山一抗争

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山一抗争(やまいちこうそう)は、昭和59年(1984年8月5日から平成元年(1989年3月30日にかけて山口組一和会の間に起こった暴力団抗争事件。317件の大小抗争が発生し、一和会側に死者19人、負傷者49人、山口組側に死者10人負傷者17人、警察官・市民に負傷者4人を出した[1]。山一抗争の直接の逮捕者は560人だった[2]

山一抗争勃発まで[編集]

昭和59年(1984年)6月5日午後3時、山口組直系組長会で、山口組若頭・竹中正久は、山口組四代目組長就任の挨拶をした。山口組組長代行・山本広を支持する直系組長は直系組長会に出席しなかった。

同日、大阪市東区松美会事務所で、山本広、加茂田組加茂田重政組長、佐々木組佐々木道雄組長、溝橋組溝橋正夫組長、北山組北山悟組長、松美会松本勝美会長、小田秀組小田秀臣組長ら約20人が在阪のマスコミ各社を呼んで記者会見を開き竹中正久の山口組四代目就任に反対した。

同年6月6日、竹中正久の山口組四代目就任に反対する山口組直系組長は山口組の山菱の代紋を組事務所から外した。この段階で山口組参加者は直系組長42人で総組員数4690人、一和会参加者は直系組長34人で総組員数6021人だった。

同年6月8日、兵庫県警姫路警察署は、竹中組事務所への家宅捜索を行なった。容疑は、昭和57年(1982年)7月の竹中組と小西一家との喧嘩の際に使用された拳銃が竹中組事務所に隠されていることと、昭和57年(1982年)8月に竹中組組員がサイコロ賭博に加わった、というものだった。

同年6月13日、山本広、加茂田重政、佐々木道雄らは山本広を会長に据えて「一和会」を結成した。加茂田重政は副会長兼理事長に就任した。加茂田重政は、弟の神竜会加茂田俊治会長を一和会理事長補佐に据え、弟の政勇会加茂田勲武会長を一和会常任理事に据えた。

山口組福井組福井英夫組長は、山口組宅見組宅見勝組長に説得されて、一和会参加を取り止めてヤクザから引退した。小田秀臣も一和会には参加せずヤクザから引退した。名古屋市弘田組弘田武組長も一和会には参加せずにヤクザから引退した。弘田組若頭・司忍(後の六代目山口組組長)が弘田組を引き継ぎ、弘道会を結成した。

同年6月21日、田岡邸大広間で、竹中正久は、23人の舎弟、46人の若中と、固めの盃を執り行なった。

同年6月23日、竹中正久は、山口組若頭豪友会中山勝正会長、舎弟頭に中西組中西一男組長、筆頭若頭補佐兼本部長に岸本組岸本才三組長を据えた。山健組渡辺芳則組長、宅見組宅見勝組長、嘉陽組嘉陽宗輝組長、一心会桂木正夫会長、角定一家木村茂夫総長を若頭補佐に据えた。竹中武竹中組組長、竹中正を竹中組相談役に就けた。竹中武は直系若衆になった。

同年7月10日、徳島県鳴門市の「観光ホテル鳴門」で山口組襲名式が執り行なわれた。後見人は稲川会稲川 聖城会長。取持人は諏訪一家諏訪健治総長。推薦人は住吉連合会(後の住吉会)・堀政夫会長と会津小鉄会(後の会津小鉄)・図越利一会長、大野一家大野鶴吉総長、今西組辻野嘉兵衛組長、松浦組松浦繁明組長、大日本平和会平田勝市会長、森会平井龍夫会長、草野一家草野高明総長。見届け人は翁長良宏。媒酌人は大野一家義信会津村和磨会長。霊代は、田岡文子だった。

山一抗争[編集]

同年8月5日、和歌山県串本町の賭場で、山口組松山組岸根組岸根敏春組長が、一和会坂井組串本支部若頭補佐・潮崎進を刺殺した。この事件をきっかけに、山一抗争が勃発した。

同年8月23日、竹中正久は「義絶状」を友誼団体に送った。これは実質的に一和会への絶縁状だった。一和会は、義絶状に危機感を持った[3]

同年、札幌刑務所の病舎で、山口組一会野沢義太郎会長(元柳川組幹部)は誠友会石間春夫会長(後の五代目山口組舎弟)と面会した。野沢義太郎は敢えて石間春夫に山口組参加を切り出さなかった。

同年秋、札幌刑務所の病舎で、山口組若頭補佐渡辺芳則(後の五代目山口組組長)と山口組若頭補佐・桂木正夫は、石間春夫と面会した。渡辺芳則は、石間春夫から、年明けの石間春夫と竹中正久と中山勝正の面会の約束を取り付けた。

同年7月下旬、一和会二代目山広組若頭・後藤栄治は、山広組舎弟・長野修一とともに山口組に対する行動隊を結成し長野修一を行動隊長に据えた。

同年9月3日、一和会宮脇組首竜会副会長・衛藤一生が、山口組石井組石友会徳弘喜一郎会長(二代目石井組本部長)の入院先の病院で、徳弘喜一郎拳銃で銃撃し重傷を負わせた。

同年9月中旬、後藤栄治は山広組から19人の隊員を選抜し行動隊の結成式を行なった。

同年10月、一和会・石川裕雄常任理事は、大阪府吹田市のマンション「GSハイム第二江坂」に竹中正久の愛人が住んでいることを掴んだ。

同月、一和会は「義絶状」に対する反論文を一部団体に送付した。

同年11月11日、山口組二代目石井組・秋山潔組長が出所した。

同年12月初旬、石川裕雄は、「GSハイム第二江坂」の204号室を知人名義で借り無線機を置いて、一和会の「GSハイム江坂」の見張り要員と交信できるようにした。

同年12月21日、長野修一は、大阪市西区の「GSハイム西長堀」の302号室を借りた。長野はこの部屋を武器の隠し場所にした。

同年末、山口組構成員数は14000人、一和会構成員数は2800人となった。

昭和60年(1985年)1月9日、竹中正久に対する、昭和55年(1980年)3月上旬と中旬に竹中組で開かれた賭博容疑での最高裁判所の判決が決まり、竹中正久の懲役5ヶ月が確定した。

