ビートたけし
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| ビートたけし | |||
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| 画像:TakesiKitano.jpg | |||
| 2000年のカンヌ国際映画祭にて | |||
| 本名: | 北野武 | ||
| 事務所: | オフィス北野 | ||
| 国籍: | | ||
| 出身地: | 東京都足立区 | ||
| 生年月日: | 1947年1月18日(61歳) | ||
| 公式サイト: | OFFICE-KITANO WEB SITE | ||
| 受賞歴 | |||
| ・1997年 ヴェネチア国際映画祭 金獅子賞 ・1999年 レジオンドヌール勲章 シュヴァリエ章 ・2003年 ヴェネチア国際映画祭 銀獅子賞 ・2006年 ガリレオ2000賞 文化特別賞 ・2007年 ヴェネチア国際映画祭 監督・ばんざい!賞 | |||
ビートたけし(本名:北野武(きたの たけし)、1947年1月18日 - )は、東京都足立区梅島出身のテレビ司会者、お笑いタレント、映画監督、俳優、東京芸術大学大学院映像研究科教授(監督領域)、元漫才師(ビートキヨシとともに、ツービートとして活動)。情報番組の司会を数多くこなす他、ピアノ、タップダンスも行う。また、立川談志の門下生でもあり、「立川錦之助」という高座名も持つ。
オフィス北野に所属し、この事務所の中心人物でもある。タモリ・明石家さんまとともに、「日本のお笑いタレントBIG3」の一人にあげられ、また、映画監督としては世界的にも評価が高い。愛称は「たけちゃん」・「殿」・「たけし」(所ジョージなどからは「おじさん」と呼ばれている)。映画監督関係では「北野武」、それ以外では「ビートたけし」を名乗ることが多い。
また、たけしのコマネチ大学数学科と熱血!平成教育学院では、マス北野として登場している。
目次 |
[編集] 来歴
[編集] 幼少時代
東京都足立区島根町にて、ペンキ職人の父・北野菊次郎と、母・北野さきの四男(次男が夭折し、実質は三男として育つ)として誕生。「竹のようにどんなものにも耐えてすくすく伸びてほしい」という願いから、「武(たけし)」と名付けられた。色白で細面、身体は小さいが俊敏で友人からは「ターチ」と渾名された。兄姉とは年が離れていたため、祖母に非常に可愛がられて育った(家族構成は「家族・縁戚」を参照)。
足立区立梅島第一小学校に入学。この頃から野球に熱中するようになるが、教育熱心だった母の薫陶が功を奏し成績優秀だった。特に算数と図画工作が得意だった。鼻筋通った中々の美童だったため、近所のおばちゃん連中に「アメリカさん」と呼ばれ大変もてはやされた。小学校卒業後は母親が進学校を希望したため、近隣の十中を差し置いて、遠く離れた足立区立第四中学校に越境入学させられる。中学では野球部に入部。のちに東京オリオンズに入団する成田文男も同時期所属していた。かつての美童も骨格逞しいニキビ面の青年に変貌。一気にもてなくなった反動でニヒリズムへと走った。卒業後、東京都立足立高等学校に入学。高校時代は軟式野球部に入部。それとは別に、短期間ヨネクラジムにボクシングを習いに通っていた。
[編集] 大学時代
1965年(昭和40年) 高校を卒業後は母親の薦めで、明治大学工学部(後の理工学部)機械工学科に現役入学。しかし大学2年の時、家出同然に一人暮らしを始め、新宿界隈でぶらぶらと日を送るようになる。
学生運動にも参加したが熱心ではなく、ジャズや新風俗に傾倒する。“LeftyCandy”や新宿ACB(アシベ)、風月堂などに入り浸った。たまに来る依頼でジャズ喫茶のボーイもしていたが、ジャズの見識は一部で有名であった。新宿のジャズ喫茶『ビザール』では、若松孝二、小水一男らと知り合う。『ヴィレッジ・ヴァンガード』で、早番のボーイとして働いていた時は、連続射殺事件で逃走中だった永山則夫が遅番のボーイとして働いていた。『ジャズ・ビレッジ』の壁に書かれていた文章を気に入っており、後年これを基にして曲を作った[1]。
この頃は青春の葛藤期でもあり、友人の下宿に居候しアルバイト三昧の青春時代を過ごした。菓子の計り売りや実演販売員、ビルの解体工、クラブのボーイなど仕事先を転々とする。羽田空港の荷役では、ジャズ喫茶の常連客だった中上健次と共に働いた[2]。のち通訳になろうと思い立ち、留学費用を稼ぐ目的で日本交通早稲田営業所に入社、タクシーの運転手を務めるも半年で退社し、通産省前のガソリンスタンドでアルバイトをしていた。この間、若松孝二との縁で『新宿マッド』『腹貸し女』など、幾つかの若松プロ初期作品に端役で出演している[3]。また、初期のインタビューでは一時期、学生演劇に加わっていた経歴を明かしている。ヴォードヴィルのような軽演劇で、舞台には立たず構成に携わっていたと述べる。また、これら自由気ままな生活が災いし、当時真剣交際していた彼女の両親から猛反発をくらって大失恋を経験している。
