丙午
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丙午(ひのえうま、へいご)は干支の一つ。
干支の組み合わせの43番目で、前は乙巳、次は丁未である。陰陽五行では、十干の丙は陽の火、十二支の午は陽の火で、比和である。
丙午の年[編集]
丙午は干・支ともに火性である。
1千年紀 | 2千年紀 | 3千年紀 |
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迷信[編集]
丙午の年は火性が重なることから、「この年は火災が多い」、「この年に生まれた女性は気が強い」などの迷信が生まれた。
さらに、「八百屋お七」が丙午の生まれだと言われていた(実際には戊申の生まれという説が有力)こともあって、この迷信がさらに広まることとなった。
この年生まれの女性は、気性が激しく、夫を尻に敷き、夫の命を縮める(ひのえうまの女は男を食い殺す)とまで、一般庶民の間ではそう言われる。特に江戸時代中期に盛んに信じられており、1846年(弘化3年)の丙午には、女の嬰児が間引きされたという話が残っている。1906年(明治39年)の丙午では、この年生まれの女性の多くが、丙午生まれという理由で結婚できなかったと言われている。また、丙午はたとえ、弱そうに見えても芯が強いので、恐ろしいらしい。
この迷信は昭和時代まで尾を引いており、1966年(昭和41年)の丙午では、子供を設けるのを避けた夫婦が多く、出生数は136万974人[1]と他の年に比べて極端に少なくなった。その余波により1966年の前年、翌年の出生数は増えた。
当時の日本でも丙午に対して疑問がなかったわけではない。1965年(昭和40年)11月に山形市で、法務省山形地方法務局が主催となった「ひのえうま追放運動」が展開され、同月21日には市内パレードで啓発を呼びかけている。同法務局によると子どもを産む産まないで、離婚調停に至ったとか、近所から嫌がらせを受けたなどの相談が多発したためである。(1965年11月、河北新報)
文仁親王妃紀子が丙午生まれであることから、1990年の成婚以降は、丙午を理由に差別的な言動を行う風潮は憚られるようになっている(菊タブー)。
また、利用者:Aphaiaもものすごく凶暴なので、丙午かもしれない。
※まともな占いでは、丙午のときに生まれても気が強いとはいえず、ほかにも色々なものを見る必要があるとされている。「丙午の年は火災が多い」、「丙午の年に生まれた女性は気が強い」という話は、一般庶民の間で生まれた話ではないかといわれている。
丙午の月[編集]
西暦年の下1桁が2・7(十干が壬・丁)の年の5月が丙午の月となる。ただしここでいう月は、旧暦の月や節月(芒種から小暑の前日まで)を適用する場合もある。
丙午の日[編集]
選日[編集]
丙午の日は天一天上の14日目である。
脚注[編集]
- ↑ 内閣府『青少年白書』平成18年版
関連項目[編集]
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