同年1月、石間春夫は、札幌刑務所の病舎で、誠友会幹部と面会した。誠友会幹部は、石間春夫に「竹中正久と中山勝正が沖縄県旭琉会からの招待を受けたため、沖縄に行ってから、北海道に来ることになった。時期は1月下旬になる」と伝えた。

同年1月12日、後藤栄治は石川裕雄から竹中正久の愛人宅を教えられた。後藤栄治は、長野修一を西名阪道路津インターチェンジに呼び、共に吹田市の「GSハイム第二江坂」に向かった。後藤栄治は、車中で、長野修一に25口径ベレッタと25口径タイタンと32口径回転式拳銃を渡した。その後、「GSハイム第二江坂」204号室で、後藤栄治は長野修一に石川裕雄を紹介した。石川裕雄は長野修一に無線機の使い方を教えた。

同年1月13日、神戸市で、竹中正は、ハワイのマフィアのジョン・リー一家と称するプロレスラーヒロ佐々木(実はアメリカ連邦麻薬取締局の秘密エージェント)と会い、マイケル・ジャクソンの日本公演を依頼した。

同年1月16日、竹中正久は、中山勝正ら山口組最高幹部を連れて、大阪国際空港から午前8時45分発日航911便に乗り、沖縄県に入った。那覇空港で、竹中正久や山口組最高幹部は、三代目旭琉会翁長良宏会長、旭琉会の15の一家の総長と幹部クラスの合計約60人から出迎えられ、接待を受けた。同日、竹中正久らは、旭琉会の案内で沖縄を観光した。

同年1月17日、竹中正久らは琉球カントリークラブで旭琉会組員とゴルフを行い、夜にはクラブ「銀馬車」を借り切って全員で宴会となった。

同年1月17日、三重県の山中で長野修一は、二代目山広組組員・田辺豊記、山広組広盛会舎弟頭・立花和夫、山広組組員・長尾直美 とともに、拳銃の試撃ちを行なった。

同年1月18日、長野修一は石川裕雄から38口径回転式拳銃を1丁受け取った。

同年1月23日、長野修一は後藤栄治から32口径改造拳銃1丁を受け取った。

同年1月26日昼、兵庫県神戸市灘区篠原町で、山口組本部に上棟式が行われた。竹中正久、中山勝正ら山口組幹部全員が参加した[4]

同日午後9時15分過ぎ、竹中正久は中山勝正と山口組南組南力組長とともに、大阪府吹田市のマンション「GSハイム第二江坂」の1階エレベーター前で、田辺豊記、長尾直美、立花和夫に銃撃された。南力は即死だった。竹中正久は銃弾3発を受けたが、自力で自分のメルセデスベンツの車に乗り込み、運転手の南組組員に大阪南区の南組事務所に向かわせた。南組組員が自動車電話で救急車を南組事務所前に手配した。中山勝正は、「GSハイム第二江坂」から救急車で病院に送られた。

同日午後9時30分、竹中正久らの乗った車は、南組事務所に到着し、竹中正久は救急車に乗せられて大阪警察病院に搬送された。

同年1月27日午前1時7分、中山勝正は死亡した。その後、岡崎文夫が豪友会を継承した。

同年1月27日午後11時25分、竹中正久は死亡した。

同年1月28日、石間春夫は竹中正久の暗殺を聞き山口組に参画することを決断した。その後、石間春夫は私文書偽造により、懲役4年の判決を受け、宮城刑務所に収監された。

同日夜、兵庫県神戸市灘区の旧田岡邸で、竹中正久の仮通夜が行なわれた。

同年1月31日、竹中家としての、竹中正久の密葬が行なわれた。

同年2月1日、福崎インターチェンジで、竹中武は、兵庫県警機動隊岡山県警の刑事に、野球賭博開帳で逮捕された(後に竹中武は無罪)。その後、竹中武は1年5ヶ月間勾留された。

同年2月5日、山口組直系組長会で、舎弟頭・中西一男が四代目山口組組長代行に、若頭補佐・渡辺芳則山健組組長)が若頭に就任した。山口組本部長・岸本才三は「組方針を不言実行、信賞必罰」と宣言した。

同年2月19日、山口組弘道会菱心会組員が、一和会後藤組(組長は後藤栄治)若頭・吉田清澄を拉致し、後藤栄治の居場所を吐くようにと暴行を加えた。

同年2月23日、高知市高知競輪場で山口組豪友会組員が一和会中井組(組長は中井啓一)組員3人を襲い、2人を射殺し1人に重傷を与えた。

同日、後藤栄治は、後藤組組員に後藤組の解散届を三重県津警察署に届けさせた。さらに後藤栄治は速達で山口組本部に「詫び状」を送り、山口組に「自分が自首する替わりに、弘道会菱心会組員に拉致された吉田清澄を解放して欲しい」と訴えた。

同年2月24日、後藤栄治の「詫び状」に応じて、弘道会菱心会は、吉田清澄を解放した。しかし後藤栄治は自首しなかった。

同年2月下旬、山本広は、一和会の人間に対しても、所在を隠した。

同年3月、一力一家組事務所撤去活動が起った。
詳細は 一力一家組事務所撤去活動 を参照

同年3月2日、高知県警は、銃砲刀剣類所持等取締法違反、火薬類取締法違反、凶器準備集合罪で、岡崎文夫を逮捕した。豪友会若頭代行・久武康彦と同会本部長・山口励也が、山口組豪友会を指揮することになった。

同年3月5日、大阪市西成区の一和会溝橋組(組長は溝橋正夫)事務所で、溝橋組幹部・大岩正博が突然の訪問者に背中を撃たれて重傷を負った。

同年3月6日、三重県四日市市の喫茶店で、一和会水谷一家宮本一利組長の元相談役・清水幹一が2人組の男に拳銃で胸と腹を撃たれて死亡した。

同年3月17日午後8時すぎ、一和会中井組弘田組(組長は弘田憲二。後の中野会副組長)舎弟・竹中幸雄らは山口組豪友会岸本組事務所に侵入し、仮眠中だった豪友会組員・吉門正光を拳銃で撃った。吉門正光は5日後に死亡した。