大学は140単位のうち106単位まで取得していたにも関わらず、結局通わなくなり除籍となってしまう[4]。たけしが通わなくなった後も母・さきは学費を納入し続けてていたため、籍は約6年残っていた。卒業後は玩具メーカー『バンダイ』の研究部に入ることが決まっていたという。
[編集] 前座時代
学生運動は収束に向かい新宿からはフーテンが閉め出されるようになる。自身も去就を模索する必要に迫られた。芸能分野に興味はあったものの、かつて友人達が没頭していたアングラ演劇などには馴染むことができず、「理工系なので文学的なものはわからない、しかし演芸なら自分にも理解できるだろう[5]」という理由で、いつしか芸人を志望するようになった。
1972年(昭和47年)の夏、東京都台東区浅草にあったストリップ劇場・浅草フランス座で、芸人見習い志願としてエレベーターボーイを始める。地味な風貌だったため、当初は笑芸人に向かないと評されたという。当時、たけしと思しき人物を見かけた井上ひさしも「不機嫌そうな青年[6]」と、その印象を述べている。 やがて、同劇場の経営者兼座長「浅草の首領」こと深見千三郎に師事し、前座芸人・北千太(北野姓と師匠の名前から。尚名前は頻繁に変わった)としてコント(軽演劇)を学ぶ。幕間コントに出演して腕を磨き、芸人としてタップダンスの修業にも励む。座員の多くが深見を近付き難い存在として見ていたが、たけしは物怖じしなかったため深見から気に入られた。舞台ではアドリブを駆使し、言葉の拾い方に独特の斬新さがあったため一目置かれるようになった。
フランス座時代は長いものではなかったが、師匠の深見をはじめ重要人物が多い。座付き作家見習いをしていた井上こんさい(井上雅義)はフリー記者に転身し、後にビートたけしの漫談エッセイにおける取材・構成を担う。また、見習いコメディアンとして入座したハーキーと呼ばれる人物は、ツービート初期のネタに多大な影響を及ぼしたとされる。一時期コンビを組むほど深い関わりがあったが心身を病み頓挫。病気の性格上その詳細は多く語られる事がなく、楽曲「浅草キッド」の歌詞に面影をとどめるのみとなっている。
[編集] ツービート結成
当時フランス座には、兼子二郎という2年先輩の芸人が出入りしていた。深見千三郎が浅草ロック座から移籍してきた際、一緒に移ってきた男で、コントのほか漫才にも手を拡げていた人物だった。兼子は漫才の相方がトラブルで抜けたため代役を捜しており、一緒にコントを演じた経験があるたけしに白羽の矢を立てた。たけしも外世界への誘惑に勝てずフランス座を出る決心をする[7]。劇場を離れたことは結果的に師匠・深見の失望と怒りを買うことになった。
東京の漫才師として演芸場に出るためには漫才協団に所属している必要があったため、松鶴家千とせの紹介で松鶴家千代若・千代菊に入門。松鶴家二郎・次郎と称した。当初は正統派の掛け合い漫才で全く芽が出ず、フランス座にいた頃よりも貧窮した。兼子が一時コロムビア・ライトの付き人をして生活を凌いでいたため、その縁で空たかし・きよし[8]と名乗り営業に出たこともあった。演芸場のギャラは安いため、地方キャバレーなども回るようになるが、たけしは漫才を聞こうとしない酔客相手の仕事を嫌い、出番をすっぽかしたり酩酊して舞台に上がることが多かった。しかも店をこき下ろすネタを掛けたり、客やホステスに喧嘩を吹っ掛けたので、しょちゅう舞台から降ろされていた。そのため兼子は場繋ぎに使う奇術ネタをいつもポケットに忍ばせておかなければならなかったという。そしてこの頃から一種の開き直りをみせ、暴走ネタ・危険ネタに走るようになってゆく。
紆余曲折ののち、2人はコンビ名を変えて最初から出直す事に決めた。新しい名前の候補を考えるうちに、たけしが学生時代ジャズ喫茶でアルバイトしていた話が出た。それに絡んだコンビ名「ツービート(two beat)」が選ばれる。「漫才師らしくなくていい」というのが決定理由だった。こうして兼子は「ビートきよし」、たけしは「ビートたけし」となる。
そんな折に大阪で新進漫才師として頭角を現して来たB&Bのスタイルに触発され、スピードを早めて喋りまくるスタイルへ変貌した。 服装もタキシードに蝶ネクタイからアイビー・ルックに変えて、古臭い漫才師の様式から脱却を図った。当初ツービートは代演などで松竹演芸場の舞台に上がっていたが、支配人に認められてからは出演回数も安定するようになる。毒舌の限りを尽くした掟破りのネタもさることながら、ボーイズグループの楽器を拝借して現れたり、座布団の上に座って漫才を行なうなど型破りな舞台が多く、ツービートが漫才を始めると(他の芸人が観に行くので)楽屋が空っぽになると評判になった。浅草ではコント55号以来の珍事だったため、いずれ世に出ると噂されるようになった。
