平岡美津子
平岡 美津子(ひらおか みつこ、1928年(昭和3年)2月23日 - 1945年(昭和20年)10月23日)は、三島由紀夫の妹。その死が、青年時代の三島由紀夫の執筆活動に大きな影響を与えた[1]。
生涯[編集]
1928年(昭和3年)2月23日、東京市四谷区永住町2番地(現・東京都新宿区四谷4丁目22番)に、父・平岡梓(農商務官僚)と母・倭文重(漢学者・橋健三の次女)との間に長女として生まれる。3歳上に、1925年(大正14年)1月14日生まれの兄・公威がいた。1930年(昭和5年)1月19日に弟・千之が生まれる。
1944年(昭和19年)3月、4月に、兄・公威と歌舞伎『仮名手本忠臣蔵』、『大楠公の最期』、『大楠公夫人』、『二人袴』などを見に行く。
三輪田高等女学校(現・三輪田学園中学校・高等学校)を経て、聖心女子学院専門部在学中の1945年(昭和20年)10月10日、学徒動員で疎開されていた図書館の本の運搬作業中、菌を含んだなま水を飲んだのが原因で腸チフスを発病する。母・倭文重と公威が交代で看病するが、同月23日、大久保の避病院で死去。兄・公威は号泣したという。
人物[編集]
三島由紀夫は、「昭和二十年から二十二・三年にかけて、私にはいつも真夏が続いてゐたやうな気がする。あれは兇暴きはまる抒情の一時期だつたのである。(中略)私は妹を愛してゐた。ふしぎなくらゐ愛してゐた。(中略)ある日、妹は発熱し、医者は風邪だと言つたが熱は去らず、最初から高熱がつづき、食欲が失くなつた。(中略)チフスと診断が確定すると、当時隔離病室が焼けてゐたので、そのまま避病院へ移された。体の弱い母と私が交代で看護したが、妹は腸出血のあげくに死んだ。死の数時間前、意識が全くないのに、「お兄ちやま、どうもありがたう」とはつきり言つたのをきいて、私は号泣した。(中略)戦争中交際してゐた女性と、許婚の間柄になるべきところを、私の逡巡から、彼女は間もなく他家の妻になつた。妹の死と、この女性の結婚と、二つの事件が、私の以後の文学的情熱を推進する力になつたやうに思はれる。種々の事情からして、私は私の人生に見切りをつけた。その後の数年の、私の生活の荒涼たる空白感は、今思ひ出しても、ゾッとせずにはゐられない。年齢的に最も溌剌としてゐる筈の、昭和二十一年から二・三年の間といふもの、私は最も死の近くにゐた」[1]と述べている。佐藤秀明は、この一文について、「看病に明け暮れた三島は号泣した。頭が下がるほど一生懸命に看病したと、父の梓は書いている。(中略)(三島が)ごくあっさり書こうとしている分、三島の内的な昂ぶりが尋常でないことを窺わせる。二十歳の三島は、苦しく辛い感情を引きずって戦後を出発しなければならなかった」[2]と解読している。
また、自決の前年の1969年(昭和44年)1月の「毎日グラフ」のインタビューで三島は、「泣かれたことがありますか?」と問われ、「昭和二十年に妹が死んだとき以来泣いたことはない」[3]と答えている。
美津子の三輪田高等女学校時代の同級生には、湯浅あつ子(ロイ・ジェームスの妻。湯浅の家のサロンは『鏡子の家』のモデルとなった)の妹・板谷諒子がいた。当時を知る湯浅あつ子は、「(三島は)妹、美津ちゃんを、とても可愛がっていた。自分と違い、思ったことをハキハキいえ、きかん坊でイタズラっ子で、平岡家の太陽だった。私には下級生に当り、私の妹と同級で仲もよく、あだ名の“ヒラメ”のように、軽やかに海中を泳ぐがごとく、学校中に明るさをまきちらしながら、楽しげによく遊び、よく学んでいた。頭脳明晰は、まさに平岡家のもので素晴らしかった」[4]と美津子の性格を語っている。
また、湯浅あつ子は、「そんな美津ちゃんが、勤労動員中に飲んだなま水に、多分体調をくずしていたのであろう一人だけ腸チフスになり、三、四日で呆気なく、しかし意識だけは最後まではっきりしていて、オロオロつきそう三島由紀夫に、はっきりと、力をこめて、『お兄ちゃま!有難う』と別れを告げて、十七歳ちょっとで避病院で息をひきとった。三島由紀夫は、生まれて初めて号泣した。 父梓も、ただ一人の女の子として、溺愛していたため、最期を看取ることさえ出来ぬほどのショックだったそうだ。この美津ちゃんの最期を語る彼を、私は何度となく見たが、その度に、今の目の前の現実のように、三島由紀夫の目からは涙がハラハラとこぼれ落ちた。 