「石原慎太郎」の版間の差分
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− | 80歳となったこの男性は、諸事情により<br />ひとたび離れたこの日本の国政への復帰を志し、<br /> | + | 80歳となったこの男性は、諸事情により<br />ひとたび離れたこの日本の国政への復帰を志し、<br />2012年10月25日をもって東京都知事を辞職することとなったことで知られている。 |
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[[画像:Ishihara.jpg|350px|thumb|石原 慎太郎]] | [[画像:Ishihara.jpg|350px|thumb|石原 慎太郎]] | ||
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==== 中華人民共和国 ==== | ==== 中華人民共和国 ==== | ||
− | [[2005年の中国における反日活動]]では「民度が低い」と非難し、中華人民共和国を「[[支那]]」と呼んでいるが、本人は「蔑称ではなく、尊敬して昔の呼び名で呼んでいる」「中国の人が屈辱に感じていることを知らなかった」と主張している。[[北京オリンピック]]については「[[アドルフ・ヒトラー|ヒトラー]]の非常に政治的な[[ベルリンオリンピック]]に、ある意味似ているような気がする」<ref>[[朝日新聞]]2006年7月4日</ref>と発言していた。その[[反中]]の姿勢が[[2016年東京オリンピック構想|東京でのオリンピック開催]]の実現を困難にする可能性が高かったが(中華人民共和国は、ODAを元に[[アジア]]や[[アフリカ]]の一部の[[開発途上国|発展途上国]]に影響力を持つ)という指摘もあったが<ref>『FACTA』2007年3月号</ref>、 | + | [[2005年の中国における反日活動]]では「民度が低い」と非難し、中華人民共和国を「[[支那]]」と呼んでいるが、本人は「蔑称ではなく、尊敬して昔の呼び名で呼んでいる」「中国の人が屈辱に感じていることを知らなかった」と主張している。[[北京オリンピック]]については「[[アドルフ・ヒトラー|ヒトラー]]の非常に政治的な[[ベルリンオリンピック]]に、ある意味似ているような気がする」<ref>[[朝日新聞]]2006年7月4日</ref>と発言していた。その[[反中]]の姿勢が[[2016年東京オリンピック構想|東京でのオリンピック開催]]の実現を困難にする可能性が高かったが(中華人民共和国は、ODAを元に[[アジア]]や[[アフリカ]]の一部の[[開発途上国|発展途上国]]に影響力を持つ)という指摘もあったが<ref>『FACTA』2007年3月号</ref>、 2016年夏季五輪招致に北京市の協力を要請して、中華人民共和国の招待に応じて開会式に出席した。「大国の度量を見せるもの」として中国のネットも支持した。「日本と中国が組めば技術でヨーロッパと対抗できるんだからいろいろやりましょう。」とまで述べた。2009年(平成21年)に北京副市長・黄衛が訪日の際に石原は「東京の技術は進んでおり、見たいものは全部見ていってください」と述べ、黄副市長は「これからも交流を活発にしていきたい」と応じた。日中間の領土問題において、東京都の[[沖ノ鳥島]]は岩である旨主張し続ける中国共産党政府の態度、また事前通知無しで調査船を派遣していることに対し反発している。そのため、都知事の立場から「日本の[[経済水域]]であることを実証する」として、沖ノ鳥島に上陸して[[日章旗]]を掲げる等のパフォーマンスを行っている。[[在日中国人]]による犯罪について「民族的DNAを表示するような犯罪が蔓延することでやがて日本社会全体の資質が変えられていく恐れが無しとはしまい」と発言した<ref>『産經新聞』2001年5月8日</ref>。2008年1月、中華人民共和国から輸入された冷凍餃子に毒が混入していた事件([[毒入り餃子事件]])に関して「独裁統制国家なんだから、しっかりしてもらわないと困りますな」と、中華人民共和国当局を批判した<ref>[http://web.archive.org/web/20080603035210/http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/politics/119502/ 「「独裁国家なんだからしっかりしろ」石原知事、毒餃子で苦言」政治も‐地方自治ニュース:イザ!] [[産経新聞]]2008年1月31日</ref>。2月には「中国の領土拡張姿勢に日本が賢明に対処しなければ、[[中華人民共和国の国旗|五星紅旗]]の"六番目の星"になるだろう」と発言している<ref>[http://japanese.joins.com/article/article.php?aid=96063&servcode=A00§code=A00 中央日報 - 石原都知事「日本が第2次大戦起こして植民地が独立」] 中央日報2008年2月15日。なお、五星紅旗の4小星は星条旗と異なり、社会階層を意味する。</ref>。 |
2010年、石原は「反中国ではなく、反中国の共産主義」などと述べた。「僕は中国の歴史や文化が好きだ。しかし、中国の共産主義が嫌い」「中国は反対しないが、共産党支配下にある中国は、日本にとって脅威となる」などと述べた。共産党や共産主義を中国とは分けて考えている石原氏の論点は素晴らしいと、ラジオ自由アジア(RFA)は四川省作家・冉雲飛氏の言葉を引用して評価した。また、石原はインタビューの中で、人間にとって「自由」が最も大事だと述べた。そのため、自由のない独裁国家は嫌いで、戦時中の日本も嫌いだと語った。また、アメリカと中国の高圧的な態度に嫌悪感を抱いていることを表明し、尖閣諸島問題で中国が5回にわたって日本の駐在大使を呼びつけることは、日本に対する侮辱行為だと批判した<ref>[http://www.epochtimes.jp/jp/2010/10/html/d22219.html 「反中ではなく反中共だ」 中国週刊誌、石原慎太郎氏インタビュー果敢報道] </ref>。2013年に石原が脳梗塞で入院した際、掲示板では“ハッピーニュース”として喜ぶ声が殺到した一方で「石原氏はかなりの中国通で、中国政府は嫌いだが中国文化は好きだと言っている。中国に対する理解は並みの中国人以上だし、多芸多才な民族主義者だよ」と一定の評価をするコメントも見られた<ref>[http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2013&d=0330&f=national_0330_038.shtml 【中国BBS】石原慎太郎氏の入院に「やったあ、いい気味!」と喜びの声]</ref>。 | 2010年、石原は「反中国ではなく、反中国の共産主義」などと述べた。「僕は中国の歴史や文化が好きだ。しかし、中国の共産主義が嫌い」「中国は反対しないが、共産党支配下にある中国は、日本にとって脅威となる」などと述べた。共産党や共産主義を中国とは分けて考えている石原氏の論点は素晴らしいと、ラジオ自由アジア(RFA)は四川省作家・冉雲飛氏の言葉を引用して評価した。また、石原はインタビューの中で、人間にとって「自由」が最も大事だと述べた。そのため、自由のない独裁国家は嫌いで、戦時中の日本も嫌いだと語った。また、アメリカと中国の高圧的な態度に嫌悪感を抱いていることを表明し、尖閣諸島問題で中国が5回にわたって日本の駐在大使を呼びつけることは、日本に対する侮辱行為だと批判した<ref>[http://www.epochtimes.jp/jp/2010/10/html/d22219.html 「反中ではなく反中共だ」 中国週刊誌、石原慎太郎氏インタビュー果敢報道] </ref>。2013年に石原が脳梗塞で入院した際、掲示板では“ハッピーニュース”として喜ぶ声が殺到した一方で「石原氏はかなりの中国通で、中国政府は嫌いだが中国文化は好きだと言っている。中国に対する理解は並みの中国人以上だし、多芸多才な民族主義者だよ」と一定の評価をするコメントも見られた<ref>[http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2013&d=0330&f=national_0330_038.shtml 【中国BBS】石原慎太郎氏の入院に「やったあ、いい気味!」と喜びの声]</ref>。 | ||
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− | == | + | == 家族・親族 == |
− | ; | + | === 石原家 === |
− | [[ | + | ; ([[愛媛県]][[松山市]]・[[八幡浜市]]・[[大洲市]]、[[兵庫県]][[神戸市]][[須磨区]]、[[北海道]][[小樽市]]、[[神奈川県]][[逗子市]]、[[東京都]]) |
− | : [[ | + | ; 家系 |
− | + | : 慎太郎によれば、「私も幼い頃家族しての神奈川県から愛媛、[[広島]]への大[[旅行]]で父や母の実家を初めて訪れた時に会った、まだ元気でいた父の母親と母の父親の記憶をこの旅で見た他の何よりも強い印象で覚えていますが、何故かそれはその後私が成長していってからの方がますます鮮やかで確かな記憶として心に刻まれてきたような気がする。そして父や母が亡くなった後、父や母への追憶に重ねてそれがますます懐かしく鮮やかに思い出されるようになりました。」という<ref>石原慎太郎『法華経を生きる』217頁</ref>。 | |
− | : [[ | + | : 石原家は'''潔''' (慎太郎の父) の2代前の石原安太夫の時代に絶家となった (理由は不明) <ref name="Sanop29">『てっぺん野郎─本人も知らなかった石原慎太郎』29頁</ref>。それを再興するため服部家から服部信義の二男の信直が石原家に入った<ref name="Sanop29"/>。石原家再興の当主となった[[1862年]] ([[文久]]2年) 生まれの信直と、[[1867年]] ([[慶応]]3年) 生まれの妻ササヨの間には、潔を含めて6人の子供が生まれた<ref name="Sanop29"/>。長男の克己、長女の壽万 (すま) 、二男の静夫、三男の'''潔'''、二女の美壽 (みす) 、四男の真砂 (まさご) の6人である<ref name="Sanop29"/>。信直の職業は[[警察官]]だった<ref name="Sanop29"/>。'''潔'''は[[愛媛県]][[長浜町 (愛媛県)|長浜町]](現[[大洲市]])に生まれ、幼少期は八幡浜や宇和島など、西宇和、南宇和地区ですごした<ref name="Sanop19">『てっぺん野郎─本人も知らなかった石原慎太郎』19頁</ref>。 |
− | + | : 石原本家の[[菩提寺]]は[[八幡浜市]][[保内町]]の龍潭(りょうたん)寺である<ref name="Sanop28">『てっぺん野郎─本人も知らなかった石原慎太郎』28頁</ref>。佐野によると、「本堂裏の位牌堂には'''潔'''の父の信直や兄の克己などの[[位牌]]はあったが、[[分家]]したらしく'''潔'''の[[位牌]]はなかった。それらにまじって"服部信義"という古ぼけた位牌があるのが目をひいた。」という<ref name="Sanop28"/>。 | |
− | : [[ | + | : 佐野との対談の中で慎太郎は「うちの本家はそもそも石原ではなく服部なんです。そんな[[名家|大家]]でもないけれど、元は、落魄 (らくはく) <ref name="落魄(らくはく)"/>した[[士族]]です。先祖は[[武田氏|武田]]の[[浪士|残党]]でそれが[[松山市|松山]]に流れて服部姓を名乗った。[[弓 (武器)|弓]]の名人だったらしく、戦 (いくさ) で七人殺したか、まあ七十人は殺さなかったでしょうが (笑) 、それで七つ矢車の[[家紋]]を許された。歴代、服部勘助を名乗った服部本家の血筋をひいている親父の親父が石原家に入って、それ以来石原姓を名乗った。」と述べている<ref name="Sanop28"/>。 |
− | : | + | : 佐野によると、「ただし、[[服部氏|服部家]]出身の信義の祖先が、本当に[[武田氏|武田]][[武士]]の流れをくむ服部本家の[[子孫|末裔]]だったかどうかまでは、調べようがなく確認がとれなかった<ref name="Sanop29"/>。龍潭 (りょうたん) 寺<ref>愛媛県八幡浜市[[保内町]]の龍潭 (りょうたん) 寺は石原本家の[[菩提寺]]である (『てっぺん野郎─<span style="font-size:90%">本人も知らなかった石原慎太郎</span>』28頁) 。</ref>の[[住職]]によると約20年前の先代住職の頃、慎太郎本人から“石原家の[[ルーツ]]を知りたい”との連絡があったがそのときもはっきりしたことはとうとうわからずじまいだった<ref name="Sanop29"/>」という。 |
− | + | : [[AERA]]誌のインタビューのとき、ノンフィクション作家の[[吉田司]]に慎太郎は「うちは[[士族]]の出でね<ref name="taizyou_p190">[[斎藤貴男]]・[[吉田司]]『石原慎太郎よ、退場せよ!』190頁</ref>。カッコいいんだ<ref name="taizyou_p190"/>。[[武田氏|武田]]の[[武士]]でね、弓矢の名人でね、[[家紋]]が7つ矢の矢車なんですよ<ref name="taizyou_p190"/>。武田軍団って、戦強かったでしょ<ref name="taizyou_p190"/>。うちの家訓はね、『明日の戦、わが身無念と心得べし』ってんですよ<ref name="taizyou_p190"/>。つまり死ぬだろうと……<ref name="taizyou_p190"/>。だから俺の親父もわりと覚悟して、毎晩接待で[[酒]]飲み続けて、仕事で死んでいった<ref name="taizyou_p190"/>。『今宵の宴、わが身無念と心得べし』じゃないけどね (笑) <ref name="taizyou_p190"/>」と述べている。 | |
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− | ;; 評価 | + | * 祖父・'''信直'''([[警察官]]) |
− | : [[吉田司]] | + | : [[1862年]]([[文久]]2年) 生 - [[1922年]]([[大正]]11年) 没 |
− | : [[佐野眞一]]によれば、「慎太郎、裕次郎兄弟は十代から湘南の海で[[ヨット]] | + | : 服部信義の二男として生まれ石原家に入った<ref name="Sanop29"/>。佐野眞一によれば、「石原家の[[ルーツ]]が、慎太郎が言うように、没落[[士族]]だったとすれば、没落した元[[士族]]の信直が、[[明治維新|維新]]後の最も手っとりばやい生計の道として[[警察官]]となったのは、当時とすればごく常識的な選択だったといえる<ref>『てっぺん野郎─本人も知らなかった石原慎太郎』30頁</ref>」という。 |
− | + | * 祖母・'''ササヨ''' | |
− | [[File: | + | : [[1867年]]([[慶応]]3年)生 - 没 |
− | : [[1909年]] ([[明治]] | + | * 父・'''潔'''([[商船三井|山下汽船]]社員) |
− | + | : [[File:Ishihara Family.jpg|thumb|300px|right|<div style="text-align:center">[[北海道]]の[[小樽市|小樽]]にて家族写真<br/>(左から父・潔、弟・[[石原裕次郎|裕次郎]]、母・[[石原光子|光子]]、[[石原慎太郎|慎太郎]])</div>]] | |
− | : 2002年 (平成14年) | + | : [[1899年]]([[明治]]32年)12月生 - [[1951年]]([[昭和]]26年)10月没 |
− | + | :; 生い立ち | |
− | :佐野眞一によれば「潔は光子と[[見合い]] | + | :: [[愛媛県]][[八幡浜市|八幡浜]]に隣接する[[長浜町 (愛媛県)|長浜]]という港町に生まれた<ref name="Sanop19"/>。[[警察官]]石原信直・ササヨの三男。父・信直の人事異動に伴って、幼い頃は信直の赴任先である愛媛県各地の[[派出所]]を随分転々とさせられた<ref name="Sanop30">『てっぺん野郎─本人も知らなかった石原慎太郎』30頁</ref>。[[1922年]]([[大正]]11年)、父・信直が59歳で亡くなり、子供たちはみんな非常に苦労したという<ref name="Sanop47">『てっぺん野郎─本人も知らなかった石原慎太郎』47頁</ref>。 |
− | + | :; 山下汽船へ | |
− | : [[1934年]] ([[昭和]] | + | :: [[1913年]]([[大正]]2年)3月、宇和島男子尋常高等小学校を卒業し、旧制宇和島中学(現在の[[愛媛県立宇和島東高等学校|宇和島東高校]])に進んだが、入学から一年もしないうちに同校を[[中退]]している<ref name="Sanop30"/>。中退の理由はわからない<ref name="Sanop30"/>。[[1914年]]([[大正]]3年)、山下汽船に入社<ref name="Sanop28">『てっぺん野郎─本人も知らなかった石原慎太郎』28頁</ref>。当時潔はまだ14歳の少年だった<ref name="Sanop28"/>。潔の山下汽船入社時の身分は店童 (てんどう)<ref name="Tendoup31-32"/>だった<ref name="Sanop31">『てっぺん野郎─本人も知らなかった石原慎太郎』31頁</ref>。 |
− | + | :: 慎太郎によれば、「(潔は)本当は大学へ行きたかったんだけど、家の事情で行けなかったようです<ref name="Sanop47"/>。家は落魄 (らくはく) <ref name="落魄(らくはく)">落魄(らくはく)とは、落ちぶれること</ref>する一方だったようですからね<ref name="Sanop47"/>」という。 | |
− | + | :: 店童 (てんどう)<ref name="Tendoup31-32"/>として入社してから5年目[[台湾]]赴任時代の[[1919年]]([[大正]]8年)12月正式の社員となった<ref name="Sanop173">『てっぺん野郎─本人も知らなかった石原慎太郎』173頁</ref>。 | |
− | + | :: [[1942年]]([[昭和]]17年)9月山下汽船小樽出張所は小樽支店に格上げされた<ref name="Sanop173">『てっぺん野郎─本人も知らなかった石原慎太郎』173頁</ref>。この組織改革に伴って潔はそれまでの小樽出張所長から小樽支店長心得に出世し、翌18年1月1日を以って、正式に小樽支店長となった<ref name="Sanop173"/>。慎太郎が10歳のときだった<ref name="Sanop173"/>。しかし潔が小樽支店長の肩書を使ったのは二ヵ月にも満たなかった<ref name="Sanop173"/>。同年2月15日には東京支店副長の辞令が出て、足かけ8年すごした小樽を後にした<ref name="Sanop173"/>。同じ年の10月には子会社の山下近海機船(昭和24年山下近海汽船に改組改称)に転出となり、山下汽船のほうは[[嘱託]]扱いとなった<ref name="Sanop174">『てっぺん野郎─本人も知らなかった石原慎太郎』174頁</ref>。 | |
− | : [[1938年]] (昭和13年) 1月生 - | + | :: 店童 (てんどう) あがりだったにもかかわらず、最後は[[関連会社]]の[[重役]]<!--山下汽船本社の重役ではなく関連会社の重役-->にまで出世した。 |
− | : 典子の父親石田光治は落下傘の[[紐]]などを製造する東洋麻糸という[[紡績]][[会社]] | + | :; 人柄 |
− | : | + | :: 妻光子が書いた『おばあちゃんの教育論』によると、潔は身長百七十五センチ、体重は八十キロもあった大男であだ名は“クマさん”だったという<ref>『てっぺん野郎─<small>本人も知らなかった石原慎太郎</small>』 57-58頁</ref> |
− | : 結婚について慎太郎は[[阿川佐和子]] | + | :: 先妻は元大同海運社長[[崎山好春]]の妻の[[姪]]にあたる<ref>『てっぺん野郎─<small>本人も知らなかった石原慎太郎</small>』 49頁</ref>。 |
− | + | :: [[佐野眞一]]によれば、「[[商船三井|山下汽船]]OBたちの間からは潔を絶賛する声が次々とあがった<ref name="Sanop53">『てっぺん野郎─本人も知らなかった石原慎太郎』53頁</ref>。その評価のなかに仕事に関するものはほとんどなく、[[酒]]や人とのつきあいに関するものばかりだったといってよい<ref name="Sanop53"/>。潔が“人間的”魅力にあふれていたことは間違いないようである<ref name="Sanop53"/>。」という。 | |
− | : [[1957年]] | + | :: 慎太郎によれば、「親父は僕ら兄弟と一緒にいると、いつも相好を崩していた<ref name="Sanop62">『てっぺん野郎─本人も知らなかった石原慎太郎』62頁</ref>。怒るときは怒ったけど、ああいう偏愛っていうか溺愛っていうか、動物的な愛情の示し方は、おふくろはしなかった<ref name="Sanop62"/>。ですから、どこが似てるかっていわれれば、そういうところが似てると思うし、なんか言わなくていいことを言って、平気で相手をコキオロシたりするところは、おふくろに似てるし… (笑) <ref name="Sanop62"/>。」という。 |
− | + | :; 晩年 | |
− | + | :: 晩年には今まで家になかった[[仏壇]]をしつらえて、毎朝出勤する前に必ず合掌して[[お経]]を上げるようになったという<ref>石原慎太郎『法華経を生きる』99頁</ref>。 | |
− | : [[1962年]] | + | :: 慎太郎によれば、「朝など時折、前夜の接待が遅くまでになって、好きではあったが医者に禁じられている酒を毒と知りつつ自らに強いて接待に努め疲れて戻った父が、眠りも足りなかったのだろう、[[高血圧]]のせいもあって、舌がもつれて[[お経]]を読む声がいつもと違って少し呂律が回らず、自分でもそれがわかるのかいらいらしながら同じ部分を何度も唱えなおしているのを床の中で聞きながら、子供なりに心を痛めたのを覚えています。そして結局父は五十一歳で、当時としても若死にしました」という<ref>石原慎太郎『法華経を生きる』100頁</ref>。 |
− | + | :; 評価 | |
− | : [[1964年]] (昭和39年) 6月生 - | + | :: [[吉田司]]によれば、「石原潔は、その経歴を見ると、[[プロレタリア]]的な徒手空拳からたたき上げた[[中産階級]]の先駆的な例ですよね。だとすると、そのマイホーム主義の[[小ブルジョア|プチブル]]的な生活から転落しないように会社に忠誠を誓い一生懸命家族を守った。[[小樽市|小樽]]の『[[蟹工船]]』的な、蜂起するぞ!みたいな都市下層民がいっぱいいる中で、おそらく慎太郎と[[石原裕次郎|裕次郎]]の兄弟は、冬になれば[[暖炉]]の前でぽかぽかという生活だったと思うんだけど。さらに言えば、潔は、もう一段階上の、[[エスタブリッシュメント]]へと移行しようとしたのではないか。」という<ref>『石原慎太郎よ、退場せよ!』42頁</ref>。 |
− | + | :: [[佐野眞一]]によれば、「慎太郎、裕次郎兄弟は十代から湘南の海で[[ヨット]]を乗り回した<ref name="Sanop32">『てっぺん野郎─本人も知らなかった石原慎太郎』32頁</ref>。その[[ブルジョワ]]的イメージから、そもそもからして[[富豪|資産家]]階級の出身だと思われがちである<ref name="Sanop32"/>。父親も大学出の[[エリート]][[サラリーマン]]だったと思うのが一般的な見方だろう<ref name="Sanop32"/>。だが実際の潔は中学もまともに[[卒業]]せず、当時飛ぶ鳥を落とす勢いの船会社にもぐりこんだとはいえ“[[痰]][[壺]]洗い”という最末端の仕事から這いあがっていかざるをえない男だった<ref name="Sanop32"/>。肉体労働者階級出身でありながら、そんなことはおくびにも出さずリッチな生活はあたかも天与のものだったかのごときにふるまう<ref name="Sanop33">『てっぺん野郎─本人も知らなかった石原慎太郎』33頁</ref>。イメージと現実のこのあまりにも大きすぎる落差のなかに、慎太郎という男の謎を解く一つのカギがかくされている<ref name="Sanop33"/>。」という。 | |
− | : [[1966年]] (昭和41年) 生 - | + | * 母・'''光子'''(加藤三之助の娘) |
− | + | : [[File:Ishihara Mituko.jpg|thumb|150px|right|<div style="text-align:center">母・石原光子<br/>(神戸第二高女時代)</div>]] | |
− | + | : [[1909年]]([[明治]]42年)9月生 - [[1992年]]([[平成]]4年)6月没。 | |
− | + | :; 生い立ち | |
− | + | :: [[2002年]](平成14年)[[2月24日]]に[[テレビ朝日]]系で放送された『[[グレートマザー物語]]』では、光子は[[広島県]]の生まれと紹介しているが<ref name="tv-asahi-mother-20224"/>、[[佐野眞一]]によると、「光子の出生地は[[大阪]]だが、大阪での生活は短く、父加藤三之助とともにまもなく広島県[[厳島]]に移った<ref name="Sanop64">『てっぺん野郎─本人も知らなかった石原慎太郎』64頁</ref>」という。母・徳は光子が生まれた翌年に死亡し、父・三之助は2年後に後妻を迎えた<ref name="Sanop64"/>。 | |
− | + | :; 厳島での生活 | |
− | + | :: 加藤家は[[厳島神社]]の[[参道]]で[[土産物]]屋を開いた<ref name="Sanop64"/>。光子がいくつのとき厳島に移ってきたかははっきりしない<ref name="Sanop64"/>。光子は[[大正]]末期か[[昭和]]のはじめ頃に厳島を出ていった<ref name="Sanop64"/>。地元の古老によれば「光子が厳島を出ていったのは、[[継母]]との折り合いが悪かったからだろう」という<ref name="Sanop64"/>。 | |
− | : [[1940年]] (昭和15年) 3月生 - | + | :; 神戸での生活、結婚 |
− | : 最初、潔の[[戸籍]]に入っていたが、のち他家に[[養子]] | + | :: 厳島を出た光子が誰を頼って神戸に出たかについてははっきりしていない<ref name="Sanop64"/>。慎太郎によれば「神戸ではおばさんの家に寄宿していたんでしょう。その家は[[三宮]]にあって、[[貿易]]商だったみたいですよ。そこに預けられたけれど、[[従姉妹]]にあたる娘となかなかそりがあわなくて、ずいぶん意地悪されたって言ってましたけど。それで(第二高女を卒業後)東京に行ったんだという言い方をしてましたけどね。名前はたしかタケウチさんといったかな。」という<ref name="Sanop65">『てっぺん野郎─本人も知らなかった石原慎太郎』65頁</ref>。 |
− | : 佐野眞一によれば、「潔の故郷の[[八幡浜市|八幡浜]] | + | :: 光子の神戸での寄宿先は竹内五一商店という貿易商だった<ref name="Sanop66">『てっぺん野郎─本人も知らなかった石原慎太郎』66頁</ref>。佐野眞一によれば「竹内五一商店の[[登記簿]]謄本をとってみると、出資者の一人に、光子の実父の加藤三之助の名前があった。慎太郎は、潔と光子の[[見合い]]は[[芦屋]]に住む河野という女性が仲介したという話は聞いているが、それ以外は知らない、といった。しかし光子の寄宿先が実父も出費するある程度の貿易商だったことや、その出先機関と思われる事務所が、山下汽船本社のすぐ近くにあったことなどを考えあわせれば、この見合いは、山下汽船との仕事の関係のなかで進められた可能性が大きい。」という<ref name="Sanop64"/>。 |
− | : 佐野眞一によれば、「"父”という真砂 | + | :: [[1927年]](昭和2年)3月に神戸市立第二[[高等女学校]] (現[[神戸市立須磨高等学校|神戸市立須磨高校]]) を卒業した<ref name="Sanop62">『てっぺん野郎─本人も知らなかった石原慎太郎』62頁</ref>。第二高女を卒業した光子は絵描きを目指して上京した<ref name="Sanop66">『てっぺん野郎─本人も知らなかった石原慎太郎』66頁</ref>。 |
− | + | :; 評価 | |
+ | :: 佐野眞一によれば「潔は光子と[[見合い]]だったにもかかわらず、慎太郎は結婚から二か月足らずで誕生している<ref name="Sanop68">『てっぺん野郎─本人も知らなかった石原慎太郎』68頁</ref>。男女の間に何があっても不思議はないが、それにしてもちょうど十歳年の離れた潔と光子の組み合わせは、奇妙といえば奇妙である<ref name="Sanop68"/>。一方は、没落した一家から中学も出ぬまま、[[大正]][[バブル]]そのものともいえる海運会社に入った店童 (てんどう) あがりのサラリーマン<ref name="Sanop68"/>。一方は、複雑な家庭環境で育ち、[[画家|絵描き]]になることを夢みた、やや自己演出するところのある[[高等女学校|高女]]出の女性<ref name="Sanop68"/>。この夫婦は[[明治]]の村落共同体が崩壊し、都市[[小ブルジョア|プチブル]]層が澎湃 (ほうはい) として誕生してきた[[大正]]という時代の典型的カップルだったともいえる<ref name="Sanop68"/>。」という。 | ||
+ | [[File:Shori-sha poster detail.jpg|thumb|150px|right|弟・[[石原裕次郎|裕次郎]]]] | ||
