「読売ジャイアンツ」の版間の差分
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=== 第2次原監督時代 === | === 第2次原監督時代 === | ||
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第1次では同じ時期に巨人で現役として活躍した選手が中心であったコーチ陣容を組んだ原監督だが、第2次では彼らに加えて他球団での豊富な経験のある人材を求めた。ヘッドコーチに[[近藤昭仁]]、守備走塁コーチに篠塚和典が復帰。投手コーチに[[尾花高夫]]を招聘、また1994年から2002年まで打撃コーチを務め、2003年より広島に戻っていた打撃コーチ・[[内田順三]]が復帰した。選手補強も積極的に行った。投手陣ではオリックスを自由契約となった[[ジェレミー・パウエル]]、FA宣言した[[豊田清]](西武)、[[野口茂樹]](中日)を獲得した。野手ではロッテの[[李承ヨプ (野球)|李承燁]]を獲得。金銭トレードで過去ゴールデングラブ賞を4度受賞した[[小坂誠]](ロッテ)を獲得した。一方で前年シーズン途中に既に構想から外れていた清原、ローズを自由契約で、豊田の人的補償で江藤を放出した。 | 第1次では同じ時期に巨人で現役として活躍した選手が中心であったコーチ陣容を組んだ原監督だが、第2次では彼らに加えて他球団での豊富な経験のある人材を求めた。ヘッドコーチに[[近藤昭仁]]、守備走塁コーチに篠塚和典が復帰。投手コーチに[[尾花高夫]]を招聘、また1994年から2002年まで打撃コーチを務め、2003年より広島に戻っていた打撃コーチ・[[内田順三]]が復帰した。選手補強も積極的に行った。投手陣ではオリックスを自由契約となった[[ジェレミー・パウエル]]、FA宣言した[[豊田清]](西武)、[[野口茂樹]](中日)を獲得した。野手ではロッテの[[李承ヨプ (野球)|李承燁]]を獲得。金銭トレードで過去ゴールデングラブ賞を4度受賞した[[小坂誠]](ロッテ)を獲得した。一方で前年シーズン途中に既に構想から外れていた清原、ローズを自由契約で、豊田の人的補償で江藤を放出した。 | ||
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[[2007年]][[5月2日]]に行われた[[ナゴヤドーム]]の中日5回戦でプロ野球史上初となる球団通算5000勝を達成した。これまで主にクリーンナップを打っていた高橋由伸を1番に、怪我で出遅れていた上原浩治を先発から[[リリーフ#抑え|クローザー]]として起用するなどの大胆な配置転換を行った。これが成功し、前年のような大型連敗もなく安定した戦いを続けた。鬼門だった交流戦も2位でクリア。そして[[9月23日]]の横浜戦に勝利し、この年から導入された[[クライマックスシリーズ]]の出場権をセ・リーグ一番乗りで獲得。中日・阪神との三つ巴のデッドヒートの末、優勝マジックナンバーが1となってむかえた[[10月2日]]のヤクルト戦、9回裏二死満塁から、[[清水隆行]]の遊撃内野安打と、[[宮本慎也]]の一塁悪送球の間に二塁走者が生還し、サヨナラ勝ちで5年ぶりのリーグ優勝を達成した。しかし、同年より導入された[[2007年のセントラル・リーグクライマックスシリーズ|クライマックスシリーズ]]第2ステージで、第1ステージで阪神を2連勝で破った中日に0勝3敗でストレート負け。日本シリーズ出場権を逃し、史上初の「リーグ優勝しながら日本シリーズに出場できないチーム」となっている<ref>2004年と2005年のパリーグでシーズン1位のダイエー(ソフトバンク)ホークスがプレーオフで敗退し日本シリーズ未出場であるが、これはプレーオフ勝利チ-ムをその年の優勝チームと定めていたためである。</ref>。このため恒例の[[銀座]]での優勝パレードも中止となった(巨人はこれまでリーグ優勝しても日本一になれなかった場合は優勝パレードを行ってこなかったが、日本シリーズ不出場による優勝パレード中止はこれが初である)。球団は、期待不足に終わった[[ジェレミー・ゴンザレス|GG]]と[[ジェレミー・パウエル]]、[[デーモン・ホリンズ]]の外国人3選手を自由契約とすると、ロッテを自由契約になった[[藤田宗一 (投手)|藤田宗一]]、横浜を自由契約となった[[マーク・クルーン]]、ヤクルトから自由契約となった[[セス・グライシンガー]]と[[アレックス・ラミレス]]を獲得した。 | [[2007年]][[5月2日]]に行われた[[ナゴヤドーム]]の中日5回戦でプロ野球史上初となる球団通算5000勝を達成した。これまで主にクリーンナップを打っていた高橋由伸を1番に、怪我で出遅れていた上原浩治を先発から[[リリーフ#抑え|クローザー]]として起用するなどの大胆な配置転換を行った。これが成功し、前年のような大型連敗もなく安定した戦いを続けた。鬼門だった交流戦も2位でクリア。そして[[9月23日]]の横浜戦に勝利し、この年から導入された[[クライマックスシリーズ]]の出場権をセ・リーグ一番乗りで獲得。中日・阪神との三つ巴のデッドヒートの末、優勝マジックナンバーが1となってむかえた[[10月2日]]のヤクルト戦、9回裏二死満塁から、[[清水隆行]]の遊撃内野安打と、[[宮本慎也]]の一塁悪送球の間に二塁走者が生還し、サヨナラ勝ちで5年ぶりのリーグ優勝を達成した。しかし、同年より導入された[[2007年のセントラル・リーグクライマックスシリーズ|クライマックスシリーズ]]第2ステージで、第1ステージで阪神を2連勝で破った中日に0勝3敗でストレート負け。日本シリーズ出場権を逃し、史上初の「リーグ優勝しながら日本シリーズに出場できないチーム」となっている<ref>2004年と2005年のパリーグでシーズン1位のダイエー(ソフトバンク)ホークスがプレーオフで敗退し日本シリーズ未出場であるが、これはプレーオフ勝利チ-ムをその年の優勝チームと定めていたためである。</ref>。このため恒例の[[銀座]]での優勝パレードも中止となった(巨人はこれまでリーグ優勝しても日本一になれなかった場合は優勝パレードを行ってこなかったが、日本シリーズ不出場による優勝パレード中止はこれが初である)。球団は、期待不足に終わった[[ジェレミー・ゴンザレス|GG]]と[[ジェレミー・パウエル]]、[[デーモン・ホリンズ]]の外国人3選手を自由契約とすると、ロッテを自由契約になった[[藤田宗一 (投手)|藤田宗一]]、横浜を自由契約となった[[マーク・クルーン]]、ヤクルトから自由契約となった[[セス・グライシンガー]]と[[アレックス・ラミレス]]を獲得した。 | ||
− | [[2008年]]はオープン戦から主力選手の故障、台頭した[[坂本勇人]] | + | [[2008年]]はオープン戦から主力選手の故障、台頭した[[坂本勇人]]を除いた若手の伸び悩み等でなかなか満足な試合運びを出来ず、黒星を重ねていった。ペナントレース開幕直後もチームはオープン戦の不調を引きずり、開幕戦となる3月28日のヤクルト戦(神宮球場)から4月2日の中日戦(東京ドーム)まで、球団ワースト記録となる開幕5連敗を喫した。開幕戦で4番打者を務めた李承燁、昨年のクローザーから先発に復帰した上原浩治が共に不調で二軍降格するなど戦力が揃わず開幕ダッシュに失敗した。だが、交流戦あたりから調子を上げはじめ、若手の積極的な起用策が功を奏し、後半戦も順調に勝ち星を重ね、7連勝中の9月19日から首位阪神に3連勝、最終的に球団32年ぶりの12連勝を記録するなど猛追し、同率で迎えた10月8日の最終直接対決で勝利し単独首位に立ち、10日に接戦の末にセ・リーグ記録となる最大13ゲーム差からの逆転優勝を果たした。11.5ゲーム差を逆転し「メークドラマ」と呼ばれた1996年の優勝時以上の大差を逆転したことから、マスコミ等は、「メークレジェンド」と呼んだ。[[2008年のセントラル・リーグクライマックスシリーズ|クライマックスシリーズ]]では、第2ステージで中日ドラゴンズと対戦、アドバンテージの1勝を含む3勝1敗1分で勝ち抜けし、2002年以来の[[2008年の日本シリーズ|日本シリーズ]]への出場を決めるが、3勝4敗で埼玉西武ライオンズに敗れた。 |
[[2009年]]シーズンは、原辰徳監督が[[2009 ワールドベースボールクラシック日本代表]]監督に就任したこともあり、オープン戦は伊原春樹ヘッドコーチが監督代行を務めた。シーズンに入ると、坂本を1番打者、[[松本哲也 (野球)|松本哲也]]を2番打者に固定するなど選手起用が当たり、開幕8試合目で首位に立つとそのままシーズンを乗り切り、2009年9月23日の対中日ドラゴンズ戦に5-3で勝利し、1965年~1973年のV9時代以来となる3年連続の33回目のセントラルリーグ優勝を決める。 | [[2009年]]シーズンは、原辰徳監督が[[2009 ワールドベースボールクラシック日本代表]]監督に就任したこともあり、オープン戦は伊原春樹ヘッドコーチが監督代行を務めた。シーズンに入ると、坂本を1番打者、[[松本哲也 (野球)|松本哲也]]を2番打者に固定するなど選手起用が当たり、開幕8試合目で首位に立つとそのままシーズンを乗り切り、2009年9月23日の対中日ドラゴンズ戦に5-3で勝利し、1965年~1973年のV9時代以来となる3年連続の33回目のセントラルリーグ優勝を決める。 | ||
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[[2013年]]、開幕から球団タイ記録の7連勝。5月5日の東京ドームでの対広島戦の試合前に終身名誉監督の長嶋茂雄と巨人OBの松井秀喜の国民栄誉賞の授与式が行われている。交流戦は13勝10敗の3位。前半戦は2位の阪神と2.5ゲームの首位で折り返し。8月9日に優勝へのマジックナンバー39が点灯。9月7日に7年連続で[[2013年のセントラル・リーグクライマックスシリーズ|クライマックスシリーズ]]進出が決定。9月22日の対広島戦(東京ドーム)の試合開始直後に、2位の阪神がヤクルトに6対7で敗れた為、この時点で巨人の2年連続35度目のセ・リーグ優勝が決定した。開幕戦以降、6月に阪神が一時首位に立った以外は、巨人は首位を譲らなかった。広島との[[2013年のセントラル・リーグクライマックスシリーズ|クライマックスシリーズ]]ファイナルステージは3連勝で日本シリーズ進出を決めた。楽天との[[2013年の日本シリーズ|日本シリーズ]]では第5戦までに2勝3敗で王手をかけられたものの、第6戦でシーズンから無敗の[[田中将大]]に、この年初の黒星をつけタイに持ち込むが、第7戦で敗れて3勝4敗で敗退した。 | [[2013年]]、開幕から球団タイ記録の7連勝。5月5日の東京ドームでの対広島戦の試合前に終身名誉監督の長嶋茂雄と巨人OBの松井秀喜の国民栄誉賞の授与式が行われている。交流戦は13勝10敗の3位。前半戦は2位の阪神と2.5ゲームの首位で折り返し。8月9日に優勝へのマジックナンバー39が点灯。9月7日に7年連続で[[2013年のセントラル・リーグクライマックスシリーズ|クライマックスシリーズ]]進出が決定。9月22日の対広島戦(東京ドーム)の試合開始直後に、2位の阪神がヤクルトに6対7で敗れた為、この時点で巨人の2年連続35度目のセ・リーグ優勝が決定した。開幕戦以降、6月に阪神が一時首位に立った以外は、巨人は首位を譲らなかった。広島との[[2013年のセントラル・リーグクライマックスシリーズ|クライマックスシリーズ]]ファイナルステージは3連勝で日本シリーズ進出を決めた。楽天との[[2013年の日本シリーズ|日本シリーズ]]では第5戦までに2勝3敗で王手をかけられたものの、第6戦でシーズンから無敗の[[田中将大]]に、この年初の黒星をつけタイに持ち込むが、第7戦で敗れて3勝4敗で敗退した。 | ||
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+ | [[2014年]]、[[4月19日]]、[[キューバ]]の国内リーグ「[[セリエ・ナシオナル・デ・ベイスボル]]」の中心選手である[[フレデリク・セペダ]]と契約。同時に球団はセリエ・ナシオナル・デ・ベイスボルとの友好関係を結ぶことを発表した。 | ||
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+ | シーズン序盤より投打ともに勢いに乗りきれず、交流戦に入る段階では首位の広島とは4.5ゲーム差の3位だったが、交流戦ではソフトバンクと優勝を争い、交流戦の最終戦でのソフトバンクとの直接対決に勝利し、2年ぶりに優勝を達成。6月を11勝5敗とし、6月8日に首位に立つと以降は首位から陥落することはなかった。8月には13勝13敗で一時は2位の阪神と0.5ゲーム差となるが、9月に入り4日にはこの年初めて優勝へのマジックナンバー22が点灯、翌日に消滅したものの、11日には16で再点灯。20日の対ヤクルト戦に勝利し、[[2014年のセントラル・リーグクライマックスシリーズ|クライマックスシリーズ]]進出を決め、優勝へのマジックナンバーを2とした9月26日の対DeNA戦(横浜)に6対3で勝利し、マジック対象チームの広島が阪神に敗れたため、3年連続通算36度目のセ・リーグ優勝が決定した。2位の阪神とのCSファイナルステージ(東京ドーム)ではCS史上初の4連敗で敗退した。 | ||
+ | 2015年はクライマックス行ったが勝てなかった。責任取って原が引退した | ||
+ | ===高橋由伸時代=== | ||
+ | 2017年はワーストの13連敗した。その後ノーヒットノーラン達成した | ||
== チーム成績・記録 == | == チーム成績・記録 == | ||
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* チームに関する記録に関してのみ記載する、所属選手・監督の個人記録に関しては各個人のページ参照。 | * チームに関する記録に関してのみ記載する、所属選手・監督の個人記録に関しては各個人のページ参照。 | ||
* 特に断りのない場合は2012年シーズンまでの数値。 | * 特に断りのない場合は2012年シーズンまでの数値。 | ||
=== 試合、勝敗、勝率に関する記録 === | === 試合、勝敗、勝率に関する記録 === | ||
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[[Image:Yomiuri Giants Ranking.png|320px|thumb|1950年以降の順位の変遷。赤い丸は日本シリーズ優勝を示す]] | [[Image:Yomiuri Giants Ranking.png|320px|thumb|1950年以降の順位の変遷。赤い丸は日本シリーズ優勝を示す]] | ||
+ | [[Image:読売ジャイアンツ1.jpg|300px|thumb|読売ジャイアンツのロゴ]] | ||
+ | [[Image:読売ジャイアンツ2.jpg|300px|thumb|読売ジャイアンツ]] | ||
+ | [[Image:読売ジャイアンツ3.jpg|300px|thumb|[[高橋由伸]](左)と[[長野久義]](右)]] | ||
* 優勝(レギュラーシーズン最高勝率) 44回(日本プロ野球記録) | * 優勝(レギュラーシーズン最高勝率) 44回(日本プロ野球記録) | ||
