公職追放

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公職追放(こうしょくついほう)とは、政府の要職や民間企業の要職につくことを禁止すること。狭義には、日本太平洋戦争に降伏後、連合国軍最高司令官総司令部の指令により、特定の関係者が公職に就くことを禁止されたことをいい、本項で扱う。

概要[編集]

1946年昭和21年)に勅令形式で公布・施行された「就職禁止、退官、退職等ニ関スル件」(公職追放令、昭和21年勅令第109号)などにより、戦争犯罪人、戦争協力者、大日本武徳会大政翼賛会護国同志会関係者がその職場を追われた。この勅令は翌年の「公職に関する就職禁止、退官、退職等に関する勅令」(昭和22年勅令第1号)で改正され、公職の範囲が広げられて戦前・戦中の有力企業や軍需産業の幹部なども対象になった。その結果、1948年5月までに20万人以上が追放される結果となった。

一方、異議申立に対処するために1947年3月に公職資格訴願審査委員会が設置され(1948年3月に廃止、内閣が一時担当した後に1949年2月復置)、1948年に楢橋渡保利茂棚橋小虎ら148名の追放処分取消と犬養健ら4名の追放解除が認められた。

しかし、この公職追放によって各界の保守層の有力者の大半を追放した結果、教育機関(日教組)やマスコミ言論等の各界で、いわゆる「左派」勢力や共産主義シンパが大幅に伸長する遠因になるという、公職追放を推進したGHQ、アメリカにとっては大きな誤算が発生してしまう。逆に、官僚に対する追放は不徹底で、裁判官などは、旧来の保守人脈がかなりの程度温存され、特別高等警察の場合も、多くは公安警察として程なく復帰した。また、政治家衆議院議員の8割が追放されたが、世襲候補など身内を身代わりで擁立し、議席を守ったケースも多い。

その後、労働運動の激化、中国国共内戦における共産党の勝利、朝鮮戦争などの社会情勢の変化から、連合国軍最高司令官総司令部の占領政策が転換され、主な対象者は次第に共産主義者やそのシンパとなっていった(逆コースレッドパージ)。

また、講和が近づくと1950年に第一次追放解除(石井光次郎安藤正純平野力三ら政治家及び旧軍人の一部)が行われた。翌1951年5月1日マシュー・リッジウェイ司令官は、行き過ぎた占領政策の見直しの一環として、日本政府に対し公職追放の緩和・及び復帰に関する権限を認めた。これによって同年には25万人以上の追放解除が行われた。公職追放令はサンフランシスコ平和条約発効(1952年)と同時に施行された「公職に関する就職禁止、退職等に関する勅令等の廃止に関する法律」(昭和27年法律第94号)により廃止された(なお、この直前に岡田啓介宇垣一成重光葵ら元閣僚級の追放も解除されており、同法施行まで追放状態に置かれていたのは、岸信介ら約5,500名程であった)。

追放の事例[編集]

多くの者が1951年の第一次追放解除で、残りの者も「公職追放令廃止法」により復帰した。

関連項目[編集]