わが友ヒットラー
『わが友ヒットラー』は、三島由紀夫の戯曲。1968年(昭和43年)、文芸雑誌「文學界」12月号に掲載され、同年12月5日に新潮社から単行本刊行。初演は翌年の1969年(昭和44年)1月18日、劇団浪曼劇場第1回公演として紀伊國屋ホールで上演。現在まで数ヶ国の言語に訳され上演され続けている。
現行版は、新潮文庫の『サド侯爵夫人・わが友ヒットラー』で重版されている。両作品とも登場人物は、同性のみ(『サド侯爵夫人』は女6人、『わが友ヒットラー』は男4人)で、三島自身は両作品を、人間性の探求を含め一対の関係にあると捉えている。
作者・三島由紀夫による脚本読みの肉声録音が残っている[1]。
概要[編集]
舞台は、1934年(昭和9年)6月30日夜半のレーム事件前後のベルリン首相官邸の大広間。登場人物は、アドルフ・ヒトラー、エルンスト・レーム、シュトラッサー、グスタフ・クルップの実在人物の男性4人。第1幕と第2幕は事件数日前。終幕の第3幕は6月30日夜半。
突撃隊幕僚長・レームはあくまでヒトラーを友と信じる右翼軍人。社会主義者・シュトラッサーは教条的なナチス左派。鉄鋼会社社長・クルップはヒトラーにうまく取り入る死の商人として描かれる。
作者・三島由紀夫の弁によると、「レーム大尉は、歴史上の彼自身よりも、さらに愚直、さらに純粋な、永久革命論者に仕立ててある。この悲劇に、西郷隆盛と大久保利通の関係を類推して読んでもらつてもよい」[2][3]という。
あらすじ[編集]
第1幕 - 1934年6月。ベルリン首相官邸の大広間。奥にバルコニー。
- 前年に政権を獲得し首相となったナチス党党首・ヒットラーは聴衆を前に演説している。官邸に呼ばれた突撃隊幕僚長・レームとシュトラッサー、そして鉄鋼会社社長・クルップはそれぞれの思惑で演説の終わったヒットラーと対話する。
第2幕 - 翌朝。ベルリン首相官邸の大広間。
- 朝食後、ヒットラーは、レーム率いる突撃隊に長い休暇をとるように勧める。ヒットラーは、現大統領が死んで自分が大統領になるまで間、病気を装い休戦しろとレームに命じた。今や正規軍を指揮する立場にあるヒットラーは、ナチスの私兵の処分を考えていたのだった。そうとは知らないレームはヒットラーに厚い友情を抱き、「どんな時代になろうと、権力のもっとも深い実質は若者の筋肉だ。それを忘れるな。少なくともそれをお前のためにだけ保持し、お前のためにだけ使おうとしている一人の友のいることを忘れるな」と言い、その命令に同意して去る。
- レームとの会話を盗み聞きし、ヒットラーの意図に気づいたクルップが現れ、君の暗い額にひらめいたのは「嵐の兆そのものだった」と褒め、ヒットラーを持ち上げる。
- 昨夜からヒットラーの心中を感づいていたシュトラッサーはレームに、2人で逆にヒットラー抜きの政権を目指す策略案を提案する。そうしないと我々はヒットラーに殺されると言う。激しい会話の応酬が交わされるが、あくまでレームは、ヒットラーを裏切るような行動に加担できないと言い、聞き入れない。
第3幕 - 1934年6月30日夜半。ベルリン首相官邸の大広間。
- レームとシュトラッサーを「長いナイフの夜」で粛清した後の眠れぬ夜、ヒットラーはクルップを呼び出す。互いに粛清を正当化しつつ、クルップが、「アドルフ、よくやったよ。君は左を斬り、返す刀で右を斬ったのだ」と言い、ヒットラーが、「そうです、政治は中道を行かなければなりません」と答える台詞で幕引きを迎える。
評価・解説[編集]