同年3月24日、甲子園球場の駐車場で、竹中組組員が、一和会特別相談役・大川覚テキヤの長男を銃撃し重傷を負わせた(大川覚の長男は、一和会とは無関係)。

同日、大阪市の一和会徳山組徳心会組員が、徳心会事務所前で、足を2発銃撃され全治3週間の怪我を負った。

同年3月、大川覚のテキヤの長男が銃撃されたことを受け、祭礼や催事での露店の出店が制限され始めた。

同年4月4日、山口組豪友会岸本組幹部・谷脇修は、一和会中井組事務所宛の宅配便を依頼し、宅配便配達員とともに中井組事務所に向かった。谷脇修は、宅配員に呼び鈴を押させ、中井組事務所のドアが開いたところで、一和会中井組組員・門屋義之を射殺し、他の中井組組員に重傷を与えた。

この時期、高知県警は県内540人の暴力団員のうち181人を逮捕した。

同年4月5日午後3時、山口組本部事務所で、山口組定例会が開催された。兵庫県警は正午すぎから、山口組本部事務所周辺に約100人の捜査員を配置した。集まった報道陣は約80人だった。この山口組定例会において、山口組本部長・岸本才三岸本組組長)が、直系組長85人(代理出席は18人)に対して、誠友会の舎弟待遇での山口組参画を発表した[5]

同年4月12日、山口組弘道会内薗田組幹部ら3人が名古屋市のレストランで、三重県四日市市の一和会水谷一家隅田組幹部・中本昭七と隅田組組員・島上豊を拉致した。内薗田組幹部ら3人は、警察に電話して「水谷一家が一時間以内に解散届を出すのならば、中本昭七と島上豊を解放する」と伝えた。水谷一家は解散を拒否した。

同年4月13日、山口組弘道会内薗田組幹部らは中本昭七を射殺し、島上豊に重傷を与えた。

同年4月14日、一和会定例会が開かれ、山本広が姿を見せた。

同日、一和会・吉田好延副幹事長は、一和会定例会からの帰る途中、国鉄三ノ宮駅前の交差点で停車中に、山口組後藤組(組長は後藤忠政)幹部・佐藤明義に38口径の拳銃で4発銃撃された。吉田好延は無事で、同乗していた組員2人が窓ガラスの破片で負傷した。

同年4月18日、石間春夫は、札幌拘置所病院棟で、山口組組長代行・中西一男、岸本才三、桂木正夫ら5人と面会した。石間春夫は、北海道同行会の会規に「内地の広域組織は同行会には入れない」をいう条項があったため、北海道同行会からの脱会を決めた。誠友会川岸朝明会長は、石間春夫の指示を受けて、誠友会の北海道同行会から脱会を伝えた。北海道同行会は、石間春夫への返答を保留した。

同年4月21日、山口組山健組極心連合会(会長は橋本弘文)幹部ら2人が、大阪市淀川区の一和会加茂田組西林組事務所で銃弾5発を乱射した。西林組若頭・園田卓磨が被弾して、全治3週間の怪我を負った。

同年4月23日午前1時30分、和歌山市のクラブ「シンザン」で、山口組山健組健竜会(会長は桑田兼吉)傘下の梁取総業組員は、一緒に酒を飲んでいた一和会松美会光山組光山勝治組長をウィスキーボトルで殴打した上で、射殺した。

同日午後6時すぎ、神戸市中央区花隈町の山口組山健組事務所近くの駐車場で、一和会加茂田組組員が、車を走らせながら車内から拳銃で発砲した。山健組高橋組組員・川崎竜夫ら3人が負傷した。通行中だった団体職員も右足に被弾した。団体職員は全治1ヶ月の重傷だった。山一抗争で初めて市民が巻き込まれた。川崎竜夫は4日後に死亡した。

同年4月28日午後4時すぎ、神戸市長田区三番町の加茂田重政宅前のたばこ屋で、公衆電話をかけていた加茂田組河内組組員・鄭海鎮が、山健組鷲坂組幹部に右腹部を銃撃されて、重傷を負った。

同年5月、姫路市で、竹中正は、知り合いの不動産業者から、ヒロ佐々木に対して、マイケル・ジャクソン日本公演の保証金5000万円を支払ってもらった。

同年5月5日、山口組紺屋組(組長は紺谷久雄)幹部2人が、一和会加茂田組宮原組傘下奥原組事務所に宅配便の配送員を装って押し入り、拳銃を乱射して、奥原組若頭・佐々木俊彦を射殺し、奥原組幹部・萩原貴之に重傷を負わせた。

同日、大阪市中央区加納町の山口組岸本組事務所横の路地で、岸本組南野組組員・西村賢次が、2人組の男に拳銃で射殺された。

同年5月12日、竹中正はハワイで偽物のマイケル・ジャクソン日本公演(公演料は4億円)の基本契約書にサインした。

同年5月15日、ワイキキの「アラモアナ・ホテル」で、竹中正は、ヒロ佐々木から、アメリカ陸軍の拳銃や機関銃を見せられ、購入を勧められた。この模様は、全て隠しカメラで収録されていた。

同年5月20日、神戸市東灘区の山本広宅で、山口組後藤組(組長は後藤忠政)と山口組美尾組(組長は美尾尚利)の組員3人が、大型ダンプカーで突入しようとして、山本広宅を警備していた兵庫県警機動隊員と撃ちあいになった。大型ダンプカーは車止めを押し倒して電柱に激突した。後藤組幹部が機動隊員に左肩を撃たれて、重傷を負った。

同年5月24日、ヒロ佐々木が来日し、竹中正に、「昭和60年(1985年)5月末日までに保証金4億円をハワイに送金すること」を求めた。その後、竹中正は、送金が遅れたため、罰金30万ドルを支払った。

同年6月13日、誠友会を除いた北海道同行会の臨時総会が持たれ、誠友会の除名問題が議論された。

同年6月14日、北海道同行会の臨時総会が、誠友会を加えた全役員で議論されたが、結論は出なかった。その後、会規はうやむやになり、誠友会は、北海道同行会に残ることになった。

