やしきたかじん

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やしき たかじん1949年10月5日 - )は、主に関西で活躍する歌手タレント

大阪市西成区出身(現在は西区在住)。本名は家鋪 隆仁(読みは芸名と同じ、やしき たかじん)。主に関西ローカルテレビ番組に出演している。愛称は「じんちゃん」「たかじん」など。

個人事務所パブリック・インフォメーション・スタイル(P.I.S)およびS.I.Pの代表取締役、また、P.I.S音楽出版代表取締役、テレビ番組制作会社株式会社エックスワンの取締役を務めている。この場合における、たかじんの氏名の表記は漢字(本名)表記である。

多くの人からの愛称は上記のとおり「じんちゃん」「たかじん」であるが、桃山学院高等学校で同級生だった堀内孝雄軽音楽部長)はたかじん(新聞部部長)のことを現在でも「やしき」と呼んでいる。

人物・経歴

四人兄弟の次男として生まれる。

名前に関するエピソード

たかじんという名前は、本名「隆仁」を命名する際、お寺に依頼されたものからきている。そのときの名前が「隆仁(たかひと)」であったのだが、父・権三郎は極右思想の持ち主で、「天皇陛下の『仁(ひと)』を使うとは何事だ、あの生臭坊主が」と激怒し(避諱)、後先考えずに「仁」の読みを「ひと」から「じん」に変え、「隆仁(たかじん)」と命名したことによる。

「家鋪」の苗字は数少ない苗字である。また名前の「隆仁」の読み方は「たかひと」が大概多い。その為か、大概の人は「かしきたかひと」「いえしきたかひと」と思う方も多い。たかじん本人は風邪を引いた時に病院に通い、待合室で看護師に「かしきさん」「いえしきさん」「いえほさん」「やっほーさん」」と言い間違われ、挙句の果てに看護師に激怒した事がある(「たかじんの夢いっぱい」でのコメント)。ただし番組中に「かしきさん」「いえしきさん」「いえほさん」と言われても別に恨んだり、怒ったり、腹を立てたりしている様子は特に無い。

度重なる治療

なお2006年4月に、持病の腰痛(ヘルニア)治療のためレーザー手術を行ない、さらに、歯の治療や喉のポリープの治療も行なった(表面を削った上で抗菌パネルを張る事でワイン焼けやヤニで歯が汚れないようにし、奥歯にインプラントを入れた)。又、片目に白内障を患っており、手術を行った事を2006年9月10日放送の『たかじんのそこまで言って委員会』で、本人が明らかにしている(収録2日前の9月6日に手術したと述べている)。術後はスタジオが明るくて爽快と述べた。また、2007年11月には右目のみレーシックの手術を受け、翌月には左目外斜視の矯正手術を受けた。本人曰く「60歳迄に腹以外の肉体改造をする」とのこと。

婚歴

あまりプライベートを語らないが、過去に2度離婚しており、20代前半で別れた一人目の妻(故人)との間に一女がいる。

デビューまで

少年時代はリトルリーグのジュニアホークスに所属していた。

桃山学院高校在学中は新聞部に所属。朝日新聞社主催の全国新聞コンクールに入選も果たしている。高校時代、生まれて初めて作曲した『コーヒーインタイム』が、NHKあなたのメロディー』に採用され、ザ・スパイダースをバックに歌手の奥村チヨが歌った。桃山学院高校卒業後上記の通り新聞記者を志望していたため早大を志すも失敗し、桃山学院大学経済学部に内部進学するが、新聞記者を志した際「NHK嫌い(後述)を克服すべきでない」と考え、このことで父の権三郎と対立し勘当されると、同大学を中退し京都市に移り住む。

その後、龍谷大学経済学部へ入学するも、これも中退。 同大学在学中に歌手を目指し、京都祇園クラブギターピアノ弾き語りとして歌い始め、自身の作曲活動も行なうようになる。 当時たかじんの曲の作詞は、高校時代からの友人である荒木十章が手掛けていた。この時期のたかじんは自暴自棄になっており、弾き語りで態度の悪い客には生卵ママレモンタバスコ等をぶっかけたり、二階から放り出したりして暴れていたため、次々にクビになったという。

歌手活動

1971年京都レコード(現在はTBS系の日音に版権を売却し音楽事業から撤退)から『娼婦和子』でレコードデビューするが、刺激的かつ頽廃的との理由で程なく発売禁止となる。

1973年には、京都文化芸術会館で初のコンサートを開催。その後1976年に、キングベルウッドからシングル『ゆめいらんかね』、アルバム『TAKAJIN』で再デビュー。同年、FM東京が選ぶ最優秀新人賞のベスト5に入る。

