宴のあと
『宴のあと』(うたげのあと)は、三島由紀夫の長編小説。1960年(昭和35年)、雑誌「中央公論」1月号から10月号に連載され、同年11月15日に新潮社より単行本刊行された。現行版は新潮文庫で重版され続けている。
当初、初単行本は中央公論社より刊行される予定であったが、小説のモデルとされた元外務大臣・東京都知事候補の有田八郎の抗議を受けて、中央公論社の嶋中鵬二社長が二の足を踏んだため、新潮社からの刊行となった。その後、本作は1961年(昭和36年)3月15日、有田八郎からプライバシーを侵すものであるとして、三島と新潮社は訴えられ、長期の裁判沙汰に巻き込まれた(詳細は「宴のあと」裁判を参照のこと)。
本作は、主人公の女将・かづの行動的な情熱を描き、知識人的、政治的理想主義よりも、選挙違反もものとしない愛情と、裏切りもやってのける情熱で、一見政治的でない民衆的で無学なかづの方が政治的であったという皮肉と対比を鮮やかに描いている。また同時に、現実の政治を動かしている濁りも描き、堅牢な構成力と魅力のある人物造形で完成度の高い作品である[1][2]。
1964年(昭和39年)度のフォルメントール国際文学賞 (Formentor Literature Prize)で、英訳版『宴のあと』(“After the Banquet”)が第2位を受賞した。ちなみに、この年度の第1位作品はナタリー・サロートの『黄金の果実』であった。
あらすじ[編集]
保守党御用達の高級料亭「雪後庵」を営む女将・福沢かづは、独身ながら50代を迎え、人生を達観した気持ちで日々過ごしていた。ある日、かづは客として店に来た革新党の顧問で元大臣・野口雄賢に出会い、その気高い無骨さに魅かれてゆく。野口は妻を亡くし独身だった。かづと野口は何度か食事を重ね、奈良の御水取りにも旅し、自然と結婚することとなった。
野口は、革新党から東京都知事選に立候補することになった。かづは革新党の選挙参謀の山崎素一を腹心としながら、大衆の心を掴むような金を散財する選挙運動に邁進する。貯めた銀行預金が不足したら、雪後庵を抵当にかけても野口の選挙を支援しようとしていた。しかし、その土着的なやり方を野口に激しく叱責にされた。そして、雪後庵を閉鎖しないなら離婚するとまで野口に言い渡された。
結局、都知事選は、ライバルの保守党による中傷文書のばら撒きや汚い妨害工作に合い、野口が敗北した。そして、野口は政治から離れ、かづと2人でじじばばのように暮す隠遁生活をはじめようと提案する。しかし、かづは精魂こめて金を使った自分より、汚いやり方で金を使った相手が勝ったことが許せず、敗北の空虚に耐えられなかった。かづは、この償いに旧知の間柄でもあった保守党の黒幕・永山元亀の金で雪後庵を再開させよう画策した。
このことを知った野口は、かづに離縁をつきつけた。そして、かづは野口家の墓に入る夢を捨て、雪後庵を再開することの方を選び、野口と別れることを決意する。
エピソード[編集]
本作に登場する雪後庵は、東京・白金台に実在した高級料亭「般若苑」をモデルとした。その土地は元は薩摩藩の別荘だった場所だという。昭和初年、荏原製作所の創業者が奈良・般若寺の庫裏を移築して邸宅を構えた。1948年(昭和23年)に畔上輝井(あぜがみ・てるい)が買い取って般若苑を開業、多くの政財界人、著名人が訪れた。2005年(平成17年)に閉店し、現在、建物は撤去された。
野口雄賢のモデルとなった有田八郎は、福沢かづのモデルの畔上輝井と1953年(昭和28年)に再婚し、1959年(昭和34年)に離婚した。
おもな刊行本[編集]
- 『宴のあと』(新潮社、1960年11月15日)
- 文庫版『宴のあと』(新潮文庫、1969年7月20日。改版1988年)
- 付録・解説:西尾幹二。
- 英文版 『After the Banquet』(訳:ドナルド・キーン)(Random House Inc、1973年1月。他)
脚注[編集]
参考文献[編集]
- 文庫版『宴のあと』(付録・解説 西尾幹二)(新潮文庫、1969年。改版1988年)
- 『決定版 三島由紀夫全集第42巻・年譜・書誌』(新潮社、2005年)
- 佐藤秀明『日本の作家100人 三島由紀夫』(勉誠出版、2006年)