+ | * 弟・'''[[石原裕次郎|裕次郎]]''' ([[俳優]]、歌手) | ||
+ | : [[1934年]]([[昭和]]9年)12月生 - [[1987年]](昭和62年)7月没。 | ||
+ | :* 同妻・'''[[石原まき子|まき子]]''' (元[[俳優|女優]]) | ||
+ | :* 子どもはない | ||
+ | * 妻・'''[[石原典子|典子]]'''(石田光治の娘) | ||
+ | : [[1938年]](昭和13年) 1月生 - | ||
+ | : 典子の父親石田光治は落下傘の[[紐]]などを製造する東洋麻糸という[[紡績]][[会社]]に勤めていた<ref name="Sanop259">『てっぺん野郎─本人も知らなかった石原慎太郎』259頁</ref>。典子は父光治が同社の彦根工場に赴任し召集令状を受け中国戦線に出征した後、母方の実家のある[[広島市]]己斐町 (現・[[西区 (広島市)|西区]]己斐) で生まれた<ref name="Sanop259"/>。光治は典子が生まれて十ヵ月後の1938年 (昭和13年) 秋、中支の攻略戦で敵の弾丸を受け、胸部貫通銃創で戦死した<ref name="Sanop259"/>。 | ||
+ | : 典子が慎太郎と母同士が知り合いだった関係で出会い、淡い憧れのような感情を抱いたのは12歳の頃だったという<ref name="Sanop255">『てっぺん野郎─本人も知らなかった石原慎太郎』255頁</ref>。典子の母政子と慎太郎の母[[石原光子|光子]]が知り合ったのは[[宗教]]活動を通じてだった<ref name="Sanop255"/>。 | ||
+ | : 結婚について慎太郎は[[阿川佐和子]]との対談で「まあね、面倒臭いからしちゃったんですよねえ<ref name="Sanop262">『てっぺん野郎─本人も知らなかった石原慎太郎』262頁</ref>。今でいう[[ラブホテル]]から二人で出てくるのを[[親戚]]に見つかって、おっかないおばあさんにいいつけられちゃった (笑) <ref name="Sanop262"/>。それで、呼びつけられて"切れるか[[結婚]]するか、どっちだ?”って言われて、しょうがないから"結婚します"って決心しちゃったのよ (笑) <ref name="Sanop263">『てっぺん野郎─本人も知らなかった石原慎太郎』263頁</ref>」と述べている。 | ||
+ | * 長男・'''[[石原伸晃|伸晃]]'''(政治家) | ||
+ | : [[1957年]](昭和32年)4月生 - | ||
+ | :* 同妻・'''[[田中理佐|里紗]]'''(元女優・[[タレント]]) | ||
+ | * 次男・'''[[石原良純|良純]]'''(俳優・タレント、[[気象予報士]]) | ||
+ | : [[1962年]] (昭和37年) 1月生 - | ||
+ | * 三男・'''[[石原宏高|宏高]]'''(銀行員、政治家) | ||
+ | : [[1964年]](昭和39年) 6月生 - | ||
+ | * 四男・'''[[石原延啓|延啓]]''' ([[画家]]) | ||
+ | : [[1966年]](昭和41年) 生 - | ||
+ | * '''末弟'''(あるいは'''従兄弟''') | ||
+ | : [[1940年]](昭和15年) 3月生 - | ||
+ | : 最初、潔の[[戸籍]]に入っていたが、のち他家に[[養子]]縁組した<ref name="Sanop154">『てっぺん野郎─本人も知らなかった石原慎太郎』154頁</ref>。この男性によれば、父親は潔ではなく潔の弟の真砂 (まさご) であるという<ref name="Sanop154"/>。なおこの男性の"父"という真砂 (まさご) と"母"という女性の間に正式の[[婚姻]]関係はない<ref name="Sanop153">『てっぺん野郎─本人も知らなかった石原慎太郎』153頁</ref>。この男性が[[養子]]縁組した祖母の家と、[[山下亀三郎]]の生家は直接の血縁関係はないが、遠い縁戚にあたる<ref name="Sanop154"/>。 | ||
+ | : 佐野眞一によれば、「潔の故郷の[[八幡浜市|八幡浜]]周辺を取材中、潔に関する思わぬ話を耳にした<ref name="Sanop147">『てっぺん野郎─本人も知らなかった石原慎太郎』147頁</ref>。潔には前妻との間にもうけた小河氏、慎太郎、[[石原裕次郎|裕次郎]]兄弟のほかにもう一人子どもがいるという<ref name="Sanop147"/>。 (中略) 町起こしの起爆剤として、[[八幡浜市|八幡浜]]にも小樽の[[石原裕次郎記念館|裕次郎記念館]]のようなものをつくれないか<ref name="Sanop148">『てっぺん野郎─本人も知らなかった石原慎太郎』148頁</ref>。そう考えた町の有力者が、石原家が間違いなく八幡浜に[[ルーツ]]をもつかどうかを確認するため、[[戸籍]]をとったところ、潔にもうひとりの息子がいるという事実が判明したという<ref name="Sanop148"/>。この有力者に会うと、驚いたことに、その場で戸籍をそっくり見せた<ref name="Sanop148"/>。そこには確かに、噂を裏付ける事実が記載されていた<ref name="Sanop148"/>。父の欄には潔、母の欄には光子とあり、[[1940年|昭和十五年]]三月七日出生の三男と書かれている<ref name="Sanop148"/>。出生地は[[小樽]]の松ヶ枝町となっている<ref name="Sanop148"/>。」という。 | ||
+ | : 佐野眞一によれば、「"父”という真砂 (まさご) を生まれる前に亡くし、“母”という女性もまた彼を生んで間もなく別の男性と再婚するという不幸な境遇そのままに、彼の両親についての記憶ははなはだおぼろげだった<ref name="Sanop152">『てっぺん野郎─本人も知らなかった石原慎太郎』152頁</ref>。それに比べると、一度しか会ったことがないという潔の思い出は、なぜか鮮明な残像を結んでいるような気がした<ref name="Sanop152"/>。潔はよその女との間に生まれた子どもを、死んだ真砂 (まさご) の妻の実家の戸籍に因果を含めて入れたのか<ref name="Sanop155">『てっぺん野郎─本人も知らなかった石原慎太郎』155頁</ref>。それとも、これとはまったく逆に、道ならぬ関係となった女性との間に子をなしながら、顔も見ずに他界した弟の真砂 (まさご) と、その真砂に先立たれた女性、そして二人の間に生まれた一粒種の境遇を不憫に思い、男気を出して自らの戸籍に入れたのか<ref name="Sanop156">『てっぺん野郎─本人も知らなかった石原慎太郎』156頁</ref>。単に自分本位の勝手なふるまいだったともとれるし、意外に繊細な心遣いだったともとれる<ref name="Sanop156"/>。そのどちらだったかは、もはや誰にもわからない<ref name="Sanop156"/>。ただここではっきり言えるのは、潔につながるもう一人の血族が、慎太郎、[[石原裕次郎|裕次郎]]とはまったく別の影のような人生をおくり、いまひっそりと老境に入ろうとしていることだけである<ref name="Sanop156"/>。」という。 | ||
+ | * 異母兄('''小河姓''') | ||
: 父・潔が先妻との間にもうけた子。 | : 父・潔が先妻との間にもうけた子。 | ||
− | : 潔の[[姉]]壽万 | + | : 潔の[[姉]]壽万 (すま) 夫婦に子供がなかったため[[養子]]に行った。[[1952年]] ([[昭和]]27年) 、神戸商大を卒業して[[山下汽船]]と同じ[[資本]]系列にある第一汽船に入社した。<ref>『てっぺん野郎─<small>本人も知らなかった石原慎太郎</small>』48-54頁</ref> |
− | + | * 伯母・'''壽万''' (すま、[[教員]]) | |
− | :父・潔の姉、異母兄 | + | : 父・潔の姉、異母兄 (小河姓) の[[養母]]。 |
− | :慎太郎によれば「壽万 | + | : 慎太郎によれば「壽万 (すま) さんという伯母さんは苦労して資格をとって学校の先生になった」という。<ref>『てっぺん野郎─本人も知らなかった石原慎太郎』47頁</ref> |
− | :慎太郎の異母兄 | + | : 慎太郎の異母兄 (小河姓) によれば「(壽万 (すま) の夫は)一時[[獣医]]をやっていましたが、すぐにやめて[[明石市]]の[[市役所]]の公吏になりました<ref name="Sanop50">『てっぺん野郎─本人も知らなかった石原慎太郎』50頁</ref>。仕事は[[税務]]関係です<ref name="Sanop50"/>。[[養母]]も明石小学校の[[教員]]をやっとったから、生活的には困ったことはありません<ref name="Sanop50"/>」という。 |
− | + | * 伯父・'''克己'''、'''静夫''' | |
− | :父・潔の兄。 | + | : 父・潔の兄。 |
− | + | : [[1944年]]([[昭和]]19年)から敗戦までは、[[家制度|本家]]である克己の石原家は[[八幡浜市|八幡浜]]から[[今治市|今治]]に[[疎開]]していた<ref name="Sanop39">『てっぺん野郎─本人も知らなかった石原慎太郎』39頁</ref>。 | |
− | :[[1939年]] ([[昭和]] | + | * 叔父・'''真砂'''(まさご) |
− | :父・潔の弟。 | + | : [[1939年]]([[昭和]]14年)没 |
− | : | + | : 父・潔の弟。 |
− | :慎太郎によれば「潔は自分が行きたくとも行けなかった[[大学]]に、末弟の真砂 | + | : 真砂(まさご)の息子によれば「真砂は宇和島中学時代から[[ボート]]をやっていたそうです<ref name="Sanop155"/>。そこを卒業後進んだ[[拓殖大学|拓大]]でも[[ボート]]部に入り、エイトの選手だったと聞いています<ref name="Sanop155"/>。」という。 |
− | + | : 慎太郎によれば「潔は自分が行きたくとも行けなかった[[大学]]に、末弟の真砂 (まさご) だけはどうしても行かせたいと、[[学費]]を工面して[[東京]]の[[拓殖大学|拓大]]に行かせた<ref name="Sanop155"/>。」という。 | |
− | :父・潔の妹。 | + | * 叔母・'''美壽'''(みす) |
− | + | : 父・潔の妹。 | |
− | : [[1996年]] (平成8年) 3月、慎太郎の[[愛人]] | + | * [[認知]]した子('''男'''、元[[ホステス]]との間に出生、1994年認知) |
+ | : [[1996年]](平成8年) 3月、慎太郎の[[愛人]]問題が発覚<ref name="Sanop404">『てっぺん野郎─本人も知らなかった石原慎太郎』404頁</ref>。このスキャンダルをスクープした写真週刊誌は、「愛人は[[銀座]]の高級クラブの元ホステスで、二人の間には一九八〇年代はじめに生まれた男の子もいる<ref name="Sanop404"/>。母子はいま母の故郷の雪深い町でひっそりと暮している。」と報じた<ref name="Sanop404"/>。 | ||
− | + | ; 山下家と石原家の縁戚説について | |
− | ; | + | : [[佐野眞一]]によれば「[[山下亀三郎|亀三郎]]と石原潔の関係についてはいろいろといわれている<ref name="Sanop34">『てっぺん野郎─本人も知らなかった石原慎太郎』34頁</ref>。それは、店童 (てんどう) <ref name="Tendoup31-32"/>あがりの潔が、[[関連会社]]とはいえ、最後は[[重役]]にとりあげられたことと関連している<ref name="Sanop34"/>。大学出でもない潔が、重役にまで出世するわけがない。亀三郎の強いひきのようなものがあったに違いない、というのが世間一般の見方である<ref name="Sanop34"/>。 |
− | + | : … (中略) …慎太郎 は“石原家と[[山下亀三郎|亀三郎]]の間には血縁関係があるのですか”という質問に (亀三郎さんとは) "縁戚だと聞きました<ref name="Sanop35">『てっぺん野郎─本人も知らなかった石原慎太郎』35頁</ref>。ウソか本当か知りませんけど、そう聞いた憶えがあります<ref name="Sanop35"/>。"といって山下家と石原家の縁戚説をあえて否定はしなかった<ref name="Sanop35"/>。これに対し亀三郎を[[大叔父]]にもち、吉田町にある亀三郎の生家をいまも守る現山下家当主の山下源一郎は“山下家の係累の中に石原の名前はありません<ref name="Sanop35"/>。聞いたこともないし、[[系図]]にも出てきません<ref name="Sanop35"/>。”と血のつながりをきっぱり否定した<ref name="Sanop35"/>」という。 | |
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− | :[[佐野眞一]]によれば「[[山下亀三郎|亀三郎]] | + | |
− | :… | + | |
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− | < | + | ; 小泉家との関係 |
− | + | : 妻典子の従兄弟の子にあたる美枝子が政治家の[[小泉純一郎]] (元首相) の実弟・正也と結婚した。<ref>慎太郎は小泉が首相に就任する以前のインタビューで「小泉君は女房と同じ横須賀の出身で、[[親戚]]筋なんだ。血がつながってないんで、ほっとしているけど (笑) 」と述べている (系図でみる近現代より) </ref> | |
− | + | ||
− | + | === 系図 === | |
− | + | <div style="font-size:80%"> | |
− | + | {{familytree/start}} | |
− | + | {{familytree|border=1| | | | |mata|-|yoshi| | | | |mata=[[小泉又次郎]]|yoshi=[[小泉芳江|芳江]]}} | |
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+ | {{familytree|border=1| | | | | | | | |maki | |||maki=[[石原まき子|まき子]]}} | ||
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+ | </div> | ||
== 著書 == | == 著書 == | ||
=== 創作 === | === 創作 === | ||
− | * [[太陽の季節]] 新潮社、 | + | {{Multicol}} |
+ | * [[太陽の季節]] 新潮社、 (1956年[[芥川龍之介賞|芥川賞]]受賞・1955年[[文学界新人賞]]受賞) のち新潮文庫 ISBN 4-10-111901-5 | ||
* 北壁 三笠書房 1956 | * 北壁 三笠書房 1956 | ||
− | * [[狂った果実 | + | * [[狂った果実 (小説)|狂った果実]] 新潮社、1956 のち角川文庫 |
* 日蝕の夏 三笠書房 1956 | * 日蝕の夏 三笠書房 1956 | ||
* 理由なき復讐 三笠書房 1956 | * 理由なき復讐 三笠書房 1956 | ||
* 若い獣 新潮社 1957 のち角川文庫 | * 若い獣 新潮社 1957 のち角川文庫 | ||
− | * 完全な遊戯 新潮社、1958 のち角川文庫 | + | * [[完全な遊戯]] 新潮社、1958 のち角川文庫 |
− | ** | + | ** (完全な遊戯、若い獣、乾いた花、[[鱶女]]、[[ファンキー・ジャンプ]]、狂った果実) |
* 海の地図 角川書店 1958 のち文庫 | * 海の地図 角川書店 1958 のち文庫 | ||
* 亀裂 文藝春秋新社、1958 のち角川文庫、新潮文庫 1960, ISBN 4-10-111902-3 | * 亀裂 文藝春秋新社、1958 のち角川文庫、新潮文庫 1960, ISBN 4-10-111902-3 | ||
1,008行目: | 1,021行目: | ||
* 野蛮人のネクタイ 読売新聞社 1968 のち集英社文庫 | * 野蛮人のネクタイ 読売新聞社 1968 のち集英社文庫 | ||
* 鎖のついた椅子 新潮社 1969 | * 鎖のついた椅子 新潮社 1969 | ||
− | * 化石の森 | + | {{Multicol-break}} |
+ | * 化石の森 ([[芸術選奨]]文部大臣賞受賞) 新潮社 1970 のち文庫 | ||
* 野蛮人の大学 集英社 1971 のち文庫 | * 野蛮人の大学 集英社 1971 のち文庫 | ||
* 信長記 河出書房新社 1972 | * 信長記 河出書房新社 1972 | ||
1,021行目: | 1,035行目: | ||
* 一点鐘 集英社 1979 | * 一点鐘 集英社 1979 | ||
* 亡国 日本の突然の死 角川書店 1982 のち文庫 | * 亡国 日本の突然の死 角川書店 1982 のち文庫 | ||
− | * 大いなる海へ 舵社 1983 | + | * 大いなる海へ 舵社 1983 (海洋文庫) |
* 秘祭 新潮社 1984 のち文庫 | * 秘祭 新潮社 1984 のち文庫 | ||
− | * 生還 | + | * 生還 ([[平林たい子賞]]受賞) 新潮社 1988 ISBN 4-10-301505-5 |
* 不思議な不思議な航海 白泉社 1990[絵本] | * 不思議な不思議な航海 白泉社 1990[絵本] | ||
− | * わが人生の時の時 新潮社 1990 のち文庫 | + | * [[わが人生の時の時]] 新潮社 1990 のち文庫 |
* 十代のエスキース 成瀬書房 1991[画集] | * 十代のエスキース 成瀬書房 1991[画集] | ||
* 遭難者 新潮社 1992 | * 遭難者 新潮社 1992 | ||
* 風についての記憶 集英社 1994 のち幻冬舎文庫 ISBN 4-08-774059-5 | * 風についての記憶 集英社 1994 のち幻冬舎文庫 ISBN 4-08-774059-5 | ||
* わが人生の時の会話 集英社 1995 のち幻冬舎文庫 ISBN 4-08-774163-X | * わが人生の時の会話 集英社 1995 のち幻冬舎文庫 ISBN 4-08-774163-X | ||
− | * 弟 | + | * 弟 ([[毎日出版文化賞]]特別賞受賞) 幻冬舎 1996 のち文庫 ISBN 4-87728-119-3 |
* 肉体の天使 新潮社 1996 | * 肉体の天使 新潮社 1996 | ||
* 聖餐 幻冬舎 1999 のち文庫 ISBN 4-87728-306-4 | * 聖餐 幻冬舎 1999 のち文庫 ISBN 4-87728-306-4 | ||
* 僕は結婚しない 文藝春秋 2001 のち文庫 ISBN 4-16-320380-X | * 僕は結婚しない 文藝春秋 2001 のち文庫 ISBN 4-16-320380-X | ||
− | * 『石原愼太郎の文学』全10巻 文藝春秋 2007 | + | * 『石原愼太郎の文学』全10巻 文藝春秋 2007 (以下が収録作品。括弧の数字は収録巻) |
− | ** 刀鋼 | + | ** 刀鋼 (はがね) (1) ISBN 4-16-641580-8 |
− | ** 化石の森 | + | ** 化石の森 (2) |
− | ** 亀裂 | + | ** 亀裂 (3) |
− | ** 死の博物誌 | + | ** 死の博物誌 (3) |
− | ** 星と蛇 | + | ** 星と蛇 (4) |
− | ** 風についての記憶 | + | ** 風についての記憶 (4) |
− | ** 行為と死 | + | ** 行為と死 (5) |
− | ** 暗殺の壁画 | + | ** 暗殺の壁画 (5) |
− | ** 光より速きわれら | + | ** 光より速きわれら (6) |
− | ** 秘祭 | + | ** 秘祭 (6) |
− | ** 生還 | + | ** 生還 (7) |
− | ** 弟 | + | ** 弟 (7) |
− | ** わが人生の時の時 | + | ** わが人生の時の時 (8) |
− | ** 短編集I『太陽の季節』『完全な遊戯』 | + | ** 短編集I『太陽の季節』『完全な遊戯』 (9) |
− | ** 短編集II『遭難者』 | + | ** 短編集II『遭難者』 (10) |
* 火の島 文藝春秋、2008 | * 火の島 文藝春秋、2008 | ||
* 生死刻々 文藝春秋、2009 | * 生死刻々 文藝春秋、2009 | ||
* 再生 文藝春秋、2010 | * 再生 文藝春秋、2010 | ||
+ | {{Multicol-end}} | ||
+ | |||
+ | === 短編作品 === | ||
+ | * 灰色の教室 一橋文芸 復刊第1号、1954年12月 | ||
+ | * 太陽の季節 文學界 1955年7月号 | ||
+ | * 冷たい顔 文學界 1955年9月号 | ||
+ | * 取り返せぬもの 新女苑 11月号 | ||
+ | * 奪われぬもの 文學界 1956年2月号 | ||
+ | * 処刑の部屋 新潮 1956年3月号 | ||
+ | * 日蝕の夏 別冊文藝春秋 50号、1956年3月 | ||
+ | * 失われた女 新女苑 1956年3月号 | ||
+ | * 北壁 新潮 1956年6月号 | ||
+ | * 空港にて 別冊文藝春秋 52号、1956年6月 | ||
+ | * 悪い夢 小説新潮 1956年6月号 | ||
+ | * 透きとおった時間 文學界 1956年7月号 | ||
+ | * 狂った果実 オール讀物 1956年7月号 | ||
+ | * 婚約指輪 小説公園 1956年7月号 | ||
+ | * 青い舷燈 知性 1956年8月号 | ||
+ | * 傷痕 別冊文藝春秋 54号、1956年10月 | ||
+ | * 恋の戯れ 新潮 1956年11月号 | ||
+ | * 男だけ 別冊文藝春秋 55号、1956年11月 | ||
+ | * 舞扇 小説春秋 1956年12月号 | ||
+ | * ヨットと少年 理由なき復讐 (三笠書房、1956年)に書き下ろし | ||
+ | * 若い獣 文藝春秋 1957年1月号 | ||
+ | * 旅の果て 文藝 1957年1月号 | ||
+ | * 接吻泥棒 オール讀物 1957年2月号 | ||
+ | * 蟷螂の庭 新潮 1957年4月号 | ||
+ | * 白い翼の男 別冊文藝春秋 58号、1957年6月 | ||
+ | * 谷川 知性 1957年8月号 | ||
+ | * 完全な遊戯 新潮 1957年10月号 | ||
+ | * ギンザ・ファンタジア オール讀物 1957年10月号 | ||
+ | * それだけの世界 別冊文藝春秋 61号、1957年12月 | ||
+ | * 栄光を白き腕に 小説新潮 1958年1月号 | ||
+ | * 水中花 宝石 1958年2月号 | ||
+ | * 乾いた花 新潮 1958年6月号 | ||
+ | * 怒りの果実 オール讀物 1958年6月号 | ||
+ | * 男の掟 別冊文藝春秋 65号、1958年8月 | ||
+ | * 鱶女 文學界 1958年10月号 | ||
+ | * 遊戯の終点 小説新潮 1958年10月号 | ||
+ | * 不死鳥 オール讀物増刊 スポーツ読本 1958年10月号 | ||
+ | * 夜の道 新潮 1959年7月号 | ||
+ | * 太陽の餌 聲 4号、1959年7月 | ||
+ | * ファンキー・ジャンプ 文學界 1959年8月号 | ||
+ | * ともだち 新潮 1959年8月号 | ||
+ | * 顔のない男 オール讀物 1959年8月号 | ||
+ | * 男たち 文學界 1959年10月号 | ||
+ | * 殺人キッド 中央公論 文芸特集臨時増刊号、1959年10月 | ||
+ | * 殺人教室 日本 1959年10月号 | ||
+ | * 見知らぬ顔 小説新潮 1959年10月号 | ||
+ | * 題名のないバラード 小説新潮 1959年4月号 | ||
+ | * 十八歳 小説中央公論 臨時増刊号、1960年7月 | ||
+ | * 黒い声 オール讀物 1960年7月号 | ||
+ | * 誰 小説新潮 1960年8月号 | ||
+ | * 神立ち船 小説新潮 1960年10月号 | ||
+ | * ファンキーな出会い 〈恋のもざいく(1)〉 女性自身 1960年9月28日号 | ||
+ | * 最後の接吻 〈恋のもざいく(2)〉 女性自身 1960年10月5日号 | ||
+ | * 海は許す 〈恋のもざいく(3)〉 女性自身 1960年10月12日号 | ||
+ | * ある別れ 〈恋のもざいく(4)〉 女性自身 1960年10月19日号 | ||
+ | * 声 小説中央公論 第2号、1960年10月 | ||
+ | * 密航 別冊文藝春秋 74号、1960年12月 | ||
+ | * 吹きっさらし 小説中央公論 1961年1月号 | ||
+ | * 紅い祭礼 小説新潮 1961年1月号 | ||
+ | * 死んでいく男の肖像 オール讀物 1961年1月号 | ||
+ | * 失われた道標 別冊文藝春秋 1961年3月 | ||
+ | * 鴨 中央公論 1961年4月号 | ||
+ | * 人間 新潮 1961年5月号( 死の博物誌 に収録) | ||
+ | * 花火 小説新潮 1961年8月号 | ||
+ | * 喪われた街 オール讀物 1961年9月号 | ||
+ | * 十年選手 別冊文藝春秋 1961年9月号 | ||
+ | * 腕 小説新潮 1961年11月号( 死の博物誌 に収録) | ||
+ | * フィッシング・ボートの日記 日本 1961年11月号 | ||
+ | * 明日に船出を 別冊文藝春秋 78号、1961年12月 | ||
+ | * 鼓斬り オール讀物 1962年2月号 | ||
+ | * 朝の微笑 新潮 1962年2月号 | ||
+ | * 小さき闘い 文學界 1962年8月号( 死の博物誌 に収録) | ||
+ | * 青い島白い波 別冊文藝春秋 81号、1962年9月 | ||
+ | * 顔のない女 別冊文藝春秋 82号、1962年12月 | ||
+ | * 閉ざされた部屋 文學界 1963年1月号 | ||
+ | * 傷のある羽根 オール讀物 1963年1月号 | ||
+ | * 白い小さな焔 文藝 1963年2月号 | ||
+ | * 雲の上にいた 別冊文藝春秋 83号、1963年3月 | ||
+ | * 狼の王子 小説新潮 1963年4月号 | ||
+ | * 還らぬ海 文學界 1963年5月号 | ||
+ | * 弔鐘 オール讀物 1963年6月号 | ||
+ | * リキとタクとルリ 別冊文藝春秋 84号、1963年6月 | ||
+ | * 屍体 文藝 1963年8月( 死の博物誌 に収録) | ||
+ | * 裸の踊り子 オール讀物 1963年12月号 | ||
+ | * 悪い娘 別冊文藝春秋 86号、1963年12号 | ||
+ | * 鉛の部屋 小説現代 1964年5月号 | ||
+ | * 歴史の外で オール讀物 1964年7月号 | ||
+ | * 飛べ、狼 別冊文藝春秋 89号、1964年9月 | ||
+ | * 聖書 オール讀物 1964年12月号 | ||
+ | * 暴力 小説現代 1964年12月号 | ||
+ | * 虚無と貞操 別冊文藝春秋 90号、1964年12月 | ||
+ | * 一点鐘 風景 1965年1月号 | ||
+ | * 貧しい海 文藝春秋 1965年1月号 | ||
+ | * 大計画 オール讀物 1965年4月号 | ||
+ | * 錆色の塔 小説新潮 1965年5月号 | ||
+ | * 獅子の倒れた夜 日本 1965年7月号 | ||
+ | * 盲目の天使 別冊文藝春秋 93号、1965年9月 | ||
+ | * 灰波 文藝 1965年10月 | ||
+ | * 天使よ、俺を起こしてくれ オール讀物 1965年11月号 | ||
+ | * 水際の塑像 文藝 1966年1月号 | ||
+ | * 聖衣 小説現代 1966年1月号 | ||
+ | * 沈黙 文藝春秋 1966年3月号 | ||
+ | * 野生の庭 文藝 1966年5月号 | ||
+ | * 神の鎖 小説現代 1966年12月号 | ||
+ | * 失踪者 別冊文藝春秋 98号、1966年12月 | ||
+ | * 天使たちの革命 文藝 1967年1月号 | ||
+ | * 癌対策――革命の童話 オール讀物 19661967年1月号*1 | ||
+ | * 死に神と殺し屋 オール讀物 1967年1月号初出不明*2 | ||
+ | * 待伏せ 季刊藝術 1号、1967年4月 | ||
+ | * L・S・D 文學界 1968年2月号 | ||
+ | * 鎖のついた椅子 文學界 1969年2月号 | ||
+ | * 神異 文藝春秋 1969年2月号 | ||
+ | * 機密報告――ニッポンの危機 一九七×年 小説宝石 1969年2月号 | ||
+ | * 明月鏡 文藝 1971年1月号 | ||
+ | * 条約 文藝春秋 1972年1月号 | ||
+ | * 国家についての個人的会話――歴史の備忘ノート 別冊文藝春秋 118号、1971年12月 | ||
+ | * 桃花 文藝 1973年1月号(* 公人 と改題) | ||
+ | * 甘い毒 新潮 1973年7月号( 光より速きわれら に収録) | ||
+ | * 救済 文學界 1973年7月号 | ||
+ | * 天体 新潮 1973年8月号( 光より速きわれら に収録) | ||
+ | * 院内 文學界 1974年1月号 | ||
+ | * 孤島 新潮 1974年1月号 | ||
+ | * 饗宴 新潮 1974年12月号( 光より速きわれら に収録) | ||
+ | * 視つめている眼 別冊文藝春秋 132号、1975年6月 | ||