[編集] 黎明期
演芸場での人気とは裏腹に、その破壊的な芸風は一部の関係者に受け入れられず激しい抑圧を受けた[9]。漫才協団から脱退を求める声すら起きたという。1976年(昭和51年)協団が主催するNHK新人漫才コンクールに出場、客の反応は抜群に良かったものの、審査員は序列を考慮した選定で昭和のいる・こいるに賞を与えた。以降ツービートは3年連続で出場したが、ついに最優秀賞を獲得することはなかった。場内の爆笑をさらったにも関わらず評価されなかった理不尽はトラウマとなり、後々まで遺恨を残すこととなった。一方、のちにライバルと目されるセント・ルイスは1977年(昭和52年)のコンクールで最優秀賞に輝き、一足先にその名を知られるようになった。
1978年(昭和53年)、新宿区高田馬場の芳林堂書店前で持ちネタの全てを披露する漫才ライブを開催。「マラソン漫才・ギャグデスマッチ」と題されたこのイベントには各界著名人や雑誌編集者などが訪れ話題を呼んだ。たけしはこのライブでおよそ2時間近く毒舌漫才を繰り広げ観客の喝采を浴びた。後日、短波放送の番組でこのライブ録音をオンエアする予定があったが、あまりにも凄まじい内容のため放送が見送られてしまうという逸話を残している。企画したのは高信太郎という演芸マニアの漫画家で、漫才コンクールでの奮闘にいちはやく注目しその売り出しに参与するようになった。高はその活動範囲から文化人と多く交友があり、たけしもその繋がりで高平哲郎、赤塚不二夫、タモリら異種の笑いを形成するグループと一時期交わっていたが(このころ「タモリのオールナイトニッポン」の中でツービートの漫才が紹介された事もあった)、新宿ゴールデン街的な「酒を飲んで軽いジョークを言いあったりする、あのシャレた笑い」が肌に合わずじきに離れている。ただし、赤瀬川原平を介して知り合った篠原勝之とは長きに渡る縁となった。
1979年(昭和54年)、「大正テレビ寄席」で司会・牧伸二のアシスタントをしていた女流漫才師「ミキ&ミチ」の内海ミキと結婚。千葉県犬吠埼にてささやかな新婚旅行を済ませたのち、亀有のアパートで生活を始める。高信太郎がツービートの所属事務所・太田プロから疎まれるようになると、代わって塚田茂の弟子で芸人肌の放送作家・高田文夫と親密になってゆく。高田は番組出演者のポール牧や青空球児・好児の口から度々話題に上がっていた浅草の芸人・ツービートのたけしに興味を抱いており、対面が実現した際は同じ東京育ちで年齢も近かったことから意気投合した。以来、ブレーン兼親友のような関係となる。のちに高田はたけしから「日本一の客」と敬意を表される程の存在となった。当時、高田が三波伸介のお気に入り作家だった縁で「三波伸介の凸凹大学校」へのレギュラー出演も決定。
11月「花王名人劇場」において、人気落語家・月の家円鏡(8代目・橘家圓蔵)の共演者に抜擢される。才気絶倫だが古典派からは「邪道」と言われていた円鏡と、目下売り出し中の「邪道漫才師」ツービートを競演させる試み。番組制作者が苦慮したのはツービートの毒がゴールデンタイムの視聴者に受け入れられるかという点で、緩和案としてネタの継ぎ目にお年寄りを気遣う台詞を挟みこむという苦肉の策が取られた。「円鏡 VS ツービート」と銘打って放送されたこの企画が好感触を得たことで、翌年の「激突!漫才新幹線」制作への布石となり、のちの漫才ブームへと繋がった。
[編集] 漫才ブーム
1980年(昭和55年)『マンザイブーム』(旧来の“漫才”と区別される為にカタカナ表記)のムーブメントが起こり、ツービートは毒舌漫才と毒舌ネタを売り物に一躍茶の間でも知られる存在となる。ブームで知られるようになった漫才師の中では、B&B、ザ・ぼんち等に続くに人気位置であったが、毒舌が故に全ての客層ではなく、新しいものを求める男性層から支持を集める傾向を見せた。中でもブームを象徴する番組となったのが、フジテレビ『THE MANZAI』である。これは『東西対抗漫才大会』という捨て企画を下敷きに制作された期首特番で、この番組でプロデューサーの横澤彪は時代遅れの存在だった『漫才』を徹底的に若者向けに作り替えてしまう。このとき新進気鋭の上方漫才師に対抗する東の代表として選ばれたのが『セント・ルイス』『B&B』『ツービート』の3組である。しかし一番人気のB&Bは昨年まで関西を本拠としていたコンビで、視聴者に関東の漫才師として認識されることは殆どなく、セント・ルイスも客層とのギャップに悩んだあげくリタイアしてしまうため、人気が上がるにつれて「上方漫才勢 VS ツービート」のような印象を与えた。