:(1936年秋 - 1937年春、1938年秋 - 1943年、1949年、1951年 - 1953年、1955年 - 1959年、1961年、1963年、1965年 - 1973年、1976年 - 1977年、1981年、1983年、1987年、1989年 - 1990年、1994年、1996年、2000年、2002年、2007年 - 2009年、2012年 - 2013年) | :(1936年秋 - 1937年春、1938年秋 - 1943年、1949年、1951年 - 1953年、1955年 - 1959年、1961年、1963年、1965年 - 1973年、1976年 - 1977年、1981年、1983年、1987年、1989年 - 1990年、1994年、1996年、2000年、2002年、2007年 - 2009年、2012年 - 2013年) | ||
* 日本一 22回(日本プロ野球記録) | * 日本一 22回(日本プロ野球記録) | ||
:(1951年 - 1953年、1955年、1961年、1963年、1965年 - 1973年、1981年、1989年、1994年、2000年、2002年、2009年、2012年) | :(1951年 - 1953年、1955年、1961年、1963年、1965年 - 1973年、1981年、1989年、1994年、2000年、2002年、2009年、2012年) | ||
− | * セ・パ交流戦優勝 | + | * セ・パ交流戦優勝 1回 |
− | : | + | :(2012年) |
* クライマックスシリーズ優勝 4回 | * クライマックスシリーズ優勝 4回 | ||
:(2008年、2009年、2012年、2013年) | :(2008年、2009年、2012年、2013年) | ||
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* シーズン最多連勝 15連勝(1951年7月16日 - 8月3日)※1引き分けを挟む | * シーズン最多連勝 15連勝(1951年7月16日 - 8月3日)※1引き分けを挟む | ||
* シーズン最多敗戦 80敗(2005年) | * シーズン最多敗戦 80敗(2005年) | ||
− | * シーズン最多連敗 | + | * シーズン最多連敗 13連敗(2017年年5月25日 - 6月9日) |
* シーズン最多引分 16引き分け(1978年) | * シーズン最多引分 16引き分け(1978年) | ||
* シーズン最高勝率 .769(1938年秋)(2リーグ制以降.731 1951年) | * シーズン最高勝率 .769(1938年秋)(2リーグ制以降.731 1951年) | ||
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=== チーム打撃記録 === | === チーム打撃記録 === | ||
+ | [[Image:読売ジャイアンツ4.jpg|300px|thumb|[[原辰徳]]]] | ||
+ | [[Image:読売ジャイアンツ5.jpg|300px|thumb|[[長嶋茂雄]]と[[小笠原道大]]]] | ||
* 通算本塁打 9380本(日本プロ野球記録・2リーグ制以降8941本) | * 通算本塁打 9380本(日本プロ野球記録・2リーグ制以降8941本) | ||
* シーズン最多得点 738得点(2004年) | * シーズン最多得点 738得点(2004年) | ||
275行目: | 282行目: | ||
=== チーム投手記録 === | === チーム投手記録 === | ||
+ | [[Image:読売ジャイアンツ6.jpg|300px|thumb|[[川上哲治]]と[[原辰徳]]]] | ||
+ | [[Image:読売ジャイアンツ7.jpg|300px|thumb|読売ジャイアンツ]] | ||
* シーズン最多被安打 1427本(2005年) | * シーズン最多被安打 1427本(2005年) | ||
* シーズン最多被本塁打 193本(2004年) | * シーズン最多被本塁打 193本(2004年) | ||
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* 初代マスコットはミスタージャイアンツ。[[ペットマーク]]として、当時のジャンパーの右胸部分に大きいワッペンが貼り付けられていた。ミスタージャイアンツは長嶋茂雄の太い眉、王貞治の大きな目、川上哲治の太鼓腹がモチーフになったと言われている。デザインを手掛けたのは、[[相沢光朗]]。後に[[漫画家]]の[[森田拳次]]が[[少年 (雑誌)|雑誌『少年』]]で、このキャラを主人公とする[[漫画]]([[漫画化|コミカライズ版]])を手掛けた(同年4月号〜[[1967年]]頃まで連載)。 | * 初代マスコットはミスタージャイアンツ。[[ペットマーク]]として、当時のジャンパーの右胸部分に大きいワッペンが貼り付けられていた。ミスタージャイアンツは長嶋茂雄の太い眉、王貞治の大きな目、川上哲治の太鼓腹がモチーフになったと言われている。デザインを手掛けたのは、[[相沢光朗]]。後に[[漫画家]]の[[森田拳次]]が[[少年 (雑誌)|雑誌『少年』]]で、このキャラを主人公とする[[漫画]]([[漫画化|コミカライズ版]])を手掛けた(同年4月号〜[[1967年]]頃まで連載)。 | ||
* 2代目はバットに乗りボールに帽子と顔と手足を足した「バットに乗った少年」で、1980年から1991年までの12年間の長きにわたりペットマークとして使用された。 | * 2代目はバットに乗りボールに帽子と顔と手足を足した「バットに乗った少年」で、1980年から1991年までの12年間の長きにわたりペットマークとして使用された。 | ||
− | * 3代目は1992年から使われている「[[ジャビット]]」である。これはチームのロゴマークであるYGの組み合わせに、[[ウサギ]]を絡ませたものである。ペットマークとして使用。また、着ぐるみキャラクターでは「ジャビットファミリー」として5人のキャラクターが登場する。2007年からそれぞれ個別のキャラに愛称がつけられた([http://www.giants.jp/G/gnews/news_20070407_0004.html] | + | * 3代目は1992年から使われている「[[ジャビット]]」である。これはチームのロゴマークであるYGの組み合わせに、[[ウサギ]]を絡ませたものである。ペットマークとして使用。また、着ぐるみキャラクターでは「ジャビットファミリー」として5人のキャラクターが登場する。2007年からそれぞれ個別のキャラに愛称がつけられた([http://www.giants.jp/G/gnews/news_20070407_0004.html]を参照)。 |
* 2006年からペットマークを変更、東京の街並み(東京ドームや[[東京都庁舎]]など)のシルエットの中に「G-KING」という巨人が描かれたものになった。マスコットはジャビットのままである。 | * 2006年からペットマークを変更、東京の街並み(東京ドームや[[東京都庁舎]]など)のシルエットの中に「G-KING」という巨人が描かれたものになった。マスコットはジャビットのままである。 | ||
* 2011年1月11日からペットマークを「ウイニングジャビット」に変更した。普通のジャビットを強さや格好良さのイメージを盛り込んだスマートなデザインにしたもの。 | * 2011年1月11日からペットマークを「ウイニングジャビット」に変更した。普通のジャビットを強さや格好良さのイメージを盛り込んだスマートなデザインにしたもの。 | ||
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* 2002年 - 2003年 : '''[[原辰徳]]''' | * 2002年 - 2003年 : '''[[原辰徳]]''' | ||
* 2004年 - 2005年 : [[堀内恒夫]] | * 2004年 - 2005年 : [[堀内恒夫]] | ||
− | * 2006年 - : '''原辰徳''' | + | * 2006年 -2015年 : '''原辰徳''' |
+ | 2016年から。高橋由伸 | ||
※'''太字'''は優勝達成監督<br/> | ※'''太字'''は優勝達成監督<br/> | ||
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=== 疑惑の本塁打 === | === 疑惑の本塁打 === | ||
1990年の開幕戦・ヤクルトスワローズとの地元・東京ドームでの試合で、[[篠塚和典|篠塚利夫]]が[[内藤尚行]]から放った打球が、1塁[[塁審]]を務めていた[[大里晴信]][[プロ野球審判員|審判員]]によってホームランと判定された。この判定に対して、「打球はライトポールより前方で通過し、ファールスタンドへ入った。」と、ヤクルト[[野村克也]]監督は抗議したが、判定が覆ることはなかった。同日放送された各局の[[スポーツニュース]]ではこの打球の[[ビデオテープレコーダ|VTR]]を再三放送し、「打球はライトポールより前方で切れ、ファールスタンドへ入った。」と結論付けるものが多かった。この年からセントラル・リーグでは[[外審|外野審判]]を廃止して4人制で行っていた。この疑惑後、東京ドームのポールは打球がわかるように黄色に塗装され、その後オレンジ色に変更された。 | 1990年の開幕戦・ヤクルトスワローズとの地元・東京ドームでの試合で、[[篠塚和典|篠塚利夫]]が[[内藤尚行]]から放った打球が、1塁[[塁審]]を務めていた[[大里晴信]][[プロ野球審判員|審判員]]によってホームランと判定された。この判定に対して、「打球はライトポールより前方で通過し、ファールスタンドへ入った。」と、ヤクルト[[野村克也]]監督は抗議したが、判定が覆ることはなかった。同日放送された各局の[[スポーツニュース]]ではこの打球の[[ビデオテープレコーダ|VTR]]を再三放送し、「打球はライトポールより前方で切れ、ファールスタンドへ入った。」と結論付けるものが多かった。この年からセントラル・リーグでは[[外審|外野審判]]を廃止して4人制で行っていた。この疑惑後、東京ドームのポールは打球がわかるように黄色に塗装され、その後オレンジ色に変更された。 | ||
+ | |||
+ | === 巨人CS敗退の夜に坂本と澤村が六本木合コン。阪神選手も同席(2014年10月) === | ||
+ | 大差で[[セ・リーグ]]優勝を果たしたものの、[[クライマックスシリーズ]](CS)ではあっけなく[[阪神]]に4連敗した巨人。 | ||
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+ | その「戦犯」でもある[[坂本勇人]](25)と[[澤村拓一]](26)の2人がCS敗退が決まったその夜、[[六本木]]のクラブで豪遊していた様子を[[10月27日]]発売の[[週刊ポスト]]が報じている。 | ||
+ | |||
+ | 都心最大級の面積を誇る東京・六本木のクラブに坂本と澤村が連れ立って現れたのは[[10月18日]]の深夜。一般客は利用できない特別VIPルームに陣取った。 | ||
+ | |||
+ | 「女の子が3人ほどいましたね。ま、つまりは合コンでした。落ち込んだ様子もなく、楽しそうに[[シャンパン]]や[[ウォッカ]]をあおっていましたよ」(クラブの常連客) | ||
+ | |||
+ | しかも、この合コンには試合を終えたばかりの阪神の選手2人も同席していた様子で、「ひとりは[[伊藤隼太]]選手(25)でした」(男性客)とのこと。敗戦直後に「夜のクライマックスシリーズ」とはG党が聞いたら卒倒する話だろう。 | ||
+ | |||
+ | 坂本は空気を読んだのかVIPルームから出てくることはなかったというが、この夜の澤村はシーズンやCSのマウンド上とはうってかわって絶好調。誌面では、深酔いして“暴投”する様子がその場に居合わせた客らの証言で再現されている。 | ||
+ | ====野球賭博==== | ||
+ | 2015年に福田が野球賭博した。いろんな野球賭博したとのこと。10月6日のビビッドで放送された | ||
+ | 翌年3月に高木がした事明らかになった。責任取ってなべつねやめた | ||
+ | 3月9日に高木が会見した。各ニュースで放送された | ||
== キーワード == | == キーワード == | ||
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=== 最下位転落で大集会が開かれる === | === 最下位転落で大集会が開かれる === | ||
− | + | [[1975年]]に球団史上初となる最下位に転落したが、それ以前にも途中経過だが最下位に沈んでいたシーズンがあった。そのため、この年のシーズン中に[[日本雑学協会]]の主催で「長嶋巨人を励ます緊急大集会」を、当時の練習場である多摩川グラウンドで開いたという逸話が残っている。巨人ファンの思いをプラカードや横断幕に書いてデモ行進するもので、前年まで巨人応援のためのデモが開かれたケースは無かったため、大きな話題となった。 | |
結局、大集会の甲斐もなく低空飛行のままペナントレースを終えた。 | 結局、大集会の甲斐もなく低空飛行のままペナントレースを終えた。 | ||
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* ばっくれ一平!([[竜崎遼児]]) | * ばっくれ一平!([[竜崎遼児]]) | ||
* [[消えた巨人軍]]([[西村京太郎]]) | * [[消えた巨人軍]]([[西村京太郎]]) | ||
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== 参考文献 == | == 参考文献 == | ||
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[[Category:読売新聞|しやいあんつ]] | [[Category:読売新聞|しやいあんつ]] | ||
[[Category:読売グループ|しやいあんつ]] | [[Category:読売グループ|しやいあんつ]] | ||
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2019年4月2日 (火) 19:37時点における最新版
読売ジャイアンツ(読売巨人軍)は、日本のプロ野球球団。セントラル・リーグに所属する。日本に現存する12球団の中で最も歴史が長いプロ野球球団である。親会社は読売新聞グループ本社。運営法人の商号は「株式会社読売巨人軍」である。
東京都を保護地域とし、都内文京区にある東京ドームを専用球場(本拠地)としている。また、二軍(イースタン・リーグ所属)の本拠地は神奈川県川崎市多摩区にある読売ジャイアンツ球場である。
目次
球団の歴史[編集]
誕生[編集]
1931年、読売新聞社社長の正力松太郎が中心となってアメリカ大リーグ選抜軍を日本に招待し、全日本軍や六大学を中心とした強豪大学チームとの試合を行い興行は成功を収めた。これを受けて正力は再度の大リーグ選抜軍の招待、特に前回叶わなかったベーブ・ルースの招聘を目論んだ[1]が、そこに1つの問題が発生した。1932年に文部省(当時)が発令した野球統制訓令である。当時の日本は大学野球全盛であったがこの統制令によってメジャーリーグ選抜を招聘したとしても大学チームを対戦相手とすることはできなくなった。
