天守
天守(てんしゅ)とは日本の戦国時代以降城の中心的存在となった建造物をいう。殿主、殿守、天主などの字も当てられる。他に大櫓と呼ぶ城もあった。現在では、天守のない城の御三階櫓やそれに順ずる象徴的な櫓建築も天守に分類されている。 天守閣(てんしゅかく)と一般的には呼ばれているが、明治時代前後に見られるようになった俗称である。
概略[編集]
起源は城主の館が発展したものと、物見櫓が高層化したものが折衷したものと考えられている。金閣などの亭建築が発展したとも、以上のそれらが合わさったものなどとも考えられている。はっきりしたことは分かっていない。
名前の起こりは殿主、殿守から由来するか、仏教思想やキリスト教のゼウスの鈍ったもの(天主)等の宗教思想からの命名等とも考えられているが、定かではない。
初期の頃は物見櫓・司令塔・攻城戦の最終防御設備としての要素が強かったが、織田信長の近畿平定の頃からは遠方からでも見望出来る華麗な権力を象徴する建造物という色彩が濃くなっていった。
起源[編集]
天守の初見といえるものは複数あったものと見られているが、いずれかが起源であるとはいえない。
一般的に今日見られる本格的天守(五重以上のもの)の最初のものとされているのは織田信長が天正7年(1579年)に建造した安土城(滋賀県安土町)の天主であるといわれる。
天守のよう建物は安土城以前にはなかったわけではなく、1469年前後の江戸城にあった太田道灌の静勝軒、摂津国伊丹城(兵庫県伊丹市)天文12年(1543年)に記された『細川両家記』の永正18年(1521年)2月17日の条)また松永久秀が永禄年間(1558年 - 1569年)に大和国に築いた多聞山城や信貴山城の四階櫓などが各地に造られていた。
発展[編集]
豊臣秀吉によって大坂城・伏見城と相次いで豪華な天守が造営されると、それを手本に各地の大名が自身の城に高層の天守を造営させた。この頃までの城の外壁は黒漆若しくは柿渋塗りの下見板等の板張りが主であったが、江戸時代になると白漆喰塗籠の外壁も登場した。(注記、板張りが古式、白漆喰塗籠の壁(白壁)が新式、というわけではない。)また、この時代に活躍した天守造営の名手として中井大和守正清・岡野又右衛門などが挙げられる。 豊臣政権が衰退し始めると徳川家康の下、徳川名古屋城を始めに諸大名が姫路城などの豊臣大坂城を越える巨大かつ壮麗な天守を造営していくが三代徳川家光の武家諸法度の発布により「天守」と付く高層の天守建築は原則造られなくなる。
終焉[編集]
元和元年(1615年)徳川幕府による一国一城令により幕府の許可なく新たな築城、城の改修・補修が出来なくなり、また3層以上の天守に相当するものを新たに造営することが禁じられた。このためこれ以降に建てられたものには、幕府にはばかって、三重櫓、御三階(おさんがい)などと呼ばれることが多くなった。
江戸期になり平和な時代が訪れると、城は防衛の役目を終え政庁へと変化していったため、天守の役目も終わり、また、城は次第に御殿や二の丸・三の丸が拡充されていった。
天守のない城[編集]
もちろん、古代・中世・戦国時代前半以前の城には現在言うような天守らしき物はなく、その概念もなかったと考えられている。近世(安土桃山時代以降)でも当初より天守を建てる必要が無いとの判断から天守台・天守の造営がされなかった城郭がある。江戸期になると、天守のあった城でも、焼失後再建を見送ることが多くなる。また、天守台はあるが何らかの理由によってその上に天守の造営されていない城郭も見られた。
江戸期、天守台と天守が造営されなかったのには、次の四つの場合がある。
- 天守はあったが焼失・倒壊し、以降は造営の必要がないと判断されたケース(江戸城、大坂城など)。
- 天守はあったが焼失・倒壊し、その後幕府に遠慮し、または財政難から建造しなかったケース(金沢城、福井城、佐賀城など)。
- 天守を造営するつもりで天守台までは築いた、計画はあったが幕府に遠慮し、または財政難から全く建てなかったケース(福岡城、赤穂城など)。
- 天守台・天守の造営されなかった城郭(米沢城、鹿児島城など)。
以上の城では御三階櫓という名目で三重櫓や隅櫓を天守の代わりにする、または、建てることが多かったが、これらもない城もあった。
その他[編集]
数え方[編集]
天守の数え方は、櫓と同じく「基(ki)」か、一般住宅と同じく「棟(tou・mune)」と数えられることもある。
階層の数え方[編集]
