中華民国

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中華民国(ちゅうかみんこく)は、東アジアに位置する民主共和制国家国際連合安全保障理事会常任理事国

アジア二番目の共和国で、1912年中国大陸に成立し、1949年以降、台湾島と周辺の島嶼群などを実効支配している。日本フィリピン中華人民共和国などと領海を接する。

中華民国を正式に国家として承認している国は少ないが、歴史的な背景により、それ以外の多くの国とも事実上独立した地域として国交に準じた関係を結んでいる。

概要[編集]

1912年1月1日に、革命家孫文臨時大総統(臨時大統領)として、中国大陸を中心とする中国を代表する国家として成立した。

同年2月12日には、清朝皇帝である宣統帝が退位することによって、その後袁世凱が大総統(大統領)に就任した。その後、袁世凱と対立した孫文は1919年中国国民党を創建し、1921年には後の国民政府の基となる革命政府を広州に樹立したものの、1925年に死去した。

1924年には中国共産党との間で第一次国共合作を行ったが、1927年南京事件が起こったことで同年4月に国共合作を解消すると、孫文の後継者となった蒋介石の指揮下で上海武漢などの各地方で中国共産党員を掃討する運動、いわゆる上海クーデターを起こした。その後国民政府は蒋介石の南京国民政府と、これに反対する汪兆銘らの「武漢国民政府」に分裂するが、間もなく両者は合流、北方軍閥の張作霖日本軍によって爆殺された後、張作霖の息子の張学良が蒋介石の傘下に入る。

その後、満洲事変を契機に日本の後援により、愛新覚羅溥儀を執政として東北部満洲国が設立され、さらに1937年に起きた盧溝橋事件を契機として、中華民国は日本との全面戦争状態に入った。これに対抗して日本軍は、国民党の反蒋介石派であった汪兆銘を首班とした新たな国民政府(汪兆銘政権)を樹立する。その後、1941年12月に日本とイギリスアメリカ合衆国などとの間で戦争が始まり、英米と友好関係にある中華民国は連合国の主要国として枢軸国と対峙した。

1945年9月2日ポツダム宣言調印により、中華民国は第二次世界大戦での勝利が決定した。そして、主要勝戦国の1国として国際連合の設立メンバーとなり、GHQからの委託に基づき、1945年10月15日台湾に進駐した。1945年10月25日に台北で日本側の安藤利吉台湾総督・第十方面軍司令官が降伏文書に署名し、中華民国は光復式典を行って台湾の実効支配を開始した。日本が台湾などを中華民国へ返還することは1943年12月1日カイロ宣言に謳われているが(ただし、この宣言に有効性はないとする説もある)、この時点では行政権を中華民国に移譲しただけであり、国際法上、台湾島地域は依然として日本の領土であった。台湾光復後の1947年2月28日二・二八事件が発生した。

しかしアメリカ合衆国政府が支援する中国国民党と、ソビエト連邦政府が支援する中国共産党との間の内戦において、ヨーロッパにおけるソビエト連邦との間の冷戦朝鮮半島での緊張に気を取られたアメリカ政府による支援が減ったことなどにより、1949年初めには中華民国の実効支配地域が縮小し、1949年10月1日には中国共産党が中華人民共和国を樹立した。

この1949年の12月7日蒋介石総統率いる中国国民党政府が、首都を中国共産党に実効支配された南京から、臨時首都として台湾島の台北に移転したことにより、台湾島地域および金馬地区などのみを実効支配する国家として、1950年までに再編成された。同時に戒厳体制が発布された(党国体制)。

日本は、1951年サンフランシスコ講和条約および1952年日華平和条約において台湾島地域に対する権原を含める一切の権利を放棄したが、それらの帰属先が明言されていないため、台湾島地域の国際法上の領有権は未確定であるという見方(台湾地位未定論)がある。

冷戦下の1971年に、中ソ対立の文脈の中でアメリカ合衆国をはじめとする西側諸国と、ソビエト連邦をはじめとする東側諸国との間で政治的駆け引きが行われた結果、国際連合における「中国代表権」が、国際連合総会決議2758によって中華人民共和国に移され、中華民国は国連とその関連機関から脱退した。さらに、1972年にアメリカのリチャード・ニクソン大統領北京を訪問し、中華人民共和国を承認する意向を見せると、アメリカの影響下にある多数の西側国家がこれに同調し、日本は中華人民共和国を承認し中華民国と断交。その後1979年にアメリカが最終的に中華人民共和国を「中国の代表権を有する正統政府」として承認した。

1987年に蒋介石の息子で総統職を世襲した蒋経国が戒厳を解除。続いて李登輝政権下の1996年に、国民党一党独裁党国体制)による寡頭共和制は終わり、複数政党制大統領制を主体とした民主共和制に変わった(総統民選期の中華民国)。その経済貿易規模も大きいことなどから、日本やアメリカ、イギリスフランスなどをはじめとする主要国とは国交こそないものの、形式上非政府組織の窓口機関を通じて外交業務を行っているため、事実上の国交があると言える状態にある。世界貿易機関 (WTO) のように、主権国家ではなく、領域を代表するものとして中華民国政府の加盟を認めた国連機関もある。

21世紀初頭では、大統領制の議会制民主主義を主体とした民主共和制国家として、台湾海峡を挟んで中国大陸と接している台湾島・澎湖諸島(台湾省・台湾地区)および福建省沿岸の金門島馬祖島(金馬地区)、南シナ海東沙諸島および南沙諸島太平島を実効支配している。