市岡忠男、浅沼誉夫、三宅大輔、鈴木惣太郎の4人は、その対策として職業野球チームを結成することを正力に働きかける。その結果1934年6月9日、日本工業倶楽部で「職業野球団発起人会」が開かれ6月11日には創立事務所が設けられた。平行して選手獲得も行われプロ契約第1号選手として6月6日付で三原脩、第2号選手として6月15日付で苅田久徳を獲得するなどチームが形作られていった。この時日米野球の期間中のみ契約するという選手と日米野球後に発足する職業野球団とも契約するという選手とがあった。
1934年10月15日、千葉県の谷津海岸に新設された谷津球場に30名の選手が集まりチームは結成され11月2日、横浜にメジャーリーグ選抜軍が来日し全日本軍と全国で親善試合興行を行った。試合は全日本軍の15戦全敗(他に対全東京が1試合、日米混合が2試合)で試合内容も圧倒的だったものの、ベーブ・ルース、ルー・ゲーリッグらを擁した全米軍は読売新聞の報道もあって大きな注目を集めた。この時の1試合が草薙球場にある沢村栄治像とベーブ・ルース像の元となる、沢村が1失点完投した試合である。12月26日に全日本軍の選手を中心にした選手19名で株式会社大日本東京野球倶楽部(だいにっぽんとうきょうやきゅうくらぶ)が結成された。
1935年1月14日から2月3日まで草薙球場で練習を重ね、2月14日第1次アメリカ遠征に出発する。当時の選手ら総勢18人で秩父丸に乗船し横浜港からアメリカに向けて出発。当時日本とアメリカはフェリーで2週間以上の期間を要したので、選手たちは船上でも試合に向けての練習をこなした。当初は『大日本東京野球倶楽部』と名乗る予定だったが、現地マネジャーのフランク・オドールから「『大日本東京野球倶楽部』はわかりにくい」という指摘を受けることになる。元ジャイアンツであったオドールはトーキョージャイアンツという名前を薦め、結局その名称がつかわれることになった。トーキョージャイアンツは全米各地で128日間109試合(ダブルヘッダー17日34試合含む)という日程を戦った。主な対戦相手は大リーグのマイナークラスのチーム。最初は物珍しもあって観客が集まったものの徐々に減少。その為ダブルヘッダーを開催することで、ファン確保を狙ったが、選手らは体力の負担を強いられるとして反対意見も相次いだという。75勝33敗1引き分けの好成績でアメリカ遠征は終了した。
帰国後、大日本東京野球倶楽部の名称問題が再燃する。ジャイアンツという名前を使い続けるか、それとも金鵄勲章から名を取った「金鵄軍」に変えるかというもので、最終的に正力はジャイアンツという名前を選んだ。翌1936年にジャイアンツを巨人と訳した東京巨人軍(とうきょうきょじんぐん)に正式改称する。これが巨人軍の始まりである。7月16日に帰国し9月6日からは国内各地を転戦する。これが翌年以降の職業野球団の相次ぐ結成の契機となった。
戦前期[編集]
1936年2月5日、日本職業野球連盟が結成され、9日には、名古屋市郊外・鳴海球場で開かれた名古屋金鯱軍との対戦は現在の日本野球機構にあたる職業野球連盟に所属するチーム同士が行った初めての試合である。この試合は巨人軍の2回目のアメリカ遠征の壮行会と金鯱軍の結成記念を兼ねたもので、第1試合は金鯱軍に3対10で敗れたが、翌日行われた第2戦、第3戦は巨人が連勝した。この直後の2月14日に前年に続き、第2次アメリカ遠征に出発。アメリカでは1次と同じくマイナーリーグクラスのチームを相手に10州を巡回して89日間で76試合を行い、対戦成績は42勝33敗1分であった。春には日本国内で初の職業野球リーグが開始されたが、巨人は上記のアメリカ遠征のため春季大会を欠場し夏季大会から参加。7月5日に大東京戦に勝利して、公式戦球団初勝利。この夏季大会で計2勝5敗と惨敗を喫し、9月5日より群馬県館林市の茂林寺・分福球場で緊急キャンプを張った。猛練習は「茂林寺の千本ノック」という名で知られる。1936年の秋季大会は6回の小規模リーグ戦の勝ち点制で開催され5回目のリーグ戦までリードしていたが6回目のリーグ戦で大阪タイガースに並ばれる。9月25日には沢村栄治が対大阪戦において、日本プロ野球史上初のノーヒットノーランを達成。洲崎球場で3戦制の優勝決定戦を行い、12月11日に第3戦に勝利して2勝1敗で大阪を下し公式戦初優勝球団に輝いた。
1937年9月11日には後楽園球場が開場、以来実質的な本拠地として使用する。春季戦は7月11日に対東京セネタース戦(後楽園)に勝利して前年に続く2季連続優勝を達成。秋季戦は首位大阪に9ゲーム差の二位で初めての優勝を逃す。戦前は巨人と大阪の二球団で優勝を分け合うことになった。
1939年より年間通じてのリーグ戦となり、11月9日の対南海戦(後楽園)に勝利して2季連続優勝。1月と12月の2度に渡ってマニラ遠征を行っている。1940年年、9月13日には戦局悪化の影響で、連盟より英語禁止の通達が出て、ジャイアンツのニックネームを使わず、ユニフォームのマークが「G」から「巨」に改められている。11月10日の対阪神戦(後楽園)に勝利し、3季連続優勝。1941年は10月29日の対阪神戦(後楽園)に勝利して4季連続優勝。1942年は11月1日の対阪急戦(甲子園)に勝利して、5季連続優勝。1943年は10月31日の対名古屋戦(後楽園)に勝利して、6季連続優勝。徴兵により3季ぶりの復帰となった沢村栄治は10月24日の対阪神戦での代打出場を最後に、翌1944年シーズン前に解雇されており、同年3度目の徴兵を受けて12月2日に戦死。
1944年11月10日に野球試合不可能として会社は存続するものの営業が中止され、球団は解散となった。11月13日には国の指導により日本野球連盟が改称していた日本野球報国会がプロ野球の一時休止声明を発表し戦前のプロ野球は終わった。
1937・1938年戦前は11シーズンで8度の優勝を果たし、3度のノーヒットノーランを達成した沢村、42勝をあげたヴィクトル・スタルヒン、2度のノーヒットノーランを達成した中尾碩志、連続無失点記録62回、シーズン防御率0.73(日本記録)を記録した藤本英雄、職業野球契約選手第一号であった三原脩、日本プロ野球史上初の2桁本塁打や三冠王(1965年にプロ野球実行委員会で認定)を記録した中島治康らを擁して第1次黄金時代を築いた。
戦後期[編集]
1946年のリーグ戦再開より参加、この年はグレートリングと1ゲーム差の2位に終わる(松竹ロビンス#没収試合第1号も参照)。1947年には読売新聞社が経営に当たることとなり、球団名を東京読売巨人軍に改称、ニックネームを読売ジャイアンツとする。南海ホークスの台頭や、戦後の混乱で戦力確保への苦慮があり1947年に球団史上初めて勝率5割を切るなど再開から3シーズン続けて優勝を逃すが、監督・三原脩や「赤バット」の川上哲治、千葉茂、青田昇をはじめとする第1次黄金時代の選手が戦地から帰国しチームに復帰、また1948年オフには南海の別所毅彦を獲得するなどして徐々に戦力が充実。1リーグ最後の1949年には戦後初優勝を飾った。1947年6月23日に黒沢俊夫が死去、黒沢の背番号4と、戦死した沢村栄治の14番は日本プロ野球界初の永久欠番となった。1949年シーズンオフ、日本プロ野球はセントラル・リーグ、パシフィック・リーグに分裂、2リーグ制となり、巨人はセ・リーグに所属することになる。
水原監督時代[編集]
1950年に復帰した水原茂を監督に据えて、リーグ分立1年目は8球団中3位。同年に獲得した与那嶺要の活躍もあって2リーグ分裂後初優勝。1952年、1953年もリーグ優勝し、3連覇を達成。日本シリーズでは1リーグ時代からの宿敵・南海ホークスを3年連続で下し、日本シリーズ3連覇を達成。第2次黄金時代を築き上げた。1952年8月8日、対広島11回戦の勝利で日本プロ野球史上初の公式戦通算1000勝。1953年には初めての海外キャンプをサンタマリアで行う。このシーズンは、開幕から1回も首位から転落する事なく優勝し、シーズンを通しての首位完全独走で優勝したのは球団史上唯一の記録である。
1954年、杉下茂擁する中日ドラゴンズが優勝し、2位となるが、1955年にはリーグ優勝。日本シリーズでは南海との対戦となり、1勝3敗から3連勝。4勝3敗で逆転日本一を達成する。この頃から第2期黄金時代を支えた千葉茂、川上哲治らに衰えが目立ち始め、水原は新旧交代をしなければならなくなった。
翌1956年もリーグ優勝を果たし、日本シリーズでは水原茂と入れ替わりに巨人を退団した三原脩が監督で率いる西鉄ライオンズとの対決となる。以後日本シリーズでは、3年連続で巨人は西鉄との対決となり、両者の戦いは「巌流島の決戦」とマスコミに喧伝された。1958年、この年は立教大学から長嶋茂雄が入団し、初年度から3割29本37盗塁の活躍を見せる。日本シリーズでは、第1戦から3連勝するも、第4戦から稲尾和久の力投などで4連敗を喫し、3勝4敗の逆転で3年連続で西鉄に敗退。この年限りで川上哲治が現役引退している。
1959年6月25日の阪神11回戦(後楽園)はプロ野球史上初めての天覧試合となった。この試合で王・長嶋がはじめて二人ともホームランを打ち(ONアベック弾第1号)、9回ウラには長嶋が阪神・村山実からこの日2本目となるサヨナラホームランを放ち、5-4で勝利を収めた。
1959年もリーグ優勝を果たし4連覇、しかし日本シリーズでは南海ホークスと対戦。南海のエース・杉浦忠の前に打線が沈黙、4連敗で敗退。
1960年は、三原脩が当時6年連続で最下位だった大洋ホエールズの監督に就任し、再び「巌流島の対決」と呼ばれる。大洋は三原の手腕によって巨人と優勝争いを演じ、ついに巨人を破ってリーグ優勝。巨人は大洋と4.5ゲーム差の2位に終わった。シーズン終了後、水原茂は監督を勇退した。
川上監督時代[編集]
1961年、川上哲治がヘッドコーチから昇格して監督に就任する。就任1年目ながら打率と本塁打の二冠を獲得した長嶋を中心に2位中日と1ゲーム差でリーグ優勝、日本シリーズでも南海を破って6年ぶりに日本一を達成。しかし1962年にはこの年から一本足打法を始めた王が本塁打王と打点王を獲得したが、長嶋の低迷と投手の駒不足もあって混戦のセ・リーグで勝率.515ながら4位、2リーグ分立後初めてのBクラスに終わる。1963年には長嶋の復活と前年は2名に留まった二桁勝利投手を5名出すなど投手陣が安定してリーグ優勝、日本シリーズではこれまでの対戦でいずれも勝利することができなかった西鉄に4勝3敗で勝利し、日本一になる。1964年は一転して、阪神と大洋の首位争いに加わることができず、優勝した阪神と11ゲーム差の3位に終わる。
1963年には王と長嶋で打撃三部門だけでなく打点と本塁打の2位までをも占め、1964年は王がシーズン記録となる55本塁打を記録するものの、3位に終わる。この頃から巨人の3、4番に固定された(両名の打順は流動的だった)王と長嶋はON砲と呼ばれ、実力、人気ともに特別な存在となっていた。また牧野茂、荒川博ら他球団出身のコーチが招かれ、1965年には金田正一が国鉄から10年選手制度を利用して移籍した。
9年連続日本一[編集]
1965年から1973年まではペナントレース及び日本シリーズ9連覇を果たす。この時期は、一般的に「V9」と呼ばれる。
この間、巨人はカラーテレビ普及による露出増加も相まって絶大な人気を博し、俗に当時の子供が好きなものを表した「巨人、大鵬、卵焼き」は流行語となった。また、同時期に連載が開始し、後にアニメ化もされた漫画『巨人の星』や『侍ジャイアンツ』も人気を集め、プロ野球選手、特に巨人軍の選手という職業は当時の子供たちの憧れの職業となった。
V9の間、最優秀選手を王は5回、長嶋は3回受賞している。また、川上監督や牧野ヘッドコーチのもとでロサンゼルス・ドジャースの戦術(スモールボール)を取り入れた。またON以外にも、金田正一・城之内邦雄・堀内恒夫・高橋一三、渡辺秀武などの投手や、森昌彦、土井正三、黒江透修、柴田勲、末次利光、高田繁などの選手が揃っていた。
しかし、V9期後半になると長嶋など主力選手の高齢化と若手の台頭不足があり、徐々に苦戦することが多くなった。1973年には湯口事件が露見。球団の工作や川上の非人道発言が次々に社会的バッシングを受け、以降プロ野球界においてヒールのイメージが付きまとうことになる。
1974年、中日ドラゴンズに20年ぶりのリーグ優勝を許し、V10を逃す(この年のチーム成績は、優勝した中日とゲーム差なし、勝率1厘差の2位)。この年を最後に川上が監督を勇退し、同時に長嶋茂雄、黒江透修、森昌彦も現役を引退した。
第1次長嶋監督時代[編集]
1975年、前年に引退した長嶋茂雄が監督に就任。「クリーン・ベースボール」のキャッチフレーズを挙げたが自身の穴を埋められず、開幕6試合目で最下位に転落するとそのまま浮上することが出来ず、全球団に負け越した上に9月には球団史上新記録11連敗で球団史上初の最下位に終わる。その年のオフに日本ハムから張本勲、太平洋から加藤初をトレードで補強、翌1976年には前年の最下位から一転してリーグ優勝を果たす[2]。しかし、日本シリーズでは、阪急ブレーブスに3勝4敗で敗れる。
1977年9月3日、王貞治がハンク・アーロンを抜く通算本塁打756本の世界新記録を樹立。チームも独走状態で2年連続でリーグ優勝を果たす。日本シリーズでは2年連続で阪急と対戦するが1勝4敗で2年連続敗退。
1978年はヤクルトと優勝争いを繰り広げる。8月末に2位のヤクルトに4.5ゲーム差をつけ首位に立っていたが、9月以降成績が急降下、ヤクルトに逆転を許し2位に終わる。このときの戦いぶりから長嶋に対して監督としての資質に、次第に疑問が投げかけられてゆくようになる。そして1978年オフ、当時法政大学の江川卓の獲得を巡って、いわゆる江川事件が起きる。最終的には1979年2月に、江川がいったん阪神タイガースに入団し、その直後に小林繁と交換トレードをする事で決着がつく。だが、この江川事件はマスコミの総攻撃を受けることになった。
1979年は5月まで首位に立ったものの、6月以降は成績が次第に降下していき、Bクラス5位に終わる。一方で中畑清が3塁のレギュラーを獲得するなど若手の台頭も若干見られるようになる。同年オフに、青田昇がヘッドコーチに就任し、伊東での秋季キャンプでは松本匡史、中畑清、江川、西本聖、角三男らを猛練習で特訓した。後に「地獄の伊東キャンプ」として語られていく。
1980年は開幕早々ペナントレースから脱落し、長嶋茂雄に対する批判はこれまでにないほど高まっていった。シーズン後半から若手を起用して5割Aクラスを確保した。しかしながら、2リーグ分立後では球団史上初となる3年連続V逸であり、10月21日長嶋はチームの不振の責任を取って「男のケジメ」という言葉を残し辞任する。当日スポーツニッポンが「長島解任」とスクープ報道したように、読売新聞の幹部により事実上の解任だった。この動きに対してファンは激怒し、読売新聞・報知新聞(スポーツ報知)の購読打ち切りを行うファンが続出した。同年オフ、王も現役を引退、巨人一筋22年の現役生活にピリオドを打った。
藤田・王監督時代[編集]
第1次藤田監督時代[編集]
1981年、藤田元司が監督に就任、また、前年に現役引退した王貞治が助監督に就任。藤田元司、王貞治、牧野茂(ヘッドコーチ)による「トロイカ体制」が誕生。この年20勝の江川卓、18勝の西本聖、11勝の定岡正二、12勝の加藤初ら先発4本柱を形成し4年ぶりのリーグ優勝。日本シリーズでは、巨人と同じく後楽園をフランチャイズにする日本ハムファイターズと対戦。4勝2敗で8年ぶりの日本一を達成。江川が史上5人目の投手5冠王(最優秀防御率、最多勝、最多勝率、最多奪三振、最多完封)、西本は沢村賞、角三男が最優秀救援投手を獲得するなど、投手タイトル独占を達成、藤田監督の投手中心の守りの野球の成果が十分に発揮された。打者ではルーキーの原辰徳が新人王を獲得、篠塚利夫が3割5分7厘の高打率をマークして阪神の藤田平と首位打者争いをするなど若手の台頭が目立った。
1982年は、10月まで中日との優勝争いを繰り広げるも、優勝した中日と0.5ゲーム差の2位となっている。
