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* ???。(2014年10月からフジテレビ)8月10日のYahoo!で明らかになった
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* [[ミュージックステーション]]([[テレビ朝日]][[All-nippon News Network|系列]] / [[金曜日]] 20:00 - 20:54)
 
* [[ミュージックステーション]]([[テレビ朝日]][[All-nippon News Network|系列]] / [[金曜日]] 20:00 - 20:54)
 
* [[タモリ倶楽部]](テレビ朝日系列 / 金曜日 24:20 - 24:50)
 
* [[タモリ倶楽部]](テレビ朝日系列 / 金曜日 24:20 - 24:50)

2014年8月10日 (日) 06:27時点における版

タモリ

タモリ1945年〈昭和20年〉8月22日 - )は、日本お笑いタレント司会者俳優ラジオパーソナリティー作詞家作家実業家。本名、森田 一義(もりた かずよし)。

福岡県福岡市出身。田辺エージェンシー所属。女優伊佐山ひろ子とは遠戚。

来歴

生い立ち

1945年8月22日福岡県福岡市、現在の南区に誕生する。

本名は「一義」だが生まれる前までは「義一」と名付けられる予定だった。占い師から「義一」では頭でっかちな子が産まれると言われたため、「一義」になった。これは血の繋がりのない祖父が、尊敬している田中義一首相にあやかって名付けようとしたが、「畏れ多い」と名を逆にしたもの。

本人曰く、幼少時代より大人びており、「偽善」という言葉を知っていたと語り、幼稚園入園時期が迫り、園を見に行ったおり「ギンギンギラギラ夕日が沈む(童謡『夕日』葛原しげる作詞・室崎琴月作曲)」を両手を回転しながらお遊戯している園児達を見て、入園を拒否。小学校入学に至るまで、毎日、一日中坂道に立って人間観察を行っていた。また「5歳が俺の精神的ピークだったんだから」と、冗談めかして語ってもいる。このため坂道好きとなり、後に「日本坂道学会」を設立している。

少年時代

小学校3年生の時、下校途中に電柱のワイヤに顔をぶつけ、針金の結び目が右目に突き刺さって失明。2か月休校して治療したものの、視力は戻らなかった。

小学校5年生の頃、予餞会(卒業生を送る会)で「喜劇カラス天狗」の台本を書いて披露したが、受けなかった。しかし脚本家として活躍している同級生と再会した際、「面白かった」と評された。スポーツにも興味があり、野球をやっていた。現在はラグビーなどのスポーツ観戦も興味があるという。

小学生の頃、祖母に「今の内からも料理ができるようにならないと、後々奥さんがいざと言う時に困るでしょ。私が料理をしている姿を見ていなさい」と言われ、毎日祖母が支度する姿を見ていたことが料理を始めたきっかけだという。この頃のことをタモリは「小学生時代は、学校から帰ると暇でテレビゲームもなければ、習いごともなく、人を見ているか、坂道を見たり、船を見たり、(祖母の料理支度の見学は)暇つぶしにはもってこいだった」と述懐している。その為、金銭面にも余裕がなかった学生時代に友人らと料理を作ろうとした時には、タモリ一人で大体の料理を作ったり、だしの取り方まで全部覚えていたと語っている。

陸上部で短距離200mを走っていた。4年間、近所のバプテスト派キリスト教会に通ったという。本人曰く「牧師芸人のように見ていた」とのこと。船が好きで、良く地元の港に行って船をずっと見ていた。そこで、どこの船なのかを全部知っていたとも話している。中学3年間は丸刈り頭であった。部活動は主に剣道陸上競技を行っていた。

学生時代

福岡県立筑紫丘高等学校へ入学。高校時代は、剣道部吹奏楽部を両立してトランペット兼司会を担当していた。アマチュア無線クラブにも入っていて、船の無線通信士にもあこがれた。さらに居合道場にも通い、二段を取得した。ファンだった地元球団・西鉄ライオンズが身売りをしたため、野球への興味を失う。

高校を卒業後、1年間の浪人生活を送る。大学浪人中はしばしば押入に潜り込み、韓国中国からのラジオ放送を長時間聴いていた。これが「藤村有弘以来」と言われた、「6か国語マージャン」などの「インチキ外国語芸」へとつながった。また、座禅を組んで極度の瞑想に近い経験をしたこともある。

無線に興味があったため電気通信大学を目指したが、物理が克服できず、1年間の浪人生活を送ったのちに、1965年早稲田大学第二文学部西洋哲学専修へ入学。その後学費未納のため抹籍処分となる。

早稲田大学第二文学部部西洋哲学専修在学中はモダン・ジャズ研究会に在籍し、トランペットを演奏。同期に増尾好秋、1年先輩には鈴木良雄らがいた。しかし「マイルス・デイヴィスのラッパは泣いているが、お前のラッパは笑っている」などの批評を受け、トランペットは3日でクビ、代わってマネージャー・司会を担当することになった。タモリはこの時期に付けられたニックネームであり、森田のバンドマン読み(銀座がザギンになるのと同様)。