同年6月23日、香川県高松市のパチンコ店で、山口組一心会幹部・美村道彦と山口組一心会南声会組員が、一和会山広組幹部・岩附秀雄を射殺した。

同年7月、石間春夫は四代目山口組舎弟となり山口組に参加した。誠友会の系列組織の事務所は、山菱の代紋を掲げた。

同年7月6日、一和会・溝橋正夫常任顧問がヤクザから引退した。

同年7月19日、元神戸市長で弁護士の中井一夫が、昭和60年(1985年)8月28日から同年9月4日まで開かれるユニバーシアード神戸大会のため、山口組と一和会に抗争休止を呼びかけた。山口組と一和会は休戦した。

同年7月21日、高知市中水道のアパート「平和荘」で、山口組豪友会岸本組幹部・足立栄祝が、就寝中に右手と右脇腹を銃撃されて重傷を負った。

同年8月末、ヒロ佐々木は「ジョン・リー一家結成25周年記念パーティー」なる招待状を、山口組幹部に送った。しかし、殆どの招待状が大阪国際空港に局留され、竹中正と織田組織田譲二組長(本名は伊藤豊彦)以外の山口組幹部には届かなかった。竹中正と織田譲二は、記念パーティーに出席し、ヒロ佐々木から、ロケット砲やマシンガンの購入を勧められた。

同年9月3日、ハワイで、竹中正と織田譲二と香港の元飲食店主・梶田聖が、ロケット砲3基・マンシンガン5丁・拳銃100丁の密輸未遂、麻薬不正取引、殺人教唆の容疑で、囮捜査官・ヒロ佐々木らに逮捕された。

同年10月27日、鳥取県倉吉市のスナックで、山口組竹中組杉本組輝道会組員・清山礼吉が女装して、一和会幹事長補佐・赤坂進赤坂組組長)を呼び出し、輝道会組員・山本尊章が、赤坂進と赤坂組組員・田中義昭を射殺した。清山礼吉は包丁で、他の赤坂組組員を刺して重傷を負わせた。その後、山本尊章は無期懲役、清山礼吉は懲役15年の判決を受けた。

同年11月、競馬競輪などの公共施設への暴力団の立ち入りが禁止され始めた。

同年12月20日、神戸市中央区北長狭通りの一和会本部前で、一和会中川連合会(会長は中川宣治。一和会副本部長)愛国青年同盟幹部・戸田昇と一和会松美会組員・今井浩平が銃撃された。戸田昇は、左胸と左腹部を撃たれて死亡した。今井浩平は重傷を負った。

同年12月25日、神戸市三ノ宮駅前のセンタープラザで、一和会組織委員長・北山悟が、3人組の男に銃撃されて負傷した。

昭和61年(1986年)1月21日午前2時、加古川市で、竹中組大西組(組長は大西康雄)組員・前田哲也と大西組組員・山本孝道が、一和会加茂田組小野会小野敏文会長の自宅に押し入り、小野敏文に加茂田組からの脱会届を書くように要求した。小野敏文が要求を拒否すると、前田哲也と山本孝道は小野敏文を射殺した。

同年1月22日、和歌山市畑屋敷の交差点で、一和会松美会吉田組組員・松岡勤が、赤信号で停車していたところ、山口組小山組吉村組幹部に銃撃された。松岡勤は病院に搬送される途中で死亡した。

同年1月24日午後10時43分、田岡文子が、肝硬変で死亡した。

このころから、警察は「暴力団員による不当な行為の防止等に関する法律」(通称は暴対法)の制定を考え始めた。

同年2月14日、ホテルニューオータニで、関東二十日会関東神農同志会の合同食事会が開催された[6]。合同食事会前の挨拶で、住吉連合副会長・西口茂男は、「稲川会・稲川聖城会長が山口組と一和会の手打ちのために努力している」と語った。当時、山一抗争のおかげで、全国の的屋は主要な祭礼から締め出しを受け、的屋の死活問題になっていた。合同食事会が終わった後、稲川聖城は、会津小鉄会総裁代行・高山登久太郎(本名は姜外秀)、倭奈良組橋本正男組長らと山一抗争終結について話し合った[7]

同年2月[8]、稲川会・稲川聖城総裁と稲川会・石井隆匡会長が、病気療養中の田岡文子を見舞い、次いで山口組幹部と会って、一和会との和解を打診した。中西一男や渡辺芳則らは「昭和61年(1986年)年3月13日までに、山口組内を和解の方向でまとめる」と回答した[9]。山口組組長代行・中西一男は、服役中の豪友会・岡崎文夫会長を説得し、一和会との和解を了承させた。中西一男は、岡山刑務所に拘置中の竹中武を説得したが、竹中武は一和会との和解を拒否した。

同年2月24日夜、別府市内のクラブで、山口組石井組石友会会員が一和会稲葉一家・稲葉実組長を拳銃で銃撃した。

同年2月27日、姫路市深志野の竹中正久の墓の前で、一和会加茂田組花田組(組長は丹羽勝治)組員が、山口組竹中組柴田会組員・井垣道明と柴田会組員・星山勲を射殺した。山口組は一和会との和解を取り止めた。

同年3月7日、大阪ミナミの盛り場で、一和会系組員が銃撃されて、重傷を負った[10]

同年4月26日、囮捜査によりハワイで捕まった竹中正と織田譲二が無罪判決を受け、オアフ刑務所から出た。

同年5月21日午後11時30分すぎ、大阪市ミナミの路上で、山口組竹中組二代目生島組幹部・北原智久と生島組幹部・大宮真浩は、タクシーに乗って信号待ちをしていた一和会副本部長・中川宣治を射殺した。その後、大宮真浩は、マンション9階から投身自殺を図り、一命を取り留めたが寝たきりとなった。

同年6月5日、石井隆匡は、中西一男ら山口組幹部と会い、再度一和会との和解を要請した。

同年6月15日、山口組臨時直系組長会が開かれ、中西一男は山一抗争の終結を受け入れる意向を示した。

同年6月19日、竹中武は岡山拘置所から、保釈金1000万円で保釈された[11]