1983年、松本匡史が盗塁王(このときの盗塁76はセリーグ記録)、原辰徳が打点王(103打点)を獲得するなどしてリーグ優勝するが、日本シリーズでは西武ライオンズと対戦、3勝4敗で敗れる。
1981年から1984年で投手陣の中心となったのは江川卓、西本聖、定岡正二である。西本は愛媛県立松山商業高等学校からドラフト外で入団したものの、持ち前の反骨心で同年齢の定岡、法政大学から入団した江川と肩を並べるまでに成長した。藤田の監督在任時の成績は、江川55勝(20-19-16)、西本48勝(18-15-15)、定岡33勝(11-15-7)の成績を残している。
王監督時代[編集]
藤田監督退任後の1984年から1988年までの5年間は、藤田政権の「トロイカ体制」で助監督を務めていた王貞治が監督として指揮をとるが、1984年・3位→1985年・3位→1986年・2位(優勝した広島とゲーム差なし、勝率3厘差)→1987年・優勝→1988年・2位と1987年に1度優勝したのみで、同年の日本シリーズは西武に2勝4敗で敗退。1988年には本拠地が後楽園球場から東京ドームへと変わったが、吉村禎章やウォーレン・クロマティのリタイアが響いて結果は2位、優勝した中日に12ゲーム差をつけられる。王はこの年限りで監督を引責辞任。
1987年、二軍がこの年から始まったファーム日本選手権の初代日本一に輝く。
第2次藤田監督時代[編集]
1989年、藤田元司が監督に復帰。斎藤雅樹(20勝・防御率1.62)、桑田真澄(17勝・防御率2.60)、槇原寛己(12勝・防御率1.79)と三本柱が機能し、チームは2位の広島に9ゲーム差をつけリーグ優勝を達成する。1989年の日本シリーズでは近鉄バファローズに3連敗を喫した後、4連勝し逆転で17回目の日本一に輝く。
1990年、2年連続20勝した斎藤を筆頭に桑田・宮本和知(各14勝)、木田優夫(12勝)、香田勲男(11勝)と5人が二桁勝利を挙げ、完投数が70(130試合中)という先発投手中心のチームでペナントをリードし、9月8日の対ヤクルト戦(東京ドーム)で、吉村のプロ野球史上初となるサヨナラ優勝決定ホームランにより史上最速で2年連続のリーグ優勝を果たす。2位・広島とのゲーム差を22ゲーム付けた。しかし、西武と対戦した日本シリーズでは、0勝4敗で敗退している。
1991年は、投手陣では桑田が16勝を上げる大活躍をしたものの桑田以外の先発陣が全く貯金が作れず、更にリリーフ陣が深刻で最多セーブは水野の3つであった。投手陣の不調者が多く、打撃陣もクリーンナップの数字は出ているが勝利に結びつかず他の打者の不振も響き、1979年以来12年ぶりのBクラスとなる4位に転落した。シーズン終了後、近藤昭仁ヘッドコーチ・松原誠打撃コーチが、不振の責任を取る形で退団した。
1992年、序盤の不調が響き、5月には最下位に転落する。特に去年の勝ち頭桑田が出れば打たれるの繰り返しで結局シーズンを通して尽く連勝ストッパーになってしまっていた。しかしシーズン途中に西武から移籍の大久保博元と新外国人にロイド・モスビーの加入、石毛博史がリリーフエースとして頭角を現したこと等により大快進撃で、前半戦が終了する頃には首位に立った。しかし8月に入ると失速し、終盤のヤクルト・阪神・広島との大混戦の優勝争いの結果、最終的には阪神と同率2位になるも2年連続のV逸が決定。この年限りで藤田は監督を勇退。後任には長嶋茂雄が13年ぶりに復帰。同年のドラフト会議で注目されていた松井秀喜の交渉権を阪神・中日・ダイエーとの競合の末獲得。
1989年から1992年で投手陣の中心となったのは斎藤雅樹、桑田真澄、槙原寛己。斎藤は安定感、桑田は投球術、槙原は球威と、それぞれ違った持ち味を発揮して白星を積み上げていった。藤田の監督在任時の成績は、斎藤68勝(20-20-11-17)、桑田57勝(17-14-16-10)、槙原40勝(12-9-9-12)の成績を残している。
第2次長嶋監督時代[編集]
1993年、現役大リーガーのジェシー・バーフィールドやヤクルトから長嶋監督の長男・一茂を獲得して3年ぶりのリーグ優勝を期待されたが、打撃陣の不振から3位に終わった。オフに、この年から導入されたフリーエージェント (FA) 制度によりFA宣言をした中日の落合博満を獲得する。その一方駒田徳広が同様にFA宣言を行って横浜へ移籍する。その横浜からは自由契約になった屋鋪要を獲得した。
1994年、開幕戦で松井・落合のアベックホームランが出てその勢いで前半は首位独走したが、夏場に失速。終盤最大10ゲーム差をつけていた2位・中日が猛烈な勢いで追いつかれ、シーズン最終戦(10月8日の対中日戦(ナゴヤ球場)、いわゆる「10.8決戦」)が優勝決定戦となった。史上初の同率チーム同士による最終試合での首位決戦という優勝決定戦は日本全国の注目を集め、各マスコミでも大きく報道。長嶋監督は「国民的行事」と称した。その試合を槙原寛己、斎藤雅樹、桑田真澄の当時のエース「三本柱」の継投で、リーグ優勝を達成。日本シリーズでは、4勝2敗で初めて西武ライオンズを破って日本一に輝く。
1995年、近鉄の阿波野秀幸を香田勲男との交換トレードで獲得。また広島の川口和久、ヤクルトの広沢克己をFAで獲得、また同じヤクルトを自由契約となったジャック・ハウエル、ミネソタ・ツインズのシェーン・マックを獲得し30億円補強と呼ばれものの。阿波野は未勝利、川口負けが先行でローテーションを守れず、広澤はチャンスで打てずまた6年ぶりの本格的な外野守備また初のレフトコンバートが慣れず守備でも足を引っ張ってしまった。斎藤は18勝で最多勝・槙原は12勝をあげローテーションを守ったが桑田が序盤戦でプレイ中に大怪我をしてしまい、翌シーズンも全休してしまった。抑え投手も木田・石毛が連日痛打を浴びて敗戦。投打に渡り歯車が噛み合わず優勝争いからどんどん後退していたが、河原純一、西山一宇、後藤孝志、杉山直樹等生え抜きの若手を使い出してからチームの歯車が噛み合い連勝を重ね最終的には貯金14個作ったが優勝したヤクルトには尽く負けてしまい、結局優勝争いに加わることができず、優勝したヤクルトと10ゲーム差のシーズン3位で終わった。同年の最終戦で原が現役を引退。
1996年、桑田の全休、槙原・河原のシーズン途中リタイアがあり、更にシーズン序盤にリリーフ陣が崩壊し序盤Bクラスに落ちていたが、斎藤・新外国人のバルビーノ・ガルベスが共に16勝を上げ最多勝を獲得、またシーズン中に補強しリリーフエースになったマリオ・ブリトーや松井が1本差で本塁打王は逃したが主軸として大活躍。ルーキーの仁志敏久・清水隆行が活躍し世代交代も見事に決まった。リーグ史上最大の11.5ゲーム差をはね返してリーグ優勝を成し遂げた。「メークドラマ」とはこの年の大逆転を指すことが多い。日本シリーズではオリックス・ブルーウェーブと対戦。1勝4敗で敗れた。オフで長嶋一茂が戦力外通告を受け、引退。
1997年、西武から清原和博がFA権を行使して入団。松井とともに、ON(王・長嶋)以来の強打者コンビ「MK砲」として期待された。この際、清原に押し出されるように落合が「長嶋監督を悩ませることはできない」と異例の会見を開いて日本ハムに移籍。ロッテを自由契約となったエリック・ヒルマンを獲得し95年の30億円を超える33億円補強を行ったが、開幕戦で3年連続開幕戦完封勝利をあげていた斎藤がノックアウトたのをきっかけにヒルマンを含め主力選手に故障者・不調者が続出。桑田の復活しカムバック賞を獲得、松井が本塁打王を争いを繰り広げていたが一向にチームが浮上できず夏場まで最下位に沈み大苦戦。優勝争いから脱落してから調子を上げ最終順位は1991年以来6年ぶりのBクラスとなる4位、第二次長嶋政権では初の借金でのシーズンを終了した。同年オフにはドラフト1順目で高橋由伸が入団。
1998年、開幕戦、前年見事にカムバックした桑田が勝ち投手になりスタートダッシュに成功。松井、ルーキー高橋由伸の活躍もあり横浜や中日との首位争いを繰り広げるが、前半戦の勝ち頭趙成珉がオールスターゲームで右肘を故障。さらにガルベスが7月31日の対阪神戦(阪神甲子園球場)において審判に対しボールを投げつける暴挙でチームから離脱するなどアクシデントが響き3位に終わる。松井が2年連続1本差で逃した本塁打王獲得。更に打点王、最高出塁率のタイトルも獲得。
1999年、村田真一や広澤の離脱、後半戦は清原の故障によるシーズン離脱などもあったが、20勝を上げた新人の上原浩治や前年西武を解雇されドミンゴ・マルティネスをシーズン途中に獲得し清原の穴を埋める見事な活躍もあり2位となったがチームの貯金は15個。上原の貯金が16と上原以外の投手陣に課題の残るシーズンとなった。シーズンオフ、広澤が自由契約となり阪神に移籍。
2000年、20世紀最後の年、FA宣言をしていたダイエーの工藤公康と広島の江藤智、さらに阪神のダレル・メイを獲得するなど大補強を敢行。長嶋監督は、江藤に背番号33を譲り自らが現役時代に付けていた背番号3を25年ぶりに復活させた。松井が4番として定着、5番にマルティネス・清原、6番に高橋由を擁した打線はシーズンで投打ともに他を圧倒。投手陣も工藤・メイ・ルーキーの高橋尚成の左3枚がしっかりローテーションを守る。9月24日の対中日戦(東京ドーム)では、0-4で迎えた9回裏に江藤の満塁本塁打で同点に追いつき、直後に二岡がサヨナラ本塁打を放ち4年ぶりのリーグ優勝を劇的に決めた。結果的には2位中日に8ゲーム差をつけた。日本シリーズの相手は、長嶋と共にV9時代の主軸を担った王貞治が1995年から率いる福岡ダイエーホークスで、2連敗からのスタートだったが、その後シーズンで不本意な結果だった上原・斎藤の奮闘もあり4連勝。4勝2敗で19回目の日本一を達成し20世紀の最後を締めた。
2001年は、シーズン終盤までヤクルトと優勝を争ったが2位に終わる。同年限りで長嶋監督は勇退し、「終身名誉監督」に就任した。それと同時に槙原寛己、斎藤雅樹両投手そして村田真一捕手が引退した。監督の後任は、ヘッドコーチの原辰徳。
第1次原監督時代[編集]
2002年、原辰徳が監督に就任。原監督と鹿取義隆ヘッドコーチは投手陣を立て直し、1年目でセ・リーグの全球団から勝ち越してのリーグ優勝を果たす。また、日本シリーズでも西武を相手に球団史上初の4連勝のストレートで日本一に輝いた。シーズンオフに松井秀喜がFA権を行使して大リーグ・ニューヨーク・ヤンキースへ移籍。
2003年、松井に代わる大砲としてヤクルトからロベルト・ペタジーニを獲得。原監督は守備位置の問題を解決できず、鹿取コーチは一任されていた投手陣が崩壊し整備できず3位に終わった。6月27日には球団史上初めて6月での自力優勝消滅を記録、シーズン終盤には9連敗を喫するなど、優勝した阪神に15.5ゲーム差をつけられた。またこの頃から巨人戦視聴率の大幅な低下が起こり始めた。
そして9月26日、原は責任を取り監督を辞任した。辞任をするにあたってのセレモニーも行われなかった。辞任に関して、原監督と渡邉恒雄オーナーとの確執がマスメディアに報じられた。この混乱が原因で川相昌弘がコーチ就任要請を辞退して現役引退も撤回、中日に移籍した。
堀内監督時代[編集]
2004年からはV9時代のエース堀内恒夫が監督に就任。生え抜きの高橋由伸らに加え、前年までで近鉄との契約が終わったタフィ・ローズ、ダイエーから膝の靭帯を断裂した後出場のなかった小久保裕紀を獲得した。かねてより所属する清原和博、ペタジーニ、江藤智などのさまざまな球団で活躍した4番打者が1チームに顔をそろえるという超重量打線となった。長嶋終身名誉監督に「史上最強打線」と名付けられた打線は、事実この年に年間259本塁打のプロ野球新記録を樹立。
しかし、防御率の低下により成績は前年と同じ3位だった。近鉄・オリックスの合併問題に端を発したプロ野球再編問題では、球団スカウトが行った明治大学・一場靖弘投手への不正な金銭授受の責任を取り渡邉恒雄がオーナー職を辞任した。
2005年、ポジション争いをやめさせ、打順を固定する事により1年を戦う打線として「不動明王打線」と名付けたが、高橋由伸、二岡智宏らが軒並み故障。この年から始まった「セ・パ交流戦」では4位(セ・リーグでは阪神に次いで2位)と好調だったものの、投手陣の崩壊やチームの空中分解により、8年ぶりにBクラスの5位に終わった。また、原監督辞任騒動から巨人人気が一気に下降した影響により、観客動員数の減少やテレビ視聴率の低下が起こった。そのため日本テレビでも巨人戦中継の延長が中止されたりその他の放送局でも延長時間の短縮・中止や深夜枠での録画・ダイジェスト版放送に差し替えが起きた。この低迷によって2005年シーズン中からストーブリーグを見越した活動が表面化し、成績不振と怪我の重なったローズや清原が8月頃からチーム編成からはずれ、また初の他球団出身監督として阪神の星野仙一シニアディレクターの名前があがった。星野招聘の報道が表面化すると球団出身者のみが監督となってきた伝統を崩すことに一部OBやファンが反発。星野は9月10日に会見を開き、阪神に残留することを表明した。10月5日、堀内は成績不振の責任を取って任期を1年残し退任し、翌年からの新監督として原辰徳が2年ぶりに復帰することを正式に発表した。
第2次原監督時代[編集]
第1次では同じ時期に巨人で現役として活躍した選手が中心であったコーチ陣容を組んだ原監督だが、第2次では彼らに加えて他球団での豊富な経験のある人材を求めた。ヘッドコーチに近藤昭仁、守備走塁コーチに篠塚和典が復帰。投手コーチに尾花高夫を招聘、また1994年から2002年まで打撃コーチを務め、2003年より広島に戻っていた打撃コーチ・内田順三が復帰した。選手補強も積極的に行った。投手陣ではオリックスを自由契約となったジェレミー・パウエル、FA宣言した豊田清(西武)、野口茂樹(中日)を獲得した。野手ではロッテの李承燁を獲得。金銭トレードで過去ゴールデングラブ賞を4度受賞した小坂誠(ロッテ)を獲得した。一方で前年シーズン途中に既に構想から外れていた清原、ローズを自由契約で、豊田の人的補償で江藤を放出した。
2006年はチーム方針として2005年のワールドシリーズを制したシカゴ・ホワイトソックスに習い「スモール・ベースボール」を掲げた。開幕当初は首位を独走していたが、5月に始まったセ・パ交流戦の途中で主力選手に負傷者が続出したことで失速することとなった。これに対して西武を自由契約となり米国挑戦したものの契約を結べず帰国していた小関竜也を入団テストで、広島の木村拓也を交換トレードで、前年阪神を解雇されたもののメキシカンリーグで好成績を収めていたジョージ・アリアスを来日させそれぞれ獲得するなど建て直しを図ったが、6~7月には8連敗、10連敗、9連敗と立て続けに大型連敗を喫し、一時は最下位にまで転落した。最終的にチーム防御率は1点以上の改善があったものの野手陣の不調で4位に終わり、いずれも球団史上初の4年連続完全V逸と2年連続Bクラスとなった。この結果を重く見た球団はさらなる改革に着手した。首脳陣ではまず走塁面の強化に西武黄金期に三塁ベースコーチとして活躍した伊原春樹を野手総合コーチとして招聘。篠塚守備走塁コーチを打撃コーチへ配置転換、伊勢孝夫スコアラーを打撃コーチ補佐として現場復帰させた。なお近藤ヘッドコーチが退任し、総括ディレクターに就任、それに伴って開幕直前に伊原がヘッドコーチを兼任することとなった。選手では仁志敏久を交換トレードで横浜に放出、小久保がFAでソフトバンクに移籍したが、ソフトバンクを戦力外となったベテランの大道典嘉を無償トレードで、オリックスの谷佳知を交換トレードで、日本ハムの小笠原道大をFAでそれぞれ獲得したほか、残留を前提としたFA交渉を打ち切られた横浜の門倉健も加入する。一方門倉の加入に伴って補償選手として工藤を放出することとなり、逆にソフトバンクから小久保の補償選手として吉武真太郎を獲得した。