+ | * 舞踏 文藝 1975年8月号( 光より速きわれら に収録) | ||
+ | * パティという娼婦 野性時代 1978年6月号 | ||
+ | * ボストンの夜 文藝 1981年8月号 | ||
+ | * きょうだい すばる 1990年8月号 | ||
+ | * ある行為者の回想 新潮 1992年1月号 | ||
+ | * 遭難者 新潮 1992年5月号 | ||
+ | * 風の使途たち すばる 1992年8月号( 風についての記憶 に収録) | ||
+ | * 風の罠 すばる 1993年1月号( 風についての記憶 に収録) | ||
+ | * 風についての記憶 すばる 1993年10月号( 風についての記憶 に収録) | ||
+ | * 山からの声 新潮 1994年10月号 | ||
+ | * 海からの声 新潮 1994年11月号 | ||
+ | * 肉体の天使 新潮 1996年1月号 | ||
+ | * 沢より還る 新潮 1996年9月号 | ||
+ | * 海にはすべて 新潮 1998年1月号 | ||
+ | * 空からの声 すばる 1999年3月号 | ||
+ | * 青木ヶ原 新潮 2000年1月号 | ||
+ | * 生き残りの水兵 新潮 2001年2月号 | ||
+ | * ブラックリング 新潮 2002年1月号 | ||
+ | * 夢のつづき――続 青木ケ原 文學界 2010年7月号 | ||
+ | * 夢々々 文學界 2011年3月 | ||
+ | * 世の中おかしいよ 文學界 2012年4月号 | ||
+ | * 僕らは仲が良かった 文學界 2013年1月号 | ||
+ | * 連作短篇集「やや暴力的に」文藝界 2013年10月号 | ||
=== その他 === | === その他 === | ||
+ | {{Multicol}} | ||
* 青春にあるものとして 河出書房 1956 | * 青春にあるものとして 河出書房 1956 | ||
* 価値紊乱者の光栄 凡書房 1958 | * 価値紊乱者の光栄 凡書房 1958 | ||
1,060行目: | 1,225行目: | ||
* 南米横断一万キロ 講談社 1960 | * 南米横断一万キロ 講談社 1960 | ||
* 孤独なる戴冠 河出書房新社 1966 のち角川文庫 | * 孤独なる戴冠 河出書房新社 1966 のち角川文庫 | ||
− | * 青春との対話 | + | * 青春との対話 (人生のことば) 番町書房 1967 |
* 巷の神々 サンケイ新聞出版局 1967 | * 巷の神々 サンケイ新聞出版局 1967 | ||
* 怒りの像 サンケイ新聞社出版局 1968 のち角川文庫 | * 怒りの像 サンケイ新聞社出版局 1968 のち角川文庫 | ||
* 祖国のための白書 集英社 1968 | * 祖国のための白書 集英社 1968 | ||
− | * プレイボーイ哲学 集英社 | + | * プレイボーイ哲学 集英社 (プレイボーイ・ブックス) 1968 |
− | * スパルタ教育 強い子どもに育てる本 光文社 1969 | + | * スパルタ教育 強い子どもに育てる本 光文社 1969 (カッパ・ホームス) |
* 慎太郎の政治調書 講談社 1970 | * 慎太郎の政治調書 講談社 1970 | ||
* 慎太郎の第二政治調書 講談社 1971 | * 慎太郎の第二政治調書 講談社 1971 | ||
* 男の世界 集英社 1971 | * 男の世界 集英社 1971 | ||
− | * 真実の性教育 学校では教えない人間の性 光文社 1972 | + | * 真実の性教育 学校では教えない人間の性 光文社 1972 (カッパ・ホームス) |
* 酒盃と真剣 対話集 参玄社 1973 | * 酒盃と真剣 対話集 参玄社 1973 | ||
* 新和漢朗詠集 現代に息づく日本人の鼓動 いんなあとりっぷ 1973 | * 新和漢朗詠集 現代に息づく日本人の鼓動 いんなあとりっぷ 1973 | ||
* 対極の河へ 河出書房新社 1974 | * 対極の河へ 河出書房新社 1974 | ||
− | * 息子をサラリーマンにしない法 わが子よオレを越えて行け 光文社 1975 | + | * 息子をサラリーマンにしない法 わが子よオレを越えて行け 光文社 1975 (カッパ・ホームス) |
* 真の革新とはなにか 対論集 読売新聞社 1976 | * 真の革新とはなにか 対論集 読売新聞社 1976 | ||
* 伯爵夫人物語 ヨットと海を愛する歓び 集英社 1976 | * 伯爵夫人物語 ヨットと海を愛する歓び 集英社 1976 | ||
− | * 情熱のための航海 大和出版 1976 | + | * 情熱のための航海 大和出版 1976 (わが人生観) |
* 戦士の羽飾り 男の博物誌 角川書店 1979 | * 戦士の羽飾り 男の博物誌 角川書店 1979 | ||
* バカでスウェルな男たち 男の美学 プレジデント社 1984 | * バカでスウェルな男たち 男の美学 プレジデント社 1984 | ||
1,082行目: | 1,247行目: | ||
* 流砂の世紀に 新潮社 1985 | * 流砂の世紀に 新潮社 1985 | ||
* 現代史の分水嶺 文藝春秋 1987 のち文庫 | * 現代史の分水嶺 文藝春秋 1987 のち文庫 | ||
− | * 拝啓息子たちへ 父から四人の子へ人生の手紙 光文社 1987 | + | * 拝啓息子たちへ 父から四人の子へ人生の手紙 光文社 1987 (カッパ・ホームス) |
* 時の潮騒 日本と世界をめぐる父と子の14の対話 PHP研究所 1990 のち文庫 | * 時の潮騒 日本と世界をめぐる父と子の14の対話 PHP研究所 1990 のち文庫 | ||
* 光速の時代に PHP研究所 1991 | * 光速の時代に PHP研究所 1991 | ||
* 来世紀の余韻 中央公論社 1991 | * 来世紀の余韻 中央公論社 1991 | ||
* [[三島由紀夫]]の日蝕 新潮社 1991 ISBN 4-10-301507-1 | * [[三島由紀夫]]の日蝕 新潮社 1991 ISBN 4-10-301507-1 | ||
+ | {{Multicol-break}} | ||
* 禁断の島へ [[加納典明]]、大津善彦写真 集英社 1992 | * 禁断の島へ [[加納典明]]、大津善彦写真 集英社 1992 | ||
* かくあれ祖国 誇れる日本国創造のために 光文社 1994 | * かくあれ祖国 誇れる日本国創造のために 光文社 1994 | ||
1,108行目: | 1,274行目: | ||
* 私の好きな日本人 [[幻冬舎]] 2008 のち新書 | * 私の好きな日本人 [[幻冬舎]] 2008 のち新書 | ||
* 新・堕落論-我欲と天罰 2011 [[新潮新書]] ISBN 978-4106104268 | * 新・堕落論-我欲と天罰 2011 [[新潮新書]] ISBN 978-4106104268 | ||
+ | {{Multicol-end}} | ||
== 共著 == | == 共著 == | ||
1,115行目: | 1,282行目: | ||
* エベレスト 日本エベレスト・スキー探検隊の記録 [[三浦雄一郎]]共著 文藝春秋 1970 | * エベレスト 日本エベレスト・スキー探検隊の記録 [[三浦雄一郎]]共著 文藝春秋 1970 | ||
* 闘論 君は日本をどうするか [[野坂昭如]] 文藝春秋 1975 | * 闘論 君は日本をどうするか [[野坂昭如]] 文藝春秋 1975 | ||
− | * 「NO」と言える日本 | + | * 「NO」と言える日本 (共著: 盛田昭夫) 光文社カッパ・ホームス 1989 ISBN 4-334-05158-8 |
− | * それでも「NO」と言える日本 -日米間の根本問題- | + | * それでも「NO」と言える日本 -日米間の根本問題- (共著: [[渡部昇一]]・[[小川和久]]) 光文社 1990 ISBN 4-334-05174-X |
− | * 断固「NO」と言える日本 | + | * 断固「NO」と言える日本 (共著: [[江藤淳]]) 光文社 1991 ISBN 4-334-05184-7 |
* 「No」と言えるアジア 対欧米への方策 [[マハティール]] 光文社 1994 | * 「No」と言えるアジア 対欧米への方策 [[マハティール]] 光文社 1994 | ||
− | * 宣戦布告「NO」と言える日本経済 アメリカの金融奴隷からの解放 [[ | + | * 宣戦布告「NO」と言える日本経済 アメリカの金融奴隷からの解放 [[市川周]]共著 光文社 1998 ISBN 4-334-97190-3 |
* 「アメリカ信仰」を捨てよ 二〇〇一年からの日本戦略 一橋総合研究所共著 光文社 2000 | * 「アメリカ信仰」を捨てよ 二〇〇一年からの日本戦略 一橋総合研究所共著 光文社 2000 | ||
* 勝つ日本 [[田原総一朗]] 文藝春秋 2000 のち文庫 | * 勝つ日本 [[田原総一朗]] 文藝春秋 2000 のち文庫 | ||
1,125行目: | 1,292行目: | ||
* 人生への恋文-往復随筆 [[瀬戸内寂聴]] 世界文化社 2003 文春文庫 2008 | * 人生への恋文-往復随筆 [[瀬戸内寂聴]] 世界文化社 2003 文春文庫 2008 | ||
* 日本の力 田原総一朗 文藝春秋 2005 のち文庫 | * 日本の力 田原総一朗 文藝春秋 2005 のち文庫 | ||
− | * 生きる自信 | + | * 生きる自信 健康の秘密 [[石原結實]]対談 海竜社 2008 |
* 鍛える! 嫌われても憎まれても果たすべき大人の役割 [[松平康隆]]対談 小学館 2009 ISBN 978-4093878449 | * 鍛える! 嫌われても憎まれても果たすべき大人の役割 [[松平康隆]]対談 小学館 2009 ISBN 978-4093878449 | ||
== 作詩曲 == | == 作詩曲 == | ||
− | * [[狂った果実 (小説)#映画版|狂った果実]] | + | * [[狂った果実 (小説)#映画版|狂った果実]] (曲: [[佐藤勝]]、歌唱: 石原裕次郎) |
− | * [[青年の樹 | + | * [[青年の樹 (1960年の映画)|青年の樹]] (曲: [[山本直純]]、歌唱: [[三浦洸一]]) |
− | * [[夏の終わり]] | + | * [[夏の終わり]] (曲: 石原慎太郎、歌唱: [[ペギー葉山]]&石原慎太郎) |
− | * [[青年の国をつくろう]] | + | * [[青年の国をつくろう]] (曲: [[小林亜星]]、歌唱: 石原裕次郎) |
− | * [[泣きながら微笑んで]] | + | * [[泣きながら微笑んで]] (曲: 石原慎太郎、歌唱: 石原裕次郎) |
− | * [[さあ太陽を呼んでこい]] | + | * [[さあ太陽を呼んでこい]] (曲: 山本直純、歌唱: [[東京放送児童合唱団]]) |
== 翻訳 == | == 翻訳 == | ||
− | * | + | * ロバート・J.リンガー『型破りで勝つ!』三笠書房 1978 |
+ | |||
+ | == 外国語訳 == | ||
+ | * <i>Season of Violence. The Punishment Room. The Yacht and the Boy.<i> John G. Mills, Toshie Takahama & Ken Tremayne. Rutland, Vt. : C. E. Tuttle Co., 1966 (太陽の季節、処刑の部屋、ヨットと少年) | ||
+ | * <i> Undercurrents: Episodes from a Life on the Edge<i>(わが人生の時の時)Wayne P. Lammers 2006 | ||
+ | * <i>The Japan That Can Say NO<i> 『NOといえる日本』 | ||
+ | * <i>Le Japon sans Complexe<i> 『NOといえる日本』フランス語 | ||
== 関連作品 == | == 関連作品 == | ||
=== 映画 === | === 映画 === | ||
− | * [[太陽の季節#映画|太陽の季節]] | + | {{Multicol}} |
− | * [[処刑の部屋]] | + | * [[太陽の季節#映画|太陽の季節]] (1956年、原作・出演) |
− | * [[狂った果実 | + | * [[処刑の部屋]] (1956年、原作) |
− | * [[日蝕の夏]] | + | * [[狂った果実 (小説)#映画版|狂った果実]] (1956年、脚本・原作・出演) |
− | * [[婚約指輪 | + | * [[日蝕の夏]] (1956年、脚本・原作・出演) |
− | * [[月蝕 | + | * [[婚約指輪 (映画)|婚約指輪]] (1956年、脚本・原作・出演) |
− | * [[危険な英雄]] | + | * [[月蝕 (映画)|月蝕]] (1956年、原作) |
− | * [[穴 (1957年の映画)|穴]] | + | * [[危険な英雄]] (1957年、出演) |
− | * [[俺は待ってるぜ]] | + | * [[穴 (1957年の映画)|穴]] (1957年、唄・出演) |
− | * [[錆びたナイフ]] | + | * [[俺は待ってるぜ]] (1957年、脚本) |
− | * [[霧の中の男]] | + | * [[錆びたナイフ]] (1958年、脚本・原作) |
− | * [[死の壁の脱出]] | + | * [[霧の中の男]] (1958年、脚本・原作) |
− | * [[若い獣]] | + | * [[死の壁の脱出]] (1958年、脚本) |
− | * [[完全な遊戯]] | + | * [[若い獣]] (1958年、監督・脚本・原作) |
− | * [[海は狂っている]] | + | * [[完全な遊戯]] (1958年、原作) |
− | * [[海の地図]] | + | * [[海は狂っている]] (1959年、脚本・原作) |
− | * [[海底から来た女]] | + | * [[海の地図]] (1959年、原作) |
− | * [[夜を探がせ]] | + | * [[海底から来た女]] (1959年、脚本・原作) |
− | * [[青年の樹 | + | * [[夜を探がせ]] (1959年、原作) |
− | * [[接吻泥棒]] | + | * [[青年の樹 (1960年の映画)|青年の樹]] (1960年、原作) |
− | * [[トップ屋を殺せ]] | + | * [[接吻泥棒]] (1960年、原作・出演) |
− | * [[愛と炎と]] | + | * [[トップ屋を殺せ]] (1960年、脚本) |
− | * [[青い狩人]] | + | * [[愛と炎と]] (1961年、原作) |
− | * [[雲に向かって起つ | + | * [[青い狩人]] (1961年、原作) |
− | * [[禁断]] | + | * [[雲に向かって起つ (映画)|雲に向かって起つ]] (1962年、原作) |
− | * [[二十歳の恋]] | + | * [[禁断]] (1962年、原作) |
− | * [[素晴らしい悪女]] | + | * [[二十歳の恋]] (1962年、監督・脚本) |
− | * [[狼の王子]] | + | {{Multicol-break}} |
− | * [[小さな冒険旅行]] | + | * [[素晴らしい悪女]] (1963年、原作) |
− | * [[乾いた花]] | + | * [[狼の王子]] (1963年、原作) |
− | * [[敗れざるもの]] | + | * [[小さな冒険旅行]] (1963年、原作) |
− | * [[おゝい雲! (映画)|おゝい雲!]] | + | * [[乾いた花]] (1964年、原作) |
− | * [[青春とはなんだ | + | * [[敗れざるもの]] (1964年、原作) |
− | * [[処刑の島]] | + | * [[おゝい雲! (映画)|おゝい雲!]] (1965年、原作) |
− | * [[これが青春だ!]] | + | * [[青春とはなんだ (映画)|青春とはなんだ]] (1965年、原作) |
− | * [[男なら振りむくな]] | + | * [[処刑の島]] (1966年、製作・脚本) |
− | * [[復讐の歌が聞える]] | + | * [[これが青春だ!]] (1966年、脚本監修) |
− | * [[狂戀詩 Summer Heat]] | + | * [[男なら振りむくな]] (1967年、原作) |
− | * [[野蛮人のネクタイ]] | + | * [[復讐の歌が聞える]] (1968年、脚本・原作) |
− | * [[スパルタ教育 くたばれ親父]] | + | * [[狂戀詩 Summer Heat]] (1968年、原作) |
− | * [[化石の森 (1973年の映画)|化石の森]] | + | * [[野蛮人のネクタイ]] (1969年、原作) |
− | * [[青年の樹 (1977年の映画)|青年の樹]] | + | * [[スパルタ教育 くたばれ親父]] (1970年、原作) |
− | * [[秘祭]] | + | * [[化石の森 (1973年の映画)|化石の森]] (1973年、原作) |
− | * [[俺は、君のためにこそ死ににいく]] | + | * [[青年の樹 (1977年の映画)|青年の樹]] (1977年、原作) |
− | * [[宇宙戦艦ヤマト 復活編]] | + | * [[秘祭]] (1998年、脚本・原作) |
+ | * [[俺は、君のためにこそ死ににいく]] (2007年、製作総指揮・脚本) | ||
+ | * [[宇宙戦艦ヤマト 復活編]] (2009年、原案) | ||
+ | * [[青木ヶ原 (映画)|青木ヶ原]] (2012年、製作総指揮・企画・原作・脚本・出演) | ||
+ | {{Multicol-end}} | ||
=== テレビドラマ === | === テレビドラマ === | ||
− | * [[深夜のメス]] | + | {{Multicol}} |
− | * [[幽霊と宝石と恋]] | + | * [[深夜のメス]] (1957年、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]、原作) |
− | * [[ | + | * [[幽霊と宝石と恋]] (1958年、[[日本放送協会|NHK]]、原作) |
− | * [[ | + | * 慎太郎ミステリー 暗闇の声 (1959年 - 1960年、[[TBSテレビ|ラジオ東京テレビ]]、企画・監修) |
− | * [[分身]] | + | ** [[見知らぬ顔]] (1959年、原作) |
− | * [[降霊]] | + | ** [[分身]] (1960年、脚本) |
− | * [[怒りの果実]] | + | * [[この情報を買ってくれ]] (1959年、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]、脚本) |
− | * [[これが恋愛だ]] | + | * [[降霊]] (1960年、[[東海テレビ放送|東海テレビ]]「[[夜の十時劇場]]」、脚本) |
− | * [[密航 (テレビドラマ)|密航]] | + | * [[怒りの果実]] (1960年、[[TBSテレビ|TBS]]「[[グリーン劇場]]」、原作) |
− | * [[殺人キッド]] | + | * [[これが恋愛だ]] (1961年、TBS「日立劇場」、原作) |
− | * [[青年の樹 (1961年のテレビドラマ)|青年の樹]] | + | * [[密航 (テレビドラマ)|密航]] (1961年、TBS「グリーン劇場」、原作) |
− | * [[死んでゆく男の物語]] | + | * [[殺人キッド]] (1961年、TBS「日立劇場」、原作) |
− | * [[喪われた街 (1962年のテレビドラマ)|喪われた街]] | + | * [[青年の樹 (1961年のテレビドラマ)|青年の樹]] (1961年、TBS「[[ナショナル劇場|ナショナルゴールデンアワー]]」、原作) |
− | * [[夜を探せ]] | + | * [[死んでゆく男の物語]] (1961年、[[NHK教育テレビジョン|NHK教育テレビ]]、脚本) |
− | * [[闇から来る]] | + | * [[喪われた街 (1962年のテレビドラマ)|喪われた街]] (1962年、NHK「テレビ指定席」、原作) |
− | * [[アラスカ物語]] | + | * [[夜を探せ]] (1962年、フジテレビ、原作) |
− | * [[青い糧]] | + | * [[闇から来る]] (1962年、[[テレビ朝日|NET]]、原作) |
− | * [[断崖 (テレビドラマ)|断崖]] | + | * [[アラスカ物語]] (1962年、NHK、脚本) |
− | * [[雲に向って起つ (テレビドラマ)|雲に向って起つ]] | + | * [[青い糧]] (1963年、NET「銀行8時劇場」、原作) |
− | * [[夜の道]] | + | {{Multicol-break}} |
− | * [[喪われた街 (1964年のテレビドラマ)|喪われた街]] | + | * [[断崖 (テレビドラマ)|断崖]] (1963年、NET「銀行8時劇場」、原作) |
− | * [[ | + | * [[雲に向って起つ (テレビドラマ)|雲に向って起つ]] (1963年、NET「銀行8時劇場」、原作) |
− | * [[有馬稲子アワー 喪われた街]] | + | * [[夜の道]] (1963年、NHK、原作) |
− | * [[てっぺん野郎]] | + | * [[喪われた街 (1964年のテレビドラマ)|喪われた街]] (1964年、NET、原作) |
− | * [[青春とはなんだ]] | + | * [[小さき闘い]] (1964年、フジテレビ「[[一千万人の劇場]]」、原作) |
− | * [[おゝい雲! (テレビドラマ)|おゝい雲!]] | + | * [[有馬稲子アワー 喪われた街]] (1965年、フジテレビ「[[シオノギテレビ劇場]]」、原作) |
− | * [[人魚と野郎]] | + | * [[てっぺん野郎]] (1965年、TBS、原作) |
− | * [[おおい雲]] | + | * [[青春とはなんだ]] (1965年、日本テレビ、原作) |
− | * [[恐怖の人喰い鱶 鱶女]] | + | * [[おゝい雲! (テレビドラマ)|おゝい雲!]] (1965年、[[MBSテレビ|毎日放送]]、原作) |
− | * [[太陽の季節#テレビドラマ|太陽の季節]] | + | * [[人魚と野郎]] (1967年、NET、原作) |
− | * [[狂った果実 (小説)#テレビドラマ版|狂った果実2002]] | + | * [[おおい雲]] (1971年、NHK「[[銀河ドラマ]]」、原作) |
− | * [[弟 (テレビドラマ)|弟]] | + | * [[恐怖の人喰い鱶 鱶女]] (1980年、[[テレビ朝日]]「[[土曜ワイド劇場]]」、原作) |
+ | * [[太陽の季節#テレビドラマ|太陽の季節]] (2002年、TBS、原作) | ||
+ | * [[狂った果実 (小説)#テレビドラマ版|狂った果実2002]] (2002年、TBS、原作) | ||
+ | * [[弟 (テレビドラマ)|弟]] (2004年、テレビ朝日、原作) | ||
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+ | === 舞台 === | ||
+ | * 若きハイデルベルヒ(1977年、[[日生劇場]]、潤色) | ||
== 演じた俳優 == | == 演じた俳優 == | ||
− | * [[別所哲也]]『[[人間ドキュメント 石原裕次郎物語]]』 | + | * [[別所哲也]]『[[人間ドキュメント 石原裕次郎物語]]』 ([[1993年]][[フジテレビジョン|フジテレビ]]) |
− | * [[テレビ朝日]]『[[弟 | + | * [[テレビ朝日]]『[[弟 (テレビドラマ)|弟]]』 ([[2004年]][[11月17日]] - [[11月21日]][[放送]]) での配役 |
− | ** [[鈴木宗太郎]] | + | ** [[鈴木宗太郎]] (幼年期) |
− | ** [[久保海晴]] | + | ** [[久保海晴]] (少年期) |
− | ** [[渡邉邦門]] | + | ** [[渡邉邦門]] (思春期) |
− | ** [[長瀬智也]] | + | ** [[長瀬智也]] ([[TOKIO]]) (青年期) |
− | ** [[渡哲也]] | + | ** [[渡哲也]] (父・石原潔との二役) (壮年期 - 現在) |
− | == | + | == 逸話 == |
− | * | + | * {{要出典範囲|date=2014年2月19日 (水) 16:55 (UTC)|かつて対談した[[数学者]]の[[岡潔]]の哲学を信奉している}}。 |
− | * 『[[正論 | + | * [[Ustream]]での放送にて、[[田原総一朗]]が[[政治献金]]をしている事が明らかになる<ref>{{cite news |url = http://www.ustream.tv/recorded/8105327 |title = [[田原総一朗|田原総一郎]]のタブーに挑戦! 10.07.06) |publisher = [[JFN]] |date = 2010-07-06}}</ref>。 |
+ | * 『[[正論 (雑誌)|正論]]』は、特集「2012年注目の政治家50人を値踏みする」で、石原を10点満点中9点と評価した<ref>『正論』2012年3月号 50-91頁</ref>。 | ||
+ | * 自身が代表を務める[[日本維新の会]]の[[幹事長]]である[[松井一郎]][[大阪府知事]]が[[フリーアナウンサー]]の[[辛坊治郎]]に語った話では、石原は、基本的に、朝は遅く昼からしか働かないという<ref>[http://www.ytv.co.jp/wakeup/movie/index.html ''WAKE! UP+ 動画+'']([[読売テレビ]][[ウェークアップ!ぷらす]][[2012年]][[12月1日]]配信分(配信日に閲覧))</ref>。 | ||
== 脚注 == | == 脚注 == | ||
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* [[神一行]]『閨閥 改訂新版 ―特権階級の盛衰の系譜―』 [[角川文庫]] 2002年 231、244頁 | * [[神一行]]『閨閥 改訂新版 ―特権階級の盛衰の系譜―』 [[角川文庫]] 2002年 231、244頁 | ||
** 同 『石原慎太郎と都知事の椅子』 [[角川文庫]]、2000年がある。 | ** 同 『石原慎太郎と都知事の椅子』 [[角川文庫]]、2000年がある。 | ||
− | * [[佐野眞一]]『てっぺん野郎 ―本人も知らなかった石原慎太郎―』 | + | * [[佐野眞一]]『てっぺん野郎 ―本人も知らなかった石原慎太郎―』 ([[講談社]] 2003年) ISBN 4-06-211906-4 |
− | + | ** 増補改題され、『誰も書けなかった石原慎太郎』 [[講談社文庫]]、2009年 | |
− | * [[斎藤貴男]]『空疎な小皇帝 「石原慎太郎」という問題』 | + | * [[斎藤貴男]]『空疎な小皇帝 「石原慎太郎」という問題』 ([[岩波書店]] 2003年、[[ちくま文庫]] 2006年) |
** [[吉田司]]との対話『石原慎太郎よ、退場せよ!』 [[洋泉社]]新書 2009年 | ** [[吉田司]]との対話『石原慎太郎よ、退場せよ!』 [[洋泉社]]新書 2009年 | ||
− | * [[江藤淳]]『石原慎太郎論』 | + | * [[江藤淳]]『石原慎太郎論』 ([[作品社]] 2004年) |
− | * 鈴木斌『作家・石原慎太郎 価値紊乱者の軌跡』 | + | * 鈴木斌『作家・石原慎太郎 価値紊乱者の軌跡』 (菁柿堂 2008年) |
− | * [[前野徹]]『救世主石原慎太郎』 | + | * [[前野徹]]『救世主石原慎太郎』 ([[扶桑社]]文庫、2004年) |
− | * [[別冊宝島]]編集部『石原慎太郎の値打ち』 | + | * [[別冊宝島]]編集部『石原慎太郎の値打ち』 ([[宝島社]]文庫 2003年) |
− | * 嶋田昭浩『解剖・石原慎太郎』 | + | * 嶋田昭浩『解剖・石原慎太郎』 ([[講談社文庫]] 2003年) |
− | * [[浅野史郎]]ほか8名『石原慎太郎の東京発日本改造計画』 | + | * [[浅野史郎]]ほか8名『石原慎太郎の東京発日本改造計画』 (人物文庫・学陽書房、2002年) |
− | * [[上杉隆]]『石原慎太郎「5人の参謀」』 | + | * [[上杉隆]]『石原慎太郎「5人の参謀」』 ([[小学館]]文庫、2000年) |
− | * 『特集石原慎太郎研究 ポリティーク08号』<労働法律旬報別冊> | + | * 『特集石原慎太郎研究 ポリティーク08号』<労働法律旬報別冊> (旬報社 2004年) |
− | * [[一ノ宮美成]] | + | * [[一ノ宮美成]]+グループK21『黒い都知事 石原慎太郎』 ([[宝島社]]) ISBN 978-4796676328 |
== 関連項目 == | == 関連項目 == | ||
− | + | {{Commonscat|Shintaro Ishihara}} | |
− | + | {{Wikiquote}} | |
− | * [[ | + | * [[2020年東京オリンピック構想]] |
− | * [[ | + | * [[複式簿記]] |
− | * [[ | + | * [[ヘリテージ財団]] |
− | * [[ | + | * [[渡部昇一]] |
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− | * [[ | + | * [[櫻井よしこ]] |
− | * [[ | + | * [[渡邉恒雄]] |
− | * [[ | + | * [[高井英樹]] |
