稲川 聖城

提供: Yourpedia
稲川聖城から転送)
移動: 案内検索

稲川聖城(いながわ せいじょう、1914年 - 2007年12月22日)は、日本ヤクザ右翼活動家。指定暴力団稲川会総裁。本名は 稲川角二。「稲川裕芳」、「稲川芳邑」とも名乗った。神奈川県横浜市西区出身。

来歴

大正3年(1914年)11月、稲川角二(後の稲川聖城)は、神奈川県横浜市浅間町で生まれた。稲川聖城の父は福島県出身で土方をしていた。

昭和5年(1930年)、稲川角二は、横浜市浅間町の柔道道場・吉岡道場(道場主は吉岡日呂史)の塾生となった。

昭和8年(1933年)1月2日、ある土方が吉岡道場の玄関に座り、吉岡道場に因縁をつけた。吉岡日呂史と稲川角二は、因縁をつけた土方を吉岡道場内に連れて行き、暴行を加えた。その後、稲川聖城だけが、吉岡日呂史の罪を被って、土方暴行に関して警察に出頭した。稲川聖城は、検事から取調べを受けたが、不起訴となった。同年暮れ、吉岡日呂史は、三代目堀井一家(通称は片瀬一家。神奈川県片瀬を本拠としていた)・加藤伝太郎総長に、稲川角二を紹介した。稲川角二は、加藤伝太郎から、加藤伝太郎の下で博徒になることを勧められ、了承した。稲川角二は、加藤伝太郎宅に住み込んだ。稲川角二が加藤伝太郎の元で修行を始めて3日後の朝、稲川角二は、堀井一家の横山新次郎(通称は天一坊)と知り合った。

昭和10年(1935年)1月、稲川角二は、会津若松第29連隊に入隊した。

昭和11年(1936年)2月26日、二・二六事件が勃発した。稲川角二は、鎮圧軍側として出兵した。
詳細は 二・二六事件 を参照

昭和12年(1937年)1月、稲川角二は、会津若松第29連隊を除隊した。

同年7月、稲川角二は、稲川角二の弟分・長井誠造(通称はドモ誠。長井誠造の実姉は、加藤伝太郎の代貸し・山本信治の子分・郷三助の妻だった)を連れて、加藤伝太郎の代貸し・山本信治の横浜市保土ヶ谷の賭場で遊んだ。稲川角二は、山本信治に3円を貸してくれるように頼んだが、山本信治は稲川角二の借金の申し出を断った。稲川角二は、山本信治から借金を断られて、1人で山本信治の賭場から片瀬の加藤伝太郎宅に向かって帰った。山本信治は、稲川角二の借金申し込みに激怒していた。山本信治の子分・郷三助が、山本信治に、稲川角二を殺害することを提案し、了承された。郷三助と長井誠造が、稲川角二の跡を追った。同日、蔵王神社の御堂の側で、長井誠造が、稲川角二の頭を、鉈で斬りつけた。郷三助が長井誠造から鉈を奪い、稲川角二を鉈で斬りつけた。稲川角二は、右手をかざして鉈を防いだが、右手人差し指と右耳を切られた。稲川角二は、郷三助から鉈を奪い取ると、郷三助と長井誠造は逃走した。稲川角二が郷三助と長井誠造に襲撃された翌日朝、加藤伝次郎は、横山新次郎の弟分2人を山本信治のところに使いに出した。横山新次郎の弟分2人は、蔵王神社の側で、瀕死の重傷を負った稲川角二を発見し、横山新次郎の自宅に運んだ。横山新次郎は、子分たちに医者を集めさせた。野方病院の院長だけが、稲川角二を野方病院に運び込み、麻酔なしで稲川角二を60数針縫った。手術の途中で、稲川角二は意識を回復した。その後、郷三助の弟分3人が、稲川角二を狙って野方病院に入ってきたが、横山新次郎に撃退された。

同年9月11日ごろ、横山新次郎は、暴風雨が来たので、稲川角二がこの機会に郷三郎への報復を行うと考え、横山新次郎の若衆を野方病院に使わした。同日、稲川角二は、長ドスを持って野方病院を抜け出し、保土ヶ谷の郷三助の元に向かった。横山新次郎は、野方病院に使わした横山新次郎の若衆から、稲川角二が野方病院を抜け出したことを知った。横山新次郎は、片瀬と保土ヶ谷の間の大きな欅の下で稲川角二を待った。稲川角二は、途中で横山新次郎の出会い、横山新次郎から郷三助への報復を止めるように諭された。稲川角二は郷三助への報復を諦めた。

昭和13年(1938年)夏、神奈川県の江ノ島で、稲川角二は、ニイタカキャラメルの宣伝ガール・一二三と知り合った。稲川角二は、日産自動車の社員だと偽って、一二三の母親・きよに、一二三との結婚を求めた。きよは息子(一二三の弟)と相談すると返答した。

昭和14年(1939年)1月17日、神奈川の警察本部の司法主任・篠山敬之助は、関東の賭場狩りを行った。横山新次郎が、鶴見警察署に留置され、取り調べを受けた。同日朝、稲川角二は、鶴見警察署を訪ね、横山新次郎の罪を全て被った。横山新次郎は留置場から出て、稲川角二が留置場に入った。その後、稲川角二は賭博開帳幇助で、懲役4ヶ月の刑を受けた。同年2月1日、稲川角二は、横浜刑務所に収監された。

その後、稲川角二は出所して3日後に、一二三の大森の家で、一二三の弟と会い、一二三の弟から一二三との結婚の承諾を得、同年8月15日、稲川角二は一二三と祝言を挙げた。仲人は、江ノ島の旅館「二見館」の主人だった。堀井一家からは誰も出席しなかった。

同年11月中旬、関根組と堀井一家との暴力団抗争事件が勃発した。
詳細は 関根組と堀井一家の抗争事件 を参照
同年、稲川角二は加藤伝太郎から盃を受け、加藤伝太郎の子分になった。

昭和16年(1941年)、稲川角二は網島一家(通称は鶴岡一家)二代目・鶴岡政治郎の預かりとなった。

昭和19年(1944年)、湯河原の「清光園」で、稲川角二は、鶴岡政治郎の紹介で、二代目山口組組員・田岡一雄と会った。その後、鶴岡政次郎は、軍部から「神奈川県御殿場線山北駅近くに秘密工場を建設するため、京浜地区東海道の博徒を集めて、勤労奉仕をさせるように」との命令を受けた。

昭和20年(1945年)5月、御殿場線山北駅付近の飯場で、稲川角二は、勤労奉仕を行った。同年の終戦後、稲川角二の妻・一二三は、横須賀市安浦の女郎屋88軒全部に、湯たんぽを1個20円で売り歩いた。また、一二三は、屋台を出して、焼ソバと梅割り焼酎を販売した。

同年12月末、湯河原の「静山荘」2階の賭場で、予科練崩れの愚連隊森田祥生森田吉雄とも名乗った)と長谷川春治が、賭場荒らしを行って揉め、代貸しと一緒に「静山荘」の外に出た。森田祥生と長谷川春治は、愚連隊仲間6人を呼び、代貸しを大観山まで連行して、代貸しから金を強奪し、「自分達は旅館「湯の屋」に泊まっている。文句があるならばいつでも来い」と宣言した。同日夕方、稲川角二は、清水から「島田旅館」に帰ってくると、湯河原の博徒たちが森田祥生や長谷川春治ら愚連隊8人を殺害する計画を立てていた。稲川角二も、森田祥生や長谷川春治ら愚連隊8人を殺害する計画に加わった。同日夜、博徒の親分や代貸し20人が、棒切れや日本刀を持参して、「湯の屋」を取り囲んだ。稲川角二が日本刀を持って、1人で「湯の屋」に入り、森田祥生や長谷川春治ら愚連隊8人と対峙した。「湯の屋」の女将が、稲川角二と愚連隊8人の間に入り、稲川角二に、森田祥生や長谷川春治が鶴岡政次郎の同郷の人間であることを告げた。稲川角二は、森田祥生や長谷川春治ら愚連隊8人に餞別5000~6000円を渡し、「湯の屋」から逃がした。その後、森田祥生と長谷川春治は、鶴岡政次郎を訪ね「鶴岡政次郎の若衆にして欲しい」と懇願した。鶴岡政次郎は、森田祥生と長谷川春治に、稲川角二への添書を書き、稲川角二の若衆になることを薦めた。