その後、学生バンドの司会としてTBSラジオの番組「大学対抗バンド合戦」に出演し、MCの大橋巨泉からその才能を認められている。

大学2年次の5月の連休、友人2人と旅行を計画し、学費用に仕送りされた資金を旅行用に一旦充てたが返済されず、自分の授業料が払えなくなったため、早稲田大学を去った。3年次に学費未納のため抹籍という処分となった。

福岡時代

大学を抹籍処分になった後もタモリはモダン・ジャズ研究会のマネージャー役を続行。かなりの収入を得ていたが、間もなく叔父に福岡に引き戻され、朝日生命で3年近く保険外交員として勤める。この時期に同僚の一般女性と結婚。その後、旅行会社に転職するが、系列のボウリング場(大分県日田市)に転属される。

1972年、渡辺貞夫の福岡でのコンサートのスタッフに大学時代のジャズ仲間がいたことから、コンサート終了後、その友人が泊まっていたホテルで終電がなくなる時間ギリギリまで飲みながら話し込んでいた。いざ帰ろうと部屋から出た際、やけに騒がしい一室があり、通りがかり様に半開きになっていたドアから中を覗いた。室内ではナベサダのコンサートに同行していた山下洋輔トリオ(山下、中村誠一森山威男)が歌舞伎の踊り、狂言虚無僧ごっこなど乱痴気騒ぎをしていた。そこにタモリは乱入する。中村誠一が被っていたゴミ箱を取り上げるとそれを鼓にして歌舞伎の舞を踊り始めた。山下トリオの面々は「誰だこいつ?」と動揺するが、中村は機転を利かせてその非礼をデタラメ朝鮮語でなじった。しかしタモリはそれより上手なデタラメ朝鮮語で切り返し、その後、タモリと中村のデタラメ外国語の応酬が始まる。タモリが表情を付けてデタラメなアフリカ語を話し始めた際には山下は呼吸困難になるほど笑ったという。始発が出る時間まで共に騒ぎ、タモリは「モリタです」とだけ名乗って帰宅した。

「この男はジャズ・ファンに違いない」と確信した山下は、博多のジャズバーに「モリタ」という名前の男はいないかと片っ端から問い合わせたという。その後、とあるジャズバーから「喫茶店の変人マスターでは」という情報が入り、タモリと山下は再会することになる。この時期、タモリは転職して喫茶店のマスターであり、ウィンナ・コーヒーを注文すると、ウィンナーソーセージが入ったコーヒーを出すなど、地元では奇妙なマスターとして有名であった。武田鉄矢もアマチュア時代に店に行ったことがあるという。再会後は山下トリオが九州に行く際に共に遊ぶ仲間となり、山下のエッセイでしばしば取り上げられる、知る人ぞ知る存在となる。

1975年春には山下が行きつけだった新宿ゴールデン街のバー「ジャックの豆の木」で、「山下がそんなに面白いというのなら一度見てみたい」とタモリを上京させる機運が高まり、バーの常連(奥成達高信太郎長谷邦夫山下洋輔森山威男坂田明三上寛長谷川法世南伸坊ら)により「伝説の九州の男・森田を呼ぶ会」が結成され、同会のカンパによって、1975年6月に上京を果たす。開かれた独演会では「4か国語麻雀」や、「中国で作られたターザン映画に出演した大河内伝次郎の宇宙飛行士が、宇宙船の中で空気洩れに苦しんでいる様子」などのリクエストを含めた即興芸を披露し、筒井康隆唐十郎ら臨席した全員を感動させた。

居候時代

福岡で生活しつつ、カンパの資金で月1で上京して「素人芸人」として即興芸を披露するという一種の二重生活を送り始めたタモリだったが、同年夏、面白い事をやっている人間がいるという噂を聞きつけた赤塚不二夫がタモリの元を訪れる。赤塚はタモリの即興芸に心酔し、8月末に生放送が決定していた自らの特番にタモリを出演させる事を決意。放送までまだかなり日数があったため、タモリは福岡に帰ることを望んでいたが、「タモリの芸をもっと見たい、福岡に帰したくない」と考えた赤塚は、常人ではありえない発想でタモリを引き止めた。

1975年当時、赤塚は4LDKのマンションに住み、ベンツのスポーツタイプなどを保有する売れっ子漫画家だったが、それら全てを自由に使っていいからと東京に残ってくれとタモリに懇願。タモリはこれを了承し、赤塚宅での居候生活が始まる(タモリや赤塚らは「居候」と言っているが、実質的には居候ではなく「生活スペースの交換」)。赤塚宅に住み始めたタモリは、「ジャックの豆の木」を始めとした飲み屋で赤塚や山下らと馬鹿騒ぎする日々を送り、赤塚からは月に20~30万円の小遣いが渡されるという破格の居候生活を送った。

なお、生活スペースをタモリに譲ることになった赤塚は、仕事場のロッカーを倒し、それに布団を敷いて寝場所を確保するなど、侘しい生活を送った。赤塚が着る服がなくなりやむなく「赤塚宅」に一時帰宅した際に、探していた服をタモリが着ていたという笑い話がある。タモリが考える居候の秘訣は、「卑屈になるな」。