アメリカは、第二次世界大戦勃発以来、中華民国と事実上の同盟関係にあり、中華民国が軍事的脅威にさらされた場合は台湾関係法に基づき、適切な行動を取ることとなっている。実際に、1996年に行われた総統選挙に伴い、中華人民共和国の人民解放軍(共産党軍)が選挙への恫喝として軍事演習を強行し、基隆沖海域にミサイルを撃ち込むなどの威嚇行為を行った際には、アメリカ軍はこれに対して台湾海峡に空母打撃群を派遣し、同国のウォーレン・クリストファー国務長官は「アメリカは必要な場合には、台湾を助けるために台湾に近づく」と中華人民共和国に対して警告した。2008年3月に行われた総統選挙の際も近海に空母2隻を派遣した。その総統選挙で当選した馬英九2010年に大陸との間で両岸経済協力枠組協議という自由貿易協定を締結、事実上の経済同盟を発足させるなど、2010年代からは中台関係は回復する方向に進んでいる。

国名[編集]

中国語北京語正体字表記)での正式名称は、中華民國(チュンホアミンクオ、漢語拼音:Zhōnghuá Mínguó、ウェード式:Chung-hua Min-kuo、注音符号:ㄓㄨㄥ ㄏㄨㄚˊ ㄇㄧㄣˊㄍㄨㄛˊ)であり、国内では中華民國のことを中華と表記することもある。公式の英語表記は、Republic of China (リパブリク・オヴ・チャイナ)で、略称は R.O.C. である。

中華」は、世界の中心にある、もっとも華やかな文明という意味であり、元々は黄河文明発祥の地とされる河南省のあたりを指した言葉であった。ちなみに中華の華はもともと世界の中心の(古代の王朝)という意味の中夏だった[1]

国名表記をめぐる諸問題[編集]

中華民国という国名は、中華民国政府が「全中国 (China) を代表する主権国家」であるという認識に基づいている。そのために、1971年に国際連合で中華人民共和国が「全中国を代表する主権国家」として承認されてからは、国連機関では「中華民国」 (Republic of China) と称するケースがなくなり、オリンピック1984年冬季大会以後)などのスポーツ大会や国際機関においては、Chinese Taipeiチャイニーズタイペイ、中華台北)という名称が使用されている。これは、国際連合ならびに同加盟国の多くが、中華民国政府を「全中国を代表する主権国家」として承認しない一方で、台湾地域を実効支配する中華民国政府との非公式関係を維持していることによる。なお世界貿易機関 (WTO) に関しては、Separate Customs Territory of Taiwan, Penghu, Kinmen and Matsu台湾・澎湖・金門・馬祖個別関税領域、略称TPKM)という名称で加盟しており、Chinese Taipei とともに中華民国を指す名称として使用されている。

一方、中華民國という国名や Chinese Taipei という名称について、20世紀末以降は台湾地域を中心として反発が生じるようになり、李登輝元総統(任期:1988年 - 2000年)をはじめとする泛緑派の人たちが、中華民國という国号を「台灣{{#if:| {{{3}}}}}」(臺灣{{#if:| {{{3}}}}})という名称に変更しようという台湾正名運動を興している。これに対し「中国の政党」を自任する中国国民党をはじめとした泛藍派の人たちは国号変更に反対しており、この件に関する国論は二分されている。それと同時に、中華民国の民衆の国に対する意識も1990年代から変化し始めていると喧伝される。

このような背景もあり、中華民国政府は2003年9月以後、中華民国旅券に、中華民国の正式名称とともに TAIWAN を付記して発行するようになった。2004年9月7日外交部 (中華民国)スポークスマンは「国交のない国に対しては「台湾」を強調することを最優先課題にし、将来的には国交を持つ国との間でも条約文書などで Taiwan を使用し、中華人民共和国との混同を避けるようにしたい」と話し、「9月7日の時点で行政院は、自国の略称として第一に R.O.C. 、第二に Taiwan 、第三に Taiwan, R.O.C. 、第四に R.O.C. (Taiwan) 、第五に TPKM(台湾 Taiwan, 澎湖 Penghu, 金門Kinmen, 馬祖 Matsu)を使用しているが、陳水扁総統の指示があれば使用順位を入れ替えて Taiwan を第一とする」とも話した。

日本における国名表記[編集]

日本語表記は中華民国マスコミでは「中華民国」ではなく「台湾」という表記・呼称を使用し、他の国とあわせて数える際は「地域」として中華民国(台湾)を国に数えないこととしている。

中華民国を「」、「台湾」を「」と略称する例もある。スポーツ関連では上記の通り「チャイニーズタイペイ」を使用することもある。

日本政府は、1972年以降中華民国を国家として承認していないが、サンフランシスコ講和条約において台湾島一帯の領有権放棄後の帰属については言明していない。日中共同声明でも、日本政府は中国の立場を「十分に理解し尊重する」と表明したが、中華民国および台湾島一帯の地位については明確にしていない。

国旗[編集]

詳細は中華民国の国旗を参照

国旗は青天白日満地紅旗と呼ばれ、平等を表す白、自由を表す青、そして革命に献身した人々の血と友愛を象徴する深紅があしらわれている。

ただし台湾独立派(中国人国家の中華民国体制を解体し台湾人国家の建国を目指す人々)には青天白日満地紅旗を外来政権の旗と捉えて国旗と認めていない人もいる。

歴史[編集]

詳細は中国の歴史を参照
中国大陸統治時代

テンプレート:台湾の歴史

中台両地域統治時代(国共内戦
台湾国民政府時代
  • 1987年:台湾島で戒厳を解除、その後に他地域でも順次解除。
  • 1988年1月:蒋経国総統死去。
台湾総統民選時代

政治[編集]

詳細は中華民国の政治を参照

中華人民共和国やベトナムシンガポール、かつてはインドネシアマレーシアなど、周辺には実質的な一党独裁制を敷いている・敷いていた国家が多いが、中華民国も例外ではなかった。中華民国では1928年より党国体制が敷かれ、蒋介石とその息子蒋経国による世襲の独裁の下で戒厳が施行され、共産主義政党は「国家安全法」と「人民団体法」により存在を許されなかった。このような状況が改められたのは戒厳が解かれた1987年からである。

「二つの中国」[編集]