昭和21年(1946年)5月、森田祥生と長谷川春治は、稲川角二の本拠であった湯河原の「島田旅館」を訪ね、稲川角二に鶴岡政次郎の添書を提示して「稲川角二の若衆にして欲しい」と頼んだ。

昭和22年(1947年)2月、横浜市横浜国際劇場裏の鶴岡政次郎宅で、稲川角二は、鶴岡政次郎から、鶴岡政次郎の若衆になるように打診された。稲川角二は、鶴岡政次郎の提案を受け入れた。稲川角二が鶴岡政次郎の提案を受け入れた3日後の夜、小田原から箱根に向かう道の途中で、鶴岡政次郎と加藤伝太郎は、山瀬惣十郎の立会いの下、稲川角二を鶴岡政次郎の若衆にすることが取り決められた。

昭和23年(1948年)、出口辰夫(通称はモロッコの辰。横浜愚連隊四天王の1人)と井上喜人(横浜愚連隊四天王の1人。出口辰夫の兄弟分)の舎弟・田中敬田中敬三とも名乗った)は、一銭も持たずに、湯河原の旅館「静山荘」の2階の賭場に出かけた。賭場で、出口辰夫は、45口径のS&WUSアーミーM19174と38口径のコルト38ディテクティブスペシャルを抜き、田中敬は、38口径のコルト38ポリスポジティブを抜いた。出口辰夫は、盆の上にS&WUSアーミーM19174を置き、5千円を貸すように要求した。稲川角二が、100円札の束を、出口辰夫に渡し、賭場荒らしを止めるように諭した。出口辰夫と田中敬は、賭場荒らしを止めて、「静山荘」から出た。同年8月13日、井上喜人が群馬県前橋刑務所から出所した。8月16日夜、浅草の料亭で、井上喜人の出所祝いが行われた。井上喜人の放免祝いの席で、出口辰夫は、井上喜人に、一緒に稲川角二の舎弟になることを提案した。井上喜人は、出口辰夫の提案には賛同しなかったが、稲川角二に会うことだけは了承した。その後、出口辰夫と井上喜人は、稲川角二の本拠だった湯河原の「島田旅館」を訪ね、稲川角二に会った。稲川角二は、井上喜人に出所祝いを渡した。井上喜人は稲川角二から出所祝いに感激し、出口辰夫は稲川角二に「出口辰夫と井上喜人を稲川角二の舎弟にして欲しい」と頼んだが、稲川角二は「兄弟分も舎弟も持つ気はない」と返答した。出口辰夫と井上喜人は、稲川角二に、稲川角二の若衆にしてくれるように頼んだ。稲川角二は、出口辰夫と井上喜人を、稲川角二の若衆とした。出口辰夫と井上喜人の舎弟や子分(田中敬や佐藤義雄)で、出口辰夫の舎弟・堀越辰雄以外の者100数十人全員が、稲川角二の傘下に入った。 同年、静岡県熱海市で、戦勝国民となった不良外国人が暴れだした。不良外国人は、熱海市の博徒・四代目山崎家一家石井秀次郎総長と対立した。石井秀次郎は、鶴岡政治郎に応援を要請した。鶴岡政治郎は、四代目山崎家一家を応援するために、稲川角二を熱海市に派遣した。その後、稲川角二は、不良外国人を制圧した。同年暮れ、湯河原の島田旅館の賭場で、博徒秋本次郎が、朝鮮人に対して侮蔑的な発言をした。在日朝鮮人だった川崎市の愚連隊の首領・山川修身(本名は沈敬変)は、侮辱された同胞の朝鮮人を応援しようとした。稲川角二が、秋本次郎の侮蔑的な発言を非難して、秋本次郎と朝鮮人を仲裁した。山川修身は、稲川角二が「電気に伝わって生まれた」男だと感じた。同年暮れ、御殿場の賭博小屋で揉め事が起ったため、出口辰夫は、友人の愚連隊の首領・趙春樹とともに、揉め事の起った賭博小屋に行った。賭博小屋には、稲川角二、長谷川春治、森田祥生がいた。稲川角二は、出口辰夫から趙春樹を紹介された。

昭和24年(1949年)春、鶴岡政次郎の自宅で、石井秀次郎は、鶴岡政次郎に引退する意思を伝え、網島一家の誰かを石井秀次郎の跡目にして欲しいと頼んだ。鶴岡政次郎は、石井秀次郎に稲川角二を薦めたが、石井秀次郎は難色を示した。鶴岡政次郎は、石井秀次郎に「自分に良い考えがある」と頼んだ。石井秀次郎が鶴岡政次郎に跡目を相談した翌日、鶴岡政次郎は、稲川角二と横山新次郎の2人に、山崎家一家五代目を継ぐように言った。稲川角二と横山新次郎は、2人で山崎家一家五代目を継ぐことを了承した。同年春、熱海市の海岸通りの「鶴屋旅館」2階大広間で、稲川角二と横山新次郎の山崎家一家の跡目披露が行われた。水戸金成豊彦蠣殻町鈴木伊之助鶴見辻本孝太郎、五代目小金井一家渡辺国人総長、楠原三之助、鶴見の松尾組松尾嘉右ェ門組長らが出席した。山崎家一家五代目跡目披露の前に、稲川角二は、森田祥生、長谷川春治、出口辰夫、井上喜人、田中敬ら30数人と親子の盃事を行った。

同年4月、稲川角二は熱海市咲見町で「稲川組」(後の稲川会)を結成した。稲川組組事務所の看板を「稲川興業」とした。稲川角二は、浪曲や歌謡ショーなどの興行を手がけた。同年6月、稲川角二は、広沢虎造寿々木米若東家浦太郎松平国十郎らを招き、稲川組結成を記念した興行を行った。不良朝鮮人4人が稲川組結成記念興行に来て、木戸口で森田祥生と長谷川春治と言い争いになった。稲川組と不良朝鮮人4人は、稲川組結成記念興行が終わった翌日の午後7時に、決闘をすることになった。稲川組結成記念興行が終わった翌日の午後7時、稲川組組事務所には、森田祥生、長谷川春治、出口辰夫、井上喜人、森田敬ら稲川組組員60人近くが待機したが、不良朝鮮人グループの襲撃はなかった。出口辰夫の提案で、井上喜人ら30人近くが稲川組組事務所に残って不良朝鮮人グループの殴り込みに備え、出口辰夫、森田祥生、長谷川春治ら残り30人近くが、不良朝鮮人グループの根城の糸川の遊郭に殴り込むことにした。出口辰夫、森田祥生、長谷川春治ら30人は、糸川の遊郭で、リーダーを含む不良朝鮮人グループ4人を拘束し、トラックで錦ヶ浦に行き、トラックごと不良朝鮮人4人を海に突き落とそうとした。不良朝鮮人グループのリーダーが「不良朝鮮人グループは熱海から出て行く」ことを約束したため、出口辰夫、森田祥生、長谷川春治は、不良朝鮮人4人の殺害を中止した。 不良朝鮮人グループのリーダーが熱海からの撤退を約束した翌日、不良朝鮮人グループ10数人は、3台の車に分乗して、熱海警察署の車2台に保護されながら熱海駅に行き、熱海から去った。

