大鵬幸喜

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大鵬 幸喜(たいほう こうき、1940年(昭和15年)5月29日 - 2013年(平成25年)1月19日)は、北海道川上郡弟子屈町川湯温泉(出生地は樺太敷香郡敷香町)出身の元大相撲力士。本名は納谷 幸喜(なや こうき)であるが、一時期は母親の再婚によって住吉 幸喜(すみよし こうき)と名乗っていたこともあった。

来歴[編集]

誕生~入門[編集]

1940年(昭和15年)に、ロシア革命後に樺太へ亡命したウクライナ人のコサック騎兵隊将校、マルキャン・ボリシコの三男として、樺太敷香町(現・ロシアサハリン州ポロナイスク)に生まれた。当時樺太は日本領だったため、外国出身横綱には数えない。出生の直後に激化した太平洋戦争によってソ連軍が樺太へ侵攻してきたのに伴い、母親と共に最後の引き揚げ船だった小笠原丸で北海道へ引き揚げることとなった。最初は小樽に向かう予定だったが、母親が船酔いと疲労による体調不良によって稚内で途中下船した[1]。小笠原丸はその後、留萌沖で国籍不明の潜水艦(ソ連の潜水艦との説がある)から魚雷攻撃を受けて沈没したが、大鵬親子はその前に下船していたため辛くも難を逃れた。

北海道での生活は母子家庭だったことから大変貧しく、母親の再婚によって住吉姓に改姓した。その再婚相手の職業が教師だったことから学校を毎年異動していたこともあり、しばらくは北海道各地を転々としていた。あまりの貧しさから大鵬自身が家計を助けるために納豆を売り歩いていた話は有名である。再婚相手とは大鵬が10歳の時に離婚したため、大鵬は納谷姓に戻った。 中学校卒業後は一般の同世代の若者と同じ中卒金の卵として北海道弟子屈高等学校定時制に通いながら林野庁関係の仕事をしていたが、1956年(昭和31年)に二所ノ関一行が訓子府へ巡業に来た時に紹介され、高校を中途退学して入門した。入門時に母親から反対されたが、親子で相撲部屋を見学した時に所属力士の礼儀正しさを見た叔父が母親を説得した。

初土俵~三役へ[編集]

1959年(昭和34年)に新十両昇進が決まると、四股名を付けてもらえることが決まった。その四股名は故郷・北海道に因んだ物を付けるのかと思っていたところ、二所ノ関から「もっといい名前がある。『タイホウ』だ」と言われた。「どんな字を書くんですか?撃つ大砲ですか?」と質問すると、「それは『オオヅツ』と読むんだ」と言われ、同時に大砲万右エ門の話をされたという[2]。そしてこの時に「大鵬」の字とその意味も教わっている。大鵬の意味は、中国の古典「荘子 逍遥遊」にある「鯤之大不知其千里也、化而為鳥、其名為大鵬(鯤(コン、伝説上の巨大な魚)は大いに之(ゆ)き、その千里を知らずや、而して鳥に化けすと、その名は大鵬と」とあり「翼を広げると三千里、ひと飛びで九万里の天空へ飛翔する)」と言われる伝説上の巨大な鳥に由来する。漢書好きな二所ノ関にとって最も有望な弟子に付けるべく温存していたもので、その点では二所ノ関の期待以上によく育ったと言える。

1960年(昭和35年)1月場所で新入幕を果たすと、初日から11連勝を含む12勝3敗の好成績を挙げた[3]が、同年3月場所は7勝8敗に終わり、この場所が生涯で唯一となる皆勤負け越しとなった(それ以外は引退まで皆勤した場所はすべて2桁の勝ち星である)。同年11月場所では13勝2敗の成績を挙げ、初となる幕内最高優勝を達成し、場所後に20歳6ヶ月で大関へ昇進した[4][5]。小結・関脇では36勝9敗という圧倒的な強さを誇り、合計3場所で通過となった。また、新入幕から6場所目での初優勝は年6場所制以降では当時の最速記録(後に佐田の山晋松が3場所目で12勝3敗の成績で初優勝を記録し、2013年一月 いつ?も単独で保持しているが、対戦内容から問題になった)だった。

横綱時代[編集]

新入幕で初めて敗れた柏戸剛と競い合い、終戦直後の復興から高度経済成長期の相撲黄金時代を支え、1961年(昭和36年)に揃って横綱に推挙、「柏鵬(はくほう)時代」と言われる黄金時代を築いた。横綱白鵬翔の四股名は、この両横綱に由来する。新横綱の場所である1961年(昭和36年)11月場所、1962年(昭和37年)1月場所と連続優勝を果たすと、同年7月場所から1963年(昭和38年)5月場所まで最初の6連覇を達成した。ところが、「型のある相撲」と評されていた柏戸が休場を繰り返していたことで、「型のない相撲」の大鵬が一人勝ちしている状況から観客が減少気味となり、大鵬の全盛期は相撲の人気低迷期と一致した。この連覇直後から神風正一などから「(大鵬の相撲には)型がない」と盛んに批判されたが、二所ノ関は「型がないのが大鵬の型」と反論していた。

その柏戸が再起をかけた同年9月場所では千秋楽で14勝同士の相星決戦が組まれたが、柏戸に敗れた[6]。1964年3月場所でも同じ14勝同士による相星決戦が組まれたが、こちらは大鵬が勝利している。下記に、柏鵬両雄の主な千秋楽対戦を記す。

