三木武夫

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三木 武夫
(みき たけお)
三木武夫 1.jpg


66
[[ファイル:== 見出し == Media:Example.mp3そのまま表示させた ---- い文字を入力弱い強調(斜体)強い強調(太字)JPN|{{{size}}}}}|日本の旗]]日本国 内閣総理大臣
在任期間 1974年12月9日
 - 1976年12月24日

生年月日 1907年3月17日
出生地 徳島県板野郡土成町
出身校 南カリフォルニア大学留学
明治大学法学部卒業
学位・資格 正二位
大勲位菊花大綬章
衆議院名誉議員

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国務大臣副総理
環境庁長官
自由民主党総裁

前職 衆議院議員
国務大臣副総理
環境庁長官
自由民主党総裁

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世襲の有無 世襲ではない
選挙区 徳島県全県区

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当選回数 衆19回

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党派 自由民主党

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没年月日 1988年11月14日

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花押 {{{花押}}}

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三木 武夫(みき たけお、1907年明治40年)3月17日 - 1988年昭和63年)11月14日)は、日本政治家。第66代内閣総理大臣位階勲等正二位大勲位称号衆議院名誉議員

同じ四国出身の元自民党の衆議院議員・三木武吉との縁戚関係は無い。

来歴[編集]

生い立ち[編集]

小学生の頃

徳島県板野郡御所村吉田(後の土成町、現・阿波市)に農業のかたわら肥料商を営む父・三木久吉の長男として生まれる。御所村尋常小学校卒業後、1920年徳島商業学校に進み弁論部に所属する。徳商4年の時、武夫は野球部の甲子園出場を目指し道具等を新調する資金集めをすることを発案し、そのためにバザーを開き成功をおさめた。しかし、学校側はその収益金を野球部ではなく学校全体で使うことを決定したためバザーを主催した武夫らはその経費公開を巡って校長以下学校側と対立し中学生でありながら全校生徒が授業放棄によるストライキを決行するに至った。そして武夫は学生ストを煽動したとして放校処分となった。その後、神戸市の私立中外商業学校(現・兵庫県立尼崎北高等学校)に転校した。中外商業時代、後に林銑十郎内閣の大蔵大臣、第15代日本銀行総裁となる中外商業理事長の結城豊太郎の知遇を得た。中外商業卒業後、明治大学専門部商科に進み、卒業後アメリカ留学を経て、明治大学法学部卒業(在学中は雄弁部にて活躍)。


戦前からの代議士[編集]

1951年、国民民主党幹事長として代表質問
1952年、改進党結成、幹事長に就任。左から三木、重光葵総裁、楢橋渡

三木は戦前の帝国議会時代からの代議士であるが、軍部に対しては批判的な立場を取り、大日本帝国憲法の起草者の一人である金子堅太郎を担いで「日米同志会」を結成して対米戦争反対の論陣を張った。また大政翼賛会にも参加せず、翼賛選挙も非推薦で当選した。

戦後は公職追放を免れ、保守革新の双方と一線を画した中間派政党の国民協同党では書記長中央委員長を務め、日本社会党首班の片山哲内閣で初めて入閣(逓信大臣)した。その後は保守勢力との協力を進め、苫米地義三国民民主党重光葵改進党鳩山一郎日本民主党を経て保守合同に参加し、自由民主党に加わった。

自民党結成後は石橋湛山岸信介池田勇人佐藤栄作総理総裁の下で幹事長を歴任する(岸・佐藤兄弟の下では、石橋・池田の病気辞任後の残務整理の為に幹事長に留任したもの)。1960年日米安全保障条約の本会議の採決の際には会期延長のみを事前に知らされており安保の強行採決まで知らされていなかったため会場で採決を知り採決直前に退席している。

佐藤内閣では外務大臣の時には非核三原則が返還後の沖縄にも適用されると明言して佐藤の怒りを買い、事実上更迭される。これに対して1968年自由民主党総裁選挙に「男は一度勝負する」という言のもとに出馬、大方の予想を反して大善戦するも敗退。2年後の同選挙にも周囲の反対に対して「私は何も恐れない。ただ大衆のみを恐れる」と述べて再出馬し、一定の票を取るが敗退している。

