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2009年1月8日 (木) 18:31時点における版
日本共産党(にほんきょうさんとう、英:Japanese Communist Party,JCP)は、日本の政党である。
目次
党名
公式の文書及び機関紙『しんぶん赤旗』紙面や公式サイトでの表記は「日本共産党」としているが、日本マスメディアでは「共産党」との略称がほとんどである。英称のJapanese Communist Partyの頭文字によるJCPという表記もある。
また、日本国内に数多く存在する他の「共産党」と特に区別するため「日本共産党(不破派)」「日本共産党(志位派)」などの表記もあるが、特殊な事例に限られる(分派の一覧はCategory:日本共産党諸派参照)。
概要
「理論的基礎」として科学的社会主義を標榜し、究極目標としての「社会主義・共産主義」を掲げているが、資本主義の枠内で、対米従属と大企業支配の打破を当面の目標としている。
2024年現在の国会に議席をもつ党派では日本で最も歴史が長い(自由民主党の結成は1955年である。55年体制を参照)。「合わせられた4枚の赤旗の上に、稲穂を通した歯車」がシンボルマークである。
党勢
日本共産党の2007年7月末現在の国会勢力は、衆議院議員9名、参議院議員7名である。地方議員数は2006年5月3日時点で3,403人と、第一党の地方議会勢力となっている。(自民党所属の地方議員は無所属で会派を組んでいることも多い。)※後述。また、十数人の党員首長を抱えている。※後述
党員約40万人、機関紙「しんぶん赤旗」発行部数約173万部、支部を職場・地域・学園に約2万4000(2005年現在)置く、などのように、発達した資本主義国の共産主義政党としては、最大の規模を持つ。
ただし、「綱領を読了した党員が34.2%」(日本共産党第24回党大会決議、2006年1月)「選挙戦への活動参加は、多くの党組織で6割から7割台にとどまった」(同大会第4回中央委員会総会での幹部会報告、2005年10月)という実態もある。
既に死亡した党員について遺族が届け出忘れ・事務処理の遅れなどで党員として集計していたりする場合もある。さらには、本人からの離党の届け・未結集の党員などについて、支部からの要請にもかかわらず、所轄する地区委員会が離党としての処理を行なわず、数年間に渡り引き続き党員として集計され続けている例も多く確認されている。
また、党費納入の率を上げるように促す文書がしばしば出されたり、選挙のときに全党員の決起を呼びかける文書(行動への参加、全党員の日刊紙購読の訴え)が出されるなどの事例が見られることから、「40万人」とされる党員のうち、全てが積極的に党員としての政治活動・選挙活動を行っているわけではない[1]。
結党時は当時の情勢から非合法を余儀なくされたが、当時の政権政党が大政翼賛会の結成に伴って自主的に解体へと向かい、その結果、戦後結成された政党には戦前からの連続性が途絶えているのに対して、戦時中も存続したことから「日本の政党で最も長い連続性を保っている政党」と考えられている。その点で、鶴見俊輔が“今の自分がどの位日和ったかが測れる党”と「北極星」に擬えたこともあった。
財政
日本共産党の資金源は(1)事業(機関紙)収入(2)党費(3)個人寄付によって成り立っている。日本の議員は一般に政治資金面で党よりも自己の収入や政治献金に多く依存し、組織的には政治家個人を推す後援会を基盤とするが、日本共産党の場合は資金・組織の両面で党が主柱になっている。「見返りを求めない企業献金などあり得ず、政治を腐敗させる元凶」として企業献金を受け取らず、団体献金についても「団体に所属する構成員の思想・信条の自由を侵害する」という理由で受け取っていない。よって贈収賄で逮捕された議員は皆無。
また政党交付金(政党助成金)を憲法違反の制度であるとして受け取りを唯一拒否しているため、共産党が受け取る政党交付金は他党に配分される。かつて第二院クラブが登録しておいて受け取りを拒否し、自党が受け取るはずの助成金を国庫に戻させていたが、共産党は登録をすること自体が政党助成制度を認めるとして登録をしないため、共産党が受け取る政党交付金は他党に配分される事態になっている。
その政治資金の大半は機関紙発行の資金として運用している。
機関紙『しんぶん赤旗』は、独自の編集方針で定評があり、非党員の支持者・中立者の読者も多く抱えるが読者数の後退に苦しんでおり、同党自身「『しんぶん赤旗』の読者数は、1990年に286万人だったのが、現在、199万人余になっている。」(同党第22回党大会決議、2000年11月)としている。
綱領
日本共産党は、2004年1月13日から1月17日にかけて第23回党大会を開催し、綱領の全面的な改定を決定した。
現状認識と政治的目標
日本の現状規定は、次の通りである。「わが国は、高度に発達した資本主義国でありながら、国土や軍事などの重要な部分をアメリカに握られた事実上の従属国となっている」。これを踏まえ、当面の主張として、(1)大企業(独占資本)へのさまざまな民主的規制と、軍縮や無駄な公共事業の中止を財源とした社会保障の充実。(2)対米従属を批判し、日米安全保障条約の廃棄と非同盟・中立の日本を実現する。特に軍事同盟・軍事ブロックからの離脱を目指す。(3)憲法改定を許さず民主主義の徹底を図る、という3点を挙げている。
自衛隊の取扱い
1960年代までは、対米従属の自衛隊は解消し、対米従属解消後に改憲を視野に入れた自衛のための組織を持つという、いわゆる「中立自衛」政策をとっていたが、1994年の第20回大会で、現行の憲法9条(非軍備・非戦)を将来にわたっての保持を主張することを明示した。その後、現在の同党の自衛隊政策案は、(1)軍事同盟である日米安保条約の解消前はできるかぎり軍縮し、(2)日米安保条約解消後も国民が望めば存続し、(3)国民が国際情勢などから解消しても問題ないと判断すれば自衛隊をなくす、という『段階的解消論』に立っている。
22回大会では、(1)(2)の段階で万が一急迫不正の主権侵害があれば、自衛隊も活用することを正式に決定している。いわば廃止を目指しつつも国民が望めば自衛隊を存続し、必要があれば「活用」する、というのが同党の現在の政策案である。この政策は同じ護憲政党であっても自衛隊容認から転じて「非武装の日本を目指す」(2006年)との政策に戻った社会民主党とは逆である。ただし他党と比べて「専守防衛」の武力行使自体にもかなり慎重ではある。「自衛隊『活用』」論についてはこの大会前に、党員からの少なくない批判や削除要求が挙げられた[2]。
2005年のスマトラ沖地震、2008年の四川大地震の際には人道支援による自衛隊派遣を容認する立場を取った。[3]
2007年6月に陸上自衛隊情報保全隊が密かに収集していたイラク戦争反戦の市民団体や著名人のリストを入手し、公表した(情報保全隊の市民活動監視問題を参照されたし)。
「民主連合政府」構想
複数政党と諸団体による「民主連合政府」を政権構想として掲げており、早期の単独政権は目指していない。党の準綱領的な方針である『自由と民主主義の宣言』では、「3つの自由」として、(1)生存の自由、(2)市民的政治的自由、(3)民族の自由を将来に渡って堅持することを公約している。特に、(2)市民的政治的自由では、旧社会主義諸国の否定的経験も踏まえ、議会制民主主義や三権分立の堅持と発展、言論・出版の自由やその他一切の表現の自由、信教の自由、学問の自由、団結権、人身の自由、文化の自由、芸術の自由の擁護、(以上、自由、自由権、人権も参照のこと)と発展、また少数民族、個人生活の自由の擁護や国定哲学の否定を謳っている。
天皇制の取扱い
天皇制に関しては戦前の絶対主義的天皇制からの現憲法での根本的転換がなされたとして、また「護憲」の立場から憲法の条文どおりの象徴天皇制を容認している。ただし、天皇制自体については現在においても「世襲制は平等に反する」「封建制の遺物」と否定的であり、政権政党となった場合、国民の合意に基づき天皇制を廃止するのが最終目標としている。
国会開会式への天皇の出席や皇室外交についても、「憲法違反」として認めておらず、中止を主張している。このため国会議員団は国会開会式に参加しない。
組織
党員
18歳以上の日本国民で、党の綱領と規約を認める人は、2人の党員の推薦を受け、支部の決定と上級機関の確認を経て、党員になることができる。入党手続きの前に「党を知る会」が開かれ、党についての説明と、意思確認が行なわれる事が多い。入党に際し掛かる費用は「入党費」(300円)である。