− | * [[ | + | * [[読売新聞社]] |
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* [[タカ派]] | * [[タカ派]] | ||
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* [[ババア発言]] | * [[ババア発言]] | ||
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+ | * [[阿久津幸彦]] -もと[[公設秘書]] | ||
+ | * [[北朝鮮に拉致された日本人を早期に救出するために行動する議員連盟]] | ||
+ | * [[非核三原則]] - [[日本の核武装論]] | ||
* [[成田空港高速鉄道]] - 運輸大臣時代、成田空港アクセスの不備を感じた際「鶴の一声」で建設が決定された。 | * [[成田空港高速鉄道]] - 運輸大臣時代、成田空港アクセスの不備を感じた際「鶴の一声」で建設が決定された。 | ||
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* [[未確認飛行物体|UFO]] - [[三島由紀夫]]や[[星新一]]らとともに[[日本空飛ぶ円盤研究会]]の会員であった。 | * [[未確認飛行物体|UFO]] - [[三島由紀夫]]や[[星新一]]らとともに[[日本空飛ぶ円盤研究会]]の会員であった。 | ||
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* [[伝統と創造の会]] | * [[伝統と創造の会]] | ||
* [[たちあがれ日本]] - 同政党の支援者であり、党名を命名した。 | * [[たちあがれ日本]] - 同政党の支援者であり、党名を命名した。 | ||
* [[野中広務]] - プライベートで食事をするなどの仲。もっとも、野中は石原を“ボンボン”と評している。 | * [[野中広務]] - プライベートで食事をするなどの仲。もっとも、野中は石原を“ボンボン”と評している。 | ||
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== 外部リンク == | == 外部リンク == | ||
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2014年3月21日 (金) 15:21時点における版
石原 慎太郎 (いしはら しんたろう、旧字体:石原 愼太郎、1932年 (昭和7年) 9月30日 - ) は、日本の政治家、作家。東京都知事 (第14・15・16・17代) 。
参議院議員 (1期) 、衆議院議員 (8期) 、環境庁長官 (第8代) 、運輸大臣 (第59代) を歴任した。
所属政党 = (自由民主党→) (無所属→) (自由民主党→) 無所属
- 東京都 第14・15・16・17代東京都知事 当選回数4回
- 1968年7月8日~1972年11月25日第33回衆議院議員総選挙立候補により自動失職
目次
- 1 来歴・人物
- 2 略年譜
- 3 学生時代
- 4 作家として
- 5 東京都知事として
- 5.1 主要な政策
- 5.1.1 東京都の会計制度に複式簿記・発生主義を導入
- 5.1.2 植樹による海の森公園構想・水と緑の回廊構想
- 5.1.3 東京都総合防災訓練(ビッグレスキュー)
- 5.1.4 東京マラソン
- 5.1.5 ディーゼル車排ガス規制
- 5.1.6 羽田空港再拡張事業
- 5.1.7 新銀行東京
- 5.1.8 教育改革
- 5.1.9 福祉
- 5.1.10 米軍基地返還
- 5.1.11 外形標準課税
- 5.1.12 カジノ構想
- 5.1.13 「後楽園競輪」復活構想
- 5.1.14 首都大学東京
- 5.1.15 臨海副都心開発
- 5.1.16 首都機能移転に反対
- 5.1.17 東京オリンピック構想
- 5.1.18 三宅島オートバイレース大会
- 5.1.19 築地市場移転計画
- 5.1.20 参議院議員宿舎建て替えに反対表明
- 5.1.21 都立霊園再開発
- 5.1.22 青少年健全育成条例
- 5.1.23 東京都による尖閣諸島購入計画
- 5.2 選挙公約
- 5.3 浜渦副知事の重用と辞任
- 5.4 政党との関係
- 5.5 情報公開
- 5.6 疑惑
- 5.1 主要な政策
- 6 衆議院議員返り咲き後
- 7 政治姿勢・発言
- 7.1 尖閣・島嶼について
- 7.2 日本国憲法について
- 7.3 佐野眞一について
- 7.4 慰安婦について
- 7.5 東京消防庁のハイパーレスキュー隊員に涙ながら感謝
- 7.6 軍事に関して
- 7.7 諸外国に対する見解
- 7.8 諸団体との関係
- 7.8.1 全国犯罪被害者の会 (あすの会) の支援活動
- 7.8.2 在日外国人・諸文化に関して
- 7.8.3 外国人参政権
- 7.8.4 移民
- 7.8.5 日本人
- 7.8.6 「ニート」・フリーター
- 7.8.7 東日本大震災について
- 7.8.8 ジェンダー・性について
- 7.8.9 女性専用車両について
- 7.8.10 同性愛について
- 7.8.11 原子力発電所事故について
- 7.8.12 天皇・君が代
- 7.8.13 障害者
- 7.8.14 老人の出処進退について
- 7.8.15 東京中央郵便局建替問題
- 7.8.16 賃貸住宅の所有者と賃借人の法的権限に関して
- 7.8.17 霊友会への入信
- 7.8.18 創価学会・公明党
- 7.8.19 戸塚ヨットスクール
- 7.8.20 冒険家堀江謙一の世界一周について
- 7.8.21 崇教真光の代表との家族ぐるみの付き合い
- 7.9 新党構想
- 7.10 首相への暴行呼びかけ
- 7.11 交流
- 7.12 日本青年社への賞賛
- 7.13 経済・財政
- 7.14 議員連盟
- 8 家族・親族
- 9 著書
- 10 共著
- 11 作詩曲
- 12 翻訳
- 13 外国語訳
- 14 関連作品
- 15 演じた俳優
- 16 逸話
- 17 脚注
- 18 参考文献
- 19 関連項目
- 20 外部リンク
来歴・人物
兵庫県神戸市生まれ[1]。湘南高等学校、一橋大学法学部卒業[2]。
一橋大学では社会心理学の南博ゼミに所属。大学在学中の1956年(昭和31年) に文壇デビュー作である『太陽の季節』が第34回芥川賞を受賞、「太陽族」が生まれる契機となる。また、同作品の映画化では弟・裕次郎をデビューさせた。作家としては他に芸術選奨文部大臣賞、平林たい子文学賞などを受賞。『「NO」と言える日本 -新日米関係の方策-』(盛田昭夫との共著)、裕次郎を題材にした『弟』はミリオンセラーとなった。
ベトナム戦争を取材した経験から政治家を志し、1968年(昭和43年)に参議院議員選挙に全国区から出馬し初当選。1972年(昭和47年) には衆議院に鞍替え出馬し当選、以後当選8回。1975年(昭和50年) 、現職の美濃部亮吉に挑戦する形で東京都知事選挙に自民党推薦で出馬するも落選。その後衆議院議員に復帰し、1976年(昭和51年) に福田赳夫内閣で環境庁長官を、1987年(昭和62年) に竹下内閣で運輸大臣を歴任、1989年(平成元年) には自民党総裁選に立候補し、海部俊樹に敗れる。1995年(平成7年)、議員勤続25年を祝う永年勤続表彰の場で、突如議員辞職を表明した[3]。
1999年東京都知事選挙に出馬。立候補の表明は有力候補中最も遅かったが、舛添要一・鳩山邦夫・明石康・柿澤弘治といった有力候補を抑え初当選する。2003年東京都知事選挙では都知事選史上最高の得票率で再選、2007年東京都知事選挙では浅野史郎らを破り3選。2011年東京都知事選挙では当初不出馬が取り沙汰されたものの、東国原英夫らを破り4選。2012年(平成24年)、後継に猪瀬直樹副知事を指名し、次期衆議院選挙に出馬するため東京都知事を辞職。同年の第46回衆議院議員総選挙に比例東京ブロックで当選し17年ぶりに国政に復帰。
個人として300万票以上の得票数を選挙で2度獲得したのは石原のみである(1968年参院選全国区と2003年都知事選)。
都知事就任以降、毎年8月15日に靖国神社に参拝している。新しい歴史教科書をつくる会に賛同。日本会議代表委員、戸塚ヨットスクールを支援する会会長を務める。江藤淳の後を引き継ぎ、産経新聞にエッセイ『日本よ』を連載している。また2012年10月から6ヶ月掛けて、全集『石原愼太郎の思想と行為』(全8巻 内容は自分の著作をまとめたもの)を産経新聞出版から刊行。
趣味はサッカー、ヨット、テニス、スキューバダイビング、射撃。俳優の石原裕次郎は弟。家族は妻(石原典子)と4男。衆議院議員の石原伸晃は長男、俳優・タレントの石原良純は次男、衆議院議員の石原宏高は三男、画家の石原延啓は四男。
略年譜
- 1932年(昭和7年)
- 1934年(昭和9年)
- 12月28日 - 弟・裕次郎が生まれる。
- 1936年(昭和11年)
- 1939年(昭和14年)
- 1943年(昭和18年)
- 1945年(昭和20年)
- 4月 - 神奈川県立湘南中学(後の神奈川県立湘南高等学校)へ進学。
- 1949年(昭和24年)
- 1951年(昭和26年)
- 1952年(昭和27年)
- 1954年(昭和30年)"学内同人誌『一橋文芸』を復刊
処女作「灰色の教室」を掲載" "「灰色の教室」(『一橋文芸』(復刊第1号、1954年12月)、文芸評論家の浅見淵に評価される "[17]
- 1955年(昭和30年)
- 1956年(昭和31年)
- 1957年(昭和32年)
- 4月19日 - 長男・伸晃が誕生。
- 1958年(昭和33年)
- 1960年(昭和35年)
- 1962年(昭和37年)
- 1月15日 - 次男・良純が誕生。
- 1963年(昭和38年)
- 3月 - 『狼生きろ豚は死ね・幻影の城』を新潮社より出版。
- 1964年(昭和39年)
- 6月19日 - 三男・宏高が誕生。
- 1966年(昭和41年)
- - 四男・延啓が誕生。
- 1967年(昭和42年)
- 1968年(昭和43年)
- 7月 - 第8回参議院議員通常選挙に自民党から全国区に出馬し、史上初の300万票得票でトップ当選。2位青島幸男・3位上田哲であり、ライバル関係になっていた。
- 1969年(昭和44年)
- 11月 - 『スパルタ教育』を光文社より出版。
- 1972年(昭和47年)
- 1973年(昭和48年)
- 1975年(昭和50年)
- 1976年(昭和51年)
- 12月5日- 衆院選で国政に復帰(同区で民社党新人大内啓伍も当選)。同月24日発足の福田赳夫内閣 (改造)で環境庁長官に就任。在任中は水俣病補償問題に取り組み国として謝意を表明し話題になった。一方で「ニセ患者もいる。」「患者団体が政治組織に利用されている。」と問題発言を行い胎児性水俣病患者の上村智子に土下座して陳謝する一幕もあった。
- 1981年(昭和56年)
- - 弟の裕次郎が倒れた際に小笠原諸島から海上自衛隊飛行艇を呼び寄せて帰京し、公私混同として問題になる。燃料代は160万円かかっていた。
- 1983年(昭和58年)
- 1987年(昭和62年)
- 1988年(昭和63年)
- 1989年(平成元年)
- 1990年(平成2年)
- 2月18日 - 第39回衆議院議員総選挙が旧東京4区で長男の伸晃が初当選し、父子揃って衆議院議員となる。
- 1995年(平成7年)
- 4月14日 - 議員在職25年表彰を受けての衆議院での演説中、「日本の政治は駄目だ。失望した」という趣旨の発言を行ない辞職を表明(最初の地盤継承者は栗本慎一郎)。
- 1996年(平成8年)
- - 弟の石原裕次郎をテーマに『弟』を発表。
- 1999年(平成11年)
- 2003年(平成15年)
- 4月13日 - 2003年東京都知事選挙に出馬。308万票(得票率史上最高)を獲得し、樋口恵子、若林義春らを破り再選。石原の圧勝が事前に予想されていたためか、珍しく候補者の少ない都知事選であった。
- 2004年(平成16年)
- 11月17 - 21日 - 「弟」テレビドラマ化。
- 2007年(平成19年)
- 4月8日 - 2007年東京都知事選挙に出馬。投票の過半数にあたる281万票を獲得し、浅野史郎、吉田万三、黒川紀章らを破り3選。
- 2010年(平成20年)
- 4月10日 たちあがれ日本の応援団長に就任する。
- 2011年(平成23年)
- 4月10日 - 一時は3期目での退任を考慮した中で、2011年東京都知事選挙に出馬を決断して、立候補する。東国原英夫、小池晃らを破り、2,615,120票を獲得して四選を果たした(得票率は43.4%)。
- 2012年(平成24年)
学生時代
湘南高校サッカー部、一橋大学柔道部、サッカー部と体育会系の一面も持つ。サッカーに関しては高校大学ともにレギュラーで試合に出場している。 文芸評論家の江藤淳とは同級生だった。江藤とは作家となってから共著を出版[27] するなど、1999年に江藤が自死するまで交流があった。
『太陽の季節』を引っ提げて華々しくデビューしたとき、マスコミは慎太郎をこぞってとりあげた。以下はそのうちの一つ。
サンデー毎日1956年9月9日号『五つの道をゆく“石原慎太郎”批判』慎太郎が高校一年の時だった。学生運動が盛んになろうとしていた昭和23年に、民主学生同盟にいち早く入り、学内に社会研究会を作った。日本共産党へのヒロイックな気持にかられていた時、母は“大衆のために両親や弟を、そして地位も財産も捨て、獄につながれても後悔しない自信があるなら、私は反対しないが、その覚悟をしてほしい。それならお父さんが、どんなに反対しても、私は賛成する” この言葉にそのあくる日から彼は学生運動を離れている。
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石原は後にこの点について、『芸術生活』編集長・御木白日との対談の中で「女親っていうのはバカだから。主義主張が母親の意見で変わるなんてウソですよ。精神風俗としてそういうものに興味をもったから、親が心配したというだけの話です」と否定的に語っている[28]。
作家として
芥川賞受賞
一橋大学在学中に、『太陽の季節』で、第1回(1955年度)文學界新人賞と、第34回(1955年下半期)芥川賞を受賞した。
『ひばり裕次郎 昭和の謎』によると[29]、「昭和三十年、まだ一橋大生だった石原慎太郎が書いた『太陽の季節』が芥川賞を受賞したが、その余りにえげつない風俗描写に世間は眼を剥(む)いた[29]」とされ、以下の"勃起 (ぼっき) する男性シンボル"の場面などの性描写が注目された[29]。
裸の上半身にタオルをかけ、離れに上がると彼は障子の外から声を掛けた。
「英子さん」 部屋の英子がこちらを向いた気配に、彼は勃起 (ぼっき) した陰茎を外から障子に突き立てた。障子は乾いた音をたてて破れ、それを見た英子は読んでいた本を力一杯障子にぶつけたのだ。
本は見事、的に当って畳に落ちた。その瞬間、竜哉は体中が引き締まるような快感を感じた。– 石原慎太郎「太陽の季節」[30]
文芸評論家の浅見淵は石原がデビューする前から学内同人誌『一橋文芸』に掲載された処女作「灰色の教室」を評価し、浅見は石原のデビュー後も度々石原作品に関してエッセイ、全集等の解説で執筆している。[31][32][33]
『太陽の季節』は文壇にも旋風を巻き起こし、支持派と反対派に分れた[34][35]。支持派の舟橋聖一は、「この作品が私をとらえたのは、達者だとか手法が映画的だとかいうことではなくて、一番純粋な“快楽”と、素直にまっ正面から取組んでいる点だった」[35]「佐藤春夫氏の指摘したような、押しつけがましい、これでもか、これでもかの、ハッタリや嫌味があっても、非常に明るくはっきりしているこの小説の目的が、それらの欠陥を補ってあまりある」[35]と評し、反対派の佐藤春夫は、「この作者の鋭敏げな時代感覚もジャナリストや興行者の域を出ず、決して文学者のものではないと思ったし、またこの作品から作者の美的節度の欠如を見て最も嫌悪を禁じ得なかった」[35]と評するなど、賛否両極端の選考だった。
現在に至るまで
その後『処刑の部屋』 (映画原作) 、『聖餐』といった現代の世相を鋭くえぐり出すのが特徴の同種の作品を多数発表した。1957年10月『新潮』に発表した『完全な遊戯』について、高見順宅へ行った際、『群像』編集長の大久保房男と口論になり、『群像』には一度も執筆していない[36]。
石原が1959年(昭和34年)に文芸雑誌「文學界」8月号に発表した実験的ジャズ短編小説「ファンキー・ジャンプ」を三島由紀夫は見事な傑作と述べ、「現実の脱落してゆくありさまを、言葉のこのやうな脱落でとらへようとする(石原)氏の態度には、小説家といふよりは一人の逆説的な詩人があらはれてゐる」と評した。[37][38]
政治家への転身以降、発表する作品数は減ったものの、現在に至るまで一貫して創作活動を行っている。
1970年 (昭和45年) に書下ろし長篇『化石の森』で芸術選奨文部大臣賞、1988年 (昭和63年) 『生還』で平林たい子文学賞を受賞。弟裕次郎を描いた1996年 (平成8年) の『弟』は120万部を売り上げ、毎日出版文化賞特別賞を受賞した。創作以外でも『スパルタ教育』 (1969年、70万部) 『「NO」と言える日本』 (1989年、125万部) 、『法華経を生きる』 (1998年、33万部) 『老いてこそ人生』 (2002年、82万部)、『新・堕落論』(2011年、25万部) などがベストセラーとなっている。
1995年から2012年まで芥川賞の選考委員を務めた。辛口の批評が多かったが、辻仁成、町田康、青来有一、中村文則、青山七恵、西村賢太など強く推して受賞に至った作家もいる。また1992年から1999年まで三島由紀夫賞選考委員を務めた。
映像作家としては、弟の裕次郎を世に送り出すことになった自作の映画化『狂った果実』で脚本を担当して以降、映画やテレビで自作小説の脚色を多く手がけている他、1958年 (昭和33年) 、東宝映画『若い獣』で初監督を務める。2007年 (平成19年) 5月には映画『俺は、君のためにこそ死ににいく』を発表。制作・指揮・脚本を手がけた。
文芸評論家福田和也は、日本の現役小説家を採点した自著『作家の値うち』(2000年)の中で『わが人生の時の時』に100点満点中96点と、同書で採点した中で最高点を付け、情景の鮮烈さが特に魅力的で、20世紀の日本文学として後世に残るであろうと論評する。[39][40]ただし、文庫も単行本も絶版状態である。
石原が発表した小説は膨大にあるが書籍化されていても絶版が多い。石原慎太郎小説を評した著作[41]や随筆はあっても、文庫で読める石原小説は希少な現状である。
東京都知事として
従来の官庁会計である単式簿記・現金主義会計を改め東京都は石原の肝いりで戦後初めて自治体公会計に複式簿記・発生主義を導入[42]、 銀行への外形標準課税(銀行税)の導入、日本初で世界三番目のキャップ・アンド・トレード型排出量取引制度の導入、浮遊粒子状物質 (SPM) を減らすためのディーゼル車排ガス規制での硫黄除去装置導入、中小企業の支援のため1000億円の都予算を投入した新銀行東京(石原銀行とも)の設立、首都大学東京の開学など、全国に先駆けた政策は注目を浴びた。知事三期目は二度目の東京オリンピックの開催を実現することを選挙公約とした。2016年の東京オリンピック招致成功は叶わなかったが、2020年東京オリンピック招致[43]にも手を上げ、オリンピック招致に再チャレンジし、2020年東京オリンピック開催への下地を作った。都心部の公道を使った大規模なマラソン大会「東京マラソン」が実現。石原は米国政府に横田基地の返還請願を継続して行い、石原の要求は2005年に見通しがついた2006年10月27日の横田空域の航空管制権の一部返還日米合意により部分的に実現する。[44]
特別会計や監理団体なども含めた東京都の連結での負債(借金)は、複式簿記の導入やバブル経済崩壊後の景気回復の影響を受けた都税収入の増加などにより、都の財政が黒字化して債務は減少しつつある。[45]
日本の警察官の増員、警察官僚出身の竹花豊の副知事への任命など治安対策を重視しており、新宿歌舞伎町などの違法営業店の数が激減した[46]。
2007年(平成19年)には猪瀬直樹を副知事に起用。猪瀬は東京DC特区構想(山手線の中側を中心とした区域を政府直轄地にして東京から切り離す)を提案し、オリンピック誘致にも懐疑的であるなど主張が異なる部分もあるが、石原は猪瀬について、「個人的に次の知事にふさわしいと思う」と話している。知事・副知事共に現役の作家というのは異例の組み合わせである。
主要な政策
東京都の会計制度に複式簿記・発生主義を導入
一橋大学在学中に公認会計士になるための勉強をしたことがあった経験から、官庁や自治体会計に単式簿記・現金主義会計が採用されている現状に疑問を持っていた[47]。石原は都知事就任後、2002年に新たな会計制度を導入すると宣言[47]。石原2期目の2006年、東京都は他の自治体に先駆けて、会計制度に複式簿記・発生主義を採用した[47][48]。
石原は都知事3期目に入った2007年4月、この施策は自身の過去2期における「一番いい仕事」だったと述べた[47]。
植樹による海の森公園構想・水と緑の回廊構想
東京港の中心にある中央防波堤内側埋立地に建設中である植樹による海の森公園構想は、2005年(平成17年)2月24日に開催された第74回東京都港湾審議会において答申され、「10年後の東京」の「水と緑の回廊」づくりの一環の構想として建築家安藤忠雄と石原が発案・推進役となって進められている。[49][50] 海の森公園は、1973年(昭和48年)から1987年(昭和62年)に埋め立てられた1,230万トンのゴミの上に立地し、区部で最も広い公園となる。2007年から本格的に植樹を開始し、30年をかけて完成させる予定。面積約88ヘクタール。2016年(平成28年)一部開園予定。 2020年東京オリンピックで、馬術競技、カヌー競技、ボート競技、自転車競技の会場として利用する予定である。当地区では、平成8年の全国植樹祭にて初の植樹が行われている。 資源循環型の森作りを目標としているため公園で使用されている堆肥は都内で剪定した枝葉から作っている。[51] 10年後の東京を構想する水と緑の回廊構想における政策の方向性は「東京の成長過程で失われた、水と緑に囲まれた都市空間を再生するとともに、美しい都市景観を創出し、東京の価値を更に高める。」[52]とされ、植樹による海の森公園構想や街路樹の増加や校庭の芝生化等による東京都内緑化と都内の無電柱化エリア拡大を主な目標として進められている。[53]
東京都総合防災訓練(ビッグレスキュー)
都道府県が主催し、警察・消防・自衛隊・防災関係機関などが参加する大規模災害を想定した総合防災訓練であるビッグレスキューが、石原の提唱により2000年9月3日に首都東京で初めて行われた。1995年1月の阪神淡路大震災、3月の地下鉄サリン事件発生を受け、近年中に発災が危惧される首都圏直下型地震とそれに付随する不測事態の対処能力を検証するためという大義名分で実施され、初の自衛隊参画による首都開催のビッグレスキューは首都に自衛隊と共に航空機や艦船といった防衛装備の軍機も集まり稼動される大規模な訓練となった。都内の主要官公庁のほかNTTや東京電力、帝都高速度交通営団(現東京メトロ)・都営地下鉄なども参加した。元陸上自衛官の志方俊之は、石原の要請により参与として訓練に参加した。 訓練は約2万5000人が参加して、葛西・晴海・銀座など都内の計10会場で行われた。2001年9月1日には、七都県市合同防災訓練の一環として、東京都総合防災訓練「ビッグレスキュー東京2001」が東京都の多摩地域を中心に実施された。訓練は約1万5000人が参加して、調布基地跡地・立川広域防災基地・JR八王子駅など計7会場で行われ、防災訓練で初めて在日米軍基地(横田基地と赤坂プレスセンター)が使用された。[54]
東京マラソン
2003年、石原は「経済波及効果、スポーツや観光の振興につながる」と述べ、銀座などの目抜き通りを走る構想を発表[55]。石原の提唱により、東京都と日本陸上競技連盟で大都市マラソンを開催することを目指して協議を開始し、2005年両者は「東京マラソンに関する基本合意」を締結。
制限時間について7時間を想定した事務局サイドに対し公道を警備する警視庁は5時間を求めた[56]が、最終的には石原の後押しもあって[56]事務局サイドの主張が通る形となった。2007年の第1回大会には抽選で選ばれた約3万人が参加した[57][58]。
大会会長を務める石原[59]は、2008年2月15日の会見において当初よりも参加枠を広げていることを示し、「将来的に5万人」にして世界の市民マラソンに匹敵する大会にしたいという目標を述べた[60]。また、2009年3月19日の定例会見では「多額の参加費を支払う人の別参加枠を 1,000人ほど設けて、参加費を超える部分をチャリティに使いたい」と目標を述べ、2010年10月15日の定例会見においてチャリティー枠を1,000人募集すると発表。2011年大会では参加費10万円のチャリティー枠に応募した707名から約7,300万円の寄付金が集まり、寄付金は東日本大震災の復興支援などに充てられた。応募者が参加枠の1000名を超えると期待していた石原は707名という応募者数について、他国の事例からすると募集をアナウンスしてから締め切るまでの時間が短すぎたことが誤算であったとし、それでも7000万の寄付金が集まったことは良い事例ができたものであり、翌年からはもっと多くの応募があることを期待していると声明を出した[61]。
ウォール・ストリート・ジャーナル日本語版の山口肇記者は、石原の肝いりで始まった東京マラソンは市民ランナーの増加に大きく貢献してきたとし、2011年大会において石原が都知事最後となる可能性があったことから、石原が都知事を辞めた場合、2012年以降の大会運営が気になるとして、後任知事の「事業仕分け」の対象になることを危惧するという一市民ランナーとしての見解を伝えた[62]。
ディーゼル車排ガス規制
ディーゼル車の実態と法規制についてはディーゼル自動車を参照
青島都政の政策を引き継ぎ、かねてより環境研究者に指摘されてきた、国の自動車排出ガス規制での対応では不足となっていた東京都の自動車排ガス公害の深刻さに対応するため、ディーゼル車への粒子状物質排出規制を首都圏の他の自治体と共同して行い、2000年(平成12年)には、都民の健康と安全を確保する環境に関する条例(通称: 環境確保条例)を制定し、粒子状物質排出基準を超えるディーゼル車の、新車登録7年経過後の走行を禁止した(条例第37条、第38条)。 この条例については、違法な上乗せ条例であるとの見解や、地域的な特殊性を考慮した適法な条例であるとの見解がある[63]。石原はディーゼル車の数は全ての自動車の中の2割に過ぎないが、全ての自動車から排出される窒素酸化物の約7割と浮遊粒子物質(SPM)のほとんどを排出していることを示し、東京でディーゼル自動車の排気に含まれ排出される粉塵の量が、1日に500ccのペットボトル12万本分にも達するとして、会見等でペットボトル入りの煤を撒いて見せた。このような訴えは、環境省始め国による環境規制の強化を促したとされる[64]。しかし、国は自動車から排出される窒素酸化物及び粒子状物質の特定地域における総量の削減等に関する特別措置法などで窒素酸化物の排出量がガソリン車の10倍であるディーゼル車からガソリン車への転換を図る政策をとっているが[65]、それに乗じCO2排出量が少ないディーゼル車に対する過度の規制や、殊更にディーゼル車を悪者視するかのようなパフォーマンスは地球温暖化対策に逆行するという主張もある[66]。 関連して、環境汚染の原因になるだけではなく脱税の温床となっている不正軽油の撲滅にも注力している要出典。
羽田空港再拡張事業
2010年(平成22年)10月に完成して供用が開始された東京国際空港の四本目の滑走路(D滑走路)は、世界が時間的・空間的に狭小なものとなってきた国際化の時代に、空からのアクセスが国力の維持に絶対に必要なこととの考えのもと、当時政調会長であった親友の亀井静香とともに、当時の運輸省と協議して、15分の交渉で調査費をつけさせ着手に持ちこんだものとされる[67][68]。
新銀行東京
2003年(平成15年)、東京都が石原の発案で「東京発金融改革」と銘打ち、「資金調達に悩む中小企業を救済すること」を理念として設立した。
2008年(平成20年)3月までに1016億円の累積赤字となっており、既に東京都の出資分1000億円を超過している[69]。さらに、2005年(平成17年)4月から2008年(平成20年)1月までに出資した2300社が経営破綻し、285億円が不良債権化している。石原は同銀行の再建について「経営者に責任がある」「不退転の決意で必ず再建する」として、400億円の東京都による追加出資を行う方針を示したが、『産経新聞』や『読売新聞』も社説で銀行廃止を求めたほか、与党自民党も含め都議会の一部も増資に反対した。石原は2008年(平成20年)1月11日の都議会で「トップダウンで銀行設立を決めた知事の責任が大きい」との追及に対し、「私が社長ならもっと大きな銀行にしていた」「都民から預かった大事な税金を失いきる前に、私には銀行を再建する責任がある」と反論し、責任を否定すると共に存続を主張した。
世論調査では都民の7割以上が反対していたが、結局都議会は400億円の税金投入による銀行再建を自民、公明両党の賛成多数により可決した。追加出資の400億円は都民1人当たり約3100円に相当し、すでに都が出資した 855億円を合わせて都民の負担は約11000円に達する。この問題ではNPO法人情報公開クリアリングハウスが2009年(平成21年)6月、出資金の計1255億円は回収が見込めない、石原と旧経営陣への賠償請求を都に求める住民訴訟を起こしている。
石原は、新銀行東京が2009年(平成21年)5月に発表した2009年(平成21年)3月期決算において、同行の赤字が再建計画より少ない金額に留まったことについて「いい成り行きを見せており、とても嬉しい。早く単黒(単年度黒字)を出すようになってもらいたい」と述べている[70]。
教育改革
都独自の「江戸から東京へ」科・日本史必修化
国の基準では高校の必修科目になっていない日本史を全ての都立高校で必修とする方針と都独自の日本史科目「江戸から東京へ」科を都立高校で実施方針が2010年に決定し2012年に開始した。[71] [72]「江戸から東京へ」科のテキスト(教科書)は東京都教育委員会のホームページで公開されている。[73] 2012年当時、東京都議会議員で尖閣諸島を守る為に行動する議員連盟」)の会長でもあった 野田数は、都立高校の自虐的で反日的な内容の歴史教材を変えるための活動に自民党から圧力がかかったと証言している。[74]
都立高校改革