速射砲さながらに喋りまくり、時おり弾倉を交換するかのごとく首を「くっ」と捻る様は、個性派揃いの漫才師の中でも異彩を放った。その毒舌が織りなすネタの主題となったのはジジイ・ババア・ブス・カッペ(田舎者)で、さらにウンコとヤクザとガキが頻繁に登場した。また、金属バット殺人事件や深川通り魔殺人事件といった時事性の高い話題をいちはやくギャグに取り入れ、冒頭から人が死にまくる漫才として知られた。これら不謹慎ネタは総称して「残酷ギャグ」などと呼ばれ、巻き起こる批判に対しては「たかが漫才師の言う事に腹を立てるバカ」と言ってのけた。日本船舶振興会のCMを皮肉って作られた一連の標語ネタは「毒ガス標語」と言われ、ブーム初期の定番ネタとなった。「注意一秒ケガ一生、車に飛び込め元気な子」「気をつけよう、ブスが痴漢を待っている」「寝る前にきちんと絞めよう親の首」中でも「赤信号みんなで渡れば恐くない」はPTAや交通遺児育英会から猛抗議を受けた一方で、日本社会の実相を明瞭端的に表現したフレーズとして評価する声も多く、ツービートの代名詞のようなギャグとなった。当時モスクワオリンピックの各国ボイコットが物議を醸していた最中で、右翼の街宣車が「漫才師が『赤信号みんなで渡れば恐くない』と言っているように『ソ連もみんなで攻めれば怖くない!』」と渋谷の駅前で連呼していたという。のちに番組の中で新作標語を披露するコーナーが生まれたため、100個近くも標語ネタをひねり出す羽目になってしまった(そもそも、たけし自身は標語ネタがあまり好きではなかった)。
このころツービートは、TBSの『スター爆笑座』という番組にアシスタントとして出演しており、司会のせんだみつおと仲が良かった。楽屋での雑談中に、たけしは「コマネチ!」対となる「アンドリアノフ!」を生みだしている[10]。このオリンピック体操選手名の語感(股間)を表現するアクションは、ビートたけしの金字塔的ギャグとして非常によく知られるようになった(ほかに「ネリーキム」および「ディチャーチン」などが存在したが、こちらは浸透するには至っていない)。さらにその後、せんだが「コマネチ」を拝借し、たけしが『タケちゃんマン』の中で「ナハナハ」を借用するという一種の貸借関係が生まれた[11]。ちなみに後年、ヴェネツィア国際映画祭でグランプリを受賞した際には、ナディア・コマネチ本人より祝福の手紙が寄せられている。
ブームの只中に発売したネタ本「ツービートのわッ毒ガスだ」は、年間6位という売り上げで最初のヒット著作となった。本の出版元であるKKベストセラーズはビルを新築し「毒ガスビル」などと呼ばれた。たけしはその印税でポルシェを購入、三宅一生の服を着て舞台に現れるようになり、報知新聞に「アイツに俺の服、着ないように頼んでくれ!」という記事が載った。(三宅自身は後の雑誌インタビューで”発言”を否定している)
フジテレビは「THE MANZAI」の成功に乗り、漫才師による昼の帯番組「笑ってる場合ですよ!」の放送を開始する。ツービートは火曜日のレギュラーとなり、漫才のネタであった架空のコンテスト「勝ち抜きブス合戦」を現実化させた。ブームの終焉と共にこの番組も終わりを告げたが、最終回でたけしはスタジオアルタの客に向かい「何でもゲラゲラ笑いやがって!本当はお前らみたいな客、大っ嫌いだったんだよ!」と毒ずいた。プロデューサー・横澤彪は後番組の司会をたけしに依頼したが「俺は躁鬱気味だから、毎日の昼番組の司会なんかできません」と断られた。代わってタモリが抜擢され「笑っていいとも」が生まれることになった。
1981年(昭和56年)の元旦から始まったオールナイトニッポンでの単独DJも好評で、同様のファン層に支持された。
1982年(昭和57年)の夏頃にはブームは完全に鎮火。漫才ブームから成功の兆しを感じ、“タレントビートたけし”として漫才以外でも世間に知られるようになる。以降、単独で司会をする番組を多く持つようになった。のちに漫才ブームの仕掛人・澤田隆治はブームを振り返り「漫才で一番稼いだのは誰だかよく判らないが、このブームにはずみをつけ、トータルで一番稼いだのがツービートであることは間違いない」と述べた。
[編集] オールナイトニッポン
ニッポン放送系の深夜放送ラジオ番組「ビートたけしのオールナイトニッポン」でビートたけしの評価は一気に高まる。本人が当時を述懐するに『とにかく一人で喋ると間が空く事がものすごく恐かった』と言う通り、トークの速度はものすごく密度が濃い。当時のファンの中心層であった大学生は必ずテープに録音してから何度も聞き直さないと全内容が捕捉出来なかった程であった。ただ横で笑っているだけのように見られていた放送作家の高田文夫は、実はたけしのハイテンションを絶妙な間合いの合いの手で支えていた。当時は同じ事務所の(たけしが紹介した)片岡鶴太郎も共に参加していた。この番組から出た本は今で言う“語り起こし”で構成は主に高田によるものであった。また、ハガキ職人と呼ばれた熱心な投稿者の存在も大きく、このスタイルは後の「とんねるずのオールナイトニッポン」「ナインティナインのオールナイトニッポン」「伊集院光 深夜の馬鹿力」等、お笑い系パーソナリティの放送構成モデルとなった。