城郭建築、主に天守や多重櫓は、複雑に屋根を重ねることが多くあるため階層をよむ場合には、一般住宅のように単に-階としては、建築の概要を知る資料としてわかりにくくなることがある。そのため、複雑であるなし関わらず、外観での屋根又は外に出ている分の階層と内部の階層を並べて、「-重-階(-juu-kai)」とするのが好ましい。たとえば、熊本城大天守は2・4重の屋根は庇に分類されるので、外観3重内部6階地下1階即ち、3重6階地下1階と数えられる。ほかに、「-層-階(-sou-kai)」・「-重-階」・「-重-層」等を併用すると文自体がわかりにくくなることがあるので、文書などでは併用を避け一つに統一して使用することが望まれる。
書物や口伝、伝説上の話では階や重が単独で用いられることも多いが、階層を数えることに統一されたものは今ほどではなく、個人の捉えている通りの数え方で伝わっている可能性があるので、三重櫓と伝わっていても三階とは限らず五階の場合もあり、五重天守と伝わっていても内部を数えたものということもあり、外観は4重や3重の場合もある。場合によっては地下を数えている場合もある。よって、書物や口伝での階層の数え方が現在捉えられている重(層)=外観・階=内観であるとはいえない。
様式[編集]
現段階では、時代の変遷によって望楼型・層塔型・復古型に大別されている。
ただし、発展の順序において層塔型が先か望楼型が先かは結論が出ていない。
望楼型[編集]
入母屋造の櫓の上に望楼を別構造で載せているので、初重平面が歪んでいても、上重の矩形は整えることができる。天守の一つの特徴である破風が必ずできるので、堂々としたデザインとなる。主に、入母屋造の平櫓の上に望楼を載せたようなものや、入母屋屋根の重箱造りの二重櫓に望楼を乗せたような形にすることが多い。古いものは直接、天守に付属する櫓(付櫓)やその他の独立した櫓、小天守を連結することが多く、又は御殿をすぐ近くに造る事がある。
初期望楼型[編集]
主に関ヶ原の戦い以前
など
後期望楼型[編集]
主に関ヶ原の戦い~寛永年間
など
層塔型[編集]
主に寛永年間以降に見られ、寺院の五重塔のように上から下までデザインに統一感がある。
上に行くにつれて平面規模が逓減し、最上重の屋根のみ入母屋としたもの。千鳥破風や唐破風は付けられるが、直接に基部となるような大入母屋は造られず、全く破風のないものもある。初期の層塔型の天守は初重が平面逓減に関わらず大きく造られることがある。
など
復古型[編集]
江戸中期以降。構造自体は層塔型であるが外観が望楼風のデザインのもの。または、消失以前のものを忠実に再建したもの。
縄張り[編集]
天守の縄張り様式には独立式・複合式・連結式・連立式の4形式がある。
独立式[編集]
文字通り天守が単独で建っているもの。主に層塔型のものに多い。
など
複合式[編集]
天守に櫓などを付属したもの。
など
連結式[編集]
天守と小天守・櫓を渡り廊下・多聞櫓で繋いだもの。
など
連立式[編集]
天守と小天守群を連結したもの。
- 姫路城
- 松山城(伊予国)
など
天守十徳[編集]
兵法で述べられている天守の十の利点・目的。
- 城内を見渡せる
- 城外を見晴らせる
- 遠方を見望出来る
- 城内の武士の配置の自由
- 城内に気を配れる
- 守りの際の下知の自由
- 敵の侵攻を見渡せる
- 飛び道具への防御の自由
- 非常の際に戦法を自在に出来る
- 城の象徴
現存天守[編集]
明治6年(1873年)に廃城令が公布され、多くの城の建造物が失われた。廃城令以後も残った天守は60余あったが、軍の接収によって城の敷地が駐屯地となったので、破却が進んだ。さらに、第二次大戦時には米軍はこれを軍事施設とみなしたので、空襲で更に多くが失われた。
現在、江戸期以前から存在している天守は、全国に12か所しかない。そのうち4か所が国宝(うち姫路城は世界遺産)であり、残り8か所がいずれも国の重要文化財に指定されている。それぞれ現存12天守(十二現存天守)、国宝四城、重文八城(重文八天守)などと通称されている。
現存天守の一覧[編集]
幕末・明治以降に、戦災・破却等によって損失した天守[編集]
幕末~明治維新後までに、現存していた天守及び城内の建物は内戦の場となったことによる破損や焼失によって失われたり、廃城令発布以降、一部の保護されるようになったものを除いて全て、軍事施設として接収されて、破却が行われたり、企業や民間等に売却、払い下げが行われた。また、失火・放火による焼失の例もある。
以下等が破却・失火・戦災等により損失した例である。
第二次大戦戦災焼失天守一覧[編集]廃城令の発布以降に、破却を免れた天守の中には太平洋戦争中、米軍によって軍事施設とみなされ、空襲を受けて焼失したものが多くある。以下はいずれも、旧国宝や重要文化財などに指定された建造物であった。
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