反社会的活動に従事する者や、また国家権力によるスパイ活動を防止するため、警察官・自衛隊員・公安調査官及び各機関の関係者の入党は認めない。関係の切れた元職員の党員は存在する。規約により、他党に所属しつつ入党(重党籍)することは出来ない。他党の元党員が入党することは可能ではあるが、通常の入党手続き(地区委員会の承認)とは異なり「都道府県委員会または中央委員会の承認を受ける」とされている。
党員は基本的には「支部」に所属して活動する。義務である党費は「実収入の1パーセント」(規約第46条)である。
ただし、議員ないしは首長となった場合は国や地方より支払われる給与を一旦党本部に納め、それから経費を引かれた額を党が給与として支払うというシステムをとっているため、これを党費として見る場合は収入の1パーセントより遥かに多い金額を党に納めていることとなる。議員や首長の歳費から差し引かれた資金は議会活動に関わる資金(調査費など)として使用される。また、選挙や社会運動を行なう上でカンパ(個人献金)を呼びかけることも多い。逆に、生活に困窮している党員に対しては党費の減免制度がある。
なお、規約上の規定は無いが、しんぶん赤旗の日刊紙を読むことも事実上の義務となっている(かつては規約で義務化されていた)。
「永年党員」(党歴30年以上)、「50年党員」(党歴50年以上)の表彰制度がある。著名な50年党員として俳優の花沢徳衛などがいる。
党の主要な役職に就いたり、公職の選挙に立候補しない限り、親しい人以外に党員であることを積極的に公表する人は極めて少ない。
地方組織
職場、居住地域、学園などに、3人以上の党員で「支部」を形成(労働運動、女性運動などの専従者・役員は支部の代わりに「グループ」を形成)。かつて「支部」は「細胞」と呼ばれていた。支部は「党の基礎組織」とし、支部 - 地区 - 都道府県 - 中央の形で縦割りに組織している。各級は党会議あるいは総会により、指導機関である「委員会」(支部は「支部長」の場合もある)を選出する。
- 「支部」は、企業・団体内につくられるもの(職場支部、労組グループ、婦人運動グループなど)から、市町村などの区域内をいくつかにわけた各地単位(地域支部、居住支部)、大学などに通う学生単位(学園支部)、更には階層ごとに組織されるもの(青年支部[4]、複数の学校にまたがる学生支部など)など、様々な形態で存在する。居住地域の「支部」は、他の政党には見られないきめ細かさで、都市部では比較的身近に存在し、議員主体の政党でない同党の特徴と言える。
- 「地区」は、東京都23区では特別区単位で存在し、人口と党員の少ない地域では、県を2~3つにわけた程度の広範囲の名称を冠する「地区」も存在する。
- トヨタ自動車や東京大学など多くの党員を抱える職場・学園、一つの市町村区域内に2つ以上の支部がある場合、地方議員を抱える場合などに補助機関として「委員会」が組織されている(党規約[5][6]など)。
現在の日本共産党規約[5]では、「地方的な性質の問題については、その地方の実情に応じて、都道府県機関と地区機関で自治的に処理する。」とし、民主集中制でありながら、一定の党内自治権を謳っている。かつては上意下達的な指揮命令権が確立されており地域の実情が考慮されていない傾向が強かった。その傾向により活動や自治体運営のうえで障害が発生する事もあったため、近年ではその反省からか「指導」はかなり控えめになっている。
「査問」問題
日本共産党はいわゆる「査問」の存在を否定しているが、かつて「査問」に付され党を除名されたり、後年離党した査問経験者が、その経験談を著作やウェブサイト上で公開し、告発している。[7][8]。また、2002年に日本共産党を除名された人物に対する査問の様子とされる録音資料がブログ上で公開されている[9]。最も著名な例である1972年の「新日和見主義事件」では、査問の対象者は長期間一室に監禁され、家族への連絡も許されなかったなどの証言もあり、「重大な人権侵害」との指摘がある。
事務所
日本共産党の事務所は、本部、伊豆学習会館、都道府県委員会事務所、地区委員会事務所の党機関事務所と、衆議院議員ブロック事務所、参議院議員都府県事務所がある。他に補助機関(市委員会)の事務所や党地方議員(議員団)の事務所が存在する場合がある。選挙事務所は別の場合が多い。なおしんぶん赤旗の編集局と支局は党事務所とは別に存在する。
本部
代々木駅・北参道駅に近い東京都渋谷区千駄ヶ谷四丁目の東日本旅客鉄道中央本線沿いにある。地上8階・地下2階の「2期棟」(2005年完成)と、地上11階・地下1階の「1期棟」(2002年完成)で構成され、延べ床面積は約16000㎡で、延べ床面積では日本の政党本部ビルでは最大規模である[10]。総工費は85億円で、多くは党員・支持者からによる寄付や無利子借入金による。
「日本共産党中央委員会」を掲げ、中央委員会の諸機関が入居しており、中央委員会総会が開催できる500人収容可能の「大会議室」を有する。一方で、党大会は収容人数の問題から行わず、またしんぶん赤旗編集局は向かいの別のビルに入居している。
この他エントランスホールは8時から20時まで自由に出入りできるようにするなど、一部が一般に開放されている点が特徴。本部見学も行われている。なおこの場所は、元々映画館であった建物を党の合法化以降使用し始めたものであり、後に改築・建て増しを繰り返し、8棟のビルからなる本部となった。本部内は「平成日本のよふけ」で公開されたこともある。
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本部ビル
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本部入口
伊豆学習会館
静岡県熱海市上多賀の伊豆多賀駅西方約2kmの山中にある。社会主義や公式党史などを学ぶ「党学校」などが開かれる他、党大会が付属大講堂で開催される。そのため、宿泊施設も存在する。この場所は、江戸城築城の際に石を切り出したところであるという。
地方
都道府県委員会、地区委員会は事務所を有しており、場所を公開し、勤務員が常勤している。地区委員会の事務所は概ね民家・小商店・オフィスビルの一フロア程度の規模が多く、ほとんどはしんぶん赤旗の新聞販売店(配達拠点・管理)の機能を併せ持っている。
県庁所在地の場合、県委員会と地区委員会の事務所が同じ建物内にある場合もある。
機関紙誌
中央
日本共産党は多くの中央機関紙誌を発行しており、党員・後援会員以外の人も購読する事ができる。
中央機関紙として日刊の『しんぶん赤旗』(ブランケット判)と週刊の『しんぶん赤旗日曜版』(タブロイド判)を発行している。かつては学生党員向けの『学生新聞』も発行されていた。
『前衛』、『女性のひろば』、『議会と自治体』、『月刊学習』などの月刊機関誌を発行している。これら雑誌は、日本国内一般書店での取扱が可能である。
かつては、『世界政治 - 論評と資料』(『世界政治資料』。1992年12月の第875号を以って廃刊)、『理論政策』(『理論政策資料』。1993年1月の第300号を以って廃刊)などの刊行物もあり、1983年に開始された写真誌『グラフこんにちは日本共産党です』は2000年12月17日の第372号を以って「休刊」している。
なお、1989年の消費税導入当初には新聞などの広告に「日本共産党は消費税廃止を主張していますが、流通取り扱い上価格は税込みとします」という文言が入っていた。
地方
都道府県委員会等の地方指導機関が発行する地方機関紙がある。『○○民報』(○○には当該地名が入る)という名称が非常に多い。中には党関連の別組織が発行している例(『京都民報』、『大阪民主新報』)もある。その他、地方議会議員(団)が発行する広報紙がある。
普及協力
同党は新日本出版社の発行する月刊『経済』の普及(宣伝)に協力している。同党の事務所で販売や定期購読の申し込みを受け付けている。また、日本民主青年同盟の発行する『民主青年新聞』『われら高校生』(いずれも週刊紙)の購読の仲介もしている。
かつては小中学生向けの『少年少女新聞』や雑誌としては『文化評論』『あすの農村』『労働運動』などもあったが、休刊もしくは廃刊している。
歴史
戦前非合法時代