同年7月12日、福岡市のゴルフ場で、石川裕雄が竹中正久殺害指示の容疑で逮捕された。

同年7月24日、渡辺芳則は、神戸市のゴルフ場「神有カントリー倶楽部」での傷害容疑[12]で、兵庫県警から指名手配された。

同年8月6日、大分県別府市国際観光港前の国道で、一和会稲葉一家組員が徳弘喜一郎を拳銃で銃撃した。

同年8月14日、渡辺芳則が兵庫県警本部に出頭し、逮捕された。

同年8月18日、兵庫県警は、兵庫県議会で、「山一抗争は事実上終息状況にある」と発言した。

同年11月13日、最高裁判所は、一和会・加茂田重政副会長の上告棄却した。加茂田重政の常習賭博罪での懲役1年が確定した。

昭和62年(1987年)2月2日朝[13]サイパン島バンザイ岬沖で、一和会常任顧問・白神英雄白神一朝とも名乗った)の射殺死体が発見された。

同年2月4日、山口組直系組長会で、山口組幹部は竹中武に、山一抗争終結への意向を質した。竹中武は「山口組直系組長会において抗争終結に反対か賛成かの採決しよう」と提案した。しかし、山口組幹部は、提案を黙殺し採決しなかった。

同年2月8日、山口組本家2階大広間で、緊急山口組直系組長会が開かれ、竹中武ら直系組長86人が出席した[14]。緊急山口組直系組長会で、中西一男は山一抗争終結の決定を指示した。竹中武は異議を唱えなかった[15]

同年2月9日、中西一男ら山口組幹部は上京して、石井隆匡に山一抗争終結決定を伝えた。

同年2月10日、石井隆匡は京都市に行き、会津小鉄会・高山登久太郎会長に、山口組の抗争終結決定を伝えた。

同日、高山登久太郎は、一和会本部で山本広ら一和会直系組長34人に山口組の抗争終結決定を伝えた。山本広は一和会の山一抗争終結決定を、高山登久太郎に伝えた。

この後、竹中武は、山口組執行部に一和会との抗争継続の意志を示し、山口組からの脱退を申し出た。山口組執行部は竹中武に思い止まるように説得した。

同年4月3日、中川宣治を射殺した大宮真浩が病院で死亡した。

同年4月19日、明石市の金勝寺で、竹中武は大宮真浩の組葬を行なった。山口組竹中組若頭・大西康雄が葬儀執行委員長を務めた。

同年6月、一和会・佐々木道雄幹事長に恐喝罪での懲役3年が確定した。佐々木道雄は府中刑務所に服役した。

同年6月13日午後11時、大阪府枚方市のレストラン「ファンタジア」で、一和会山広組川健組(組長は野崎成博)組員・横尾勝と川健組組員・今堀義浩が、食事中だった山口組山健組中野会(会長は中野太郎)・池田一男副会長を射殺した。中野太郎は池田一男殺害を砂子川組(組長は山本英貴)の犯行と勘違いした。

同年6月17日、大阪府枚方市の砂子川組斉藤組事務所で、斉藤組・西岡和明組長が、山口組山健組中野会組員に射殺された。

同日、大阪府守口市の砂子川組岡田組事務所で、山口組山健組中野会組員が、岡田組組員3人に向かって拳銃を乱射し、重傷を負わせた。

同年6月18日、山口組山健組中野会組員が、砂子川組本部長・沢田一夫宅にダンプカーで突っ込んだ。

同年6月19日、京都府宇治市で、山口組山健組中野会組員が、砂子川組幹部の経営する不動産会社に侵入し、従業員1人を殺害した。

同年6月22日昼、別府市緑ヶ丘町路上で、山口組石井組江口組組員が、一和会宮脇組首竜会会長を、拳銃で射殺した。

同年7月28日、姫路市の山口組菅原組菅原光雄組長が兵庫県警と山口組に「組解散並びに脱退声明書」を提出してヤクザから引退した。

同年9月14日、岡山地方裁判所は、野球賭博で起訴された竹中武に、無罪判決を出した。

同年11月、警察は、池田一男殺害の犯人を一和会山広組川健組組員2人と断定した。渡辺芳則は高山登久太郎の仲介で砂子川組・山本英貴組長に謝罪した。

同年11月26日、神戸市灘区の山口組本家で中山勝正と南力の合同組葬が営まれた。250人が参列した。

同年12月1日、竹中武は、竹中組本部事務所を、姫路市十二所前町から岡山市に移した。

昭和63年(1988年)1月3日、神戸市本町の一和会山広組事務所の南隣の駐車場で、山広組事務局長・浜西時雄が、不審なセドリックを発見し、車中を覗き込もうとした。セドリックの外で待機していた山口組山健組組員・井上浩と山健組組員・野田桂治は、浜西時雄を射殺した。井上浩は、覚醒剤の常用で、山健組から謹慎処分を受けていた。

同年2月16日、一和会・加茂田重政理事長が、神戸拘置所から出所した。

同年2月17日、山本広が、加茂田重政の出所を祝った。

同日、神戸市東灘区の山本広宅近くの路上で、山口組竹中組若頭補佐・増田国明と竹中組増田組(組長は増田国明)組員・西浦恵信の2人が、兵庫県警暴力対策二課と生田警察署の警察官に職務質問された。2人の乗っていた車の後部座席のゴルフバッグの中から、拳銃4丁、アメリカ軍用M67型手榴弾2個、実弾25発が発見された。

同年4月、山口組竹中組安東会安東美樹会長は一和会の山本広の自宅襲撃を計画し安東会組員・西沢進と安東会組員・荒嶋巧を襲撃班に選んだ。西沢進と荒嶋巧は神戸市兵庫区のマンションで手製爆弾5個を作った。

同年4月11日、北海道札幌市ススキノで、一和会加茂田組二代目花田組丹羽勝治組長は、喫茶店を出たところ、山口組弘道会司道連合幹部・佐々木美佐夫ら2人に銃撃された。丹羽勝治は銃弾を受けたが、マンション「クィーン南5条」に逃げ込んだ。丹羽勝治は、エレベーターホール前で、佐々木美佐夫に追いつかれ射殺された。

同年4月21日、佐々木美佐夫が名古屋市の千種警察署に出頭した。千種警察署は、丹羽勝治殺害と銃砲刀剣類所持等取締法違反容疑で佐々木美佐夫を逮捕し、札幌市の中央警察署捜査本部に護送した。