次第にそのまんま東をはじめとした弟子志願者が現れはじめ、日本一周をラジオで中継させたりする『弟子やめさせコーナー』もあり、鶴太郎と交代するようにたけし軍団も放送に加わる様になった。放送の構成は週の出来事をおもしろおかしく話す内容が大半だが、時に三島由紀夫に傾倒するや、2時間三島を語る等の“講義モード”になったときもあった。また、中国で日本人修学旅行生が鉄道の大事故で亡くなる等の社会的な問題が起こった際には放送をボイコットしたり、風邪による体調不良で休んだこともあった(このときは急遽軍団が番組を引き受けていた)。ほかにも、たけしが放送中ずっとファミコンの「ポートピア連続殺人事件」をプレイしていたこともあった。この時も基本的に軍団が放送していたが、たけしは時折ゲームについて話し、その会話の中で偶然犯人を名指ししてしまった。
[編集] オレたちひょうきん族
明石家さんま、島田紳助、片岡鶴太郎たちと出演した『オレたちひょうきん族』(フジテレビ、メインはたけし)は、当時のお化け番組『8時だョ!全員集合』 (TBS) を放送終了に追い込み、80年代のバラエティ番組の金字塔となった。なお同番組の収録をしょっちゅう休み、そのたびに明石家さんまや島田紳助にネタにされた。来なかった理由を「オバケが出たから」と言い訳したこともあった。
同番組の人気コーナーで、たけしが主役のヒーローコント『THE タケちゃんMAN』は当時一世を風靡し、これにあやかって学校給食に「タケちゃんマンライス」なる料理が登場するようになった。
[編集] バラエティの黄金期
1982-1984あたりからTX気分はパラダイス等に出演している最中たけし軍団という弟子志願者(正式な門下は取らない主義の為“ボーヤ”と呼ばれる)の人数が集まって来た事から、集団で行うバラエティの展開を模索しNTV系スーパージョッキー、TBS系笑ってポン、お笑いサドンデス等と相まって各種のスペシャル番組にも取り組むも、まだファン層は新しいものを求める男性の大学生や若年層社会人に限られたコアな認知度だった。また博識が評価されTBS世界まるごとHOWマッチ等で文化人的な出演要請も増えて来た。
1985年から過去の経験や蓄積したアイディアからバラエティの黄金期を迎える。
- NTV=スーパーJOCKEY
- NTV=天才!たけしの元気が出るテレビ
- ANB=ビートたけしのスポーツ大将
- TBS=風雲!たけし城
- NTV=OH!たけし
- TBS=世界まるごとHOWマッチ(MBS制作)
- CX=オレたちひょうきん族
- LF=オールナイトニッポン
当時のレギュラー番組全てであるが、このうちNTV ANB TBS CX全ての20時台の最高視聴率をマークした。尚、たけし城、元気、スポーツ大将は全て実質ビートたけし本人の企画・構成によるものである。その他放送以外に歌手としてのレコードリリースとライブ活動、文学小説の出版、“たけしの挑戦状”等のゲーム制作も行っており、フライデー襲撃事件が起こる迄の期間はバラエティ時代の黄金期と言える。
[編集] バイク事故〜金獅子賞受賞以降
1997年(平成9年)、映画「HANA-BI」で、第54回・ヴェネツィア国際映画祭でグランプリに相当する金獅子賞を受賞する。本映画祭における日本作品のグランプリ受賞は39年ぶり。発表直後、たけしは「これでやっと、新人とか違う分野から出てきて映画撮ってもここまで行けるんだってのがわかったから、これから映画目指す奴にはいい刺激になったと思う」と語った。授賞式では「また日伊同盟を組んで他国を攻めようぜ」と英語でスピーチ。翌朝のスポーツ紙には「たけし、ズッコケ授賞式」という見出しが踊った。ニュースとしてはダイアナ元王妃の葬儀と重なったことで2番目の扱い。帰国時の記者会見では現地の土産物屋で購入した金獅子像のミニチュア(約280円)を披露して笑いをとった。
自著「時効」の中で四十代中盤を迎えたあたりから頭の回転が鈍り言葉が出にくくなる、突っ込みが鈍くなるなどの年齢からくる衰えが出始めたが当時はまだまだタレントとして盛りで世間が俄然たけしの毒舌を期待していたためギャップで悩んだと述べている。そして同著の中ではもう若いときのような毒舌は出来ないからテレビに出る時はおもしろいおじさん的な立場で出られればいいとも述べている。
[編集] ビートたけし登場以後、TV業界へ与えた影響