場所 柏戸成績 大鵬成績 優勝力士 備考
1962年11月場所 12勝3敗 13勝2敗 大鵬 柏戸3敗、大鵬1敗で対戦して柏戸勝利。
1963年9月場所 15勝0敗 14勝1敗 柏戸 全勝同士相星決戦で柏戸勝利。
1964年3月場所 14勝1敗 15勝0敗 大鵬 2回目の全勝同士相星決戦で、大鵬勝利。
1966年5月場所 12勝3敗 14勝1敗 大鵬 柏戸2敗、大鵬1敗で対戦して大鵬勝利。
1966年7月場所 12勝3敗 14勝1敗 大鵬 柏戸2敗、大鵬1敗で対戦して大鵬勝利。
1966年9月場所 13勝2敗 13勝2敗 大鵬 柏戸2敗、大鵬1敗で対戦して柏戸勝利。
優勝決定戦では大鵬勝利。
1967年5月場所 13勝2敗 14勝1敗 大鵬 柏戸2敗、大鵬全勝で対戦、柏戸勝利。

1964年(昭和39年)からは本態性高血圧によって幕内で初の途中休場となる。さらに1965年(昭和40年)には柏戸や北の富士勝昭と共にアメリカ合衆国から拳銃を密輸入していたことが発覚して書類送検されたが、日本相撲協会からは譴責処分に留まった[7][8]。この直後の1965年5月場所は左足首関節内骨折で9勝6敗、千秋楽は休場して不戦敗となった。

再起をかけた1966年(昭和41年)3月場所からは再び6連覇を達成するが、1967年(昭和42年)には肘を負傷[9]し、そのケガの分を取り戻そうと稽古で無茶をしたことで左膝靭帯断裂の重傷を負い、1968年(昭和43年)3月場所から3場所連続で全休した。復帰した同年9月場所では、初日に栃東知頼と対戦して敗れたことで周囲から限界と思われたが、慎重に勝ちを求めた結果、叩きを多用する相撲に変わった。横綱として内容は冴えないが、同場所2日目から1969年(昭和44年)3月場所初日までの間に双葉山定次(69連勝)に次ぐ45連勝を記録した[10]。この連勝記録は、同場所2日目に戸田智次郎に押し出しで敗れたため途切れたが、ビデオ画像や写真では戸田の足が先に出ていたため「世紀の大誤審」と問題になり、この翌場所からビデオ画像の導入が始まった[11]

大鵬は同場所5日目から肺炎で途中休場となり、さらに肺炎の影響で肺機能が低下したことですぐ息が上がるようになってしまい、激しい稽古が出来なくなったという。それでも1969年(昭和44年)5月場所には30回目の優勝を飾り、この功績を讃えて1969年9月場所初日には日本相撲協会から一代年寄「大鵬」が授与された。

現役晩年に至っても、北の富士と玉の海正洋の両横綱に対しては最後まで壁として君臨し続けた[12]1971年(昭和46年)1月場所には32回目の優勝を果たし、同年3月場所でも12勝と健在ぶりを示したが、同年5月場所で栃富士勝健に敗れた際に尻から落ちたことで体力の限界を感じ、さらに5日目には新鋭だった貴ノ花利彰に同じく尻から落ちる敗戦を喫した。その後大鵬自身、翌6日目の福の花孝一戦を「これで自身最後の相撲としたい」と申し出たが、日本相撲協会から「死に体で土俵に上がる事は出来ない」と却下。結局福の花戦は不戦敗となり、貴ノ花との取組が現役最後の一番となった。

引退相撲は1971年(昭和46年)10月2日蔵前国技館で行われ、太刀持ちに玉の海、露払いに北の富士と、両横綱を従えて最後の横綱土俵入りが披露された。玉の海はそれから僅か9日後の同年10月11日に急死したため、大鵬自身も相当な衝撃を受けたという。

柏鵬 全対戦一覧[編集]

柏鵬両雄の対戦は、1960年1月場所 - 1969年5月場所の間に37回実現し、千秋楽結びの一番の対戦は史上3位の21回、千秋楽両者優勝圏内の対戦が5回(相星決戦が2回)あった。千秋楽(太字)は、千秋楽結びの一番を示す。