2007年5月2日に行われたナゴヤドームの中日5回戦でプロ野球史上初となる球団通算5000勝を達成した。これまで主にクリーンナップを打っていた高橋由伸を1番に、怪我で出遅れていた上原浩治を先発からクローザーとして起用するなどの大胆な配置転換を行った。これが成功し、前年のような大型連敗もなく安定した戦いを続けた。鬼門だった交流戦も2位でクリア。そして9月23日の横浜戦に勝利し、この年から導入されたクライマックスシリーズの出場権をセ・リーグ一番乗りで獲得。中日・阪神との三つ巴のデッドヒートの末、優勝マジックナンバーが1となってむかえた10月2日のヤクルト戦、9回裏二死満塁から、清水隆行の遊撃内野安打と、宮本慎也の一塁悪送球の間に二塁走者が生還し、サヨナラ勝ちで5年ぶりのリーグ優勝を達成した。しかし、同年より導入されたクライマックスシリーズ第2ステージで、第1ステージで阪神を2連勝で破った中日に0勝3敗でストレート負け。日本シリーズ出場権を逃し、史上初の「リーグ優勝しながら日本シリーズに出場できないチーム」となっている[3]。このため恒例の銀座での優勝パレードも中止となった(巨人はこれまでリーグ優勝しても日本一になれなかった場合は優勝パレードを行ってこなかったが、日本シリーズ不出場による優勝パレード中止はこれが初である)。球団は、期待不足に終わったGGとジェレミー・パウエル、デーモン・ホリンズの外国人3選手を自由契約とすると、ロッテを自由契約になった藤田宗一、横浜を自由契約となったマーク・クルーン、ヤクルトから自由契約となったセス・グライシンガーとアレックス・ラミレスを獲得した。
2008年はオープン戦から主力選手の故障、台頭した坂本勇人を除いた若手の伸び悩み等でなかなか満足な試合運びを出来ず、黒星を重ねていった。ペナントレース開幕直後もチームはオープン戦の不調を引きずり、開幕戦となる3月28日のヤクルト戦(神宮球場)から4月2日の中日戦(東京ドーム)まで、球団ワースト記録となる開幕5連敗を喫した。開幕戦で4番打者を務めた李承燁、昨年のクローザーから先発に復帰した上原浩治が共に不調で二軍降格するなど戦力が揃わず開幕ダッシュに失敗した。だが、交流戦あたりから調子を上げはじめ、若手の積極的な起用策が功を奏し、後半戦も順調に勝ち星を重ね、7連勝中の9月19日から首位阪神に3連勝、最終的に球団32年ぶりの12連勝を記録するなど猛追し、同率で迎えた10月8日の最終直接対決で勝利し単独首位に立ち、10日に接戦の末にセ・リーグ記録となる最大13ゲーム差からの逆転優勝を果たした。11.5ゲーム差を逆転し「メークドラマ」と呼ばれた1996年の優勝時以上の大差を逆転したことから、マスコミ等は、「メークレジェンド」と呼んだ。クライマックスシリーズでは、第2ステージで中日ドラゴンズと対戦、アドバンテージの1勝を含む3勝1敗1分で勝ち抜けし、2002年以来の日本シリーズへの出場を決めるが、3勝4敗で埼玉西武ライオンズに敗れた。
2009年シーズンは、原辰徳監督が2009 ワールドベースボールクラシック日本代表監督に就任したこともあり、オープン戦は伊原春樹ヘッドコーチが監督代行を務めた。シーズンに入ると、坂本を1番打者、松本哲也を2番打者に固定するなど選手起用が当たり、開幕8試合目で首位に立つとそのままシーズンを乗り切り、2009年9月23日の対中日ドラゴンズ戦に5-3で勝利し、1965年~1973年のV9時代以来となる3年連続の33回目のセントラルリーグ優勝を決める。
クライマックスシリーズでは、第2ステージで中日ドラゴンズと対戦、アドバンテージの1勝を含む3勝1敗で勝ち抜けて日本選手権シリーズに出場を決めた。1981年の後楽園シリーズ以来となった北海道日本ハムファイターズとの日本選手権シリーズは、4勝2敗で勝利し、2002年以来、7年ぶり21回目の日本一を獲得した。11月14日には長崎で行われた韓国シリーズ勝者起亜タイガースとの日韓クラブチャンピオンシップに勝利、日韓王者に輝いた。
2010年は開幕直後に前年限りで現役引退しコーチとなっていた木村拓也が試合前の練習中にくも膜下出血で倒れ急死、野手では亀井義行、投手ではゴンザレスが不調でグライシンガーも故障で長期離脱だったが、ルーキーの長野久義を加えた強力打線は相変わらずで開幕からしばらくの間は先発投手陣も好調であり、首位に立っている時期も長かったが、7月以降は相次いで好調だった先発投手陣が不調に陥り[4]、野手陣でも坂本と松本が調子を落としてしまう。また、この年のクローザーのマーク・クルーンが不振に陥り、抑え投手がたびたび変わるなど中継ぎ投手陣も安定しなかった。それでも最後まで首位争いに絡み続けるが、前述の投手陣の低迷とナゴヤドームの中日ホームゲームで2勝10敗と大きく負け越したのが尾を響き、優勝した中日と1ゲーム差ながら3位に終わる。クライマックスシリーズでは第1ステージで阪神に2連勝し勝ち上がるものの、続く第2ステージでは中日相手に1勝4敗で敗れ敗退している。この年、南海ホークスを経験した最後の現役選手であった大道典嘉が引退。
2011年、この年は3月11日に発生した東日本大震災の影響で開幕が3月25日から4月11日に延期。開幕戦は山口県の宇部市野球場で行われ[5]、巨人初の地方球場での主催試合開幕となった。また電力の節電要請で4月の東京ドームの使用を自粛、延期になった分を含めて大幅に試合日程が変更となっている。この年から導入された統一球の影響で、小笠原とラミレスが不調に陥り、打撃陣全体の長打力も2010年までと比べると激減(特に本塁打)するなど、打撃陣が不振に陥った。一方で投手陣はルーキーの澤村拓一が4月21日に初勝利を挙げるなど、先発投手陣が引っ張った。その反面、前半は抑え投手が固定出来なかったこと、阿部が開幕時にケガで離脱したこと、獲得した多くの外国人選手が活躍できなかったこともあり、オールスターまでの前半戦はBクラスに低迷することとなった。後半戦に入り抑え投手に久保裕也が固定できたことなどで8月に7連勝するなど調子を上げていく。終盤は阪神との3位争いとなったが、10月の阪神、中日との6連戦を5勝1敗として、クライマックスシリーズ進出を決め、最終的には首位から3.5ゲーム差の3位で終えている。クライマックスシリーズはヤクルトと対戦するが、先発投手が好投するも継投でつまづき、1勝2敗で敗退している。打撃陣では長野が首位打者、藤村大介が盗塁王のタイトルを獲得している。11月11日、ヘッドコーチ人事を巡って球団代表の清武英利が球団会長の渡邉恒雄が不当に介入したとして渡邉を告発する問題が起きた。清武はこれを理由に18日付で職を解任されている(詳細は清武の乱参照)。このオフ、FAで横浜DeNAベイスターズから村田修一を、ソフトバンクから杉内俊哉をそれぞれ獲得。その一方でラミレス、グライシンガー、大村三郎、鶴岡一成らが退団(ラミレスと鶴岡はDeNAに、大村とグライシンガーはロッテにそれぞれ移籍)。
2012年3月15日、球団が1997年~2004年度に6選手と結んだ契約で、このうち計27億円が最高標準額(07年までは上限ではなく超えても構わないというのがプロ野球全体の理解であり、超過の場合に制裁措置と定められたのは07年以降)を超過していたのではないかと朝日新聞の記事で報じられた。開幕序盤は低迷し、4月4日の対広島戦(マツダ)に敗れ単独最下位となり、開幕8試合で5度の完封負けで46イニング無得点を記録するなど、4月は2度の5連敗を記録した。5月は10連勝(3分挟む)を記録、、5月14日に勝率5割としている。交流戦に入っても好調は続き、6月6日にリーグ首位に立ち、6月16日の対楽天戦(Kスタ宮城) に勝利して、セ・リーグ球団初の交流戦優勝を達成。その後中日との首位争いとなるが、7月1日に首位に立つと、前半戦を中日と4.5ゲーム差、貯金20の首位で折り返す。後半戦に入り8月には6連勝と7連勝を記録、8月23日に優勝へのマジックナンバー30を点灯させ、9月8日の対ヤクルト戦(新潟)に勝利してクライマックスシリーズ進出を決め、9月21日の対ヤクルト戦(東京ドーム)で勝利して3年ぶり34度目のリーグ優勝を達成。最終的に86勝43敗15分で、2位中日に10.5ゲーム差。打者では阿部慎之助が首位打者、打点王の二冠、長野久義と坂本勇人が最多安打を獲得。投手では内海哲也が最多勝、杉内俊哉が最多奪三振、最高勝率の二冠を獲得。クライマックスシリーズファイナルステージでは2位の中日と対戦するが、3連敗で中日に王手をかけられた後に巨人が3連勝で、日本シリーズ進出を決める。日本ハムとの日本シリーズは4勝2敗で3年ぶり22度目の日本一を達成。アジアシリーズ2012では決勝戦で台湾のLamigoモンキーズに6対3で勝利し、初のアジア王者となった。これで交流戦、セ・リーグ、クライマックスシリーズ、日本シリーズ、アジアシリーズの全てで優勝し、日本プロ野球史上初の5冠を達成した。ドラフト会議では、前年日本ハムの1巡目指名を拒否した東海大の菅野智之を単独指名で獲得。
2013年、開幕から球団タイ記録の7連勝。5月5日の東京ドームでの対広島戦の試合前に終身名誉監督の長嶋茂雄と巨人OBの松井秀喜の国民栄誉賞の授与式が行われている。交流戦は13勝10敗の3位。前半戦は2位の阪神と2.5ゲームの首位で折り返し。8月9日に優勝へのマジックナンバー39が点灯。9月7日に7年連続でクライマックスシリーズ進出が決定。9月22日の対広島戦(東京ドーム)の試合開始直後に、2位の阪神がヤクルトに6対7で敗れた為、この時点で巨人の2年連続35度目のセ・リーグ優勝が決定した。開幕戦以降、6月に阪神が一時首位に立った以外は、巨人は首位を譲らなかった。広島とのクライマックスシリーズファイナルステージは3連勝で日本シリーズ進出を決めた。楽天との日本シリーズでは第5戦までに2勝3敗で王手をかけられたものの、第6戦でシーズンから無敗の田中将大に、この年初の黒星をつけタイに持ち込むが、第7戦で敗れて3勝4敗で敗退した。
2014年、4月19日、キューバの国内リーグ「セリエ・ナシオナル・デ・ベイスボル」の中心選手であるフレデリク・セペダと契約。同時に球団はセリエ・ナシオナル・デ・ベイスボルとの友好関係を結ぶことを発表した。
シーズン序盤より投打ともに勢いに乗りきれず、交流戦に入る段階では首位の広島とは4.5ゲーム差の3位だったが、交流戦ではソフトバンクと優勝を争い、交流戦の最終戦でのソフトバンクとの直接対決に勝利し、2年ぶりに優勝を達成。6月を11勝5敗とし、6月8日に首位に立つと以降は首位から陥落することはなかった。8月には13勝13敗で一時は2位の阪神と0.5ゲーム差となるが、9月に入り4日にはこの年初めて優勝へのマジックナンバー22が点灯、翌日に消滅したものの、11日には16で再点灯。20日の対ヤクルト戦に勝利し、クライマックスシリーズ進出を決め、優勝へのマジックナンバーを2とした9月26日の対DeNA戦(横浜)に6対3で勝利し、マジック対象チームの広島が阪神に敗れたため、3年連続通算36度目のセ・リーグ優勝が決定した。2位の阪神とのCSファイナルステージ(東京ドーム)ではCS史上初の4連敗で敗退した。 2015年はクライマックス行ったが勝てなかった。責任取って原が引退した
高橋由伸時代[編集]
2017年はワーストの13連敗した。その後ノーヒットノーラン達成した
チーム成績・記録[編集]
- チームに関する記録に関してのみ記載する、所属選手・監督の個人記録に関しては各個人のページ参照。
- 特に断りのない場合は2012年シーズンまでの数値。
試合、勝敗、勝率に関する記録[編集]
- 優勝(レギュラーシーズン最高勝率) 44回(日本プロ野球記録)
- (1936年秋 - 1937年春、1938年秋 - 1943年、1949年、1951年 - 1953年、1955年 - 1959年、1961年、1963年、1965年 - 1973年、1976年 - 1977年、1981年、1983年、1987年、1989年 - 1990年、1994年、1996年、2000年、2002年、2007年 - 2009年、2012年 - 2013年)
- 日本一 22回(日本プロ野球記録)
- (1951年 - 1953年、1955年、1961年、1963年、1965年 - 1973年、1981年、1989年、1994年、2000年、2002年、2009年、2012年)
- セ・パ交流戦優勝 1回
- (2012年)
- クライマックスシリーズ優勝 4回
- (2008年、2009年、2012年、2013年)
- アジアシリーズ優勝 1回
- (2012年)
- 日韓クラブチャンピオンシップ[6]優勝 1回
- (2009年)
- 連続優勝最長記録・連続レギュラーシーズン最高勝率最長記録 9年(日本プロ野球記録)
- (1965年 - 1973年)
- Aクラス 71回
- (1936年秋 - 1946年、1948年 - 1961年、1963年 - 1974年、1976年 - 1978年、1980年 - 1990年、1992年 - 1996年、1998年 - 2004年、2007年 - 2013年)
- Bクラス 8回
- (1947年、1962年、1975年、1979年、1991年、1997年、2005年 - 2006年)
- 連続Aクラス入り最長記録 14年(1948年 - 1961年)
- 連続Bクラス最長記録 2年(2005年 - 2006年)
- シーズン最多勝利 92勝(1955年)
- シーズン最多連勝 15連勝(1951年7月16日 - 8月3日)※1引き分けを挟む
- シーズン最多敗戦 80敗(2005年)
- シーズン最多連敗 13連敗(2017年年5月25日 - 6月9日)
- シーズン最多引分 16引き分け(1978年)
- シーズン最高勝率 .769(1938年秋)(2リーグ制以降.731 1951年)
- シーズン最低勝率 .382(1975年)
- 通算試合 9612試合(日本プロ野球記録・2リーグ制以降8391試合)
- 通算勝利 5471勝(日本プロ野球記録・2リーグ制以降4688勝)
- 通算敗戦 3838敗(2リーグ制以降3428敗)
- 通算引分 303引き分け(2リーグ制以降275引き分け)
- 通算勝率 .588(日本プロ野球記録・2リーグ制以降.578)
- 最小ゲーム差 0.0ゲーム(1974年、1986年)
- 最大ゲーム差 27.0ゲーム(1975年)
- 最長試合時間 5時間42分(2004年8月20日対広島東洋カープ)
- 最短試合時間 1時間14分(1951年3月31日対大阪タイガース)
チーム打撃記録[編集]
- 通算本塁打 9380本(日本プロ野球記録・2リーグ制以降8941本)
- シーズン最多得点 738得点(2004年)
- シーズン最多安打 1375本(2009年)
- シーズン最多2塁打 221本(1953年)
- シーズン最多3塁打 57本(1946年)
- シーズン最多本塁打 259本(2004年・日本プロ野球記録)
- シーズン最多塁打 2340本(2004年・日本プロ野球記録)
- シーズン最少本塁打 1本(1936年秋)
- シーズン最多打点 719打点(2004年)
- シーズン最多盗塁 212盗塁(1950年)
- シーズン最多犠打 144犠打(1990年)
- シーズン最多犠飛 43犠飛(1978年)
- シーズン最多四死球 591個(1950年・日本プロ野球記録)
- シーズン最多三振 1083三振(2004年)
- シーズン最高打率 .292(1952年)
- シーズン最低打率 .208(1943年)(2リーグ制以降.227 1961年)
- ゲーム最多得点 26得点(1946年8月31日対中部日本軍、1948年10月16日対大陽ロビンス)
- ゲーム最多安打 27本(1948年10月16日対大陽ロビンス)
- ゲーム最多2塁打 11本(1948年10月16日対大陽ロビンス・日本プロ野球記録)
- ゲーム最多3塁打 4本(1947年8月16日対阪急ブレーブス、1957年8月27日対大洋ホエールズ)