昭和25年(1950年)1月26日、鶴岡政次郎は、千葉県千葉市の博徒・吉村二郎から千葉競輪場の警備の応援要請を受けた。吉村二郎は、鶴岡政次郎の配下だった。吉村二郎は、千葉競輪場に出没する関根組の残党らしい愚連隊のハイダシ(もしくはハリダシ)に手を焼いていた。同年1月27日昼下がり、横浜の野毛の国際劇場裏の鶴岡政次郎の自宅で、鶴岡政次郎は、稲川角二に千葉競輪場の警備を指示した。同日夜、稲川角二は、小田原の井上喜人を、熱海の稲川角二の自宅に呼び、千葉競輪場の警備を命じた。同年1月28日昼、井上喜人は、井上喜人の舎弟・田中敬ら10人を連れて、小田原を発って、千葉市に向かった。同年1月29日、井上喜人、田中敬ら11人は、吉村二郎と吉村二郎の若衆とともに千葉競輪場の警備をした。1月31日、千葉競輪前節3日間が終わった。同日、井上喜人は、吉村二郎に挨拶に行き、吉村二郎から大阪での用事を頼まれて了承した。井上喜人は、千葉競輪場の警備を田中敬に任せて、大阪に向かった。同年2月1日午後、愚連隊風の男3人が、千葉競輪場の警備員詰所に押しかけ、吉村二郎にハイダシをかけ、数千円を受け取った。愚連隊風の男3人は吉村二郎に金額の不満を言ったため、田中敬ら稲川組組員10人は愚連隊風の男3人を殴り倒した。吉村二郎は、関根組の残党の報復を恐れて、田中敬たちの暴行を止めた。その後、吉村二郎は、田中敬ら稲川組組員10人に、熱海に引き上げるように迫ったが、田中敬は「稲川角二の命令でない限り引き上げない」と返答した。2月2日、湯河原の「若葉旅館」2階で、稲川角二は、吉村二郎から電話をもらい、田中敬ら稲川組組員10人を熱海に引き上げさせるように頼まれた。稲川角二は、田中敬ら稲川組組員10人の引き上げを拒否した。稲川角二は、出口辰夫、森田祥生、長谷川春治ら稲川組組員100人超を率いて、千葉競輪場に向かった。稲川組組員は、それぞれ日本刀をバットケースに隠し、拳銃をグローブに隠して稲川角二に同行した。千葉競輪場の第8レースが行われるころ、愚連隊40~50人が千葉競輪場の中にある欅の木の下に集合した。稲川角二ら100人超の稲川組組員が、千葉競輪場に到着すると、愚連隊は全員逃げ出した。稲川角二は、千葉競輪場で吉村二郎にハイダシをかけていた愚連隊が関根組の残党ではないと推測した。4月13日午後5時15分ごろ、神奈川県熱海市渚町渚海岸埋立地の榎本組土建事務所から出火し、火は渚町から本町、浜町、銀座通りの中心街、糸川の遊郭街、清水町、天神町まで広がった。市役所、警察署、消防署などが全焼し、軒数約200の熱海の旅館のうち、47軒が消失した。熱海市の戸数は約8030戸だったが、そのうちの1015戸が火事となった。被災者は4817人だった(熱海市の人口は35700人。その後、消失した旅館が、鉄筋コンクリート6階建ての建物「富士屋ホテル」として建築されることになった(熱海市初の鉄筋だった。東京の碑文谷一家の大森の貸元・田村清七の代貸し・平野満雄が「富士屋ホテル」の工事の下請けを、請け負い、100人を超える人足を「富士屋ホテル」の工事現場に送った。同年11月5日夜、愚連隊の1人が、稲川組組事務所を訪問し、森田祥生と長谷川春治に、富士屋ホテルの工事の人足たちがテラ銭を取って博打を行っていることを密告した。このとき、稲川角二は、熱海市の自宅にいた。11月6日午前0時すぎ、森田祥生は、稲川組組員・内藤貴志ら3人を、密告した愚連隊の男に案内させて、富士屋ホテルの工事現場に偵察に行かせた。午前0時10数分ごろ、富士屋ホテルの工事現場の人足たちから暴行を受けた内藤貴志が、稲川組組事務所に運び込まれた。内藤貴志は、工事現場の人足グループの首領・会津川(素人相撲の大関)に脇腹を刺されていた。長谷川春治は仕込み杖を持ち、森田祥生は日本刀を持ち、稲川組組員・高村康、稲川組組員・伊原更三、稲川組組員・山田芳彦を連れて、富士屋ホテルの工事現場に殴り込みをかけた。長谷川春治と森田祥生は、3時間を超える乱闘の末、会津川を数回斬り、最後に長谷川春治が会津川を斬り殺した。稲川角二は、森田祥生や長谷川春治の富士屋ホテル工事現場への殴り込みを知り、稲川組組事務所に入った。長谷川春治、森田祥生、高村康、伊原更三、山田芳彦は、稲川組組事務所に引き上げて、稲川角二に、会津川を斬り殺したことを報告した。稲川角二は、森田祥生、長谷川春治、高村康、伊原更三、山田芳彦に熱海警察署に自首するように指示した。長谷川春治、森田祥生、高村康、伊原更三、山田芳彦は、稲川角二に付き添われて、熱海警察署に出頭し、司法主任・片山警部に引き渡された。

同年11月7日、熱海市の教務課長が、稲川組組事務所を訪ね、稲川角二に「連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が稲川組の解散を命令したこと」と「静岡県選出の代議士西沢米吉が稲川角二に至急会いたがっていること」を告げた。稲川角二は、熱海市の教務課長の車に乗って、熱海市の西沢米吉の別荘に行き、西沢米吉と面談した。西沢米吉は、稲川角二に、当分の博打取り止めを迫った。稲川角二は、西沢米吉の意見に従った。その後、裁判で、長谷川春治は無期懲役、森田祥生は懲役15年、高村康は懲役3年、伊原更三は懲役3年、山田芳彦は懲役3年の求刑を受けた。その後間もなく、高村康、伊原更三、山田芳彦は保釈されたが、長谷川春治と森田祥生は沼津の拘置所に入った。 その後、熱海市市議会で、稲川組の解散問題が採り上げられた。旅館「清海園」の主人・室田誠次郎が稲川組を弁護したその後、稲川角二が博打を止めたことで、GHQからの稲川組解散指令は解除となった。

昭和26年(1951年)12月初旬、吉水金吾と林喜一郎の抗争事件が勃発した。
詳細は 吉水金吾と林喜一郎の抗争事件 を参照
吉水金吾と林喜一郎の抗争事件を切っ掛けに、稲川角二は、横浜の愚連隊の首領・吉水金吾と横浜の愚連隊の首領・林喜一郎を、稲川角二の若衆にした。

昭和29年(1954年)、千駄ヶ谷で、稲川角二は、美空ひばり江利チエミ雪村いづみの興行を行った。

昭和30年(1955年)1月7日、出口辰夫は、出口辰夫の舎弟・川上三喜を連れて、石塚一家石塚儀八郎総長の代貸・石井隆匡の賭場で遊んだ。出口辰夫の負けが込んだので、石井隆匡の舎弟・宮本広志が、出口辰夫に「今日はもう回銭がなくなったので、このあたりで博打を止めた方がいいのではないか」とアドバイスした。出口辰夫は、宮本広志の発言に激怒した。このとき、石井隆匡の賭場に入ってきた井上喜人が、出口辰夫をなだめて、川上三喜に出口辰夫を連れて帰るように指示した。川上三喜は、出口辰夫の身体を支えて(このとき、出口辰夫はヒロポン中毒になっていた)、石井隆匡の賭場から出て行った。井上喜人は、出口辰夫の非礼を、石井隆匡に詫びた。宮本広志ら石井隆匡の舎弟は、出口辰夫を殺害しようと話し合った。しかし、石井隆匡は、出口辰夫への報復を認めなかった。