『マンガ大行進 赤塚不二夫ショー』(1975年8月30日、NET)に出演し、インチキ牧師などのパフォーマンスでテレビ初出演。たまたま、番組を見ていた黒柳徹子から「今の人、誰? すごいじゃない」とその夜のうちに照会があり、次いで『徹子の部屋』(テレビ朝日系列)に赤塚とともに出演した。

赤塚の特番に出るという当初の目的は達成したものの、赤塚らは次の目的を「タモリを芸能界入りさせる」に設定し、赤塚宅での居候生活は続行。タモリの居候期間はデビュー直前までの9ヶ月近くに及び、居候の途中には妻も呼び寄せている。

赤塚らと飲み屋で騒ぐ素人芸人時代に、高平哲郎らとも知り合うなど、芸能界的な人脈も増えていく。売り出すための算段などが練られて、「戦後最大の素人芸人」というキャッチフレーズが作られたり、アイパッチ姿(浅井慎平がサイレント映画の大スタールドルフ・バレンチノ風にスタイリングしたもの)にされるなど徐々にキャラクターが作りこまれていった。

特異な芸風から所属事務所がなかなか決まらなかったが、後に田辺エージェンシーと契約。大恩人ともいえる社長の田邊昭知とは、後に親友になっている。(1980年代半ばに田辺エージェンシーが業界関係者に配っていた新年挨拶のビデオにはタモリが2年連続で出演。『いいとも』のテレフォンショッキングのセットで田邊社長と世間話をするという形が取られた)。

なお、芸能界入りする際、4つの戒律を自らに掲げたという。

  1. だれの弟子にもならない
  2. 組織には属さない
  3. をなるべくさげずにカネをもうける
  4. 色紙サインをするときは、名前の横に添えるモットーのようなものは持たない

これらの方針により、芸人として先輩にあたる人物でも年下相手には敬語を使っていない。

芸能界入り

1976年4月、東京12チャンネル(現:テレビ東京系列)の深夜番組空飛ぶモンティ・パイソン』で正式にデビュー。その後、『金曜10時!うわさのチャンネル!!』(日本テレビ系列)にもレギュラー出演が決まるが、この時期は「タモリ専用のコーナー」で密室芸をするという形が取られていた。

当時の芸はイグアナのような体芸、反知性を打ち出した中州産業大学教授、デタラメ言語ハナモゲラなど、他の芸人とは一線を画しており、テレビ的にはキワモノ芸人的存在と考えられていた。しかし、ラジオ『オールナイトニッポン』(ニッポン放送)で徐々にマニアックな層からのの支持を集めていく。

またテレビやラジオ以外にも活動の場を拡大。山下洋輔全日本冷し中華愛好会に参加。1977年には赤塚不二夫滝大作高平哲郎らと「面白グループ」を結成。週3回以上の宴会を催し、その成果を何らかの方法で発表することを目的にした団体であり、まもなく坂田明内藤陳小松政夫団しん也たこ八郎三上寛研ナオコ柄本明所ジョージアルフィー劇団東京ヴォードヴィルショーの一部メンバーも参加。ビートたけしも参加しようとしていたが、たけしはタモリの芸風を嫌ってすぐに脱退したという。

1979年には映画『下落合焼とりムービー』に出演。同年、渋谷公会堂で「第一回いたいけ祭り」という、タモリや赤塚の「宴会芸」を見せるイベントを行う。また、面白グループ名義で、当時ヒットしていた女子大生二人が執筆した書籍『ANO・ANO(アノアノ)』のパロディ本、『SONO・SONO(ソノソノ)』を刊行するなどしていた。

1980年代の飛躍

1980年代に入ってからは密室芸の披露の場を減らし、『今夜は最高!』などで知性的な部分を前面に打ち出すようになり、ファン層を拡大。ただし、当時は下ネタ発言が多く、夜の番組の芸人というイメージが強かった。

1982年、フジのプロデューサー横澤彪が「夜の顔を昼に」とタモリを昼の帯番組に起用するという荒業に出る。『森田一義アワー 笑っていいとも!』は当初は低迷したものの、間もなく人気が沸騰。30年以上続く人気番組となる。またこの時期、深夜のタモリをなくさないという目的で『タモリ倶楽部』も放送開始、これもまた30年以上続く人気番組となっている。

『いいとも』で司会術を磨いたタモリは、1983年には『第34回NHK紅白歌合戦』(NHK)の総合司会を務めることになる。NHKアナウンサー以外が紅白の総合司会を務めたのはタモリが初という異例の起用である。1986年10月24日からは『ミュージックステーション』(テレビ朝日系列)でメイン司会を務め、25年以上続いている。

1985年以降は萩本欽一と入れ替わりで、日本のお笑いBIG3(タモリ・ビートたけし明石屋さんま)と呼ばれる存在になる。ただし、この時期女性からの人気はほぼなく、週刊誌などの「抱かれたくない芸人」ランキングでは常連だった。