母倭文重も彼と同じように何十年たっても、語る前、名前を口にしただけで、涙声にかわったのを見て、私は、美津ちゃんがこの平岡家で、とかく気持がバラつく一族をうまくかしこく結ぶ貴い糸の存在だったのが分かった。そして、三島由紀夫は、妹を女(異性)として第一番に感じ、それは肉親愛ともちょっと違う初めての “愛”だったのだと思える」[4]と述べている。さらに、三島が1954年(昭和29年)から1957年(昭和32年)頃まで真剣交際していた女性・後藤貞子(旧姓・豊田貞子)[5]について、「彼女はとても美人で、お人形のような顔立ちで、不思議に亡妹美津ちゃんに似ていた」[4]と述べている。
美輪明宏は、三島と結婚した杉山瑤子に会ったときのことを、「私、瑤子さん見たとき、びっくりしましたもの。亡くなった妹さんの写真にそっくりで」[6]と述べている。
美津子と聖心女子学院で同級生だった紀平悌子(旧姓・佐々悌子)によると、美津子は、「かわいそうなの、うちのお兄ちゃま。(中略)お父さまは、小説家なんかにならずに役人になれっていうし、お兄ちゃまが小説を書いていると、いい顔をしないの。ひどいのよお父さまったら、お兄ちゃまの原稿用紙をみつけると、片っ端から破って捨てちゃうの。ほんとうにかわいそう。(中略)お兄ちゃまがお父さまに反抗すると、想像もつかないほど怒り狂うのよ、お父さまは」と語っていたという[7]。
美津子の死後、1947年(昭和22年)から1948年(昭和23年)頃、三島は紀平悌子(佐々淳行の姉)と交際していたという[8]。また、1950年(昭和25年)から1951年(昭和26年)頃には、同じく妹の同級生だった板谷諒子と交際をしていたという[9]。
川島勝(講談社の編集者で25年間、三島と交流があった)は、「三島には終戦の年の十月に勤労動員の疲れから腸チフスに罹って亡くなった妹がいた。(中略)たまたま私の家内がその妹の美津子と女学校時代の同窓だった。母倭文重からその話を聞いた三島は『あなたの奥さん、うちの妹と同級だったんですって……よかったらいちど遊びにいらっしゃいませんか』と言った。(中略)この日は夕方までお邪魔をした。庭続きに住む両親の平岡梓夫妻も招んで、瑤子夫人の手料理の歓待を受けた。 (中略)三島は父親と同席のときはたいてい聞き役に回っていたが、この日はとくに妹美津子と家内を重ねて当時のことを思い出していたのか心なしか寡黙にみえた」[10]と語っている。
三島は美津子の霊を登場させた短編『朝顔』[11]を1951年(昭和26年)に書いている。「妹の死後、私はたびたび妹の夢を見た。時がたつにつれて死者の記憶は薄れてゆくものであるのに、夢はひとつの習慣になつて、今日まで規則正しくつづいてゐる。(中略)夢の中では妹は必ず生きてゐた。医者から見離された身が、はからずも奇蹟的に助かつて、私たち家族のまどゐのなかに再び見出されたりするのである。『よかつたね、治つてよかつたね』 さういひながら、私は一脈の不安をぬぐえずにゐる。もしかこれが夢ではないかと疑ふ気持をぬぐえずにゐる……。私は永い旅を終へて家へかへつた。(中略)しばらくして玄関を出て来たのは妹である」[11]と綴られていく。
三島の戯曲『朱雀家の滅亡』(1967年)のヒロイン・瑠津子(るつこ)を演じた村松英子は、この女学生のヒロインの名が「美津子」と似ていることから、「この作品は先生のノスタルジーですね」と三島に尋ねると、優しく微笑して、「そうだよ。僕のノスタルジーだよ」と言ったという[12]。三島の戯曲には他にも『美濃子』(1964年)などがある。また、短編『岬にての物語』(1946年)は、兄と妹の愛を暗示しているという[13]。他にも、短編『家族合せ』(1948年)、『罪びと』(1948年)、長編『音楽』(1964年)、戯曲『熱帯樹』(1960年)など、兄と妹の異性関係、近親相姦を描いた作品がある。このことについて瀬戸内寂聴も、「兄と妹の近親相姦を書いた『熱帯樹』という戯曲があるけれど、妹さんを思う気持ちは強かったんですね」[6]と述べている。三島は『熱帯樹』の劇場プログラムの中で、「肉慾にまで高まつた兄妹愛といふものに、私は昔から、もつとも甘美なものを感じつづけて来た」[14]と記している。