昭和30年(1955年)1月30日、出口辰夫は病気で死去した。享年34、もしくは、昭和30年(1955年)1月10日、出口辰夫は病気で死去した。享年33。出口辰夫の死後、稲川角二は、出口辰夫の横須賀市の縄張りを、出口辰夫の舎弟・佐藤義雄に継がせた。その後、横須賀市で、出口辰夫の葬儀が行われた。施主は稲川角二だった。石井隆匡、宮本広志も出口辰夫の葬儀に参列した。出口辰夫の葬儀の1週間後、横須賀市の料亭で、井上喜人は、石井隆匡に「自分と兄弟分にならないか」と提案した。石井隆匡は「いずれ盃を交わせる時期になれば、自分からお願いしたい」として返事を保留した。 井上喜人と石井隆匡が横須賀の料亭で兄弟分の話をした4ヵ月後、石塚儀八郎は、石井隆匡に「自分はヤクザから引退する。今後は石井隆匡の好きな道を進め」と伝えた。その後、井上喜人と石井隆匡は、兄弟分となった。同年春、熱海市の賭場で、稲川角二は、山川修身に、稲川角二の若衆にならないかと訊ねた。山川修身は、稲川角二の提案を断った。同年夏の終わり、広島市岡組幹部・永田重義は、稲川角二を、広島市田中町の永田重義の道場(賭場)に招待した。稲川角二は、永田重義の道場で、日本銀行の300万円の小切手を持参してきており、小切手の換金を永田重義に依頼した。永田重義は、岡組組員・服部茂(後の二代目共政会服部武の弟)に、換金を指示した。同年、森田祥生が静岡刑務所から出所した。昭和27年(1952年)4月28日に発行された対日講和条約の恩赦で、刑期が4分の1に減刑されたためだった。同年、川崎市の愚連隊・山川修身が、井上喜人の知り合いだった日本橋の呉服問屋「富士屋」の主人を、山川修身の賭場に呼び、テラ銭を取った。井上喜人は、田中敬ら7人の弟分に、鶴見の花月園競輪場で、山川修身を拉致してくるように指示した(山川修身は競輪好きで、よく花月競輪場に行っていた。田中敬ら井上喜人の舎弟7人は、花月競輪場で、山川修身を拉致しようとしたが、山川修身は「後日井上喜人のところに出向く」と主張した。その後、山川修身は単身で、稲川組の横浜での連絡所であった横浜ホテル322号室で、井上喜人と会った。山川修身が井上喜人の舎弟になることで、井上喜人と山川修身は和解した。

昭和32年(1957年)、長谷川春治が静岡刑務所から出所した。昭和27年(1952年)4月28日に発行された対日講和条約の恩赦で、刑期が4分の1に減刑されたためだった。

昭和33年(1958年)6月、稲川角二は、横山新次郎の推薦で、四代目下田一家佐藤昌勝総長の若衆・森泉人を、稲川角二の若衆にした。熱海市の縄張りは、森田祥生と長谷川春治が守ってきた。

昭和34年(1959年)1月下旬、赤坂の料亭で、稲川角二と三代目住吉一家阿倍重作総長は、稲川角二が銀座に稲川組の興行の連絡事務所を出すことについて話し合った。阿倍重作は、稲川組の銀座の興行連絡事務所開設を了承した。その後、稲川角二は、西銀座7丁目の外堀通り(旧電通通り)の裏通りにある南旺ビル4号館3階に、「稲川興業」の看板を掲げた。森田祥生は、静岡市の4つの博徒を糾合して、森田一家を設立し、森田一家総裁となった。その後、長谷川春治が熱海市の縄張りを守ることになった。このころ、稲川角二は、石井隆匡を、稲川角二の若衆にした。同年3月中旬、稲川角二の自宅の風呂場で、稲川角二の妻・一二三の母親・きよは、稲川角二の長男・稲川裕紘稲川土肥とも名乗った)が背中に刺青を入れているのを発見した。きよが稲川裕紘の背中の刺青を発見した翌朝、朝食前に、きよと稲川裕紘は、稲川裕紘の将来について話し合った。稲川裕紘は、きよにヤクザになる決心を語った。稲川角二は、ヤクザになりたいと言う稲川裕紘を連れて、鎌倉市大船の横山新次郎を訪ねて、相談した。横山新次郎は、稲川角二に、稲川裕紘を石井隆匡の元で修業させることを勧めた。その後、稲川裕紘は、石井隆匡の自宅に住み込んで、修業を始めた。

同年夏、稲川角二は、七代目碑文谷一家高橋梅吉総長から、高橋梅吉のヤクザからの引退の相談を受けた。稲川角二は、八代目碑文谷一家総長に、稲川組幹部・西山実を据えた。8月31日、ブルースカイ事件が勃発した。
詳細は ブルースカイ事件 を参照

昭和35年(1960年)6月、岸信介首相は、警察の警備不足を補うため、自民党幹事長川島正次郎を通して、右翼活動家の児玉誉士夫に、右翼団体暴力団宗教団体の取りまとめを依頼した。6月初旬、西銀座7丁目の稲川組興行事務所で、稲川裕芳(後の稲川聖城)は、右翼活動家・小沼正から「昭和35年(1960年)6月19日にアメリカドワイト・D・アイゼンハワー大統領が国賓として来日するので、暴力団にも警備の協力をお願いしたい」との要請を受けた。小沼正は、稲川裕芳に「昭和35年(1960年)6月19日には、天皇は、皇后を伴って、アイゼンハワー大統領を羽田空港まで出迎える。天皇と皇后とアイゼンハワー大統領は、羽田空港から皇居まで、オープンカーでパレードをする予定だ」と語った。昭和35年(1960年)6月19日の日米安全保障条約改定の自然承認を控えて、安保闘争が激化していた。警視庁には大統領警衛警備事務推進委員会が設置されており、大統領警衛警備事務推進委員会は、全パトカー280台を出動と、私服警察官3000人、機動隊隊員1500人を配置することを決定したが、まだ警備力不足だった。自民党安保委員会は、警備力不足を補うために、「アイク歓迎対策実行委員会」を設立し、委員長には橋本登美三郎を据えた。稲川裕芳は、小沼正の要請を受け入れた。すぐに、稲川裕芳と横山新次郎は、金を集めて、デパート高島屋から戦闘服1万着とヘルメット5000個を買った。稲川裕芳は、井上喜人に、昭和35年(1960年)6月19日には稲川組組員など1万人を動員すること、昭和35年(1960年)6月19日には静岡県と神奈川県のバスをすべてチャーターしておくこと、チャーターしたバスには「稲川組」と書かれた幕を張っておくこと、を指示した。6月10日、ハガチーアメリカ大統領新聞係秘書は、羽田空港出口で、デモ隊に取り囲まれた。ハガチーは、アメリカ海兵隊のヘリコプターで、羽田空港を出た。ハガチーは、在日アメリカ大使館に入った。児玉誉士夫は、警視庁と打ち合わせた結果、稲川組(後の稲川会)5000人、松葉会2500人、飯島連合会3000人、国粋会1500人、義人党300人、神農愛国同志会10000人を、「警官補助警備力」として、東京・芝の御成門周辺に配置することを決めた。6月15日、全日本学生自治会総連合(略称は全学連)7000人が、国会議事堂になだれ込んだ。6月16日、岸信介総理は、記者会見で、アイゼンハワー大統領の訪日延期(事実上の訪日中止)を発表した。6月19日、新安保条約は、参議院の議決を経ないまま、自然承認となった。