1990年代以降の趣味路線

1990年代以降は趣味や知識(タモリ本人曰く「広く浅く」)を前面に打ち出すようになり、『タモリ倶楽部』の他にも、『タモリの音楽は世界だ!』(テレビ東京系列)、『タモリのボキャブラ天国』『タモリのジャポニカロゴス』(フジテレビ系列)、『ブラタモリ』(NHK)などが人気番組となっている。

1990年代半ばには女子高生の間で人気が出るなどし、かつての女性からの不人気を解消している。ただし本人は「テレビの中に居る人物だと思われている」と分析している。プライベートで街で歩いている時に、指をさされて「マジでタモリ!」と言われてたとぼやいている。

人物

  • 座右の銘は「適当」「現状維持」「やる気のある者は去れ」など多数。好きな言葉は「妄想」。
  • 仕事も何でも「反省はしない」。「反省ばかりしてるとバカバカしくてこれから先、やっていけない」「過去を振り返らない」と語る。自ら出演している番組は恥ずかしくて一切観ない。『週刊朝日』の取材に答えた際、『笑っていいとも!』(フジテレビ系列)の長寿の秘訣について、「番組についての反省を一切しないこと」と述べている。
  • デビュー当時は、眼帯アイパッチ)を着用していたが、後に1978年頃から主に黒色のサングラスを使用し始め、『いいとも!』が始まって以降は、主にレイバンサングラスのみを使用し、サングラスはタモリのトレードマークとなっている。(目が細いのでコンプレックスになっているため、それを隠している)
  • デビュー当初はディップ(整髪料)で固めて、頭の真ん中分けで、中州産業大学教授を演じる時のみボサボサとした髪型にしていた。その後『いいとも!』のみ、ディップで固めた7:3分けで出演していたが、1990年7月22日放送分の『FNSスーパースペシャル1億人のテレビ夢列島'90・笑っていいとも!増刊号生スペシャル』以降から髪型を現在のオールバックに変更。この髪型もまたタモリのトレードマークとなっている。またこの時に共演者の明石屋さんまがカツラだとネタにしたことから「カツラ疑惑」が生まれた。本人もしばしばネタにのることがある。

タモリがいつもサングラス姿なのは、目が細いのがコンプレックスになっているから。

  • サユリスト吉永小百合愛好家)」の一人として知られる。吉永と同年齢(学年は、早生まれの吉永が1つ上)のタモリは、早稲田大学第二文学部においては、吉永と在学時期が重なっている(タモリは西洋哲学専修、吉永は西洋史学専修)。
  • オールナイトニッポンで「根暗」という言葉を発明。タモリは「こう見えて、オレは根が暗いから」等と「表面的に明るいが、根は暗い人」という意味で使用していたが、世間的には「根っから暗い人」という意味で、「ネアカ」「ネクラ」と対比されて、悪口として流行した。

芸風

密室芸

居候時代に培った芸は「密室芸」と呼ばれる。命名者は奥成達

タモリは上京当初、「北京放送」や形態模写くらいしか持ちネタがなかったが、臨席した人物からの無茶振りをそつなくこなし、それを自らの芸として確立させていった。前述の「中国で作られたターザン映画に出演した大河内伝次郎の宇宙飛行士が、宇宙船の中で空気洩れに苦しんでいる様子」は「宇宙飛行士→大河内伝次郎の宇宙飛行士→ターザン映画に出演した大河内伝次郎の宇宙飛行士…」と客の指示により、状況が変わっていく即興芸。「4カ国麻雀」は「北京放送が出来るのならこういうの出来ない?」という山下洋輔の要望による。

ただし、放送できない部類のパロディブラックユーモアが特徴であり、テレビなどで密室芸と称して行う場合は放送して差しさわりの無い程度に表現を緩和あるいは差し替えている。「4カ国麻雀」は元々は、毛沢東マッカーサーヒトラー昭和天皇の麻雀対局であり、最後に昭和天皇が「結局○○人が悪い!」と民族差別的な発言をして終わるものだった。「イグアナ」も元々は全裸。

また、知識人を揶揄した「中洲産業大学教授」などのネタや「思想模写」などがあり、これらは放送に適しているものの、1970年代半ばは番組製作側にパロディの概念が皆無であり、赤塚不二夫の仲介でNHKの幹部に面会する機会を持った際に、NHKアナウンサーのパロディを披露したところ全く理解されないどころか激怒された経験を持っている。

1990年代以降はテレビではほぼやらなくなり『徹子の部屋』の年末最後の放送にゲスト出演し、密室芸を披露するのが恒例になっている。

思想模写

寺山修司モノマネは、しゃべり方や身振りの模写のみならず、話す内容自体はタモリ自身が考えたものでありながら「いかにも寺山修司が語りそうな物言い」をするという点(寺山自身が生前、喋る内容や論理の組み立て方が自分と同じと語っていた)で画期的であり、それ以前の政治家のモノマネや歌手の歌真似を中心とする「声帯模写」芸とは題材やアイデアの面で一線を画し、後のモノマネに多大な影響を与えた。

こうした芸は「思想模写」と称され、レパートリーとして野坂昭如竹村健一、[田中角栄]]、大橋巨泉永六輔横井庄一浦辺粂子久米明安藤忠雄など他多数存在する。また封印したものとして昭和天皇がある。筒井康隆全集の打ち上げパーティーで披露した後、一部メディアが報じてしまったために、事務所の社長が右翼に監禁される事件が起きた。