三島と妹との関係について野坂昭如は、「妹美津子も、三島にとって確かな存在だった」と述べ、「三島が三歳の時、美津子が生まれたが、家庭内別居の状態、八歳で住いが別れ、(中略)兄妹の意識はうすいまま三島が十二歳の春、ようやく一家は同じ屋根の上に暮す。(中略)十二歳で三島は、九歳の妹を持った。はっきり異性を意識したろう。それまで、祖母の妹たちの、いずれも子沢山の中の、女の子たちと遊ぶ機会はあっても、祖母の傘のうちでしかない。妹であればこその、男としての愛し得ない障害の予感が、三島を昂ぶらせた、保護者の快さもある、活字でしかしらなかった女の、初々しいながら、すべての萌芽を妹はしめす。美津子にしても、女の勘で、およその事情、兄の立場を理解、のみこんでいた。弟よりはるかに消息通だった。風変りな、気の毒な人とながめていたのが、一緒に暮してみれば、三島の、いち早く切り替えた、両親の膝下にあっての良い子面のせいもあり、けっこう活発だし、なにより頭が良い。妹の目からすれば、知らないことのない印象。梓はほとんど家をかえりみない、平岡家にとにかく、男があらわれたのだ。他人の期待にそって、そつなく役割をこなすことは、およそ父性を具体的に知らぬながら、三島にはできた。美津子の求めに、先んじて応対するなど、なつのそれに較べいかに容易なことか。妹の満足そうな表情に、三島も充足感を覚える。『お転婆』 『おしやま』 『あきつぽさ』 『わがまま』 『驕慢』のそのすべてが、好ましい。しかも、中等科へ入れば、才能を認めた教師の寵を受け、はるか年上の文芸部員が、対等のつき合いをしてくれる。(中略)そして肩肘張ったその疲れを、美津子が癒した」[15]と述べている。
また、野坂昭如は、「(『仮面の告白』の)園子には、妹の投影があった、犯してはならないというためらいがあった。しかるに園子は、敗戦後すぐに婚約、その年の暮、結婚している。美津子を作品の中で、娼婦に仕立ててしまうのは、この園子の女心の変転ぶりに、自分がひたむきであっただけ、絶望し軽蔑し、これを、妹にも及ぼしたのだろう」[15]と、三島が短編『家族合せ』(1948年)で妹を娼婦にしている理由も分析している。
三島は、短編『罪びと』(1948年)で、リヤカーで荷物運搬中に飲んだ水が原因でチフスになり亡くなるミッション・スクールの「郁子」を登場させているが、この美津子をモデルにしている郁子は主人公の許婚という設定となっている。また、郁子に水を飲むことを勧めた同級生は、主人公と夏休みに避暑地であやまちを犯したという設定で、三島と軽井沢で接吻をした三谷邦子(『仮面の告白』の園子)をモデルとしているが、これについて村松剛は、「妹の死」と「失恋」という2つの主題が、この小説では混ぜ合わされていると述べている。また、村松剛は、『熱帯樹』に登場する妹の名も「郁子」、『純白の夜』のヒロインのも「郁子」で、この3作品に同じ名前を付けたことに何か特別な意味があるのかと、三島に尋ねたことがあるという。それについて三島は、「そんなことに気がつくのは、君くらいのものだろう」と苦笑し、そのことについてあまり言いたくないという感じだったので、村松は話題を転じたという[16]。
松本徹は、「天使的な純粋無垢さへの切実な希求」(『苧菟と瑪耶』、『サーカス』、『岬にての物語』、『頭文字』、、『盗賊』、『翼』など)と、「退廃的な色彩、同性愛を扱ったもの」(『中世』、『煙草』、『殉教』、『仮面の告白』、『禁色』など)、という2つの三島の相反する作品系列を挙げながら、さらにそこに、もう一つの平行する系列として、「近親相姦を扱ったもの」(『軽王子と衣通姫』、『春子』、『家族合せ』、『火宅』、『灯台』、『聖女』、『熱帯樹』など)を挙げている。そして、『家族合せ』の作中、兄が「僕の体は十歳の子供にすぎないんだ」と言う場面に注目し、「彼は“純潔”という不能に掴まれた『十歳の子供』」、「してはならぬ行為へと誘われた時、禁忌を犯す恐怖によって、不能に陥ったまま、今に至っている」とし、「この兄に等しい人物たちが、他の二つの系列の作品では、ひたすら“純潔”を目指すか、性的欲望を満たすため同性へと向かう。(中略)近親相姦への恐怖によって、女への性的要求を自ら封じ込め、不能に陥るが、同性愛者と自分を規定することによって、その領域においてのみ欲望を解放した」と解読し、「基軸になるのは、実は近親相姦への恐怖なのかもしれません。そこから、『仮面の告白』とか『禁色』になった」[17]と見ている。また、松本徹は「近親相姦とか不能といったことに言及しましたが、(三島が)感受性が鋭敏で、倫理意識が常人以上に厳しいからこそ、こうなったのでしょう」と述べ、「(三島は)男が成人する道筋をゆっくり、さまざまな角度から照らし出し、克明に補佐しながら、たどったのです。(中略)そこから三島は、幾多の優れた作品を生み出している」[17]と述べている。