1972年、福田赳夫田中角栄の争う総裁選では、自身も出馬するも日中国交樹立に積極的な田中を支持し田中は当選、第1次田中角栄内閣国務大臣として入閣し、後に副総理にも指名されている。さらに第2次田中角栄内閣では副総理環境庁長官に就任する。しかし、1974年の参議院選挙において田中角栄が、1人区の徳島県選挙区で、新人の後藤田正晴を自民党の公認候補とし、三木派で現職の久次米健太郎を非公認としたことから三木は反発し、分裂選挙となる(三角代理戦争)。選挙では久次米が再選されるも、今まで関係の良かった田中首相と大きく対立し、単独で副総理を辞任。


首相時代[編集]

1976(昭和51)年8月6日
詳細は三木内閣を参照

1974年12月田中総理の内閣総辞職で行われた後継総理選出において、椎名悦三郎副総裁の指名裁定で総裁に就任(椎名裁定)。この裁定は三木自身が「青天の霹靂」とコメントしたほど意外性をもって受け止められた(なお、三木には椎名裁定以前に椎名から事前に指名される旨が伝えられている。)。これについては、金権政権に対する批判を一時的にかわすためであると見られたことと、後述する三木の政治的な立ち位置をもじって「左のワンポイントリリーフ」とも評された。

三木政権は政治浄化に着手し、公職選挙法政治資金規正法を改正し政治献金の額に上限を設けさせた。(三木は当初企業献金の全廃を意図していたが党内の猛反発に遭い断念した。これが三木おろしの遠因になったという説もある。)また防衛費1%枠を閣議決定した。

ロッキード事件が起こると三木おろしの倒閣運動が起こる。しかしこの動きは「ロッキード隠し」としてマスコミや世論の反発に遭い挫折し、三木政権は延命する。世論を背景とした三木はロッキード事件の全容解明を表明。事件において存在したとされる金銭授受に関連して、外為法違反の疑いでの検察による田中逮捕を許可した(法務大臣が中曾根派の稲葉修であったことも疑惑追及に資することになった)。ロッキード事件での田中の逮捕を逆指揮権発動によるものとみなした田中派からは稲葉と共に激しい攻撃の対象となった。

この逮捕により、「もはやロッキード隠しとは言われない」として三木おろしが再燃、反主流6派による「挙党体制確立協議会」(挙党協)が結成される。田中派大平派福田派だけでなく、中間派とされた椎名派水田派船田派が賛同し、政権主流派に与するのは三木派の他は中曽根派だけとなる。三木は内閣改造を行ったが、ここで田中派からの入閣は科学技術庁長官1名だけであり、三木も田中との対決姿勢を改めて鮮明にする。

三木は党内分裂状態が修復できないまま解散権を行使できず、戦後唯一の任期満了による衆議院議員総選挙をむかえた。この選挙では挙党協は党本部とは別に選挙本部を設置し、自民党は分裂選挙の様相を示した。総選挙で自民党は追加公認を含めて過半数を維持するものの8議席減らす。三木内閣そのものというより、ロッキード事件への批判が自民党自体を直撃したと言えるが、それでも三木は責任を取って退陣した。

なお、この間、ベレンコ中尉亡命事件が起こっている。

晩年[編集]

首相退陣後も三木派を率いて影響力を保持した。1979年の衆議院議員総選挙後には大平正芳首相の引責辞任を求めて福田派・中曽根派とともに田中派・大平派と対決、いわゆる四十日抗争を引き起こす。1980年衆参同日選挙後に河本敏夫に派閥を継承させる。主流派の三木アレルギーを解消するため三木派を解消するかたちをとったが、その後もベテラン議員を中心に影響力を維持した。1980年代には岸・福田らとともに自民党最高顧問を務めた。1984年の二階堂擁立構想にも福田や鈴木善幸とともに一枚噛んでいる(二階堂進は田中派会長だったが、三木とは同じ元国民協同党で個人的には仲が悪くなかった)。1987年、衆議院議員在職50年となり、永年在職議員の特別表彰を受ける。1988年、議員在職のまま死去。

人物[編集]

当選19回、議員在職51年。政界浄化・政治改革に執念を燃やしたその政治姿勢から、首相として三木の前任である“ダーティ田中”こと田中角栄との対比で“クリーン三木”、“議会の子”の異名を支持者から奉られていた。しかし資金面での調達能力はなく、巨額の政治資金は三木派の大番頭河本敏夫が一手に引き受けていた(一面、河本がいたからクリーンでいられたともいえる。なお、睦子夫人は森コンツェルンの令嬢であるが、同財閥自体が小さく三木への資金面での恩恵は薄かったとされている)。