筒井康隆は「奇人タモリの演じる文化人たちの物真似が受けるのは、何を言っているのかわからないことは本物とまったく同じでありながら、何よりも本物より面白いことだけははっきりしているからである」と評する[1]

モノマネでは他に、麻生太郎(衆議院議員・元内閣総理大臣)の口と声マネ、森山周一郎(声マネ)、滝口順平(声マネ)、笑福亭鶴瓶おすぎ&ピーコ三宅裕司横山弁護士GACKTDAIGO渡部陽一コカドケンタロウロッチ)のアゴまね、生まれたての子馬、ハゲタカの着地、バグパイプ、携帯電話のバイブ、ジャングルにいるオランウータン、毛玉が喉に詰まった猫、童謡の女性の歌い方、トロを食う男、ハエ、ハイエナ、コンドルの着地など、多彩なレパートリーがある。

1980年代初期の悪口

上記の密室芸の他に、他者(権威的な物や自分の嫌いな物)への悪口が多かった。テレビ番組よりもラジオ番組『タモリのオールナイトニッポン』や各種イベントなどで顕著。

標的になったのはオフコース(小田和正)、さだまさしアリス名古屋及び名古屋人、作家の五木寛之など。オフコースについては「軟弱なフォーク、根暗なヤツが聞く音楽、歌詞が嘘くさい」、さだまさしは「女々しい、わざとらしい、歌よりトークが長い」、アリスは当時行なわれたハンド・イン・ハンド運動(谷村新司が提唱し、音楽ファンのための音楽ホール「シアター・フレンズ」建設を合言葉にした募金運動)を「もてない根暗ファンの自己満足」、そして名古屋と名古屋人は「東京と大阪に挟まれ独特のコンプレックスがある、田舎なのに都会ぶる、人間がずうずうしい、エビフライをごちそうだと思っている、名古屋弁は響きが汚い」、五木寛之は「文化人づらをして、自分が書いた作品に出演する女優をくどいてばかりいる」。その他、『いいとも!』では明石家さんまとともに佐賀県をこき下ろす発言を繰り返していた。

なお、後日談もあり、筒井康隆の「ジャズ大名セッションザ・ウチアゲ」に出演した際、他のミュージシャンが演奏している中、タモリがマイクをオンにして五木寛之の悪口をつぶやき始め、それがばっちり録音されてしまったため、レコード化が見送られたというエピソードがある。また、小田和正とは1984年にテレフォンショッキングで共演するが、終始冷たい空気が流れていた。その共演から約30年間一度も会っていないという。

司会芸

司会者としては、多趣味を生かした話のフリと、相手の話をきちんと理解しきちんと切り返すという技術に確かなものがある。ただし、バラエティ番組の司会、特に『いいとも』においては、要所を押さえながらも自由すぎる行動や発言を織り交ぜるのを特徴としている。

代表的な発言は「俺はジャニーズシニアの一員」「俺は『ZOO』にKAZU(カズ)の名前で所属していた」など。

自由すぎる行動としては、番組の効果音やBGMや特徴のある共演者などの声真似、何も用意されていないのにもかかわらず用意されている雰囲気を出しながら何もない場所を指す(共演者は思わず振り向く)など。

音楽芸

「誰でも弾けるチック・コリア」「誰でも弾けるハービー・ハンコック」など誰でも弾けるシリーズや、中国人の弾き語りなど、ピアノ鍵盤を使った芸を数多く持つ。また、ラップやボイス・パーカッションなども得意としている。

安産祈願

ネタのひとつとして安産祈願をする。元々『いいとも!』の「テレフォンショッキング」で紹介されたテレフォンゲストへのメッセージのメモをとるふりをしていたが、本当にとっているわけではなく、放送禁止の女性器を簡素化した図形を描き、テレフォンゲストに見せて、その反応を楽しんでいた。次第に、その図柄にちなみ安産祈願と称しそのメモをテレフォンゲストが持ち帰るようになった。

現在でも、タモリの持つ番組などで身近に出産を間近にしている著名人女優素人)等に書いている場面があり、その際、妊婦のお腹に手を当てて、「安産スッポン!」と何度も言葉を口にすることもある。まためちゃイケにおいて加藤浩次夫人の安産祈願に押し掛ける企画をしたこともある。安産祈願第1号は、坂東三津五郎(当時・坂東八十助)長女。安産祈願を行う際、タモリは「4人の逆子を治したことがある」「安産祈願の成功率は90%だ」などとその「霊験」を大げさに語ることがあるが、もちろんこれもネタの一環である。

音楽

前述の通りジャズをこよなく愛しており、レコードも数多く所有している。また奏者としては、各種セッションへの参加は勿論、テレビの場でもトランペットを度々演奏している。他方、「意味性」のある音楽については苦手としており、自身は数多くの音楽番組の司会を長年務めているものの、ポップスなどのミュージシャンについてコメントすることはほとんどない。例外として、『笑っていいとも!』の「テレフォンショッキング」に出演した小沢健二について「いいと思う歌詞は小沢くんだけ」と公言したことがある。