詳細は二つの中国を参照

中華民国の政治において特筆すべきことは、中華民国政府も中華人民共和国中国共産党政府と同様、自らを「『中国』の正統政府」であるとしている点である。これは、歴代の中華民国政府が、蒋介石率いる中国国民党が中国大陸を統治していた1947年に施行した『中華民国憲法』に基づいて政府を樹立していることに由来しており、1949年毛沢東率いる中国共産党による北京首都とする中華人民共和国樹立は「反乱団体による非合法行為」としてきた。

このような中華民国政府の主張は国際的に受け入れられており、中華人民共和国成立後も国連をはじめとする国際社会における「中国」の代表権も中華民国政府にあった。香港問題を抱え中華人民共和国に対して政治的配慮を必要としていたイギリスを除くほとんどの西側諸国が中華民国政府を「『中国』の正統政府」として認めていた。

冷戦下におけるアメリカ合衆国とソビエト連邦を中心とした東西両陣営の政治的駆け引きの中、中華民国政府が国際連合の中国代表権を失い脱退してからは、西側諸国においても中華民国政府を「『中国』の正統政府」として承認する国が減少した。バチカンパラグアイブルキナファソなど、22カ国のみが承認しているという状況である。日本やアメリカ、フランスなどをはじめとする多くの非承認国にも「台北経済文化代表処」などと称される利益代表部を置き(中華民国在外機構参照)、台湾にもそのカウンターパートがある。

なお中華民国とバチカンの外交関係の歴史は古く、第二次世界大戦中の1942年に確立されている。中華人民共和国は、表向きは中華民国と密接な関係を維持するバチカンに対して批判的な態度をとりながら、裏ではカトリック教会の総本山として世界各国に大きな影響力を持つバチカンとの外交関係の正式な確立を模索してきた。このような状況は当分変化しないと考えられている。

歴代総統[編集]

詳細は中華民国総統を参照

警察[編集]

詳細は中華民国の警察を参照

情報機関[編集]

軍事[編集]

詳細は中華民国国軍を参照

中華民国軍[編集]

国民革命軍を前身とする中華民国軍中華民国憲法第36条に規定されており、中華民国総統が陸海空軍の統帥権を持つ。国防部組織法・国防部参謀本部組織法・国防部政治作戦局組織法・国防部軍備局組織法・国防部軍医局組織法・国防部主計局組織法の所謂、国防六法で定義されている。

中華民国憲法第20条により徴兵制度が敷かれていたが、2012年1月1日に徴兵制を「停止」した。過去の徴兵制度は常備兵役の、満19歳以上の男子国民は、12カ月間の兵役義務(2003年までは22カ月)を有していた。良心的兵役拒否権が認められていた。以降期間中は、1994年1月1日以降に出生した男性は、2013年1月1日より4箇月の常備兵役の軍事訓練を受けることにし、1993年12月31日以前に出生した男性は、徴兵を受けていない者あるいはまだ徴兵に就いていない者は、兵役法第25条3項の規定に基づき、1年間の期限で代替役(兵役の代わりに公的機関で勤務)につく。基礎訓練と専門訓練をそれぞれ8週間ずつ行う。基礎訓練は1日8時間の計320時間、専門訓練は1日7時間の計280時間。訓練終了後は予備役に編入される。訓練終了時の合格基準は、基礎は腹筋運動と腕立てを2分間25回ずつと19分以内の3000メートル完走、専門段階では腹筋と腕立てを2分間32回ずつと17分以内の3000メートル完走となっている。

国軍である中華民國国民革命軍は、正規軍で約30万人、予備役で約180万人の兵力を擁しており、正規軍の内訳は陸軍20万人、海軍4万人(陸戦隊1万5000人)合計5万5000人、空軍5万5000人、憲兵1万2000人である。主力戦車926両以上、駆逐艦・フリゲート艦26隻、潜水艦4隻、作戦機約477機となっている。なお、中華民国軍の最も重要な軍事基地は中国大陸沿岸の金門島である。アメリカ政府との協定「台湾関係法」や台湾海峡防衛を盾に政府に強くイージス艦導入を求めている。事実中華民国政府は前向きに検討してはいるが実現には至っていない。

1949年以降の中華人民共和国との軍事的対立を背景として、中華民国の軍事施設には自国製のみならずフランス製やアメリカ製の最新鋭の兵器、軍用機、軍用船が装備されており、2005年度の国防関係予算は国家予算全体の約15%に相当する2453億(約7400億円)となっているが、国防関係予算の削減が行われており、政府は特別予算を組むなどして対応している。将来的には総兵力を27万5000人から21万5000人まで削減予定。女性兵士の割合は7.7%で、女性軍人は約1万5000人となっている。上限は8%だが、将来的には女性定員枠を拡大する方針を明らかにしている。

2010年度の国防予算は、3150億(約9450億円)となり、馬英九総統はGDPの約3%を下回らないよう努力している。

台湾関係法[編集]

詳細は台湾関係法を参照

またアメリカは正式な国交が無いが、中華民国が軍事的脅威にさらされた場合は台湾関係法に基づき中華民国を助けることとなっており、事実上の同盟関係にある。実際に、1996年3月23日に行われた総統選挙の前後に、「独立派」と目される李登輝総統の再選を阻止しようとした中華人民共和国の人民解放軍が、台湾島近海に「実験」と称して弾道ミサイルを放ち軍事的恫喝を行ったことに対し、アメリカ軍正規空母インディペンデンスニミッツなどを中心とした艦隊を派遣しこれに対抗した。

地理[編集]

詳細は[[
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中華民国の主張する国土の総面積は 11,418,174km² である。この中には中華人民共和国政府が実効支配している区域(中国大陸のほか香港マカオを含む)に加え、以下の地域も含まれている。

