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昭和(しょうわ)は、20世紀の日本の元号の一つ。大正の後、平成の前。昭和天皇の在位期間であった1926年(大正15年/昭和元年)12月25日から1989年(昭和64年)1月7日までの期間を指す[1]。
昭和は64年まで続き、歴代元号の中で最長であり、外国の年号を含めても最も長い。ただし、実際の期間は昭和元年と64年が共に1週間のみであったため、厳密には62年と2週間である。なお、60年以上続いた年号は「昭和」と、清朝の康熙(61年)、乾隆(60年)のみである。
目次
改元
昭和は、旧皇室典範と登極令によって制定された最後の元号であり、元号法で改めて制定された最初の元号である。
- 開始
1926年(大正15年)12月25日、大正天皇崩御。同日、皇太子裕仁親王(昭和天皇)が践祚したため、直ちに改元の詔書を公布し、昭和に改元した。1926年12月25日は、大正15年であり昭和元年でもあることになる[2]。なおこの際、東京日日新聞が「新元号は光文」と誤報した(光文事件)。
- 昭和改元の詔書(大正15年12月25日)
- 朕皇祖皇宗ノ威靈ニ賴リ大統ヲ承ケ萬機ヲ總フ茲ニ定制ニ遵ヒ元號ヲ建テ大正十五年十二月二十五日以後ヲ改メテ昭和元年ト爲ス(以下略)
- 終了
1989年(昭和64年)1月7日、昭和天皇が崩御した。同日、皇太子明仁親王(今上天皇)が皇位を継承したため、元号法の規定に基き、元号を改める政令(昭和64年1月7日政令第1号)を公布した。翌1月8日、同政令は施行され、平成に改元した。
- 元号を改める政令(昭和64年1月7日)
- 内閣は、元号法(昭和五十四年法律第四十三号)第一項の規定に基づき、この政令を制定する。
- 元号を平成に改める。
- 附則
- この政令は、公布の日の翌日から施行する。
出典
「昭和」の由来は、四書五経の一つ書経尭典の「百姓昭明、協和萬邦」による。漢学者・吉田増蔵の考案。なお、江戸時代にまったく同じ出典で、明和の元号が制定されている(「百姓昭明、協和萬邦」)。国民の平和および世界各国の共存繁栄を願う意味である。
枢密院議長・倉富勇三郎の日記によれば、宮内省作成の元号案として「神化」「元化」「昭和」「同和」「継明」「順明」「明保」「寛安」「元安」があったが、数回の勘申の結果、「昭和」を候補とし、「元化」「同和」を参考とする最終案が決定した。
時代の流れ
急速な技術進歩を続ける20世紀は、2度の世界大戦に象徴されるように、それまでの時代と異なり、国土そのものを破壊する大規模近代戦争を伴う動乱の時代でもあった。日本は国内的には立憲君主制の体裁をとり、当初の藩閥政治を脱して、1920年代には政党が内閣を構成するようになった。1920年代末から軍部が独立性を強め、1930年以降は政府の意思に反した軍事活動や戦闘を多数引き起こし、相次ぐ軍事クーデターにより、ついには政党政治を葬り去った。もっとも、政党政治を嫌ったのは官僚勢力だったとする説もある。
昭和初期
第一次世界大戦では、まれに見る好景気で日本経済は大きく急成長を遂げた。しかし大戦が終結して諸列強の生産力が回復すると、日本の輸出は減少して早くも戦後恐慌となった。さらに1927年(昭和2年)には、関東大震災の手形の焦げつきが累積し、それをきっかけとする銀行への取りつけ騒動が生じ、昭和金融恐慌となった。若槻内閣は鈴木商店の不良債権を抱えた台湾銀行の救済のために緊急勅令を発しようとしたが、枢密院の反対に会い、総辞職した。あとを受けた田中義一内閣は、高橋是清蔵相の下でモラトリアム(支払い停止令)を発して全国の銀行の一斉休業と日銀からの緊急貸し出しによって急場をしのいだ。
一方、中国では孫文の後を蒋介石が継ぎ、国民政府軍が北伐(中国革命で中国北部の軍閥勢力を平定すること)を開始して、華北に進出した。田中内閣はこのため3回に及ぶ山東出兵を行い、東京で外交・軍部関係者を集めて東方会議を開き、満蒙の利権を死守することを確認した。これに基づいて政府は満州の実力者張作霖と交渉し、満洲の権益の拡大を図ったが、張は応じず、関東軍は張の乗る列車を爆破して暗殺した。関東軍は当初この事件を中国国民政府軍の仕業だと公表したが、実際は関東軍参謀河本大作の仕業であった。このため国内の野党から「満州某重大事件」として追及され、田中は昭和天皇に上奏しようとしたが、天皇から説明を聞きたくないと不快を表明され、田中義一内閣はこのため総辞職した。世上では首相の名前(義一)を下から読んで、「一つもよしことなかった」と揶揄された。
田中内閣は、第二次護憲運動で生まれた護憲三派の内閣である加藤内閣とりわけ、外相である幣原喜重郎が行った外交政策である中国内政不干渉政策(幣原外交)を「軟弱外交」として批判して登場した。そのため、田中義一は自ら外相を兼任し、中国での革命の進展に対して強く干渉した。しかし、中国での武力行使に対する列国の批判をかわすためもあって、1928年(昭和3年)、パリで締結されたいわゆるパリ不戦条約には調印した。ただ、この不戦条約は、第1条で「人民ノ名ニ於テ」戦争を放棄することを謳っており、国体をないがしろにするものとする批判が国内に生じた。このため、新聞紙上でも喧々諤々の論議が行なわれた末、翌年に至り、「其ノ各自ノ人民ノ名ニ於テ」という文言を日本については適用外とする宣言を付して批准された。また、田中内閣は国内で思想取締強化をはかったことでも知られている。特に普選実施後、予想外の進出を示した無産政党や共産党に対する弾圧を強め、1928年(昭和3年)に三・一五事件、翌年に四・一六事件を起こして共産党系の活動家と同調者の大量検挙をおこなった。その間、緊急勅令により、治安維持法を改正して最高刑を死刑とした。
一方、文化や社会科学の研究ではマルクス主義が隆盛となり、1932年(昭和7年)には、野呂栄太郎らによる『日本資本主義発達史講座』が岩波書店から発行され、知識層に多大の影響を及ぼした。その執筆者は「講座派」と呼ばれたが、それに対して批判的な向坂逸郎らは雑誌『労農』により、「労農派」と呼ばれた。両派は以後、活発な論戦を繰り広げたが、国家主義的革新運動の台頭に伴い、弾圧を受け、強制的に収束して行くこととなった。