仕事

基本的に弟子は取らない方針で、希望者が来ても「自分の芸は誰かに教えてもらったものではないので、人に教えようが無い」と断るという。ただし付き人や運転手は存在する。1980年代後半には岡村という運転手がいて、たびたび『いいとも!』などに出演させていた。その後、イワイガワのジョニ夫も運転手を勤めていた。

日本の伝統ともいえるペーソスのある笑いが大嫌いという立場をデビュー時から崩していない。なお、芸人が自ら泣く、あるいは人を泣かせることにも否定的であり、2005年度の『FNS25時間テレビ』(フジテレビ系列)の終盤で、総合司会の笑福亭鶴瓶が出演者やスタッフに向けて涙ながらにメッセージを送ったことがあったが、後に「なんで泣くの?」とたしなめたという(同様の考えはたけし・さんまも番組などで語っている)。

所属している田辺エージェンシーの公式サイト内におけるタレント紹介ページでは、タモリのみ写真が掲載されていない。

出演番組の公式サイト上では『いいとも!』でも一切顔出しを行っていない(『いいとも!』については、他のレギュラー出演者も、テレフォンアナや例外のケースを除いて一切顔出しをしていない)。反面、『いいとも!』以外のサイトでは顔出しを行っている(『タモリ倶楽部』にはテレビ朝日のサイトの中に一応公式ホームページがあるが、1ページのみで構成される極めて簡素なもので、タモリの顔写真もない)。

また、不定期で母校の早稲田大学へ、学園祭の講演会などで訪れることがある。

副業

タレント活動の他に、経営者・実業家としての顔もある。かつては、お好み焼きや海鮮もんじゃ焼の専門店・太助を静岡県沼津市・駿東郡清水町・静岡市清水区に3店舗出店していたが後にすべて閉店している。

おすすめ料理(メニュー)として、自身が練りに練って考案し試食を重ねたという「タモちゃん焼餃子」がある。休日には3店舗に顔を出して、自前のエプロンを着て従業員のように手伝っていることもあった。

タモリカップ

後述するように一級小型船舶操縦士の資格を持ち、沼津市にヨットを保有していることなど、近年ヨットとの繋がりが深くなっていることから、2008年よりヨットレースとして、自らの名前を冠した「タモリカップ」を開催している。

2008年から2012年にかけては自らのヨットがあるヤマハマリーナ沼津での開催となっていたが、2013年は沼津での開催を休止する代わりに横浜・福岡の2ヶ所で開催された(ただし横浜・福岡ともレースは荒天のため中止)。2013年は横浜で192艇・福岡で84艇ものエントリーを集め、国内最大級のヨットレースに成長している。

資格・免許

交友関係

恩人である赤塚不二夫の死

2008年8月2日、タモリの才能を見抜き、地元・福岡から上京させて、自宅マンションに居候までさせた漫画家・赤塚不二夫が逝去。死去の2日後に事務所を通じて追悼のコメントを発表し、「物心両面の援助は肉親以上のものでした」と赤塚の死を悼み、感謝の言葉も載せた。

同年8月6日の赤塚の通夜、及び8月7日の葬儀・告別式に参列。その告別式では「私もあなたの数多くの作品の一つです。」との弔辞を読み上げた。この弔辞は7分56秒にも及ぶものであり、手にしていた紙を何度も見ながら時折涙声で読んでいたが、実際にはその紙は全くの「白紙」で、何も書いていなかったとの報道が一部でなされた。

なお、横澤彪によると、後日行われた『いいとも!』スタッフの通夜でタモリと会っており、横澤が尋ねるとこの事実を認め、前夜に書こうとしたが面倒になったので勧進帳のギャグをやることにしたとのこと。ちなみにオチは「自分のマネージャの名前がトガシ」だから(詳細は勧進帳、および原作の安宅の項をそれぞれ参照)。

プロデューサー横澤彪

2011年1月8日、『いいとも!』初代プロデューサーを務めていた横澤彪肺炎のために亡くなった。タモリは「夜の番組しか出演出来ないと言われていた私をいきなり昼の真ん中に起用してくれました。私自身は昼も夜も意識したことはありませんでしたが、私で大丈夫なのかと不安でした。『笑っていいとも!』は今秋30周年を迎えます。大変お世話になりました」とコメントを寄せ、恩人の死を悼んだ。葬式や通夜には参列しなかったが、1月12日に横澤の自宅で対面した。