これは、中華民国が清朝の全てを継承した国家という認識によるものであり、中華民国は国交のないモンゴル人民共和国(現在のモンゴル国の前身)の独立を一旦承認したものの、1953年に取り消したものとされてきた(詳細は対モンゴル国関係を参照)。当然2004年に中華人民共和国がロシアと確定させたアムール川の現国境線も認めていない。さらに日本の主権下にある尖閣諸島1969年、「青天白日旗」を掲揚し、付近海域の石油採掘権をアメリカ企業に与えた上に、1971年6月以降は中華人民共和国による同様の主張に対抗するべく、領有権を主張している。東沙諸島および南沙諸島の全域の領有権も主張している。

建国当初の中華民国は中国大陸を領有する国家であり、1895年に日清間で締結された下関条約により、清朝から日本に割譲された台湾島一帯はその版図に含まれていなかった。しかし前述の通り、第二次世界大戦中の1943年に出されたカイロ宣言において同地域は中華民国に返還すべきであるとされている。

中華民国は、1945年日本の敗戦により、台湾島一帯を「中国の一部」として実効支配下においた。その後、国共内戦の結果、中華民国は1955年までに台湾省1947年成立)、福建省の一部以外の領地を全て喪失し、1912年の建国から一貫して統治している地は福建省の金馬地区のみとなっている。しかし「『中国』における唯一の正統政府」を自任する中華民国は大陸部の統治権の主張を放棄せず、中華民国政府が発行する官製地図『中華民国全図』には前記地域を中華民国国土として掲載してきた。しかし2004年1月、内政部は、実効支配地域外を含めた『中華民国全図』の新規発行を停止する決定を発表し、今後公式な国土範囲にも変化がある可能性が示唆されている。

中華民国が実効支配する範囲は台湾島(台湾)一帯と金馬地区(金門県連江県)、東沙諸島南沙諸島の一部から成り立っており、日本や中華人民共和国、フィリピンなどと領海を接している。

詳細は台湾の地理を参照

領土問題[編集]

上記のように、中華民国は中国大陸(中華人民共和国の実効支配地域)、モンゴルパミールなどを自国の領土であると主張している。中華人民共和国も、台湾および福建省金門県連江県の領有を主張している。日本の尖閣諸島についても、双方が自国の領土であると主張している(詳細は尖閣諸島問題を参照のこと)。

東沙諸島南沙諸島については、中華人民共和国と実効支配を、フィリピンベトナムマレーシアブルネイとは領有権を争っている。

中華民国の実効支配地域[編集]

沖縄県への認識[編集]

中華民国では、沖縄県地域を「琉球」と称することがある。琉球王国がかつて朝や朝の冊封国であり、沖縄返還が中華民国政府との協議を経ずに進められたことを中華民国側は不満としていたともいわれるが、中華民国側は、沖縄県地域に対する日本の主権を否定していない。しかし、例えば桃園国際空港の那覇行き便の行き先表示は「琉球」である。ちなみに香港から那覇行き便の行き先表示は「沖縄島」となっている。

行政区分[編集]

中華民国の行政区分は中華民国憲法の規定(第11章)より規定されているが、この行政区分は政府の台湾移転以前に規定された大陸地区を含むものであり、台湾地区での実際の行政との整合性に欠如した内容となっている。そのため1997年の憲法改正により、台湾省および福建省の虚省化(名目化)あるいは凍省(凍結)と呼ばれる実質的な廃止を実施しているが、公式には大陸地区の行政区分も存在していることとなっている。

中華民国の公式な行政区分については南京国民政府の行政区分を、台湾地区での実際の統治範囲における行政区分としては台湾の行政区分を参照。

中華民国海軍の艦艇のなかには大陸を統治していた当時の地名で、ウルムチの旧名である「迪化」を採用した艦艇が存在している。

主要都市[編集]

政府の台湾移転以前の中華民国の首都は南京市とされていたが、台湾移転以降の実効支配範囲である台湾地域における中央政府所在地は北部盆地に位置する台北市であり、1949年以降は中華民国の「臨時首都」として首都機能を果たしている。なお台湾省の省都も当初は台北市であったが、1957年に台北市から台湾島中部にある南投県南投市中興新村に移された。1998年に台湾省が凍結されて以降、省都としては機能していない。

主要都市については台湾の項目を参照

首都[編集]

1931年6月に国民政府が制定した中華民国訓政時期約法(zh:中华民国训政时期约法)では、第五条に「中華民國國都定於南京{{#if:| {{{3}}}}}」(中華民国の国都は南京に定める)と明記されていたが、同法は1947年の「中華民国憲法」施行後に廃止された。

1946年11月15日に南京の国民大会堂(現zh:南京人民大会堂)にて開幕された制憲国民大会(zh:制憲國民大會)では、国都(首都)を南京とするか北平(現北京)とするかで激烈な討論が巻き起こった。草案では南京とされていたが、会を経て一度は北平に改められた。しかし国民大会主席団の代表であった蒋介石が、国都は必ずしも憲法で定める必要はないと説明し、一度は国民大会を通過した「國都定於北平{{#if:| {{{3}}}}}」(国都は北平に定める)の一文を削除した。そのため、中華民国憲法は、首都に関する規定がないまま1946年12月25日に制憲国民大会を通過し制定された。

中華民国憲法は制定されたものの、その施行前に、1946年当時から激しさを増していた国共内戦において国民革命軍中国国民党)はソビエト連邦の全面的な支援を得た中国人民解放軍中国共産党)に相次いで敗北していった。中華民国憲法自体は1947年12月25日に施行された。しかし1949年4月には、中央政府の所在地であった南京を人民解放軍に奪取され、所在地の移転を余儀なくされた。南京を脱したのちも、人民解放軍に追われるままに広州重慶成都と中央政府の所在地を次々と移転し、ついには1949年12月7日に大陸を脱して台北へと移転することとなった。