そのような状況下の1929年(昭和4年)10月24日、ニューヨークのウォール街での株価の大暴落によって世界恐慌が引き起こされた。それは日本にも波及し、翌年、田中内閣の後を受けた濱口雄幸内閣が実行した金解禁を契機として昭和恐慌が引き起こされた。この恐慌は戦前の恐慌の内で最も深刻なものであった。英国・フランス・米国などが植民地囲い込みによるブロック経済で建て直しを図ったが、第一次世界大戦の敗戦で天文学的賠償金を負っていたドイツや、高収益な植民地を持たない日本などは深刻化な経済不況に陥った。このことはファシズムの台頭を招き、ドイツではナチスを生み出す結果となり、日本では満洲は日本の生命線であると主張され、軍の中国進出を押し進めてしまう要因の一つとなった。
1930年(昭和5年)、米国や英国が中心となりロンドン海軍軍縮会議が開催された。これは第一に、主力艦を1936年(昭和11年)まで延長する、第二に、補助艦の保有比率を米:英:日=10:10:7とするものであった。全権大使若槻禮次郎はこれを受諾したが、海軍は、統帥権を侵していると内閣に反発した(統帥権干犯問題)。
1931年(昭和6年)には関東軍の謀略により柳条湖事件を契機に満州事変が勃発した。政府の戦争不拡大の方針をとったが、関東軍はそれを無視する形で発展していった(塘沽協定で日中間は一旦停戦となる)。日本の満洲建国に前後して、国際連盟はリットン調査団を派遣し、その調査結果に基づいて、1933年(昭和8年)、日本の撤退勧告案を42対1(反対は日本のみ、ほかにシャム(タイ)のみが棄権)で可決した。このため日本の代表松岡洋右は席を蹴って退場し、次いで国際連盟を脱退した。このことにより日本は国際的に決定的に孤立の道を歩んでいったと同時に、政府は孤立化による国民感情の悪化を懸念したが、予想に反してこの決断は日本の意思を貫いた行為として賞賛された。また、1932年(昭和7年)には海軍将校らが犬養毅首相を射殺した五・一五事件が、1936年(昭和11年)には皇道派の青年将校が斎藤実内大臣と高橋蔵相を射殺した二・二六事件が起こって軍部の暴走も顕著となり、政党内閣は終焉にいたった。その後、軍部の勢力は強まり、広田弘毅内閣では過去に廃止となった軍部大臣現役武官制を復活させる。このことで現役軍人しか陸海軍大臣には就くことができず、軍の協力なしに内閣を組閣することができなくなり、議会はその役割を事実上停止する。1937年(昭和12年)には、盧溝橋で日中両軍が衝突し(盧溝橋事件)、日中戦争(支那事変)が始まった。日中戦争(支那事変)がはじまると、中国では蒋介石と周恩来の間で国共合作が成立し、抗日闘争が進められた(第二次国共合作)。ヨーロッパでは1939年(昭和14年)9月、ナチス・ドイツがポーランドに侵入し、第二次世界大戦が開始された。日本は当初、「欧州戦争に介入せず」と声明したが、1940年(昭和15年)、フランスがナチス・ドイツに降伏し、ドイツ・イタリアの勢力が拡大するに及んで日独伊三国同盟を締結した。大西洋憲章を制定した米英の連合国に対し、日独伊は枢軸国と呼称されるようになった。
戦線の拡大に従って廣田内閣・林内閣で盛んであった国防の観点から思想統制と国民生活向上を図って戦時体制への強力を国民に求めると言う「広義国防」論に代わって、国民・国力の全てを戦争遂行のために投入して総力戦を行おうとする総動員政策が台頭し、その結果国家総動員法が成立した。
国内の文化・思想に関しては、戦時体制が強化されるにともなって治安維持法による思想弾圧が目立ち、1937年(昭和12年)には、加藤勘十・鈴木茂三郎らの労農派の関係者が人民戦線の結成を企図したとして検挙される人民戦線事件が起こった。この時期には、合法的な反戦活動は殆ど不可能になっていった。
太平洋戦争(大東亜戦争)
太平洋戦争 も参照 日中戦争(支那事変)開始後、日本では近衛文麿を中心とする新体制運動が進められ、1940年(昭和15年)10月、大政翼賛会が結成され、既成政党は解党して呼応した。この翼賛会は、経済新体制を創出する統制会・大日本産業報国会と並んで政治面で日中戦争および太平洋戦争の遂行を支え、「高度国防国家体制」の創設を目指す大政翼賛運動の推進に当った。組織原則では、衆議は尽くすが最終的な決定は総裁が下すと言う「衆議統裁」形式が採られた。これはナチスドイツの組織原則を真似たものであると言われ、一党独裁の赤である、幕府の様に皇室を置物にするものであるという強い批判も出た。総裁は首相を兼任し、歴代総裁には近衛文麿、東條英機、小磯國昭、鈴木貫太郎が就任し、最初は総裁の指名によって事務総長に近衛側近の有馬頼寧(よりやす)が任命され、中央本部に総務・組織・政策・企画・議会の五局および23部が設置された。地方にもこの支部が設けられ、支部長の多くは知事・市町村長が任命され、中央・地方に協力会議が設置された。しかしその部内では主導権争いが頻発し、また1941年(昭和16年)には、公事結社とされて政治活動は禁止され、有馬らの近衛グループが退陣し、内務省および警察主導の行政補助機関となっていった。
アメリカ合衆国は通商条約の破棄など強硬な方策を採った。日本はナチスドイツ・イタリア王国と日独伊三国軍事同盟を締結することで対処しようとしたが、アメリカ合衆国の反発を招くだけだった。その上、南部仏印進駐によってアメリカ合衆国から石油禁輸を招くにいたった。アメリカ合衆国・イギリス・中華民国・オランダとの関係がいっそう冷え込み、日本ではそれぞれの国の英語の頭文字をとってABCD包囲網と呼ぶ。一方日本では、陸軍を中心として対ソ連戦争を目指す北進論と南方に進出することを目標とする南進論との二派があったが、国境線が紛争となっていた張鼓峰とノモンハンで偵察的な戦闘をおこなった際、ソビエト連邦陸軍の戦車部隊に善戦したものの、結果的に惜敗した。これによって北方進出を諦め、日ソ中立条約を締結し北の守りを固めるなど対米戦争を準備する一方、外務省は1941年(昭和16年)晩秋まで日米交渉を続けた。しかし、軍の強硬姿勢に押される形で交渉は難航し、当時ナチスドイツに対し完全な劣勢であったウィンストン・チャーチルイギリス首相や中華民国の蒋介石らによるアメリカ合衆国の参戦の要望、及び日本海軍の動きにフランクリン・ルーズベルトアメリカ合衆国大統領が激怒したことによりコーデル・ハル国務長官より中国大陸から撤退すべしとの交渉案(通称ハル・ノート)を受ける。これを全植民地からの撤退要求と解釈した日本は、事実上の最後通牒と認識し、対英米蘭開戦が決定された。こうして太平洋戦争(大東亜戦争)が始まり、日本は第二次世界大戦へ参戦することとなった。アメリカ合衆国、イギリスは大西洋憲章を制定し、自陣営を連合国と称し、日本・ドイツ・イタリアの枢軸国と対抗した。