マンザイブームは、それまでドリフターズや萩本欽一などお笑いスターを中心に据えて存立していたバラエティ番組を大きく変えるきっかけになった。「オレたちひょうきん族」で茶の間に認知されたビートたけしは、その「ひょうきん族」自体では明石家さんまへの突っ込み役に徹することが多かったが、「お笑いサドンデス」「笑ってポン」等でそれまでの平和型のコントやギャグよりも、むしろ過激で無謀な方向性のギャグを志向した。 そして1985年以降のバラエティ黄金期では一般視聴者(素人)を重要な役割で参加させる番組を提示する。それまでバラエティ番組は(欽ちゃんファミリーの「気仙沼ちゃん」などごく一部の例外を除いて)あくまで芸人主導のものとされていた常識を覆し、ビートたけしは素人とたけし軍団を対抗させる形で、素人も主役に据えているのが最大の特徴である。「風雲!たけし城」では、たけしと軍団が構える『たけし城』に様々なゲーム形式の障害を乗り越えて行くという「攻略ドラマ」を中心に据えた番組構成を示した。考え抜かれた各ステージにおける参加者のリアクションの面白さは世界的な普遍性を持ち、世界各国で吹き替え版はもとより、権利を購入して現地キャストで製作した番組が放送されて人気を博した(一方本家のTBSは、同じ緑山スタジオを舞台に「筋肉番付」「SASUKE」等、「たけし城」をヒントにしたフォロワー番組を作り続けている)。
「スポーツ大将」では陸上競技、草野球、ママさんバレー、サッカー、水泳等の『昔取った杵柄』自慢の素人とたけし軍団が競う趣向をとった。たけし軍団では歯が立たない場合は100m走ではカール君、水泳ではトビウオ君、野球では球道君といった機械仕掛けのキャラクターが登場し、シュールな笑いを喚起した。「天才・たけしの元気が出るテレビ!!」では様々な素人を『街の話題』的に取り上げたり、ダンスが若者に浸透してきているニーズをいち早く察知し「ダンス甲子園」のコーナーを設けるなどの企画が光った。象徴的なのは番組内の企画コーナー「たけしサンタ」であり、子供が寝静まった枕元にサンタの扮装をしたたけしがプレゼントを届け、気づいて起きた子供のリアクションを愉しむというもの(この「元気が出る…」のスタイルは「ねるとん紅鯨団」や「浅草橋ヤング用品店」へ引き継がれる。いずれも制作会社がIVSテレビ制作、テリー伊藤の演出)。
これら各局視聴率トップを誇った番組のほとんどがビートたけし本人の企画と構成であり、そのキーワードは『夢』であるといえる。一般視聴者が様々な形で参加し愉しむというコンセプトはどれも一貫したもので、ファミリー参加型の家族リレーや家族大会等、視聴者が後々までも自らの語り草にできるような良質な番組であった。
バラエティの中でビートたけしが用いる言葉も業界で浸透した。[要出典]
オープントークで『と、言うわけで』から始まる独特のフレーズは当初「どういう訳なんだよ!」と突っ込みを貰う為のものであったが、今では疑問を持たずにそれ以後のタレントが当たり前のように用いている。『肉付けされた白骨死体みてぇな顔じゃねぇか』のように『〜みたいな〜』の例え表現形式もツービート時代にビートたけしが使い始めたもので、以後のお笑い系タレントがやはり当たり前に用いている。『わけのわからねぇ事言ってんじゃねえ!』の『わけのわからない』の表現も以前は日常で用いられる事はさほど無かったが、常用されるようになったのはビートたけし以後である。[要出典]余りに浸透しすぎて居るが故にこれらの言葉を今日では誰も意識する事がなくなっている。
[編集] 映画監督
当初は売れっ子芸能人であることで撮らせてもらっていたが、ヴェネチア国際映画祭 金獅子賞をはじめ国際的な賞も得ている。(各作品の詳細は「監督作品」を参照のこと)
1989年、北野が初めてメガホンを取った「その男、凶暴につき」は、当初 監督:深作欣二 主演:ビートたけしで映画化されるはずであった。松竹の映画プロデューサー・奥山和由は両者の間で交渉を進めたが、たけしのスケジュールが合わず「リハーサルはしない」「演技は本番一回きり」という難しい条件が提示された。深作は60日間の拘束を主張したため交渉は決裂、監督を辞退した。そこで奥山は人物的魅力と話題性から、たけし自身に監督の依頼を持ちかけたところ、テレビの仕事と両立させることを前提として承諾。一週間おきの撮影という珍しい形態が採用され、ここに映画監督・北野武が誕生した。
ビジュアル面での最大の特徴は、「キタノブルー」と評される青の色使い。また、多くの作品で登場人物の「死」が描かれ、青みの深い画面のもたらすひんやりした映像感覚とあいまって、全編に静謐な不気味さを醸し出している。
こうした一貫したカラーを持つ一方で、撮影時のアングルや編集のリズム、自身の絵画の導入、CGによるエフェクトなど、一作ごとに新たなチャレンジや創意も感じさせる。映像に一層の格調高さを与えている久石譲の音楽(3作目以降)も重要な存在である。
東京芸術大学に2005年4月に新設された大学院映像研究科の教授および映画専攻長に就任した。監督領域の教授は北野武と黒沢清の二名のみである。また、次兄の北野大も淑徳大学の教授だったので兄弟で教授となる。