場所 対戦日 柏戸勝敗
(通算成績)
大鵬勝敗
(通算成績)
優勝力士 備考
1960年1月場所 12日目 ○(1) ●(0) 栃錦 初対戦
1960年3月場所 - - - 若乃花 対戦なし。
1960年5月場所 12日目 ●(1) ○(1) 若三杉
1960年7月場所 8日目 ○(2) ●(1) 若乃花
1960年9月場所 9日目 ○(3) ●(1) 若乃花 柏戸新大関
1960年11月場所 14日目 ●(3) ○(2) 大鵬(1)
1961年1月場所 11日目 ○(4) ●(2) 柏戸(1) 大鵬新大関
1961年3月場所 11日目 ○(5) ●(2) 朝潮
1961年5月場所 14日目 ○(6) ●(2) 佐田の山
1961年7月場所 14日目 ●(6) ○(3) 大鵬(2)
1961年9月場所 14日目 ○(7) ●(3) 大鵬(3)
1961年11月場所 14日目 ●(7) ○(4) 大鵬(4) 柏鵬両者新横綱
1962年1月場所 千秋楽 ●(7) ○(5) 大鵬(5)
1962年3月場所 千秋楽 ○(8) ●(5) 栃ノ海
1962年5月場所 千秋楽 ●(8) ○(6) 佐田の山
1962年7月場所 千秋楽 ●(8) ○(7) 大鵬(6)
1962年9月場所 千秋楽 ●(8) ○(8) 大鵬(7)
1962年11月場所 千秋楽 ○(9) ●(8) 大鵬(8)
1963年1月場所 - - - 大鵬(9) 柏戸休場により対戦なし。
1963年3月場所 - - - 大鵬(10) 柏戸休場により対戦なし。
1963年5月場所 - - - 大鵬(11) 柏戸休場により対戦なし。
1963年7月場所 - - - 富士錦 柏戸休場により対戦なし。
1963年9月場所 千秋楽 ○(10) ●(8) 柏戸(2) 千秋楽全勝同士相星決戦
1963年11月場所 千秋楽 ●(10) ○(9) 栃ノ海
1964年1月場所 千秋楽 ●(10) ○(10) 大鵬(12)
1964年3月場所 千秋楽 ●(10) ○(11) 大鵬(13) 千秋楽全勝同士相星決戦
1964年5月場所 - - - 栃ノ海 柏戸休場により対戦なし。
1964年7月場所 - - - 富士錦 柏戸休場により対戦なし。
1964年9月場所 - - - 大鵬(14) 柏戸休場により対戦なし。
1964年11月場所 - - - 大鵬(15) 柏戸休場により対戦なし。
1965年1月場所 - - - 佐田の山 柏戸休場により対戦なし。
1965年3月場所 - - - 大鵬(16) 柏戸休場により対戦なし。
1965年5月場所 13日目 ○(11) ●(11) 佐田の山
1965年7月場所 11日目 ○(12) ●(11) 大鵬(17)
1965年9月場所 12日目 ○(13) ●(11) 柏戸(3)
1965年11月場所 - - - 大鵬(18) 柏戸休場により対戦なし。
1966年1月場所 - - - 柏戸(4) 大鵬休場により対戦なし。
1966年3月場所 千秋楽 ●(13) ○(12) 大鵬(19)
1966年5月場所 千秋楽 ●(13) ○(13) 大鵬(20) 千秋楽柏戸2敗、大鵬1敗で対戦
1966年7月場所 千秋楽 ●(13) ○(14) 大鵬(21) 千秋楽柏戸2敗、大鵬1敗で対戦
1966年9月場所 千秋楽 ○(14) ●(14) 大鵬(22) 千秋楽柏戸2敗、大鵬1敗で対戦 優勝決定戦は大鵬勝利。
1966年11月場所 千秋楽 ●(14) ○(15) 大鵬(23)
1967年1月場所 千秋楽 ●(14) ○(16) 大鵬(24)
1967年3月場所 14日目 ○(15) ●(16) 北の富士
1967年5月場所 千秋楽 ○(16) ●(16) 大鵬(25)
1967年7月場所 - - - 柏戸(5) 大鵬休場により対戦なし。
1967年9月場所 14日目 ●(16) ○(17) 大鵬(26)
1967年11月場所 - - - 佐田の山 大鵬休場により対戦なし。
1968年1月場所 - - - 佐田の山 大鵬休場により対戦なし。
1968年3月場所 - - - 若浪 大鵬休場により対戦なし。
1968年5月場所 - - - 玉の海(当時玉乃島) 両者休場により対戦なし。
1968年7月場所 - - - 琴桜 大鵬休場により対戦なし。
1968年9月場所 千秋楽 ●(16) ○(18) 大鵬(27)
1968年11月場所 千秋楽 ●(16) ○(19) 大鵬(28)
1969年1月場所 千秋楽 ●(16) ○(20) 大鵬(29)
1969年3月場所 - - - 琴桜 大鵬休場により対戦なし。
1969年5月場所 千秋楽 ●(16) ○(21) 大鵬(30)
  • 両者横綱昇進以前の対戦成績(1961年9月場所まで)は、柏戸の7勝3敗。
  • 両者横綱同士の対戦成績(1961年11月場所以降)は、大鵬の18勝9敗だった(優勝回数も1961年11月場所以降、柏戸4回・大鵬29回)。

現役引退後[編集]

引退後は大鵬部屋を創立し、関脇巨砲丈士・幕内嗣子鵬慶昌たちを育成した。定年後、部屋は娘婿の貴闘力忠茂(現役時代は二子山部屋所属)に譲ったが、部屋名は「大鵬」が一代年寄であったので、もともと所有していた「大嶽」部屋とした。しかし、貴闘力は賭博問題で2010年(平成22年)7月4日に解雇となってしまい、その後は大鵬の直弟子の大竜忠博(最高位は十両)が部屋を継ぐことになった。

大鵬が入幕する前は、角界の最大派閥は出羽海一門で、非主流派とみなされる二所ノ関所属の大鵬は、親方としての出世は遅いと見られていたが、1976年(昭和51年)に35歳の若さで役員待遇・審判部副部長に就任した。ところが、1977年(昭和52年)に脳梗塞によって倒れ、その後遺症が残ったことで理事長などの重要職に就任する見込みが無くなった[13]。引退後に年寄名を大鵬 翔己(たいほうしょうき)としていたが、この病気を患って以降は現役時代の「大鵬 幸喜」に戻している。病気自体は不屈の精神でリハビリを重ねながら回復し、1980年(昭和55年)には理事に就任した。理事としては8期務め、地方場所部長、さらには相撲教習所所長などを歴任した。「巨人、大鵬、卵焼き」と称された時代の一方の雄である長嶋茂雄が脳梗塞に倒れた時には、やはり特別な感情が湧いたと語っている。その回復が実を結び、2000年(平成12年)には北の湖・千代の富士の一代年寄2横綱を率いて、還暦土俵入りを披露した。ただし、後述の脳梗塞の後遺症から四股が踏めないため、土俵入りそのものは行えず、赤い綱を締めて土俵上で雲龍型のせり上がりの構えを取ったのみであった。

