複雑な彼
『複雑な彼』(ふくざつなかれ)は、三島由紀夫の長編小説。1966年(昭和41年)、週刊誌「女性セブン」1月1日号から7月20日号に連載され、同年8月30日に集英社より単行本刊行。現行版は角川文庫で刊行されている。三島の純文学作品とは趣きの異なる娯楽的作風である。書籍出版に先立つ1966年(昭和41年)6月22日には、田宮二郎主演で映画も封切られた。
本作は、国際線男性フライトアテンダントに恋するお嬢さんと、複雑な彼の遍歴をめぐる物語である。主人公・27歳の宮城譲二のモデルは、実在した日本航空の元男性客室乗務員で、その後作家となった安部譲二(本名・安部直也)である。「安部譲二」というペンネームはこの小説の主人公の名前に由来する。昭和30年頃、三島が訪れていた銀座のゲイバーで、当時、暴力団員であった安部(18歳)が店の用心棒をしていたことから、三島と安部は知り合いになったという[1]。
あらすじ[編集]
父の仕事の秘書としてアメリカへ同行するようになった森田冴子は、サンフランシスコ行きのNAL機に乗っていた。機内では酒のサービスを優雅にこなす惚れ惚れするような精悍な背中のスチュワードがいた。彼は英国流の英語とフランス語も流暢にこなし、気持のいい笑顔の男性だった。彼は浅黒い童顔で鼻がこころもち曲がっているのが残念だったが、冴子に強い印象を残してホノルルで降りていった。
サンフランシスコに着いた冴子は、元・スチュワーデスの友人・ルリ子にさりげなく、そのスチュワードのことを話題にしてみた。ルリ子はすぐにわかり、彼が昔、井戸堀の仕事をしていて、仇名が「井戸堀君」ということを話した。「あいつ、いい加減な男よ」と言うルリ子だった。ニューヨークで冴子の護衛に付いたハワイ出身の2世の社員からも、ロンドンでバーテン修業をしていたという彼の噂を冴子は耳にした。彼は宮城という名前だった。冴子は帰りの飛行機も往路と同じにしたが、宮城は搭乗して来なかった。しかし、しょんぼりしている冴子に話しかけてきた年配のパーサーから、彼の噂を聞きだすことができた。宮城は銀行員の息子で横浜生まれだが、19歳の頃、名古屋で沖仲仕の小頭をしていたらしい。また、宮城は少年の頃、新聞社で英国特派員をしている冴子の伯父・須賀に世話になったことがあったという話も知った。
日本に帰った冴子は伯父・須賀のいる新聞社を訪ねた。須賀は昔、宮城の父親から、ロンドンの学校を追い出された息子・譲二の身柄をあずかってくれと頼まれ、16歳の譲二を新聞社のカメラマン助手として使っていたのだった。図体の大きい譲二は、当時イギリス王室の戴冠式へやって来た皇太子明仁親王の写真も、外人達の垣から上手く撮り、重宝がられた。ある時、譲二はカメラマンに命じられ忠犬のように産業スパイの仕事をやらされたが、そのことが公になったとき、すべての罪を自分だけになすりつけられた。裏切られて傷ついた彼は失踪してしまったのだという。
新聞社でNALの社員名簿を調べ、宮城譲二と連絡がとれた須賀は、彼をさっそく食事に誘い、冴子も同伴した。宮城は機内にいた冴子のこと覚えていた。冴子は食事中、宮城にいじわるな質問したりした。食事の後のナイトクラブで譲二は、そんな冴子に、自分が保釈中の身であることをこっそり打ち明けて驚かしてやった。2人が踊っていたその時、アンという女が冴子に嫉妬し、平手打ちをした。冴子は須賀とすぐに立ち去った。アンは、譲二が15歳でロンドンにやって来たときの身許引受人・ホーダア女史の娘だった。一騒動起して学校の寄宿舎を追い出された譲二は、再びホーダア母子に世話になり、その時にアンと譲二は結ばれたのだった。アンは18歳、譲二は16歳の時だった。その後、紆余曲折の末、アンとは喧嘩別れしていた。
譲二は冴子に会って早く謝り、誤解を解きたいと思っているうち、自分が冴子に惚れていることに気づいた。譲二は昔の恋人だったルリ子にも、そのことを打ち明けた。まだ譲二に気があったルリ子は、冴子に秘密をバラされたくなかったらと脅し、譲二に抱かれた。ある日、冴子はエジプト大使館のパーティーで知り合ったマダム・ザルザールを自宅に招いた。14歳でインドからエジプトへお嫁に行き、16歳で未亡人となった彼女の17歳の時の恋の思い出話の中に、結婚寸前までいって別れた同い年の日本人・ミヤギ・ジョージが出てきた。冴子は自分が17歳の彼女になって、17歳の譲二に会いたかったと不可能な夢を思い描いた。一方、譲二のアパートには時折、「ふしぎな男」がやって来ていた。戦争中、満州で実力者だった人物の腹心らしかった。譲二を見込んで秘密の仕事の勧誘に来ていたのだった。