都立高等学校は、1967年(昭和42年)の学校群制度導入以来、東京大学を初めとする難関大学への進学実績が大きく落ち込んでおり、1999年に都知事に就任した石原は、学区制を廃止して競争原理を導入し、生徒に選ばれる特色ある学校づくりが必要だという強い思いを持っていた。東京大学の鈴木啓和は、石原の就任後に実現していった「学区制の廃止」や「進学指導重点校」の制度、そして「エンカレッジスクール」は、石原の影響により実現していったものとしている[75]。2000年2月には都立九段高校で特別授業の講師担当。
2001年(平成13年 、横山洋吉教育長(のち東京都副知事)は「進学指導重点校」を指定した。第一号に日比谷・西・戸山・八王子東が指定される。これによって「小尾通達」以来、都立学校としてはおよそ35年ぶりに公式に進学指導を打ち出す。「都立復権」をスローガンに各校が特色を出す方針を打ち出し、進学指導も都民の多様なニーズに応える一つの施策として位置づけられる。2003年(平成15年)には第二号として国立・立川・青山を追加した。2003年(平成15年)には学区制度を完全撤廃、2005年(平成17年)には都立学校では初となる附属中学を開校し中高一貫教育に乗り出した。中高一貫となる都立学校は、2010年(平成22年)には10校まで増える予定である(桜修館・小石川・白鴎・両国・富士・大泉・南多摩・北多摩・武蔵・三鷹)。2007年には「進学指導特別推進校」に新宿・駒場・小山台・国分寺・町田の5校が指定された。いわゆる中堅校に対しては「中堅校活性化推進事業」を展開し、学区撤廃に伴って各校が特色を出すことを推進。また、需要の少なくなった底辺校定時制や職業科の廃統合を「下から順番につぶす。」「高校の事業整理。」として積極的に行った。自身は学歴観について「オール5を取っても使い物にならない役人にしかなれない。」「自分は東大に50人近く合格者を出した高校で東大へ行けなかったんだから落ちこぼれだった。」「何かひとつ秀でたものがあればいいんだ。」等と著書や講演や息子である良純の書いた著書の中での慎太郎の発言として述べている。
福祉
知事就任前年の1998年から在任最終年の2012年までの歳出分野別の歳出額は以下の通り。
年度 | 歳出予算 | 歳出決算 | ||||
---|---|---|---|---|---|---|
総額 | 福祉 | 教育 | 総額 | 福祉 | 教育 | |
1998(平成10) | 68,002 | 5,600[76] | 8,527 | 64,935 | 5,305[76] | 8,338 |
1999(平成11) | 67,071 | 5,638[77] | 8,362 | 64,207 | 5,388[77] | 8,228 |
2000(平成12) | 66,426 | 5,557[78] | 7,982 | 63,502 | 5,207[78] | 7,873 |
2001(平成13) | 64,584 | 5,747[79] | 8,026 | 62,016 | 5,493[79] | 7,903 |
2002(平成14) | 60,996 | 5,593[80] | 7,928 | 58,115 | 4,987[80] | 7,808 |
2003(平成15) | 62,145 | 5,253[81] | 7,832 | 59,719 | 4,754[81] | 7,705 |
2004(平成16) | 62,033 | 5,086[82] | 7,787 | 60,033 | 4,745[82] | 7,674 |
2005(平成17) | 62,841 | 6,923[83] | 7,762 | 60,498 | 6,374[83] | 7,543 |
2006(平成18) | 66,734 | 7,377[84] | 7,796 | 63,756 | 6.809[84] | 7,575 |
2007(平成19) | 70,375 | 8,731[85] | 7,940 | 67,195 | 8,068[85] | 7,638 |
2008(平成20) | 70,071 | 8,657[86] | 7,697 | 67,501 | 8,064[86] | 7,457 |
2009(平成21) | 66,874 | 9,093[87] | 7,522 | 63,956 | 8,575[87] | 7,305 |
2010(平成22) | 62,544 | 8,805[88] | 7,412 | 58,699 | 8,441[88] | 7,263 |
2011(平成23) | 62,360 | 9,086[89] | 7,631 | - | - | - |
2012(平成24) | 61,490 | 9,472[89] | 7,497 | - | - | - |
歳出額の単位は億円(億円未満は四捨五入で表記) |
認証保育所制度の創設
国の認可保育所に申し込み、用件を満たしているものの、保育所の不足により、入所待ちを余儀なくされている待機児童が増加しており、都内にはその受け皿となる無認可保育所が存在していた。しかし無認可のため、有資格者が不足していたり、環境が劣悪なところもあった。そこで石原は国の認可保育所に頼るのではなく、都独自の基準を設けて、都市型保育のニーズに応える認証保育所を創設。2001年(平成13年)8月1日に都内の三カ所でオープンし、2011年(平成23年)の時点で615ヶ所の認証保育所が設置されるに至っている[90]。
児童福祉
児童の医療費無料範囲拡大、児童扶養手当受給者に対する都営交通無料乗車券の交付。
東京都シルバーパス
東京都シルバーパス[91]制度は、2000年(平成12年)の東京都シルバーパス条例(東京都条例第133号)によるものである。前身は東京都シルバーパス交付条例(昭和55年東京都条例第23号)。 この福祉乗車証は東京都内在住で、満70歳以上であればパスの交付を受けることができる。ただし、寝たきりで公共交通機関が利用できない場合は購入できない。パスの有効期間は毎年10月1日から翌年9月30日までである。パス交付の費用は20,510円(一年間有効)であるが、有効期限が半年以内であれば10,255円となる。ただし、市町村民税(特別区民税含む)非課税者の場合は、期間によらず一律1,000円である。 この乗車証を利用することによって、以下に記載された路線バス・都営交通を自由に乗り降りでき、交通弱者とされる高齢者の利便を図るものとなっている。 但し、現代は超高齢化社会を迎えて、70歳以上の交付対象の高齢者が巷に溢れ、その存在意義は大きく問われるところとなっていることから、廃止への動きは一段と強まっている。
都営住宅・特別養護老人ホーム
都営住宅や老人ホームについては日本共産党や労働組合系などの一部から批判的な論調があるが、都営住宅については、東日本大震災の際に被災者に開放された[92]。東京都都市整備局のHPには都営住宅の新規着工の案内がある。
都立児童養護施設
施設の老朽化と民間サービスへの支援方針転換に伴い、都外に設置されていた3か所の都立児童養護施設から撤退した。
米軍基地返還
横田飛行場 も参照 米軍横田基地の返還・軍民共同利用を公約とし、また麻布ヘリコプター基地(赤坂プレスセンター、ハーディバラックス)が不法占拠している都立青山公園の該当部分返還を要求している。2005年に横田空域の一部返還で日米両政府が合意の見通しとなり、2006年10月27日に日米両政府は横田空域の一部返還合意し石原の横田基地返還要請は航空管制権の一部返還という形で部分的に実現する。
外形標準課税
一定規模以上(資金量の残高が5兆円以上)の大手銀行を対象に、5年間の時限措置として外形標準課税を導入した(いわゆる銀行税)。しかし銀行側は「狙い撃ち」と反発し訴訟に発展、東京高裁・森脇勝裁判長は銀行への課税自体は合法と認めた上で、税率負担の水準が不公平で高すぎるとして違法と判断、都側は事実上敗訴した。平成12年度から15年度までの銀行税収入は3173億円にのぼったが、銀行側と税率引き下げを条件に和解し年率4.1 - 4.5%という高率で発生した還付加算金123億円を含め2344億円を銀行側に返還した。
敗訴の結果、銀行税は導入時の3%から、過去10年間の銀行の納税額の平均である0.9%へと引き下げられ、都の税収は同税導入以前の水準とほぼ同じ829 億円に留った。「税収を増やす」という本来の目的としては失敗したものの、自治体の独自課税の動きに大きな影響を与えた。
カジノ構想
東京都では美濃部都政以前は公営ギャンブルによる収入があったが、美濃部都政の公営ギャンブル廃止方針[93]により以後、東京都の公営ギャンブル収入は減少した。美濃部都政の公営ギャンブル撤退方針後に都の収入減少と都民から娯楽を奪わないで欲しいとの声が相次いだ経緯があり[94]、再び美濃部都政以前の公営ギャンブル収入を取り戻そうと、お台場カジノ構想を提案していたが、現行の法律ではそれができず、実施には国会による法改正を必要とするので実現見通しが立たず2003年(平成15年)に正式に断念を発表[95](現在の日本においては、公営競技や宝くじ、スポーツ振興くじ等別途法令で指定された以外の賭け事は全て、賭博開帳図利罪に問われるギャンブルである)。都庁にスロットを置き、プレイをしたパフォーマンスが印象的だったが、機器を卸したとされるマツイゲームマシン(違法賭博場への卸業者で、従業員が逮捕された企業)(石原氏設立の日本カジノ学界に参加)という企業との関連、特定のカルチャースクールに日本カジノスクールという名称を付与した点も物議を醸した(カジノ学校を一社に限定したのは、一般競争入札原則に抵触)。お台場カジノ構想に関しては、2003年(平成15年)に公開された映画『踊る大捜査線 THE MOVIE 2 レインボーブリッジを封鎖せよ!』にてそれらしきものが描写されている。また「千里眼/マジシャンの少女」(小学館文庫)[文庫]ISBN 978-4094032604 松岡圭祐(著)でもお台場カジノ構想をテーマにした物語が描かれている。
「後楽園競輪」復活構想
東京都では美濃部都政以前は公営ギャンブルによる収入があったが、美濃部都政の公営ギャンブル廃止方針[96]により以後、東京都の公営ギャンブル収入は減少した。美濃部都政の公営ギャンブル撤退方針後に都の収入減少と都民から娯楽を奪わないで欲しいとの声が相次いだ経緯があり[97]、再び美濃部都政以前の公営ギャンブル収入を取り戻そうと「後楽園競輪」復活が試みられる。2003年(平成15年)6月に、東京ドームの地下に現在未使用である競輪用走路が収納されており、また同地の前身が後楽園競輪場であった背景も踏まえ、「後楽園競輪」復活構想を掲げた[98]。その後、三宅島災害復興支援を名目に都議会にも議案を諮ったが、同地の所在地である文京区の住民による反対運動に後押しされた当時の同区区長・煙山力が早速反対の姿勢を表明したばかりか、都議会議員の多くが消極的な姿勢に終始したこともあって難航。加えて、競輪復活計画のまとめ役を務めていた当時の副知事・浜渦武生が問責決議により、同職を辞することになったため、この時点で事実上頓挫した。
首都大学東京
設立前後の経緯と大学の詳細については首都大学東京を参照
「全く新しい大学をつくる」と公約。東京都立大学の改編により2005年(平成17年)に設立された大学である。
一般の名称公募では「東京都立大学」が最多だったが、石原の意向で名称が「首都大学東京」となった[99]。都からの一方的なトップダウンの大学改組や雇用不安定化に対し大学教員側が反発、著名な教授などを含めた多数の教職員が他の大学へ移籍した。また、都立大法科大学院の入試が延期され、近代経済学グループ16名中15名が大学を去り経済学コースが設置できなくなり、採択された21世紀COEプログラム「金融市場のミクロ構造と制度設計」の補助金を返上するなど問題が発生した[100]。
石原は経済学部のCOE返上問題について「一部のバカ野郎が反対して(COEの)金が出なくなったが、あんなものどうでもいい」と発言している[101]。
臨海副都心開発
東京臨海副都心 も参照 鈴木都政下で開始されたお台場の臨海副都心開発計画は多額の負債を出して赤字となっているが、石原は事業推進の立場に立っている。当選直後の1998年度(平成10年度)には第三セクター3社に対して270億円の財政支援をおこなう計画を追認、さらに都によるビルの借り上げ支援や土地代の減免、収益事業の丸投げなどさまざまな支援策を継続した。その後も投資は継続され、「首都東京の活力と創造力を生み出す新しい重要な事業」として投資や土地の提供など就任後の7年間で2兆5000億円(2006年(平成18年度)まで)を費やした。これに対しゼネコン・ハコモノ重視の土建屋行政という批判がある。
2006年(平成18年)5月12日には第三セクター3社(東京テレポートセンター、東京臨海副都心建設、竹芝地域開発)が財政破綻し、最終的な負債総額は3668億円と確定した。
首都機能移転に反対
首都機能移転には「膨大な経費をかけて新都市を建設するよりも、首都東京の歴史的文化的蓄積を活用すべき」とし、強く反対している[102]。東京が「首都」であることを死守することも念頭に、都立大の後身となる大学の名称には、石原の意向により首都という言葉が組み込んだ「首都大学東京」が採用された。2001年(平成13年)11月21日の衆議院の「国会等の移転に関する特別委員会」では1990年(平成2年)に衆参両院で可決された「国会等の移転に関する決議」を「ばかな決議」と批判し、問題となった。しかし、その際に同委員会の委員長から「新聞社の写真等を見る限り、石原参考人は(同決議の際に)起立していた」と指摘された[103]。この指摘を受けて「周囲を確認するためだった」との回答書を提出した[104]。
東京オリンピック構想
2016年東京オリンピック構想 も参照 2016年夏季オリンピックの東京都での開催を目指し、招致活動を進めた。2006年(平成18年)8月30日には国内候補地選定委員会において福岡市を破った。招致経費は55億円とされている。東京都は開催に向けて2006年度すでにオリンピック基金1000億円を積み立てており、その後3年間でさらに3000億円積み立てると表明した。
「五輪が決まれば国が動かざるをえない。東京の欠点は交通渋滞。五輪を引き金に東京の暮らしがよくなる」とオリンピック招致の理由の一つとして道路渋滞の解消を挙げた[106]。
開催都市が決定する2009年(平成21年)10月2日に各国の候補都市から東京が選ばれない場合については、「責任を取らなきゃいかんでしょうね」と発言している[107]。
2008年(平成20年)6月には皇太子徳仁親王に招致活動への支援を求めるつもりである旨発言。宮内庁東宮職から「招致活動の段階からというのは…」と難色を示された事について「政府が正式に申し込んだら別な話だと思うね。宮内庁ごときが決めることじゃない。国家の問題なんだから。木っ端役人が、こんな大事な問題、宮内庁の見解で決めるもんじゃない」と述べた[108]。この発言は都議会民主党に7月、「1964年東京、1972年札幌、1998年長野、いずれの招致にも皇族は関与していない。"一種の国家の総力戦”なる発言は国際親善を旨とする皇族の活動とは相容れない、"皇太子が日本のために一席弁じてもらうことに反対する人は誰もいない"なる発言は是非の議論を封じる危険な側面さえ持つ」と批判されている[109]。
また、瑞穂町議会で招致賛同決議案が否決されたことに対して「頭がどうかしているんじゃないのか、あとでほえ面かくな」と発言した[110]。
なお、2016年夏季オリンピックは、2009年(平成21年)10月のIOC総会でリオデジャネイロにて開催される事が決定した。この結果に対して6日、「ブラジルの大統領が、聞くところ、アフリカの人にかなり思い切った約束をしたというようです。 サルコジ大統領もフランスの戦闘機を買ってくれるなら、ブラジルを支持するとか」と裏工作の存在を臭わせる発言を行ない[111]、ブラジルの国内委員会から"聞き捨てならない。ルール違反でありIOCに通知する"とクレームを表明された[112]が、石原は「本当の事を言ったまでのことだけ」と反論している[113]。
石原は2009年(平成21年)11月9日、2020年夏季オリンピックにも東京都を再度立候補させる意向を表明し[114]、後任の猪瀬直樹が引き継いだ。
三宅島オートバイレース大会
チャレンジ三宅島モーターサイクルフェスティバル も参照 石原は2000年(平成12年)に発生した三宅島火山の噴火による観光客減少への対策として、イギリスのマン島で行われているマン島TTレースを参考に、日本初となる一般道路を使用した本格的なオートバイレースを三宅島で開催することを提唱した。レースは東京都と三宅村が主催し、2007年(平成19年)11月9日から11日に開催が予定されていたが、「公道でスピードを競うのは危険すぎる」との意見が本田技研工業など二輪大手4社から続出し、中止が決定した。都は、専門家による検討経費などに4000万円、都道改修に3億円を2007年度予算に計上していた。結局、三宅村では代替イベントとしてチャレンジ三宅島モーターサイクルフェスティバルを開催することを発表している。
東京都が2006年(平成18年)に三宅島で実施したテスト走行に参加したプロレーサー3人のうち2人が報告書で危険性を指摘し、公道レースの開催に反対を表明していることが2007年(平成19年)2月23日の都議会で明らかになっており、バイクレースの専門家からも「殺人レースだ。絶対にやめるべし」と批判されていることに対し、石原は「レースは危険があるからエキサイトする。ある程度ライダーの自己責任もある」として同レースを強行する姿勢を示していた[115]。また、『朝日新聞』は「三宅島は現在も火山ガスが噴出しており航空路は再開していないため、観光客誘致の起爆剤となるのかは未知数」と報じた[116]。石原は観光客や機材の輸送には海路を用いる考えを示していた[117]。
築地市場移転計画
石原は、中央区築地にある築地市場を、施設の老朽化やアスベスト問題のため、2012年度を目処に江東区豊洲地区へ移転させる方針を明らかにしているが、予定地である東京ガスの工場跡地において、環境基準を超える毒物(鉛・ヒ素・六価クロム・シアン・水銀・ベンゼンの6種類が国の環境基準を超えており、発癌性物質であるベンゼンにいたっては国の基準の1500倍である)が検出されるなど土壌汚染が判明している。また、土壌を入れ替え、アスファルトで被覆する都の対策では不十分との指摘がある。一部の関係者は「生鮮食品を扱う市場の移転先としては論外」とし、築地市場移転反対派の団体「市場を考える会」が中心となって移転反対運動を行っている。
石原は「築地は古くて清潔でない。都民や消費者の利益を考えれば、市場を維持するわけにはいかない。ほかに適地はない」と述べて、移転計画に変更は無いとし、移転後の跡地には「2016年東京オリンピック」のメディアセンターを建設する構想を明らかにしている[118]。
また、石原は2006年(平成18年)9月8日の定例記者会見において築地市場跡地に「NHKが移転する」と発言したが、NHKは「そんな計画はない」と否定している[119]。
2007年(平成19年)10月6日には、東京都は移転予定の豊洲において調査した56カ所のうち14カ所で有害物質のベンゼンが基準値の1000倍の値で検出されたと発表した[120]。
参議院議員宿舎建て替えに反対表明
都心部である千代田区紀尾井町に残るわずかな緑の空間を候補地にした、参議院による新清水谷議員宿舎建て替えに反対を表明した。2008年12月、石原と西岡武夫参院議院運営委員長、石川雅己・千代田区長の三者は計画を白紙に戻すことで合意した。[121]
都立霊園再開発
谷中霊園や青山霊園など、使用料の払われていない無縁墓地を整理・除去し、空いたスペースを2003年(平成15年)より新たな貸付スペースとしている。併せて、霊園内の再開発の理由も相まって、舗道の敷石の撤去、前述の新たな貸付スペース確保の理由と合わせて大木など木々の伐採が進み、さらに側溝板の設置などにより、そこを寝床等にしている周辺の小動物などに影響が出ている。また、無縁墓地の改葬には外人墓地は含まれないことになり、日本人墓地だけが対象となっている。
青少年健全育成条例
東京都議会の平成22年第1回定例会で「児童ポルノや子供への強姦等を描いた漫画の蔓延を、見て楽しむだけなら個人の自由である、いかなる内容であっても表現の自由である、と許容することは、これは自由の履き違えであり、青少年を守り育てる大人としての責任と自覚を欠いた、未成熟な人間の自己保身に他ならない」と述べて成人向け漫画の愛好家達を糾弾し、「青少年健全育成条例(東京都青少年の健全な育成に関する条例)を改正し、児童ポルノの根絶とこの種の図書類の蔓延の防止に向けて都が、都民、事業者と一体となって取り組み、現在のおぞましい状況にこの東京から決別していきたい」と宣言した[122]。3月19日の定例会見では「私は残念ながらね、(規制の)対象となっているものは読んでもいないし、見てもいないのでねぇ」と言う一方で、漫画やアニメが青少年に害悪を与えることがあるのかどうかについては「ありますよ、そりゃ。(記者に向かって)ないと思うのか君」と述べた[123]。
同条例改正案は2010年(平成22年)6月14日都議会総務委員会において民主共産両党と生活者ネットワーク・みらいの反対票によって否決、同16日に本会議でも否決された。都議会で知事提出の条例案が否決されるのは12年ぶり。修正の上で民主、自民、公明の3党が再提出した結果、2010年(平成22年)12月15日に可決され成立した。
石原本人の著作には18歳未満の児童に対する強姦・輪姦や、障害者女性に対する輪姦などを扱った物があり(『太陽の季節』『完全な遊戯』等。前者の映画化で内容が問題となり設置されたのが映倫である。また、『処刑の部屋』の映画に誘発された犯罪が実際に発生している[124])、この点について ちばてつやは「知事が小説家としてどういう作品を書いてデビューしたかは皆さんご存じだと思う、表現は自由であり若者の支持を得てデビューした原点は忘れないで欲しい、文化が滅びる」と批判している[125]。
2011年(平成23年) 5月17日、東京国際アニメフェアとこれに対抗して予定されていた「アニメ コンテンツ エキスポ」が共に東日本大震災の影響で中止されたことについて、生番組内で「両方とも震災でパーになった。ざまぁみろだ」と発言し、同時に、エロマンガを子どもの手の届くところに置くなという条例を作ったもので、なぜこれが言論統制なのか、と条例案への批判は当たらないとの見方を示し、その場に同席した 田原総一朗は「例えば大人の本でも、ヌードが多い本なんかは、ビニールで囲ってある。その程度のことをやれってことでしょ?」と同意を示した[126]。この際の石原の「ざまぁみろ」の発言に関して、朝日新聞は「このような発言を続ける人物が首都の首長でいられること、そして選んだ都民の神経を疑う」という投書者の声を載せた[127]。
東京都による尖閣諸島購入計画
中国との間で存在する尖閣諸島問題について、2012年(平成24年)4月に、東京都が尖閣諸島を地権者より購入する計画について記者会見し[128]、2012年4月27日より東京都によって東京都尖閣諸島寄附金が募られた。寄附金は2012年10月24日現在で14億7800万円。石原は寄附金を基金化し総選挙後の新政権に託す考えを示している[129]。
東京都による尖閣購入計画が持ち上がっていた当時、東京都議会議員で「尖閣諸島を守る為に行動する議員連盟」会長でもあった野田かずさは、2012年9月に「今年4月16日に石原慎太郎都知事が尖閣諸島を都が購入する計画をワシントンで発表した直後、複数のテレビ局から都議会議員全員に対してアンケート取材がありました。もちろん、都による尖閣諸島の買い上げに賛成か反対かを問う内容です。これに対し、当時私が所属していた自民党は全議員に賛成しないよう緘口令を敷きました」と証言している。[130]
選挙公約
選挙公約 (1期目)
- 都が主導の債券市場にYES
- 踏切のない東京にYES
- 健康を損なう排ガスにNO
- 福祉に立ちはだかる規制にNO
- 借金漬けの財政にNO
- 横田返還にYES
- 首都移転にNO
- 住みやすい東京にYES
- 命が守れない危機管理にNO
- 新しい道徳教育にYES
選挙公約 (2期目)
- 安心・安全の確保、都市の再生から始める「都民福祉の充実」
- 中小企業の能力を引き出す「新しい銀行を創設」
- 都民、国民の健康を損なう「大気汚染を解消」
- 利用者から高い評価を受けている「認証保育所を大増設」
- これまでの日本にない「まったく新しい大学を実現」
- 千客万来の「観光都市を実現」
- 雇用促進のため、利用者に便利な「職業紹介を都独自に実施」
- 都庁の一層の合理化と「第二次財政再建に着手」
選挙公約 (3期目)
- 環境革命の続行
- 子育て支援プログラムと中学3年生まで医療費ゼロ
- 都立施設や都立小中高校の食事・給食に東京ブランドの食材導入推進
- 神奈川県・千葉県・埼玉県の各知事と首都圏知事連合をつくって、道州制を実現
- 2016年に東京オリンピックを招致(2009年に招致失敗)
- 高齢者の起業やNPO法人の活動を支援する機関を作る
- 都庁の展望台や都の保有財産を有効利用して、歳入を増やす
- 公立小中高校グラウンドの芝生化
浜渦副知事の重用と辞任
浜渦武生 も参照 石原は衆議院議員時代の公設秘書で青嵐会の裏方も務めた浜渦武生を副知事に就任させた。石原自身の登庁が週2 - 3日程度であるため、実質的な政務は浜渦がトップダウンでおこなった。意に沿わない幹部を早期勧退させるなど、浜渦の威圧的な姿勢は「知事の威光を背に絶大な権力を振るう“側近政治”」「恐怖独裁」として共産党などから批判された[131]。特に、東京都交響楽団の予算削減問題では、音楽関係者からの反発に加えて、サンデー・プロジェクトに生出演した石原自身に疑問が投げかけられ、石原が弁明する場面などもあり、同交響楽団に対する浜渦による予算削減は、トーンダウンしている。
2005年(平成17年)3月には、都が練馬区に建設した東京都社会福祉総合学院について都議会予算委で浜渦が民主党に質問を依頼した事実が35年ぶりに設置された百条委員会で判明し、同年5月12日には同委員会は質問依頼を否定した浜渦の偽証を認定した。6月2日の都議会では浜渦の問責決議が可決され、浜渦は7月に副知事を辞職した。
石原は浜渦が民主党にやらせ質問を依頼したことについて、「やっぱり責任政党の自民党が質問してくれたら一番よかったと思うし、だから僕はそうさせろと言った」と述べ、自民党に質問を依頼するよう指示したことにも言及している。また、「どうも自民党も動きそうもない。それで、民主党ということになったのかな」と述べた[132]。石原は「やらせ質問」の是非に関しても「話題になれば非常にいいなと思った。それが議会ってもんじゃないの?」と肯定的な見解を示している[132]。
石原は定例記者会見で浜渦を「非常に有能な腹心」「余人を持って代え難い」と再三持ち上げ、「最後は浜渦と私で涙を流して話した。泣いて馬謖を切る以上に大事な人材」と心境を吐露した[133]。
また、浜渦が度々暴力事件を起し、問題になっていたことについては「(殴り合いなど)男の世界には良くあること。むしろ無い方が嘆かわしいね」と発言している[134]。
浜渦の天下りと再雇用
浜渦は副知事辞任直後の2005年(平成17年)9月から、東京都が出資している外郭団体である第3セクターのビル会社東京交通会館の副社長に就任した。
石原は「その後の就職の世話を都としてするのは当然じゃないですか」「あの人材を埋もらせるわけにいかないでしょう、それっきりにして。東京都のためにこれからも働いてもらいますよ」との見解を示し[135]、2006年(平成18年)7月22日に浜渦を年度末まで都の参与(都政の課題について知事に助言する非常勤の特別職)に迎えたことを明らかにした。
政党との関係
東京都議会では自民党と公明党が一貫して与党である。民主党や生活者ネット、社民党(ただし、社民党は2001年東京都議会議員選挙で公認候補全員落選以降議席0が続いている)なども、都知事選挙では対立候補を立てるものの、都議会での議案に対する姿勢などから通常はいわゆるオール与党であるという意見があり、日本共産党からは選挙前の批判はポーズに過ぎないと批判されている。2007年(平成19年)の知事選以降、民主党などは距離を取ることが増えていたが、政権交代後は築地市場の移転関連予算計上に一転賛成したりなど再接近の機会も増えている。共産党は初期には「是々非々」の立場を取っていたが、次第に対決姿勢を強めている。
石原は自民党の都議の選挙には選挙ポスターに一緒に写ったり、応援の演説などを行っていたが、3 期目の知事選出馬の表明後は早々に自ら自民党に推薦を依頼していたが、2007年(平成19年)2月19日に突如「政党の看板に支えられた選挙は合わない」と自民党からの推薦を辞退することを表明した。石原は同年2月22日の都議会において、「手打ち」として都議補選の自民党候補に協力することを約束したが、メンツを潰された自民党都議団は「安倍内閣の支持率が落ちていることを気にしたのだろうが、知事は小心過ぎる」と不満を露わにした[136]。
また、石原は2007年(平成19年)3月21日に公明党に協力を要請しており、公明党側も実質的な支援を決定した。しかしかつては公明党及びその支持母体である創価学会を痛烈に批判していたこともあった[137]。
2010年(平成22年)4月10日、「たちあがれ日本」の命名者として、平沼新党の結党の発起人に名を連ねた。
情報公開
全国市民オンブズマン連絡会議による2006年(平成18年)の第11回全国情報公開度ランキングでは、東京都は閲覧手数料を徴収するという理由により「失格」となり、ランキング外となった(他の失格自治体は香川県のみ)。情報公開度のポイント評価は全国47都道府県中ワースト3に相当する位置付けとなっている[138]。東京都のこの調査における失格評価は石原都政以前も含み2007年まで10年連続である。石原は「公開請求の55%は都外の人で、東京での業務展開に必要とする人が多い。都民の税金を使うわけにいかず、『失格』というのはとんちんかん」と反論している[139]。
疑惑
トーキョーワンダーサイトと四男
東京都の若手芸術家支援事業トーキョーワンダーサイトを2002年(平成14年)に設立。石原都政下では既成の都文化施設に対する予算の減額とは対照的に、ワンダーサイトのみが別格として増額されているが、芸術家としては無名の四男・石原延啓を重用したり、家族や知人を運営に参画させるなど、事業計画・予算決算の不透明な点について公私混同の疑いを指摘されている[140]。
新銀行東京
新銀行東京は本来の目的である中小企業向け融資が1225億円で貸出金全体の約52%にとどまるなど、設立目的が揺らいでいる。また、融資の大半が三男・石原宏高の地盤である品川区と大田区の企業に集中していたことから、身内の選挙対策との疑いも持たれている[141]。石原は設立当時の記者会見(2003年5月)では、貸し倒れが多くなった場合の都税投入の可能性について「公私混同であり幼稚・粗雑・週刊誌的発想」と否定していたが、2008年(平成20年)には都税400億円が経営再建のために出資された。