1977年宝塚史上初のリサイタル(「私の肖像画」)を鳳蘭がやるということで、宝塚が行った際の「作曲部門担当」の選考で、当時宝塚の演出家であった草野旦が、たかじんのデビュー曲『ゆめいらんかね』を聴きその歌唱力と作曲センスを評価。白羽の矢が立ち、宝塚大劇場でも共演。男性として史上初めて宝塚歌劇の舞台に立ち、宝塚の舞台に立った唯一の男性となる。この時、宝塚に楽曲5曲(『うわさ』『ゴロ寝』『ゆめいらんかね』『ひょっとしたらのお話』『ラスト・ショー』)を提供、その内の1曲『ラスト・ショー』は自身が歌ってレコード(アルバム:『プロフィール』の10曲目)も出している。なお、1993年には宝塚歌劇・星組公演『パパラギ』で『心はいつも』を提供し、これもたかじん本人が歌っている(アルバム『MOOD-夢見る男のために-』の3曲目)。

さらに同年、中村敦夫の推薦で『新・木枯し紋次郎』の主題歌『焼けた道』(作詩:中村敦夫 作曲:猪俣公章)を歌う。この時、旅人役でゲスト出演するも、散々な内容でノイローゼとなり自殺寸前にまで追い込まれたという。後に本人は「ガンダムの『砂の十字架』(後述)と同等で「生涯最大の汚点」と語っている。またこの時の経験がトラウマとなり、その後ドラマ出演や芝居の依頼は一切拒否するようになる。自身が出演する番組(冠番組・ゲスト問わず)でこれを流すことはタブーであり(むろん出演していない番組であってもダメ)、冠番組で流すということをしてしまうと番組をその日をもって終了させると公言している。但し、ドラマそのものが地方局で再放送された事はあり、当然その話も放映されているはずだが、それについては特に抗議はしなかった様である。ちなみに、これを機に猪俣とは親しくなり、CMソング「サントリーレッド」「桃屋塩辛」などを歌うようになる。

1978年、一度は歌手を辞めようと決意するが、周囲の勧めで渋々フェスティバルホールで行われた「大阪大衆音楽祭」に出場し、『ながばなし』というタイトル通り10分ほどある長い歌でグランプリを獲得(本人曰く、1分1秒でも長くフェスティバルホールの舞台に立っていたくて長い曲を作ったという)。これがその後の歌手活動を続けていくきっかけとなる。

1980年ファンクラブCONCORDE」を設立(2004年度末に本人の意向により解散)。作詞家来生えつこと出会い、シングル・アルバム『明日になれば』をリリース。活動拠点を京都祇園から東京下北沢に移す。

1982年大阪駅前第二ビルの一角にマネージャーであった野田幸嗣とともに個人事務所「P.I.S(パブリック・インフォメーション・スタイル)」を設立。その後、1983年ビクターに移籍し『ラヴ・イズ・オーヴァー』をリリース、1984年にリリースされた『あんた』が上昇気流のきっかけとなる。1986年に『やっぱ好きやねん』が関西で注目を集め大ヒットする。さらにこれが「大阪の歌手」として絶大な人気を得るきっかけとなり、1987年には『ICHIZU』が関西で大ヒットした。その後も、1989年には『大阪恋物語』、翌年には『なめとんか』が関西でヒット、関西色を前面に出したバラードシンガーとして関西に根付いてゆくことになる。(『やっぱ好きやねん』をきっかけに若き作家鹿紋太郎と出会って以降、ビクター在籍中二人三脚で楽曲を製作し現在の歌い手たかじんのスタイルを築くこととなった。)本人いわく「歌手一本で食えるようになるまで二十年はかかった。」という。

この頃には、関西でのたかじんのコンサート・ディナーショーなどのチケットは入手困難となり、常に前売り即完売のプラチナチケットとなっていた。

1992年ポリスターに移籍し『泣いてもいいか』をリリース、1993年には『東京』が約60万枚の自己最高のヒットとなり、翌1994年全日本有線放送大賞「特別賞」「読売テレビ最優秀賞」を受賞する。なおポリスター移籍後、多くの楽曲の作詞を及川眠子(和歌山出身)が担当している。

1999年10月5日にフェスティバルホールで行われた50歳記念のバースディコンサートで一度休業している。2001年12月12日岡山国際ホテルで行われたディナーショーで歌手活動を再開した。2002年8月31日にフェスティバルホールで行われた「復活スペシャルコンサート」を行った際、歌い終わったあとに「やっぱ山口百恵のようにはいかんな、またマイク握っとる」と発言し、ファンは待望の活動再開を喜んだ。なお2002年12月30日に行われた帝国ホテル大阪のディナーショーを最後に、2003年以降コンサートツアーは休んでいる。CDも2003年10月の『冬のソナタ』のカヴァー曲で2004年NHKで放送された冬のソナタ(日本語吹き替え版)の挿入歌・主題歌となる『My memory/最初から今まで』以来シングルリリースしていない。