1922年の同党創設当時、治安警察法、治安維持法などの治安立法により非合法活動という形を取って行動せざるを得なかった。これは、ほかの資本主義国では、既存の社会民主主義政党からの分離という形で共産党が結成され、そのために最初は合法性を有していたことと比較すると、日本の独自の事情があった、と言うことができる。日本の場合は、逆に共産党から離脱したものが、社会民主主義政党をつくっていった(堺利彦・山川均・荒畑寒村など労農派が中心)。同党は1922年7月15日に日本共産党として設立され(9月創立説もある)、11月にコミンテルンに加盟し、コミンテルン日本支部・日本共産党となった(最初の「綱領草案」は日本で論議して審議未了)。1924年に解党の議論が出るが、すぐに再建された。その際、堺や山川ら労農派の中心メンバーや、後に国家社会主義者に転向し日本革新党を結党する赤松克麿らが離脱している。
「綱領草案」(1923年)、「27年テーゼ」(1927年)、「32年テーゼ」(1932年)という3つの綱領的文書(後の二者はソビエト連邦(ソ連)に本部をおいていたコミンテルンで片山潜などの意見を取り入れながら決定されたもの)によって、日本の支配構造を、絶対主義的天皇制を主柱とし、寄生地主制と財閥による独占資本主義という3つのブロックの結合だと規定。ブルジョア民主主義革命を通じて社会主義革命に至るとする二段階革命論の革命路線を確立した。「32年テーゼ」では、民主主義革命の主要任務を、絶対主義的天皇制の打倒、寄生的土地所有の廃止、7時間労働制として、「帝国主義戦争と警察的天皇制反対、米と土地と自由のため、労働者、農民の政府のための人民革命を中心スローガンとした(同テーゼ)。この思考はソ連成立以前のツァーリによるロシア帝国の絶対支配と日本の皇室制度に対して、経済的側面からの共通点を過大評価しており、一部のインテリや学生には支持を得たが広範な大衆にはなかなか浸透していかなかった経緯がある。逆に、その日本の皇室がもっていた独自の精神的な立場を、「天皇制」という用語はみごとに表現していたため、戦後「天皇制」の用語は、共産党関係に局限されることなく、広く学問的にも、社会的にも使用されるようになった。
党組織は、非合法の党本体と、合法政党や労働団体など諸団体に入って活動する合法部門の2つの柱を持ち、非合法の地下活動を展開しながら、労働農民党などの合法政党に顔を出して選挙活動を支えた。戦前の同党幹部であった野呂栄太郎らの『日本資本主義発達史講座』などの理論活動、小林多喜二や宮本百合子らのプロレタリア文学活動にも多大な影響を与えた。
1927年の第16回衆議院議員総選挙では党推薦で労働農民党京都府連合会委員長の山本宣治が当選し、事実上初めての「日本共産党の国会議員」が誕生した。1929年山本は右翼に刺殺され、党は山本を正式に日本共産党員に加えた。
他方で27年テーゼ時代には、コミンテルンの方針の影響を受け、社会民主主義との闘争の強調や、ファシズムと社会民主主義を同列に置く「社会ファシズム」論を採用し、労働組合運動などに影響が生まれた。社会民主主義の労農派とは1927年から1937年まで10年間、論争を繰り広げた(日本民主革命論争・日本資本主義論争)。「東京市電争議における幹部暗殺計画・車庫放火事件」や「川崎メーデー武装蜂起事件」を敢行。コミンテルンからの資金が枯渇すると、資金強奪計画を練り、「赤色ギャング団」を結成。「中国銀行岡山本店襲撃計画」など、不法事案を引き起こした。しかしこの中には、警察が潜入させた人物によって引き起こされたものもあった。それが下記のスパイ査問事件(公式には治安維持法等被告事件。スパイ査問などという表現は存在しない)へとつながることになる。
同党は繰り返し政府から弾圧を受け、堺利彦らは解党を唱え1924年にいったん解党を申し合わせ、翌年再建。さらに1928年の三・一五事件や1929年の四・一六事件で治安維持法に基づく一斉検挙を受けた。
この頃の党の活動としては、いわゆる満州事変に際して「奉天ならびに一切の占領地から、即時軍隊を撤退せよ」「帝国主義日本と中国反動の一切の軍事行動に反対せよ」とするステートメントを出し、反戦デーにおいて非合法集会・デモ行進を組織した。また、日中戦争に際しては、戦争反対とともに、出征兵士の家族の生活保障や国防献金徴収反対などの「生活闘争」との結合を企図した。日本共産党は軍隊の中にも浸透を図り、1932年には「兵士の友」などの陸海軍兵士にむけた雑誌を刊行。軍港の呉では「聳ゆるマスト」という水兵むけ新聞を出し、海軍にも組織化をすすめた(数ヶ月後に弾圧され壊滅)。当時の指導部は革命近しとして、1930年には労働者に竹槍をもたせ「武装メーデー」と称する行進をおこなわせる事件も起きた。
特別高等警察(特高警察)と政府は、治安維持法に違反する共産党を壊滅させるために、共産党内部に協力者をつくり出すこと、あるいは工作をする人員を送り込むことを戦略的方針とし、協力者や工作員のなかには主要幹部にまでなる者もいた。特高警察は、検挙の手引きとともに、検挙だけでは共産党の後継が依然再生産されることを重く見て、1930年代からは共産党の社会的信用の失墜を企図した事件をおこさせることで根源的な壊滅を図った。特に後年松本清張は『昭和史発掘』のなかで、「スパイM」(松村昇、本名・飯塚盈延)として、1932年の熱海での全国代表者会議での大量逮捕(熱海事件)、川崎第百銀行大森支店襲撃事件を主導したとされる人物について論じている。翌年には中心幹部であった佐野学・鍋山貞親が転向声明を出す事態となった。こうした一連の事件によって、獄中でも党員に動揺が走り大量転向が起きた。後に「フィクサー(黒幕)」と呼ばれ暗躍する田中清玄らの転向・離党もこの時期である。闘争方針の中心に「スパイ・挑発者の党からの追放」が据えられたのもこの頃である。
1932年5月、全教の活動家である松原(本名・宮上則武)が「超スパイ(プロヴァカートル、挑発者)」としてリンチされ、一命を取り留めたが除名された。しかし松原は、そもそも党員ではなかった。8月15日、朝鮮人活動家の尹基協が「スパイ」容疑で射殺された。手を下したのは村上多喜雄だが、スパイと断定して殺させたのは、本物のスパイである松村であったという。松原も尹も、スパイ容疑は濡れ衣というのが有力である。「スパイ・挑発者の党からの追放」は党内の疑心暗鬼を煽る結果にもなり、特高警察にとっては全てが好都合にことが進んだ。
1933年、中央委員(当時)宮本顕治らが「スパイ」容疑のある人物2人を取り調べていた際に、1人が死亡する事件が発生した。(日本共産党査問リンチ事件)[11]。
このように党内の動揺は愈々激しくなり、ついに1935年3月、活動していた中央委員が検挙され中央部が壊滅、統一的な運動は不可能になった。
この間に、1936年のフランスやスペインで「人民戦線」とよばれる統一戦線政府が成立し、コミンテルンが方針転換した。モスクワから帰国した日本共産党幹部によって「人民戦線運動」が呼びかけられたが、大きな広がりにはならなかった。
その後も、同党の再建をめざす運動(関西における運動)や、個々の党員による活動は存在したが、いずれも弾圧の対象となった(『日本共産党の七十年』には、1936年1月に関西地方委員会の検挙、11月に名古屋での検挙、1937年12月にコミンテルンの指示で日本に入国して活動していた小林陽之助の検挙、1940年5月に山代吉宗(作家山代巴の夫)や戦後国会議員になった春日正一らの検挙が記録されている)。また、国外に亡命していた野坂参三は、延安で日本軍捕虜の教育活動をして、戦後の運動再建に備えていた。また、宮本顕治は、裁判闘争をつづけ、その中で日本において共産党の活動が生まれるのは必然的なものだと公判廷で主張した。
終戦と合法化
1945年8月15日の第二次世界大戦の終戦後、日本共産党は徳田球一を書記長として合法政党として再建された。出獄した幹部は、釈放を喜び、はじめのうち連合国軍を「解放軍」と規定した(現在は否定している)。1946年の第22回総選挙では5議席を獲得し、初めて帝国議会に議席を得た。
独自の憲法草案として、日本国憲法の制定前の時期に「日本人民共和国憲法草案」を発表。日本国憲法制定時の採決では、「天皇制の存続による民主化の不徹底」や内閣総理大臣吉田茂の「自衛戦争の否定」発言などを理由に、反対票を投じている。