官官接待
私的な飲食に公費を流用したとして、2000年(平成12年)6月から2003年(平成15年)12月まで78件の飲食費支出は違法だとして計1,194万円の返還を求め、葛飾区の市民団体が知事を提訴していた。
判決が違法支出として認定したのは、2003年(平成15年)6月、東京都中央区築地の高級料亭で石原、棚橋都参与ら8人の会食計341,992円、2003年(平成15年)3月、石原、特別秘書・高井英樹、民放テレビプロデューサーの3人が中央区銀座の割烹料理店で行った会食計58,065円の計約34万1000円の飲食費を支出した2件である。78件中67件は住民監査請求の期限が過ぎているとしたり、残りの9件については棄却した。2007年(平成19年)1月30日、東京地方裁判所の鶴岡稔彦裁判長は2件分の計約40万円については「社会通念を逸脱する違法な支出にあたる」と認定し、石原と特別秘書に対し同額を都に返還するよう命じた[142]。原告側は請求が容認されなかった残件について控訴したが東京高等裁判所は1件のみを認める判決に変更。また最高裁判所(中川了滋裁判長)も2009年5月20日、原告の上告を不受理とした[143]。
現金2000万円受け取り疑惑
石原が元衆院議員や支援者ら計3人(糸山英太郎、水谷建設元会長の水谷功、埼玉県の石材業者T)が用意した現金2000万円を受け取りながら、政治団体の政治資金収支報告書に記載していなかったと共産党機関紙である「赤旗」が主張し[144]、「都内の男性ら」が、石原と資金管理団体の会計責任者を務める特別秘書の2人について、政治資金規正法違反の疑いで東京地検に告発状を提出した。 石原は料亭で元衆院議員らと会食したことを認めているが、現金については「疑惑は一切ない」と全面的に否定し、宴席に同席した糸山も「焼酎は渡したが、現金など渡すわけがない」「作り話」としている[145]。
一方、同じく同席した水谷は金銭授受について「直接はやってない。Aさん(=女性経営者)が用意してた」と、女性経営者が500万円を立て替えたことし、2000万円の金銭授受についても「その話は聞いた」「(石原は)そりゃ、感謝してたわな!」「(宴席後は)みんな上機嫌だった」と話したと『週刊朝日』 (2006年12月29日号) は伝えた。
東京マラソン
石原の主導で2007年(平成19年)から始まった東京マラソンに関して、次男・石原良純がフジテレビからスペシャルサポーターとして現場での司会と選手などへのインタビューを担当した。良純は今回の出演を依頼される以前に石原から「何かあったら広報として力を貸してくれ。頼むよ」と言われていたことをフジテレビの広報ページで語っている[146]。石原が良純に協力を依頼した後にフジテレビ出演が決まったことから、「週刊朝日」は石原とフジテレビの関係に疑問を呈した[147]。
選挙対策と見做された花粉症対策ポスター
2007年(平成19年)に入ってから、"STOP花粉"という文字と石原の写真が大きく写った花粉症対策のポスター5万2000枚が、都内23区と全ての市町村に配布された。東京都森林課により製作され、デザイン、印刷等に要した費用は227万円である。石原は都庁における花粉対策会議の席上「自分ができることをしたい」と積極的な姿勢を示し、15の図案から自身の顔が一番大きく写っている図の採用を決めた。
この「顔写真ポスター」に対し、中央区など7つの区や町内会が、選挙運動期間中の候補者や政治団体による文書図画の頒布を禁じた公職選挙法第146条に抵触する恐れがあるとして、掲示板への掲載を拒否していたが、残りの16区や町内会は問題がないとして掲載していた[148]。
衆議院議員返り咲き後
国会質疑
国政復帰初の2013年2月12日の国会質疑を「国民への遺言」とした。[149]
脳梗塞発症
石原は、議員当選後に「体調不良」から入院し、姿を見せない時期がしばらく続いていた。これに対し、2013年3月28日に『週刊新潮』が「菅直人の周辺が石原の脳梗塞発症説を漏らしている」と報じた[150]。その後、3月30日に退院した石原は、復帰に伴う記者会見において「軽い脳梗塞」を発症していたことを認めた[151]。
政治姿勢・発言
箇条書きは本文に組み入れてほしいと言っていた人がいたようです。 |
政治的には、歯に衣着せぬ発言が支持を得る一方、以下に記す通り、他の民族・文化に対する否認や揶揄と受け取られる発言などが批判され、訴訟に発展するケースもある。しかしながら批判に対しては安易な謝罪や訂正を拒否し、臆することなく堂々と反論を表明するという強気のスタンスを貫き、結果的にこれまで発言によって公職を辞任に追い込まれたことはない。
ABCからはフランスの極右政治家に例えて「日本のル・ペン」[152]、中央日報からは「極右勢力の代表」[153]、フィガロやリベラシオンからは「国家主義的思想の持ち主」「右翼ポピュリスト」[154]、エコノミストからは「日本右翼の年老いたゴロツキ(old rogue of the Japanese right)」[155]と呼ばれるなど、各国のマスコミからは極右政治家と認識されている。
尖閣・島嶼について
沖ノ鳥島に視察上陸しへシマアジの稚魚を放流[156]等、島嶼防衛・尖閣防衛について度々言及し[157]2011年11月に起きた尖閣沖での中国漁船衝突事件ビデオ流出後の記者会見では「なんで政府が発表しないのか。国民の目に実態を見てもらいたいと思って、流出した。結構なことじゃないか」と述べ流出させた海上保安官を肯定した。[158]
日本国憲法について
自主憲法制定論を持論としている。 現在の日本国憲法は勝者が敗者を統治するための占領基本法で戦勝国が押し付けた占領憲法であるとしている。占領憲法は勝者の敗者に対する統治の方法としてしか使われてなかったという事で否定したら誰も反対する法的な根拠はないとして、議会で現行憲法の廃棄決議をした上で自主憲法を制定すべきとしている。[159][160][161] 天皇を日本国の元首と表現し、憲法に天皇を元首と明記すべきとの見解である。[162][163]
2002年12月11日の都議会で日本国憲法について「改憲手続きなんていう面倒なことはせず、衆議院で破棄決議をすればいい」と発言した。
2013年1月13日のNHK「日曜討論」などのインタビューでも、目標を「憲法を変えること」と明言。また「三木武夫がつくった武器輸出三原則や防衛費1%枠などの政策は変えるべきだ」と発言した。
佐野眞一について
佐野眞一が橋下徹・大阪市長の出自をめぐる週刊朝日の連載記事で問題となった際に「橋下さんにも子供がおり、その子供にまで影響する。文筆を借りて、他人の家族までおとしめるという物書きは許せない」「同和や被差別部落の問題について強い偏見を持っている」「私も被害者の一人。父親の本籍地に出かけ、石原一族は同和、部落ではないか、と誘導尋問をしていたと報告があり、あきれた」「出自や親族の職業をあげつらい、それがDNAとして受け継がれて危険だというのは、中傷誹謗の域を出ない卑劣な作業だ。」と述べている。[164]。
慰安婦について
慰安婦について、「日本人が彼女たちを強制連行した証拠はない。生活が苦しい時期、女性が売春をすることは金をもうけるための仕事のひとつだった。彼女たちは自らこの仕事を選んだ」と発言した。[165]
東京消防庁のハイパーレスキュー隊員に涙ながら感謝
東日本大震災の際に福島第1原発事故で放水活動を行った東京消防庁のハイパーレスキュー隊員らを前に涙ながらに「ありがとうございました。」と頭を下げた。[166]
軍事に関して
2011年6月20日の記者会見では、「日本は核(兵器)を持たなきゃだめですよ。持たない限り一人前には絶対扱われない」「日本が生きていく道は軍事政権を作ること。そうでなければどこかの属国になる[167]。徴兵制もやったらいい」と発言した。[168]。2011年8月5日にも記者会見[169]で、また2013年4月5日にも朝日新聞とのインタビューで「日本は強力な軍事国家にならなかったら絶対に存在感を失う」と主張している[170]。
諸外国に対する見解
国際連合
国際連合に対して、「国際連合憲章の精神って何ですか。金科玉条なんですか。国連てそんなに大したものなんですか。神様みたいな存在ですか。冗談じゃないですよ」「今ごろ国連憲章なんて、まともに信じている馬鹿いませんよ」[171]。
台湾
中国共産党の一党独裁国家である中華人民共和国への批判的な姿勢(詳細は下記を参照)とは対照的に、同国と対立関係にある議会制民主主義国家である台湾(中華民国)に対しては非常に友好的な姿勢を取っている事で知られている(但しその中華民国も、台湾で1948年に再建されてから1987年まで中国国民党が戒厳を布告していた独裁だった史実には沈黙)。都知事就任後も数回に渡り同国への渡航を行う他、各種行事に参加している。また、中華人民共和国との間に国交を樹立し中華民国との国交を断絶した日本政府の姿勢(「一つの中国」論)に対しても批判的である。
なお、2008年中華民国総統選挙において国民党の馬英九は台北市長時代の性風俗の取り締まりの厳しさやパフォーマンス的な言動から「台湾の石原慎太郎」と民進党支持者から揶揄された[172]。
中華人民共和国
2005年の中国における反日活動では「民度が低い」と非難し、中華人民共和国を「支那」と呼んでいるが、本人は「蔑称ではなく、尊敬して昔の呼び名で呼んでいる」「中国の人が屈辱に感じていることを知らなかった」と主張している。北京オリンピックについては「ヒトラーの非常に政治的なベルリンオリンピックに、ある意味似ているような気がする」[173]と発言していた。その反中の姿勢が東京でのオリンピック開催の実現を困難にする可能性が高かったが(中華人民共和国は、ODAを元にアジアやアフリカの一部の発展途上国に影響力を持つ)という指摘もあったが[174]、 2016年夏季五輪招致に北京市の協力を要請して、中華人民共和国の招待に応じて開会式に出席した。「大国の度量を見せるもの」として中国のネットも支持した。「日本と中国が組めば技術でヨーロッパと対抗できるんだからいろいろやりましょう。」とまで述べた。2009年(平成21年)に北京副市長・黄衛が訪日の際に石原は「東京の技術は進んでおり、見たいものは全部見ていってください」と述べ、黄副市長は「これからも交流を活発にしていきたい」と応じた。日中間の領土問題において、東京都の沖ノ鳥島は岩である旨主張し続ける中国共産党政府の態度、また事前通知無しで調査船を派遣していることに対し反発している。そのため、都知事の立場から「日本の経済水域であることを実証する」として、沖ノ鳥島に上陸して日章旗を掲げる等のパフォーマンスを行っている。在日中国人による犯罪について「民族的DNAを表示するような犯罪が蔓延することでやがて日本社会全体の資質が変えられていく恐れが無しとはしまい」と発言した[175]。2008年1月、中華人民共和国から輸入された冷凍餃子に毒が混入していた事件(毒入り餃子事件)に関して「独裁統制国家なんだから、しっかりしてもらわないと困りますな」と、中華人民共和国当局を批判した[176]。2月には「中国の領土拡張姿勢に日本が賢明に対処しなければ、五星紅旗の"六番目の星"になるだろう」と発言している[177]。
2010年、石原は「反中国ではなく、反中国の共産主義」などと述べた。「僕は中国の歴史や文化が好きだ。しかし、中国の共産主義が嫌い」「中国は反対しないが、共産党支配下にある中国は、日本にとって脅威となる」などと述べた。共産党や共産主義を中国とは分けて考えている石原氏の論点は素晴らしいと、ラジオ自由アジア(RFA)は四川省作家・冉雲飛氏の言葉を引用して評価した。また、石原はインタビューの中で、人間にとって「自由」が最も大事だと述べた。そのため、自由のない独裁国家は嫌いで、戦時中の日本も嫌いだと語った。また、アメリカと中国の高圧的な態度に嫌悪感を抱いていることを表明し、尖閣諸島問題で中国が5回にわたって日本の駐在大使を呼びつけることは、日本に対する侮辱行為だと批判した[178]。2013年に石原が脳梗塞で入院した際、掲示板では“ハッピーニュース”として喜ぶ声が殺到した一方で「石原氏はかなりの中国通で、中国政府は嫌いだが中国文化は好きだと言っている。中国に対する理解は並みの中国人以上だし、多芸多才な民族主義者だよ」と一定の評価をするコメントも見られた[179]。
北朝鮮
北朝鮮による日本人拉致問題が公になって以降は強硬な姿勢を貫いている。Webキャスターの草薙厚子によれば、1998年(平成10年)に「朝鮮民主主義人民共和国がノドン何号かを京都へ撃ち込んでくれれば、この社会もちっとはピリッとするんだろうけどね」との発言を行ったという[180]。2002年には『ニューズウィーク』のインタビューに応じ、映画『風とライオン』の内容(モロッコのリフ族に拉致されたアメリカ人教師をセオドア・ルーズベルト大統領が軍艦を送って取り戻したエピソード)について語り、「国家の国民に対する責任を示している」「私が総理であったら、北朝鮮と戦争してでも(拉致被害者を)取り戻す」「アメリカがそれに協力しないとしたら、日米安保条約は意味がなくなる」と述べている[181]。2009年には、北朝鮮による拉致被害者を救出する知事の会を泉田裕彦新潟県知事や上田清司埼玉県知事らと共に設立し、会長に就任。47都道府県の知事のうち達増拓也岩手県知事ただ一人が参加しなかったため、会見では「民主党代表の小沢一郎さんの出身地である岩手の知事を除いて……何でかは知りませんよ私は」と皮肉った(後に達増知事は一転、参加を表明)。また会見で、北朝鮮は中国に併合されたほうが良いと発言した[182]。これに対して韓国の政治家や北朝鮮政府は反発を見せた[183][184]。
朝鮮総連施設・朝鮮学校への対応
朝鮮総連施設は、1972年(昭和47年)に当時の美濃部亮吉東京都知事が「外交機関に準ずる機関」として認定して以来、多くの自治体が朝鮮総聯の施設を事実上の外交機関や公共施設に準ずるものとみなして、固定資産税や不動産取得税の減免措置を行ってきたビザやパスポート発行代理業務を行うなど北朝鮮の窓口機能があったため、「外交機関に準ずる機関」又は「公民館的施設」という名目の下に課税減免措置がとられていたが、2002年(平成14年)9月の小泉純一郎首相(当時)訪朝で北朝鮮が拉致問題への関与を認めたことを境に、国内の北朝鮮関連組織や施設への優遇措置が見直されるようになった。 2003年(平成15年)、東京都は朝鮮総連の関連施設について「所有者の大半が関連企業(朝鮮総連が法人ではないため)であったり、外交とは無関係なものがある」などとして方針を変更、これらの一部について固定資産税を課すこととした。他の自治体にもこれに追随して固定資産税の減免を解除する動きがあったが、この時点では従来通り減免措置を継続する自治体が多かった。こうした措置に対して朝鮮総連や北野弘久など一部の法学者は反発し、行政訴訟や民事訴訟で争われた。東京都にある朝鮮総連中央本部の不動産への固定資産税などの課税処分をめぐり、登記上の不動産所有者である合資会社「朝鮮中央会館管理会」が、東京都に課税処分取り消しなどを求めた民事訴訟では一審、二審とも請求を棄却。2009年8月12日、最高裁も上告を退け総連側の敗訴が確定した。 この固定資産税などの減免措置を巡っては、「北朝鮮に拉致された日本人を救出する熊本の会」の加納良寛会長が熊本市長を相手取り、朝鮮総連施設への課税減免措置の無効確認を求めた訴訟を起こした。2005年(平成17年)4月21日熊本地裁(永松健幹裁判長)は「公益性を備えた公民館類似施設と評価でき、減免に違法性はない」熊本市の主張をほぼ全面的に認め原告の訴えを退けた。これを不服として原告側は控訴し、2006年(平成18年)2月2日に福岡高裁(中山弘幸裁判長)が、「朝鮮総聯の活動に公益性はなく税の減免措置は違法である」とする判決を出した。熊本市長はこれを不服として上告したが、2007年(平成19年)11月30日最高裁第二小法廷(中川了滋裁判長)は熊本市長の上告を棄却し減免措置は違法とした高裁判決が確定した。 この最高裁判決により朝鮮総連施設に対する税減免措置の見直しは急速に進んだ。2013年(平成25年)現在、朝鮮総聯関連施設があるとみられる自治体が全国で128。通常課税の自治体が114。全額免除の自治体は0。一部減免の自治体が10。施設なしと回答した自治体が4である。[185] 石原は「反日教育をしてわれわれの同胞を拉致する手助けをしていた、そういう組織がそれに連脈のある教育をこれからもするなら、援助するいわれはない」として調査をした上で2012年の予算から朝鮮学校への補助金を除外し朝鮮学校補助金を停止した。[186]。 2012年当時、東京都議会議員で尖閣諸島を守る為に行動する議員連盟」)の会長でもあった 野田数は「私は以前に都議会で、拉致問題が解決していないのだから朝鮮学校への補助金は凍結すべきと主張しました。その際も自民党から妨害を受けました。」証言している。
米国
日米安保に反対する「若い日本の会」に大江健三郎、江藤淳らと共に参加し、反安保集会に日活俳優を総動員するよう指示するなどした[187]。 政治家となって以降は、日米安保は支持するものの、日米両国で話題を呼びベストセラーとなった『「NO」と言える日本』を出版するなど、常に第二次世界大戦以降のアメリカの覇権主義的な態度には疑問を呈し続けている。1989年代のジャパンバッシングの際には「何の努力もせずに文句だけつけて来る」として批判した。都知事として米国に横田基地返還を求め続け、石原の要求は2005年に見通しがついた2006年10月27日の横田空域の航空管制権の一部返還日米合意により部分的に実現する。[188]「都で尖閣諸島を買う」とヘリテージ財団で講演する(2012年4月)
TPP反対
2011年(平成23年)10月28日の記者会見で、TPPについて「あんなものはアメリカの策略で、みんなもうちょっと頭を冷やした考えたほうがいい」「国民皆保険や日本の寿命の高度化はおそらく基本的にぐらついてくる」と主張、TPP参加反対の姿勢を示した[189]。
南アフリカ共和国
1984年(昭和59年)6月に結成された日本南ア友好議員連盟の副長であった[190]。同議連には40人が参加し、南アフリカ共和国で実施されていたアパルトヘイト政策に対する国際的非難が強まっていた状況下で、レアメタルなどの希少金属の確保を目的とした活動をおこなっていた。
諸団体との関係
全国犯罪被害者の会 (あすの会) の支援活動
2000年(平成12年)、犯罪被害者の権利確立を目指す全国犯罪被害者の会代表幹事の岡村勲弁護士が文藝春秋に寄稿した「私は見た『犯罪被害者』の地獄絵」を読み感銘を受けた石原のほか、瀬戸内寂聴(作家)、奥田碩(経団連会長、如水会理事長)、樋口廣太郎(アサヒビール名誉会長)が代表発起人となり「犯罪被害者の会を支援するフォーラム」が設立された。事務局長には石原と大学同期の高橋宏(首都大学東京理事長、如水会副理事長)と、山本千里(如水会理事兼事務局長)が就任した[191]。
同フォーラムは全国犯罪被害者の会へ経済的支援を行い、2004年(平成16年)の犯罪被害者等基本法の成立、2007年(平成19年)の刑事訴訟法改正による被害者参加制度創設、2008年(平成20年)の犯罪被害者等給付金の支給等による犯罪被害者等の支援に関する法律改正の実現などに尽力した[192][193]。
岡村は2007年(平成19年)4月に開かれた如水会有志による「石原慎太郎東京都知事、激励と懇親の会」に出席、来賓祝辞を述べ、2007年東京都知事選挙で再選を目指す石原を激励した。2010年(平成22年)には全国犯罪被害者の会創立10周年記念シンポジウムが有楽町で開催され、代表幹事の岡村の開会あいさつの後、石原の祝辞があった。
在日外国人・諸文化に関して
在日韓国・朝鮮人をはじめとする日本の外国人、及び外国文化を否定・揶揄する発言を頻繁に行い、政治問題化することがよくあるが、一方賛同する意見もある。
1983年の衆議院議員総選挙に際して、東京2区で対立していた自民党候補新井将敬の選挙ポスターに石原の第一秘書である栗原俊記が「'66年北朝鮮より帰化」というシール3千枚を貼って回り、現行犯逮捕された(黒シール事件)[194]。この件に対して民族派右翼の野村秋介が石原の自宅に押しかけ「日本民族の顔に泥を塗る破廉恥行為である」として抗議行動を行っている要出典。なおこの際に総務会で「帰化人に被選挙権を与えるべきではない。」と述べている要出典。なお、後述のとおり外国人地方参政権には強硬に反対している。2001年(平成13年)5月には、中国人犯罪について「民族的DNAを表示するような犯罪が蔓延することでやがて日本社会全体の資質が変えられていく恐れが無しとはしまい」と主張した[199]。
2003年(平成15年)11月2日、TBS『サンデーモーニング』が「日韓合併を100%正当化するつもりはない」という石原が述べた発言の語尾を編集して「日韓合併を100%正当化するつもりだ」とテロップ入りで事実とは異なる放送をした。石原側はこの放送内容に抗議を行ったもののTBSから誠意ある回答が得られないとして刑事告訴した。その結果、名誉棄損容疑で TBSの社員ら4人が東京地検に書類送検されたが[200]、東京地検は証拠不十分による不起訴処分とした。TBSは「ミス」として番組で謝罪した。
2004年(平成16年)10月、都庁内であった首都大学東京の支援組織設立総会でフランス文学が好きでフランス語を勉強したと述べた上で「フランス語は数を勘定できない言葉だから国際語として失格しているのも、むべなるかなという気がする」「都立大はフランス語の講師が8人いて、受講者は1人もいない」との主旨の発言をした。これに対し東京都立大学人文学部フランス文学専攻教員らが「石原東京都知事に発言の撤回を求める」と声明を発表した[201]。後にフランス語教育関係者らによる訴訟に発展した[202]。 韓国人については「韓国に対する差別意識はない。私がもっとも尊敬する政治家は朴正煕大統領だ」との認識をインタビューで語っている[203]。また金田正一の項目に引退時のエピソードが詳述されているように帰化人の金田や在日コリアンのつかこうへいとも親交がある。また思想的に正反対でありながらも柳美里を作家として評価する発言をした事もある。他方で、オリンピックの福岡誘致を応援した姜尚中を「怪しげな外国人が出てきてね。生意気だ、あいつは」と非難した[204]。
外国人参政権
民主党や公明党などが成立を目指す外国人地方参政権については「危ない試み」「発想そのものがおかしい」「絶対反対」「日本に永住する方なら日本の国籍取ったらいい、問題起こしてないんだったら」等々、反対意見をはっきり述べている[205][206][207][208]。
2010年(平成22年) 3月3日、都議会で、永住外国人に対する地方参政権付与問題について見解を問われ、「絶対反対だ」と答弁、外国人参政権について改めて反対の意思表示をした[209]。
移民
移民の受け入れについては大賛成との立場をとり「アジアの人々を秩序ある移民政策のもとで正式に受け入れるべきである」と主張している[181]。
日本人
「日本人には携帯電話を使って売春する子供が、小学生でもざらにいる。300万円、1000万円も貯めて、それを駅のコインロッカーに隠している。こんな風俗は他の国にはまずない[210]」と主張している。石原はその主張の根拠として読売新聞社会部が著した「親は知らない―ネットの闇に吸い込まれる子どもたち」という書籍を挙げているが、実際の「親は知らない」には前述したような売春して大金を稼ぐ小学生は紹介されていない[211][212]。
「ニート」・フリーター
ニート・フリーターについて、「ニートなんて格好いいように聞こえるけど、みっともない。無気力・無能力な人間のことです」[213]「今、ニートなんて、ふざけたやつがほとんどだよ」[214]「フリーターとかニートとか、何か気のきいた外国語使っているけどね、私にいわせりゃ穀つぶしだ、こんなものは」[215]との見解を示している。田中良都議から、石原が (働いている) フリーターも穀つぶしと非難したことはワーキングプアに対しての無理解であるとの指摘を受け、「私の言葉を勝手に引用されまして歪曲されていますが、私が穀つぶしといったのは、これはフリーターじゃありませんよ。ニートのことはそう申しました。こういう歪曲した引用というのは非常に卑劣だと思います」と反論した[216]。
ネットカフェ難民についても否定的な意見を持っており、2008年10月3日の定例会見では、「山谷に行けば1泊200円、300円で泊まれる宿がいっぱいあるのに、ファッションみたいな形で1泊1500円払いながら『オレは大変だ』なんて言うのはねえ」と述べ、彼らが苦境に陥っているとするのはマスコミの偏向だと主張した[217]。この発言は台東区長から猛抗議を受け、1週間後の定例会見で「数字が異なった」と撤回したが、同時に「1500円より安いとこ行ったらいいじゃないですか」とも述べている[218]。
年越し派遣村問題については、2009年(平成21年)1月5日、年頭の挨拶において厚生労働省の対応を批判した[219]。
東日本大震災について
2007年(平成19年)4月8日の都知事選で当選が決まった直後、会見で「阪神大震災では首長の判断が遅くて2000人が死んだ」と発言。震災当時の兵庫県知事・貝原俊民が「見当違い」と反論を行った。反論を受けた石原は4月27日の定例会見で、「ちょっと数字は違ったかもしれない」「佐々さんの受け売りなので、彼に聞いてほしい」と発言[220]。 2011年(平成23年)3月14日には、東日本大震災により日本の東北地方で広範囲が津波の被害を受けたことに関して、「被災者の方々はかわいそう」としながらも、「アメリカのアイデンティティーは自由。フランスは自由と博愛と平等。日本はそんなものはない。日本人のアイデンティティーは我欲。物欲、金銭欲。この津波をうまく利用して我欲を1回洗い落とす必要がある。やっぱり天罰だと思う」とコメントした[221]。同日、記者会見で「天罰」発言について「意味がどうあれ、被災された方にとっては非常に不謹慎な発言だと思いますが、撤回されるお考えはありませんでしょうか」と追及されると、「『被災された人は非常に耳障りな言葉に聞こえるかもしれないが』と言葉を添えた」と釈明して撤回をしなかったが、実際にはそのような言葉は添えていなかった[222]。この発言に対し、津波被害を受けた宮城県の村井嘉浩知事が不快感を示したほか、長渕剛も、自身のラジオ番組『長渕剛 RUN FOR TOMORROW ~明日に向かって~』で「ふざけるな石原。東北の人たちが何をした」と非難。果てはメールや電話による批判が東京都庁に多数殺到したため、石原は翌3月15日の会見で「天罰」発言を撤回して謝罪をするに至った[223]。
この石原の「天罰」発言は、日本だけでなく韓国でも大きく取り上げられた。韓国メディアは、「日本の韓国併合は韓国人が望んだことだ」とする石原の過去の問題発言にも触れつつ、「韓国人が望んで日本人が韓国を併合したとの妄言で悪名高い石原知事が今度は自国民に大きな傷を負わせた」「石原知事が自国民にまで毒舌」などと批判的な報道を繰り広げた。さらに、石原が折しも自らの4期目当選を狙って都知事選への出馬表明をした直後に「天罰」発言を行ったことについて、韓国メディアは「苦しみや悲しみに耐えながら頑張っている国民に慰めるどころか大きな傷を与えた石原知事に対し、東京の有権者が(今回の都知事選で)どのような判断を下すのか注目される」とコメントしている[224]。また、三宅久之が支持をする一方、桂ざこばからは「共感できない」と苦言、泉谷しげるなどは激怒しながら批判をした。
ジェンダー・性について
ジェンダーフリー問題を巡り、リベラル・左派勢力やフェミニストとは犬猿の仲で日常的に応酬し合っている。「女性が生殖能力を失っても生きているってのは無駄で罪です [225]」「男は80、90歳でも生殖能力があるけれど、女は閉経してしまったら子供を生む能力はない。そんな人間が、きんさん・ぎんさんの年まで生きてるってのは、地球にとって非常に悪しき弊害」「文明がもたらしたもっとも悪しき有害なものはババァ」[226]と識者の話を引用する形で発言をし、裁判に発展したが、最高裁で石原側の勝訴が確定している。性の問題については『太陽の季節』などの小説で奔放な性を描き、 都政でも未成年者の性交を禁止する条例案には疑問を示しており、必ずしも保守派と同じ歩調を取っているわけではない[227]。
女性専用車両について
2012年2月24日の都庁定例記者会見で、記者から「女性専用車両は差別では」との質問に際に、「混雑差はそんなにあるのか」「女性は弱者ではない」「今度俺が女性専用車両乗ってみるが痴漢扱いされたら問題提起する」と、女性専用車両にある数々の問題を厳しく指摘する見解を示された。
しかし、その一方で、知事をしていた当時、東京都交通局では都営地下鉄に女性専用車両を設置している。
同性愛について
日本におけるLGBTの権利#政党と差別の歴史 も参照 かつて作家仲間で、保守・マッチョ指向で同性愛傾向のあった三島由紀夫が活躍した時代は、石原氏も同性愛にそれほど否定的というわけでもなかった。例えば、三島由紀夫が同性愛者を主人公にして書いた小説『禁色』について、既成の価値への「挑戦と復讐」を「面白くて、ぞくぞくして読んだ」[228]と語っている。また自著の『真実の性教育』(1972年,光文社)では、「同性愛など、そうした衝動が衝動として異常とは、けっして言いきれない。」「それを日々の性愛の生活のなかにいちいち体現するのは、これはアブノーマルかもしれぬ。しかしある程度のものは、じつは性生活、性愛のスパイスのようなもので、適度に用いられれば、性生活、性愛の高揚につながるはずである」といっている[229]。
だが近年、同性愛者の中でも極端に女性度が高いいわゆる「オネエキャラ」(トランスジェンダー)の人々のメディア露出が急激に増えた頃から、彼らへのホモフォビアを伺わせる発言をするようになっている。例えば、2010年(平成22年)12月3日の記者会見で、「テレビなんかにも同性愛者が平気で出るでしょ。日本は野放図になり過ぎている。」と発言をした[230]。同年12月7日、この発言の真意を記者から尋ねられ、「どこかやっぱり足りない感じがする。遺伝とかのせいでしょう。マイノリティーで気の毒ですよ」と答えた。さらに過去に米・サンフランシスコを視察した際の感想を振り返り、「ゲイのパレードを見ましたけど、見てて本当に気の毒だと思った。男のペア、女のペアあるけど、どこかやっぱり足りない感じがする」と話した。同性愛者のテレビ出演についても、「それをことさら売り物にし、ショーアップして、テレビのどうのこうのにするってのは、外国じゃ例がないね」と改めて言及した[231]。この発言は日本国外でも問題になり、国際人権団体ヒューマン・ライツ・ウォッチは発言を撤回すべきだとする声明文を発表した[232]。またWSJの日系記者は日本国内の一部のメディアしか大きく問題視しなかったことに疑問を呈した[233]。但し、同性愛者の中でもテレビによく出演しているトランスジェンダーやオネエの人々は、自ら「所詮、私はオカマだから」(マツコDX)「私たち汚いオカマは…」(おすぎ)などと、石原氏のホモフォビアと通ずる発言をすることが多い。また同性愛者の中でも男性的なゲイの中には、オネエキャラをことさらメディアで売り物にする一部ゲイの姿勢に嫌悪感を催したり、同性愛者のステレオタイプ化を助長していると批判するものも多い。