2007年11月16日にやしきたかじん携帯公式HP「発禁!?たかじん新聞」で、たかじん自らがハワイで歌っている映像を公開するという形で歌手活動を再開した。

たかじんのコンサート

たかじんのコンサートは演出や構成が一切なく、セットや照明も控えめであくまで歌と喋りを重視したシンプルなスタイルである。2時間40分から3時間強の内大半(約6割)がトークに費やされる。歌はかつては15曲前後、近年では12、3曲歌う。歌の間に3回から4回ほど2、30分程度(大ネタになれば4、50分)のトークがある。トークでオチをつけないと次の曲の演奏が始まらないのも特徴である。(予想外のオチにバックバンドが慌てて演奏に入ることも少なくない)観客からも「曲はレコードCDで聞くからそれよりも話をして」と言われるという。それゆえほとんど歌えなかったこともあり、かつてコンサートやライブで歌ったのがたった2, 3曲だけだったこともある(たとえば、ゲストで円広志を迎えたときなどには、漫才に熱が入りすぎた(2時間近くやっていた)ため、たかじんが「緊急事態宣言」を行い、急遽バックバンドに目配せで当初予定していた曲数を大幅カットさせたため、スタッフは大慌てだったという)。

コンサートになると、極度の重圧から自律神経失調症や重度の胃腸炎やノイローゼになり、かつてコンサートでアンコールの緞帳が下りたとき意識を失い、生死をさまよったことがある。また、客席をまともに見るのが怖いため、ステージに立つときは必ずサングラスをかけている。トークのときにステージの端から端までウロウロするのはサービスや演出ではなく、精神的に落ち着かないからである。

日本一コンサートのトーク時間が長いことで有名だが、このようなスタイルになったのは、まだヒット曲も無く無名だったころどのようにすれば満員になるのか試行錯誤した結果である。

普段の喋るときのだみ声の地声と、歌うときの高く澄んだ甘い歌声とのギャップがあまりにも違うため関西以外ではたかじんが歌手であることを疑われることが頻繁にあり、関西では「スズムシの声を持ったゴキブリ」と呼ばれていた。上岡龍太郎はたかじんを評して「普段のしゃべり声は芸人の声、歌っているときの声は歌手の声」、島田紳助は「愛を歌うヤクザ」と言った。

歌手でありながら、1986年日本放送演芸大賞「ホープ賞」、1993年上方お笑い大賞「審査員特別賞」(本来なら大賞であったのだが、たかじん自身が「歌手が大賞を受賞するのは芸人に対してシャレにならない」と辞退)を受賞。お笑いの賞と歌の賞と両方獲得しているのはたかじんただ一人である。

一時期桂雀々2代目桂春蝶や『MBSヤングタウン』で共演した桂三枝のもとに付いたり、さまざまな名だたる上方芸人と交流を深め(特に北新地の居酒屋「猫八」で出会って以来雀々とは付き合いで天満のマンションに一緒住んでいた。)、喋りや遊びの勉強をしていた事がある(祇園の弾き語り時代には、6代目笑福亭松鶴藤山寛美にお茶屋遊びを教えられ、また、3代目桂米朝には大阪宗右衛門町南地大和屋で遊びの基本を学んだ)。そのため、芸人以上に芸人としての意識が強いことから、若手に対して厳しい一面もある。だが飲みに行く際には喫煙・飲酒をさせない程であり、「売れるまで、やり続けなさい」とアドバイスをした事がある。とはいえ、タカアンドトシ博多華丸・大吉波田陽区はなわヒロシなどに太鼓判を押し、彼らを気に入っている模様。

1994年アサヒビールの関西限定ビール生一丁」のCMに出演。「あけまっせ」「これやがな」の台詞がうけ、同製品が爆発的なヒットとなる。

2003年やっぱ好きやねん』がバックに流れ川藤幸三がCM出演した、『大阪ソウルバラード』(全15曲のうち5曲がたかじんの歌が収録されている『やっぱ好きやねん』『生まれる前から好きやった』『なめとんか』『大阪恋物語』『あんた』)が阪神タイガースの18年ぶりの優勝に猛進しているのも相まって関西で15万枚の売り上げを記録。

さらに1985年ABCラジオの昼ワイド番組『聞けば効くほどやしきたかじん』で初めて帯番組を務める。この時、金曜日に円広志と行なっていた大阪駅ビルのサテライトスタジオ「ABCエキスタ」での公開生放送で注目を浴びる。「音曲漫才(ちゃうのんブルース)」や生ライヴ、さらにはCMを無視した1時間以上に亘る内輪話が大人気となり、観客がスタジオに殺到。その人気ぶりを写真週刊誌フライデーが取材。「昼休みにサラリーマンがわざわざ営業車に乗ってまで聴くほどのお化け番組」と紹介された。朝日放送ではラジオ・テレビの他のレギュラー番組にも進出。『聞けば-』は1987年10月に終了するが、その直後にラジオ『サタデーたかじん ~午後はイッキに~』のパーソナリティー、さらに夕方のテレビ報道番組『ニュース・ウェーブ』のコメンテーターを務める。

このように歌手としての魅力をもつ一方、放送禁止用語放送局の出入り禁止や名誉毀損(後述)も恐れないストレートな発言で、テレビ・ラジオのパーソナリティーとしても関西では不動の地位を誇り、すべてのレギュラー番組が高視聴率を誇ることから「浪速(関西)の視聴率男」と呼ばれている。本人は自著の中で「僕を視聴率男と呼ばないで」と記しているが、これまでに数多くの番組をヒットさせ、現在もそれは変わらない。