連合軍に解放された党は、急激にその勢力を増していった。各地域や職場・学校では党員による細胞(現在の「支部」)が組織され、学生運動や労働運動を活発に展開した。1947年には、階級闘争の高揚の中で「吉田内閣打倒」を掲げる二・一ゼネストと呼ばれる大規模なゼネラル・ストライキが計画されていたが、前日のダグラス・マッカーサーの中止命令を受け全官公庁共同闘争委員会の伊井弥四郎議長が同日夜、ゼネスト中止指令をラジオ放送を通じて発し、これによって二・一ストは敗北し、戦後の労働運動の大きなつまずきとなった。
その後も国民の生活困窮を背景に党勢を拡大し、片山・芦田内閣の迷走で社会党に失望した有権者層の一部を吸収したために、1949年の第24回総選挙では35議席を獲得した。
1950年問題(分裂、武装闘争方針)
米ソの冷戦が激化し、中国で中国共産党が勝利し朝鮮半島での緊張が高まると、米国は、「日本を中立・非武装化して中国をアジアの拠点とする」というそれまでの戦略を転換させ、日本を「反共の砦」と位置づけるようになる。反共・封じ込め政策に基づくいわゆる「逆コース」である。このため日本の朝鮮戦争(1950年)の出撃基地化、日米安保条約の締結(1951年)、「戦犯」の復帰、警察予備隊(のちの自衛隊、1950年)の創設がおこなわれ、共産主義者とその同調者とされたものにレッドパージがかけられた。1950年にマッカーサーは共産党の国会議員など24人の公職追放・政治活動の禁止を指令。日本共産党は中央委員会を解体し、幹部だった徳田球一らは非合法活動に移行。中国に渡航して「北京機関」とよばれる機関がつくられた。日本には徳田らが指名した臨時中央指導部が残った。
この頃、中国共産党勝利により、武装闘争による革命という路線を普遍化しようとしていたスターリンと毛沢東らは、コミンフォルムを通じて、当時の日本共産党の「占領下での革命」論(平和革命論)を批判。このコミンフォルム論評の評価をめぐり、党内で意見が別れた。さらに後にソ連・中国が徳田らの主流派を支持する形で他の反主流派を批判するキャンペーンを展開し、資金などの応援もしたため、占領軍による弾圧とあいまって、日本共産党は分裂・混乱に陥った。
党は、徳田ら主流派(所感派)、宮本顕治ら国際派、春日庄次郎、野田弥三郎ら日本共産党国際主義者団、福本和夫ら統一協議会、中西功ら団結派など大小数派に分裂した。また1950年には徳田要請問題が発生し、徳田が証人喚問される事態になった。
主流派は1951年10月の第5回全国協議会(5全協)で、「農村部でのゲリラ戦」を規定した新たな方針「日本共産党の当面の要求」「軍事方針」を採択。「山村工作隊」「中核自衛隊」などの武装組織を建設し、武器製造法を記載した「栄養分析法」等を発刊。全国各地で火焔瓶闘争や騒擾事件などを引き起こし、治安を乱した。徳田を中心とした主流派の主導した武装闘争路線は到底、国民の支持を得られた出来事ではなく、それと同時に離党者を生む結果となった。1952年に行われた第25回総選挙では公認候補が全員落選するなど、著しい党勢の衰退を招くことになっていった。この1950年代の同党の分裂と混乱を、同党自身は「五〇年問題」(50年問題)・「五〇年分裂」(50年分裂)と呼んでいる。
1952年、政府はこれら武装闘争を取り締まるためとして、破壊活動防止法(破防法)を制定した。日本共産党は同法の「調査対象団体」に指定された。6全協とその後の総括・宮本路線などのソフトイメージで武闘路線を放棄したと言われている現在も、敵の出方論を主張しているという理由から公安警察や公安調査庁により“調査活動”が現在も続けられている。特に警察は日本共産党幹部宅盗聴事件、アジトからの隠しカメラを用いた党本部監視、果ては菅生事件など、明るみに出ただけでも複数の非合法な手段を用いてスパイ行為及び組織破壊工作をしており、党はその不当性を訴えているが、『警察白書』では、2006年現在も共産党を調査対象団体とし、数ページを割いて動静を追跡している。警察学校での「初任科教養」においても、党の綱領や決定について、きわめて批判的な講義がなされている。一方、破壊活動防止法に基づく調査活動を行っている公安調査庁では、現在では公然情報の整理と分析に留まっているが、時々職員によるスパイ工作が発覚し、党組織や日本国民救援会などの人権団体を通じて抗議活動が行なわれている。共産党は破防法を成立時から強く批判し、法曹・法学界でも破防法そのものが憲法違反であるとの意見が多数ある。
1955年、現実を無視した武装闘争路線は破綻し、党の再統一と改革を模索せざるをえなくなった。後に共産党の公式見解上ではこのことを契機に自分自身の力によって中ソなどの大国の干渉を払拭して自主独立の路線を確立するに至ったとされている。さらに徳田に統率された主流派も書記長である徳田が亡命先の北京で客死したことや、その後の指導権争いなど一連の騒動で疲弊しており、国内にいた宮本らの国際派と合流せざるを得ない状態になったとしている。
その後開催された党の第6回全国協議会(6全協)および1958年の第7回党大会で党の団結と統一を果たすに至ったがそこに達するまでは相当の紆余曲折があった。後に選挙において得票率は徐徐に回復してきたが、インテリに対しての大きな威信と指導力を取り戻すことはなかなかできなかった。宮本顕治(のちに、幹部会委員長・議長にも)が書記長に就任後はいわゆる宮本体制を整えていったが、自主独立といわれる路線を構築する要因となったきっかけは、フルシチョフの修正主義を批判したことと、友党関係を築いていた当時の中国共産党とでの文化大革命による干渉がおき、以降はソ連共産党と中国共産党から離反し、外部の意向に拠らず独自に活動を展開することになる。これを契機に不破哲三や上田耕一郎といった改革派を次々と党の中央の要職に抜擢し「自由と民主主義の宣言」や「宗教についての日本共産党の見解と態度」(宗教決議)を打ち出したり、マルクス・レーニン主義を科学的社会主義、プロレタリア独裁の放棄など名称の変更や改訂を行ったり当時ヨーロッパで提唱されていたユーロコミュニズムの主張と類似するような動きを開始した。これは国際共産主義運動の動向・意向に敏感に従っていたそれまでの党のあり方と異なる点で、以後の日本共産党の特徴になった。
なお、大武礼一郎ら所感派の一部は合流せず、日本共産党 (行動派)(下部組織に日本人民戦線)を結成した。
「自主独立路線」
中ソに盲従することで党組織に壊滅的な打撃を受けた経験から、同党は「自主独立の重大性を認識させる契機」(同党第20回大会報告)となったという。しかし、同党が「ソ連などの覇権主義にたいする認識は、はじめから全面的であったわけではありません」(同)とのべているように、50年問題解決後も、ソ連のユーゴスラビア非難への同調、ソ連のハンガリー侵攻への支持をした。ハンガリー事件を契機に、学生などが共産党の影響をはなれ、全学連などにいた学生党員を中心に日本共産党に反対する共産主義グループがつくられていった。
合法活動路線への転換や1956年のスターリン批判を経て、元党員のトロツキー主義者らは日本トロツキスト聯盟(後の革命的共産主義者同盟)を結成、全日本学生自治会総連合の一部活動家らは共産主義者同盟を結成した。1960年の安保闘争では穏健路線を取り、強硬な運動を主張する全学連と激しく対立。共産党は彼らをまとめて「トロツキスト」と非難した(必ずしも批判された側すべてが「トロツキー」主義者であったわけではない)。
1961年には綱領草案を巡る論争の中から日本独占資本を主敵とし、当面する革命を社会主義革命とする「一つの敵」論を主張する春日庄次郎、山田六左衛門ら構造改革派が離脱し共産主義労働者党を結成。1964年には中・ソ対立の中で党の中国共産党寄り路線に反対するとし、国会での部分的核実験停止条約批准に賛成票を投じた衆議院議員の志賀義雄や、同じく同条約批准に賛成の意向を示した参議院議員の鈴木市蔵ら親ソ連派が除名され、「日本共産党 (日本のこえ)」を結成。文化人では、中野重治・野間宏らがこの時離反している。
1964年にソ連のアメリカ評価、核兵器政策をめぐって日本共産党はソ連共産党と対立し、論争を公然化させた。このなかで、当時国会議員だった志賀義雄や鈴木市蔵が国会でソ連が推進する部分的核実験停止条約に賛成し、日本共産党は「党の決定にそむくもの」として除名した。ソ連は志賀グループを公然と支持し、日ソ両党は激しい論争となった。