6月26日、伊豆市長岡の旅館2階の賭場で、稲川裕芳は、林一家・林喜一郎総長から「アイゼンハワー大統領来日のために、自民党の安保委員会が、財界から6億円近い金を集めた。児玉誉士夫が、財界から集められた6億円近い金を、掠め取ったらしい」と報告を受けた。その後、稲川裕芳は、東京都世田谷区等々力の児玉誉士夫邸を訪ね、児玉誉士夫に、財界から集められた6億円近い金について訊ねた。児玉誉士夫は、稲川裕芳に「自分は自民党に貸しはあっても借りはない」と答えて、一喝した。稲川裕芳は、児玉誉士夫に反論できなかった。稲川裕芳が児玉誉士夫に一喝された1週間後の夜、赤坂の料亭「中川」で、児玉誉士夫は、稲川裕芳に「自分と兄弟分にならないか」と提案した。稲川裕芳は、児玉誉士夫に、「兄弟分ではなく、心の親分になって欲しい」と返答した。児玉誉士夫は、稲川裕芳の実質的な親分(稲川裕芳の渡世上の親分は鶴岡政次郎)となった。10月14日、鶴岡政次郎が死亡した。享年68。10月15日夜、横浜国際劇場裏の鶴岡政次郎邸で、鶴岡政次郎の仮通夜が営まれた。藤木幸太郎、笹田照一、田岡一雄、稲川裕芳らが参列した。藤木幸太郎、笹田照一、田岡一雄、鶴岡政次郎は、兄弟分だった。藤木幸太郎と笹田照一は、田岡一雄に、鶴岡政次郎の葬儀委員長になってくれるように頼んだ。田岡一雄は、藤木幸太郎と笹田照一の提案に賛同せずに、鶴岡政次郎の葬儀委員長に稲川裕芳を提案した。藤木幸太郎と笹田照一は、稲川裕芳を鶴岡政次郎の葬儀委員長にすることに、同意した。稲川裕芳は、田岡一雄と藤木幸太郎と笹田照一から、鶴岡政次郎の葬儀委員長になるように勧められて、了承した。このころ、稲川組組員が3000人を超えていた。

昭和36年(1961年)2月21日、池田勇人首相は、「暴力犯罪防止対策要綱」を閣議決定した。昭和39年(1964年)10月10日から東京オリンピックの開催を控えており、治安強化を図る必要に迫られていたためだった。10月、岐阜県博徒池田一家大幹部・坂東光弘が、鶴政会(後の稲川会)林一家・林喜一郎総長の傘下となり、鶴政会岐阜支部長に就任した。同年12月、三代目山口組田岡一雄組長は、山口組若頭補佐菅谷政雄に、神奈川県横浜市で、菅谷興業横浜支部を作らせた。そこは、鶴政会(後の稲川会)の縄張りだった。

昭和37年(1962年)2月、田岡一雄は、井志組井志繁雄組長(井志繁雅とも名乗った)に、神奈川県横浜市中区山下町の南京街で、井志組横浜支部を作らせた3月、警察庁は、神戸山口組神戸本多会(会長は平田勝市)、大阪柳川組(組長は柳川次郎。本名は梁元錫)、熱海鶴政会(後の稲川会)、東京松葉会(会長は藤田卯一郎)の5団体を広域暴力団と指定し、25都道府県の県警に実態の把握を命じた。4月、稲川裕芳は、岐阜県岐阜市岐阜市民センターで、マヒナスターズの興行を打った。6月、益田組益田芳夫組長(後の益田佳於)は、横浜市で、「山三食品」を開店した。児玉誉士夫は、「全国の博徒を大同団結させて、日本国内の共産主義勢力を押さえ込む」という構想を持った。児玉誉士夫は、博徒の大同団結組織を東亜同友会と名付けた。同年夏ごろから、児玉誉士夫は、鶴政会・稲川裕芳会長、北星会岡村吾一会長、東声会町井久之会長(本名は鄭建永)、松葉会藤田卯一郎会長らに根回しを始め、大同団結の同意を取り付けた。9月16日午後9時すぎ、稲川組と芳浜会の抗争事件が勃発した。
詳細は 稲川組と芳浜会の抗争事件 を参照
10月9日午前0時すぎ、甲府戦争が勃発した。
詳細は 甲府戦争 を参照
12月14日、岐阜抗争が勃発した。
詳細は 岐阜抗争 を参照
昭和38年(1963年)1月、東亜同友会実現のための発起会は、東京で、関東の会合を開いた。2月初旬、東亜同友会実現のための発起会は、名古屋市で、名古屋地区の会合を開いた。2月、 田岡一雄は児玉誉士夫の取り持ちで、町井久之を弟とする兄弟盃を交わすことを決めた。東声会と山口組との結縁には、当初関東の諸組織が反発した。児玉誉士夫は関東の諸組織を説得した。神戸市須磨区の料亭「寿楼」で、田岡一雄と町井久之との結縁式が行われた。結縁式には、阿部重作住吉会名誉顧問、稲川角二、関根賢関根建設社長・松葉会顧問(元関根組組長)、磧上義光・住吉一家四代目総長兼港会会長が出席した。2月11日、児玉誉士夫は、稲川裕芳、藤田卯一郎、磧上義光、岡村吾一、町井久之、田岡一雄、山口組柳川組柳川次郎組長(本名は梁元錫)、中島会図越利一会長、山口組菊田組菊田吉彦組長、山口組鈴木組鈴木康雄組長ら全国の主だった暴力団組長を、京都府京都市の「都ホテル」に集め、「東亜同友会」構想を披露した。稲川裕芳が関東の暴力団組長を、田岡一雄が関西中国四国の暴力団組長を、児玉誉士夫が九州の暴力団組長をまとめて、意思統一を図った。2月28日、世田谷区等々力の児玉誉士夫邸で、児玉誉士夫は、全国規模の東亜同友会幹部発起会を開いた。3月、グランドパレス事件が勃発した。結果的に、児玉誉士夫の推し進めていた東亜同友会構想は頓挫し、田岡一雄と稲川裕芳の対立は決定的となった。
詳細は グランドパレス事件 を参照
警察庁は、神戸・山口組、神戸・本多会、大阪・柳川組、熱海・錦政会、東京・松葉会の5団体を広域暴力団と指定し、25都道府県に実態の把握を命じた。4月初め、稲川裕芳は、熱海市水口町に、400坪の敷地に地下室付き鉄筋2階建ての自宅を新築した。新築祝いには、横山新次郎や児玉誉士夫が訪れた。6月末、横山新次郎は「井上喜人が箱根などで関東の暴力団組長を集めて賭場を開き、賭場終了後でも稲川裕芳に挨拶もしていない」という情報を入手した。横山新次郎が井上喜人の情報を入手した翌日の夜、横山新次郎は、大船の横山新次郎宅に稲川裕芳を呼び、稲川裕芳に井上喜人の破門を迫った。稲川裕芳は、横山新次郎への返答を保留した。稲川裕芳が横山新次郎から井上喜人の破門を切り出されて2日後、世田谷区等々力の児玉誉士夫邸で、稲川裕芳は、児玉誉士夫から「井上喜人は、将来稲川裕芳にとって明智光秀的な存在になるかもしれない」と言われた。翌日、稲川裕芳は、熱海市の自宅に、石井隆匡を呼び、石井隆匡に「横山新次郎が井上喜人を破門するように主張している」と伝えて、井上喜人の処遇を相談した。翌日、石井隆匡は、熱海市の稲川裕芳の自宅を訪ねて、断指した石井隆匡の小指を、稲川裕芳に渡して「井上喜人の破門を止めて欲しい」と訴えた。稲川裕芳は、大船の横山新次郎宅を訪れ、石井隆匡が井上喜人のために断指したことを報告した。横山新次郎は、井上喜人の破門を取り止めた。 同年夏の終わり、稲川組と東声会の対立事件が勃発した。これにより、稲川裕芳は、井上喜人を破門にせずに堅気にさせた。井上喜人の若衆・舎弟の全員は、稲川組に残った。
詳細は 稲川組と東声会の対立事件 を参照
10月16日、稲川裕芳は、鶴政会を「錦政会」と改称し、政治結社として届け出た。児玉誉士夫、右翼活動家・三浦義一、岡村吾一、小沼正、吉田彦太郎らが錦政会顧問に就任した。11月9日午後6時9分ごろ、田中清玄銃撃事件が勃発した。
詳細は 田中清玄銃撃事件 を参照
12月21日[1]、東京・松葉会、熱海・錦政会、東京・住吉会(会長は磧上義光)、東京・日本国粋会(会長は森田政治)、川崎義人党(会長は高橋義人)、東京・東声会、東京・北星会は、児玉誉士夫の提唱する関東会に参加した。同日、関東会の結成披露が、熱海の「つるやホテル」で行われた。松葉会・藤田卯一郎会長が、関東会初代理事長に就任した。児玉誉士夫、児玉誉士夫らが昭和36年(1961年)に結成した青年思想研究会(略称は青思会)常任諮問委員・平井義一衆議院議員、青思会諮問委員・白井為雄、青思会常任実行委員・中村武彦、青思会常任実行委員・奥戸足百、松葉会顧問・関根賢、三代目波木一家波木量次郎総長が関東会結成披露に出席した。12月下旬、関東会は、関東会加盟7団体の名で、「自民党は即時派閥抗争を中止せよ」と題する警告文を、自民党衆参両議院200名に出した。自民党衆議院議員池田正之輔は、この警告文を、激しく非難した。警告文は、自民党の治安対策特別委員会で、議題に取り上げられた。これは、暴力団が連帯して政治に介入してきた、初めての事件だった。河野一郎派を除く衆議院議員と参議院議員は「関東会からの警告文は、児玉誉士夫と親しい河野一郎を擁護するものだ」と判断し、検察と警察当局に関東会壊滅を指示した。 昭和39年(1964年)1月、「暴力取締対策要綱」が作られた。2月初旬、警視庁が「組織暴力犯罪取締本部」を設置し、暴力団全国一斉取締り(第一次頂上作戦)を開始した。
詳細は 第一次頂上作戦 を参照
4月初旬、熱海市水口町の稲川裕芳邸で、稲川裕紘は、稲川裕芳に「稲川裕紘が、初めてテラ銭を取る賭場を開く。そのために、稲川裕芳の回銭を貸して欲しい」と申し出た。稲川裕芳は、稲川裕紘の申し出を断った。稲川裕紘が稲川裕芳に回銭を無心した3日後、大船の横山新次郎邸で、稲川裕紘は、横山新次郎に、稲川裕紘の初デラを差し出した。その後、横山新次郎は、稲川裕芳に、稲川裕紘が初デラを横山新次郎に届けてきたことを伝えた11月6日、安藤組幹部・西原健吾の舎弟・小池が渋谷区宇田川町のバーで、錦政会会員と喧嘩になった。11月7日午後5時50分、レストラン外苑で、西原健吾と安藤組幹部・矢島武信が錦政会側と話し合いを持ったが、西原健吾と矢島武信は錦政会会員に襲われた。西原健吾は3発の銃弾を受けて死亡し、矢島武信は日本刀で頭を切りつけられて、重傷を負った。