1941年(昭和16年)12月8日(現地時間12月7日)、ハワイ時間午前6時30分に航行制限区域に侵入した特殊潜航艇が撃沈される「ワード号事件」、日本のマレー侵攻の後、日本海軍は、真珠湾攻撃を行なった。しかし戦争の前途に確信があったわけではなく、開戦当初から、山本五十六連合艦隊司令長官は、1年間は戦況を維持しうるが、それ以上は無理であろうと語っていたと言われ、表面的な派手な宣伝にもかかわらず、事態の認識は最初からより悲観的であった。また同日、東南アジアのイギリス、オランダ植民地も攻撃した。日本海軍は開戦当初、今でこそ一般的な航空母艦(空母)の艦載機という航空機を主力とする新しい戦法を用い、また連合国側を大きく上回る技量を備えたパイロットらを率いて、史上初めて航空機のみの攻撃によって行動中の戦艦を沈めるなど、連合国軍相手に常勝無敗であり、日本国民はこの初期の大勝利に酔いしれた。
1942年(昭和17年)、東條内閣は、初戦での勝利を利用して翼賛選挙を実施し、翼賛政治体制を確立した。また大日本産業報国会・農業報国連盟・商業報国会・日本海運報国団・大日本青少年団・大日本婦人会の官製国民運動6団体を翼賛会に従属させた。さらに町内会と部落会に世話役を、隣組に世話人を置いた。世話役は町内会長が兼任し、全国で約21万人、世話人は隣組長兼任で約154万人であった。町内会は生活必需物資の配給機構をも兼ねていたので、国民生活はすみずみまで統制と監視に晒されることとなった。
当時日本は石油備蓄量がたったの2年分であったことから、南方の石油天然資源の制圧に乗り出した。当時、東南アジアはまだまだ欧米諸国の植民地であったために、この戦争を独立の機会として日本軍に賛成する動きもあったが、日本側の資源搾取や現地住民をかり出した重労働、また日本軍が劣勢になるにつれて支持も離れていった。日本はアジアにおける権利の正当性を訴えるため、1943年(昭和18年)10月、東京で大東亜会議を開き、自主独立、東アジア各国の相互協力などを謳った大東亜共同宣言を発表した。これは東アジアで初めて開かれた国際的会議である。しかし実態は日本主導であり、未完成であった。
日本海軍は開戦当初、奇襲攻撃を主作戦としたため連戦連勝であったが、ミッドウェー海戦での敗北を転機に戦線は次第に後退していく。そして、これまで劣勢だったアメリカ海軍はミッドウェー海戦を皮切りに巻き返した。これ以後は日本海軍とアメリカ海軍による一進一退の攻防が始まる事になった。ミッドウェー海戦では戦況の読み誤りから最重要の主力兵器である正規航空母艦4隻を失い開戦以来の大敗北をした。この時から国民には偽りの戦況が伝えられ、国民は日本海軍が負けていることを知らされず、戦況を知ることができなくなっていた。このころ既に、中国戦線は敗北こそ無かったものの、中国軍によるゲリラ戦術で戦力が分断され、泥沼の膠着状態に陥っていた。また、最重要資源となっていた石油も、制海権をなくしつつあることで日本への輸送が困難となっていたことから備蓄は底をついていった。兵器・戦略物資の損失を補充するための財政力、工業生産力ともに米国の数十分の一でしかない日本の戦況は、目に見えて悪化していった。大政翼賛会は本土決戦体制への移行のため、1945年(昭和20年)に解散し、国民義勇隊に改組された。 1944年(昭和19年)7月にはサイパン島が陥落し、これにより日本本土は連日のように空襲に晒されるようになり、1945年(昭和20年)3月10日には、大量無差別虐殺である東京大空襲が行なわれた。日本国内ではすでに燃料と材料不足で稼動停止していた工場群や道路・港湾・鉄道等の社会資本も徹底的に破壊され、生活物資すら窮乏するようになった。事ここに至り各種和平工作が企図されるが、この頃の連合国は全日本軍の無条件降伏以外は認めない方針を決定しており、日本の和平努力は実らなかった。同年7月26日、連合国はポツダム宣言を発表するが、日本政府は直ちには正式回答しなかった。日本がなおも戦争継続の意思を示していたため、アメリカ軍によって、広島市への原子爆弾投下と長崎市への原子爆弾投下が行われた。
日本は当時唯一、中立条約により交戦国とはなっていなかったソビエト連邦の仲介での和平工作を試みたが、ソビエト連邦はヤルタ会談連合国の申し合わせに従って宣戦布告(ソ連対日参戦)し、満洲に進撃した。満洲では関東軍は総崩れとなり、またこの時にソ連兵による満洲での大規模な略奪行為も頻発するに至った。戦後も長らく解決を見ない中国残留孤児問題は、この時に生じることとなる。ソ連参戦によって万策尽きた日本政府は、御前会議の場において直接関与による英断を昭和天皇に仰いで降伏を決定し(同年8月14日)、ポツダム宣言を受諾するとの結論に達した。この決定は翌8月15日正午、昭和天皇自らの日本放送協会のラジオ放送いわゆる玉音放送により日本国民に伝えられた。
日本の降伏 も参照
こうして日本だけでも300万人、関係諸国を入れると2000万人から3000万人(実数不明)の死者を出したと言われる未曾有の大戦争は終わりを告げた。なお、8月15日以降も、千島列島の占守島や南樺太では、ポツダム宣言受諾後に侵攻してきたソ連軍と日本軍守備隊との熾烈な戦闘が行われた。樺太での地上戦が終了したのは、同年8月23日のことだった。 降伏文書 も参照
戦後復興と高度経済成長
概観