- ゲーム最多本塁打 8本(1984年7月4日対ヤクルトスワローズ、1984年9月4日対中日ドラゴンズ、1985年6月28日対阪神タイガース)
- ゲーム最多塁打 59本(1948年10月16日対大陽ロビンス)
- ゲーム最多打点 25打点(1948年10月16日対大陽ロビンス)
- ゲーム最多盗塁 5盗塁(1943年4月11日対西鉄軍、1951年9月12日対国鉄スワローズ)
- ゲーム最多犠打 4犠打(1952年2度、1966年1度、1987年1度)
- ゲーム最多犠飛 4犠飛(1939年10月8日・日本プロ野球記録)
- ゲーム最多四死球 16個(1946年8月31日対中部日本軍)
- ゲーム最多三振 17三振(2004年8月1日対阪神タイガース)
- イニング最多得点 13得点(1972年6月23日対ヤクルトアトムズ6回・日本プロ野球記録)
- イニング最多安打 10本(1941年5月11日対阪急軍4回、1951年8月8日対広島カープ7回)
- イニング最多2塁打 6本(1948年10月16日対大陽ロビンス5回・日本プロ野球記録)
- イニング最多3塁打 4本(1947年8月16日対阪急ブレーブス3回・日本プロ野球記録)
- イニング最多本塁打 4本(1985年9月9日対横浜大洋ホエールズ4回、1987年5月12日対阪神タイガース7回、1999年7月31日対広島東洋カープ1回、2000年6月21日対中日ドラゴンズ7回)
- イニング最多塁打 18本(1948年10月16日対大陽ロビンス5回)
- イニング最多打点 13打点(1972年6月23日対ヤクルトアトムズ6回・日本プロ野球記録)
- イニング最多盗塁 5盗塁(1937年5月16日対名古屋金鯱軍1回)
- イニング最多犠打 3犠打(多数)
- イニング最多犠飛 2犠飛(多数)
- イニング最多四死球 8個(1959年10月20日対中日ドラゴンズ5回)
- イニング最多三振 4三振(2004年8月1日対阪神タイガース2回)
- 最多連続得点 10得点(2003年4月27日対横浜ベイスターズ8回)
- 最多連続試合得点 174試合(1980年8月4日 - 1981年9月20日)
- 最多連続イニング無得点 31イニング(1985年6月5日対阪神タイガース4回 - 6月8日対中日ドラゴンズ7回)
- 最多連続打席安打 9打席(1996年7月9日対広島東洋カープ2回・日本記録)
- 最多連続打数安打 9打数(1954年9月29日対広島カープ1回、1四球を挟む)
- 最多連続イニング安打 21イニング(1985年7月10日対中日ドラゴンズ6回 - 7月16日対横浜大洋ホエールズ1回・日本記録)
- 最多連続試合本塁打 33試合(2004年4月2日 - 5月12日、開幕からの連続記録)
- 最多連続イニング本塁打 6イニング(1967年10月10日対広島カープ2回 - 7回)
- 最多連続本塁打 3人(通算5度)
- 最多連続打数本塁打 4人(1四球を挟む)
- 最多連続四死球 5人(1963年5月3日対国鉄スワローズ2回、1964年4月7日対国鉄スワローズ9回)
- 最多連続試合盗塁 16試合(1951年7月29日 - 8月9日)
チーム投手記録[編集]
- シーズン最多被安打 1427本(2005年)
- シーズン最多被本塁打 193本(2004年)
- シーズン最多与四死球 529個(1978年)
- シーズン最多奪三振 1123個(2003年)
- シーズン最多失点 737点(2005年)
- シーズン最高防御率 1.38(1943年)
- シーズン最低防御率 4.80(2005年)
- ゲーム最多被安打 25本(1994年9月10日対広島東洋カープ)
- ゲーム最多被本塁打 8本(1949年4月26日対大映スターズ)
- ゲーム最多与四死球 16個(1985年7月30日対広島東洋カープ)
- ゲーム最多奪三振 16個(1967年6月7日対大洋ホエールズ、1994年8月13日対阪神タイガース)
- ゲーム最多失点 19点(1994年9月10日対広島東洋カープ、2003年6月11日対ヤクルトスワローズ、2003年9月16日対中日ドラゴンズ)
- イニング最多被安打 10本(1994,1997,1998,2003に4度)
- イニング最多被本塁打 3本(多数)
- イニング最多与四死球 10個(1978年7月6日対広島東洋カープ)
- イニング最多奪三振 4個(1997年7月4日対阪神タイガース3回、2005年4月6日対横浜ベイスターズ6回)
- イニング最多失点 12点(2003年9月16日対中日ドラゴンズ6回)
- 最多連続試合完封勝利 4試合(9度・日本記録)
- 最多連続イニング無失点 50イニング(1966年6月15日 - 6月22日)
- 最多連続試合被本塁打 18試合(2001年8月11日 - 9月2日)
チームの特徴[編集]
球団名[編集]
- ニックネームの「ジャイアンツ」はアメリカメジャーリーグのニューヨーク・ジャイアンツ(現・サンフランシスコ・ジャイアンツ)から取り、創設時には東京ジャイアンツと名乗った。
- 現在でもアメリカのマスコミや日本の英字新聞などではTokyo Giantsと呼称される事がある。
呼称について[編集]
戦前から、「ジャイアンツ」を日本語に意訳した愛称「巨人軍」が用いられている。球団の運営会社は現在も「株式会社読売巨人軍」である。球団広報等では、多く球団の自称に「巨人軍」を用いている。
野球規約上定められている球団呼称は「読売ジャイアンツ」であるが、テレビ放送などでは、一般には日本野球機構の球団名を漢字2字で表す慣習から、「軍」を略して「巨人」と呼ぶことが多い。読売グループを含めた全てのマスコミが「読売」と略称せず「巨人」と称するのは、他球団と異なり「巨人」という和名的愛称が広く定着しているためである。ただし、ドラフト会議においては「読売」と呼称されている。例えば自軍主催試合ではチケットの印字など他球団の表記も略称を使っている場合には「巨人」と表記され、場内アナウンスなど他球団でも球団呼称を使用する場合には「読売ジャイアンツのスターティングラインナップをお知らせいたします」などのように使用されている。したがって、本球団を指す呼称は「巨人」および「読売ジャイアンツ」の両方とも正しい事が明らかであるため、どちらか一方のみの呼称が正しいとするのは適切ではない。なお、読売巨人軍を指して「巨人」と言った場合、アクセントは「きょじん」の「きょ」に置かれる。
マスコット[編集]
- 初代マスコットはミスタージャイアンツ。ペットマークとして、当時のジャンパーの右胸部分に大きいワッペンが貼り付けられていた。ミスタージャイアンツは長嶋茂雄の太い眉、王貞治の大きな目、川上哲治の太鼓腹がモチーフになったと言われている。デザインを手掛けたのは、相沢光朗。後に漫画家の森田拳次が雑誌『少年』で、このキャラを主人公とする漫画(コミカライズ版)を手掛けた(同年4月号〜1967年頃まで連載)。
- 2代目はバットに乗りボールに帽子と顔と手足を足した「バットに乗った少年」で、1980年から1991年までの12年間の長きにわたりペットマークとして使用された。
- 3代目は1992年から使われている「ジャビット」である。これはチームのロゴマークであるYGの組み合わせに、ウサギを絡ませたものである。ペットマークとして使用。また、着ぐるみキャラクターでは「ジャビットファミリー」として5人のキャラクターが登場する。2007年からそれぞれ個別のキャラに愛称がつけられた([1]を参照)。
- 2006年からペットマークを変更、東京の街並み(東京ドームや東京都庁舎など)のシルエットの中に「G-KING」という巨人が描かれたものになった。マスコットはジャビットのままである。
- 2011年1月11日からペットマークを「ウイニングジャビット」に変更した。普通のジャビットを強さや格好良さのイメージを盛り込んだスマートなデザインにしたもの。
応援スタイル[編集]
ジャイアンツの応援は、それぞれの地域の私設応援団の先導によって行われる。声援とメガホンか手拍子で応援するスタイルとなっている。 ただし、応援団としてはメガホンを使用しない応援スタイルを採用している。
なお、2010年シーズンまで活動していた東京読売巨人軍応援団(東京)は、東京団員1名が、野球観戦チケットの不正転売を行い、試合観戦契約約款や特別応援許可規程に違反していたことがわかり、その責任を取って東京の応援団は自主解散した。 新設される読売ジャイアンツ応援団は東京読売巨人軍応援団の伝統とスタイルを引き継いで応援活動を行うとしている。 これにより関東圏は読売ジャイアンツ応援団・北海道は東京読売巨人軍応援団北海道・関西圏は読売ジャイアンツ応援団大阪・中国や四国及び九州は読売巨人軍応援団GLOVE(広島・九州)がそれぞれの地域を先導する。
応援時の格好はロッテを除いた他球団同様、ホームゲームにおいてビジター用のユニフォームやシャツを着ていたり、すでに退団した監督・コーチ(木村拓也など)・選手(特に松井秀喜)のユニフォームやシャツ、松井が2009年まで所属していたニューヨーク・ヤンキース(松井の背番号・55が入っているもの)のユニフォームやシャツを着ていることも多くその統一性はあまり高くなかったが、2012年以降橙魂と称した特定の試合日にオレンジ色の特別ユニフォームのレプリカを配布しているため、通常のユニフォームやオレンジユニフォームの比率が高まっている。
2003年、応援団が暴力団からの依頼で外野自由席の席取りを行っていたことが社会問題化し刑事事件に発展した。
CLUB G-Po[編集]
2007年よりサービスが開始された公式ファンクラブ。2013年現在で会員数は30万人を突破している。
サービスはポイント制となっており、巨人軍の主催公式戦(一軍は全試合。二軍は東京ドームでの開催試合のみ)に来場し、ファンクラブ加入時に入手できるカードを持参し専用ブースに行くと「来場ポイント」が加算され、その日の試合での巨人軍のチーム・選手の記録等によってポイントが付き、最終的な合計がその日の「ゲームポイント」として加算される。また、オンラインショップ「GIANTS SHOP ONLINE」や、東京ソラマチ内の「ジャイアンツオフィシャルストア」での商品購入、BS日テレで中継される巨人戦の視聴、他球団主催公式戦としての巨人戦(不定期)への来場等でもポイントを貯めることができる。ポイントを貯めると、達成ポイントごとにオリジナルグッズや観戦チケット等と交換ができ、抽選で東京ドームのスイートルームやエキサイトシート等での巨人戦観戦に招待される。貯めたポイントは交換しても消滅せずに累積で加算され、シーズンごとにリセットされる。
会員はプライム・ジュニア(いずれも有料)・エンジョイ(無料)の3種類があるが、会員の種類によって受けられるサービスが異なる。
セ・リーグ首都圏3球団合同企画[編集]
2012年から、読売ジャイアンツ・東京ヤクルトスワローズ・横浜DeNAベイスターズとの3球団合同で『GSDBプロジェクト』を立ち上げファンクラブ会員のポイント付与の他会員限定イベントの実施や球場DJ・チアチーム・マスコットキャラクターの相互訪問を行っている。
その他[編集]
- 監督は創立当初を除けば全てチームの生え抜き選手が就任しており、他球団OBが監督になっていない唯一の球団である(球団創立時の初代監督:藤本定義はプロ選手の経験がないので他球団OBではなく、巨人軍生え抜き扱いになる)。
- 1949年のセ・リーグ成立以降、1950年から2009年の60回のうちリーグ制覇は33回。
川上哲治監督の下でV9を達成した第三期黄金時代(1965(昭和40年) - 1973(昭和48)年)以降、長嶋茂雄第一次監督時代から現在の原辰徳第二次監督時代までの35年間、セ・リーグを13回(そのうち日本シリーズ制覇は6回)制覇している。 - パ・リーグで大映が毎日に吸収合併され大映が消滅し大毎となり6球団制となった1958年から近鉄がオリックスに吸収合併されて近鉄が消滅した2004年までの47年間、パ・リーグの当時の6球団全てと日本シリーズで対戦していた(日本一も6球団全てで経験)。巨人が日本シリーズで敗北したことがあるのは西鉄・西武と阪急・オリックス、南海、楽天の4球団。西鉄・西武との相性は悪く、対戦成績は3勝7敗と大きく負け越している。2005年に活動を開始した楽天との日本シリーズの対戦も2013年に初めて実現し、2013年現在現存するパ・リーグ球団と全て対戦経験がある、初めて(そして唯一)のセ・リーグ球団となった。
- 最下位になったのは1975年の1回だけでこれは現存する12球団の中では最少であり、最下位が1回しかないのは巨人だけである。
- 海外へのポスティング移籍は認めていなく、2013年終了時点では前例がない。巨人から海外移籍するには、海外FA権を取得しなければならない。
歴代本拠地[編集]
- 二軍の本拠地
- 巨人軍多摩川グラウンド(1955年 - 1985年)【東京都大田区田園調布】
- 読売ジャイアンツ球場(1986年 - 現在)【東京都稲城市と神奈川県川崎市の都県境】
歴代監督[編集]
- 1934年 - 1935年 : 三宅大輔[7]
- 1936年 : 浅沼誉夫
- 1936年 - 1942年 : 藤本定義
- 1943年 : 中島治康
- 1944年 - 1946年 : 藤本英雄
- 1946年 - 1947年 : 中島治康
- 1947年 - 1949年 : 三原脩
- 1950年 - 1960年 : 水原茂
- 1961年 - 1974年 : 川上哲治
- 1975年 - 1980年 : 長嶋茂雄
- 1981年 - 1983年 : 藤田元司
- 1984年 - 1988年 : 王貞治
- 1989年 - 1992年 : 藤田元司
- 1993年 - 2001年 : 長嶋茂雄
- 2002年 - 2003年 : 原辰徳
- 2004年 - 2005年 : 堀内恒夫
- 2006年 -2015年 : 原辰徳
2016年から。高橋由伸
※太字は優勝達成監督
永久欠番[編集]
- 1:王貞治(1989年 - )
- 本塁打世界新記録(868本)の功績を称えて決定。巨人では選手、助監督そして監督と通算30年使用していた。1人の人物が同じ背番号を30年続けて使用したケースは他にはない。
- 3:長嶋茂雄(1974年 - )
- 第二次監督時代の2000年から2年間復活した。
- 4:黒沢俊夫(1947年 - )
- 現役中に腸チフスで死去。後述の沢村と共に日本プロ野球初の永久欠番となった。
- 14:沢村栄治(1947年 - )
- 16:川上哲治(1965年 - )
- 引退後も着用していたが、1965年1月の野球殿堂入り決定後に永久欠番になった。当時監督だった川上はこの年から背番号を77に変更。
- 34:金田正一(1970年 - )
- 球界初の通算400勝の功績を称え制定。
なお、2006年シーズン開幕よりこれら永久欠番の選手のユニフォームを模った(背番号のみで選手名ローマ字表記は無し)像を東京ドームの外野スタンド後方部の支柱部に設置。除幕式が同年開幕戦に行われ、本人や遺族等が招かれた。
完全試合・ノーヒットノーラン達成投手[編集]
巨人ではこれまでに球団史上2人の投手が完全試合を、球団史上10人の投手が延べ13回ノーヒットノーランを達成している。
完全試合達成投手
年月日 | 投手名 | スコア | 対戦相手 | 野球場 |
---|---|---|---|---|
1950/06/28 | 藤本英雄 | 4-0 | 西日本パイレーツ | 青森市営 |
1994/05/18 | 槙原寛己 | 6-0 | 広島東洋カープ | 福岡ドーム |
ノーヒットノーラン達成投手
年月日 | 投手名 | スコア | 対戦相手 | 野球場 |
---|---|---|---|---|
1936/09/25 | 沢村栄治 | 1-0 | 大阪タイガース | 甲子園 |