また、タモリ・たけしさんまの「BIG3」を人気者へと押し上げた一人でもあった。

各番組におけるタモリ

長寿番組

といった、現在に至っても放送がされている代表的な数多くの長寿番組を持っている。

番組を長く続ける秘訣につき、「自分の番組を好きでいなければいけない」「一々、反省はしない」「自分が出演しているテレビ番組は一切観ない」と述べる。

レギュラー番組の司会で、マイクを使用する。タモリは「俺はいつも欠かさずマイクは何処に行くにしろ持っている」と述べる。

冠番組

『いいとも!』が放送開始した1982年ごろからバラエティ番組の司会が増え、冠番組が続々と誕生。『いいとも!』、『タモリ倶楽部』、『ミュージックステーション』に加えて、ゴールデンタイム・プライムタイム、ラジオ番組のレギュラー番組を週に7 - 8本はこなす時期があった。『今夜は最高!』(NTV系列)、『ジャングルTV〜タモリの法則〜』(TBS系 MBS制作)、『タモリの音楽は世界だ!』(テレビ東京系列)等が開始されていった。また、博識が評価され『今夜は最高!』の「オペラ昭和任侠伝」が、同年の民間放送連盟賞のテレビ娯楽番組部門最優秀賞を受賞した。

  • 日本テレビ系列 = 『今夜は最高!』
  • テレビ東京系列 = 『タモリの音楽は世界だ!』
  • TBS系列 = 『ジャングルTV〜タモリの法則〜』(毎日放送制作)
  • フジテレビ系列 = 『タモリのボキャブラ天国』
  • フジテレビ系列 = 『タモリのネタでNIGHTフィーバー!』
  • ニッポン放送 = 『タモリの週刊ダイナマイク』(ラジオ) など多数

上記は1980 - 1990年代当時のレギュラー番組であるが、このうちNTV、TBS、CX全ての番組の視聴率が10 - 20%をマークした。その他、テレビ番組以外にも歌手としてのCD・レコードリリースとライブ活動なども行っていた。この頃により、ビートたけし明石家さんまとともに、「日本のお笑いタレントBIG3」と称されることとなった。

ドラマ出演

主にバラエティ番組で活躍しているが、テレビドラマにも出演してきた。テレビドラマ初出演作品はドラマ人間模様詐欺師』(NHK)であった。このドラマは連続ドラマであり、大谷直子とのベッドシーンやキスシーンもあった。他には月曜スター劇場なぜか、ドラキュラ』『今夜は営業中!』(日本テレビ系列)、『代議士秘書の犯罪』『不連続爆破事件』『ミセスとぼくとセニョールと!』『自主退学』(TBS系列)などで主演している。

近年でもストーリーテラーを務める『世にも奇妙な物語』(フジテレビ系列)にエキストラで出演したり、2004年に『X'smap〜虎とライオンと五人の男〜』(フジテレビ系列)にてデビュー時の眼帯をつけた姿で登場、2007年に『和田アキ子殺人事件』(TBS系列)に本人(森田一義)役で出演、2012年に『ATARU』最終話(TBS系列)に宝飾店店員役でゲスト出演している。また『HERO』劇場版では悪徳政治家を演じた。

報道番組出演

バラエティ番組以外に、報道・情報番組に登場することもある。

  • FNN DATE LINE』(フジテレビ系列)
    1987年と1988年の2回、タモリが司会を務めたFNSの日「FNSスーパースペシャル1億人のテレビ夢列島'87・'88」の内包コーナーとして、「DAТE LINEデラックス」をメインキャスターの露木茂と担当(その他では、いいとも!の「テレフォンショッキング」でも共演)。

事故

ヨット事故

  • 1990年7月、ヨットの柱に額をぶつける事故があった。この事故でタモリは髪型を真ん中分け(『いいとも!』の番組内では7:3分け)のオールバックから、現在の分け目のないオールバックへ変えた。

人身事故

  • 2000年5月6日東京目黒区人身事故を起こした。タモリのが左折した際、右から直進してきたオートバイと接触、オートバイは弾みで別の車にも接触した。運転していた男性と同乗女性が足に軽い打撲し、タモリに怪我は無かった。

ゴルフ事故

エピソード

  • 1985年、第1回東京国際映画祭において明石家さんまとともに司会を務めた。後日、その司会ぶりが「ふざけた司会者」「タモリの下品な司会」と新聞紙面上で非難される。
  • 芸人仲間だったたこ八郎が急逝した時、赤塚不二夫らと参列した葬儀の席で「たこが海で死んだ。何も悲しいことはない」とコメントした(この経緯についてはたこ八郎の項を参照のこと)。
  • 大地真央宝塚歌劇団に在籍した頃に、作詞・作曲を手掛けたことがある。曲名は「タモリさんが作った歌」で、編曲は小笠原寛。CD『この愛よ永遠に〜TAKARAZUKA FOREVER〜』に収録されている。
  • 旅行好きである。行ってみたい場所はイギリスアフリカカリブ海グアテマラなど。タモリ曰く、「お酒を浴びるように呑みながら旅がしたい」。
  • 象印賞を受賞した経験がある。

評価

当初自分の独特の芸風が壊されるという理由で師匠につかず事務所に入らずの方針で活動していたが、現在の所属事務所である田辺エージェンシー社長の田邊昭知が、芸風は自由にやらせるという条件付で自ら直々に口説き落としたという。

現在でこそビデオリサーチの企業などがおこなうタレントの好感度ランキングでは、ビートたけし明石家さんま笑福亭鶴瓶所ジョージらとともに現在に至っても上位にランクされることも多いが、デビューした1975年から1980年代初頭にかけては、逆に嫌いなタレントランキングの上位にいた。