その後、竹中武から派遣された仲介役が加茂田重政に引退を迫った。加茂田重政は「山口組弘道会への報復をするまで待ってほしい」と返答した。竹中武は仲介者を通じて加茂田重政に「昭和61年(1986年)2月27日に姫路市深志野の竹中正久の墓の前で井垣道明と星山勲を射殺した犯人が、加茂田組関係者だとわかってからでは、加茂田重政の引退は認めない」と迫った。加茂田重政は「昭和63年(1988年)5月7日までに、加茂田組事務所から一和会の代紋を外す」と返答した。加茂田重政は、竹中武との遣り取りを、加茂田組内部には秘密裏に行なった。その後、加茂田組若頭代行や加茂田組舎弟頭など加茂田組幹部8人が、加茂田重政に、弘道会襲撃のための資金提供を求めた。加茂田重政は資金を出さなかった。

その後、渡辺芳則、宅見勝、桂木正夫らは、一和会松美会若頭・小條鎮生(後の六代目山口組若中)らと接触し、「松美会を解散するのならば、松美会・松本勝美会長の命を保証する」と伝えた。

同年5月3日、小條鎮生は、松本勝美の誕生パーティーで、松本勝美に、渡辺芳則らの提案を伝えた。松本勝美は、自身のヤクザからの引退と松美会解散を承諾した。松本勝美は、山本広に、自身の引退の旨を伝えた。山本広は思い止まるように説得したが、松本勝美は意志は固かった。

同年5月7日、一和会加茂田組定例集会に、加茂田組若頭代行や舎弟頭など加茂田組幹部8人が無断欠席した。加茂田重政は「もう、やめや」と怒鳴った[16]

同日、一和会副会長兼理事長・加茂田重政が、ヤクザからの引退と加茂田組の解散を表明した。

このころ、一和会の組員数は約650人となった。

同年5月13日、安東美樹は山本広が神戸市東灘区の自宅にいることを知った。

同年5月14日午前2時30分、神戸市東灘区御影で、安東美樹と西沢進は、山本広宅を襲撃するために山本広宅を警備していたパトカーに向かって自動小銃や拳銃を構えて、パトカー内の警察官3人を威嚇した。助手席の警察官が、自身のホルスターから拳銃を抜こうとしたので、安東美樹は自動小銃を車内に向かって20数発発射した。西沢進の拳銃は不発だった。3人の警察官は、ヘルメットに防弾チョッキを着ていたため命を取り留め、2週間から5ヶ月の重傷を負った。その後、安東美樹は、てき弾を自動小銃の先端に差し込み、山本広宅に向かって撃ち込んだ。てき弾は山本広宅の防護ネットに当たって、路上に落ち、爆発した。この爆発で金属片が飛び散り、安東美樹は肩を、西沢進は膝を負傷した。

同年5月16日、安東美樹と西沢進は、茨城県東茨城郡常北町の私立病院を訪れ、金属片の摘出手術を受けた。その後、安東美樹と西沢進は、病院を抜け出した。

同年5月21日、一和会幹事長代行・松本勝美がヤクザから引退し、松美会を解散した。

同日、小條鎮生は、松美会の「解散声明書」を、渡辺芳則宛で宅見勝に郵送した。一和会松美会組員は山口組一心会(組長は桂木正夫)や山口組倉本組(組長は倉本広文)に吸収された。

同年5月22日、中西一男や渡辺芳則ら山口組執行部は「山本広宅前で3人の警察官を銃撃した犯人が山口組竹中組組員だ」という情報を入手した。渡辺芳則は竹中組が警察官を襲った行為を非難した。

同日、神戸市東灘区篠原本町の山口組本部で、直系組長会が開かれた。岸本才三本部長は、直系組長に対して、山本広宅前で3人の警察官を銃撃した犯人が自分の組内にいるならば警察に自首させることと、今後警察官や市民を銃撃した者は処分することを通達した。竹中武は山口組執行部の発表を岸本才三に大声で念押しした。

同年5月24日、兵庫県警は、山本広宅前で3人の警察官を銃撃した犯人を、山口組竹中組安東会・安東美樹会長と断定した。山口組執行部は竹中武や竹中組に対して処分しなかった。

その後、渡辺芳則は、安東美樹を非難し、竹中武に「シャブ打ってやったとしか思われない。プラスになることは一つもない」と発言した。

同日、東京都千代田区半蔵門会館で、警察庁は、全国の暴力団取締担当課長69人を集めて、「全国暴力団取締り主管課長会議」を開いた。警察庁長官金沢昭雄は会議で山口組壊滅のために徹底的な集中取締りをするように指示した。

同年5月28日、兵庫県警は、安東美樹を爆発物取締法違反容疑で、指名手配した。

同日、山本広は、加茂田重政の除籍と松本勝美の絶縁を決定した。

同年6月10日、佐世保市の一和会理事長補佐・福野隆が一和会から脱退した。福野隆の次女の夫は、山口組小西一家(総長は小西音松迎組迎正剛組長だった・

このころ、一和会の組員数は450人ほどとなった。

同年6月16日、名古屋市の一和会常任幹事・中村清がヤクザから引退し中村組を解散した。

同年6月中旬、山口組は、一和会風紀委員長・松尾三郎ら一和会幹部に「山本広が引退し一和会を解散するならば、山本広の命を保証する」と伝えた。

同年6月22日、一和会定例会で、山本広は鹿児島県の温泉旅行を提案した。費用は全て山本広が負担した。

同年7月4日、一和会は、3日間鹿児島県に観光旅行に出かけた。一和会幹部は、観光旅行中に話し合い、山本広を引退させることで固まった。

同年7月初旬、山口組直系組長4人は、一和会直系組長4人と話し合い、一和会幹部が山口組の要求を受け入れるつもりであることを確認した。

同年7月12日、大阪市住吉区の松尾三郎宅前で、松尾三郎は3人のボディガードとともに、一和会大川組(組長は大川健)組員2人に銃撃された。ボディガードの一和会松尾組幹部・中辻克行が首と背中に銃弾を受けて、重傷を負った。大川健は一和会解散に反対していた。