2001年(平成13年)、サハリン州で自身の父親であるマルキャン・ボリシコの生涯が明らかになり、サハリン州の日本研究家の働きかけでウクライナのハリキフ市に大鵬記念館が建設された。大鵬自身もハリキフで相撲大会を企画しており、ロシアを挟んで日本とウクライナの国際交流の主役として脚光を浴びている。その交流はロシア連邦にも及び、2002年(平成14年)には北オセチア共和国出身のボラーゾフ兄弟を日本に招き、兄のソスランを「露鵬幸生」として自分の部屋に入門させた(弟のバトラズは「白露山佑太」として二十山部屋に入門させ、後に北の湖部屋へ転籍)。大鵬はソスランの四股名に自分の「鵬」、名前にも本名の「幸」の字を入れ、期待に応えた露鵬は、大鵬が定年退職した2006年(平成18年)3月場所で小結まで昇進したが、2008年(平成20年)にドーピング検査で大麻の陽性反応が出たことで弟と共に日本相撲協会を解雇された。

2005年(平成17年)に日本相撲協会を65歳の定年で退職し、9年近く空席だった相撲博物館館長に就任した。協会在籍中には理事長や執行部在任経験がなく(1期のみ審判部副部長を務めたが脳梗塞で退任し、地方場所部長の職が長かった)、先に定年退職していた理事長経験者の佐田の山晋松と豊山勝男が健在にも拘わらず館長職に就いたのは異例の抜擢と言われている。

2008年(平成20年)11月16日付けで、相撲協会理事会で体調不良を理由に相撲博物館館長を辞任することが承認された[14]。同年12月26日には、日本相撲協会の仕事納めの日に相撲博物館館長職を退いたが、「たまには国技館に足を運んで(相撲を)ゆっくり見たい」と相撲への思いは変わらないと語った[15]

2009年(平成21年)10月27日、相撲界から初となる2009年(平成21年度)文化功労者に選出された。これを受けた大鵬は記者会見で「私一人だけの力でなく、皆さんが力添えしてくれたからこそ。大きな賞を戴けて本当に有難いことです」と喜びを語った[16]

死去[編集]

2013年(平成25年)1月19日心室頻拍のため、東京都新宿区の慶應義塾大学病院で死去[17][18]。72歳没。死去の数日前までは日刊スポーツの相撲面『土評』の解説コラムを書いたり、二所ノ関部屋消滅問題では「時代の流れでは致し方無いだろうが、今一度部屋再興を望みたい」と談話を発表したりしていた[19]

大鵬の訃報を受けて、日本相撲協会は北の湖敏満理事長と九重貢事業部長などが哀悼の意を表す談話を発表した他、同世代の日本スポーツ界のヒーローであった長嶋茂雄ファイティング原田、そして大鵬とは大の親友関係だった王貞治が「同じ時代に世の中に出て、光栄だった」と故人との思い出を語る談話をそれぞれ発表している[20]

大鵬が死去するわずか16日前の1月3日には、故郷の弟子屈町で暮らす実兄の納谷幸治が急性心筋梗塞のため79歳で死去。弟である大鵬は、体調不良のため葬儀に参列できなかったことも後に明らかになっている[21]

大鵬の通夜は1月30日、葬儀・告別式は1月31日にいずれも青山葬儀所で営まれた。王貞治のほか黒柳徹子、第69代横綱・白鵬翔らが弔辞を読んだ。没後、菩提寺(妙久心寺)から『大道院殿忍受錬成日鵬大居士』という戒名が授けられると共に、更に多年に亘る相撲界での功績やその活躍が社会に与えた影響などが評価され、日本政府から没日の1月19日付にて正四位並びに旭日重光章が追贈された[22]。同年1月31日に、日本政府が内閣府国民栄誉賞授与に向けて、検討を指示した[23]。同年2月15日に政府が正式に国民栄誉賞を贈ることを発表した[24]。同年2月25日遺族夫人)と白鵬らが出席して故人として国民栄誉賞が授与された。

2013年3月場所千秋楽、平成の大横綱・白鵬が大鵬と双葉山の8回を上回る、史上最多の9回目の幕内全勝優勝を達成。その全勝インタビューの際「先場所やりたい事があったんです。今大阪の皆さんと一緒に、亡き大鵬さんにこの優勝を捧げて黙とうしたいと思います。皆さん起立お願いします」と白鵬自ら発言し、春場所の観客と共に昭和の大横綱・大鵬へ1分間の黙祷を行った[25]

人物[編集]

交友関係[編集]

父親がウクライナ人で母親が日本人のハーフ。納谷は母方の姓で、幸喜の名は皇紀2600年に因んで名付けられた。イヴァーンというウクライナ語名も存在していたという。

ライバルとされた柏戸剛と「柏鵬(はくほう)時代」と呼ばれる相撲黄金時代を築いた。優勝32回(6連覇:2回)・45連勝などを記録したことから昭和の大横綱と称され、戦後最強の横綱と呼ばれることも多い[26]