昭和40年(1965年)3月、錦政会と北星会が解散した。その後、吉水金吾が、服役中に、ヤクザから引退することを宣言した。同年、稲川裕紘は、賭博開帳で神奈川県警に逮捕された。稲川裕紘は黙秘したため、神奈川県警本部の係官は、稲川裕芳を訪問し、稲川裕芳に稲川裕紘を説得させ、賭博開帳を認めさせるように迫った。稲川裕芳は、神奈川県警本部の係官に「稲川裕芳の息子の稲川裕紘を主犯にして、他の者を幇助して、保釈して欲しい」と切り替えした。横山新次郎と森田祥生が、稲川裕紘に賭博開帳を認めるように説得したが、稲川裕紘は黙秘を貫き通した。

昭和41年(1966年)6月ごろ、箱屋一家趙春樹総長は、日本国粋会から脱会した。石井隆匡は、何度も趙春樹に、稲川聖城の若衆になることを勧めた。

昭和42年(1967年)4月12日、保土ヶ谷の病院で、横山新次郎が死亡した。享年65。それから、稲川聖城は、毎月12日には、鎌倉霊園の横山新次郎の墓へ行くようになった。6月初め、稲川一家(後の稲川会。総長は稲川聖城)事務所の横浜ホテル322号室で、稲川聖城は、趙春樹と会い、趙春樹を稲川聖城の若衆とした。

昭和43年(1968年)3月、稲川聖城は、昭和39年(1962年)3月19日に行った総長賭博により、府中刑務所に収監された。稲川聖城は、懲役3年の実刑判決を受けてた。その後、稲川聖城は、府中刑務所から福岡刑務所に移送された。

昭和46年(1971年)12月下旬、稲川一家総長代行・林喜一郎と横須賀一家・石井隆匡総長は、三代目山口組若頭山本健一に稲川聖城の刑務所からの出迎えの要請をして、了承されていた。12月30日、稲川聖城は、福岡刑務所から府中刑務所に移送された。

昭和47年(1972年)1月、稲川聖城は、林喜一郎を府中刑務所に呼び、特別面会で林喜一郎に会った。稲川聖城は、林喜一郎に「稲川聖城の出所時には、稲川聖城の妻・一二三だけの出迎えにするように」と指示した。その後、林喜一郎は、山本健一らに「稲川聖城の出迎えは遠慮して欲しい」と伝えた。1月20日午前0時、稲川聖城は府中刑務所から出所した。1月24日、稲川聖城、林喜一郎、石井隆匡は、尼崎市関西労災病院に入院中の田岡一雄を見舞った。1月27日、熱海市水口町の稲川聖城邸の大広間で、稲川聖城の放免祝いが行われた。 夜、稲川聖城は、稲川一家幹部全員を、熱海市水口町の稲川聖城邸の2階大広間に集めて、「稲川一家を稲川会に改称すること」と「稲川会の本部事務所を東京都に置くこと」と「稲川会の代紋を統一すること」と「稲川会の戒律三か条」を通達した。稲川会の戒律三か条は、「稲川会内で揉め事を起こしてはいけない。揉め事を起こした者は破門」と「麻薬覚醒剤を扱った者は破門」と「山口組と抗争を起こしてはならない」だった。稲川聖城は、稲川会会長に就任した。稲川聖城は、稲川会理事長に、石井隆匡を据えた。稲川会会長補佐に林喜一郎を据えた。稲川聖城は、稲川会専務理事に趙春樹と富士市木村信一を据えた常任理事に、長谷川春治、森田祥生、和田永吉、山田時造、山川修身、田中敬、森泉人、大澤三金吾滝沢良治郎を据えた。稲川会相談役に井上与一鈴木仙太郎山瀬惣十郎島田四郎を据えた。稲川聖城は、代貸しクラス100人を理事に据えた。 - - 同年3月15日、稲川聖城は、東京都港区六本木八千代ビル防衛庁の向かいの7階建てのビル)3階に稲川会本部事務所を構え、事務所開きを行った。稲川会本部事務所開きには、東京近郊の稲川会理事、長谷川春治、森田祥生、和田永吉、山田時造、山川修身、田中敬、森泉人、大澤三金吾、滝沢良治郎、趙春樹、木村信一、石井隆匡が出席した。 - - その後、六本木の稲川会事務所で、稲川聖城は、石井隆匡から、石井隆匡と山口組若頭・山本健一の兄弟分の結縁の相談を受け、了承した。 - - その後、向島の料亭で、山本健一、山口組若頭補佐・益田佳於、石井隆匡、趙春樹が食事をした。ここで、山本健一と石井隆匡との兄弟分の結縁と、益田佳於と趙春樹との兄弟分の結縁が話し合われた。 -