また、1966年、「文化大革命」を契機として中国共産党(主に毛沢東)から日本共産党へ「修正主義」との批判が加えられ、ここでも激しい論争となった。世界の共産党でも同じような現象がおきたが中国に同調するグループが各地でつくられ、山口県委員会などが中国派の中心になった。「共産党は一九六六年に、従来の非妥協的新中共路線とたもとをわかち、“現代修正主義”〔ソ連〕と“左派教条主義”〔中国〕との断絶ははっきりし、両派はこのうえない痛烈な表現で直接お互いに指導者に攻撃を加えた。八月には最後に残った二人の日本共産党代表が北京を離れたが、出発のさい紅衛兵に激しく殴打された」(アメリカ国務省情報調査局年次報告1968年版)。この過程でも中国派は党規約にそむいたかどで除名された。このように日中共産党の関係が悪化し、日本共産党の自主独立路線に反発するという名目で西沢隆二、安斎庫治、原田長司、大隈鉄二、福田正義ら親中共派が離脱、「日本労働党」、「日本共産党 (左派)」、「日本共産党革命左派神奈川県委員会」、「日本共産党 (マルクス・レーニン主義)」(後の労働者共産党)、「日本共産党 (解放戦線)」、「日本労働者党」などを結成した。合法闘争路線への転換以後のこれらの党内闘争は総じて、コミンテルン支部時代に掲げていたプロレタリア国際主義理念などを錦の御旗として掲げていたものの、実質的には武装闘争路線への回帰や外国の党の指導を受け入れることを路線として掲げていたもので、とりわけ中国からの日本共産党内部への干渉、多数派工作とその破綻と見ることができる。
こうして、ソ連と中国との激烈な論争で大量の除名や分派を生み出しながら、同党は1960年代後半ごろに「自主独立」路線を確立した。以後、ソ連によるチェコスロバキア侵略(プラハの春)・アフガニスタン侵略、中国によるベトナム侵攻を批判した。また、カンボジアのポル・ポト政権、北朝鮮指導部(朝鮮労働党)によるとされる日本人拉致事件・大韓航空機爆破事件・ラングーン事件・日本漁船銃撃事件などにも厳しい態度をとり、「社会主義国」一般に対しても同じ姿勢をとるようになった。
1968年の「プラハの春」に際して、党中央はソビエト連邦共産党を明確に批判したが、一部の党組織には、ソ連とワルシャワ条約機構軍を擁護する文書が密かに流された。ソ連派が党内に潜伏していたと見られる。野坂参三はずっと後になってから、「ソ連内通者」として「除名」される。
その後、1972年には日本民主青年同盟(民青同盟)幹部らについて、いわゆる「新日和見主義事件」が発生し、1970年代後半から1990年代前半に掛けて名古屋大学教授田口富久治などのネオ・マルクス主義学者党員が除籍された。自党からの分派を含め、共産党は新左翼の共産同・ブントや革共同中核派、革共同革マル派、革労協、社会主義労働者党(社労党)などの政治団体・運動を1980年頃までは「トロツキスト暴力集団」、それ以降は「ニセ「左翼」暴力集団」と呼んで非難し、政治などの問題で共闘を拒絶し、排斥した。(党派闘争参照)
前述のように、高揚した学生運動の中で、民青同盟の学生対策のグループ、全学連グループ、「ジャパンプレスサービス」グループ、平和運動グループの中に、大衆運動主義とでも言いうる「新日和見主義」が発生したと党中央は非難した。しかし、それは、議会主義への傾斜を確実ならしめるための組織的な予防措置とみなしうるものであった。こうして、川上徹・高野孟・山川暁夫などが処分され、全学連の早乙女・松尾なども第一線から身を引くことを余儀なくされた。「新日和見主義」なる分派は実際には組織だって結成されていたわけではなかった(新日和見主義事件)。
さらに、1976年に「自由と民主主義の宣言」という準綱領文書を採択し、ここでソ連モデルとは違う社会主義像を提起した。この流れは「ユーロ・ニッポコミュニズム」(欧州(西欧)的・日本的な共産主義)と言われた。
ただし、同党はソ連を覇権主義と批判しつつも、その解体にいたるまで「社会主義の生成期」がソ連社会であるとして、ソ連を社会主義の過渡期の社会として規定しつづけた。また、核兵器問題など外交問題での一致点に限定して、ソ連やルーマニアの指導者と共同声明を出したこともあった。
スターリン支配のコミンテルンから戦後のコミンフォルム、そしてコミンフォルム解散後もソ連共産党が各国の共産党を金銭的援助とともに「指導」する傾向が、長く続いた。共産主義政党がそれぞれの国に根付いていく過程で、とりわけアジア諸国の共産党はソ連(あるいは中国)との対立から「自主独立」を掲げる傾向を強くした。日本共産党と大国の共産党の相克も、そうした中で生じたものであった。
こうして、集団的に排除された、あるいは分裂した「分派」グループは、今日独自の力学と理論で運動を展開し、日本共産党との思想的・運動的な一致点はもはや無く、公然と「日本共産党打倒」を呼びかけている党派もある。政党との行動ではむしろ日本社会党や新進党、民主党、社会民主党などと共同歩調をとるようになっている。集団的な「復党」の動きも見られない(個人はある)。民主統一同盟や元第四インターナショナル・中核派活動家村岡到の個人党派「政治グループ稲妻」など、新左翼への譲歩を前提として日本共産党との共闘を呼びかけた動きや、第四インター各グループが「よりまし」として選挙で共産党への投票を呼びかける動きもあるが、共産党側は「反省も無しに共闘には応じられない」と拒否している。もっとも1990年代以降、日米安保新ガイドライン改定反対、有事法制反対、憲法改定反対などの運動で、両者が集会を共にする機会は増えている。
「55年体制」下
1955年頃から宮本顕治が事実上の指導者になり、1960年代半ばには党の指導者と実務面の指導者を二重にして継承する体制を確立、不破哲三に実務面を継承させた(議長宮本、委員長不破体制)。これにより一枚岩体制が確立し、戦前から問題であった内部抗争や金銭的腐敗を一掃し、「クリーンな党のイメージ」の確立に成功する。
合法路線復帰以後は党勢を拡大し、1960年の第29回総選挙からは、原則として全選挙区に公認候補を擁立するようになった。その後1970年代初めまで得票率を伸ばし続け、1972年12月に田代文久が特別委員会の石炭対策委員会の委員長に選出され、共産議員として初の国会委員長が誕生した。その後、いったん落ち込んだものの1979年10月7日投開票の第35回総選挙では最高の39議席を得る。
1979年10月に林百郎が衆議院懲罰委員長に選出され、共産議員として初の国会常任委員会委員長が誕生した。その後は自民党や産経新聞を中心とする「自由社会を守れ」キャンペーンやサンケイ新聞事件などの強烈なネガティブキャンペーンの影響で落ち込む。この当時、『小説吉田学校』を執筆した戸川猪佐武が、『小説自民党対共産党』という本を出している。「70年代は自共対決の時代」と持て囃されたこともあった。
日本社会党と日本共産党は、日本政治の中では革新陣営に属し、中道の民社党、公明党をはさんで保守の自由民主党に対峙する位置にあった。「55年体制」の成立以来、政権は一貫して自民党の手にあり、社共共闘、あるいは全野党共闘により政権交代を樹立するというのが当初の社共の方針であった。社会党内部には社共の協力より社公民の協力を重視すべきだという意見があり、これがしだいに力を持った。民公、特に強い反共主義姿勢を持つ民社の側(特に春日一幸)からの、共産排除要求もあった。これに同調したのが、社会党内の構造改革派・社公民路線派の一部が社会党左派に追われる形で独立した社会民主連合であった[12]。共産党が勢力を伸ばすにつれて、総評系労組(特に官公労)など、各種運動団体で社共の主導権争いが激化し、それらの団体を主な支持基盤とした社会党との関係にも悪影響を及ぼした。
1979年4月、東京都知事選挙で革新統一候補の元総評議長太田薫が敗れると、社会党は公明党との関係強化(1980年1月にいわゆる〈社公合意〉を締結した)による右傾化を進め社共共闘は瓦解した(社会党側からは「共闘を通じて社会党員・支持者が共産党に流れてゆき、票と議席が減っていったことに不信感を持った」とも言われている)。1980年代には、「自民党と“共産党を除く”全野党の国会対策委員長による会談」(国対政治)が常態化して、共産党の排除が進んだ。
日本共産党は1960年代から、国政選挙では当選の可能性を度外視して全ての選挙区で候補を擁立する戦術を取っていた。社共共闘の破綻後は、地方選挙でも独自候補を積極的に擁立し、日本全国で少数派としての存在を示した。この戦術は、当選者が複数の中選挙区制では有効であった。定数1(小選挙区制)の選挙区では自民党と競り合う社会党の票を奪うことで、しばしば自民党候補の過半数以下での当選という結果をもたらした。自民党の長期支配が続く中、共産党の独自擁立も結果として自民党政権継続に有利に作用する要素として取り込まれていったと見られることもある。
