内で、一部分の挿話のみを映像化。
戯曲化[編集]
新派『金閣寺』
オペラ『金閣寺』
- 1976年(昭和51年)6月23日、25日、27日 ベルリン・ドイツ・オペラ
- 作曲:黛敏郎。脚本:クラウス・H・ヘンネベルク、リブレットはドイツ語。演出:G・R・ゼルナー。指揮:カルパール・リヒター。出演:ウィリアム・ドゥーリー、ドナルド・グローベー、ほか
オペラ『金閣寺』 三島由紀夫没後20年グスタフ・ルドルフ・ゼルナー追悼公演
- 1991年(平成3年)3月3日、8日 Bunkamura オーチャードホール
- 作曲:黛敏郎。脚本:クラウス・H・ヘンネベルク。演出:ヴィンフリート・バウェルンファイント。指揮:岩城宏之。出演:勝部太、松本進、ほか
- ※ ベルリン・ドイツ・オペラ委属作品。
- ※ 1994年 (平成6年)10月、ファンテックより舞台録音のCD発売。
オペラ『金閣寺』
- 1997年(平成9年)11月27日、29日 大阪音楽大学ザ・カレッジ・オペラハウス
- 作曲:黛敏郎。脚本:クラウス・H・ヘンネベルク。指揮:岩城宏之。演出:栗山昌良。出演:井原秀人、油井宏隆、ほか
- ※ 黛敏郎追悼公演。
- ※ 1999年(平成11年)9月3日、5日に東京文化会館で、1999年(平成11年)12月5日、滋賀県立芸術劇場 びわ湖ホールで再演。
舞踊『金閣寺』
舞台劇『金閣寺』
- 2011年1月29日 - 2月14日 KAAT神奈川芸術劇場
- 演出:宮本亜門。脚本:セルジュ・ラモット。主演:森田剛、高岡蒼甫、ほか
- ※ 2011年7月21日 - 24日にNYリンカーン・センター・フェスティバル、2012年1月27日- 2月12日に赤坂ACTシアター、1月19日- 22日に梅田芸術劇場で再演。
ラジオドラマ化[編集]
シネマ劇場『炎上』(ニッポン放送) 1958年(昭和33年)7月27日 - 8月17日
現代日本文学特集 第5夜『金閣寺』(NHKラジオ第二) 1959年(昭和34年)6月27日
おもな刊行本[編集]
- 『金閣寺』(新潮社、1956年10月30日)
- 限定版『金閣寺』(新潮社、1956年10月30日) 限定200部(署名入)
- 装幀:寺元美茂。総革装。三方金。貼函。巻紙。奥付および函の巻紙に限定番号記番。見返しに署名。
- ※ 200部のうち、20部は無番号で著者家蔵本。
- 文庫版 『金閣寺』(新潮文庫、1960年9月15日。改版1967年、1987年、2003年)
- カバー装幀:今野忠一。付録・解説:中村光夫。
- ※ 1968年、1973年に学校図書館用セットの一冊として、クロス装でも発売。
- ※ 改版1987年より、付録に佐伯彰一「人と文学」、注解(田中美代子)、年譜を付加。
- ※ 改版2003年より、カバーを速水御舟『炎舞』に改装。
- 大活字本『金閣寺 上』(埼玉福祉会、1984年10月10日) 限定500部
- 装幀:関昭夫。紙装。A5判。
- 第1章 - 第5章。本文末に注解。
- 大活字本『金閣寺 下』(埼玉福祉会、1984年10月10日) 限定500部
- 英文版『The Temple of the Golden Pavilion』(訳:アイヴァン・モリス)(Penguin Books Ltd; New版、1987年7月。他多数)
脚注[編集]
- ↑ 「NHKニュースおはよう日本」(2011年2月5日放送より)
- ↑ 三島由紀夫『同人雑記』(季刊雑誌・声 第八号、1960年10月に掲載)
- ↑ 3.0 3.1 中村光夫「『金閣寺』について」(文庫版『金閣寺』(新潮文庫、1960年)付録解説)
- ↑ 佐伯彰一「三島由紀夫 人と文学」(文庫版『金閣寺』(新潮文庫、1960年)付録解説)
- ↑ 5.0 5.1 伊藤勝彦『最後のロマンティーク 三島由紀夫』(新曜社、2006年)
- ↑ 6.0 6.1 6.2 6.3 田坂昮『増補 三島由紀夫論』(風濤社、1977年)
- ↑ 橋川文三「夭折者の禁欲 ― 三島由紀夫について」(『増補 日本浪漫派批判序説』)(未来社、1965年)
- ↑ 8.0 8.1 橋川文三『三島由紀夫論集成』(深夜叢書社、1998年)にも収む。
- ↑ 橋川文三「主要作品解説 金閣寺」(『現代日本文学館42 三島由紀夫』)(文藝春秋、1966年)、『新版 現代知識人の条件』(弓立社、1974年)にも収む。
- ↑ 対照的な三島由紀夫と水上勉の両者を比較し論じた文芸評論に、酒井順子『金閣寺の燃やし方』(講談社、2010年10月)がある。
参考文献[編集]
- 新潮文庫版『金閣寺』(解説 中村光夫・佐伯彰一)(新潮社、1960年)
- 佐藤秀明編 『三島由紀夫「金閣寺」作品論集』(近代文学作品論集成17、クレス出版、2002年)
- 松本徹・佐藤秀明・井上隆史責任編集『三島由紀夫・金閣寺 三島由紀夫研究6』(鼎書房、2008年)
- 『決定版 三島由紀夫全集第42巻・年譜・書誌』(新潮社、2005年)
- 田坂昮『増補 三島由紀夫論』(風濤社、1977年)
- 橋川文三『三島由紀夫論集成』(深夜叢書社、1998年)