現役時代は大変な美男子と評判だった。当時の子供の好きな物を並べた「巨人・大鵬・卵焼き」という言葉からも、当時の大鵬の人気と知名度が判るが、大鵬本人は「巨人と一緒にされては困る」と語ったこともある[27]。その理由は、大鵬自身がアンチ巨人(巨人が嫌い)だったことと、団体競技の野球と個人競技の相撲を一緒にされたくない気持ちがあったこと、そして何よりも、「大鵬の相撲には型がない」と批判されていた時期に「大人のファンは柏戸と大洋ホエールズ」などと評論家から揶揄されたことがあったためであるという。ただし、後年に出版した自伝には『巨人 大鵬 卵焼き ― 私の履歴書』という題名を付けた。また、巨人の選手の中でも、自身と同じ1940年(昭和15年)5月生まれの王貞治とは大変親しく、若い頃にはよく一緒に酒を飲んでいたという[28]。この「巨人・大鵬・卵焼き」という言葉は、1960年代前半の高度経済成長期に、通産官僚であった堺屋太一が、当時若手官僚の間で時代の象徴として冗談で言い合っていたこのフレーズを、記者会見の中で「日本の高度成長が国民に支持されるのは、子供が巨人、大鵬、卵焼きを好きなのと一緒だ」と答えて紹介したことがきっかけで広まったとされている。

取り口[編集]

非常に手堅く、若い頃はもろ差しを得意にしていた。胸を合わせずに前屈みになって腰を引く「逆・くの字」の体勢で相手の攻めを防ぎ、横へ回りながら自分有利の体勢に持ち込み、投げで崩すか寄り切る。体勢、とりわけ懐の深さに加え、真綿やスポンジに例えられるほど身体が柔らかく、どんな当たりをも受け止めても崩れない相撲を可能にした。立合いも上手く、最晩年の1971年(昭和46年)3月場所では初挑戦の大雪嶺登が奇襲として一度目の仕切りで立った際も難なく捕まえて勝利している。

大兵にも関わらず、前捌きや回りこみが巧みで冷静・緻密な相撲を取った。投げ技の中では上手投げも強かったが、特に左差し手を十分に返してから放たれる掬い投げの上手さが際立っており、伝家の宝刀と称された。前傾姿勢で腰を引く構えによって相手に廻しを取りにくくさせたが、自分も廻しが遠くなるため、掬い投げを多用した。1970年(昭和45年)5月場所の千秋楽では北の富士の上手投げを掬い投げで打ち返して全勝を阻止したが、北の富士は「柔らかさ負けしたよ」と嘆いた。通常、廻しを取らずに下手から投げる掬い投げは上手投げより効果が薄いとされるが、大鵬の場合、懐の深さに加えて柔軟な長身で上体の大きなひねりが可能だったことが、掬い投げを非常に有効にさせていた。突っ張りも強く、突っ張ってからの叩き込みも懐の深さ故によく決まった。だが、左膝を痛めた1968年(昭和43年)以後は叩き込みなどの引き技に頼ることが多くなって批判を浴びている。

一方で大鵬には反り腰がなく、上体が反ると残すことができなかった。この腰の脆さが弱点で、普段は「逆くの字」の体勢、身体の柔らかさ、懐の深さで弱点を補っていたが、胸を合わせてがっぷり四つになるとなかなか勝負に出られず、立合いから上体を起されて押されると一方的に攻められることもしばしばあった。そのような弱点を露呈させることが多かったのは、対戦経験の少ない平幕や押し相撲が相手のとき、彼らとの取り組みが多い序盤戦で、「序盤・平幕・押し相撲」が大鵬の鬼門と言われた。

基本的には左四つに組みとめての寄りと投げが主体のスタイルだが、押し相撲や右四つでも相撲が取れた。良く言えばオールラウンダーで、悪く言えば絶対的な型がなかった。この点は右四つの完成された型を持った双葉山定次とは対照的で、大鵬以前はこういった相撲は小兵のやることで横綱・大関には相応しくないとみられていた。また「逆・くの字」の体勢を「へっぴり腰」と揶揄されることもあり、腰の力で相手の攻めを受け止めて取る相撲を本格的とする立場の評論家(小坂秀二など)から「小さな相撲」と批判されたこともある。ただ、相手次第で取り口を変える柔軟性を持っていたという点では今でも非常に評価が高く、二所ノ関は「型のないのが大鵬の型」「名人に型なし」と批判に反駁した。大鵬が勝ち続けて昭和の大横綱へと成長すると、「型のない」大鵬の相撲は、状況に応じて相撲を変える「自然体」とも評価されるようになった。

その強さと出世の早さ故か、相撲の天才と呼ばれることも多かったが、本人は「人より努力をしたから強くなった」としてこれを嫌った。大鵬の素質に惚れ込んだ二所ノ関の徹底的指導によって鍛え上げられたが、その指導内容は四股500回、鉄砲2000回、瀧見山延雄による激しいぶつかり稽古というスパルタぶりだった。本人は弟弟子の大麒麟將能の方が天才と呼ぶにふさわしいと発言している。

エピソード[編集]