- 同年10月20日、向島の料亭「桜茶屋」で、、稲川会、國粹会(前身は日本国粋会)、東亜会(前身は東声会)、交和会(前身は北星会)、義人党住吉会松葉会二率会双愛会が参加して、博徒暴力団の親睦団体・関東二十日会が結成された。
詳細は 関東二十日会 を参照

- 同年10月24日午前10時すぎ、神戸市灘区篠原本町の田岡一雄の自宅で、山本健一と石井隆匡の兄弟盃が交わされた。さらに、益田佳於と趙春樹の兄弟盃も交わされた。 - - 同年10月、山口組若頭・山本健一、山口組舎弟頭・松本一美、山口組若衆・桜井隆之、石井隆匡、稲川会・松岡良次郎常任理事、秋山組徐在鎮組長、白龍会山田忠一会長、一力会鍋島力夫会長らは、姫路市の竹中組事務所3階の16畳の大広間で、賭博を行った。胴元は竹中正久だった。賭博は5、6日間続き、総額50億円が動き、テラ銭は1億円以上になった。 - - 昭和48年(1973年)11月、稲川聖城は、九代目碑文谷一家総長に、稲川会常任理事・長谷川春治を据えた。 - - 昭和49年(1974年)8月5日、稲川聖城は、熱海市主催の花火大会を見ていると、石井隆匡から「稲川裕紘を、長谷川春治の後に熱海市を統括する者にしたい」との進言があった。 - - 同年8月6日、稲川聖城は、熱海市水口町の稲川聖城邸の応接間に、稲川裕紘を呼び、長谷川春治の後の熱海市の縄張りを稲川裕紘に譲ることを告げた。 - - 昭和50年(1975年)、甲府戦争で服役していた川上三喜が出所した。 - - 同年、石井隆匡は、稲川聖城の了解を得て、川上三喜を稲川会横須賀一家甲府川上組組長に据えた。 - - 昭和56年(1981年)7月23日午後7時31分、田岡一雄は、入院先の関西労災病院で、急性心不全により死去した。享年68。 - - 同年10月25日午後1時50分、神戸市灘区篠原本町の田岡一雄邸で、田岡一雄の山口組組葬が行なわれた。喪主は、田岡一雄の妻・田岡文子。葬儀執行委員長は、稲川聖城だった。服役中の三代目山口組若頭・山本健一が、副葬儀委員長だった。田岡一雄の組葬には、ソビエト連邦のテレビ・ラジオやアメリカのボルチモア・サンなどの報道陣約300人が詰めかけた。機動隊約340人が、田岡一雄邸を包囲し、警戒に当たった。参列者数は、兵庫県警の要請により、約1500人に絞られた。 - - 昭和58年(1983年)10月下旬、京都府嵐山渡月橋近くの料亭で、稲川会と会津小鉄会(総裁は図越利一)は親戚となった。稲川聖城、趙春樹ら稲川会最高幹部、図越利一、会津小鉄会・高山登久太郎理事(本名は姜外秀。後の四代目会津小鉄会長)ら会津小鉄会最高幹部が、嵐山渡月橋近くの料亭に出席して、会食した。 - - 昭和59年(1984年)1月17日午後6時13分、児玉誉士夫が、脳梗塞による急性心不全で死亡した。 - - 同年1月17日午後11時すぎ、稲川聖城は、児玉誉士夫が死亡したことを知った。稲川聖城は、熱海市から東京都世田谷区等々力の児玉誉士夫邸に車を走らせた。稲川聖城の後続車には、長谷川春治と森田祥生と森泉人が乗った。 - - 同年1月18日午前1時すぎ、稲川聖城は、児玉誉士夫邸に到着した。その後、稲川聖城、長谷川春治、森田祥生、森泉人は、児玉誉士夫の秘書・太刀川恒夫(後の東京スポーツ新聞社社長)に案内されて、児玉誉士夫邸の応接間横手奥の部屋に案内されて、児玉誉士夫の遺体と対面した。 - - 同年6月1日、山口組若頭補佐・小田秀臣は、稲川聖城と会い、山口組若頭・竹中正久の山口組四代目就任を止めようとした。稲川聖城は、山口組四代目跡目問題への介入を拒んだ。 - - 同年6月3日、神戸市で、田岡一雄の妻・田岡文子の退院を祝った。田岡文子は、稲川聖城に、竹中正久山口組四代目の後見役を頼んだ。稲川聖城は快諾した。 - - 同年7月10日、徳島県鳴門市の「観光ホテル鳴門」で、竹中正久の山口組襲名式が執り行なわれた。後見人は稲川聖城。取持人は諏訪一家諏訪健治総長。推薦人は住吉連合会(後の住吉会)・堀政夫会長と会津小鉄会(後の会津小鉄)・図越利一会長、大野一家大野鶴吉総長、今西組辻野嘉兵衛組長、松浦組松浦繁明組長、大日本平和会平田勝市会長、森会平井龍夫会長、草野一家草野高明総長。見届け人は翁長良宏。媒酌人は大野一家義信会津村和磨会長。

- 同年8月5日、山一抗争が勃発した。
詳細は 山一抗争 を参照
- 昭和60年(1985年)8月1日午前10時すぎ、北見抗争が勃発した。
詳細は 北見抗争 を参照