太平洋戦争(大東亜戦争)後、1952年(昭和27年)まで連合国軍の軍事占領下に置かれたが、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ / SCAP)の軍政は布かれず、直接的な統治は沖縄・奄美諸島・トカラ列島の下7島・歯舞群島・千島列島・樺太・小笠原諸島を除き日本政府が行なう間接統治が行なわれた。連合国軍最高司令官総司令部は、出版停止やプレスコードと称される言論統制・検閲などを通じて軍国主義・反米・反連合国とGHQにみなされたものは報道できなかった。沖縄・小笠原諸島はアメリカの軍政が布かれた。
アメリカ合衆国による沖縄統治 も参照
戦後、日本人は占領地だった諸地域や外地からの引き揚げを強いられた。ソ連軍に占領された内地の一部(南樺太および千島列島)の日本人のほとんども日本政府統治地域に引き揚げ、一部はシベリア抑留され強制労働に従事した。外地からの日本人の引き揚げは困難を極め、通化事件のような日本人虐殺事件が起きるような混乱の中、中国残留日本人問題を後に残した。また、インドネシア独立戦争、ベトナム独立戦争や国共内戦などに多くの日本人が加わった。旧満州国や台湾、朝鮮半島などでは日本人技術者が数年間インフラの管理を行い、その後現地の人々に管理が引き継がれた。
1946年(昭和21年)に公布された日本国憲法は大日本帝国憲法の改正という形で成立したが、その成立過程にはGHQが深く関与した。その内容は、主権は国民に存するとした「国民主権(主権在民)」、法の下の平等及び自由権・社会権・参政権・国務請求権などの権利を保障する「基本的人権の尊重」、戦争を放棄し、国際紛争を武力や武力による威嚇によって解決しない「平和主義」を三大原理とした。このため現在日本では徴兵制度は憲法違反として実施されない。また、天皇は日本国および日本国民統合の象徴とされ、天皇の国政への関与は禁じられた(象徴天皇制)。
さらに、GHQの主導により農地改革、財閥解体、労働組合結成の促進、教育基本法制定などの戦後改革が実施された。1952年4月28日に日本は主権を回復。GHQの進駐が終わった。
太平洋戦争によって著しく落ち込んだ経済は、朝鮮戦争・ベトナム戦争をきっかけとして回復し、さらに1960年(昭和35年)から1970年代初頭(昭和40年代)まで高度経済成長を遂げ、アメリカ合衆国に次ぐ経済力と技術力を備えるようになった。その要因としては、農地改革や労組の拡大によってかつては貧しく、弱い立場に置かれていた労働者や農民が大消費者層として解放され、国内市場が戦前に比べて飛躍的に拡大したことや、産業の高い技術開発力が大きく作用し、家電、自動車などは国際的にもトップを争う位置にまで達したことが挙げられる。人々が豊かになるにつれ、生活と文化の洋風化・アメリカ化が進んだ。後にはそうした基盤の上に日本独自の文化が見直されるようにもなった。二度にわたるオイルショックを境に高度経済成長時代は終焉し、安定成長時代を経てバブル景気へと突入した。
また、日本は憲法で軍隊を持たないことを定めたが、1951年(昭和26年)に日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約)と同時に日米安全保障条約を締結し、アメリカ合衆国軍の駐留をそのまま継続するとともに、翌1952年(昭和27年)には保安隊(後の自衛隊)も発足し、事実上の再軍備を行なった。冷戦期には米国と同盟してソ連に対抗した。冷戦後には国際連合に協力して海外でPKO部隊を展開するようになった。
GHQによる占領
連合国軍占領下の日本 も参照 終戦後、日本はそれまで統治権を持っていた、台湾・朝鮮・南樺太、南洋群島・千島列島を失った。このうち、千島列島については、樺太・千島交換条約によって領有権を確定しているため全千島が日本に属するとの見解もあるが、日本政府は、千島列島のうち、南千島の北方4島についてのみ日本固有の領土であると主張し、その内2島は北海道に属すると説明している。
1945年(昭和20年)から1952年(昭和27年)までの7年間にわたって、日本史上初めて他国(GHQ)に占領され、最高司令官としてダグラス・マッカーサー元帥が着任した。マッカーサーは政治的には共和党右派で、本来反共主義的な傾向があったが、戦後直後の民主化は戦争直後の内閣として組閣された東久邇宮稔彦王内閣の予想を超える急進的な内容を持っていた。東久邇宮稔彦王内閣は戦時中の政治の継続を行なっただけで、民主化の進展に対応できず、総辞職した。米国の占領下で、幣原喜重郎内閣、次いで吉田茂内閣を通じ、農地改革・財閥解体・労働改革の三大経済改革と呼ばれる民主化措置が実施された。また婦人参政権が認められる一方で、治安維持法が撤廃されるとともに二次にわたる公職追放が行われ、太平洋戦争に加担した者の公職からの追放および被選挙権の停止措置が採られた。吉田茂と首相の座を争う位置にいた鳩山一郎の場合、戦前の京大滝川事件時の文相であったことから、政治的活動が制約された。また1946年(昭和21年)には、極東国際軍事裁判(東京裁判)が開廷され、戦争犯罪人とされた人は、戦争を計画し遂行した平和への罪(A級)、捕虜虐待など通例の戦争犯罪(B級)、虐殺など人道に対する罪(C級)としてそれぞれ処断された(A級B級C級とは罪の大小を表すものではなく、それぞれの罪を分類するものである)。
連合国の日本占領政策は、事実上のアメリカ合衆国の単独で行われたが、直接統治方式による軍政(アメリカの高等弁務官による統治)は沖縄に施行されただけで、日本本土は間接統治方式によって日本政府を通じて占領政策が実施された。占領をめぐって、連合国内部にも意見の相違が表れ始め、ソ連のスターリンは、北海道の北半分のソ連占領を提案したが、アメリカのトルーマンが拒否し、本土は統一的なアメリカの勢力下に置かれた。一方、トルーマンは「共産主義」封じ込めの必要を強調する「トルーマン・ドクトリン」を発表してギリシャでの内戦に介入し、チャーチルが「鉄のカーテン」演説で予測した東西「冷戦」が本格化した。