1937/05/01 | 沢村栄治 | 4-0 | 大阪タイガース | 洲崎 |
1937/07/03 | ヴィクトル・スタルヒン | 4-0 | イーグルス | 洲崎 |
1939/11/03 | 中尾輝三 | 1-0 | 東京セネタース | 後楽園 |
1940/07/06 | 沢村栄治 | 4-0 | 名古屋金鯱軍 | 西宮 |
1941/07/16 | 中尾輝三 | 3-0 | 名古屋軍 | 後楽園 |
1943/05/22 | 藤本英雄 | 3-0 | 名古屋軍 | 後楽園 |
1952/07/26 | 大友工 | 17-0 | 松竹ロビンス | 大阪 |
1967/10/10 | 堀内恒夫 | 11-0 | 広島カープ | 後楽園 |
1968/05/16 | 城之内邦雄 | 16-0 | 大洋ホエールズ | 後楽園 |
1970/05/18 | 渡辺秀武 | 2-0 | 広島東洋カープ | 後楽園 |
1976/04/18 | 加藤初 | 5-0 | 広島東洋カープ | 広島 |
2012/05/30 | 杉内俊哉 | 2-0 | 東北楽天ゴールデンイーグルス(セ・パ交流戦) | 東京ドーム |
参考記録
年月日 | 投手名 | スコア | 対戦相手 | 野球場 |
---|---|---|---|---|
1971/09/06 | 菅原勝矢 | 4-0 | ヤクルトアトムズ | 神宮 |
7回表1死降雨コールドゲームのため、日本プロ野球参考記録である。
史上初のノーヒッター[編集]
ノーヒットノーランの日本プロ野球第1号達成者は東京巨人軍から誕生した。巨人の当時の豪腕投手だった沢村栄治が1936年9月25日に甲子園で開いた秋季大阪1次リーグ戦・大阪タイガースとの対戦で達成したもので、沢村は翌1937年5月1日に洲崎で開かれた春季戦・大阪タイガース戦、更に1940年7月6日に西宮で開かれた名古屋軍戦の都合3回ノーヒットノーランを達成。これは戦後達成した外木場義郎(広島カープ→広島東洋カープ)と並ぶ日本プロ野球最多タイ記録である。
完全試合[編集]
日本プロ野球に於いて完全試合を達成した投手はわずかに15人だけであり、1936年の日本プロ野球発足時から存続している4球団の一つである巨人で完全試合を達成したのは2人だけである。
日本プロ野球初の完全試合を決めたのは、藤本英雄。1950年6月28日、青森市営野球場で開かれた西日本パイレーツとの一戦で自身2回目(戦前かつ1リーグ時代の1943年にも名古屋軍戦で達成)のノーヒットノーランを完全試合で飾った。日本プロ野球初の偉業でありながら、北海道遠征の帰路だったため取材記者が4人、カメラマンは誰もいなかった事もあって報道の扱いは小さく、また新聞も製紙事情からページを割く事が出来ず、写真も掲載されなかった。
そして20世紀かつ現時点では最後の日本プロ野球に於ける完全試合を決めたのが槙原寛己である。1994年5月18日に福岡ドームで開かれた広島東洋カープ戦。球団創立から7000試合目の節目に当たる公式戦となった試合で、槙原が史上15人目、1978年の今井雄太郎(阪急ブレーブス)以来の完全試合を達成した(槙原寛己の完全試合)。
逆に、巨人が対戦相手に完全試合を許したケースは1回もない。
主な歴代の球団歌・応援歌[編集]
読売ジャイアンツには球団歌と応援歌の2つの定義があり、球団歌は現在までに3曲が制定されている。それに対して応援歌は球団が作成する応援歌もあるが広義に捉えれば私設応援団による選手別応援歌も応援歌といえるので数は非常に多い。その為ここでは球団歌のみを紹介する。
曲名は球団公式サイトに掲載された年表においては全て「巨人軍の歌」とされているが、区別のため括弧内に通称を記載する。初代巨人軍の歌の作詞・作曲コンビは、阪神タイガースの応援歌「大阪タイガースの歌(六甲おろし)」も作っている。
- 初代「巨人軍の歌(野球の王者)」1939年発表(作詞:佐藤惣之助、作曲:古関裕而)
- 2代目「巨人軍の歌(ジャイアンツ・ソング)」1949年発表(作詞:岡野青志、補作詞:藤浦洸、作曲:米山正夫)
- 3代目「巨人軍の歌(闘魂こめて)」1962年発表(作詞:椿三平、補作詞:西條八十、作曲:古関裕而)
本拠地東京ドームの最寄り駅であるJR水道橋駅では2006年7月4日から発車メロディに「闘魂こめて」を流すようになった。
主なキャンプ地[編集]
現在[編集]
- 宮崎県総合運動公園硬式野球場(サンマリンスタジアム) - メイングラウンド
- 宮崎市営球場(現:宮崎県総合運動公園第二硬式野球場) - サブグラウンド
- 奥武山野球場 - 2011年~
過去[編集]
- 松山高等学校 (旧制)グラウンド - 1946年
- 別府市営球場 - 1946年~1947年
- 明石公園野球場 - 戦前~1959年まで
- 宮崎県営野球場 - 1960年~1974年
- 清武町総合運動公園野球場 - 二軍のみ
- アメリカ合衆国・カリフォルニア州サンタマリア - 1953年
- アメリカ合衆国・フロリダ州ベロビーチ - 1961年、1967年、1971年、1975年、1981年
- 中華民国(台湾)台中野球場 - 1968年
- アメリカ合衆国・グアム島パセオ球場 - 1980年~90年代
- アメリカ合衆国・グアム島マネンガンヒルズ野球場 - 2004年
出来事[編集]
日本シリーズ終了後に公式戦[編集]
1955年、この年の公式戦は大洋との3試合が天候不順の中止による順延が続いたため、日本シリーズの対南海戦の開幕までに全て消化し切れなかった。そのため、日本シリーズ、更にその後にも日米野球・ニューヨーク・ヤンキースを招待した親善試合が組まれていたこともあって、それらの大会が終了した11月下旬にようやく残った大洋戦3試合を消化。最終戦の開催は11月23日となった。
なお巨人は以下のシーズンに未消化試合を残したままペナントレースを終了している。
- 1937年秋季は10月27日の東京セネタース戦がきっかけとなる。
1-2とリードされた9回裏1死1・3塁の巨人の攻撃で、水原茂の打球は投手ゴロ。投手→二塁手→一塁手と転送されるも、一塁がセーフとなる。この時にセネタースの二塁手・苅田久徳が「一塁走者の平山菊二が送球を妨害した」と抗議。これが認められ一塁もアウトとなり、試合が終了した。
ジャイアンツはこの判定を不服として日本野球連盟に提訴(プロ野球初の提訴試合)。11月30日の連盟理事会でこの試合を無効として再試合を行うことを決定したが、すでに大阪タイガースの年度優勝が決まっており、仮にこの試合が行われたとしてもシーズンの順位に影響が及ばないことから、12月9日に中止が決定された。 - 1949年は2リーグ分立のあおりを受けて11月26日に日本野球連盟が解散したため、11月29日にペナントレースを打ち切った。このため6試合(阪急戦・大映戦・阪神戦各1試合、大陽戦3試合)を未消化のまま終了した。
- 1951年は120試合の予定だったが、日米野球の日程が迫っていたので10月9日をもって打ち切りとなり、6試合(国鉄戦2試合、広島戦4試合)を消化しないままで公式戦を終了。この時は9月23日に「打ち切り」が決定したことを受けてリーグ優勝が確定した。
- 1953年も国鉄との5試合の対戦が未消化だったが、これも日本シリーズ、更には日米野球がこの年は2チーム(エド・ロパット・全米オールスターチームとニューヨーク・ジャイアンツ)が招待されており、残り試合の日程調整が付かなかったため、その5試合の開催を打ち切った。この年のジャイアンツは海外キャンプを行っていて、帰国が4月4日となり、3月28日のセ・リーグ開幕に間に合わなかったことも大きい。
- 2004年はオリックス・ブルーウェーブと大阪近鉄バファローズの合併に端を発した一連の球界再編問題で2日間(中日戦2試合(ナゴヤドーム))がストライキの対象となった。この2試合の代替日が設定されなかったため、138試合でリーグ戦を終えている。
史上初の2日またぎの試合[編集]
1961年9月7日の対国鉄戦(後楽園)で、史上初めての2日間またぎの試合が行われた。事の発端は延長11回表の国鉄の攻撃。3塁ゴロを捕球した長嶋茂雄がベースを踏んでアウトにしたはずが、2塁走者・土屋正孝の脚が早かった。ところが、アウトと思っていた土屋は三塁コーチスボックスに入っていた砂押邦信監督に促されてホームに向って走った。これを見た長嶋が土屋を追いかけ三本間で交錯、そこへ長嶋からの送球を受けた捕手藤尾茂が土屋にタッチした。島秀之助球審は一旦はアウトと宣告したものの国鉄側が長嶋の走塁妨害を主張、審判団協議の結果判定が覆ってホームインが認められることになったため、今度はジャイアンツ側が土屋はラインアウトだったと主張するなど両チームが論争になった。更に興奮したファンがスタンドに火を付けたり物をグラウンドに投げ込んだりするなどの行為を行い、2人のファンが公務執行妨害の現行犯で逮捕された。2時間近くの中断の末、土屋のホームインが認められ試合が再開されたのは23時53分で、結果的に試合終了は翌9月8日の0時11分となり史上初の2日間またぎの試合となった。
2日間またぎの試合はセ・リーグの大会規定で1990年-2000年に「時間無制限・延長15回・引き分け再試合」という取り決めがあった際、15回フルイニングス戦ってそうなった事例が数例あった。
疑惑の本塁打[編集]
1990年の開幕戦・ヤクルトスワローズとの地元・東京ドームでの試合で、篠塚利夫が内藤尚行から放った打球が、1塁塁審を務めていた大里晴信審判員によってホームランと判定された。この判定に対して、「打球はライトポールより前方で通過し、ファールスタンドへ入った。」と、ヤクルト野村克也監督は抗議したが、判定が覆ることはなかった。同日放送された各局のスポーツニュースではこの打球のVTRを再三放送し、「打球はライトポールより前方で切れ、ファールスタンドへ入った。」と結論付けるものが多かった。この年からセントラル・リーグでは外野審判を廃止して4人制で行っていた。この疑惑後、東京ドームのポールは打球がわかるように黄色に塗装され、その後オレンジ色に変更された。
巨人CS敗退の夜に坂本と澤村が六本木合コン。阪神選手も同席(2014年10月)[編集]
大差でセ・リーグ優勝を果たしたものの、クライマックスシリーズ(CS)ではあっけなく阪神に4連敗した巨人。
その「戦犯」でもある坂本勇人(25)と澤村拓一(26)の2人がCS敗退が決まったその夜、六本木のクラブで豪遊していた様子を10月27日発売の週刊ポストが報じている。
都心最大級の面積を誇る東京・六本木のクラブに坂本と澤村が連れ立って現れたのは10月18日の深夜。一般客は利用できない特別VIPルームに陣取った。
「女の子が3人ほどいましたね。ま、つまりは合コンでした。落ち込んだ様子もなく、楽しそうにシャンパンやウォッカをあおっていましたよ」(クラブの常連客)
しかも、この合コンには試合を終えたばかりの阪神の選手2人も同席していた様子で、「ひとりは伊藤隼太選手(25)でした」(男性客)とのこと。敗戦直後に「夜のクライマックスシリーズ」とはG党が聞いたら卒倒する話だろう。
坂本は空気を読んだのかVIPルームから出てくることはなかったというが、この夜の澤村はシーズンやCSのマウンド上とはうってかわって絶好調。誌面では、深酔いして“暴投”する様子がその場に居合わせた客らの証言で再現されている。
野球賭博[編集]
2015年に福田が野球賭博した。いろんな野球賭博したとのこと。10月6日のビビッドで放送された 翌年3月に高木がした事明らかになった。責任取ってなべつねやめた 3月9日に高木が会見した。各ニュースで放送された
キーワード[編集]
「常に紳士たれ」[編集]
スタイル[編集]
正力松太郎が「巨人軍は常に紳士たれ」という言葉[8]を残したように、巨人の選手は社会人、そして人間として模範となることを求められており、テレビ出演や移動の際はスーツとネクタイ着用が義務付けられてきた。
また、髭を生やす事と茶髪・金髪・長髪も禁止されている。しかし、この規定は他チームからの移籍選手や外国人選手には適用を除外されるケースがある。具体的には、髭がトレードマークの屋鋪要が横浜ベイスターズから移籍した時は条件付き(巨人で活躍すること)で認めていたり、日本ハムファイターズからFA移籍した小笠原道大の無精髭に対しては「無理強いをするつもりは無い」と認めるつもりでいたが、小笠原は「球団の伝統に従う」と自らの判断で髭を剃った。外国人選手では大洋時代に「ライオン丸」と形容される顎髭がトレードマークのジョン・シピンや、近鉄バファローズから移籍してきたタフィ・ローズのコーンロウと髭を例外として認めていた(シピンはその後、「紳士たれ」のルールに従って髪とひげを切り落とした)。清原和博の著書「反骨心」によると、荷物の持ち方も決まっている。
さらに、清原が巨人在籍時代ピアスを付けていたが、OBを中心に「外すべきだ」という意見が存在した。
野村克也は自著「巨人軍論」で、上記のような「紳士野球」については肯定的見解を示し、自身が監督を勤める際も茶髪、ピアス、入れ墨他を禁じている。また、堀内恒夫が監督就任後に茶髪やピアスのみを承認した[9]時はかなり否定的な意見を発した。野村曰く「強いチームを作るには厳しいルールが必要で、選手は茶髪・ピアス・入れ墨ではなく、プレーでこそ目立つべきだ」と主張している。また、厳しいルールの下で人間性が鍛えられ、それが野球に良い影響を与えるとしている。
登録名[編集]
巨人での登録名は原則として本名のみであり、イチローなどに代表される愛称の使用は認められておらず、カツノリやサブローも巨人への移籍にあたって登録名を本名に戻している。
ただし、河野博文が登録名を「ゲンちゃん」で申請したことがある(ただし、セリーグ会長により却下されている)。
また例外的に認められた例としては、ジェレミー・ゴンザレスが、すでに在籍していたルイス・ゴンザレスおよびジェレミー・パウエルと混同しないように「GG」(読みは「ジー・ジー」)となった例や、マイケル中村が登録名を日本ハム時代と同じ「MICHEAL」に変更した例などがある。
伝統の一戦[編集]
主にマスコミなどで、対阪神タイガース戦を「伝統の一戦」と表現されることがある。
1936年のプロ野球が始まって以来、11シーズン中8度の優勝を果たしていた巨人に対して、阪神は残り3シーズンで優勝を果たすなど、プロ野球を代表する強豪同士であったといえる。実際に1949年までの1リーグ時代の対戦成績は巨人の84勝85敗3分けと拮抗していた。しかし2リーグに分裂した際に阪神の主力選手が大量に引き抜かれて戦力格差が生じてしまい、さらに阪神の長い低迷もあり、2012年までの通算成績は巨人の974勝755敗66分で、78シーズン中の7割に当たる54シーズンで巨人が勝ち越すなど、戦績は一方的である。特に2リーグ分裂以後は長く巨人がリードする年が続き、1950年~2002年で見ると巨人が阪神に負け越したシーズンはわずか6シーズン(タイが1シーズン)しかなく、巨人は分裂初年度の1950年~1961年までは1958年のタイを除いては全て勝ち越し、また、1986年~2002年までは巨人が17年連続で勝ち越している。
同じセ・リーグ内で言えばむしろ対中日ドラゴンズ戦において巨人の通算勝率は悪い。
それでも、この対戦カードが伝統の一戦と表現されるのは単純な勝敗を超えて、戦前の野球ファンの注目の的となった「沢村栄治vs景浦將」に始まり、「ミスタータイガース・村山実vsミスタージャイアンツ・長嶋茂雄」「奪三振王・江夏豊vs本塁打王・王貞治」「ミスタータイガース・掛布雅之vs巨人のエース・江川卓」といった人気選手同士の真剣勝負など、日本を代表する人気球団同士のライバル関係も同時に示しているからである。