一方、2010年には同性愛者コミュニティや一般社会の橋渡し役となった個人や団体を表彰する目的で開催されるTokyo SuperStar Awards (TSSA) の「ラズベリー賞」(ゴールデンラズベリー賞のオマージュ)を受賞した。TSSA公式サイトよると、反同性愛的な独自の主張を展開しながらも、同性愛者が市長や市議会議長であるパリ市・ベルリン市及びニューヨーク市との姉妹友好都市を提携し、また、都民サービスの一環として東京都庁をTSSAの授賞式に利用させたり、2007年のLGBT パレードに都として後援したりするなど、「私利私欲・主張を傍らに、真摯に東京都民の公益のみに邁進」している点が評価されての受賞となった。副賞として、苺のミルフィーユ味のアイスクリームが送られた[234][235]。
その後、2012年、吉田豪によるインタビューでは同性愛者の美輪明宏について、彼が自分のことを凄い憎んでいたらしい、呪い殺すとかいったらしいと触れた上で、「大体男が、あの歳であんな格好で出てきやがってと思ってたけど、美輪も同時に気の毒になってきた」と発言した。おすぎとピーコについては、かつて選挙後の番組で税制の議論になった時に、「君ら歌手か?」と聞いたところ、(私たちオカマです、というから)「おまえらオカマか! 俺はオカマとナマコは大嫌いなんだよ!」と語ったと述べた[236]。ただこのインタビューでも、「(同性愛者に)都知事は絶対ならないといわれたらしいですね。」との問いに、石原は「ああ、僕は純粋なヘテロですからね。」といいつつ、「いや、わからんよ、どんでん返ったら。」と発言してもいる。
こうした一連の発言の一方、高校教師と生徒との同性愛関係を描いた『バスタオル』(福島次郎著)が1996年(平成8年)、第115回芥川賞候補となった際、石原はこの小説を強く推し、「ここに描かれている高校教師とその生徒との関わりは間違いなく愛であり、しかも哀切である。誰かがこれが男と女の関係ならばただの純愛小説だといっていたが、もしそうとしてもそれがなぜ小説としての瑕瑾となるのか」、「この作品だけが私には官能的なものとして読めた。小説が与える官能こそが小説の原点的な意味に違いない」と賞賛している。因みに著者の福島は、三島由紀夫との赤裸々な同性愛関係を綴った「剣と寒紅」の著者でもある。石原が嫌悪するのは男性的な同性愛というより、女性的なトランスジェンダーのようでもあるとされる。
原子力発電所事故について
石原は自らを「原発推進論者」であると公言している。東京都知事に就任した翌年の2000年(平成12年)4月26日、東京国際フォーラムで開かれた日本原子力産業会議の第33回年次大会の場において、石原は「完璧な管理技術を前提とすれば、東京湾に原子力発電所(原発)を造っても良いと思っている」などと発言していた[237]。ただし石原の構想は、東京都の電力依存を軽減するために、(津波や巨大地震をやり過ごせる)フローティングシステムの上に、東芝製の4S炉のような5万キロワットクラスの超小型原発を必要数東京湾に浮かばせるという具体的なものであった[238]。
その後、2011年(平成23年)3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震の影響で福島第一原子力発電所が爆発事故を起こし、大規模な放射能汚染が福島県のみならず東京都民の生活にも深刻な悪影響を及ぼしている状況の中で、石原は同年3月25日に福島県災害対策本部を訪問した際、報道陣の前で「私は原発推進論者です、今でも。日本のような資源のない国で原発を欠かしてしまったら経済は立っていかないと思う」などと発言した[239]。2011年東京都知事選挙において、東国原英夫・渡邉美樹・小池晃など他の立候補者が原発の危険性を強く指摘し、原発の廃止や見直しを訴えていた中、原発の増設・推進に賛成の意を表していた立候補者は石原だけである。ただし東京の臨海地帯に東京風ぐるまの建設を許可するなど、再生エネルギーを否定しているというわけではない[240]。
天皇・君が代
運輸相だった1989年9月22日の記者会見で「天皇陛下は元首でもあるが、それ以上に、国民のおとうさんみたいなものだ」と述べた。[241]天皇を元首とし憲法に明記すべきとの見解である。 [242][243] 天皇に関しては、『文藝春秋』1959年(27歳頃)8月号で「天皇が国家の象徴などという言い分は、もう半世紀すれば、彼が現人神だという言い分と同じ程度笑止千万で理の通らぬたわごとだということになる、というより問題にもされなくなる、と僕は信じる」[244]と発言したことがある。深沢七郎の小説『風流夢譚』が皇室への不敬とされる描写で物議をかもした折は、『週刊文春』1960年(28歳頃)12月12日号で「とても面白かった。皇室は無責任きわまるものだったし、日本に何の役にも、立たなかったのだ。そういう、皇室に対するフラストレーション(欲求不満)を、われわれ庶民は持っている。この作品の感覚は、庶民の意識としては、ぜんぜんポピュラーだ、読んでいてショックもなかった」[245]と、この小説を賞賛したこともある。また、オリンピック誘致活動において皇族の協力を求めている。今上天皇へ皇居のライトアップを奏上したことを公表し、宮内庁に咎められたこともある[246]。これに対して石原は「宮内庁ごときが決める問題ではない」と宮内庁を批判し皇族の協力を要求した[247]。また東日本大震災後の記者会見では復興に邁進する国民を賞賛した上で「戦前の日本は天皇を現人神とあがめるなどおかしな国だった。今の北朝鮮と大差がなかった。」と戦前の国体等に否定的な発言をしかつて復古主義的だと一部左派勢力から批判された言動とは一線を画す発言をしている。
月刊ペン 1969年11月号に掲載された三島由紀夫は石原慎太郎との対談『守るべきものの価値』内で、日本のアイデンティティーとして三種の神器、宮中三殿を守らなくてはならないと発言しているが、これに対し石原は、「またそんなことを言う」と、三島を小馬鹿にしている。そのため三島はこの対談の最後の方で、「(戦後のパーソナル化・週刊誌化された天皇制のせいで)天皇の本質というものが誤られてしまった。だから石原さんみたいな、つまり非常に無垢ではあるけれども、天皇制廃止論者をつくっちゃった」[248][249][250]と述べている。 また、その後、三島は村上一郎との対談『尚武の心と憤怒の抒情―文化・ネーション・革命』の中で、「石原と小田実って、全然同じ人間だよ、全く一人の人格の表裏ですな」と言い、石原の天皇に対する無理解を批判している[251][249][250]。
2008年(平成20年)2月には「あそこで装備を見せることで国民の自覚、危機感が出てくる」として弾道ミサイルを地上から迎撃する航空自衛隊の地対空誘導弾ペトリオットPAC-3を皇居前広場で展開すべきとの見解を示した。
毎日新聞(1999年(平成11年)3月13日付)のインタビューにて「日の丸、君が代を学校の行事に強制しますか?」という質問に対し「日の丸は好きだけれど、君が代って歌は嫌いなんだ、個人的には。歌詞だってあれは一種の滅私奉公みたいな内容だ。新しい国歌を作ったらいいじゃないか。好きな方、歌いやいいんだよ。」と答えている。しかし、都知事就任後は文部省の決定に則して都立学校の公式行事における君が代の斉唱と国旗掲揚の徹底をし、君が代を起立して斉唱しなかった教師に対し懲戒処分を行った[252]。
天皇の靖国神社親拝を期待する発言を行う一方、A級戦犯の靖国合祀に関しては異議を唱えており[253]、「靖国が日本の興亡のために身を挺して努め戦って亡くなった功ある犠牲者を祭り鎮魂するための場であるなら、彼等を無下に死に追いやった科を受けるべき人間が鎮魂の対象とされるのは面妖な話である」「戦争の明らかな責任者を外して合掌している」と述べている。拳銃が決して致命に至らぬ最小の22口径で自決しようとした東条英機より、潔く自決した大西滝治郎中将や阿南惟幾陸相を靖国へ合祀しない事に異議を唱え、さらに東條を嘲笑した文章を述べ、これに日本文化チャンネル桜で東條由布子も抗議した。石原は東条の「戦陣訓」の中の「生きて虜囚の辱めを受けず」なる文言が当時の日本の社会の中でいかに恐ろしい拘束力を持ち、いかに多くの犠牲者を生み出したか、と述べている。ただし石原自身かつて小谷喜美との対談の中で「日本が行った戦争がすべて侵略だから靖国に参拝するななんていう進歩的文化人の連中はおかしい。」とも述べている。
東日本大震災の発生から少し経った2011年(平成23年)3月30日、天皇に対し皇太子徳仁親王夫妻と秋篠宮夫妻を名代として被災地への見舞いに差し向けることを建言するも、天皇は「東北へは私が自分でいきます」と答えた。のちに天皇は被災した各地を慰問したが、2012年(平成24年)2月に天皇が狭心症と診断されたことから、石原は「私の建言なんぞの前に陛下はとうにご自分で心に決めておられていたのだと思う」としつつも「しかし陛下にじかに、余計だったかも知れぬ建言を申し立てた私としては、陛下が心臓の病で倒れられたと聞いた時密かな自責の念に囚われぬ訳にはいかなかった」と記し、「(東日本大震災一周年追悼式にて)式辞を述べられ退席される陛下に出来れば私は、二階正面から陛下の御健勝を祈って天皇陛下万歳を叫びたかった」「陛下はその身の危うさを顧みることなく見事な君主として、そして見事な男として、その責を果たされたものだと思う」と天皇を称えた。[254]
文學界の2014年3月号で、聞き手の中森明夫から皇室について考えを尋ねられ、「いや、皇室にはあまり興味ないね」と答えている。「僕、国歌歌わないもん。国歌を歌うときはね、僕は自分の文句で歌うんです。『わがひのもとは』って歌うの」。そして、こう歌うと周りの人たちが驚いて振り返るのだと明かしている。さらに、皇室については、小学生のときに皇居の前で父親に「頭下げろ」と小突かれ、「姿も見えないのに遠くからみんなお辞儀する。バカじゃないか、と思ったね」とも述べている。[255]
障害者
1999年(平成11年)9月に東京都知事として府中療育センター(重度知的・身体障害者療育施設)を視察した後、記者会見で「ああいう人ってのは人格あるのかね。ショックを受けた。ぼくは結論を出していない。みなさんどう思うかなと思って。 絶対よくならない、自分がだれだか分からない、人間として生まれてきたけれどああいう障害で、ああいう状態になって」と発言した。次いで「おそらく西洋人なんか切り捨てちゃうんじゃないかと思う。そこは宗教観の違いだと思う。ああいう問題って安楽死につながるんじゃないかという気がする」と発言意図を説明した。
上記の発言が一部のメディアで問題発言として報道され、知的障害者団体からも抗議された。石原は「文学者としての表現」と弁明している[256]。
東京新聞はさらに詳しく発言を取材しており、視察の帰りがけに「入所者は自分がだれだか分からない。(彼らに)人生がない、というくくり方をする人もいるが、それなりの人生があるんだという一つの確信を持って仕事をしているのは、素晴らしいことだ」と発言していることを報じた。
石原は自身の発言を差別発言として報道した朝日新聞社に対して、産経新聞紙上で「卑劣なセンセーショナリズムであり、アジテーションであり、社会的には非常に危険なこと」として批判している。
老人の出処進退について
1975年(昭和50年)、石原は初めて東京都知事選挙に出馬した際の演説において、対立候補の美濃部亮吉(当時71歳)に関して「もう新旧交代の時期じゃありませんか、美濃部さんのように前頭葉の退化した六十、七十の老人に政治を任せる時代は終わったんじゃないですか」と発言し[257]、政治家は遅くとも70歳前に引退すべきとする考えを表明した。しかしながら、石原自身は78歳になってもなお、自らの都知事4期目当選を狙って2011年都知事選に立候補し、当選した。さらに、2012年には都知事を辞任して国会へ復帰し、新たに日本維新の会の代表になるなど、80歳を過ぎても政界から引退する意志は全くない考えを示している。
東京中央郵便局建替問題
2009年(平成21年)、当時の総務大臣鳩山邦夫が東京中央郵便局建物の文化財的価値に鑑み、建替えに反対の立場をとっている問題に関して、石原都知事は、計画前後までに文化財的価値を指摘すれば計画自体に大きな変化があったのであり、そのため建物を残すことには無理があり、大きな計画そのものを棄損しかねないことだとして、建物の一部を保存した現行の建替え案を容認する考えを示し、鳩山総務相に苦言を呈した。併せて都は同日中に建替えを認める都市計画決定であるJPタワー計画を行った[258]。この建て替え工事は2012年5月31日に終了し、2013年3月21日にグランドオープンを迎えた。
賃貸住宅の所有者と賃借人の法的権限に関して
2012年(平成24年)3月に、立川市の都営アパートで住民が孤立死した事件に関し、記者会見で「住んでいる人たちは権利者じゃなく使用者。管理人が合鍵で入って、元気ならああ失礼しました、お元気でって帰ればいいじゃないですか」と、管理者の都住宅供給公社の姿勢を批判した[259]。
霊友会への入信
石原は政界進出にあたり、自身の後見人的立場だった当時の産経新聞社主水野成夫を介して霊友会の支持を取りつけ、大量の組織票を獲得する。[260]自らも霊友会の信者であり、自らの信仰についての著作(「法華経を生きる」など)も書いており、霊友会の機関誌「あした21」に連載を持っている[261]。霊友会初代会長小谷喜美を師として仰いでおり、霊友会現会長大形市太郎と対談を行っている[262]。また、2002年(平成14年)には霊友会の新年会で挨拶を行っている[263]。
創価学会・公明党
公明党は自由民主党と並んで事実上石原都政の与党である。[264]2003年と2007年の選挙では選挙支援を受けている。2007年参院選では公明党による都知事選支援の見返りとして、東京選挙区から出馬する公明党公認の山口那津男の応援で街頭演説するなどしている[265]。
1999年(平成11年)の都知事選の直前の週刊文春誌における「あなたの池田大作氏への人物評価をお聞かせ下さい」との質問に対して、「悪しき天才、巨大な俗物」と回答していた。あわせて創価学会に日本の政治が壟断されている現実を「情けない限り」と評していた[266]。かつては創価学会に対する批判はしばしば辛辣を極め、『悪辣にして極めて危険なカルト集団』と表現するなど、長年にわたり『亡国の徒に問う』などの著書類をはじめとして、様々な媒体で批判を行っていた。日本の新興宗教論「巷の神々」を産経新聞に連載中に創価学会を取り上げ学会と争いになる[267]。
戸塚ヨットスクール
「戸塚ヨットスクールを支援する会」を組織し、戸塚ヨットスクールの教育方針を全面的に支持している。殊に、戸塚ヨットスクール主宰者である戸塚宏の教育方針の支柱をなす「脳幹論」(脳細胞そのものをトレーニングしてその機能を高めることにより、教育問題の解決を目指すと主張する[268])に共鳴し、「今の日本人が弱くなったのは脳幹が弱くなったからだ。これは医学的にも証明されている」という主張を産経新聞のコラム(『日本よ』)や、自らの公式サイト上で公開している(実際は医学的な証明がされた事実はない。cf.疑似科学)。
冒険家堀江謙一の世界一周について
堀江謙一の277日間単独無寄港世界一周成功を全否定した。
週刊プレイボーイ1975年11月25日号堀江クンの世界一周は、ヨット仲間の常識からいってウソなんだ。絶対にやってないよ。あのときつかったヨットではあんな短期間に世界一周ができるはずはないんだ。彼のほかにも、イギリスのロビン・ノックスが312日間、チャイ・ブロイス――(以下略)
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また、朝日新聞社の取材ヘリが堀江のマーメイド号から航海日誌を吊り上げ回収したことに「国際法違反だ」と因縁をつけた。
本多勝一は、『貧困なる精神(121)』において、この石原の行為を「小心者の卑劣な嫉妬心」と批判した。
崇教真光の代表との家族ぐるみの付き合い
石原と同じく日本会議代表委員である「崇教真光」代表者・岡田恵珠と『岡田光玉師御対談集』(崇教真光編集)において、対談を行っている30ページの記事がある[269]。 長男の石原伸晃が少年の頃、岡田光玉と岡田恵珠が自宅に訪れたエピソードを伸晃が同宗教団体の42周年秋季大祭(2001年)の祝辞にて披露するなど、家族ぐるみの付き合いが明らかになっている[270]。また、伸晃は45周年秋季大祭(2004年)にて自身が信徒であることを明らかにし、信徒としての立場をメインに祝辞を述べている[271]。
新党構想
中央政界の政変の度に石原首相待望論・石原新党構想などが保守系マスコミを中心として頻繁に取り沙汰された。 石原は中川の没後に派閥を継承したが福田派に吸収され、当時三塚派だった石原は永年勤続表彰の場での議員辞職表明という形で中央政界を去った。「石原新党」は2010年に「たちあがれ日本」への発起人参加という形で現実のものとなった。そして2012年10月25日、石原は東京都知事を辞任する意向を表明し、新党を結成、自身も次期衆院選に出馬することを明言した[21][22]。
首相への暴行呼びかけ
2010年(平成22年)6月19日、札幌市内で開かれたたちあがれ日本の集会で、菅直人内閣総理大臣について、「もし、自衛隊の観閲式の国旗入場で立たなかったら、構わないから殴れ。殴られてもしょうがない」と首相への暴行を呼びかける発言をした[272]。
交流
大学同期の高橋宏 (後の日本郵政副社長) 、高原須美子 (元経済企画庁長官) 、鳥海巌 (元丸紅社長) と親しく、4家族で毎年旅行にいく仲であった[273]。のちに石原都政で、高原は都営地下鉄12号線路線名称選考委員会委員長、鳥海は東京都の外郭団体から民営化された東京国際フォーラムの初代社長、高橋は都立大学を統合して設立された首都大学東京の初代理事長などをそれぞれ務めた。
慎太郎は大学2年の終わり頃から、小金井の下宿を出て小平の一橋寮で暮らすようになった。これを機に高橋との交流は深まり、3年になると高橋のいる柔道部に入部した[274]。
日本青年社への賞賛
2010年(平成22年)10月4日、石原が産経新聞で執筆しているコラム「日本よ」で、尖閣諸島の魚釣島に指定暴力団住吉会傘下の右翼団体である「日本青年社」が本格的な灯台を造ったことを「造ってくれた」と賞賛した[275]。石原は2003年(平成15年)2月3日付の「日本よ」でも、日本青年社による灯台の建造を賞賛する文章を書いている。
経済・財政
アベノミクスに関して
2013年2月12日、石原慎太郎は衆院予算委員会において「何としてもアベノミクスを成功させて欲しい」と応援する発言をした[276][277][278]。
国家の会計制度
2013年2月12日、石原は衆院予算委員会において「日本の国家の会計制度に懸念を持っている。これを合理化して企業並みにしないと、アベノミクスのバリアになる。この国には健全なバランスシート、財務諸表がない。国は何で外部監査を入れないのか。アベノミクスを成功させるためにも会計制度を一新させる必要がある。会計制度を変えると税金の使途がハッキリ分かる」と安倍総理および麻生副総理に提言を行った。石原は都知事の時に東京都の会計制度を従来の官庁会計である単式簿記・現金主義会計から複式簿記・発生主義会計制度に改めた。
議員連盟
- 憲法20条を考える会(顧問)
- 国際観光産業振興議員連盟(最高顧問)
家族・親族
石原家
- (愛媛県松山市・八幡浜市・大洲市、兵庫県神戸市須磨区、北海道小樽市、神奈川県逗子市、東京都)
- 家系
- 慎太郎によれば、「私も幼い頃家族しての神奈川県から愛媛、広島への大旅行で父や母の実家を初めて訪れた時に会った、まだ元気でいた父の母親と母の父親の記憶をこの旅で見た他の何よりも強い印象で覚えていますが、何故かそれはその後私が成長していってからの方がますます鮮やかで確かな記憶として心に刻まれてきたような気がする。そして父や母が亡くなった後、父や母への追憶に重ねてそれがますます懐かしく鮮やかに思い出されるようになりました。」という[281]。
- 石原家は潔 (慎太郎の父) の2代前の石原安太夫の時代に絶家となった (理由は不明) [282]。それを再興するため服部家から服部信義の二男の信直が石原家に入った[282]。石原家再興の当主となった1862年 (文久2年) 生まれの信直と、1867年 (慶応3年) 生まれの妻ササヨの間には、潔を含めて6人の子供が生まれた[282]。長男の克己、長女の壽万 (すま) 、二男の静夫、三男の潔、二女の美壽 (みす) 、四男の真砂 (まさご) の6人である[282]。信直の職業は警察官だった[282]。潔は愛媛県長浜町(現大洲市)に生まれ、幼少期は八幡浜や宇和島など、西宇和、南宇和地区ですごした[283]。
- 石原本家の菩提寺は八幡浜市保内町の龍潭(りょうたん)寺である[284]。佐野によると、「本堂裏の位牌堂には潔の父の信直や兄の克己などの位牌はあったが、分家したらしく潔の位牌はなかった。それらにまじって"服部信義"という古ぼけた位牌があるのが目をひいた。」という[284]。
- 佐野との対談の中で慎太郎は「うちの本家はそもそも石原ではなく服部なんです。そんな大家でもないけれど、元は、落魄 (らくはく) [285]した士族です。先祖は武田の残党でそれが松山に流れて服部姓を名乗った。弓の名人だったらしく、戦 (いくさ) で七人殺したか、まあ七十人は殺さなかったでしょうが (笑) 、それで七つ矢車の家紋を許された。歴代、服部勘助を名乗った服部本家の血筋をひいている親父の親父が石原家に入って、それ以来石原姓を名乗った。」と述べている[284]。
- 佐野によると、「ただし、服部家出身の信義の祖先が、本当に武田武士の流れをくむ服部本家の末裔だったかどうかまでは、調べようがなく確認がとれなかった[282]。龍潭 (りょうたん) 寺[286]の住職によると約20年前の先代住職の頃、慎太郎本人から“石原家のルーツを知りたい”との連絡があったがそのときもはっきりしたことはとうとうわからずじまいだった[282]」という。
- AERA誌のインタビューのとき、ノンフィクション作家の吉田司に慎太郎は「うちは士族の出でね[287]。カッコいいんだ[287]。武田の武士でね、弓矢の名人でね、家紋が7つ矢の矢車なんですよ[287]。武田軍団って、戦強かったでしょ[287]。うちの家訓はね、『明日の戦、わが身無念と心得べし』ってんですよ[287]。つまり死ぬだろうと……[287]。だから俺の親父もわりと覚悟して、毎晩接待で酒飲み続けて、仕事で死んでいった[287]。『今宵の宴、わが身無念と心得べし』じゃないけどね (笑) [287]」と述べている。
- 祖父・信直(警察官)
- 1862年(文久2年) 生 - 1922年(大正11年) 没
- 服部信義の二男として生まれ石原家に入った[282]。佐野眞一によれば、「石原家のルーツが、慎太郎が言うように、没落士族だったとすれば、没落した元士族の信直が、維新後の最も手っとりばやい生計の道として警察官となったのは、当時とすればごく常識的な選択だったといえる[288]」という。
- 祖母・ササヨ
- 父・潔(山下汽船社員)
- 1899年(明治32年)12月生 - 1951年(昭和26年)10月没
- 生い立ち
- 愛媛県八幡浜に隣接する長浜という港町に生まれた[283]。警察官石原信直・ササヨの三男。父・信直の人事異動に伴って、幼い頃は信直の赴任先である愛媛県各地の派出所を随分転々とさせられた[289]。1922年(大正11年)、父・信直が59歳で亡くなり、子供たちはみんな非常に苦労したという[290]。
- 山下汽船へ
- 1913年(大正2年)3月、宇和島男子尋常高等小学校を卒業し、旧制宇和島中学(現在の宇和島東高校)に進んだが、入学から一年もしないうちに同校を中退している[289]。中退の理由はわからない[289]。1914年(大正3年)、山下汽船に入社[284]。当時潔はまだ14歳の少年だった[284]。潔の山下汽船入社時の身分は店童 (てんどう)[4]だった[291]。
- 慎太郎によれば、「(潔は)本当は大学へ行きたかったんだけど、家の事情で行けなかったようです[290]。家は落魄 (らくはく) [285]する一方だったようですからね[290]」という。
- 店童 (てんどう)[4]として入社してから5年目台湾赴任時代の1919年(大正8年)12月正式の社員となった[292]。
- 1942年(昭和17年)9月山下汽船小樽出張所は小樽支店に格上げされた[292]。この組織改革に伴って潔はそれまでの小樽出張所長から小樽支店長心得に出世し、翌18年1月1日を以って、正式に小樽支店長となった[292]。慎太郎が10歳のときだった[292]。しかし潔が小樽支店長の肩書を使ったのは二ヵ月にも満たなかった[292]。同年2月15日には東京支店副長の辞令が出て、足かけ8年すごした小樽を後にした[292]。同じ年の10月には子会社の山下近海機船(昭和24年山下近海汽船に改組改称)に転出となり、山下汽船のほうは嘱託扱いとなった[293]。
- 店童 (てんどう) あがりだったにもかかわらず、最後は関連会社の重役にまで出世した。
- 人柄
- 妻光子が書いた『おばあちゃんの教育論』によると、潔は身長百七十五センチ、体重は八十キロもあった大男であだ名は“クマさん”だったという[294]
- 先妻は元大同海運社長崎山好春の妻の姪にあたる[295]。
- 佐野眞一によれば、「山下汽船OBたちの間からは潔を絶賛する声が次々とあがった[296]。その評価のなかに仕事に関するものはほとんどなく、酒や人とのつきあいに関するものばかりだったといってよい[296]。潔が“人間的”魅力にあふれていたことは間違いないようである[296]。」という。
- 慎太郎によれば、「親父は僕ら兄弟と一緒にいると、いつも相好を崩していた[297]。怒るときは怒ったけど、ああいう偏愛っていうか溺愛っていうか、動物的な愛情の示し方は、おふくろはしなかった[297]。ですから、どこが似てるかっていわれれば、そういうところが似てると思うし、なんか言わなくていいことを言って、平気で相手をコキオロシたりするところは、おふくろに似てるし… (笑) [297]。」という。
- 晩年
- 晩年には今まで家になかった仏壇をしつらえて、毎朝出勤する前に必ず合掌してお経を上げるようになったという[298]。
- 慎太郎によれば、「朝など時折、前夜の接待が遅くまでになって、好きではあったが医者に禁じられている酒を毒と知りつつ自らに強いて接待に努め疲れて戻った父が、眠りも足りなかったのだろう、高血圧のせいもあって、舌がもつれてお経を読む声がいつもと違って少し呂律が回らず、自分でもそれがわかるのかいらいらしながら同じ部分を何度も唱えなおしているのを床の中で聞きながら、子供なりに心を痛めたのを覚えています。そして結局父は五十一歳で、当時としても若死にしました」という[299]。
- 評価
- 吉田司によれば、「石原潔は、その経歴を見ると、プロレタリア的な徒手空拳からたたき上げた中産階級の先駆的な例ですよね。だとすると、そのマイホーム主義のプチブル的な生活から転落しないように会社に忠誠を誓い一生懸命家族を守った。小樽の『蟹工船』的な、蜂起するぞ!みたいな都市下層民がいっぱいいる中で、おそらく慎太郎と裕次郎の兄弟は、冬になれば暖炉の前でぽかぽかという生活だったと思うんだけど。さらに言えば、潔は、もう一段階上の、エスタブリッシュメントへと移行しようとしたのではないか。」という[300]。
- 佐野眞一によれば、「慎太郎、裕次郎兄弟は十代から湘南の海でヨットを乗り回した[301]。そのブルジョワ的イメージから、そもそもからして資産家階級の出身だと思われがちである[301]。父親も大学出のエリートサラリーマンだったと思うのが一般的な見方だろう[301]。だが実際の潔は中学もまともに卒業せず、当時飛ぶ鳥を落とす勢いの船会社にもぐりこんだとはいえ“痰壺洗い”という最末端の仕事から這いあがっていかざるをえない男だった[301]。肉体労働者階級出身でありながら、そんなことはおくびにも出さずリッチな生活はあたかも天与のものだったかのごときにふるまう[302]。イメージと現実のこのあまりにも大きすぎる落差のなかに、慎太郎という男の謎を解く一つのカギがかくされている[302]。」という。
- 母・光子(加藤三之助の娘)
- 1909年(明治42年)9月生 - 1992年(平成4年)6月没。
- 生い立ち
- 2002年(平成14年)2月24日にテレビ朝日系で放送された『グレートマザー物語』では、光子は広島県の生まれと紹介しているが[6]、佐野眞一によると、「光子の出生地は大阪だが、大阪での生活は短く、父加藤三之助とともにまもなく広島県厳島に移った[303]」という。母・徳は光子が生まれた翌年に死亡し、父・三之助は2年後に後妻を迎えた[303]。
- 厳島での生活
- 加藤家は厳島神社の参道で土産物屋を開いた[303]。光子がいくつのとき厳島に移ってきたかははっきりしない[303]。光子は大正末期か昭和のはじめ頃に厳島を出ていった[303]。地元の古老によれば「光子が厳島を出ていったのは、継母との折り合いが悪かったからだろう」という[303]。
- 神戸での生活、結婚
- 厳島を出た光子が誰を頼って神戸に出たかについてははっきりしていない[303]。慎太郎によれば「神戸ではおばさんの家に寄宿していたんでしょう。その家は三宮にあって、貿易商だったみたいですよ。そこに預けられたけれど、従姉妹にあたる娘となかなかそりがあわなくて、ずいぶん意地悪されたって言ってましたけど。それで(第二高女を卒業後)東京に行ったんだという言い方をしてましたけどね。名前はたしかタケウチさんといったかな。」という[304]。
- 光子の神戸での寄宿先は竹内五一商店という貿易商だった[305]。佐野眞一によれば「竹内五一商店の登記簿謄本をとってみると、出資者の一人に、光子の実父の加藤三之助の名前があった。慎太郎は、潔と光子の見合いは芦屋に住む河野という女性が仲介したという話は聞いているが、それ以外は知らない、といった。しかし光子の寄宿先が実父も出費するある程度の貿易商だったことや、その出先機関と思われる事務所が、山下汽船本社のすぐ近くにあったことなどを考えあわせれば、この見合いは、山下汽船との仕事の関係のなかで進められた可能性が大きい。」という[303]。
- 1927年(昭和2年)3月に神戸市立第二高等女学校 (現神戸市立須磨高校) を卒業した[297]。第二高女を卒業した光子は絵描きを目指して上京した[305]。
- 評価