当初、中華民国政府は「全中国を代表する国家」という立場から台北遷都を一時的なものとし、「大陸反攻」(武力による大陸部の奪還)後に再び中央政府所在地を南京に戻すつもりであった。この理由により「公式な」首都は南京のままとされ、台北は「臨時首都」という扱いとなった。しかし第二次世界大戦後の冷戦体制が確立されると、両岸関係の劇的な変化を回避することを望む国際環境下で「大陸反攻」が絶望的になり、1971年に中国代表権問題に関わる国際連合総会決議2758により国際連合における代表権を喪失した後は、中華人民共和国を「全中国を代表する国家」として政府承認する方針が国際的な主流となり、中華民国は外交上孤立してゆくこととなった。この状況下でも中華民国政府は「全中国を代表する国家」という立場を今日まで固持し続けており、そのために事実上の首都である台北の扱いも「臨時首都」および「中央政府所在地」のままとなっている。

上記の政府見解を反映し、中華民国の小中学生向けの国定教科書でも南京を首都とした記載が続けられてきたが、台湾独自路線を追求する民意の高まりとその結果の民主進歩党政権の誕生の結果の一つとして2003年版教科書からは台北を首都とする記述が登場し、教科書における状況変化が見られる。しかし「首都・台北」と表記した場合、台湾独立政策の体現とし中華人民共和国との軋轢が生じる可能性を考慮され、教科書では「中華民国の中央政府は台北にある」という間接的な表現をしている。

現行の中華民国憲法および法律などいずれの規定においても、首都はいまだ明文化されていない。

経済[編集]

詳細は台湾の経済を参照

2009年GDPは3785億ドル(約32兆円)であり、神奈川県とほぼ同じ経済規模である。しかし、2011年には5046億ドルになり、しばらくは増え続けると予想されている。

1912年の中華民国の成立当初、清朝の対外賠償金を継承し、鉄道や税関などの収入源を賠償金の担保として列強の支配下に置かれていたため危機的な経済状況にあった。

建国当初の政争に加え、中国共産党軍との対立、さらに日中戦争と国内での混乱が続いたことで経済状況が悪化し、物資が軍需用として優先使用され、その物資の輸送も限定された交通手段に頼っており国民経済は困窮を極めた。

1945年の第二次世界大戦終結により、特に満洲および台湾では大日本帝国が遺した資産を活用した工業化などによる経済建設を計画したが、まもなく開始された国共内戦により経済政策の実施は頓挫、国民党が行った紙幣の濫発による急激なインフレなどで台湾地域の国民経済は崩壊の淵に立たされることとなった。

1949年に国共内戦に敗れ、領土を台湾のみに縮小された国民党政府は「大陸反攻」を実現すべく国力の充実を図り、経済方面でも濫発した貨幣(国民党軍が発行した旧台湾ドル)を廃してニュー台湾ドルを発行しインフレを抑制、傾斜生産方式を採用した工業化を図るとともに、冷戦下のアメリカからの経済援助を活用しての経済政策を実施、それまで農業と農業関連の加工業が主であった台湾の経済を軽工業、やがては重工業へと転換させることに成功し、現在ではアジア有数の先進工業国としての地位を確立、特にパーソナルコンピュータマザーボード液晶レーザーモジュールやなどの高度な技術開発力を必要とする情報技術関連機器や、自動車オートバイとその部品、付加価値の高い自転車、家電製品とそのための電子部品をはじめとする製造業、海運や航空業でその強みを発揮し、世界トップクラスの外貨準備高を擁する経済大国へと変貌している。

2000年代以降は、中華人民共和国やインドなどの、低賃金の単純労働力を提供する発展途上国の台頭によって、高度な開発、生産力を必要としない製造業においては、工場の海外進出に伴う産業の空洞化が進行したが、これに対し政府は情報技術へのさらなる投資とあわせて、バイオ産業などより高い技術を有する産業に重点を置く政策に転換しつつある。

世界中に広がる華僑ネットワークに駆使した世界戦略も強みである。アメリカや日本で注文を取り、中華人民共和国やベトナムに製造させる仲介的戦略も、この華僑ネットを利用している。近年は高雄港や基隆港、台中港が中国大陸や東南アジア、および太平洋地域における海運の重要なハブとしての地位を獲得しており、コンテナ取扱高世界一を誇る一大海運企業である長栄海運などがそれを後押しする形となっている。

中華民国の経済は日本経済との共通点が多い。資源小国であることから技術力、工業生産力に依拠し、世界市場で優位に立てる高付加価値製品を開発製造することによって、外貨を獲得する加工貿易が基本である。独立志向の強さが国民性であり、それが経済に活力を与えると同時に、大企業の成長に必要な人材の確保が困難な一面もある。

1000万人以上の観光客を目標にした観光戦略を打ち出し、2010年中華人民共和国と締結した海峡両岸経済協力枠組協議日台投資協定日台オープンスカイ協定締結などにより2011年には600万人以上の観光客が訪れた。そして、外貨収入は1兆円を超えている。

シンガポールなどとの自由貿易協定 (FTA) や環太平洋戦略的経済連携協定 (TPP) 参加を検討しており、経済自由化や金融緩和にも力を入れるとされている。2011年の失業率は4.39% (49万1000人) になっており、経済協力開発機構 (OECD) 平均と比較しても大きく下回っていて、雇用も比較的安定している。

日本経済との関係[編集]

中華民国と日本とは、実効統治する台湾がかつて日本領であったなど歴史的に関係が深く、地理的に近いことから、貿易をはじめとした経済的交流が非常に緊密である。その象徴として、台北の台北国際金融センタービルは日本の熊谷組を中心としたJV(共同事業体)が施工しているほか、日本の新幹線の信号・車両技術を導入した台湾高速鉄道(台湾新幹線)も台北〜左営(高雄市)間に運行中である。多くの日本企業が進出しているだけでなく、中華民国の企業も日本に進出するなど、経済的交流は年々強まっている。工業団地に日本企業を積極的に誘致を続けている他にも、中華人民共和国に日本企業が進出する際に、台湾企業と組むケースが多くなっている。