2007年、第60回カンヌ国際映画祭に招待された。その際、マスコミをシャットアウトした上で松本人志(同じくカンヌ国際映画祭に招待された)と対談を行った。松本は、自らの初監督作品である『大日本人』の上映途中で席を立つ観客にショックを受けたと語り、たけしは「こんなことは当たり前だ。10年も映画監督をやればどうにかなる。他の監督より才能がある」と慰めた。(たけし自身は第52回カンヌ国際映画祭コンペティション部門に正式参加した『菊次郎の夏』で約10分間のスタンディングオベーションを受けている)
「2007年8月、カンヌ映画祭にて「GLORY TO THE FILMMAKER」賞が新設されることとなった。これは「監督!ばんざい」に基づいてつくられたもので、現地時間の8月30日に行われた表彰式に出席した。
日本の映画監督故・黒澤明とも会った事があり、たけしは黒澤を大島渚と共に敬愛している。たけしのベスト映画は『七人の侍』である。
[編集] その他プロフィール
明治大学特別卒業認定者(2004年)。血液型O型。趣味は野球、音楽、映画、ゴルフ、数学の勉強。好きな食べ物はおにぎり、九州ラーメン、から揚げ、コロッケパンなど。星座は山羊座。
[編集] 数学
大学が理系であった事からも分かるように、数学に対する造詣も深く、「もし道を間違えなかったら、数学の研究者になりたかった」とも語っている。また、かつて「ここがヘンだよ日本人」に出演した少女の、「数学なんか学んで何になる」という言葉に対し、「世の中の全ての現象は数学に支配されており、数学で説明できる」と反論した。しかし「平成教育委員会」の算数の授業で、「数学は答えさえ合ってれば良い」との理系出身者とは思えない理由で、論拠が誤っている正解者を優等生に選出したこともある。ただしこの発言は「数学は答えを導くための式は何通りも存在し、解答として掲載されている計算式に必ずしもこだわる必要はない」あるいは「解答した理由も合わせて答えよ、という設問ではないことから、時にはこういった手段を限定的に用いることもかまわない」といった意味に過ぎない、との解釈も成立する。
[編集] スポーツ
サッカー(Jリーグより以前の国内・海外選手に詳しい)や野球をこよなく好み、長嶋茂雄を敬愛している。たけし自身は野球が好きな理由として、誰しもが平等にスターになれるチャンスがあること、どんなに立派な人でも正直に必死にやれるところがいいと述べる。少年時代は『島根イーグルス』、演芸場時代は漫才師の野球チーム『メダトーズ』に所属しておりキャリアは非常に長い。また、草野球チームとしての『たけし軍団』ではピッチャーを務め、マウンドに立つこともある。野球をする時の彼は真剣で、軍団に本気で恐れられた。川崎球場で番組収録中、グラウンドに人気絶頂の光GENJIが登場したため女性ファンの歓声が巻き起こり、試合どころではなくなってしまった。その際に誰よりも早く「ここはグラウンドで野球をやってるんだぞ!コンサートじゃねえんだ!」とスタッフに怒号を発して、場内にいた江夏豊を始めとするプロ選手達を感動させた。
神宮外苑の軟式球場が一種のホームグラウンドで、最盛期は年間70試合近くもこなしていたという。その勝率は高く芸能人チームでは最強と言われた。1991年の阪神タイガース・ファン感謝デーでは余興の試合(軟式)とはいえ勝利を収め「阪神13位」とスポーツ紙を賑わせている。『スナック・茜』のマスターが主催する『茜リーグ』では漫画家・水島新司率いる『ボッツ』が好敵手で、1986年に講談社が企画した試合では後楽園球場を舞台に激戦を繰り広げた。また、長らく続いていた東京スポーツとの確執も草野球で爽やかに手打ちが行われ、この試合における勝利によって同紙客員編集長の座を得たことになっている。作家・伊集院静が連載していたエッセイ『二日酔い主義』の中には、たけしと一緒にプレーをした記憶に触れる回が幾つかあり、『たけしのグローブ(伊集院静『あの子のカーネーション』文藝春秋、 1989年。)』では、どこか懐かしさを感じさせるユニフォーム姿と使い込まれた内野手用のグローブに強かな野球少年の面影を重ねて描かれている。本作で三原脩に準えられたそのユニフォーム姿は、イラストレーター・佐々木悟郎の手によって水彩画に仕立てられ『スポーツシャワー〜ヒーローに花束を〜』の中で使用されていたことがある。
格闘技ではボクシングを好み、自身もジムに通った経験を持つ。映画の中で人を殴るシーンや『座頭市』における逆手切りのフォームには影響が垣間見える。浅草時代を知る石倉三郎も「タケちゃんのケンカはボクシングスタイルで結構パンチも早かった」と述べている。ガッツ石松ネタはラジオの人気コーナーとなった。当時、暴走激しいネタの数々に所属事務所は憤慨していたが、ガッツ自身は鷹揚な態度でたけしに接したという。「トカちゃん」こと渡嘉敷勝男は莫逆の友と呼べる仲で、その純情可憐な性格をたけしに愛された。『天才たけしの元気が出るテレビ』のボクシング予備校からは飯田覚士・松島二郎を輩出。辰吉丈一郎とは『Number』誌上の対談などで懇意となった。映画『キッズ・リターン』ラストシーンの台詞は辰吉に贈られたものでもある。人生のバイオリズムが同期した1997年は運命の不思議を笑いあった。なお、たけし自身は1963年の高山一夫 vs 勝又行雄戦、1971年の金沢和良 vs ルーベン・オリバレス戦をベストマッチに挙げている。その一方で、1987年のたけしプロレス軍団にまつわる騒動において苦い経験もした。また、空手で骨折し拳の一部が変形している。