その一方、地方の首長選挙で自民党と社会党が同調して、日本共産党以外全政党相乗りの候補が出現するようになると、「日本共産党の存在によって選択肢が確保され」ているとして「オール与党」批判の宣伝を行うようになった。ただ、滋賀県の武村正義、神奈川県の長洲一二、岡山県の長野士郎、世田谷区の大場啓二など、日本共産党も相乗りに加わっている候補も一部に存在した。それについては「革新首長に自民党が同調し、乗っ取っていく過程に生じた一時期のものであり、次の出馬の際には共産党は排除されていった」と主張している。事実、共産党を含む相乗りは長続きせず、後に相乗り候補対共産党候補という構図が出来上がっている。
創共協定
公明党の母体である創価学会とは、1974年12月28日、松本清張の仲介で相互不可侵・共存を約した協定を10年間の約束で結んだ。創共協定(共創協定)と呼ばれる。しかし、自民党との関係悪化を恐れた公明党の抵抗もあり、協定は翌年の公表とほぼ同時に死文化。1980年、創価学会による宮本顕治宅盗聴事件が発覚すると、両者の対立は決定的となり、協定の更新は行われなかった。
部落解放同盟との対立
部落問題も参照
他に目立ったのが部落解放同盟との対立である。解放同盟は元々、共産党の影響力が強く、1960年代前半までは両者は友好的な関係にあったが、1965年10月8日、内閣同和対策審議会答申が出されたことが大きな転換点となった。社会党員など同盟内の他の潮流は、部落差別の存在を認め、「その早急な解決こそ、国の責務であり、同時に国民的課題である」と明記した答申の内容をおおむね肯定的に評価し、同対審答申完全実施要求国民運動を提起することで一致したのに対し、共産党や同党員である解放同盟の活動家はこの答申を「毒饅頭」と批判した。その結果、同盟内で急速に支持を失い、同年の第20回大会では、共産党系代議員の提出した修正案は否決、同対審答申完全実施要求国民運動の展開を骨子とした運動方針が採択され、役員選挙では共産党員である中央執行委員のほとんどが解任された。共産党はこの動きを「一部反党修正主義者、右翼社会民主主義者の幹部」による策動として強く非難した。
大会以後間もなく、京都府連の分裂が表面化、その余波で、府連書記局が設置されていた文化厚生会館の帰属をめぐり、解放同盟京都府連と部落問題研究所との間で紛争が発生した(文化厚生会館事件)。さらに同和対策事業特別措置法制定が急ピッチで進んでいた1969年2月、党農民漁民部編『今日の部落問題』を刊行し、その中で解放同盟指導部を「改良主義的、融和主義的偏向から自民党政府と安上がりの時限立法による特別措置で妥協した」と批判。同盟中央は抗議の意志を示すため、同書刊行直後に開かれた全国大会に来賓として出席した共産党議員を紹介だけにとどめ、祝辞を読ませないとする対抗措置がとられるなど、さらに関係は悪化した。同年大阪で起きた「矢田教育事件」では、当時の解放同盟や教職員組合、地方行政が取り組んでいた越境入学問題に消極的だった共産党員教員が、解放同盟大阪府連矢田支部による糾弾の対象となり、刑事事件に進展。共産党は、党組織を挙げて解放同盟と対決する姿勢を明確にし、両者の対立は決定的なものになった。同盟中央は、共産党に呼応する動きを見せた同盟員に対して除名・無期限権利停止などの処分で対抗した。こうして、1970年には部落解放同盟正常化全国連絡会議(のちの全国部落解放運動連合会)が発足した。共産党やその支持者たちはこの経緯について「本来、部落差別にたいして、大同団結して活動をすすめるべき部落解放運動に暴力や利権、組織分断を持ち込み、路線対立から親戚や親子関係の分断をはじめとした地域の人びとを二分する大きな誤りを持ち込む結果となった」と主張している。その頂点としていわれる事件が、1974年の兵庫県立八鹿高校における、八鹿高校事件の発生であった。
現在でも共産党・解放同盟両者の関係は極めて険悪である。共産党は、「部落解放同盟」の呼称の使用を極力避け、「解同」と必ず鉤括弧書きで表記する(なお、解放同盟側は「解放同盟」「同盟」の略称を用いる)。1990年代初頭までは「朝田・松井派」と、解放同盟側を分派として糾弾する姿勢をとっていた。すなわち、「解放同盟を自称しているが、実態は利権あさりの集団に過ぎない」という党見解を反映したものである[13]。また、共産党は「志賀義雄一派と結びついた反共勢力が指導部を占拠(「解同」朝田派)し、「部落民以外はすべて差別者」とする部落排外主義を振りかざして、反対勢力を組織から排除しました。」[14]という認識を示している。裏返せば、共産党内の親ソ派を排除した抗争が、解放同盟に飛び火したと認識していることになる。
現在一部の自治体では、地域の街づくり会議などで、互いの陣営が同席することも見られるようになった。これらは、地域の過疎化や世代交代によって、それぞれの勢力が減少傾向にあることや、部落差別の早期解消に向けて、一致点での共同を進めようとする努力の結果だともいえる。しかし、政治戦においては、支持政党の違いによる軋轢は今なお強く残っている。特定の選挙で野党共闘が成立した場合、結果的に同一の候補を支援することがあっても、一定の距離を保ちつつ、互いに独自の支援活動をすることが多いのが現状である。
ソ連解体後と現在
1991年8月のクーデターとソ連共産党の解散に際しては、ソ連共産党の解散を「もろ手を上げて歓迎する」という宮本顕治の発言が発表された(8月31日付毎日新聞によるインタビューでの発言)。この発言の翌日、常任幹部会はこの宮本発言を受けて「大国主義・覇権主義の歴史的巨悪の党の終焉を歓迎する - ソ連共産党の解体にさいして」という声明を発表した。その一方、ソ連・東欧諸国の脱社会主義への動きを「歴史の逆行」とも評しており、その整合性に疑問の声も上がった。ほぼ時を同じくして、政府与党や社会党(現在の社会民主党)を含む他の野党、マスコミなどにより「体制選択論」「冷戦終結論」「保革対立消滅論」が大々的に宣伝され、党員の所属する労組・団体の弱体化が進み、政治・社会運動からの撤退などの要求を突きつけられるなど、その後の選挙では苦戦を強いられた。
戦後60年間国会では小政党の域に留まっており、国政与党になったことはないが、ソ連解体後、世界で多くの共産党が改名または解散する中で、共産党の名と議会勢力をともに維持している。1990年代後半には日本社会党からの離反層を取り込み、集合離散の続いた他党候補者の濫立も有利に作用して衆議院で一時的に勢力を回復し、1998年の参議院選挙では、15議席を獲得し、非改選議員とあわせて予算を伴う法案の提出権を初めて獲得した。その後は小選挙区制の定着による二大政党制指向の強まりや総議員定数の削減、昨今の日本周辺の国際情勢も相まって国会の議席が後退した。『しんぶん赤旗』の発行部数も、ピーク時の半分ほどにまで減少している。また、当選人数が1人であり大政党に有利な傾向の強い小選挙区制では共産党候補の当選はきわめて難しいものとなっている。1996年の第41回総選挙では、小選挙区で2議席(京都3区の寺前巌と高知1区の山原健二郎)を獲得したが、それ以降、小選挙区での当選はない。
2000年の第7回中央委員会総会(7中総)では、党規約から「前衛党」規定が削除された。また、同年不破哲三に代わり志位和夫が委員長となり、不破は宮本に代わり議長となった。この不破・志位体制の成立により、宮本の影響力は低下した。2006年1月11日 - 1月14日に開催された第24回党大会で、いわゆる「現実・柔軟路線」を指導してきた不破哲三が、議長職を高齢と健康などを理由に退き、「委員長志位・書記局長市田体制」が確立した。
共産党の全選挙区擁立戦術は、与党である自民党・公明党の選挙協力体制が緊密化するにつれて、結果的に野党間の候補共倒れ、連立与党候補の過半数に満たない得票率での当選という結果を激増させた。また、共産党候補の供託金没収選挙区も大幅に増え、党の財政を圧迫する要因となった(このため党内でも政党として政党交付金を受け取るべきであるとの意見が党大会前の公開討論の中でも主張されるようになっている)。この間、日本社会党・新進党に代わり民主党が野党第一党となった。
2001年の第19回参議院議員選挙で東京都選挙区から当選者を出したのを最後に、2003年の第43回衆議院議員総選挙、2004年の第20回参議院議員選挙、2005年の第44回衆議院議員総選挙、2007年の第21回参議院議員選挙では、選挙区での当選者を出すことができなかった。