たかじんバンド

初期の「フライング・リバティー」<Pf/Key:土井淳(バンマス) G:近藤芳弘 B:奥田勝彦(後に細木隆広小笹了水) Dr:五十川清(後に浅川ジュン)の4人構成で、後に、Key:森俊之(後に鈴木賢) Sax/Flute:河田健(後にエレファント酒井)らが参加>に始まり、現在の「アンビエンス」<1994年春にファンクラブの募集でバンド名が決定した。正式には英語のambienceの発音記号がバンド名。Pf/Key:土井淳(バンマス) Key:鈴木賢 G:近藤芳弘 B:小笹了水(2002年代役で福栄宏之が参加) Dr:浅川ジュン Sax/Flute:小梶博司(2001年から横山貴生)の6人に1995年秋~1999年に当時たかじんの弟子であった佐々木清次Ag/Choが参加。>また、かつては、尾崎亜美(ピアノ)や河島英五(ギター)らが参加していた。

東京進出そして東京キー局との決裂

1988年朝日放送(ABCテレビ)午後のワイドショー晴れ時々たかじん』に出演(1988年1992年)、彼の人気を決定づけた。この時に既存の主婦向けのワイドショーとは、一線を画した企画を自ら提案。政治・経済などにも注目し、新しいスタイルを確立する。結果、昼の2時台にもかかわらず番組当初2%にも満たなかった視聴率が平均13%を超える(最高は20%を超える)にまでなった。たかじん自身が歌うオープニングテーマ『晴れときどきTAKAJIN(なめとんかC/W)』がこの番組の名物となる。この番組で指し棒マジックを使った彼の「嫉妬芸(反モラル芸)」という新しいスタイルを確立させる。特に人気があった、政治・経済では「なめとったらあかんど」「文句あるんやったらかかってこい」という台詞が口癖のようになり、政治家や役人・官僚に対しては生放送にもかかわらず放送禁止用語名誉毀損ものの誰彼かまわず容赦ない毒舌を浴びせかけ、指し棒を折りまくる傾向が強かった。このパネルと指し棒を使ったスタイルは以後、様々な番組で見られるようになる。

1時間番組の収録で指し棒を最低3本は折っており、常に数十本のストックを備えている。また近年はあまりやらないが太い差し棒に差し替える事もある。

1992年、当時関西ローカルで放送されていた、土曜日深夜の『たかじんnoばぁ~』(よみうりテレビ)に共演のトミーズ雅と共に全国で注目を浴びるようになる。この番組はセットがバーであり、ゲストと共に酒を飲んでヘベレケの状態で、編集(「ガオー」という効果音)無しでは放送できないような発言、暴言を繰り返したが、そのトークが評判を呼び、キー局日本テレビでも放送されるようになる。また、たかじんがカラオケやギターの弾き語りで歌うこともあった。この「ガオー」がこの番組の名物となる。放送時間が深夜12~1時台を過ぎているにもかかわらず、最高視聴率が25%を超え(関西地区)、よみうりテレビ史上深夜番組の最高視聴率記録を更新する事となった。

なおこの番組中に泥酔のため、たかじんの嫉妬による東京嫌い(後述)や、司会におけるスタイルを批判したゲストの立川談志に灰皿を投げつけ「気に入らんかったら帰れ」とスタジオから追い出し、犬猿の仲に発展したが、トミーズ雅に「放送できない」と止められた。また、内田裕也と安岡力也(現・力也)がゲストに来た際、内田がほとんど喋らず、番組途中で帰ったのにまったく怒らず、その後何事も無かったかのように力也とトークを続ける懐の深さもみせた。ただし内田裕也がたかじんのブラックリスト入りしたのは言うまでもない。

1992年10月より、東京の放送局でテレビ・ラジオ合わせて3本のレギュラー番組を持つも、東京に嫌気が差し半年後に全て降板。これ以降は、歌手活動と並行しながら関西ローカルで数本のレギュラーを持つようになる。とはいえ、1994年から1997年頃までは、東京収録の番組にも義理でゲスト出演していた(『恋のから騒ぎ』、『開運!なんでも鑑定団』、『料理バンザイ!』など)が、やはり、東京キー局とそりが合わずトラブルを起こし、共演者に叱責されることが多かった。結果的に、1998年頃から2004年に『さんまのまんま』にゲスト出演するまで、東京収録の番組には全く出演しなくなっていた。また1994年10月から2年半の間は大阪発全国ネット番組『たかじん・ナオコのシャベタリーノ』(毎日放送)の司会を務めた。

『胸いっぱい』から現在

1994年から自身が司会を務める『たかじん胸いっぱい』(関西テレビ)が開始。さらに1998年には『たかじんONEMAN』(毎日放送)が始まる。この2つはテレビ番組や芸能人など主に業界に関する企画が中心で、番組改編期になると、新番組の平均視聴率を予想するのが恒例となっている。また、この視聴率予想の的中率が異常とも言える程の高さを誇っている。これも「晴れ時々たかじん」の司会就任の頃、自宅に10台前後のビデオデッキ(最近では1テラバイトのHDDデッキを6台購入したと『たかじんのそこまで言って委員会』で述べている)を買い求めて、テレビ番組の動向をたとえ本人が嫌いな番組であってもチェック(以前はチャンネルごとに録画していたが現在はジャンルごとに録画している)していて以来続いている、彼のネタのひとつである。