他方、あまり好きでないスポーツとして、バドミントン・バレーボールを挙げている。また器械体操の類も不得意で、子供の頃から鉄棒の逆上がりや跳び箱が不得手だった。跳び箱ができないことは後に『ビートたけしのオールナイトニッポン』や『ビートたけしのスポーツ大将』内でネタにされ、「ビートたけしの跳び箱オリンピック」と題した苦手克服企画が放送された。
[編集] タップダンス・ピアノ
漫才ブームが過ぎ、次代に生き残る為の材料を思索していた時期、たけしはテレビの更なるバラエティショー化が進むと予想していた。そこから「タップとピアノ位はやれないとみっともねえだろ」という発想が生まれる[12]。以降、弟子のたけし軍団もタップ・楽器・太神楽(ジャグリング)の練習が必修科目となった。
タップダンスに対する思い入れは深く、毎日練習を欠かさず行なう。映画「座頭市」の撮影では踊るシーンが無いのにも関わらず練習をしていた。海外に渡航する際ですらタップシューズを持参するという。
ピアノを弾くのはバイエル、ツェルニー、そしてソナチネ(練習曲から本格的な楽曲へ移る分岐点にあたる)までで、それ以上の域に到達する必要はないと言う。ピアノ奏者レベルまで目指すのは本末転倒で、タップもピアノも「真剣にやろうと思えばやれる」ところまで到達し、それ以降はいかにアレンジして見せるかを考えるのが芸人の仕事だと語った。
[編集] 家族・縁戚
父の叔母で実質の祖母である北野うし(1877年生)は明治時代に娘義太夫の花形であった。2人の兄と1人の姉がおり、次兄はタレントで明治大学教授、工学博士の北野大である。また長兄も若い頃から秀才で機械工学に造詣が深かったらしい。妻は元漫才師の北野幹子(旧姓・松田)、長男、長女の井子(しょうこ)。レーシングドライバーの松田秀士は義弟である。 たけしが芸人を志したとき北野家の誰もが反対したが、長兄の妻(たけしにとっては義理の姉)だけは「武さんは必ず出世する」と断言したという。
2004年10月に長女の北野井子が調理師と入籍し、2005年3月9日に女児を出産し、たけしは「おじいちゃん」となった。しかし同年6月、離婚調停中であることが発覚した。孫誕生後は自宅にちょっと顔を出して、娘の住む家に帰宅。孫をおんぶしたりと面倒を見ているらしい。
[編集] 事件・事故
[編集] フライデー襲撃事件
詳細はフライデー襲撃事件を参照
1986年12月9日に、たけし軍団とともにフライデー襲撃事件を起こし逮捕。懲役6ヶ月、執行猶予2年判決(東京地裁、確定)。たけしのレギュラー番組で人気だった天才・たけしの元気が出るテレビ!!や痛快なりゆき番組 風雲!たけし城、スーパーJOCKEYへの出演を謹慎のために半年間欠席した。襲撃した理由は、当時たけしが交際していた女子大生にフライデー記者が校門で急襲取材をしたための報復と言われている。女子大生に暴行で告訴された記者は罰金10万円の判決を受けた。また、たけしを弟子の様に可愛がっていた横山やすしは「悪いのは、たけしやない!悪いのは雑誌『フライデー』や!」とフライデーの取材方法に対して痛烈に批判をした。
ちなみに襲撃直前のたけしと軍団を、車で通りがかった堺正章が発見、会話を交わしている。また、襲撃後に連行されて行くたけしと軍団を、講談社「ホットドッグ・プレス」の編集部にいた山田五郎が目撃している。
1987年、映画監督・深作欣二は、謹慎中の身にあったたけしと京都において初対面。その印象を「非常に鋭い顔をしている。笑っていても目は笑わんし、顔立ちが独特だ。いろんな人間とシビアな闘争をしてきた男の顔だ」と述べた。
[編集] バイク事故
1994年8月2日午前1時40分。東京都新宿区の都道で飲酒運転での原付バイク事故を起こし、入院生活などで半年間ブラウン管から姿を消していた(反則点数7点、免許停止30日)。酒気帯び運転にて書類送検されるも起訴猶予。退院時、顔面は半分麻痺した状態だったが、リハビリにより回復し、復帰当時は「頭にボルトが入っていて飛行機の金属探知機に引っかかる」「顔面麻痺が治らなかったら芸名を顔面マヒナスターズにします」と自らの怪我をネタにした。また、たけしが司会を行っている番組は他の出演者が司会代理を行っていたが、平成教育委員会はたけしと仲の良い明石家さんま、所ジョージ、大橋巨泉が代理講師を務めた。
事故の朝、フジテレビ「おはようナイスデイ」(当時司会・生島ヒロシ)は時間を延長して放送。TBS「モーニングEye」では、まだ生死が判明していない段階であるにも関わらず、司会の渡辺真理が号泣してしまった。テレビ朝日「