第44回総選挙では47年ぶりに全選挙区擁立(推薦を含む)を中止したため、25選挙区の「共産空白区」が出てきた。「共産空白区」では与党候補と野党候補が大差の付く選挙区が多く、選挙への影響は小さかった。共産党の小選挙区候補者全275名のうち、223名が10%の得票に届かず供託金を没収された。全300選挙区に候補者を立て235選挙区で没収された前回とさほど変わらない結果だった。共産党自身については、得票数の減少に歯止めがかかった。投票率が上がったため得票率は下がっている。
2006年の国政選挙では、4月と10月に計三選挙区で行われた衆議院議員補欠選挙で、いずれも独自の公認候補を擁立したが、すべての選挙区で落選、供託金も没収されている。また、2007年4月に行われた参議院議員補欠選挙では、福島県選挙区で公認候補を、沖縄県選挙区では、民主党や社民党などと共同推薦候補を擁立したが、いずれも落選、福島県では供託金を没収されている。[15]
2007年の参院選東京都選挙区で公認候補が落選したことで、東京都でそれまで51年間に渡って維持してきた参議院での共産党の議席を完全に失った。現在、共産党が擁している国会議員(衆議院9名、参議院7名)の中に選挙区での当選者は存在せず、すべて比例代表区からの選出である。
今のところ国政選挙で単独での小選挙区当選は難しい現状にあるが、保守政党色の強い野党第一党の民主党はもとより、護憲という立場で政策距離が近い社会民主党との選挙協力の目処も現時点では立っていない。[16]その一方、最近の市町村合併にともなう各地の地方選挙では着実に当選者を出し、政党所属の地方議員の総数では第1党の位置を保っている。また他党との協力については東京都多摩地区や青森県、沖縄県などで一定の野党共闘が実現している。国会内では、2007年9月4日に野党の国対委員長会談に復帰し、他の野党との共闘を強化することになった。
2007年9月8日の第5回中央委員会総会で、次の総選挙から、すべての小選挙区に候補を擁立するのではなく、その小選挙区での比例区の得票率が8%以上の選挙区に擁立する選挙区を絞り込む(ただし、各都道府県で最低1人は候補の擁立を目指す)方針を幹部会は提案した。9月9日、中央委員会はこの提案に賛成し、決定した。この背景には、得票率が10%を割ると供託金が没収されることによって、党財政の悪化の原因となっていることが背景にあるとされる。方針に従い、次期衆議院選挙では前回の05年総選挙の39人(重複を含む)を大幅に上回る70人の候補者の擁立を目標としている。
有権者の投票行動から見た場合、共産党は与党(自民党・公明党)とはもちろん他の野党とも、特に国政に於いては政策的距離がきわめて大きいため、いわゆる無党派層の支持者において特に、選挙のたびに候補者選択に苦慮することになり、野党間の選挙共闘が成立しにくい。小選挙区制の性質上、現在の共産党の戦術が野党に極めて不利に働くことも事実である。得票総数では与党(自民・公明)を上回りながら、野党候補が落選するという事態が多発し、批判票が分散する事態となっている。そのため、政策的に遠い民主党とはともかく、社共共闘の復活への待望論は少なからずある。
支持者の一部には「当選の可能性がない以上、選挙区では民主党候補に投票する」動き(戦略投票)が一定数出ていることに対する警戒感は選挙の度に機関紙上で強調されている。その一方、共産主義の固守を願う支持者や党員の一部からは、既に政策転換が過ぎる(「右」展開)という批判もある。
「共産党に意見表明の機会を与えることはフェアネス(公平)ではない」との発言が出た椿事件以降、マスコミ報道が共産党の動向について取り上げる機会は減ってきている。大きな選挙で候補を立ててもほとんど取り上げられず、政策提言や意見表明は機関紙などの自前メディアや街頭演説・ビラ配布など、自前の活動で届けることが大きな手段となっている。但し、葛飾区や豊後高田市などでビラ配布を理由に党員や議員が逮捕される事件が相次いでおり、政策宣伝自体が非常に困難な事態となっている。
革新懇運動
「社公合意」など日本社会党が右傾化していく状況の中で、日本共産党は「軍事費を削って福祉にまわせ」「非核の一点で結集を」などと呼びかけ、政党の組み合わせによる「革新共闘」を模索するのではなく、「思想、信条、支持政党、の違いを超えた国民多数の革新的な運動の結集」により、新たな革新戦線を全国的に追求する「革新懇話会=革新懇運動」をすすめた。だがこれも、社会党と共産党との間で揺れ動く革新浮動層を共産党に取り込むための方便と見られることも多く、成瀬昇(元愛知県評議長)、西岡瑠璃子(元参議院議員・歌人)、栗原透(元社会党高知県委員長)、矢山有作(元衆議院議員)ら元社会党員も多数参加しているにもかかわらず、具体的な選挙共闘としては愛知県・高知県などを除いて現在まで余り大きな成果は得られていない。
革新懇は全国組織の「全国革新懇」、都道府県や市区町村、学区などの単位で結成されている「地域革新懇」、職場ごとの「職場革新懇」など、様々な単位で結成され、活動している。
小選挙区制下での他党との関係
小選挙区制下、党は「現在の政党に共闘可能な政党は見あたらない」とし、多くの選挙区に独自候補をたてる戦術は、事実上、与党に有利に作用し、野党候補の一本化(主に民主党候補)により政権交代を望む者からは、「与党批判票の分散」、「利敵行為」と指摘されることがある。
他党との政策的な違いと共に、主に二つの理由も挙げられる。
こうした態度が、時に旧社会党やその後継である民主党・社民党、さらには、部落解放同盟、新左翼などからも「独善的体質」「セクト主義」として非難されており、また新聞紙上でもそういったイメージで取り上げられることがしばしばある(主なものとして山口二郎や天木直人、筆坂秀世、森田実などの論、日刊ゲンダイの記事など)。
前述したような権力闘争の歴史的遺恨というだけでなく、日本共産党が過去に特に労働運動の分野で社会民主主義の労使協調路線や御用組合(と共産党が判断した組合)に対して痛烈な批判を行ったこと、現在も社民主義や「第三の道」路線に対して決して友好的な態度を取っていないことも背景にある。
2006年1月23日に書記局長市田忠義と社民党全国連合幹事長の又市征治が会談し、平和憲法維持を目指すべく関係改善し共闘を示唆する報道がされた。
5月20日には「平和共同候補」(護憲派の統一候補)擁立運動を「新社会党の手先の役割を果たしている」として、痛烈に批判した[17]。さらに、2007年5月1日号「しんぶん赤旗」では、擁立運動の確認団体「9条ネット」と新社会党や部落解放同盟との関係を重ねて強調し、全否定する見解を載せた[18]。解放同盟の支援を受ける候補は新社会党のみならず、民主、社民、自民、公明にも存在する。
他党の反応とその事例
同様に他の野党も、共産党との連携に極めて消極的な事が多い。この傾向は小選挙区となる以前からも一定程度みられる現象である。
1990年の総選挙の際には、定数3で共産党議員が長く議席を保持してきた選挙区に、当時の社会党が新人候補を立てたケース(東京9区や和歌山1区など)、現在の民主党が定数1の沖縄県議補欠選挙で泡沫候補を立てて野党票を割り革新系無所属候補の当選を「阻害」したケースも見受けられる。前者は自党の議席獲得を狙ったものとも言えるが(当時の社会党は長期低落傾向にあった。そのため土井ブームによる復調は千載一遇の好機と見られており、また政権交代を狙う党に、候補の空白区があるのはおかしいとする逆の批判もあったのである)、後者のケースは、まさにここで問題とされている「共産党的行動パターン」を、他の野党が行った事例といえよう。
小選挙区制となって以降、国政・地方選を問わず、共産党は孤立する傾向をより深めている。以下、いくつかの事例を挙げる。
2006年の沖縄県知事選では、糸数慶子を推すことで、主要選挙では稀な事実上の国政全野党共闘が成立した。民主党内部では長島昭久など右派などから「共産と手を組んでいる」候補への批判が公然と行われ、与党側も「共産と手を組んだ民主」など他の野党への攻撃材料にした。結果は与党推薦の仲井眞弘多に敗れた。このように、与党側を中心とした「共産と手を組むことが悪なのは自明」論の影響力は大きく、他の野党は与党やマスコミに共産との協力を批判されると、容易に動揺する傾向が見られる。
こういった社会的風潮もあり、表だった協力関係ではなく共産党側に「配慮」を求める動きも見られる。しかし、このことが共産党側の神経を逆なでし、野党間の泥仕合となるケースがままある。