笑福亭鶴瓶はかつて、タモリに「なんで人の笑いを邪魔するのか」と尋ねたことがある。これに対し、「お前やさんまは笑いを取りに行こうとする。それが当たり前になると帯番組はマンネリになる。だから一番山のところで叩く。そうすれば何かを考えるだろう。それがマンネリ解消になる」と答えた。鶴瓶はその予定調和を嫌う態度こそがタモリがトップに君臨する理由と見抜き、「テレビの師匠」として仰いでいると語った[2]

作家の小林信彦は著書『日本の喜劇人』で、トニー谷などの系譜に位置する「下半身の弱い」芸人と批評。本来異端だったのに一般人気が高まった現象を、似非インテリ受けと切り捨てている。

2010年、優れた芸術活動を表彰する伊丹十三賞を受賞。2010年4月9日に第2回贈呈式が行われ、賞金100万円が贈られた。受賞理由は「テレビというメディアに『タモリ』としか名づけようのないメディアを持ち込み、独自の話芸と存在感を発揮する稀な才能」。

受賞歴

現在の出演番組

レギュラー番組

単発・不定期番組

過去の出演番組

CM

映画

レコード・CD作品

アルバム

NO. ジャケットタイトル 形態・発売日 品番・発売元 備考
1st タモリ LP:1977年03月20日 ETP-72227(東芝EMI/Alfa) 毛沢東風中国人・マッカーサー風アメリカ人・ヒトラー風ドイツ人・寺山修司風日本人のモノマネによる「四カ国親善麻雀」が収録されているが、元々は寺山修司ではなく昭和天皇のモノマネだった。発売になったのは修正版。2007年発売版では「ブラジャー・ミシン」(ブラザー工業風のパロディCM)のセリフの一部がカットされて収録されている(乳がん患者への配慮と思われる)。
LP:1980年(再発) ALR-4013(アルファ)
CD:1995年06年16日(初CD化) ALCA-9159(アルファ)
CD:2007年12年20日(CD再発)

※初回のみ紙ジャケ仕様

MHCL-1238(Sony Music Direct)
2nd タモリ2 LP:1978年12月20日 ETP-80060(東芝EMI/Alfa) 講師として中州産業大学芸術学部西洋音楽理論の森田一義助教授の音源が収録されている。
LP:1980年(再発) ALR-4007(アルファ)
CD:1995年06年16日(初CD化) ALCA-9160(アルファ)
CD:2007年12年20日(CD再発)

※初回のみ紙ジャケ仕様

MHCL-1239(Sony Music Direct)
3rd タモリ3

- 戦後日本歌謡史 -

LP:1981年9月10日 TAMORI-3(アルファ) 実際には『タモリ2』発売以前より録音されており、当初はこの内容が『タモリ2』になるはずだった。戦後の名曲をパロディーにしているため著作権上の疑義が指摘され、初回プレス分の3万5000枚だけを新星堂で限定発売し直ちに絶版という運命をたどる[4]。未CD化。
4th ラジカル・ヒステリー・ツアー LP:1981年05月01日 27AH-1237(CBS/SONY) サザンオールスターズ桑田佳祐、THE SQUARE(現:T-SQUARE)の安藤まさひろ(本名の安藤正容名義で)と当時メンバーだった久米大作が楽曲を提供。安藤、久米の提供曲はTHE SQUAREがバック演奏を担当している。CD化の際にシングル「タモリのワーク・ソング」AB面を追加収録。
CD:2007年12年20日(初CD化)

※初回のみ紙ジャケ仕様

MHCL-1240(Sony Music Direct)
5th HOW ABOUT THIS LP:1986年09月21日 VIH-28272(ビクター) 大マジなジャズ・アルバム。LPとCDで一部収録曲が異なる。
CD:1986年09月21日 VDR-1276(ビクター)

プロデュース

  • 大地真央宝塚歌劇団時代に、タモリが作詞・作曲家を手掛けた。「タモリさんが作った歌」編曲は小笠原寛。CD「この愛よ永遠に~TAKARAZUKA FOREVER~」の1曲に入っている。

ゆかりの地・愛好地

VHS・DVD

書籍

ゲーム

  • 「森田一義アワー 笑っていいとも!ボードゲーム」(1985年)
  • 「森田一義アワー 笑っていいとも!タモリンピック」 スーパーファミコン専用ゲームソフト(1994年、アテナ
  • 「タモリのSuperボキャブラ天国 CARD GAME ヤングアダルト向カルタ的 豪華美麗カードゲーム」
(発売元:タカラ、販売元:セントラルホビー)

関連項目

脚注・出典

  1. 筒井康隆、山下洋輔、タモリ他『定本ハナモゲラの研究』講談社、1982年。
  2. 週刊文春』2007年8月30日号
  3. 2009年4月より、タモリのレギュラー番組『笑っていいとも!』(フジテレビ系列)・『タモリ倶楽部』(テレビ朝日系列)の番組スポンサーとなっている。しかし、2010年3月で『笑っていいとも!』(フジテレビ系列)の番組スポンサーは終了した。
  4. レコード・コレクターズ2007年9月号

外部リンク