2011年現在、日本は台湾にとって最大の輸入先であり、日本から台湾への投資件数もトップであり、台湾にとって2番目の貿易相手国である。台湾は日本にとって4番目の貿易パートナーである。

中華民国の代表的な大企業[編集]

交通[編集]

詳細は台湾の交通を参照

中華民国は鉄道道路航路ともに発達しており、日帰りで台湾島を一周することも可能である。

鉄道[編集]

在来線[編集]

中華民国の鉄道は、国営の台灣鐵路管理局(略称は台鐵)の路線が台湾島を一周しており、自强號{{#if:| {{{3}}}}}(日本の特急に相当)、莒光號(日本では、急行)、復興號(日本では快速列車)そして平快、普通(日本では普通列車)が各都市を繋いでいる。

以上は機関車(電気・ディーゼル)に客車を連結した編成であるが、別に通勤電車と呼ばれる電車が大都市近郊を走っている。東海岸非電化線区を走る自強は四国の特急車両に似た気動車である。中華人民共和国と同じく列車のことを「汽車」ではなく「火車」と呼ぶ。

捷運[編集]

市内や近接地区を結ぶ鉄道交通ネットワークとして、捷運 (MRT) がある。これは日本の地下鉄新交通システムに相当する。最初に、台北市政府による台北捷運木柵線(新交通システム)を1996年に開通させ、翌年に淡水線(地下鉄)の一部を開業した。高雄市による高雄捷運も2008年に一部路線を開通させた他、他の都市でも建設中もしくは計画中である。

台湾高速鉄道[編集]

台北・高雄を結ぶ都市間鉄道として、最高速度 300km/h の台湾高速鉄道(略称は高鐵)が2007年1月に開通した。日本の新幹線車両700T型)を導入し、中華民国初の大型BTOとして台鐵とは別個に建設・運営が行われている。

日本にとっては、初の新幹線車両の海外輸出となるが、相次ぐトラブルで開業が大幅に遅れた上、受注の背景から欧州の信号技術と日本の車輌を組み合わせた折衷型システムとなり、開業時の運転手は全て欧州人となるなど、開業は相当な難産であった。しかし、台北から高雄までの所要時間87分、運賃は台鐵と航空便の中間となる1490台湾ドルで、自強号の最速列車でも3時間59分かかる台鐵(縦貫線)はもはや競争相手とはならない。航空路線も大幅な減便を強いられ、有力な競争相手となるのは低運賃の高速バスとみられている。高速鉄道の開業後、台鐵は縦貫線の地域の輸送機関としての再構築を模索している(台鉄捷運化を参照)。

また新幹線の導入予定が無い東部幹線の速達化をはかるため、2004年に台鐵は丸紅を通して日立製作所885系のOEM車両を6編成48両発注し、名称は太魯閣号(タロコごう、zh:太魯閣號)とした。

道路[編集]

高速道路には基隆・台北と高雄を結ぶ中山高速公路と、フォルモサ高速公路の2本があり、さらには主要国道・省道が中華民国全土に張り巡らされている。そのことから、数多くのバス会社が高速バスを走らせており、大都市間を結んでいる。直接都市間を結ぶこともあり、渋滞が厳しい台北周辺を除けば、所要時間は特急列車と大差ない。中華民国では航空路と高速バスの整備により、特に西部幹線(基隆 - 高雄・屏東)では鉄道輸送は苦戦している。

かつては公営の「台湾汽車客運」(中国語の汽車は自動車の意味)が高速バス事業を担っていたが、2001年の民営化に伴い「国光汽車客運」に再編された。またそれと相まって高速バス事業の自由化が進み、複数の会社による競合の結果、2列シート・軽食・飲物のサービス付き・カーテン・トイレ完備などの豪華なバスが大都市間で24時間運行されるようになっている。このために、民営バス会社は中華民国の人々にとって大切な足になっているが、連休などでは慢性的な渋滞にしばしば巻き込まれている。

都市部では市内バス路線が整備されているが、古い車両が多く使用されている、バス停で乗降客がスムーズに乗降できないなどの理由で利用頻度は高くなかったが、近年では台北市を中心に車両の更新、バス専用レーンの設置などにより大幅な改善が見られ利用者も増加傾向にある。しかし大衆交通網が未完成のため一般的にはタクシーや自家用車、スクーターを利用することが多い。各種車両が入り乱れている台湾の市内地域では激しい渋滞と、運転マナーに起因する交通事故が多発している。

また国際運転免許証に関しては、中華民国がジュネーブ条約に加盟していないため、多くの外国人が運転する場合には、現地での運転免許取得が必要であるが、日本人に関しては、2007年9月19日より日本と中華民国両政府の間で免許証の相互承認が認められるようになり、短期旅行者がレンタカーなどを運転できるようになった。

航空[編集]

航空機は台湾島と金門島などの各離島を結んでいる他、主要都市を結んだ高頻度運行サービスを提供しており、料金も割引チケットを使えば鉄道やバスと遜色ないので人気は高い。

中華民国の航空会社としては、日本では成田空港中部国際空港福岡空港などに乗り入れているチャイナエアライン(中華航空、China Airlines)が有名であるが、21世紀初頭では成田空港や関西国際空港新千歳空港、福岡空港、仙台空港などに乗り入れているエバー航空(長栄航空、Eva Airways)も急速に乗り入れ都市を増やしたことから日本に浸透してきている。これらの航空会社以外にも、中華民国には遠東航空復興航空立栄航空華信航空などがある。なお、これらの航空会社のいくつかはチャイナエアラインやエバー航空の子会社である。

国際空港としては、台湾桃園国際空港高雄国際空港台中清泉崗国際空港があり、花蓮空港を国際空港に昇格させる計画もある。

日本との航空便[編集]