これまで芸能関連の企画が多かったが、2002年、特別番組『たかじんのそこまで言って委員会』で政治・経済などの時事問題をテーマにした番組を放送。2003年にはレギュラー化される。そして2004年には『ムハハnoたかじん』が開始、5年間守っていた「レギュラー2本」が倍増した。理由について本人は「老後のため」とギャグでかわしているようである。

また、テレビでもなかなか歌わないことで有名なたかじんだが、2004年12月、フジテレビ細木数子の『幸せって何だっけ ~カズカズの宝話~』に出演。東京キー局の番組で23年ぶり(23年前にTBSの『ホリデー』で『Too Young』「Fly me to the moon」「It's a sin to tell a lie」などのジャズをサングラスにパンチパーマのタキシード姿で熱唱して以来)に歌を歌った(曲目は『東京』『やっぱ好きやねん』)。「東京」を歌っている時、極度の緊張から、マイクを持つ手が異様に震えており(ライブではいつものことである)、その後のトークで細木に突っ込まれている。またレギュラー出演者の一人、堀内健に「お台場とか(に来るのは)初めてですか?」と問い掛けられると「初めて」と答え、更に「海あんねんね、前に」と照れながら答えた(なお、この出演も、本人は出演したくなかったが、細木の執拗なまでの電話攻勢で銀座に渋々出向くと、そこに細木とフジテレビの首脳陣が待ち構えており、細木の仕掛けた接待の罠にかかり、「あかん、罠にはめられた。もう断られへん」と悟り渋々出演を承諾した経緯がある)。

能力を見抜く眼

大橋巨泉の様にまだブレイク前のタレントと芸人の才能を見抜く眼にすぐれており、ABCのアナウンサーだった宮根誠司が多彩な才能を秘めていることを見抜き、公私共に親しいABCの社長の西村嘉郎に直々に談判し、フリーアナウンサーに転身させた。

出演の放棄

味の素激昴事件

1992年、たかじんがテレビ朝日の深夜番組『M10』(マグニチュードテン)に出演したときに、番組エンディングの所謂「料理コーナー」で、蒟蒻(こんにゃく)ステーキを作っていたのだが、スタジオに「味の素がない」という理由でプロデューサー等のスタッフや助手を務めていた服部料理学校の生徒を「どこじゃー!!」と連呼しながら、自暴自棄の状態で殴り、スタジオのセットを次々に破壊する事件があった。その直後、共演のトミーズ雅が「味の素を入れたとしましょう」と、軌道修正を図るコメントをしたところさらに怒り、最終的には「こんな腐った番組辞めたらぁ」と生本番中に帰ってしまった(後日、彼は別の番組で『ファックスで再三打ち合わせしたにもかかわらず、味の素を持って来なかったことに腹を立てた』と話している)。しかし、放送中に「味の素ないのか!」と連呼したため、味の素本社から大量の味の素が送られ、スタジオのセットやたかじんの楽屋の至るところに置かれた。一方、番組にはたかじんの暴挙に対する批判の声が殺到し、同時に彼の嫉妬交じりの東京嫌い(群馬・埼玉・千葉・神奈川を除く)が決定的なものとなり、基本的にキー局や一部の地方局製作の番組に出演することは無くなった。そのため、現在でも『たかじんのそこまで言って委員会』や『たかじん胸いっぱい』などの冠番組の東京キー局や一部の地方局からの全国ネットの案件を門前払いし、徹底拒否している(独立UHF局を除く)。

東京(関西以外)では絶対仕事をしない

嫉妬による東京嫌い(関西にこだわり、東京を敵視している)のため明石家さんま島田紳助とは反対に、滅多なことがない限り東京(厳密には関西以外)では仕事をしない。2005年以降、全国ネットの番組での出演は3~4年に1回あるかないかである。このため、関東在住(特に千葉県)のファンや視聴者からは、たかじんに年に一度でいいから全国ネット番組にゲスト出演してほしいという声も上がっている。加えて昨今は生放送番組にはあまり出演(『すてきな出逢い いい朝8時2001年9月22日放送のゲスト出演は例外)しないが、『ムハハnoたかじん』はニュース性の高い番組のため、一時期生放送を行っていた時期があり、2005年11月20日には『やしきたかじんが宮崎タイガーに生で密着! たかじんINダンロップフェニックス』(『ダンロップフェニックストーナメント』(毎日放送)の関西ローカル・放送時間10:00~11:24)では特別ゲストでリポーターとして出演した。最近では『たかじんのそこまで言って委員会』が熊本地区で20%超の高視聴率を獲得したことを記念して、辛坊治郎(読売テレビ解説委員)と共に2007年7月9日くまもと県民テレビのローカルワイド番組「テレビタミン」に生出演した。