伊藤勝彦は、「彼(三島由紀夫)はレームになりたかったのである。シュトラッサーのように、自分の先が読め、容易に人を信ずることができない猜疑心の強い男は、自分自身と同様、なによりもやりきれない存在だった。レームのように愚直で、誠実で、人を信じきることができる男になりたかったのだ。レームにしても、まるっきりのバカではない。ヒットラーの裏切りの可能性を知らないわけではなかった。疑いだせばきりがないほどその材料はそろっている。しかし、“わが友ヒットラー”を裏切ることだけは絶対にできない。彼はいわば戦士共同体を夢みる男だった。その夢が無残にこわされるくらいなら潔く死んだほうがましだった。(中略)たとえ裏切られてもいい。最後まで“わが友ヒットラー”を信じ、ヒットラーの信頼に応えるような、誠実な行動をとりつづけたい。こう考えたからこそ、シュトラッサーに同調しなかった。そうして見事に裏切られ、壮烈な死をとげたのである。(中略)(三島も)戦士共同体の再現はもはや帰らぬ夢であることを知りぬいていた。にもかかわらず、それを信じることにいのちを賭けてみたかった」[4]と述べている。
また、伊藤は、「(主人公・ヒットラーは)けっして狂気の人ではない。(中略)『政治は中道をいかねばなりません』とうそぶく。まさに冷酷無残な政治的人間である。しかし、これこそが現実政治の実態なのだということを作者は訴えたかったのであろう。(中略)その点、演出家(石沢秀二)の強調点も平幹二朗の演技もまちがっていた。ヒットラーが異常性格で狂人にひとしい存在であるという常識に妥協し、この劇の真精神を裏切っている。何よりも恐ろしいのは、もっとも冷静で、正気な人間のうちにも、狂人以上の冷酷無残がひそんでいるということである。われわれ自身がもっている正気という名の狂気こそもっとも戦慄的なものである。三島がいいたかったのは、『(中略)あなたはヒットラーを自分とは無縁な特殊人間に仕立てあげ、ヒューマニズムの中に安住していたいのだろうが、そのあなたの中にもヒットラーが生きている。あなた自身、“ヒットラーの友”なのかもしれませんよ』というこの一事であったのではなかろうか」[4]と述べ、「演出家の計算がこれほどまでに作者の真意をとりちがえているにもかかわらず、『わが友ヒットラー』は死せる三島由紀夫を甦えらせ、舞台から観客席の隅々にいたるまで、彼の存在を漲らせていた。(中略)すぐれた芸術作品はかくも不出来な演出の中においてすら、真価を発揮する」[4]と評している。
舞台公演[編集]
初演は三島主宰の劇団浪曼劇場の旗揚げ公演として、1969年(昭和44年)1月18日から31日まで紀伊國屋ホールで、松浦竹夫の演出、村上冬樹(ヒットラー)、勝部演之(レーム)、近藤準、中村伸郎らの出演により行われた。その後、2月1日 - 2日 名古屋・名鉄ホール、2月4日 京都会館第2ホール、2月6日 大阪・毎日ホール、5月9日 秋田県民会館、5月10日 新潟市民会館、5月22日 - 23日、6月14日 東京・農協ホールなど全国7か所で上演された。
初演以降の公演[編集]
劇団まほろば第3回アトリエ公演
- 1971年(昭和46年)12月5日 東京・まほろば稽古場
松竹 三島由紀夫作品連続公演
- 1975年(昭和50年)6月13日- 23日 東京・紀伊國屋ホール
- 演出:石沢秀二(青年座)。出演:平幹二朗(ヒットラー)、尾上辰之助(レーム)、菅野忠彦、田中明夫
- ※ ビクターより1975年(昭和50年)11月、舞台稽古録音のLPレコード発売。
劇団遥公演
極楽蜻蛉公演
- 劇団新芸術創立15周年記念公演「三島 in 猿楽町空間4」
- 1986年(昭和61年)8月2日 - 24日(土・日公演) 東京・猿楽町空間
- 演出:中城まさお。出演:中城まさお、竹広零二、久田昭三、五十川泰広
劇団テアトロ<海>第42回公演
うずめ劇場第1回公演
ク・ナウカ主催「野望祭」公演
- 2003年(平成15年)5月30日 - 6月2日 東京・法政大学学生会館大ホール
- 演出:倉迫康史。出演:阿部一徳、錦部高寿、大高浩一、吉植荘一郎
- ※ 『サド侯爵夫人』、ルイジ・ピランデルロ作『山の巨人たち』と連続公演。
ミシマダブル
- 2011年(平成23年)2月2日 - 3月2日 東京・Bunkamuraシアターコクーン
- 3月8日 - 3月20日 大阪・シアターBRAVA!