日本では、同じ敗戦国でも東西に分割されたドイツやオーストリア(ウィーン)、ソ連の単独占領となったルーマニア、ブルガリア、ハンガリー、チェコ、スロバキアなどとは異なった占領形態が採られた。1951年(昭和26年)、マッカーサーは朝鮮戦争で原爆を使用せよなどの強硬な主張を行なったことなどからトルーマンと対立して解任され、後任にマシュー・リッジウェイ中将が着任した。日本では、表面的には沖縄、小笠原諸島を除く日本の本土では、日本にも主権があったが、全ての法令、文書は連合軍の厳しい事前検査と許可が必要であった。1946年(昭和21年)に日本国憲法が公布され、1951年(昭和26年)の日本国との平和条約(サンフランシスコ講和条約)で連合国との講和が完了して後に日本は事実上の主権を回復した。しかし米軍はほぼそのまま残留し、全土基地方式と呼ばれる方法によって日本各地に米軍基地が残された。
日本国憲法第9条は、戦争を放棄し、国際紛争を武力や武力による威嚇によって解決しないという平和主義を定めている。そのため、日米安保条約や自衛隊の設置が、同条に違反しないかについては、戦後古くから議論があり、また国の自衛権についても議論がある。
大戦によって国内経済は壊滅し、国民生活は混迷の極みにあったが、中国革命の進展と朝鮮戦争の勃発により事態は一変した。アメリカは当初、日本の完全武装解除により、非軍事化を遂行し、極東のスイスを建設すると言明していた。しかし政治反動の傾向は1947年(昭和22年)には早くも現れ始めていた。その上、1949年(昭和24年)に中国大陸で蒋介石に代わって毛沢東政権が成立すると、対日戦略を完全に転換し、日本の再武装を進め、東アジアの最重要軍事戦略拠点として位置づけ、「逆コース」とも呼ばれる政策の転換が次々と生じた。戦後の変化の特徴を示すのは労働運動の盛り上がりで、国鉄や読売新聞等では労働組合による自主管理も行なわれた。東宝争議では、社長が2つの赤(赤字と赤旗)の追放を目標とした人員整理を実施したところ、三船敏郎、池部良、久我美子らの映画スターを含む社員が街頭に出て、反対運動を行なった。しかしこの頃、国鉄の下山事件、三鷹事件、松川事件などの怪事件が次々と起こり、それらが労働運動によって起こされたと宣伝された。同時にレッドパージが行なわれ、小中高および大学の共産主義教員が追放されるに至った。それは、アメリカで吹き荒んだマッカーシー旋風(赤狩り)に似ていた。
文化面においては、映画が全盛時代を迎え、東映・大映・松竹・東宝・日活のメジャー5社が毎週競って新作を2本平均で上映する映画館は最大の娯楽施設となった。またラジオ放送も広範に普及し、歌謡曲やバラエティ、相撲や野球の実況放送が好んで聞かれた。同時にアメリカをはじめとする外国映画やジャズ・ポピュラーも急速に流入した。一方、国語のローマ字化は断念され、1946年(昭和21年)には現代かなづかい・当用漢字の制定が行われた。同年に公布された日本国憲法をはじめとして、法令や公文書も現代かなづかいによって表記されることとされた。
講和後~昭和後期
自由主義陣営諸国の旗頭である米国にとって最前線の重要拠点となった日本は、農地改革や労働改革によって戦前に比べて国内市場が広がったこと、有刺鉄線やドラム缶などの補給物資の生産や輸送による特需、そして膨大な駐留米軍の生活消費など需要も少なからず影響したが、奇跡的な速度で経済が復興し、さらに昭和30年代から40年代まで続く驚異的な高度経済成長を遂げるに至る。「昭和元禄」と呼ばれ、週刊誌や月刊誌の創刊が目立った。子供向けの漫画や映画と並んでテレビ放送も普及した。東海道新幹線開業、名神高速道路開通、東京オリンピックの開催、日本万国博覧会(大阪万博)の成功によって最高潮を迎えたが、中東戦争がもたらしたオイルショックによって成長が終わる。
この奇跡の復興は、米国の戦略上の必要から国内治安と国土防衛のために微小な規模で警察予備隊(後に自衛隊)を保持したとはいえ、憲法では戦力の保持を禁じていたことにより、当時の自由主義諸国の国防費の対GDP比でいえば、完全に国防費負担から解放されているというに等しい財政上の僥倖が大きく寄与している。このことはドイツ、イタリアはもちろん、大戦後独立した多くのアジア諸国が、通常の国防費を支出しながらの日本と同じような速度での経済成長を望み得なかったことでも明らかである。その反面、日米安保条約と日米地位協定によって米軍基地が日本各地に残されており、駐留国負担(近年は思いやり予算と呼ばれることがある)の出費も大きく、米軍犯罪時の裁判や事故などをめぐってトラブルも絶えず生じた。特に沖縄県ではこうした問題がしばしば起こった。また、「核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず」という非核三原則が国是とされた一方で、日本政府とアメリカ政府との間で、有事における日本国内への核持ち込みを黙認する密約が結ばれたことも、明らかにされつつある。
急速な経済成長に合わせて人口はさらに増加した。戦後すぐの第1次ベビーブームを経て、人口はついに1億人を超えた。ベビーブームで生まれた世代は団塊の世代と呼ばれ、戦争を知らず、その膨大な世代人口のなかで勝ち残るための競争に身をささげることになり、自己主張はどの世代よりも激しくなった。地方出身者は口減らしのために都市部へ集団で送り込まれ(集団就職)、かれらは「金の卵」と呼ばれ、集団就職列車も運行された。都市部の中小企業に就職したかれらの豊富な労働力が日本経済を支えた。
一方、都市出身者や金銭的に余裕のある者は高校と大学へ進学し、その極めて激しい自己主張をぶつけ合った。人生を左右する思春期に60年安保闘争を目にしたかれらはそれを見習い、大学改革闘争やベトナム戦争反対運動などで勢いは高まった。東大紛争や日大紛争を経て、一部の過激な若者は、当時流行した新左翼思想とあいまって、「既成政党」の打倒や「革命」を叫び、暴力的なテロ活動へと走った。かれらの起こすテロ活動は社会不安を引き起こした。その影響もあって都市部の市民の多くは支持政党を持たない無党派層となった。これはその後続く自由民主党の単独長期政権の存在を許す結果となる。しかし、1960年代半ば(昭和40年代)には、公害の激化や社会問題の深刻となるなかで、社会党と共産党の革新統一の為の協定が結ばれ、東京の美濃部亮吉をはじめとして、京都、大阪、神奈川などの主要地方自治体で続々革新自治体が生まれた。中でも京都府では、蜷川虎三が7期28年にわたり知事を務めた。しかし、後には、社共共闘が消滅したことや保守の盛り返しによって、次々と保守体制に戻った。1972年(昭和47年)には、日本列島改造論を唱えた田中角栄内閣が成立し、ロッキード事件を経て、三角大福中の自民党派閥政治の時代となった。