かつて『たかじん胸いっぱい』(関西テレビ)の全国ネット化をキー局のフジテレビから打診され、『たかじんのそこまで言って委員会』(ytv)はキー局の日テレからゴールデンタイムでの全国ネット化を熱望されたが、たかじんが「関東には絶対流さない」「関東で放送されるくらいなら辞退する」<そこまで言って委員会宮崎哲弥も同様に埼玉・千葉・神奈川では辞めないにしても、東京で放送したら辞めると宣言している。>(独立UHF局を除く)と言い、在京キー局(関東)ではネットされていない(全国ネットではない)現状であるが、『たかじん胸いっぱい』に関しては、2007年現在では神奈川県tvk埼玉県テレ玉群馬県群馬テレビといった独立UHF局でネットされ、アンテナを立てたりケーブルテレビなどを介して東京でも観られる場合があるので(スピルオーバー)、独立UHF局やCSは強い反対はしていないようである。なお東京都のUHF局、TOKYO MXも「東京唯一の独立UHF局だけれども東京のテレビ局だから」だけでキー局扱いにし、嫉妬しながら毛嫌いしている為、UHF局のTOKYO MXのみ、たかじんの出演番組のネット放送はされていない。

なお、東京の番組に出演しないのは1992年10月より半年間、たかじんが東京の放送局でテレビ・ラジオ合わせて3本のレギュラー番組(テレビ近未来研究所M10そこまで言うか! 熱血!正義の60分)を持った際の番組スタッフとの確執が決定的な理由とされる(それ以前にも東京のテレビに出演した際に、利権やしがらみのために制約が多いことや、すぐ掌をかえす体質や極端に横柄な態度に激怒し、暴力沙汰を起こし収録途中で幾度も帰っている)。この時たかじんは、自分のやり方を否定する東京キー局や地方局のルールが気に入らず、プロデューサーやディレクターを殴り、恫喝し、時には土下座させ、ついには生本番中に帰るなどのトラブルを起こした。

東京キー局や地方局でも普段通り機関銃の如く喋っているが、放送できない内容が多すぎるため、オンエアではすべてカットとなっている。このことについてたかじんは常に不満を述べており、時には収録中にクレームをつけトラブルを起こすこともある。関西(西日本)と関東(東日本)でたかじんの印象が違うのはこのためである(本音を重んじ過激さを追求する在阪局と抗議や圧力を恐れ過剰な編集をする在京局や東日本の地方局との違いである)。このような事から、在阪局制作のレギュラー番組でも基本的にたかじんは東京キー局や地方局へのネットを断っている。実際、1998年3月の『たかじんnoどォ!』(ytv)の降板以降、たかじんのレギュラー番組は関東地区では独立UHF局を除き放送されていない。

あまりのストレスからノイローゼになり、東京のラジオの生放送中に倒れて救急車で運ばれるということもあった。上記の通り、たかじんが出演する番組は1998年以降、静岡県以東の東日本の放送局ではほとんど放送されていない。(関東の独立UHF局や東日本の地方局の中でも一部では放送されている)静岡県以東では『たかじん・ナオコのシャベタリーノ!』のような番組を望んでいるが、たかじん自身は関西色丸出しの毒舌連発のトークを売りとした番組としているため、放送されていない(独立UHF局でもネットされていない番組は、千葉県では視聴する事が全く出来ない。例えば『そこまで言って委員会』が当てはまる)。また、前述の事の影響もあって、静岡県では、たかじんの態度を快く思っていないこともあって、未だに放送されていない(東北地方の一部も同じ)。最近は一部の地方でたかじんの番組が放送されており、特に広島県中京圏では現在出演中の全番組を放送している。(以前、たかじんは中京テレビで自身のレギュラー番組を持っていた。)そのため関東以外での知名度は上がっている。加えて、関東地方などの東日本ではたかじんが在京キー局や地方局に番組を流させない(さらに在京キー局や地方局側も関西の番組自体あまり流さない)。と同時に、たかじんが全国ネットの番組ゲスト出演しないため、1999年頃には死亡説が流れた事もある。現在でも、普段のレギュラー番組で、47都道府県関係なく、放送禁止用語が飛び交う内容で嫉妬しながら容赦なく批判している。関西色を前面に出し、毒舌を連発するたかじんのやり方が(埼玉・千葉・神奈川には受け入れられても)東京の人間には敬遠されるためか、たかじん自身にとって東京との相性は水と油である(埼玉・千葉・神奈川を除く)。特にここ近年は以前より東京嫌いがひどくなってきている(埼玉・千葉・神奈川を除く)ようだが、2005年1月1日付朝日新聞東京本社版別刷り特集にインタビューが掲載されている。