- 同年10月、稲川聖城は、稲川会会長を五代目横須賀一家総長・石井隆匡に譲り、稲川会総裁に就任した。 - - 同年11月20日、林喜一郎が死亡した[2]。 - - 平成元年(1989年)7月20日、神戸市灘区の山口組本家2階の80畳敷きの大広間で、四代目山口組若頭渡辺芳則の山口組五代目襲名相続式典が行われた。媒酌人は大野一家義信会津村和磨会長、後見人は稲川聖城、取持人は稲川会石井隆匡会長、奔走人は稲川会・稲川裕紘理事長(後の三代目稲川会会長)。推薦人は、四代目会津小鉄会・図越利一総裁、松葉会中村益也会長、四代目今西組辻野嘉兵衛組長、三代目森会平井龍夫会長、二代目大日本平和会平田勝義会長、侠道会森田幸吉会長、工藤連合草野一家工藤玄治総裁、四代目小桜一家神宮司文夫総裁、住吉連合会堀政夫総裁。見届人は、導友会愛桜会、四代目砂子川組、三代目倭奈良組、三代目互久楽会、二代目大野一家、三代目南一家、四代目佐々木組諏訪会、二代目松浦組、三代目旭琉会。霊代は、中西一男。しかし、兵庫県警が、山口組五代目襲名式阻止の方針を打ち出したため、実際に山口組五代目襲名相続式典に出席したのは、山口組直系組長92人と、稲川聖城、石井隆匡、稲川裕紘、五代目酒梅組谷口政雄組長、東亜友愛事業組合沖田守弘理事長、双愛会石井義雄会長ら10数人の親戚筋だけだった。渡辺芳則は、先代である竹中正久の内妻・中山きよみに、全く祝儀を届けなかった[3]。 - - 同年9月27日、山口組誠友会(会長は石間春夫。通称は北海のライオン)と稲川会越路一家との抗争が勃発した。お互いが、相手傘下組織の事務所に銃弾を撃ち込んだ。 - - 同年10月5日、渡辺芳則は、山口組直系組長会で、稲川会など他団体との抗争を厳禁をした。 - - 平成2年(1990年)3月、稲川聖城は、稲川裕紘の子・稲川英希稲川英生とも名乗った。稲川聖城の孫)を稲川会本部長に据えた。 - - 同年10月、石井隆匡が死亡した。 - - 同月、稲川聖城は、稲川裕紘を三代目稲川会会長にした。 - - 平成17年(2005年)5月29日、稲川裕紘が病死した。 - - 平成19年(2007年)12月22日、稲川聖城は、東京都の病院で肺炎のため死去した。享年94。 - - ==人物・エピソード== - *三代目稲川会・稲川裕紘会長は実子(長男)。 - *賭場で、天井から盆の上に3センチほどの女郎蜘蛛が降りてきた。女郎蜘蛛が花札に降りそうになったとき、稲川聖城は女郎蜘蛛を掴むと食べてしまった。 - *酒は飲まなかった。興行の打ち上げでも、子分達に酒を禁じていた。 - - ==稲川聖城の若衆[4]== - *森田祥生森田吉雄とも名乗った。森田一家総長。大正15年(1929年)生まれ) - *長谷川春治(九代目碑文谷一家総長。大正15年(1929年)生まれ) - *出口辰夫(通称はモロッコの辰。大正12年(1926年)生まれ。昭和30年(1955年)1月10日もしくは昭和30年(1955年)1月30日に死去。) - *井上喜人(大正14年(1928年)生まれ) - *田中敬田中敬三とも名乗った。大正15年(1929年)生まれ) - *内藤貴志 - *高村康 - *伊藤更三 - *山田芳彦 - *林喜一郎(稲川会会長代行。林一家総長。大正9年(1920年)生まれ) - *吉水金吾(大正8年(1921年生まれ) - *石井隆匡(本名は石井進。二代目稲川会会長。横須賀一家総長。大正12年(1923年)生まれ) - *山川修身(本名は沈敬変山川一家総長。大正9年(1922年生まれ) - *森泉人(大正15年(1929年)生まれ) - *佐藤義雄 - *和田永吉 - *川上三喜山梨一家総長) - *趙春樹箱屋一家総長。大正12年(1923年)生まれ) - *木村信一 - *稲川裕紘稲川土肥とも名乗った。三代目稲川会会長。稲川一家総長) - *山田時造 - *大澤三金吾 - *滝沢良治郎 - *松岡良次郎 - *西山実(八代目碑文谷一家総長。稲川組幹部) - - ==脚注==

-
  1. 「第046回国会 法務委員会 第30号」「国会会議録・第077回国会 ロッキード問題に関する調査特別委員会 第22号」では、結成披露日を12月21日と記載されているが、山平重樹『義侠ヤクザ伝 藤田卯一郎』幻冬舎<アウトロー文庫>、2003年、ISBN 4-344-40476-9では11月21日と記述されている
  2. 出典は、正延哲士天龍寺弦柳田東一郎『実録 修羅ヤクザ伝 稲川会最高顧問 林喜一郎 忍び寄る菱の軍団編』竹書房、2008年、ISBN 978-4-8124-6697-1のP.239
  3. 通常は、襲名相続式典の祝儀の半分を、先代組長の未亡人に贈る。竹中正久は、四代目山口組襲名相続式典の祝儀全部を、田岡文子に渡し、田岡文子はその三分の一だけを受け取った
  4. 出典は、大下英治『首領 昭和闇の支配者 三巻』大和書房<だいわ書房>、2006年、ISBN 978-4-479-30027-4

- - ==稲川聖城関連の書籍== - *大下英治『修羅の群れ(上)怒涛編』徳間書店<徳間文庫>、1986年、ISBN 9784195980057 - *大下英治『修羅の群れ(下)首領編』徳間書店<徳間文庫>、1986年、ISBN 4-19-598006-2 - *大下英治、ほんまりう『修羅の群れ 1』徳間書店、2006年、ISBN 4-19-780327-3 - *大下英治、ほんまりう『修羅の群れ 2』徳間書店、2006年、ISBN 4-19-780329-X - *大下英治、ほんまりう『修羅の群れ 3』徳間書店、2006年、ISBN 4-19-780332-X - *大下英治、ほんまりう『修羅の群れ 4』徳間書店、2006年、ISBN 4-19-780337-0 - *大下英治、東史郎山口正人『実録 雄侠ヤクザ伝 稲川会総裁 稲川聖城 任侠の道編』竹書房、2008年、ISBN 978-4-8124-6671-1 - - ==稲川聖城関連の映画・オリジナルビデオ== - *『制覇』(1982年東映)、窪川方城のモデルは、稲川聖城。窪川方城役は、丹波哲郎 - *山下耕作監督『修羅の群れ』(1984年、東映)、主人公・稲原龍二のモデルは、稲川聖城。稲原龍二役は松方弘樹 - *『激動の1750日』(1990年、東映)、仁王顕正のモデルは、稲川聖城。仁王顕正役は、丹波哲郎 - *『民暴の帝王』(1993年、東映)、山本勇のモデルは、稲川聖城。山本勇役は、丹波哲郎 - *『修羅の群れ 第1部 怒涛編』(2002年GPミュージアム)、主人公・稲原龍二のモデルは、稲川聖城。稲原龍二役は、松方弘樹 - *『修羅の群れ 第2部 風雲編』(2002年、GPミュージアム)、主人公・稲原龍二のモデルは、稲川聖城。稲原龍二役は、松方弘樹 - *『修羅の群れ 第3部 完結編 大抗争列島』(2002年、GPミュージアム)、主人公・稲原龍二のモデルは、稲川聖城。稲原龍二役は、松方弘樹 - *『実録 東声会 初代 町井久之』(2006年GPミュージアムソフト)、稲川聖城役は松方弘樹 - *『実録 東声会 初代 町井久之 完結編』(2006年、GPミュージアムソフト)、稲川聖城役は松方弘樹 - - ==参考文献== - *『松江八束建設業暴力追放対策協議会』のHPの「暴力団ミニ講座34)稲川会」 - *山平重樹『義侠ヤクザ伝・藤田卯一郎』幻冬舎<アウトロー文庫>、2003年、ISBN 4-344-40476-9 - *山平重樹『一徹ヤクザ伝 高橋岩太郎』幻冬舎<アウトロー文庫>、2004年、ISBN 4-344-40596-X - *松江八束建設業暴力追放対策協議会「暴力団ミニ講座 37)松葉会」 - *「第046回国会 法務委員会 第30号」 - *「国会会議録・第077回国会 ロッキード問題に関する調査特別委員会 第22号」 - *実話時代編集部『山口組若頭』洋泉社、2007年、ISBN 978-4-86248-108-5 - * 山平重樹『北海道水滸伝』双葉社<文庫>、1999年、ISBN 4-575-50698-2 - * 溝口敦『撃滅 山口組vs一和会』講談社<+α文庫>、2000年、ISBN 4-06-256445-9 - *溝口敦『荒らぶる獅子 山口組四代目竹中正久の生涯』徳間書店、1988年、ISBN 4-19-123603-2 - -

先代:
稲川一家総長
初代: 196*-19**
次代:
稲川裕紘

-

先代:
稲川会会長
初代: 1972-1985
次代:
石井隆匡

- - - - - - -