日本との間には、チャイナエアラインやエバー航空、日本航空全日本空輸キャセイパシフィック航空ノースウエスト航空ユナイテッド航空が台北や高雄と成田空港との間にそれぞれ1日1便から数便を就航させている他、福岡空港や那覇空港、中部国際空港、新千歳空港、関西国際空港、仙台空港にも定期便を就航させている。また21世紀初頭の北海道旅行ブームに伴い、函館空港釧路空港旭川空港などの北海道内の空港へのチャーター便も多く運航されている。

なお、1972年に日本と中華人民共和国の間に日中共同声明が出され国交が築かれたことに伴い1974年4月に締結された日中航空運輸協定内の条項に基づき、2002年まで中華民国の航空会社は1978年に開港した成田空港への乗り入れを禁止されていたため、羽田空港に乗り入れていた。

中華民国路線向け会社[編集]

日本航空グループの国際路線は、同グループで国際線を受け持つ日本航空インターナショナルにより運航されているが、1972年に日本と中華人民共和国の間に日中共同声明が出され国交が築かれたことに伴い、1974年4月に締結された日中航空運輸協定内の別の条項に基づき、日本航空名義で中華民国への便を運行することができなくなってしまった。

そこで、別会社として設立された日本アジア航空が中華民国への便を運航することで、日本航空グループにおける中華民国航路を補う役割を担っていた。また全日本空輸の場合は、国内ローカル路線専用航空会社であったグループ会社のエアーニッポンが同じ役目を担っていたが、2008年4月より後述の通り直接運行、親会社便名となった。

また旅行会社についても中華人民共和国の旅行商品を扱う会社が中華民国の商品を同時に扱うことができなかったため、中華民国を専門に扱う別会社が設立された、アジア旅行開発(日本アジア航空系)、ユナイテッドツアーズ(近畿日本ツーリスト系)以外は親会社に合併された。

ヨーロッパの航空会社も、中華人民共和国に路線があるところは日本航空と同じような問題を抱えることになった。そこでこれらの航空会社が採った方策は、日本アジア航空のような別会社を作るのではなく、別会社を装った別の名前の会社名の塗装を施した専用機材で運航するというものであった。名義には日本アジア航空に倣って「アジア」をつけたものが多かった。

これらの塗装を施された機体は機体繰りなどの関係で日本などにも飛来していた。他にも、ドイツルフトハンザドイツ航空の場合は、全日空と同じくグループ会社のコンドル航空が運行していた。なお、アメリカや東南アジアの航空会社の場合はそのままの社名・塗装で両国へ運行されている。

最後まで別会社による運行を行っていたのは日本のみであったが、日華間の協議の結果、親会社による直接運行が認められることとなったため、2008年4月より、日本アジア航空便は日本航空インターナショナル、エアーニッポン便は全日本空輸による直接運行、親会社便名による運行になった。ある意味で航空業界が「正常化」したといえる。

船舶[編集]

台湾島と澎湖諸島金門島などの離島との間は船便によっても結ばれており、航空路線が発達した今日でも利便性がある。台湾島と澎湖諸島を結ぶ船便は高雄港台華輪)・台南安平港今日之星)・嘉義布袋港満天星客輪)から毎日出ている。

台湾島と緑島蘭嶼を結ぶ船便は台東富岡港から、台湾島と金門島を結ぶ船便(金門快輪というフェリー)は高雄港から、台湾島と馬祖列島を結ぶ船便(台馬輪および合富輪)は基隆から、それぞれ出航している。

国民[編集]

国民の定義と人口[編集]

中華民国の国民は、中華民国憲法第3条の規定によって「中華民国の国籍を有する者」とされており、2011年の時点で 2322万4912人となっている。人口密度は平均 636.82人/km²(2011年)である。

民族と省籍矛盾[編集]

中華民国の国民は大きく漢民族原住民族にわかれる。中華民国政府が認定した原住民族は、2008年現在で14民族50万人弱であり全人口の約2%である。中華民国では、国民である国内各民族が融合して中華民族を形成するとされており、中華民国憲法第5条によって各民族間の平等が定められている。また中華民国国民には省籍が存在し、在籍するによって本省人外省人に分けることがある。原住民族は広義には本省人に含まれるが、通常は分けて考えられる。この区分に従うと、中華民国編入後の台湾島一帯では、人口が多い本省人が政治的には少数派の外省人に支配される構図が浮かび上がるが、これは省籍矛盾と呼ばれ、長年にわたり社会問題とされてきた。

客家と移民[編集]

広義の客家人は約500万人であり、全人口の約22%である。中華民国に帰化している人口は7万1398人であり、全人口の約0.3%である。

新移民(外国籍)[編集]

外国籍配偶者の数は約40万人で中国とベトナム国籍(在台ベトナム人)が最も多く、約8万6000人であり他にはタイ・インドネシア・フィリピンの順である。外国籍の人口は約65万人である。

言語[編集]

詳細は台湾#言語を参照

中華民国の公用語は国語と称されている。国語は基本的には中華人民共和国で使われている普通話と同一言語とされるが、21世紀初頭では政治・文化・社会の違いにより語彙や発音などの細かい部分に多少の相違点が生じている。

正体字(繁体字)と呼ばれる簡略化されていない漢字の字体を標準としている。これは日本の旧字体に近いが、中華人民共和国で大幅に簡略化された簡体字とは大きく異なる。ただし実際の生活においてはある程度の略字や俗字が使用されている。漢字の発音表記には北京政府時代に制定された注音符号を教育で使用している。

日常生活では台湾語閩南語{{#if:| {{{3}}}}})、客家語アミ語なども用いられている。

宗教[編集]

詳細は台湾の宗教を参照

教育[編集]

詳細は台湾の教育を参照

中華民国は教育制度として国民小学(小学校)6年間と国民中学(中学校)3年間が義務教育とされている。21世紀初頭では小中学をあわせた「九年一貫課程綱要」に基づいてカリキュラムが編成されている。儒教圏の例に漏れず学歴社会であり、高等教育を受ける者が多い。