在京キー局や(キー局の意向に追随する)一部地方局の首脳は当然ながらたかじんの態度を快く思っていない。代表的なのがフジテレビ会長の日枝久で『たかじん胸いっぱい』の人権侵害事件や『発掘!あるある大事典II』の捏造事件を庇いだてなく報じていたが、それ以上にたかじんは東京キー局や一部地方局の首脳を「気違い」「アホの頂点」「東京を嫌って何が悪い。文句あるんやったらかかってこい!!」と非難している。とはいえ、『たかじんONEMAN』で「俺が嫌っている都道府県は東京都だけや」と、東京以外の首都圏の県を特に嫌っているわけではないともとれる発言もしている(その証拠に周辺の独立UHF局や通勤圏の山梨、長野、新潟での番組ネットを認めている)。

そしてこのようにほとんど関西でしか仕事をしていないとはいえ、西日本ではその影響力は大きいとされる。特に関西では絶大で、在阪民放各局の首脳陣とも深いつながりがあり、自分の番組以外でもキャスティングや企画・編成にも関わる事がある。中でも宮根誠司がフリーになったのは、たかじんがABC社長の西村嘉郎に直談判をした事がきっかけである(現在、諸事情のためABCでの番組レギュラーを持たない(詳細は『晴れ時々たかじん』を参照)が、たかじんにとって西村とは個人的な親交がある)。

NHK(公共放送)では絶対仕事をしない

歌手デビュー時のオーディションで、嫉妬しながらNHKへの悪口を連発した挙句に、NHK側のあまりに横柄な態度にたかじんが噛み付いたために不合格になったこと、NHK大阪放送局BK芸能チャンネルでのなんらかの事件がありそれを皮切りに「役人・官僚体質」「中身のない番組を垂れ流して受信料を取る」「キチガイ集団」などの批判もあり、それゆえにNHKに対して異常なまでの憎悪を抱くことになる。実際、普段のレギュラー番組でも「腐ったヤクザな放送局」「アホの集まり」「さっさと潰れろ」「民営化しろ」などと非難したり、放送禁止用語を連発することも頻繁にある。「紅白歌合戦」に関しては年末年始特番で特大パネルを用いて徹底的に酷評するのは定番と化しているほどである(ただし最近は減少傾向に至っている)。NHK側も「たかじんの出演が紅白のイメージに合わない」と、たかじんの紅白出場の可能性を完全否定しているが、「たかじんを紅白に出して欲しい」という声が殺到している。

さらに、NHK大阪ホールこけら落しの歌番組の出演依頼されるも「誰が糞NHKなんかに出るか」と即座に断った唯一の人物でもあり、それを自慢話にしている(但し、『プロジェクトX』に対しては太鼓判を押したほどである)。受信料を払っていないのは言うまでもない。

余談だが放送禁止用語を羅列してまでNHKを嫉妬しながら批判したことで江戸笑芸の啓蒙者であるタレント永六輔の怒りに触れ結果両者は敵対関係になってしまった。永は江戸笑芸を必ず放送するNHKを大切にしましょうと呼びかけていてたかじんを「罵倒してまで江戸笑芸を否定する存在」として憤慨してしまったとの事。

名誉毀損裁判・勧告

一方で毒舌や短気な性格、妥協を許さない姿勢や自己主張がかなり激しい面は上岡龍太郎横山やすしに似ていて、ついには裁判沙汰・警察沙汰になるというケースも生じている。

  • 2005年、関西テレビ『たかじん胸いっぱい』での発言で、杉田かおるの元夫鮎川純太の名誉毀損行為で人権委員会(BPO)から人権侵害と認定され、最も重い「以後斯様な事のないよう、企画・編集の体制を整えるべきである」との勧告処分を受けている。
  • 2005年10月18日深夜に放送したバラエティー番組『たかじんONEMAN』で、離婚した堀ちえみの元夫について「別れるときは大変やった。最高裁までいった」「男が絶対別れへん言うた」などと発言したことで、2006年1月に元夫が、事実と違う発言により名誉を傷つけられたとして、たかじんと番組を放送した毎日放送に、計2200万円の損害賠償を求めて提訴した。12月22日大阪地方裁判所で、たかじんと毎日放送に対し、「発言は公益性を欠く」などとして330万円の損害賠償を命じる判決が下され、たかじんは『判決には従います』と控訴しない意向を示した。2007年4月に総務省から厳重注意処分。

この種のトラブルはラジオのパーソナリティーをやり始めていた頃から数多くあり、このような厳しい勧告を受け続けても、度々同じトラブルが繰り返されている。たかじん曰く、「トラブルを起こさないたかじんはたかじんではない」とコメントしている。

現在の出演番組

現在、NHK・毎日放送朝日放送テレビ大阪のテレビ・ラジオ番組や他局のラジオ番組はレギュラーを持っていない。

自らが司会を務めるようになってから、『晴れ時々たかじん』以後は番組の終了は放送局が決めるのではなく、自らが「辞める」と言って終了するとしている。現在は様々な事情が絡み合い、「辞めたくても辞められない」と発言しているが、2007年1月14日放送分の『そこまで言って委員会』で、「2007年は(自身の)レギュラーが1本増えて、1本減る(たかじんONEMANが2007年9月18日で終了する件)」と発言している。また『そこまで言って委員会』は、三宅久之が亡くなった時点で番組終了と公言している。