  • 少年時代を過ごした北海道弟子屈町の川湯温泉の温泉街には、1984年(昭和59年)に開館した弟子屈町川湯相撲記念館があり、大鵬が実際に使用した化粧廻しや優勝トロフィーなどのゆかりの資料が展示されている。この他、名勝負・名場面などの栄光の記録と生い立ちから最晩年に至るまでの歩みを綴ったドキュメンタリー映像を上映するコーナーもある。記念館の前には、大鵬の銅像も建っている。
  • 入幕から横綱昇進までは柏戸に3勝7敗と相性が悪く、1961年(昭和36年)3月場所では前場所に優勝してヨーロッパ旅行に行っていた柏戸に敗れた時は「こんなに稽古しても、ヨーロッパに行ってろくに稽古してない柏戸関に勝てないのか」と泣いて悔しがったという。ゲンをかついで、かしわ(鶏)肉ばかり食べていた時期もあったという。横綱昇進後は両者の力関係が逆転して大鵬が18勝9敗と大きく勝ち越し、通算でも大鵬の21勝16敗となったものの、大鵬自身は引退後も「柏戸さんの出足は最後まで脅威だった」と語り、「生まれ変わったら、今度は柏戸さんのような相撲取りになりたい」とこぼしたことがあった。
  • 新入幕の翌年に横綱に昇進した力士は大鵬以前にはなく、2012年(平成24年)現在でも大鵬が唯一である。大鵬の三賞受賞数が少ないのは、あまりにも早く大関・横綱へ昇進したためである。しかし、横綱は他の力士と違って降格を許されない地位であり、体力が衰えて横綱の地位に見合った好成績を出せなくなれば早期引退以外に道は無い。このことを大鵬自身はよく認識しており、横綱昇進が決定した時にも喜びは全く無く、むしろ引退時のことを意識せずにはいられなかったという[29]
  • 色白の美男だったためか、若い頃の人気は非常に高かった。男性相撲ファンに絶大な支持を誇った柏戸と比べて大鵬は女性・子供からの絶大な支持を誇った。大鵬の取組の時だけは銭湯の女湯ががら空きになったという[30]。全盛期には大鵬にあやかって「幸喜」と命名された男児が多くいた[31]。2013年01月現在でも俳優・劇作家・脚本家として活躍している三谷幸喜もその一人である。
  • 若い頃は大変な酒豪で、一日の酒量が一斗(18リットル)に達し、ビールを一升瓶で20本(36リットル)飲んだこともあったという。現役時代には同い年の親友(誕生日が9日違い)である王貞治と夜通し飲み明かしたこともあったが、その飲酒量の多さが後に健康を害した大きな原因と言われている。
  • 横綱土俵入りは、肘を少し曲げ伸ばししながら掌を返すことが特徴だった。
  • 現役時代より慈善活動にも熱心で、「大鵬慈善ゆかた」などを販売して、その収益は、1967年(昭和42年)から1968年(昭和43年)まで老人ホーム・養護施設へテレビを寄贈、翌1969年(昭和44年)から2009年(平成21年)まで、日本赤十字社に「大鵬号」と命名した血液運搬車を贈った。血液運搬車の寄贈台数は1969年(昭和44年)から1976年(昭和51年)までと1979年(昭和54年)から2001年(平成13年)まで毎年2台ずつ、2002年(平成14年)から2009年(平成21年)まで毎年1台ずつで、2009年(平成21年)9月に70台目(自身の年齢と同数)の贈呈を終えたところで活動も終えた。
  • 1982年(昭和57年)、人格者として知られていた大鵬は、「世界人道者賞」を受賞した。この賞は日本では余り知られていないが、ローマ法王などが受賞した世界的に重要な賞である。
  • かつては第68代横綱・朝青龍明徳のよき相談役として知られ、相手次第で取り口を変える自身のような万能型の大横綱の道を歩みつつある朝青龍を厳しく、かつ温かく見守っていた。朝青龍の謹慎問題などで批判されがちの角界で、OBとして発言力を持つ一人でもあった。しかし朝青龍は、2005年(平成17年)に7場所連続優勝・年6場所完全制覇・年間最多勝の更新(84勝)の新記録を達成した辺りから、大鵬の元へ相談に来ることが無くなったという。[32]そして結局、朝青龍は度重なるトラブルに責任を取る形で、2010年(平成22年)1月場所後に現役引退せざるを得なくなってしまった。
    • さらに、露鵬の大麻問題では同じく渦中に巻き込まれた北の湖理事長と対応を協議する事態となっていた。最終的には、自分の後継者で娘婿でもある大嶽が責任を問われて相撲協会の委員から平年寄への2階級降格処分を受け、北の湖親方も理事長辞任となった。
  • 亡くなるまで日刊スポーツの相撲担当評論家を務め、本場所開催中(奇数日目)は同誌に解説「土評」を連載していた(偶数日目は高砂浦五郎の「大ちゃん 大分析」)。
  • 自身が150kg台の体格をしていたのに対して1967年1月場所の幕内力士平均体重が121.63kgだったことや、ライバルの柏戸剛が横綱を47場所在位(歴代6位)したにも拘らず優勝5回に留まったことなどから、「他の力士が体格で劣り弱かった。」という見解も為される。しかし、東西横綱の片翼を担う柏戸は優勝次点を15回記録しており、完全な対抗馬不在ではなかった。また、170キロ台の巨漢力士であった義ノ花成典(最高位・東前頭筆頭)が、大鵬と同じ時期に同じ幕内の土俵に上がっていながらも一度も金星を許さなかったなど、体格差に負けない一面も備えていた。