民主化後、国語以外の言語、すなわち台湾語客家語台湾原住民語の教育が義務付けられたが、中国国民党による戒厳令時代はすべて国語のみで教育することとされていた。このため、1920年代生まれ前後の世代は台湾語(または客家語)のみで国語が話せない者がおり、その下の世代では両方を解するが、1950年生まれ世代前後以下では標準語のみで台湾語を解しない者が少なくない(特に北部の都市部)。たとえ話せたとしても発音に標準語の訛りがある場合も多い。

従って同じ「台湾人」でも高齢者と若者との間でコミュニケーションが成り立たないということも珍しくない。日本統治時代には日本語での教育が義務付けられていたため日本語を話すことのできる高齢者も多い。

文化[編集]

詳細は台湾の文化を参照

代表的な文化施設[編集]

中正紀念堂
台北市の中正区にある中正紀念堂は、1975年に死去した初代総統・蒋介石の業績を称えるために建てられた高さ70メートルの建築物であり、紀念館の外観には中華民国の思想が視覚的に反映されている。
国立故宮博物院
台北市の士林区にある国立故宮博物院は、国共内戦に敗れた中華民国政府が台湾へと撤退する際に、北京の故宮(旧紫禁城)と南京の中央博物院から持ち運んだ中国歴代の貴重な美術品を収納・展示している博物館である。
国立故宮博物院のコレクションは、宋、元、明、清の歴代宮廷の収蔵文物を継承しており、その内容も数も極めて豊富である。これらの文物の発展は、近代中国社会の変遷と密接な関係がある。中華民国が建国されて13年後、清朝を退位した溥儀皇帝を紫禁城から追放し、宮廷にあった文物を点検すると同時に、故宮博物院を設立した。
1925年10月10日、故宮博物院が正式に設立された。この時から、歴代皇室と宮廷が所蔵していた貴重な文物は、中華文化遺産として永く後世に伝えられることとなり、全ての人々が自由に宮廷に出入りし、国の至宝を鑑賞できるようになった。初代院長は易培基(1880-1973)氏で、1925-1931年は北京故宮博物院の啓蒙の時代であるといえる。

象徴的な施設[編集]

中正国際空港
桃園県にある台湾桃園国際空港 は、中華民国最大の国際空港である。以前は、中華民国の初代総統である蒋介石の本名から取った中正国際空港(英語名は蒋介石の英語 Chiang Kai-Shekの頭文字からC. K. S. airport、チャイナエアラインの機内放送(日本語)では「蒋介石国際空港」と紹介していた)であったが、中国国民党が下野してからは、この名称を用いることに批判的な論調が増え、最終的に2006年に台湾桃園国際空港と改称された。
台北101
台北市信義区にある超高層ビル。高さ508mで地上101階+地下5階から成る。旧称は「台北国際金融センター(臺北國際金融大樓)」。7年間の工期を経て2004年、それまで世界一だったマレーシアクアラルンプール)のペトロナスツインタワーを超える建築物として竣工した。コンサートやイベントで使用される「台北南港101」は、これとは別の施設。
道路名
中華民国の道路名は、「中山路」(中山は国父とされる孫文の中国語圏で最も知られる名前)、「中正路」(中正は初代総統である蒋介石の本名)といった国家指導者の名を冠したものや、「民族路」、「民權路」と「民生路」といった国家の基本思想である三民主義に基づくものが多数を占めている。ただ、21世紀初頭では中華民国の「台湾化」の影響から、台湾原住民族の名に由来する凱達格蘭大道ケタガラン大道、台北市)のように台湾に由来のある道路名も登場している。

食文化[編集]

詳細は中華料理を参照

世界遺産登録[編集]

詳細は台湾#世界遺産候補を参照

中華民国は、国際連合から脱退しているため、国際連合教育科学文化機関(ユネスコ)への加盟を認められておらず、世界遺産が一つも登録されていない。しかし、陳水扁政権発足後から、行政院を中心に世界遺産登録を目指す動きが活発化しており、2003年には世界遺産登録候補地として12か所が選定されている。

暦と祝祭日[編集]

詳細は民国紀元を参照

中華民国では、建国年である1912年を元年とする民国紀元西暦と併用している。民国紀元は中華民国における行政の公式暦法とされ、一般に誕生年も「民国N年」「民前N年(1911年以前)」と表現される。民国紀元も太陽暦によるが、祝日(國定假日)、民間の年中行事は旧暦で行うものあり、日常生活では併用されている。中華民国は公的機関において完全週休二日制度が導入されているほか、合計9日の祝日がある。

脚注[編集]

  1. NHKスペシャル「中国文明の謎」第1集「中華の源流・幻の王朝を追う」(2012年10月14日放送)の中で、「夏 (三代)」王朝の夏が「華」に変化したという内容がある。

参考文献[編集]

  • 若林正丈『台湾の政治——中華民国台湾化の戦後史』東京大学出版会 2008年 ISBN 9784130301466
  • 若林正丈『台湾——分裂国家と民主化』東京大学出版会, 1992年
  • 酒井亨『「親日」台湾の幻想』 扶桑社 2010年
  • 黄霊芝/下岡友加 編『戦後台湾の日本語文学 黄霊芝小説選』 渓水社 2012 ISBN 9784863271869
  • 松岡格『台湾原住民社会の地方化ーーマイノリティの20世紀 』研文出版 2012年 ISBN 9784876363421
  • 龍應台著、天野健太郎訳 『台湾海峡一九四九』 白水社 2012年 ISBN 9784560082164
  • 川上桃子『圧縮された産業発展 台湾ノートパソコン企業の成長メカニズム』名古屋大学出版会 2012年 ISBN 9784815807030

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

政府
日本政府
観光
その他
先代:
日本統治時代
1895年-1945年
台湾の歴史
中華民国
1945年-現在
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