過去の出演番組(ゲスト出演も含む)

テレビ

ラジオ

ディスコグラフィー

シングル

No. 発売年月日 曲名 CD・レコードのサイズ レコード会社名 備考・曲が使用された番組名
1971年 娼婦和子/さよならの言葉 EP 京都レコード 即日発売禁止
1st 1976年10月21日 ゆめいらんかね/流れ者 EP キングベルウッド デビューシングル
2nd 1977年7月21日 君はどこへ/ほんの昔 EP キングベルウッド  
3rd 1977年10月21日 焼けた道/けもの道 EP キングベルウッド ドラマ「新・木枯らし紋次郎」主題歌
4th 1978年12月5日 ながばなし/近頃の人生 EP キングレコード 大阪大衆音楽祭グランプリ受賞曲
5th 1980年1月20日 明日になれば/今さら・・ EP キングレコード  
6th 1980年10月21日 Walking on/明日になれば EP キングレコード テレビ朝日「柳生あばれ旅」主題歌
7th 1981年2月21日 砂の十字架/スターチルドレン EP キングレコード 劇場版機動戦士ガンダム主題歌 2006年11月22日にオリジナルカラオケ付きで再発売
8th 1981年6月5日 かりそめのパートナー/スマイル・アゲイン EP キングレコード  
9th 1981年12月5日 横顔/ルームナンバー301 EP キングレコード  
10th 1982年5月21日 愛の時代に/さよならの落としもの EP キングレコード 愛の時代に・CM「アリナミンC」イメージソング さよならの落としもの・NHKドラマ「大阪ドンキホーテ物語」主題歌
11th 1983年11月5日 ラヴ・イズ・オーヴァー/ハーバー・ライト EP ビクター音楽産業  
12th 1984年5月21日 あんた/愛したあとからメランコリー EP ビクター音楽産業  
13th 1986年9月21日 やっぱ好きやねん/Yume Irankane(Remix.Ver) EP ビクター音楽産業  
14th 1987年8月1日 ICHIZU/思い出オン・ザ・ロック EP ビクター音楽産業 当初、製造ミスでカセット版のB面には「やっぱ好きやねん」が収録された
15th 1988年3月21日 未練~STILL~/カウント・ダウン EP・8cmCD ビクター音楽産業 このシングルで初めてビクター音楽産業は8cmCDシングルを導入する
16th 1988年11月1日 愛することを学ぶのに/順子 EP・8cmCD ビクター音楽産業  
17th 1989年4月21日 大阪恋物語/ひとり覚え EP ビクター音楽産業 販促用
18th 1990年11月21日 なめとんか/晴れときどきTAKAJIN 8cmCD ビクター音楽産業 晴れときどきTAKAJIN・朝日放送「晴れ時々たかじん」オープニングテーマ曲
19th 1992年4月25日 泣いてもいいか/いっぱいの酒 8cmCD ポリスター  
20th 1993年3月25日 東京/夢の雫 8cmCD ポリスター 全日本有線放送大賞「読売テレビ最優秀賞」「特別賞」受賞曲
21st 1993年6月25日 さよならが言えるまで/見えない糸 8cmCD ポリスター 見えない糸・MBS骨髄移植啓発キャンペーン曲
22nd 1994年3月25日 優しい女には毒がある/はぐれた背中 8cmCD ポリスター はぐれた背中・関西テレビ「たかじん胸いっぱい」エンディング主題歌
23rd 1994年11月26日 泣いたら負け/いいがかり 8cmCD ポリスター 毎日放送「たかじん・ナオコのシャベタリーノ」エンディング主題歌
24th 1996年3月25日 もしも夢が叶うならば/思い出よりこの瞬間 8cmCD ポリスター  
25th 1996年11月25日 ICHIZU'96/明日になれば'96 8cmCD ポリスター  
26th 1997年7月9日 惚れた弱み/待ってあげて 8cmCD ポリスター  
27th 1998年6月24日 想い出にて/まだ夏は終わらない 8cmCD ポリスター  
28th 2003年10月24日 My memory/最初から今まで 12cmCD ポリスター

カセットシングルについては省略

アルバム

オリジナルアルバム

主なベストアルバム

ライブアルバム

その他CD/レコード・出版物等

  • 鳳 蘭「肖像画」(宝塚ミラーボール実況録音)たかじんがゲスト出演したライブの実況版。ベルウッド・レコードのご好意により全曲収録。
  • 阪神タイガースの優勝を知らない子供たち
  • 南海ファンやもん(プロデュース)
  • くるダス

著書

DVD

  • 「YASHIKI TAKAJIN 50 YEARS OLD ANNIVERSARY SPECIAL CONCERT」(2003/11/26 ポリスター
  • 「たかじんのそこまで言って委員会 SPECIAL EDITION I」(2006/05/08 よみうりテレビ
  • 「たかじんのそこまで言って委員会 SPECIAL EDITION II」(2007/04/10 読売テレビ/読売テレビエンタープライズ)

主な仲の良い有名人

たかじんを批判している芸能人