いわゆる自由民主党の主流派とは明らかに違う政治信条を持ち、小派閥を率いて各所で波乱を巻き起こしつつ行動するその姿は、主流派からしばしば(欧州の火薬庫と呼ばれたバルカン半島になぞらえ)「バルカン政治家」と揶揄された。しかし、クリーンを標榜してマスコミ・世論を味方に取り込みつつ、小派閥故の機動性を生かして臨機応変な立ち回りを見せ、数の上での劣勢を巧みにカバーしたその政治的手腕は、田中角栄をして「政治のプロは、俺と三木だけだ」とまで言わしめた。

また、公職選挙法政治資金規正法の改正案・自民党総裁選挙規定などの政治改革私案、日本型福祉社会の実現・日中や日ソ関係を含めたアジア太平洋圏構想という平和外交・自動車排ガス規制の推進など、左派寄りの政策を次々に研究・提言してみせている。政治思想としては、概してリベラルであり、現行憲法の効用を指摘するなど、自主憲法制定が党是である自民党の中では左派的傾向が強かった。「三木派が離党して野党と組む」という噂は永田町でたびたび流れ、椎名裁定も三木派の離党を阻止するのが理由の一つだったともいわれている。

1975年、現職総理として戦後初めて終戦記念日靖國神社を参拝したが、その際記者団に「内閣総理大臣としてではなく、三木個人としての参拝である」と、「私的参拝」であると明言した。終戦記念日を選んだことは遺族会や党内右派(特に幹事長派閥だった中曽根派)の支援を得ることが狙いとされているが、この参拝における発言が、今日まで続く総理大臣の靖国参拝をめぐる諸問題の端緒となり、後世に禍根を残すこととなった。なお、昭和天皇の靖国御親拝は、三木の参拝から約3ヵ月後に行われたものが最後となり、現在まで行われていない(しかし、近年の研究では、昭和天皇の靖国御親拝取り止めは、三木発言の影響というよりも、その後のA級戦犯合祀への天皇自身の反発とみる説が提唱されている)。外交評論家の岡崎久彦は「歴代自民党総理の中でも例外的なポピュリスト一国平和主義者」「三木総理が決めた防衛費のGNP1%枠、武器輸出三原則、靖国参拝で私的参拝と言ったことなどは軌道修正に数内閣を要し、あるいはまだ修正されていない」と書いている(「国家戦略からみた靖国問題」PHP新書)。

徳島自動車道土成インターチェンジ北西に、銅像が立つ(画像参照)。

コックヮイ(国会)、シェンキョ(選挙)といった古風な発音を守っていた。

家族など[編集]

妻・睦子の父は森財閥総帥の森矗昶。睦子はこの父を始め、兄の森曉、弟の森清森美秀、甥の森英介はいずれも衆議院議員という政治家一族の出身である。

元参議院議員の高橋紀世子は三木の長女にあたる。同志の政治家に自身の内閣で官房長官を務めた井出一太郎、子飼いの政治家に河本敏夫の他に海部俊樹鯨岡兵輔坂本三十次近藤鉄雄志賀節らがいる。長男の三木啓史は東洋製罐の社長を長年勤めた。高橋の子息である孫の高橋立は1996年の衆院選に出馬したが落選し後に紀世子の秘書を勤めている。

なお、三木派はその後河本敏夫に引き継がれ、現在では高村正彦が率いる番町政策研究所となっているが、安全保障において積極的な高村に象徴されるように、派としてのリベラル色は薄れており、左派的な思想の持ち主である三木睦子は現在の同派とは一定の距離を画している。

1948年の幻の三木武夫内閣[編集]

後に出版された三木睦子夫人の回顧録によると、1948年10月に芦田内閣が崩壊した際にGHQ側から首相就任の打診があったが、三木は「憲政の常道」を理由にこれを断ったといい、かわって元首相の吉田茂が就任している。仮に三木がこれを受諾していれば、44歳3ヵ月で就任した伊藤博文を下回る41歳で就任、大日本帝国憲法時代から通算しても歴代最年少の総理大臣が誕生していた(日本国憲法下では安倍晋三の52歳)。

年表[編集]

明治大学雄弁部で活躍(1935年頃)
1937年、30歳で衆議院議員初当選。投票の一週間前に被選挙権を得る際どさであった。
銅像(徳島県阿波市)。海部俊樹揮毫

栄典[編集]


参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

官職
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