戦後日本は、国際的には、終始米国を筆頭とする西側自由主義陣営に属し、日米安全保障条約に基づく同盟国として、ソビエト社会主義共和国連邦を筆頭とする社会主義陣営に対抗し冷戦期を乗り切ることができた。
一方、米国側に深刻で喫緊の事情があったとはいえ、日本国憲法の条文に抵触する恐れが高い自衛隊の設置を憲法改正なしに行なわれたことは、国民に憲法の権威を疑わせる結果となったという声もある。これは、明治憲法の不備を歪んだ解釈で乗り切ろうとして国策を誤った失敗を、再度繰り返す危険性をはらむのではないかと心配する声も一部にある。
大戦後の世界情勢の変化の影響で石油産油国と先進諸国との関係が複雑になった結果の2度の石油ショックを乗り切り、集中豪雨的な海外輸出の拡大によって爆発的な成長を続けた日本経済は、ついには1970年代半ば(昭和50年代)、戦後わずか30数年にしてGNPレベルではアメリカ合衆国に次ぐ経済力を持つようになるという奇跡の復興を完成し、人々の生活は有史以来初めてといえる豊かさになった。
しかしオイル・ショックを境に、円高問題の深刻化と言った新たな問題に直面する。もはや高度成長時代は終わり、低成長の時代へ移っていく。政府は円高による輸出不振の対策として内需拡大を促進するために金融緩和政策に踏み切ったために日本は空前のバブル景気に突入した。だが、その繁栄はやがて到来するデフレ(マイナス成長)へと続く道であることに気づく者はほとんどいなかった。そのような転換期のなかで平成を迎える。
以上のように、戦争そして敗戦と有史以来初めてとなる外国勢力による占領、そして特需を背景とした経済成長など、昭和の間には日本はこれまでにない大変化を遂げた。このことより、昭和終焉の時には新聞をはじめ、さまざまな方面から激動の昭和と評された。
略年表
昭和前期
- 1926年(昭和元年):12月25日、大正天皇崩御を受け裕仁親王が践祚。昭和と改元。
- 1927年(昭和2年):昭和金融恐慌
- 1928年(昭和3年):張作霖爆殺事件、男子普通選挙実施
- 1929年(昭和4年):世界恐慌
- 1930年(昭和5年):金輸出解禁、ロンドン海軍軍縮会議
- 1931年(昭和6年):満州事変、金輸出再禁止
- 1932年(昭和7年):満洲国建国、血盟団事件、五・一五事件
- 1933年(昭和8年):12月23日、継宮明仁親王(後の皇太子となり、後に今上天皇)誕生。滝川事件、国際連盟脱退
- 1934年(昭和9年):ベーブ・ルースら米大リーグ選抜チーム来日、陸軍士官学校事件
- 1935年(昭和10年):天皇機関説事件、相沢事件
- 1936年(昭和11年):二・二六事件、日独防共協定締結
- 1937年(昭和12年):支那事変(日中戦争)勃発 、日独伊防共協定締結、朝鮮で皇国臣民ノ誓詞を発布する。
- 1938年(昭和13年):国家総動員法制定
- 1939年(昭和14年):ノモンハン事件。ドイツのポーランド侵攻により第二次世界大戦始まる。
- 1940年(昭和15年):大政翼賛会結成、日独伊三国軍事同盟締結
- 1941年(昭和16年):日ソ中立条約。12月8日、太平洋戦争開戦(真珠湾攻撃)。
- 1942年(昭和17年):日本軍がシンガポール、フィリピン等のアジア各地を占領。ミッドウェー海戦
- 1943年(昭和18年):日本軍ガダルカナル島撤退、アッツ島の戦い、第一次~三次ソロモン海戦、出陣学徒壮行会
- 1944年(昭和19年):インパール作戦、マリアナ沖海戦、グアムの戦い、レイテ島の戦い、東南海地震。B-29による東京への空襲始まる。
- 1945年(昭和20年):3月9日-10日に東京大空襲。同月には名古屋大空襲、大阪大空襲、神戸大空襲、5月には横浜大空襲、6月には静岡大空襲、7月には北海道空襲、8月には富山大空襲など、終戦まで各地で大規模な空襲が行われる。
- 同年:4月1日、米軍が沖縄本島に上陸(沖縄戦)、地上戦となる。6月23日、沖縄で日本軍の組織的戦闘が終わる(慰霊の日)。
- 同年:8月6日、広島市への原子爆弾投下。8月9日、長崎市への原子爆弾投下、ソ連が日ソ中立条約を破棄して日本に宣戦布告。千島・樺太に侵攻。
- 1945年(昭和20年):8月14日、ポツダム宣言の受諾を通告。8月15日、玉音放送により国民に終戦が告げられる(終戦記念日)。9月2日、降伏文書に調印する。
昭和中期
- 1946年(昭和21年):1月1日、天皇の人間宣言。11月3日、日本国憲法公布。
- 1947年(昭和22年):5月3日、日本国憲法施行、地方自治法成立。
- 1948年(昭和23年):4月3日、朝鮮の済州島で大量虐殺(済州島四・三事件)が発生。島民が日本に多数流入。6月28日、福井地震発生。
- 1949年(昭和24年):ドッジ・ライン実施。下山事件、三鷹事件、松川事件が相次いで発生。
- 1950年(昭和25年):朝鮮戦争が発生。日本は朝鮮特需により経済復興が加速
- 1951年(昭和26年):サンフランシスコ講和条約、日米安全保障条約調印
- 1952年(昭和27年):日米行政協定
- 1953年(昭和28年):テレビの本放送開始
- 1954年(昭和29年):3月1日、ビキニ環礁で水爆実験が行われ、第五福竜丸の乗組員が被曝する。
- 1955年(昭和30年):自由党と民主党が合併し自由民主党、右派と左派が合併した日本社会党が設立(55年体制)。神武景気
- 1956年(昭和31年):日ソ共同宣言。12月18日、国際連合加盟。
- 1957年(昭和32年):なべ底不況
- 1958年(昭和33年):岩戸景気、東京タワー竣工、長嶋茂雄が巨人軍へ入団