同年7月15日、一和会組織委員長・松尾三郎、一和会組織委員長・北山悟、一和会特別相談役・井志繁雅、一和会特別相談役・坂井奈良芳、一和会特別相談役・大川覚、一和会本部長・河内山憲法、一和会理事長補佐・浅野二郎、同・徳山三郎、一和会副幹事長・吉田好延、一和会事務局長・末次正宏、一和会常任理事・片山三郎が一和会から脱退した。

同年7月30日、山本広は、松尾三郎、北山悟、井志繁雅、坂井奈良芳、大川覚、河内山憲法、浅野二郎、徳山三郎、吉田好延、末次正宏、片山三郎の11人を絶縁や破門処分にした。

同年8月8日、覚せい剤取締法違反で川西警察署に逮捕されていた井上浩が、野田桂治と共に浜西時雄を射殺したことを自供した。

その後、竹中武は、渡辺芳則が安東美樹を「シャブ打ってやったとしか思われない」と非難したことに対して、「自分の組の者(井上浩のこと)がシャブ中だろう。渡辺芳則が山口組五代目では、強い山口組にはなれない」と発言した。

同年8月14日午前4時ごろ、一和会常任幹事・大川健の自宅玄関前に、爆発物が投げ込まれて爆発した。大川健宅の鉄製の門扉や御影石の門柱が破損した。

同年8月16日、大阪市西成区の路上で、一和会大川組(組長は大川健)組員が銃撃され、重傷を負った。

同年9月1日、大阪市西成区の喫茶店で、一和会大川組関係者が銃撃され重傷を負った。

同年9月29日、大川健が住んでいた大阪市住吉地区防犯保安協会と東粉浜校区防犯協会が、大川健宅を訪れ、大川組解散を迫った。

同年10月、一和会最高顧問の中井啓一が一和会から脱退した。

同年10月1日、松山市の松山全日空ホテル前で、一和会神竜会(会長は加茂田俊治)組員・山下竜二が、神竜会幹部を全日空ホテルに送り車に戻ったところ、山口組竹中組西岡組組員に銃撃された。山下竜二は車外に逃げたが、西岡組員に追いつかれて組み伏せられ、さらに銃弾を浴びた。

同年10月2日、山下竜二が死亡した。

同年10月4日、大川健はヤクザから引退し、大川組を解散した。

同日、一和会神竜会組員・山下竜二の葬儀が行なわれた。

同日、一和会理事長補佐・加茂田俊治は愛媛県警に神竜会の解散と一和会からの脱退を届け出て、ヤクザから引退した。

同年10月5日、一和会常任幹事・坂田鉄夫が一和会から脱退した。

同年10月、兵庫県警は一和会の構成員数を200人と発表した。

同年11月末、山本広は、二代目山広組事務所を、神戸市本町栄通りから、神戸市中央区北長狭通りの一和会本部事務所に移した。

同年12月29日、渡辺芳則は、姫路市御着の竹中正久の実家を訪ね竹中武と会談した。渡辺芳則は竹中武に山口組執行部の増員を相談し了解を得た。また、渡辺芳則は竹中武に「中西一男が山本広と接触して、山本広引退工作を進めている」と話し、中西一男の山本広引退工作を止めてもらうように依頼した。竹中武は中西一男の説得を引き受けた。竹中武は渡辺芳則に「竹中正久の五回忌(平成元年(1989年)1月27日)に、山口組幹部一同が、竹中正久の実家で落ち合って親睦を深める」ことを提案した。渡辺芳則は提案に賛成した。その後、竹中武は中西一男にも「竹中正久の五回忌に竹中正久の実家で山口組幹部一同が落ち合って親睦を深める」ことを提案し了解を得た。

平成元年(1989年)2月、井上浩は浜西時雄殺害で懲役14年の実刑判決を受けた。

同年2月27日、山口組定例組長会で、竹中武の山口組若頭補佐就任が発表された[17]

このとき、山口組幹部は、組長代行・中西一男(中西組組長)、組長代行補佐・益田佳於益田(佳)組組長)、組長代行補佐・小西音松小西一家総長)、組長代行補佐・伊豆健児伊豆組組長)、若頭・渡辺芳則(山健組組長)、若頭補佐・木村茂夫(角定一家総長)、若頭補佐・岸本才三(岸本組組長)、若頭補佐・桂木正夫(一心会会長)、若頭補佐・嘉陽宗輝(嘉陽組組長)、若頭補佐・宅見勝(宅見組組長)だった[18]

同年3月10日、山本広はヤクザからの引退を固めた。

同年3月16日、渡辺芳則が上京し、山本広引退の道筋を付けてくれた稲川会に、謝辞を述べて、稲川会と山一抗争終結の段取りを話し合った。

同年3月16日、渡辺芳則は大津市会津小鉄会高山登久太郎会長宅で、高山登久太郎の立会いの下、山本広と会見した。稲川会幹部と会津小鉄会幹部が同席した。山本広は、一和会解散と自身のヤクザからの引退を認める文書を、渡辺芳則に手渡した。

同年3月17日、山本広は、一和会幹部の東建二沢井敏雄村上幸二上村進寺村洋一らに一和会解散と自身の引退を伝えた。

同年3月18日、山口組本家で、山口組緊急執行部会が開かれ、山本広引退の経緯が報告された。さらに「平成元年(1989年)3月19日に山口組直系組長会を開き、山本広引退を傘下組織に周知徹底させよう」との提案が出された。竹中武、中西一男、嘉陽宗輝が提案に反対した。竹中武は渡辺芳則に「山本広の断指と詫び入れ」を要求した。平成元年(1989年)3月19日の直系組長会開催は取り止められ、同年3月22日に緊急幹部会が開かれることになった。

同年3月19日、山本広は、神戸市の東灘警察署に出頭し、自身のヤクザからの引退と一和会解散を伝えた。

同年3月20日、大阪高等裁判所で、竹中正久殺害を指示した石川裕雄と竹中殺害実行犯の立花和夫の無期懲役が決定した。

同年3月22日、山口組緊急幹部会が開かれた。竹中武だけは山一抗争の継続を主張した[19]。竹中武と中西一男が、渡辺芳則に山本広の山口組への詫び入れを要求した。渡辺芳則は、竹中武と中西一男の要求を飲んだ。渡辺芳則は、稲川会に、山本広の山口組への詫び入れを依頼した。