冴子と譲二は初デートでキスをし、たちまち恋仲となった。しかし冴子は父の仕事に同行して、リオ・デ・ジャネイロに1ヶ月滞在しなくてはならなくなった。翌日NAL機に搭乗する譲二に冴子はそのことを言った。「ひどいや、ひどいや、1ヶ月も会えないなんて」と駄々をこねる譲二だった。冴子がブラジルへサンフランシスコ経由で行く飛行機に、譲二は乗務予定を代わってもらってまで乗り込んでいた。びっくりした冴子。2人は機上での短い逢瀬を惜しんだ。
コパカバーナ・ホテルに冴子が1人でいるとき、フロントから電話があった。譲二が強引に休暇を取って、リオまで来たのだった。冴子の護衛のブラジル人を手なずけて2人はリオでの秘密のデートを楽しんだ。譲二は昔、ボクシングもやっていたらしい。泳ぎも得意らしいのだが、冴子が海で泳ごうと誘っても乗ってこなかった。譲二は冴子の体を求めてきたが、結婚するまでけじめを守りたい冴子は、「結婚するまではあなたのお部屋へは行けないわ」と譲二にすがりつき、明日、父に正式に結婚を申し込んでほしいと言った。
あくる日、冴子父娘はずっと譲二の来訪を待っていたが、彼は来なかった。冴子は泣き崩れた。譲二はその日のうちにリオを発っていた。日本に帰った譲二のアパートに、また「ふしぎな男」が現れた。そして、黒幕を匂わすような口ぶりで、「あの方」は君に惚れ込んでおられる、「あの方」は、近ごろの東南アジアの情勢に深く心を痛めていらっしゃる、今、1人の日本人が身を挺してこれを救わなければ、アジアは救われないと考えておられると言い、君が必要なんだと譲二を説得した。保釈中の譲二がNALに就職できたのも「あの方」の裏の力だった。冴子と別れ、もう命など惜しくない譲二は承諾した。
そこへ、やつれた冴子が訪ねて来て、「とうとう『あなたのお部屋』へ来たわ」と譲二に言った。「ふしぎな男」は譲二に、秘密をお見せしてはどうだ、と言い出した。苦しげに後ろを向いた譲二は、ワイシャツを脱ぎ捨てた。冴子が惹かれたその広い背中にあったのは、見事な刺青だった。男の、「どうなんです、彼について行くつもりはありますか」の問いに、冴子は、「行きます」と答えたが、男は次々と後悔する理由を並べていき、明日までよく考えなさい、譲二はずっといますから、と冴子を優しく追い返した。男はうなだれている譲二に、さあ、荷物をまとめて、あの方のところへ行こうと促し、譲二もコックリとうなずいた。
作品評価・解説[編集]
三島は本作の主人公について、「彼の行動は男性の夢ですが、ふつうの男はとても彼のやうに、かつて気ままには、ふるまへません。だれしもわが身がかはいいので、いいかげんのところで妥協して、身をかばひます。しかし、彼はちがひます。彼はいつか自分の自由のためにつまづかなければならない。かういふふうに、男が男であるためにつまづく、といふ例は現代ではますます少なくなつてゆく。(中略)この小説の校正刷りを読んで、私の学校の後輩である田宮二郎君が、『この役をやれるのは日本中で俺一人だ。』と公言したことから、大映で映画化されることになりました。“その意気たるや壮”であつて、俳優はそれくらゐの気概がなくてはなりません。」と述べている[2]。
映画化[編集]
『複雑な彼』(大映) 1966年(昭和41年)6月22日封切。カラー 1時間24分。
スタッフ[編集]
キャスト[編集]
- 宮城譲二:田宮二郎
- 森田冴子:高毬子
- 森田直人:佐野周二
- 須賀健作:中村伸郎
- 不思議な男:若山弦蔵
- 山本ルリ子:滝瑛子
- 佐々木千鶴子:渚まゆみ
- 大日新聞事業部員:佐山真次
- 大日新聞事業部員:佐伯勇
- 給仕長:豪健司
- 女中:目黒幸子
- 基地の女:紺野ユカ
- アン・ホーダア:イーデス・ハンソン
おもな刊行本[編集]
- 『複雑な彼』(集英社、1966年8月30日)
- 装幀:沢田重隆。紙装。機械函。青色帯。帯(裏)に著者肖像写真。
- 『複雑な彼』(集英社コンパクト・ブックス、1968年1月25日)
- カバー装幀:ホアン・ミロ。紙装。帯(裏)に著者肖像写真、略歴。
- 文庫版『複雑な彼』(集英社文庫、1987年10月25日)
- 文庫版『複雑な彼』(角川文庫、2009年11月25日)
脚注[編集]
参考文献[編集]
- 文庫版『複雑な彼』(付録・解説 安部譲二)(角川文庫、2009年)
- 『決定版 三島由紀夫全集第42巻・年譜・書誌』(新潮社、2005年)
- 『決定版 三島由紀夫全集第12巻・長編12』(新潮社、2001年)
- 『決定版 三島由紀夫全集第33巻・評論8』(新潮社、2003年)