- 1959年(昭和34年):4月10日、皇太子明仁親王(今上天皇)が正田美智子と結婚。
- 1960年(昭和35年):2月23日、徳仁親王(のちの皇太子)誕生。6月19日、日米安全保障条約改定。
- 1961年(昭和36年):農業基本法制定
- 1962年(昭和37年):オリンピック景気
- 1963年(昭和38年):国産初の30分テレビアニメである鉄腕アトム放映開始
- 1964年(昭和39年):10月1日、東海道新幹線開通。10月10日-同月24日 東京オリンピック開催
- 1965年(昭和40年):日韓基本条約が調印。
昭和後期
- 1966年(昭和41年):日本の総人口が1億人を突破。いざなぎ景気
- 1968年(昭和43年):12月10日、三億円事件。全共闘運動激化
- 1969年(昭和44年):サザエさん放映開始
- 1970年(昭和45年):3月14日-9月13日、日本万国博覧会開催。3月、よど号ハイジャック事件。11月25日、三島事件。
- 1971年(昭和46年):7月1日、環境庁設置。
- 1972年(昭和47年):札幌オリンピック開催。 2月19日、あさま山荘事件発生。3月15日、山陽新幹線・新大阪駅~岡山駅で開通。5月15日、沖縄返還。9月29日、日中共同声明。
- 1973年(昭和48年):第一次オイルショック
- 1974年(昭和49年):長嶋茂雄が現役引退
- 1975年(昭和50年):3月10日、山陽新幹線・岡山駅~博多駅で開通。
- 1976年(昭和51年):ロッキード事件、王貞治がベーブ・ルースの本塁打記録を抜く。
- 1977年(昭和52年):王貞治がハンク・アーロンの本塁打記録を抜き世界一となる。
- 1978年(昭和53年):日中平和友好条約が調印。
- 1979年(昭和54年):第二次オイルショック。ドラえもん(第2作)放映開始
- 1982年(昭和57年):6月東北新幹線(大宮駅~盛岡駅)、11月上越新幹線(大宮駅~新潟駅)が開通。
- 1983年(昭和58年):東京ディズニーランド開園・日本海中部地震発生
- 1985年(昭和60年):日本電信電話公社・日本専売公社が民営化、日本電信電話(NTT)・日本たばこ産業(JT)の発足。つくば科学博開催。8月日本航空123便墜落事故。9月G5でプラザ合意
- 1986年(昭和61年):5月東京サミット開催
- 1987年(昭和62年):この年からバブル景気(平成景気)が本格化する。国鉄が分割民営化で、JRグループの発足。
- 1988年(昭和63年):3月青函トンネル、4月瀬戸大橋開業、リクルート事件
- 1989年(昭和64年):1月7日、昭和天皇崩御。激動の昭和が幕を閉じる。1月8日、平成に改元。
西暦との対照表
昭和 | 元年 | 2年 | 3年 | 4年 | 5年 | 6年 | 7年 | 8年 | 9年 | 10年 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
西暦 | 1926年 | 1927年 | 1928年 | 1929年 | 1930年 | 1931年 | 1932年 | 1933年 | 1934年 | 1935年 |
干支 | 丙寅 | 丁卯 | 戊辰 | 己巳 | 庚午 | 辛未 | 壬申 | 癸酉 | 甲戌 | 乙亥 |
昭和 | 11年 | 12年 | 13年 | 14年 | 15年 | 16年 | 17年 | 18年 | 19年 | 20年 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
西暦 | 1936年 | 1937年 | 1938年 | 1939年 | 1940年 | 1941年 | 1942年 | 1943年 | 1944年 | 1945年 |
干支 | 丙子 | 丁丑 | 戊寅 | 己卯 | 庚辰 | 辛巳 | 壬午 | 癸未 | 甲申 | 乙酉 |
昭和 | 21年 | 22年 | 23年 | 24年 | 25年 | 26年 | 27年 | 28年 | 29年 | 30年 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
西暦 | 1946年 | 1947年 | 1948年 | 1949年 | 1950年 | 1951年 | 1952年 | 1953年 | 1954年 | 1955年 |
干支 | 丙戌 | 丁亥 | 戊子 | 己丑 | 庚寅 | 辛卯 | 壬辰 | 癸巳 | 甲午 | 乙未 |
昭和 | 31年 | 32年 | 33年 | 34年 | 35年 | 36年 | 37年 | 38年 | 39年 | 40年 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
西暦 | 1956年 | 1957年 | 1958年 | 1959年 | 1960年 | 1961年 | 1962年 | 1963年 | 1964年 | 1965年 |
干支 | 丙申 | 丁酉 | 戊戌 | 己亥 | 庚子 | 辛丑 | 壬寅 | 癸卯 | 甲辰 | 乙巳 |
昭和 | 41年 | 42年 | 43年 | 44年 | 45年 | 46年 | 47年 | 48年 | 49年 | 50年 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
西暦 | 1966年 | 1967年 | 1968年 | 1969年 | 1970年 | 1971年 | 1972年 | 1973年 | 1974年 | 1975年 |
干支 | 丙午 | 丁未 | 戊申 | 己酉 | 庚戌 | 辛亥 | 壬子 | 癸丑 | 甲寅 | 乙卯 |
昭和 | 51年 | 52年 | 53年 | 54年 | 55年 | 56年 | 57年 | 58年 | 59年 | 60年 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
西暦 | 1976年 | 1977年 | 1978年 | 1979年 | 1980年 | 1981年 | 1982年 | 1983年 | 1984年 | 1985年 |