なお、2003年に巨人が阪神に18シーズンぶりに負け越して以降は阪神の巻き返しが見られるようになり(2003年-2012年までの10シーズンに限ると、巨人が111勝122敗11分と負け越している)、2003年から2005年にかけては2リーグ分裂後初めて巨人が3年連続で阪神に負け越しており、2009年から2011年は3年連続でタイとなっている。
球団運営会社[編集]
ジャイアンツの運営会社は複雑な変遷を辿っている。1934年に大日本東京野球倶楽部が発足したとき、読売新聞は大いにバックアップを行ったが実際の出資額は僅少で、あくまで正力松太郎の関係による独立企業であった(因みに筆頭株主は京成電鉄。東芝、阪神電気鉄道、東京急行電鉄、吉本興業がこれに続いていた)。1947年2月、読売新聞社が全株式を買収し、完全に系列下。球団旗の右肩に「讀賣」の二文字が入り、社名を「大日本東京野球倶楽部」から「読売興業」に改めたが、1950年1月に「読売巨人軍」(第1期)として分離。しかし僅か1年2か月で読売興業に吸収されている。
1963年、読売新聞は九州に進出するに当たり、読売興業に読売会館(当時の有楽町そごう[現ビックカメラ有楽町店]や当時の読売新聞東京本社ビル[現プランタン銀座]の保有・管理会社)を合併させ、読売興業内に事業本部としての「読売新聞西部本社」を設けた。先が見えない九州での新聞事業の赤字をプロ野球興業と不動産の収入で補填するとの意図であったが、この結果読売興業はプロ野球、不動産、新聞の3事業を抱えるコングロマリット(複合型企業)となった。1988年には経営不振の中部読売新聞社から東海地方での新聞事業を受け継ぎ、「読売新聞中部本社」としている。2002年7月の読売新聞グループの再編により、「よみうり」(1992年6月に読売興業から改称)は新聞事業を読売新聞東京本社中部支社(中部本社が読売新聞社改め読売新聞東京本社に吸収)と読売新聞西部本社に分割してプロ野球専業となり「読売巨人軍」(第2期)の社名が復活した。これに伴いビジター用ユニフォームの胸マークも「TOKYO」から「YOMIURI」に変更となった(2004年まで使用)。
当初の背番号[編集]
戦前の巨人軍は基本的に、ニューヨーク・ヤンキースに倣って打順によって背番号を決めていた。
例えば1936年夏季の場合、1番・田部武雄(上層部との対立により公式戦参加前に退団したので、その後は林清一が受け継いだ)、2番・津田四郎、3番・中島治康、4番・永沢富士雄、5番・伊藤健太郎までは背番号と打順が一致する。当時の巨人軍には背番号6の選手がいなかったため、6番は背番号7の筒井修、7番は背番号8の白石敏男が「繰り上がり」、8番は捕手、9番は投手が入るのが基本オーダーだった。背番号9の山本栄一郎をはさんで捕手の背番号は10番から始まり、10番が中山武、11番が内堀保、12番が倉信雄と続いていた。13番からが投手の背番号で、青柴憲一(13番)、沢村栄治(14番)、畑福俊英(15番)と続く。再び16番が欠番でヴィクトル・スタルヒン(17番)、前川八郎(18番)と続いた。秋季以降に加入した選手はヤンキース方式の背番号が適用されず、19番は田部と同様に上層部との対立により退団したもののその後復帰した水原茂、林が1番に変更して空き番となった20番は青森林友から入団したチーム初の左腕投手・成田友三郎、21番は助監督として入団したものの夏季のチームの不甲斐なさに現役復帰を決意した三原修がつけ、藤本定義監督がチーム最大となる22番をつけた。
選手が増えたため1938年以降はこの基本から外れることが多くなったが、川上哲治が16番をつけたのはヤンキース方式の背番号の名残で、川上が投手として入団した証拠とも言える。
カラーテレビ用ユニフォーム[編集]
1957年、正力松太郎オーナーが会長を務める日本テレビがカラーテレビ試験放送を開始した。正力はカラーテレビを普及させるためのアイディアとして、巨人のユニフォームを変更した。
最初の変更は1959年9月。袖のオレンジ×黒×オレンジのライン、背番号、胸の「GIANTS」の縁取りが赤に変更された。しかしこの変更はホーム用のみでビジター用は従来通りのユニフォームが使われたため、ファンにも気付かれることのないままこの年の公式戦終了と同時に元のユニフォームに戻された[10]。
次にカラーテレビ用ユニフォームが登場したのは1960年6月11日。ホーム用・ビジター用ともに帽子のつば・胸のロゴ・背番号が赤いユニフォームで、それまでの巨人のチームカラーを覆すものだった。当時のカラーテレビは白いものが映るとハレーションが起こったため、ホーム用の地色もドーラン効果を狙ってベージュに変更された。
しかしこのユニフォームは選手の評判も悪く、全員で号令をかけあって一斉に着替えたとも伝えられている。反対意見を言う選手はいなかったもののその声を代弁したのが解説者たちで、三宅大輔は「考え方が逆。これではカラーテレビのためにプロ野球があるようなものだ」、また小西得郎も「クリーブランド・インディアンスかミルウォーキー・ブレーブス(現:アトランタ・ブレーブス)の真似で、ジャイアンツらしくない」と批判した。
このようにカラーテレビ用ユニフォームは世間の評判が悪かった上、前年まで6年連続最下位だった大洋ホエールズにリーグ優勝をさらわれたこともあって、このユニフォームもこの年限りでお役御免となった。当時の東京23区にはカラーテレビが100台ほどしかなく、当初の目的だった「カラーテレビの普及」にも貢献することが出来なかった(カラーテレビが普及するきっかけとなったのは1964年の東京オリンピックである)。
最下位転落で大集会が開かれる[編集]
1975年に球団史上初となる最下位に転落したが、それ以前にも途中経過だが最下位に沈んでいたシーズンがあった。そのため、この年のシーズン中に日本雑学協会の主催で「長嶋巨人を励ます緊急大集会」を、当時の練習場である多摩川グラウンドで開いたという逸話が残っている。巨人ファンの思いをプラカードや横断幕に書いてデモ行進するもので、前年まで巨人応援のためのデモが開かれたケースは無かったため、大きな話題となった。
結局、大集会の甲斐もなく低空飛行のままペナントレースを終えた。
50番トリオ[編集]
1983年に若手選手として成長目覚ましい槙原寛己、駒田徳広、吉村禎章の3人が背番号にちなんで50番トリオと呼ばれた。背番号50の駒田は4月10日に日本プロ野球史上初の初打席満塁本塁打を放つ衝撃的デビューを飾って規定打席未到達の199打席で打率.286・12本塁打を放ち、特に満塁機で10打数7安打と強く、満塁男の異名を取った。背番号54の槙原は初登板で初完封勝利を収め、12勝を挙げる活躍で新人王を受賞した。背番号55の吉村は104打席に留まったが、プロ1号本塁打から3打席連続本塁打を放つなど打率.326・5本塁打の成績を残した。この年に巨人はセ・リーグ優勝を果たし、期待の若手として注目された。吉村は86年から背番号7、槙原は87年から背番号17、駒田は88年から背番号10に変更した。
主催ゲーム開催方法関連[編集]
地方球場開催[編集]
かつては地方都市の球場での開催も積極的に行い、特に北海道シリーズ(円山、旭川、札幌ドームでの2-3連戦)、九州シリーズ(平和台、北九州、福岡ドーム、熊本など)、更に隔年で北陸シリーズ(金沢、富山県営、富山市民(アルペンスタジアム)、福井などでの2-3連戦。富山が正力松太郎の出身地であることから継続して開催されてきた)、東北シリーズ(盛岡、仙台、郡山などでの2-3連戦)を率先的に実施してきた。また秋田、青森市営なども開催していた。
しかし近年は東京ドームの試合を中心に編成したため、東北シリーズ・北陸シリーズは廃止、更に北海道や九州のシリーズも会場を1ヵ所(福岡ドーム・札幌ドームでナイターのみ)に絞る形にして試合数を減らしていた(2004年度には九州シリーズの1試合に、ジャイアンツのキャンプ地である宮崎での開催がある)。それが災いして、ファン離れが深刻になってしまった。そこで、2005年以降は地方都市での開催を進めている。
但し、2005年以後はセ・パ交流戦が組まれ、パ・リーグ側の球団が主管する試合で札幌、仙台、大阪、福岡にビジターで遠征することが恒例になったため、巨人主管のこれらの地域での試合は2010年以後規模を縮小している(ただし廃止ではなく、休止扱いであり、2012年と2013年は大阪<2013年は神戸・大阪2連戦>、2011年には関門海峡シリーズ<宇部・北九州>、2011・2012・2013年には東北シリーズ<2011年は郡山2連戦、2012年は秋田→盛岡→郡山、2013年は山形→福島>がそれぞれ行われている)。
大阪ドームでの主催ゲーム[編集]
関東以東の球団が近畿圏各地でホームゲームを行う機会は1952年にフランチャイズが確立してからは稀で、確立当初、球場難等を理由に西京極、大阪などでいくつかのチームが試合をした事例がある程度だ。特に1955年の大映スターズは西京極で15試合を開催し、事実上準本拠としていた(親会社の大映が京都太秦に撮影所を持っていた事も関係している)。
ジャイアンツもフランチャイズ確立前は近畿圏の球場でもホーム扱い(後攻)となる試合が稀にあったが、それが確立されてからは近畿圏でのホームゲームを行う機会は西京極球場でのオープン戦を除き、殆どなかった。しかし1997年に大阪ドームが竣工し、その年には読売新聞大阪本社の創刊45周年も重なって、ヤクルトを帯同した公式戦2試合を同球場で開いた。その後大阪ドームでは年1回もしくは隔年で開催している。2002年以後は東京ドームで開く都市対抗野球の開催時期が8月下旬-9月初めに移動したためによる処置であった。2006年、2007年及び2010年、2013年は4月に、2012年は7月に開催されている。この2007年と2013年は神戸(スカイマークスタジアム)でも1試合組み込まれている。
長期ロード[編集]
東京ドームで都市対抗野球大会が開催されるため2週間近く長期ロードが毎年組まれている。この間、巨人は地方球場で主催試合を行う。特に、同大会が8月下旬-9月初旬の開催(2002年-2010年)だった時には必ず1カードは巨人主催による地方遠征が行われる。例として2007年は、札幌ドームでの主催ゲームを含め、11試合を東京ドーム以外で行った(8月24日-9月6日)。
都市対抗が7月下旬-8月初旬の開催だった頃も長期遠征があったが、この時はオールスターを間に挟んだり、また自宅から球場へ通うことができる関東圏の他のビジターでの試合も行われることも頻繁にあったため、主催試合はなかった。
本拠地でのデーゲーム開催[編集]
東京ドームでのデーゲーム開催の恒常化も検討されている。後楽園球場時代は、日曜日や大型連休中のデーゲームが開催されていたが、東京ドームが開業した1988年以降は、初期に開幕シリーズや大型連休中などで部分的に開催したことはあるものの、ビジターゲームも含めてデーゲームで開催されることは無くなり、ナイター設備がない円山球場・旭川スタルヒン球場での北海道シリーズ(現在は札幌ドーム)と、優勝チーム決定後の消化試合で組まれる程度となった。
ナイターの6時半開始[編集]
巨人軍のナイター開催は長年午後6時に設定されてきたが、2012年7月25日に行われたDeNA戦で試行的に7時開始で行った。これは、この前日まで第83回都市対抗野球大会が開催され、その会場の応援ステージの撤去などの諸作業を行うのと、ファンから「会社帰りでも試合開始から試合が見たい」との意見があったことから、この1試合限定で行った。
2013年についても、7-8月の5試合で「630ナイター」と銘打って、6時30分からの試合開始に設定した。これも前日の7月23日まで第84回都市対抗野球大会が行われたための撤収作業と、ファンからの要望によるもの。特に期間中の2試合で生ビールを800円から400円に半額とするサービスも行われる。
ただし過去にもナイター黎明期のころは午後7時開始が多く存在した。
主催ゲームの中継[編集]
長年、主催ゲームのテレビ中継は読売系の日本テレビによる独占状態が続き(但し1959年6月25日の天覧試合・阪神戦だけNHK総合テレビジョンとの併用中継)、全国の系列局へネットされていた事から、全国に多数の巨人ファンを獲得した。2002年から日本テレビの独占が崩れ、他局による中継(テレビ朝日・テレビ東京)も行われるようになった。それにあわせて中継試合の削減、中継時間の短縮がおこなわれている。
関連項目[編集]
- 読売ジャイアンツの選手一覧
- 読売ジャイアンツ歴代4番打者一覧
- 全日本中学野球選手権大会 ジャイアンツカップ
- 月刊ジャイアンツ
- アンチ巨人
- 東京読売巨人軍応援団 - 大阪と北海道の応援団(以前は東京・名古屋・広島にも応援団があった)
- 読売ジャイアンツ応援団 - 2011年から応援活動をする東京の応援団
- G-FREAKS - 2002年まで応援活動をしていた東京の応援団
- 三重巨勝会 - 2003年まで活動をしていた中京地区の応援団
- ドリーム☆アゲイン - 巨人がドラマの制作に協力した。ちなみに制作局は、巨人と同じ読売グループの日本テレビ。
- ミスター・ベースボール - 中日ドラゴンズの相手球団として登場している。
- ニューヨーク・ヤンキース - 伝統、実績、戦力・財力の強さ、規律の厳しさが酷似している事から、巨人は“日本のヤンキース”と呼ばれる事が少なくない。
主な舞台とする作品[編集]
- 巨人の星(梶原一騎・川崎のぼる)
- 新巨人の星(梶原一騎・川崎のぼる)
- 新巨人の星II(梶原一騎・川崎のぼる)
- ちかいの魔球(福本和也・ちばてつや)
- 侍ジャイアンツ(梶原一騎・井上コオ)
- リトル巨人くん(内山まもる)
- 悪たれ巨人(高橋よしひろ)
- マツイ日記は知っている!(荒木ひとし)
- ゴーゴー!ゴジラッ!!マツイくん(河合じゅんじ)[11]
- モリモリッ!ばんちょー!!キヨハラくん(河合じゅんじ)
- ミラクルジャイアンツ童夢くん(石ノ森章太郎)
- ばっくれ一平!(竜崎遼児)
- 消えた巨人軍(西村京太郎)
参考文献[編集]
- 項目全般
- 宇佐美徹也 『宇佐美徹也の記録巨人軍』、2000年
- 越智正典 『ジャイアンツの歴史』、1974年
- 巨人軍歴史新聞編纂委員会『巨人軍歴史新聞』、2000年
- ベースボール・マガジン社 『日本プロ野球40年史』、1976年、同社『プロ野球70年史』、2004年12月 ISBN 4583038089
『巨人軍5000勝の記憶』 読売新聞社、ベースボールマガジン社、2007年。ISBN 9784583100296。
- チーム成績・記録節については以下のとおり
- 読売巨人軍広報部『2007年 メディアガイド』、2007年
脚注・出典[編集]
- ↑ 前掲『日本プロ野球40年史』p.30
- ↑ 同一監督によるリーグ最下位の翌年にリーグ優勝は、日本プロ野球史上初
- ↑ 2004年と2005年のパリーグでシーズン1位のダイエー(ソフトバンク)ホークスがプレーオフで敗退し日本シリーズ未出場であるが、これはプレーオフ勝利チ-ムをその年の優勝チームと定めていたためである。
- ↑ この年の7月、球団ワースト新記録となる12試合連続2桁被安打を記録
- ↑ これは東京ドームの代替ではなく、震災発生前よりこの日の宇部での試合が決まっていた
- ↑ アジアシリーズの振り替え大会
- ↑ 1954年にコーチ、1955年に技術顧問。
- ↑ 「巨人軍憲章」とも呼ばれる遺訓のうちの1つで、残りは「巨人軍は常に強くあれ」「巨人軍はアメリカ野球に追いつけ、そして追い越せ」で計3か条である。
- ↑ なお、堀内自身も監督就任後にチームの気分転換を図るため、髭を蓄えた時期があった。
- ↑ 南海ホークスとの日本シリーズでは元のユニフォームが使用された。
- ↑ 前身のかっとばせ!キヨハラくんにおいても「東京カイアンツ」というパロディで登場している。
外部リンク[編集]
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