同年3月23日、山口組臨時直系組長会で、岸本才三から、山本広の引退と一和会解散の経緯が報告され、「今後、一和会残党に対する攻撃は禁止する」との通達が出された[19]

同年3月28日、山本広は上京して稲川会幹部と話し合い、稲川会の保証で山口組に詫び入れすることを了承した。

同年3月29日、東京都のホテルニューオータニで、山口組執行部は稲川会幹部と会い、山本広の引退・詫び入れに尽力してもらったことに謝辞を述べた。

同年3月30日、稲川会本部長・稲川裕紘は神戸市東灘区の山本広宅を訪ねた。

同日午前11時50分ごろ、山本広は、稲川裕紘に付き添われて山口組本家を訪れた。山本広は、中西一男や渡辺芳則ら山口組執行部(ただし、竹中武は出席をしなかった[20])に、自身のヤクザからの引退と一和会解散を告げ、竹中正久殺害を詫びた。それから、山本広は竹中正久の仏壇と田岡一雄の仏壇に線香を手向けて合掌した。これで山一抗争は終結した。

平成2年(1990年)9月12日午前1時前、大阪市北区西天満1丁目の中華料理店で、兵庫県警の捜査員は、山口組一心会(会長は桂木正夫川崎組組員になっていた安東美樹を逮捕した[21]

エピソード[編集]

  • 山一抗争が長期化した要因としては、山口組と一和会の抗争を利用して、山口組と一和会の弱体化を図った警察の思惑もあった。
  • 兵庫県警の試算によれば、山口組と一和会が山一抗争に費やしたお金は、20億円に達する[22]
  • 山一抗争中、山口組と一和会の減収は、山口組と一和会を合わせて500億円と見積もる関係者がいる[23]

山一抗争関連の映画・オリジナルビデオ[編集]

脚注[編集]

  1. 出典は、飯干晃一『ネオ山口組の野望』角川書店<角川文庫>、1994年、ISBN 4-04-146436-6のP.91
  2. 出典は、飯干晃一『ネオ山口組の野望』角川書店<角川文庫>、1994年、ISBN 4-04-146436-6のP.91
  3. 出典は、飯干晃一『ネオ山口組の野望』角川書店<角川文庫>、1994年、ISBN 4-04-146436-6のP.91
  4. 出典は、飯干晃一『ネオ山口組の野望』角川書店<角川文庫>、1994年、ISBN 4-04-146436-6のP.140~P.141
  5. 出典は、溝口敦『山口組ドキュメント 五代目山口組』三一書房、1990年、ISBN 4-380-90223-4のP.60
  6. 昭和59年(1984年)から毎年2月に、関東二十日会と関東神農同志会は、合同食事会を催していた
  7. 出典は、飯干晃一『ネオ山口組の野望』角川書店<角川文庫>、1994年、ISBN 4-04-146436-6のP.99~P.100
  8. 出典は、飯干晃一『ネオ山口組の野望』角川書店<角川文庫>、1994年、ISBN 4-04-146436-6のP.102
  9. 山口組は、昭和60年(1985年)8月23日に出した「義絶状」で「一和会をヤクザ組織として認めない」と宣言していた。手打ちとは、ヤクザ組織同士が行なうことなので、「和解」や「終結」の言葉が使われた
  10. 出典は、飯干晃一『ネオ山口組の野望』角川書店<角川文庫>、1994年、ISBN 4-04-146436-6のP.100
  11. 出典は、飯干晃一『ネオ山口組の野望』角川書店<角川文庫>、1994年、ISBN 4-04-146436-6のP.98とP.107
  12. 事件の経緯は次の通り。
    昭和59年(1984年)11月、神戸市の「神有カントリー倶楽部」で、渡辺芳則とクラブ所属のアシスタントプロと渡辺芳則の知り会いの会社社長の3人は、プレーをした。
    後続のパーティーは、二代目山健組系の組長3人で、渡辺芳則のボディガードだった。
    渡辺芳則はアウトの4番と6番で、前のパーティーにボールを打ち込んだ。
    前のパーティーの人が、渡辺芳則のマナー違反を注意した。
    渡辺芳則は、後続のボディガードに、自分を注意した人を教えて暴行を指示した。
    渡辺芳則のボディーガードは、渡辺芳則を注意した人に、暴行を加え全治45日の重傷を負わせた
  13. 出典は、飯干晃一『ネオ山口組の野望』角川書店<角川文庫>、1994年、ISBN 4-04-146436-6のP.108
  14. 出典は、飯干晃一『ネオ山口組の野望』角川書店<角川文庫>、1994年、ISBN 4-04-146436-6のP.108
  15. 出典は、飯干晃一『ネオ山口組の野望』角川書店<角川文庫>、1994年、ISBN 4-04-146436-6のP.108
  16. 出典は、飯干晃一『ネオ山口組の野望』角川書店<角川文庫>、1994年、ISBN 4-04-146436-6のP.91
  17. 出典は、飯干晃一『ネオ山口組の野望』角川書店<角川文庫>、1994年、ISBN 4-04-146436-6のP.116
  18. 出典は、飯干晃一『ネオ山口組の野望』角川書店<角川文庫>、1994年、ISBN 4-04-146436-6のP.118~P.119
  19. 19.0 19.1 出典は、飯干晃一『ネオ山口組の野望』角川書店<角川文庫>、1994年、ISBN 4-04-146436-6のP.147
  20. 出典は、飯干晃一『ネオ山口組の野望』角川書店<角川文庫>、1994年、ISBN 4-04-146436-6のP.141
  21. 出典は、飯干晃一『ネオ山口組の野望』角川書店<角川文庫>、1994年、ISBN 4-04-146436-6のP.330
  22. 出典は、飯干晃一『ネオ山口組の野望』角川書店<角川文庫>、1994年、ISBN 4-04-146436-6のP.121
  23. 出典は、飯干晃一『ネオ山口組の野望』角川書店<角川文庫>、1994年、ISBN 4-04-146436-6のP.121

参考書籍[編集]