干支 | 丙辰 | 丁巳 | 戊午 | 己未 | 庚申 | 辛酉 | 壬戌 | 癸亥 | 甲子 | 乙丑 |
昭和 | 61年 | 62年 | 63年 | 64年 | 65年 | 66年 | 67年 | 68年 | 69年 | 70年 |
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西暦 | 1986年 | 1987年 | 1988年 | 1989年 | 1990年 | 1991年 | 1992年 | 1993年 | 1994年 | 1995年 |
干支 | 丙寅 | 丁卯 | 戊辰 | 己巳 | 庚午 | 辛未 | 壬申 | 癸酉 | 甲戌 | 乙亥 |
その他
- 大正天皇が崩御して、東京日日新聞(現:毎日新聞)が『新元号は光文』をスクープしたが、新元号は『昭和』と発表され、大誤報となってしまった。一説には「光文」がスクープされたために急遽「昭和」に差し替えられたとも言われている(光文事件)。しかし「光文」は内閣の新元号案に提示されているのみであり、実際に新元号作成中心になっていた宮内省の最終第3案まで残っていたのは「昭和」「神化」「元化」の3案とされる。枢密院議長、倉富勇三郎の日記によれば、その後の調整で1926年(大正15年)12月8日時点で「昭和」を最終候補とし「元化」「同和」を参考とする最終案が決定していた事が明らかになっている。「光文」は内閣案の一つが選定作業中に漏れたに過ぎず、記者が検証できないまま飛びついたというのが実情とされる(『昭和大礼記録』、石渡隆之『北の丸』第7号(1976年(昭和51年)9月)「公的記録上の「昭和」」、『倉富勇三郎日記』「倉富勇三郎関係文書」[3] )。
- 昭和の「昭」は今でこそポピュラーな漢字だが、当時はまれに人名で使われたりする以外は、学者や一部の貴族以外は馴染みのない漢字であったという。そのため、「昭和」が最終案に選考された際には当時の一木喜徳郎宮内大臣から「章和」とする変更意見が出された程である。しかし「章和」は過去漢と高昌で使用されていた元号であり、結局原案のまま「昭和」に確定した経緯がある。
- 干支を見て分かるように、史上還暦を迎えた元号は日本の昭和と中国の康熙だけである(昭和は丙寅で「還暦」している)。
- 1926年(大正15年)12月25日に出生した新生児は、その当日が大正天皇崩御のため役所が休みとなったこともあって、出生届の提出が遅れ、戸籍上の誕生日が異なる(大部分が翌年の1927年(昭和2年)生)ケースが多発した。植木等、関根潤三らがこうしたケースに当たる。
現代における「昭和」
国民の祝日に関する法律が一部改正され、2007年(平成19年)から毎年4月29日は、昭和の日に変更された[4]。祝日法には「昭和の日-激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧み、国の将来に思いをいたす」と定められている。
「昭和ノスタルジー」という代表される言葉や、戦前もしくは高度経済成長期までの古い町並みを活かし、観光地化を進めている町もある。だがその一方で、ただの懐古主義に浸っているだけという批判もある。
昭和を冠するもの
企業・団体
- 昭和産業
- 昭和電工
- 昭和電線ホールディングス
- 昭和飛行機工業
- ショーワ
- 昭和シェル石油
- 昭和プロダクション - 大阪市を本拠とする芸能事務所
- 昭和自動車 - 佐賀県唐津市に本社を置く路線バス事業者
- 昭和リース
- 大昭和製紙 - 現在の日本製紙の前身の一つ
- ショウワノート
- 昭和信用金庫
- 昭和被服総業 - 岡山市東区西大寺にある老舗アパレルメーカー
- 新昭和 - 日本の中堅住宅建築会社。FC方式の住宅ブランド『クレバリーホーム』のFC本部。埼玉県に本社を置く
- 昭和丸筒 - 日本における有力紙器メーカーの一つ
- 昭和精機工業 - 大阪に本社を置く中堅機械メーカー。現在はARRKの傘下
- 昭和アルミニウム
教育・学校
地名
- 昭和基地
- 昭和駅(JR東日本鶴見線)
- 昭和町駅(大阪市営地下鉄御堂筋線)
- 昭和町駅(JR四国高徳線)
- 土佐昭和駅(JR四国予土線)
- 愛知県名古屋市昭和区
- 広島県呉市昭和町
- 山梨県中巨摩郡昭和町
- 秋田県南秋田郡昭和町 - 現在の潟上市
- 山形県新庄市昭和地区
- 徳島県徳島市昭和地区
- 福島県大沼郡昭和村
- 群馬県利根郡昭和村
- 栃木県宇都宮市昭和
- 東京都昭島市 - 昭和町と拝島村が合併して成立
- 昭和通り(東京都ほか)
- 昭和島(東京都ほか)
- 昭和橋 (利根川)
- 昭和大橋 (桑折町)
- 昭和大橋 (新潟市)
- 昭和新山
他にも昭和町という地名は日本全国の至るところに存在している。
公園
曲
- 昭和おんなブルース(青江三奈のシングル、1970年)
- 昭和枯れすゝき(さくらと一郎のシングル、1974年)
- 昭和ブルース(天知茂のシングル、1974年)
- 昭和舟歌(小林旭のシングル、1988年)
- 昭和(長渕剛のアルバム『昭和』収録、1989年)
- 昭和夢つばめ(石川さゆりのシングル、1996年)
- 昭和残照(杉良太郎のシングル、1999年)
- 昭和最後の秋のこと(森進一・桂銀淑の競作シングル、ともに1999年)
- 昭和レジデンス(クレイジーケンバンドのアルバム『グランツーリズモ』収録、2002年)
- 昭和の階段 Vol.1(工藤静香のアルバム名、2002年)
- 昭和(レミオロメンのシングル「雨上がり」、アルバム『朝顔』収録、2003年)
- 昭和モダン(山崎まさよし、『服部良一 〜生誕100周年記念トリビュート・アルバム〜』収録、2007年)
- 昭和の歌など聴きながら(八代亜紀のシングル、2008年)
脚注
関連項目
外部リンク
- 昭和の日 オフィシャルサイト(民間団体によるウェブサイト)
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