- 佐野眞一によれば「潔は光子と見合いだったにもかかわらず、慎太郎は結婚から二か月足らずで誕生している[306]。男女の間に何があっても不思議はないが、それにしてもちょうど十歳年の離れた潔と光子の組み合わせは、奇妙といえば奇妙である[306]。一方は、没落した一家から中学も出ぬまま、大正バブルそのものともいえる海運会社に入った店童 (てんどう) あがりのサラリーマン[306]。一方は、複雑な家庭環境で育ち、絵描きになることを夢みた、やや自己演出するところのある高女出の女性[306]。この夫婦は明治の村落共同体が崩壊し、都市プチブル層が澎湃 (ほうはい) として誕生してきた大正という時代の典型的カップルだったともいえる[306]。」という。
- 妻・典子(石田光治の娘)
- 1938年(昭和13年) 1月生 -
- 典子の父親石田光治は落下傘の紐などを製造する東洋麻糸という紡績会社に勤めていた[307]。典子は父光治が同社の彦根工場に赴任し召集令状を受け中国戦線に出征した後、母方の実家のある広島市己斐町 (現・西区己斐) で生まれた[307]。光治は典子が生まれて十ヵ月後の1938年 (昭和13年) 秋、中支の攻略戦で敵の弾丸を受け、胸部貫通銃創で戦死した[307]。
- 典子が慎太郎と母同士が知り合いだった関係で出会い、淡い憧れのような感情を抱いたのは12歳の頃だったという[308]。典子の母政子と慎太郎の母光子が知り合ったのは宗教活動を通じてだった[308]。
- 結婚について慎太郎は阿川佐和子との対談で「まあね、面倒臭いからしちゃったんですよねえ[309]。今でいうラブホテルから二人で出てくるのを親戚に見つかって、おっかないおばあさんにいいつけられちゃった (笑) [309]。それで、呼びつけられて"切れるか結婚するか、どっちだ?”って言われて、しょうがないから"結婚します"って決心しちゃったのよ (笑) [310]」と述べている。
- 長男・伸晃(政治家)
- 1962年 (昭和37年) 1月生 -
- 三男・宏高(銀行員、政治家)
- 1964年(昭和39年) 6月生 -
- 1966年(昭和41年) 生 -
- 末弟(あるいは従兄弟)
- 1940年(昭和15年) 3月生 -
- 最初、潔の戸籍に入っていたが、のち他家に養子縁組した[311]。この男性によれば、父親は潔ではなく潔の弟の真砂 (まさご) であるという[311]。なおこの男性の"父"という真砂 (まさご) と"母"という女性の間に正式の婚姻関係はない[312]。この男性が養子縁組した祖母の家と、山下亀三郎の生家は直接の血縁関係はないが、遠い縁戚にあたる[311]。
- 佐野眞一によれば、「潔の故郷の八幡浜周辺を取材中、潔に関する思わぬ話を耳にした[313]。潔には前妻との間にもうけた小河氏、慎太郎、裕次郎兄弟のほかにもう一人子どもがいるという[313]。 (中略) 町起こしの起爆剤として、八幡浜にも小樽の裕次郎記念館のようなものをつくれないか[314]。そう考えた町の有力者が、石原家が間違いなく八幡浜にルーツをもつかどうかを確認するため、戸籍をとったところ、潔にもうひとりの息子がいるという事実が判明したという[314]。この有力者に会うと、驚いたことに、その場で戸籍をそっくり見せた[314]。そこには確かに、噂を裏付ける事実が記載されていた[314]。父の欄には潔、母の欄には光子とあり、昭和十五年三月七日出生の三男と書かれている[314]。出生地は小樽の松ヶ枝町となっている[314]。」という。
- 佐野眞一によれば、「"父”という真砂 (まさご) を生まれる前に亡くし、“母”という女性もまた彼を生んで間もなく別の男性と再婚するという不幸な境遇そのままに、彼の両親についての記憶ははなはだおぼろげだった[315]。それに比べると、一度しか会ったことがないという潔の思い出は、なぜか鮮明な残像を結んでいるような気がした[315]。潔はよその女との間に生まれた子どもを、死んだ真砂 (まさご) の妻の実家の戸籍に因果を含めて入れたのか[316]。それとも、これとはまったく逆に、道ならぬ関係となった女性との間に子をなしながら、顔も見ずに他界した弟の真砂 (まさご) と、その真砂に先立たれた女性、そして二人の間に生まれた一粒種の境遇を不憫に思い、男気を出して自らの戸籍に入れたのか[317]。単に自分本位の勝手なふるまいだったともとれるし、意外に繊細な心遣いだったともとれる[317]。そのどちらだったかは、もはや誰にもわからない[317]。ただここではっきり言えるのは、潔につながるもう一人の血族が、慎太郎、裕次郎とはまったく別の影のような人生をおくり、いまひっそりと老境に入ろうとしていることだけである[317]。」という。
- 異母兄(小河姓)
- 父・潔が先妻との間にもうけた子。
- 潔の姉壽万 (すま) 夫婦に子供がなかったため養子に行った。1952年 (昭和27年) 、神戸商大を卒業して山下汽船と同じ資本系列にある第一汽船に入社した。[318]
- 伯母・壽万 (すま、教員)
- 父・潔の姉、異母兄 (小河姓) の養母。
- 慎太郎によれば「壽万 (すま) さんという伯母さんは苦労して資格をとって学校の先生になった」という。[319]
- 慎太郎の異母兄 (小河姓) によれば「(壽万 (すま) の夫は)一時獣医をやっていましたが、すぐにやめて明石市の市役所の公吏になりました[320]。仕事は税務関係です[320]。養母も明石小学校の教員をやっとったから、生活的には困ったことはありません[320]」という。
- 伯父・克己、静夫
- 叔父・真砂(まさご)
- 1939年(昭和14年)没
- 父・潔の弟。
- 真砂(まさご)の息子によれば「真砂は宇和島中学時代からボートをやっていたそうです[316]。そこを卒業後進んだ拓大でもボート部に入り、エイトの選手だったと聞いています[316]。」という。
- 慎太郎によれば「潔は自分が行きたくとも行けなかった大学に、末弟の真砂 (まさご) だけはどうしても行かせたいと、学費を工面して東京の拓大に行かせた[316]。」という。
- 叔母・美壽(みす)
- 父・潔の妹。
- 1996年(平成8年) 3月、慎太郎の愛人問題が発覚[322]。このスキャンダルをスクープした写真週刊誌は、「愛人は銀座の高級クラブの元ホステスで、二人の間には一九八〇年代はじめに生まれた男の子もいる[322]。母子はいま母の故郷の雪深い町でひっそりと暮している。」と報じた[322]。
- 山下家と石原家の縁戚説について
- 佐野眞一によれば「亀三郎と石原潔の関係についてはいろいろといわれている[323]。それは、店童 (てんどう) [4]あがりの潔が、関連会社とはいえ、最後は重役にとりあげられたことと関連している[323]。大学出でもない潔が、重役にまで出世するわけがない。亀三郎の強いひきのようなものがあったに違いない、というのが世間一般の見方である[323]。
- … (中略) …慎太郎 は“石原家と亀三郎の間には血縁関係があるのですか”という質問に (亀三郎さんとは) "縁戚だと聞きました[324]。ウソか本当か知りませんけど、そう聞いた憶えがあります[324]。"といって山下家と石原家の縁戚説をあえて否定はしなかった[324]。これに対し亀三郎を大叔父にもち、吉田町にある亀三郎の生家をいまも守る現山下家当主の山下源一郎は“山下家の係累の中に石原の名前はありません[324]。聞いたこともないし、系図にも出てきません[324]。”と血のつながりをきっぱり否定した[324]」という。
系図
著書
創作
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短編作品
- 灰色の教室 一橋文芸 復刊第1号、1954年12月
- 太陽の季節 文學界 1955年7月号
- 冷たい顔 文學界 1955年9月号
- 取り返せぬもの 新女苑 11月号
- 奪われぬもの 文學界 1956年2月号
- 処刑の部屋 新潮 1956年3月号
- 日蝕の夏 別冊文藝春秋 50号、1956年3月
- 失われた女 新女苑 1956年3月号
- 北壁 新潮 1956年6月号
- 空港にて 別冊文藝春秋 52号、1956年6月
- 悪い夢 小説新潮 1956年6月号
- 透きとおった時間 文學界 1956年7月号
- 狂った果実 オール讀物 1956年7月号
- 婚約指輪 小説公園 1956年7月号
- 青い舷燈 知性 1956年8月号
- 傷痕 別冊文藝春秋 54号、1956年10月
- 恋の戯れ 新潮 1956年11月号
- 男だけ 別冊文藝春秋 55号、1956年11月
- 舞扇 小説春秋 1956年12月号
- ヨットと少年 理由なき復讐 (三笠書房、1956年)に書き下ろし
- 若い獣 文藝春秋 1957年1月号
- 旅の果て 文藝 1957年1月号
- 接吻泥棒 オール讀物 1957年2月号
- 蟷螂の庭 新潮 1957年4月号
- 白い翼の男 別冊文藝春秋 58号、1957年6月
- 谷川 知性 1957年8月号
- 完全な遊戯 新潮 1957年10月号
- ギンザ・ファンタジア オール讀物 1957年10月号
- それだけの世界 別冊文藝春秋 61号、1957年12月
- 栄光を白き腕に 小説新潮 1958年1月号
- 水中花 宝石 1958年2月号
- 乾いた花 新潮 1958年6月号
- 怒りの果実 オール讀物 1958年6月号
- 男の掟 別冊文藝春秋 65号、1958年8月
- 鱶女 文學界 1958年10月号
- 遊戯の終点 小説新潮 1958年10月号
- 不死鳥 オール讀物増刊 スポーツ読本 1958年10月号
- 夜の道 新潮 1959年7月号
- 太陽の餌 聲 4号、1959年7月
- ファンキー・ジャンプ 文學界 1959年8月号
- ともだち 新潮 1959年8月号
- 顔のない男 オール讀物 1959年8月号
- 男たち 文學界 1959年10月号
- 殺人キッド 中央公論 文芸特集臨時増刊号、1959年10月
- 殺人教室 日本 1959年10月号
- 見知らぬ顔 小説新潮 1959年10月号
- 題名のないバラード 小説新潮 1959年4月号
- 十八歳 小説中央公論 臨時増刊号、1960年7月
- 黒い声 オール讀物 1960年7月号
- 誰 小説新潮 1960年8月号
- 神立ち船 小説新潮 1960年10月号
- ファンキーな出会い 〈恋のもざいく(1)〉 女性自身 1960年9月28日号
- 最後の接吻 〈恋のもざいく(2)〉 女性自身 1960年10月5日号
- 海は許す 〈恋のもざいく(3)〉 女性自身 1960年10月12日号
- ある別れ 〈恋のもざいく(4)〉 女性自身 1960年10月19日号
- 声 小説中央公論 第2号、1960年10月
- 密航 別冊文藝春秋 74号、1960年12月
- 吹きっさらし 小説中央公論 1961年1月号
- 紅い祭礼 小説新潮 1961年1月号
- 死んでいく男の肖像 オール讀物 1961年1月号
- 失われた道標 別冊文藝春秋 1961年3月
- 鴨 中央公論 1961年4月号
- 人間 新潮 1961年5月号( 死の博物誌 に収録)
- 花火 小説新潮 1961年8月号
- 喪われた街 オール讀物 1961年9月号
- 十年選手 別冊文藝春秋 1961年9月号
- 腕 小説新潮 1961年11月号( 死の博物誌 に収録)
- フィッシング・ボートの日記 日本 1961年11月号
- 明日に船出を 別冊文藝春秋 78号、1961年12月
- 鼓斬り オール讀物 1962年2月号
- 朝の微笑 新潮 1962年2月号
- 小さき闘い 文學界 1962年8月号( 死の博物誌 に収録)
- 青い島白い波 別冊文藝春秋 81号、1962年9月
- 顔のない女 別冊文藝春秋 82号、1962年12月
- 閉ざされた部屋 文學界 1963年1月号
- 傷のある羽根 オール讀物 1963年1月号
- 白い小さな焔 文藝 1963年2月号
- 雲の上にいた 別冊文藝春秋 83号、1963年3月
- 狼の王子 小説新潮 1963年4月号
- 還らぬ海 文學界 1963年5月号
- 弔鐘 オール讀物 1963年6月号
- リキとタクとルリ 別冊文藝春秋 84号、1963年6月
- 屍体 文藝 1963年8月( 死の博物誌 に収録)
- 裸の踊り子 オール讀物 1963年12月号
- 悪い娘 別冊文藝春秋 86号、1963年12号
- 鉛の部屋 小説現代 1964年5月号
- 歴史の外で オール讀物 1964年7月号
- 飛べ、狼 別冊文藝春秋 89号、1964年9月
- 聖書 オール讀物 1964年12月号
- 暴力 小説現代 1964年12月号
- 虚無と貞操 別冊文藝春秋 90号、1964年12月
- 一点鐘 風景 1965年1月号
- 貧しい海 文藝春秋 1965年1月号
- 大計画 オール讀物 1965年4月号
- 錆色の塔 小説新潮 1965年5月号
- 獅子の倒れた夜 日本 1965年7月号
- 盲目の天使 別冊文藝春秋 93号、1965年9月
- 灰波 文藝 1965年10月
- 天使よ、俺を起こしてくれ オール讀物 1965年11月号
- 水際の塑像 文藝 1966年1月号
- 聖衣 小説現代 1966年1月号
- 沈黙 文藝春秋 1966年3月号
- 野生の庭 文藝 1966年5月号
- 神の鎖 小説現代 1966年12月号
- 失踪者 別冊文藝春秋 98号、1966年12月
- 天使たちの革命 文藝 1967年1月号
- 癌対策――革命の童話 オール讀物 19661967年1月号*1
- 死に神と殺し屋 オール讀物 1967年1月号初出不明*2
- 待伏せ 季刊藝術 1号、1967年4月
- L・S・D 文學界 1968年2月号
- 鎖のついた椅子 文學界 1969年2月号
- 神異 文藝春秋 1969年2月号
- 機密報告――ニッポンの危機 一九七×年 小説宝石 1969年2月号
- 明月鏡 文藝 1971年1月号
- 条約 文藝春秋 1972年1月号
- 国家についての個人的会話――歴史の備忘ノート 別冊文藝春秋 118号、1971年12月
- 桃花 文藝 1973年1月号(* 公人 と改題)
- 甘い毒 新潮 1973年7月号( 光より速きわれら に収録)
- 救済 文學界 1973年7月号
- 天体 新潮 1973年8月号( 光より速きわれら に収録)
- 院内 文學界 1974年1月号
- 孤島 新潮 1974年1月号
- 饗宴 新潮 1974年12月号( 光より速きわれら に収録)
- 視つめている眼 別冊文藝春秋 132号、1975年6月
- 舞踏 文藝 1975年8月号( 光より速きわれら に収録)
- パティという娼婦 野性時代 1978年6月号
- ボストンの夜 文藝 1981年8月号
- きょうだい すばる 1990年8月号
- ある行為者の回想 新潮 1992年1月号
- 遭難者 新潮 1992年5月号
- 風の使途たち すばる 1992年8月号( 風についての記憶 に収録)
- 風の罠 すばる 1993年1月号( 風についての記憶 に収録)
- 風についての記憶 すばる 1993年10月号( 風についての記憶 に収録)
- 山からの声 新潮 1994年10月号
- 海からの声 新潮 1994年11月号
- 肉体の天使 新潮 1996年1月号
- 沢より還る 新潮 1996年9月号
- 海にはすべて 新潮 1998年1月号
- 空からの声 すばる 1999年3月号
- 青木ヶ原 新潮 2000年1月号
- 生き残りの水兵 新潮 2001年2月号
- ブラックリング 新潮 2002年1月号
- 夢のつづき――続 青木ケ原 文學界 2010年7月号
- 夢々々 文學界 2011年3月
- 世の中おかしいよ 文學界 2012年4月号
- 僕らは仲が良かった 文學界 2013年1月号
- 連作短篇集「やや暴力的に」文藝界 2013年10月号
その他
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共著
- 新旧の対決か調和か 賀屋興宣 経済往来社 1969
- 人間の原点 対話 小谷喜美 サンケイ新聞社出版局 1969
- いかに国を守るか 羽仁進、藤原弘達 日新報道 1970
- エベレスト 日本エベレスト・スキー探検隊の記録 三浦雄一郎共著 文藝春秋 1970
- 闘論 君は日本をどうするか 野坂昭如 文藝春秋 1975
- 「NO」と言える日本 (共著: 盛田昭夫) 光文社カッパ・ホームス 1989 ISBN 4-334-05158-8
- それでも「NO」と言える日本 -日米間の根本問題- (共著: 渡部昇一・小川和久) 光文社 1990 ISBN 4-334-05174-X
- 断固「NO」と言える日本 (共著: 江藤淳) 光文社 1991 ISBN 4-334-05184-7
- 「No」と言えるアジア 対欧米への方策 マハティール 光文社 1994
- 宣戦布告「NO」と言える日本経済 アメリカの金融奴隷からの解放 市川周共著 光文社 1998 ISBN 4-334-97190-3
- 「アメリカ信仰」を捨てよ 二〇〇一年からの日本戦略 一橋総合研究所共著 光文社 2000
- 勝つ日本 田原総一朗 文藝春秋 2000 のち文庫
- 永遠なれ、日本 元総理と都知事の語り合い 中曽根康弘 PHP研究所 2001 のち文庫
- 人生への恋文-往復随筆 瀬戸内寂聴 世界文化社 2003 文春文庫 2008
- 日本の力 田原総一朗 文藝春秋 2005 のち文庫
- 生きる自信 健康の秘密 石原結實対談 海竜社 2008
- 鍛える! 嫌われても憎まれても果たすべき大人の役割 松平康隆対談 小学館 2009 ISBN 978-4093878449
作詩曲
- 狂った果実 (曲: 佐藤勝、歌唱: 石原裕次郎)
- 青年の樹 (曲: 山本直純、歌唱: 三浦洸一)
- 夏の終わり (曲: 石原慎太郎、歌唱: ペギー葉山&石原慎太郎)
- 青年の国をつくろう (曲: 小林亜星、歌唱: 石原裕次郎)
- 泣きながら微笑んで (曲: 石原慎太郎、歌唱: 石原裕次郎)
- さあ太陽を呼んでこい (曲: 山本直純、歌唱: 東京放送児童合唱団)
翻訳
- ロバート・J.リンガー『型破りで勝つ!』三笠書房 1978
外国語訳
- Season of Violence. The Punishment Room. The Yacht and the Boy.<i> John G. Mills, Toshie Takahama & Ken Tremayne. Rutland, Vt. : C. E. Tuttle Co., 1966 (太陽の季節、処刑の部屋、ヨットと少年)
- <i> Undercurrents: Episodes from a Life on the Edge<i>(わが人生の時の時)Wayne P. Lammers 2006
- <i>The Japan That Can Say NO<i> 『NOといえる日本』
- <i>Le Japon sans Complexe<i> 『NOといえる日本』フランス語
関連作品
映画
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テレビドラマ
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舞台
- 若きハイデルベルヒ(1977年、日生劇場、潤色)
演じた俳優
逸話
- かつて対談した数学者の岡潔の哲学を信奉している要出典。
- Ustreamでの放送にて、田原総一朗が政治献金をしている事が明らかになる[326]。
- 『正論』は、特集「2012年注目の政治家50人を値踏みする」で、石原を10点満点中9点と評価した[327]。
- 自身が代表を務める日本維新の会の幹事長である松井一郎大阪府知事がフリーアナウンサーの辛坊治郎に語った話では、石原は、基本的に、朝は遅く昼からしか働かないという[328]。
脚注
- ↑ 園田学園女子大学名誉教授田辺眞人によれば、「私の祖母が、そのあたり一帯のかつての地主につながる家柄だったんですが、その祖母が、石原慎太郎さんが作家デビューして有名になった頃、こんなふうにいっていたのを記憶しています。"あの人は昔、大手に住んでいたんや。大手で慎太郎も裕次郎も生まれたんよ。あのへんは明治くらいまで一本松という大きな立派な松の木があって、石原一家はその松の木の南側の家に住んでいたんよ。山陽電鉄の東須磨駅と板宿駅の間に、昔は大手という駅があって、そのすぐそばやった。" (父親の潔さんは) そこから電車で会社に行ってはったようですよ。家は山下汽船の社員寮で、一見長屋風だったらしい。あの辺は比較的階層が高い人が住んでいて、いわゆる中産階級より少し上のクラスの人が住むところでした。だから社員寮もかなり立派で、造りは長屋風といっても、それぞれ独立した一軒家だったようです。もうその家はとっくにとりこわされていますし、当時のことを知る人もまずいないでしょうね」という (佐野眞一著『てっぺん野郎─本人も知らなかった石原慎太郎』45-46頁)
- ↑ 知事の部屋/知事のプロフィール|東京都によると、最終学歴は「一橋大学法学部卒業」となっている
- ↑ 「ハマコーの非常事態宣言」(1995年(平成7年)7月)
- ↑ 4.0 4.1 4.2 4.3 店童(てんどう)とは、海運会社独特の制度で、商店でいえば丁稚に相当し、宿舎と食事は確保してくれる代わりに、給料は一切なかった。便所掃除、社員の靴磨き、使い走り。店童(てんどう)は上司から命じられれば何でもやらなければならなかった。時には、質入れや、なじみの遊郭の女郎に菓子を届けることまでやらされた (『てっぺん野郎─本人も知らなかった石原慎太郎』31-32頁)
- ↑ 佐野眞一著『てっぺん野郎─本人も知らなかった石原慎太郎』34-35頁
- ↑ 6.0 6.1 石原慎太郎・裕次郎の母 グレートマザー物語 2002年2月24日
- ↑ 母・光子が広島県人であるのは古くから知られていた。1971年に出版された『日本人研究 <第2巻> 』 (板坂康弘著、流動) 広島県人の項、259-260頁に「石原慎太郎は父の勤務につれてあちこちで育ったが、血脈は広島である。石原も躁鬱気質の典型的な広島県人」と論じている。
- ↑ 『人事興信録』
- ↑ 9.0 9.1 『てっぺん野郎─本人も知らなかった石原慎太郎』476頁
- ↑ 『てっぺん野郎─本人も知らなかった石原慎太郎』124頁
- ↑ 『てっぺん野郎─本人も知らなかった石原慎太郎』129頁
- ↑ 『てっぺん野郎─本人も知らなかった石原慎太郎』180頁
- ↑ 石原慎太郎公式ウェブサイト 宣戦布告 鮮烈デビュー『太陽の季節』芥川賞受賞
- ↑ 『てっぺん野郎─本人も知らなかった石原慎太郎』217頁
- ↑ 佐野眞一著『てっぺん野郎─本人も知らなかった石原慎太郎』218頁に「ちなみに一橋大には商学部、経済学部、法学部、社会学部の四学部があり、入学試験は第二志望まで希望することができた。慎太郎は公認会計士を目指していたので、おそらく商学部を志望していたはずである。だが入学試験の成績が第一志望の商学部の水準に達しなかったのか、実際に入ったのは法学部だった。」とある。なお新制大学への移行当時は、商学部・経済学部・法学社会学部の3学部であったが、慎太郎が入学する前年の1951年 (昭和26年) に学部改組が行われ、法学社会学部が法学部と社会学部に分離した。(一橋大学/キャンパスガイド|大学受験パスナビ: 旺文社)
- ↑ 『てっぺん野郎─本人も知らなかった石原慎太郎』218-219頁
- ↑ 『石原慎太郎を読んでみた』石原慎太郎年表 原書房 2013.8
- ↑ 「太陽族映画に反発 各地で観覧を禁止」『朝日新聞』1956年8月3日付朝刊。
- ↑ ISHIHARA - ラビットハウス
- ↑ 業田良家『シアターアッパレー現代政治家体系』100頁
- ↑ 21.0 21.1 石原都知事が辞任表明…新党結成、衆院選出馬へ - 読売新聞 2012年10月25日
- ↑ 22.0 22.1 22.2 石原都知事が辞職表明 新党結成、衆院選立候補を検討 - 朝日新聞 2012年10月25日
- ↑ 石原知事辞任:「マイ・ウェイ」演奏の中、都庁を去る - 毎日新聞 2012年10月31日
- ↑ 石原氏、太陽の党旗揚げ…「第3極」結集目指す - 読売新聞 2012年11月13日
- ↑ 維新と太陽 合流ありきの疑問残す - 信濃毎日新聞 2012年11月20日
- ↑ 石原氏親子3人、全員当選 - 産経ニュース 2012年12月17日
- ↑ 『断固「No」と言える日本 戦後日米関係の総括』江藤淳と共著、光文社カッパ・ホームス、1991
- ↑ 『てっぺん野郎 ―本人も知らなかった石原慎太郎』195-196頁
- ↑ 29.0 29.1 29.2 斎藤貴男・吉田司『石原慎太郎よ、退場せよ!』94頁
- ↑ 石原慎太郎『太陽の季節』(文學界 1955年7月号に掲載。のち新潮社より1956年3月に単行本刊行。
- ↑ 『石原慎太郎を読んでみた』石原慎太郎年表 原書房 2013.8
- ↑ 『燈火頬杖 浅見淵随筆集』ウェッジ文庫、藤田三男編 2008.12
- ↑ 『石原慎太郎文庫 第4巻 』解説 浅見淵 河出書房新社 1964.11~1965.12
- ↑ 「『太陽の季節』および文學界新人賞選評」(文學界 1955年7月号に掲載)
- ↑ 35.0 35.1 35.2 35.3 「第34回芥川賞選評(1956年1月23日選考)」(文藝春秋 1956年3月号に掲載)芥川賞-選評の概要-第34回
- ↑ 西村賢太との対談『en-taxi』2011年7月
- ↑ 『美の襲撃―評論集』(「石原慎太郎氏の諸作品」)三島 由紀夫 (著) 1961
- ↑ 『決定版 三島由紀夫全集〈31〉評論(6)』(「石原慎太郎氏の諸作品」)三島 由紀夫 (著) 新潮社 2003.6
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- ↑ 三島由紀夫・村上一郎の対談『尚武の心と憤怒の抒情―文化・ネーション・革命』(日本読書新聞 1969年12月29日 - 1970年1月5日合併号に掲載)
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- ↑ あした21 (2002年) 11月号のご案内
- ↑ あした21 (2005年)1月号のご案内
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- ↑ 287.0 287.1 287.2 287.3 287.4 287.5 287.6 287.7 斎藤貴男・吉田司『石原慎太郎よ、退場せよ!』190頁
- ↑ 『てっぺん野郎─本人も知らなかった石原慎太郎』30頁
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- ↑ 慎太郎は小泉が首相に就任する以前のインタビューで「小泉君は女房と同じ横須賀の出身で、親戚筋なんだ。血がつながってないんで、ほっとしているけど (笑) 」と述べている (系図でみる近現代より)
- ↑ (2010-07-06) 田原総一郎のタブーに挑戦! 10.07.06) JFN [ arch. ]
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- ↑ WAKE! UP+ 動画+(読売テレビウェークアップ!ぷらす2012年12月1日配信分(配信日に閲覧))
参考文献
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- 同 『石原慎太郎と都知事の椅子』 角川文庫、2000年がある。
- 佐野眞一『てっぺん野郎 ―本人も知らなかった石原慎太郎―』 (講談社 2003年) ISBN 4-06-211906-4
- 増補改題され、『誰も書けなかった石原慎太郎』 講談社文庫、2009年
- 斎藤貴男『空疎な小皇帝 「石原慎太郎」という問題』 (岩波書店 2003年、ちくま文庫 2006年)
- 江藤淳『石原慎太郎論』 (作品社 2004年)
- 鈴木斌『作家・石原慎太郎 価値紊乱者の軌跡』 (菁柿堂 2008年)
- 前野徹『救世主石原慎太郎』 (扶桑社文庫、2004年)
- 別冊宝島編集部『石原慎太郎の値打ち』 (宝島社文庫 2003年)
- 嶋田昭浩『解剖・石原慎太郎』 (講談社文庫 2003年)
- 浅野史郎ほか8名『石原慎太郎の東京発日本改造計画』 (人物文庫・学陽書房、2002年)
- 上杉隆『石原慎太郎「5人の参謀」』 (小学館文庫、2000年)
- 『特集石原慎太郎研究 ポリティーク08号』<労働法律旬報別冊> (旬報社 2004年)
- 一ノ宮美成+グループK21『黒い都知事 石原慎太郎』 (宝島社) ISBN 978-4796676328
関連項目
- 2020年東京オリンピック構想
- 複式簿記
- ヘリテージ財団
- 渡部昇一
- 屋山太郎
- 糸山英太郎
- 小林秀雄
- 新しい歴史教科書をつくる会
- 櫻井よしこ
- 渡邉恒雄
- 高井英樹
- 読売新聞社
- 日本維新の会
- タカ派
- マッチョイズム
- 反フェミニズム
- ババア発言
- ネッシー
- 南京の真実 賛同者
- 国家基本問題研究所 理事
- 日本青年社
- 戸塚ヨットスクール
- 戸塚宏
- 石原裕次郎
- 東京都知事選挙
- 日本会議
- 国際勝共連合
- 清和政策研究会
- 青嵐会
- 平沼赳夫
- 阿久津幸彦 -もと公設秘書
- 北朝鮮に拉致された日本人を早期に救出するために行動する議員連盟
- 非核三原則 - 日本の核武装論
- 成田空港高速鉄道 - 運輸大臣時代、成田空港アクセスの不備を感じた際「鶴の一声」で建設が決定された。
- UFO - 三島由紀夫や星新一らとともに日本空飛ぶ円盤研究会の会員であった。
- 伝統と創造の会
- たちあがれ日本 - 同政党の支援者であり、党名を命名した。
- 野中広務 - プライベートで食事をするなどの仲。もっとも、野中は石原を“ボンボン”と評している。
- 水谷建設
外部リンク
- 石原慎太郎公式サイト「宣戦布告.net」
- 石原慎太郎(@i_shintaro)- Twitter
官職 | ||
---|---|---|
先代: | テンプレート:東京都 東京都知事 民選第14 - 17代:1999年 - 2012年
|
次代: |
先代: | 運輸大臣 第59代:1987年 - 1988年
|
次代: |
先代: | 環境庁長官 第8代:1976年 - 1977年
|
次代: |
党職 | ||
先代: 新設
|
日本維新の会共同代表 橋下徹と共同 初代:2013年 -
|
次代: 現職
|
先代: | 日本維新の会代表 第2代:2012年 - 2013年
|
次代: 共同代表制へ
|
先代: 結成
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太陽の党共同代表 初代:2012年
|
次代: 日本維新の会へ合流
|
テンプレート:石原慎太郎 テンプレート:石原裕次郎 テンプレート:環境大臣 テンプレート:国土交通大臣 テンプレート:東京都知事 テンプレート:日本維新の会 テンプレート:たちあがれ日本 テンプレート:芥川賞
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