- 演出:蜷川幸雄。出演:東山紀之(レーム)、生田斗真(ヒットラー)、木場勝己(シュトラッサー)、平幹二朗(クルップ)
- ※ 同一キャストで『サド侯爵夫人』と『わが友ヒットラー』両演目が、交互に上演。『サド侯爵夫人』には、大石継太、岡田正が加わる。
エピソード[編集]
1968年(昭和43年)暮、『わが友ヒットラー』の来年上演予定の告知として新聞紙上に、ヒットラーに扮した村上冬樹や、勝部演之のレームの写真が掲載された。そのコスチュームが上野の中田商店あたりで買ったような米軍の中古の執務服に、二級鉄十字勲章のレプリカをつけただけだったのを見た、当時、中学3年だったヒットラー・マニアの少年が、劇団「浪曼劇場」に電話をかけて来たという。将来ドイツ現代史の研究家を志していたその少年・後藤修一は、歴史の時代考証上の協力を申し出た。三島はその申し出を喜び、その晩さっそく少年の家に電話をかけ稽古場へ来てもらうこととなったという[5]。
ナチスの制服や、突撃隊の軍服や勲章、ヒットラーの仕草、朝食のメニューなど細かい考証を助言した後藤修一は、当時を振り返り、「三島さんは革のジャンパーにGパンという軽装で現れ、僕は最初、大道具の方かと見まがったほどだった。『三島先生!』と呼びかけると三島さんは笑って『先生と呼ばれるほどの馬鹿でなし。三島さんで良い』と言われた。だから、僕は今でも一貫して『三島さん』である」[5]と述べている。当時、舞台監督をしていた和久田誠男によると、当初、原稿で、「シュトラーサー」となっていたのも、後藤に指摘され、再版で「シュトラッサー」に改められたという。和久田は、「その時、三島さんもいたんだよね。その子から、これはシュトラッサーですよ、って指摘を受けたんです」[6]と述べている。
また、公演閉幕後、高校生となった後藤修一は友人と共に閉幕パーティーに招待されたという。その時のことを回顧し、「三島さんが、当時の田辺茂一紀伊国屋書店社長に『こちらが今お世話になっている後藤さんです』と詰襟の高校生の僕を紹介されたことはとても感銘を受けた。三島さんは大学教授だろうが、高校生だろうが分け隔てをしない人だったのだ。真に偉大な人は外見や肩書に捉われないのだ。(中略)それから約一年十ヶ月後、三島さんは壮絶な諌死をされた。三島さんとの出会いは僕の人生を決定づけた。僕は生涯愛国者として生きようと決意したのだから」[5]と述べている。
おもな刊行本[編集]
- 『わが友ヒットラー』(新潮社、1968年12月10日)
- 英文版『My Friend Hitler and Other Plays』(訳:佐藤紘彰)(Columbia University Press、2002年11月15日。他)
- 収録作品:鹿鳴館(The Rokumeikan)、楽屋で書かれた演劇論(Backstage Essays)、朱雀家の滅亡(The Decline and Fall of The Suzaku)、わが友ヒットラー(My Friend Hitler)、癩王のテラス(The Terrace of The Leper King)、悪の華(The Flower of Evel: Kabuki)、椿説弓張月(A Wonder Tale: The Moonbow)
脚注[編集]
- ↑ 『決定版 三島由紀夫全集第41巻・音声(CD)』(新潮社、2004年)に収む。
- ↑ 『作品の背景――「わが友ヒットラー」』(東京新聞 1968年12月27日に掲載)
- ↑ 新潮文庫版『サド侯爵夫人・わが友ヒットラー』付録・自作解題(新潮社、1979年)に収む。
- ↑ 4.0 4.1 4.2 伊藤勝彦『最後のロマンティーク 三島由紀夫』(新曜社、2006年)
- ↑ 5.0 5.1 5.2 後藤修一「『わが友ヒットラー』の時代考証―三島さんとの出会い」(三島由紀夫研究会編『「憂国忌」の四十年 三島由紀夫氏追悼の記録と証言』)(並木書房、2010年)
- ↑ 和久田誠男「『サロメ』演出を託されて」(『三島由紀夫の演劇 三島由紀夫研究4』)(鼎書房、2007年)
参考文献[編集]
- 文庫版『サド侯爵夫人・わが友ヒットラー』(付録・自作解題 三島由紀夫)(新潮文庫、1979年。改版2003年)
- 伊藤勝彦『最後のロマンティーク 三島由紀夫』(新曜社、2006年)
- 三島由紀夫研究会編『「憂国忌」の四十年 三島由紀夫氏追悼の記録と証言』)(並木書房、2010年)
- 『三島由紀夫の演劇 三島由紀夫研究4』(鼎書房、2007年)
- 『決定版 三島由紀夫全集題42巻・年譜・書誌』(新潮社、2005年)