家族・親族[編集]
系譜[編集]
平岡家系図
孫左衛門━孫左衛門━利兵衛━平岡利兵衛━利兵衛━太左衛門━┓ ┃ ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ ┃ ┗━太吉━━━┓ ┣━┳━萬次郎━━┓ 寺岡つる━┛ ┃ ┣┳こと ┃ 桜井ひさ━┛┗萬壽彦 ┃ ┣━定太郎━━┓ ┃ ┣━梓━┳━公威(三島由紀夫)━┓ ┃ 永井なつ━┛ ┃ ┣┳━紀子 ┃ ┃ 杉山瑤子━━━━━━┛┃ ┃ ┃ ┗━威一郎 ┃ ┣━美津子 ┣━久太郎━━┓ ┗━千之 ┃ ┣┳義夫 ┃ (?)━━┛┗義一 ┃ ┗━むめ━━━┓ ┣┳義之 田中豊蔵━┛┣義顕 ┣繁 ┗儀一
脚注[編集]
- ↑ 1.0 1.1 三島由紀夫『終末感からの出発―昭和二十年の自画像』(文芸誌・新潮 1955年8月号に掲載)、『決定版 三島由紀夫全集第28巻・評論3』(新潮社、2003年)に収む。
- ↑ 佐藤秀明『日本の作家100人 三島由紀夫』(勉誠出版、2006年)
- ↑ 三島由紀夫『美を探究する非情な天才――三島由紀夫さんの魅力の周辺』(毎日グラフ 1969年1月19日号に掲載)、『決定版 三島由紀夫全集第35巻・評論10』(新潮社、2003年)に収む。
- ↑ 4.0 4.1 4.2 湯浅あつ子『ロイと鏡子』(中央公論社、1984年)
- ↑ 豊田貞子と三島の交際の詳細については、岩下尚史『ヒタメン 三島由紀夫が女に逢う時…』(雄山閣 、2011年)に詳しい。
- ↑ 6.0 6.1 美輪明宏・瀬戸内寂聴『ぴんぽんぱん ふたり話』(集英社、2003年)
- ↑ 安藤武『三島由紀夫「日録」』(未知谷、1996年
- ↑ 紀平悌子「三島由紀夫の手紙」(週刊朝日 1974年12月13日号連載手記)
- ↑ 解題・岸田今日子との対話「25周年 最後の秘話」(猪瀬直樹『ペルソナ 三島由紀夫伝』)(小学館、2001年)
- ↑ 川島勝「三島由紀夫の豪華本」(『決定版 三島由紀夫全集第9巻・長編9』付録・月報)(新潮社、2001年)
- ↑ 11.0 11.1 三島由紀夫『朝顔』(婦人公論 1951年8月号に掲載)、『ラディゲの死』(新潮文庫、1980年)と『決定版 三島由紀夫全集第18巻・短編4』(新潮社、2002年)に収む。
- ↑ 村松英子『三島由紀夫 追悼のうた』(阪急コミュニケーションズ、2007年)
- ↑ 渡辺広士「解説」(文庫版『岬にての物語』(新潮文庫、1978年)付録解説
- ↑ 三島由紀夫『「熱帯樹」の成り立ち』(文学座プログラム 1960年1月)、『熱帯樹』(新潮文庫、1986年)にも収む。
- ↑ 15.0 15.1 野坂昭如『赫奕たる逆光 私説・三島由紀夫』(文藝春秋、1987年)
- ↑ 村松剛『三島由紀夫の世界』(新潮社、1990年)
- ↑ 17.0 17.1 松本徹『三島由紀夫を読み解く(NHKシリーズ NHKカルチャーラジオ・文学の世界)』(NHK出版、2010年)
参考文献[編集]
- 猪瀬直樹『ペルソナ 三島由紀夫伝』(文藝春秋、1995年。小学館、2001年)
- 湯浅あつ子『ロイと鏡子』(中央公論社、1984年)
- 『決定版 三島由紀夫全集第42巻・年譜・書誌』(新潮社、2005年)
- 越次倶子『三島由紀夫 文学の軌跡』(広論社、1983年)
- 村松英子『三島由紀夫 追悼のうた』(阪急コミュニケーションズ、2007年)
- 新潮文庫版『岬にての物語』(付録解説 渡辺広士)(新潮社、1978年)
- 岩下尚史『ヒタメン 三島由紀夫が女に逢う時…』(雄山閣 、2011年)
- 野坂昭如『赫奕たる逆光 私説・三島由紀夫』(文藝春秋、1987年)