主な成績[編集]

通算成績[編集]

  • 通算成績:872勝182敗136休 勝率.827
  • 幕内成績:746勝144敗136休 勝率.838(勝率では取り直し制度導入以降1位)
  • 大関成績:58勝17敗 勝率.773
  • 横綱成績:622勝103敗136休 勝率.858(同3位)
  • 幕内在位:69場所
  • 横綱在位:58場所(歴代3位)
  • 大関在位:5場所
  • 三役在位:3場所(関脇2場所、小結1場所)
  • 年間最多勝:6回(当時最多受賞回数・2013年1月現在、北の湖敏満の7回に次いで歴代2位。1960年 - 1964年の5年連続最多勝も当時最多、北の湖敏満・朝青龍明徳・白鵬翔と並び歴代最多タイ)
    • 1960年(66勝24敗)、1961年(71勝19敗)、1962年(77勝13敗)、1963年(81勝9敗)、1964年(69勝11敗10休)、1967年(70勝6敗14休・柏戸と同数)
  • 連続6場所勝利:84勝(1966年3月場所~1967年1月場所、1966年5月場所~1967年3月場所、1966年7月場所~1967年5月場所)
  • 通算(幕内)連続勝ち越し記録:25場所(玉錦三右エ門に次いで当時歴代2位、現在歴代10位タイ・1960年5月場所~1964年5月場所)
  • 幕内連続2桁勝利記録:25場所(当時歴代1位、現在北の湖・白鵬の37場所に次いで歴代3位・1960年5月場所~1964年5月場所)
  • 幕内連続12勝以上勝利:11場所(当時歴代1位、現在歴代4位・1962年7月場所~1964年3月場所)

幕内最高優勝32回は2015年(平成27年)現在、2番目である。様々な金字塔を打ち立てたが、特に入幕(1960年)から引退(1971年)までの12年間、毎年必ず最低1回は優勝した記録は「一番破られにくい記録」と言われる。2015年に白鵬が更新した

連勝記録[編集]

大鵬の最多連勝記録は、45連勝である。(1968年9月場所2日目~1969年3月場所初日。1926年の東西相撲合併以降、歴代4位)
下記に、大鵬のその他の連勝記録を記す(20連勝以上対象)。

回数 連勝数 期間 止めた力士 備考
1 25 1962年7月場所3日目 - 1962年9月場所12日目 北葉山
2 30 1963年3月場所5日目 - 1963年7月場所4日目 青ノ里 1963年5月場所全勝優勝
3 34 1963年11月場所千秋楽 - 1964年5月場所3日目 前田川 1964年1月場所~3月場所2場所連続全勝優勝
4 20 1964年9月場所5日目 - 1964年11月場所9日目 明武谷
5 26 1966年5月場所2日目 - 1966年7月場所12日目 豊山
6 34 1966年11月場所初日 - 1967年3月場所4日目 浅瀬川 1966年11月場所~1967年1月場所2場所連続全勝優勝
7 25 1967年9月場所初日 - 1967年11月場所10日目 海乃山 1967年9月場所全勝優勝
8 45 1968年9月場所2日目 - 1969年3月場所初日 戸田 1968年11月場所~1969年1月場所2場所連続全勝優勝
9 20 1970年11月場所6日目 - 1971年1月場所10日目 琴櫻
  • 上記の通り、20連勝以上9回、30連勝以上4回記録している。

各段優勝[編集]

  • 幕内最高優勝:32回(歴代1位)(1960年11月場所,1961年7月場所,1961年9月場所,1961年11月場所,1962年1月場所,1962年7月場所,1962年9月場所,1962年11月場所,1963年1月場所,1963年3月場所,1963年5月場所,1964年1月場所,1964年3月場所,1964年9月場所,1964年11月場所,1965年3月場所,1965年7月場所,1965年11月場所,1966年3月場所,1966年5月場所,1966年7月場所,1966年9月場所,1966年11月場所,1967年1月場所,1967年5月場所,1967年9月場所,1968年9月場所,1968年11月場所,1969年1月場所,1969年5月場所,1970年3月場所,1971年1月場所)
全勝:8回(当時歴代1位タイ、現在歴代2位)
連覇:6連覇(1962年7月場所~1963年5月場所、1966年3月場所~1967年1月場所 2度達成)
同点:2回
  • 十両優勝:1回(1959年11月場所)
  • 三段目優勝:1回(1958年3月場所)

三賞・金星[編集]

  • 三賞:3回
    • 敢闘賞:2回(1960年1月場所、1960年5月場所)
    • 技能賞:1回(1960年9月場所)
  • 金星:1個(朝潮1個)

脚注[編集]

  1. 北海道へ引き上げる際に稚内で途中下船したのは、大鵬が記した「私の履歴書」によると母親の事情ではなく、当時子供だった大鵬が「降りたい、降りたい」と愚図ったために仕方なく下船し、鉄道で目的地に向かったと述べている。大鵬自身も「小樽まで乗船していたら今の自分はなかった」と語っている。
  2. 大鵬は引退後、「おおづつ」と読ませる巨砲丈士を育てることになる。
  3. 幕内で初めて敗れた相手は、後に横綱へ同時昇進する柏戸剛である。
  4. 20歳6ヶ月での大関昇進は史上最年少(当時)で、関脇に昇進した20歳3ヶ月も当時の最年少記録である。現在 いつ?の最年少記録は関脇・大関とも貴乃花光司が保持。
  5. 入幕した年に大関昇進を果たした力士は2012年現在でも大鵬のみ(入幕から6場所での大関昇進も、年6場所制後最短である)で、同じく入幕した1960年に年間最多勝を獲得という、賞の発足後史上唯一の記録を立てた。
  6. この一番について、石原慎太郎より八百長疑惑をかけられたが、後に石原は謝罪している。
  7. 2007年8月2日、毎日新聞東京朝刊
  8. 情報ライブ ミヤネ屋、2008年9月10日放送分。
  9. 本人は「これ以降、肘が『く』の字に曲がったままの状態になってしまい、相撲に工夫が必要になった」と語っている
  10. 取り直し制度導入後では2位(当時)。この後に千代の富士貢が53連勝、白鵬翔が63連勝を記録して2012年(平成24年)11月現在では歴代4位。
  11. しかし、大鵬自身は誤審の判定を下された件について不満を述べることはせず、むしろ誤審を招くような相撲をとった自分に責任があるとして、「ああいう相撲をとった自分が悪いんです」とだけ語った。この発言は大鵬の高潔な相撲哲学を象徴する言葉として話題を呼び、横綱としての大鵬の評判を以前にも増して高めることになった。
  12. 北の富士・玉の海が横綱に昇進して以降の対戦成績は共に大鵬の4勝2敗で勝ち越している。
  13. これによって車椅子移動が基本となったために勝負審判が務められず、挨拶で土俵に上がるのにも支障が生じる。大鵬の同世代では佐田の山と豊山勝男が理事長を務めている。
  14. ベースボールマガジン社発行、月刊「相撲」2008年12月号71ページ閲覧
  15. 元横綱大鵬が最後の喝 スポーツ報知 2008年12月26日付
  16. 元横綱大鵬の納谷幸喜さん-文化功労者 時事通信 2009年10月27日閲覧
  17. 元横綱・大鵬の納谷幸喜さん死去…優勝32回 読売新聞 2013年1月19日閲覧
  18. 元横綱大鵬の納谷幸喜さん死去 72歳、幕内優勝32回 朝日新聞 2013年1月19日
  19. 大鵬「再興を」二所ノ関部屋消滅に「わびしいし、さみしい」 スポーツ報知 2013年1月10日閲覧
  20. 大鵬さん死去・談話 時事通信 2013年1月19日閲覧
  21. 「大鵬記念館」に20日から献花台…大横綱・大鵬死去スポーツ報知 2013年1月22日閲覧
  22. 大鵬さん戒名に「忍」 正四位と旭日重光章授与も決定 スポーツニッポン 2013年1月30日閲覧
  23. 大鵬:国民栄誉賞を授与へ…政府方針 - 毎日新聞 2013年1月31日
  24. 元横綱大鵬・故納谷幸喜さんに国民栄誉賞 - 読売新聞 2013年2月15日閲覧
  25. 白鵬が大鵬さんに黙とう - 中日スポーツ 2013年3月25日
  26. これには異論もあるが、ジャパンタイムズの記事"Whether crisis or not, sumo's show must go on"では「恐らく近代以降の(そして戦後に限れば間違いなく)最も偉大な力士」と紹介されている。
  27. 『巨人、大鵬、卵焼き - 私の履歴書』(発行・発売:日本経済新聞社・2001年2月刊)を参照。
  28. 大鵬がアンチ巨人だったにも関わらず王貞治と親しかったのは、誕生日が近いだけでなく、王が巨人の選手の中でも並外れた努力家で大鵬と共通するスポーツ精神の持ち主であったこと、また父親が外国人という共通点があった(王の父親は中国人であった)ことも理由として挙げられる。ちなみに、王も大鵬と同じく若い頃はかなりの酒豪であった。
  29. 大鵬よりも以前、栃錦清隆が横綱昇進を決めた日に師匠の栃木山守也から「今日からは毎日、辞める時のことを考えて過ごせ」と言い渡された話があり、大鵬もこの話を聞いて深く感じ入る所があったと言える。また、栃錦のライバルであった若乃花幹士も、大関以下の力士は負け越してもその時の実力に見合った番付で比較的長く現役を続けることができるが、横綱が負け越せば引退以外に道はないため、横綱昇進が決まった時には推挙を受けるべきかどうか、かなり悩んだという。
  30. 同様のエピソードに、ラジオドラマ「君の名は」がある。
  31. その世代の有名人の名を子供につけるという例は多く、全国高等学校野球選手権大会で人気を博した荒木大輔ヤクルトスワローズ)に因んで名づけられた松坂大輔ボストン・レッドソックス)などの例がある。
  32. 「大鵬さん「会見で謝罪なく腹立たしい」」日刊スポーツ2010年2月5日9時6分紙面から

参考文献[編集]

  • 大鵬幸喜『大鵬自伝』(ベースボールマガジン社、1972年)
    • 『大鵬自伝 (ほるぷ自伝選集―スポーツに生きる〈17〉)』(主婦と生活社、1981年)で再刊。
  • 大鵬幸喜『巨人、大鵬、卵焼き 私の履歴書』(日本経済新聞社、2001年2月) - ISBN 4-532-16377-3
  • 大鵬『一流とは何か』(KKロングセラーズ、2008年)
  • 大鵬監修『相撲道とは何か』(ロング新書・KKロングセラーズ 2007年)

関連項目[編集]

外部リンク[編集]