2004年には、参議院大阪選挙区で、当時辞職中の辻元清美を共同候補にするために、現職議員の宮本岳志に引退を「強要」したとされる(宮本岳志の項目参照)。結果、辻元も宮本も落選した。
2007年2月に行われた愛知県知事選挙もほぼこのパターンである。共産党は当初、民主党の候補予定者であった前犬山市長の石田芳弘を共同で推そうとして協議を呼びかけた。石田氏自身は含みを持たせていたものの、陣営としてはこれを拒絶。共産党は急遽自前の候補者を推薦させざるを得なくなった。民主党が共産支持票による得票の増加よりも自民・公明両党からの「ネガティブキャンペーン」による票の減少を恐れたためとされる。選挙結果は、共産党推薦候補の阿部精六が予想を上回る票を獲得し(もっとも同党が愛知県で持つとされるいわゆる「基礎票」には遠く及ばなかったが)、現職で3選を目指していた神田真秋を急激に追い上げていた石田は僅差で敗北した。
2007年3月の東京都知事選では、共産党推薦の吉田万三と、市民団体が擁立し民主・社民の実質的な支援を受ける浅野史郎、現職知事の石原慎太郎の有力三候補が競う形となった。共産党は現職の石原都知事を批判しており、浅野もまた反石原という点では一致していた。石原都知事の圧倒的優勢を覆すため、市民団体は「反石原」で吉田の出馬取り下げを要求した。これに対し、吉田陣営との話し合いもしないまま(ただし市民団体側は事前の申し入れはしていたと反論)に取り下げを強要されたと吉田陣営が反発。志位和夫は「(浅野と)石原都政はうり二つ」[19]と断言しこれを拒否した。
その理由は、民主党が都議会において「オール与党」体制の一翼を占め、学校の卒業式での国旗国歌の義務化を議会で最初に要請したのが民主党議員であるというものであった。さらに、吉田は集会等で「他に共闘対象となる候補者が出れば、自分は降りてその人を支援しても良い」と発言していたが、同席していた民主党都議は共産党との共闘を明確に拒否した。このような足並みの乱れもあり、選挙は石原が前回に続いて大勝した。
- その直後の都議会では、民主党や東京・生活者ネットワークは、知事提案の議案にすべて賛成した(社民党は都議会の議席をもっていないが、議席のあった2001年までは知事提案にすべて賛成する石原与党であった)と、共産党側は批判している。
この三例の共通点は、民主党が共産党側に何の利益も与えず、「無償で」自候補への協力を強制したと共産党側が主張していることにある。その真偽は定かでないものの、共産党の反応が極めて厳しいことは確かである。このような真偽不明な双方の見解の相違が頻出し、特に共産党側が事態の打開を望まないともとれる態度を示す点が特徴的である。
また、他党が共産党候補の支持を表明したのは、保坂展人が狛江市長矢野裕を応援した例や、新社会党や沖縄社会大衆党などによる推薦・支持など、ある程度限られる。
- ちなみに、「大規模開発計画撤回」を公約に掲げ当選した、共産党員である陸前高田市長中里長門は、「反小沢一郎」を志向する自民党陸前高田支部の支援をうけていた。共産党の候補を自民党が応援し、民主党と対決したのは全国でもここだけである。このように地方の市町村では、リバタリアン志向の一部の民主党員よりもむしろコミュニタリアン志向の一部の自民党員との間で共闘関係になる場合もある。例えば、京都府城陽市でも、前市長大西忠を自民党京都府連と共産党が支えるという構図になっていた。自民党市議団と民主党は対立候補を支援)。また、かつての国労のような労使闘争に対して、自民党と共産党は対立で一致するため、地方公務員労組の支援を受ける民主党左派や社民党に対しては共闘しやすいのも一端である。逆に、組合間の対立感情などで両者が対立した場合は、相対的に組合との関係が薄い自民党と協力関係が生じることもある。また、解放同盟批判については、自共共闘が成立しやすい。もっとも、自民党は解放同盟の支援を受けることもあり、同党にとっての解放同盟批判は、多分に圧力団体に服従を求める意味合いが強い。世羅高校事件のように、結果として自民党に一方的に有利な解決(国旗及び国歌に関する法律の成立)が図られたこともある。
現在の状況
民主党は、小沢一郎が代表になってからは、小沢が共産党との協力の可能性に言及する変化も見られるが[20]、選挙では実態として、両党の協力はほとんど行われていない。
次の総選挙である第45回衆議院議員総選挙の方針では、小選挙区の候補を大幅に減らすことになった。これは、野党共闘目的ではなく、小選挙区では候補者を立てるだけの力がないところがあるという判断から、比例区と支持基盤のある小選挙区に候補を絞り込もうとする方針転換である[21][22]。また、大連立騒動などから改めて民主党を自民党と「同質・同類の党」と批判し、明確に共闘を否定した。一方、自民党の松浪健四郎は、共産党の独自候補擁立が自党有利になるとの見解を示している[23]。
現在の執行体制
中央委員会
中央委員会は、最高機関である党大会に次ぐ機関であり、全党を指導し対外的に党を代表する機関であるが、中央委員会総会は規約では年2回以上の開催という規定であるので、日常的には中央委員会常任幹部会が最高指導機関である。日本共産党規約に役職としての最高職の明文規定は無いが、中央委員会議長、中央委員会幹部会委員長、中央委員会書記局長が党三役(党首を含む)である。
- 中央委員:130 人
- 准中央委員:14 人[24]
- 中央役員
- 中央委員会議長: 空席
- 中央委員会幹部会委員長: 志位和夫
- 中央委員会幹部会副委員長: 石井郁子、緒方靖夫、浜野忠夫
- 中央委員会常任幹部会
- 中央委員会幹部会
- 委員数 50。委員長、副委員長を含む。
- 中央委員会書記局長: 市田忠義
- 中央委員会政策委員会責任者: 小池晃
- 中央委員会国会対策委員長: 穀田恵二
- 中央委員会参議院議員団長: 小池晃
- 中央委員会参議院議員幹事長: 小池晃
- 部署など
分野ごとに各種委員会・部局(経済政策委員会、国際部、出版局など)が設けられている。 また、シンクタンクとして「社会科学研究所」(所長:不破哲三、副所長:山口富男)がある。
所属国会議員
- 衆議院(9名)
- 高橋千鶴子 比例代表単独 東北ブロック比例区
- 塩川鉄也 比例代表復活 北関東ブロック埼玉県8区
- 志位和夫 比例代表単独 南関東ブロック比例区
- 笠井亮 比例代表単独 東京ブロック比例区
- 佐々木憲昭 比例代表単独 東海ブロック比例区
- 石井郁子 比例代表単独 近畿ブロック比例区
- 穀田恵二 比例代表復活 近畿ブロック京都府1区
- 吉井英勝 比例代表復活 近畿ブロック大阪府13区
- 赤嶺政賢 比例代表復活 九州ブロック沖縄県1区
- 参議院(7名)
- 全国比例代表
歴代執行部
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党勢の推移
衆議院
選挙 | 当選/候補者 | 定数 | 備考 |
---|---|---|---|
(結党時) | -/- | 464 | 結党時は非合法 |
第22回総選挙 | ○ 5/143 | 468 | 追加公認+1 |
第23回総選挙 | ● 4/120 | 466 | |
第24回総選挙 | ○ 35/115 | 466 | |
第25回総選挙 | ● 0/107 | 466 | |
第26回総選挙 | ○ 1/85 | 466 | |
第27回総選挙 | ○ 2/60 | 467 | |
第28回総選挙 | ● 1/114 | 467 | |
第29回総選挙 | ○ 3/118 | 467 | |
第30回総選挙 | ○ 5/118 | 467 | |
第31回総選挙 | ○ 5/123 | 486 | |
第32回総選挙 | ○ 14/123 | 486 | |
第33回総選挙 | ○ 38/122 | 491 | 追加公認+1、沖縄人民党より合流+1 |
第34回総選挙 | ● 17/128 | 511</td><td>追加公認+2 | |
第35回総選挙 | ○ 39/128 | 511</td><td>追加公認+2 | |
第36回総選挙 | ● 29/129 | 511 | |
第37回総選挙 | ● 26/129 | 511</td><td>追加公認+1 | |
第38回総選挙 | ○ 26/129 | 512</td><td>追加公認+1 | |
第39回総選挙 | ● 16/131 | 512 | |
第40回総選挙 | ● 15/129 | 511 | |
第41回総選挙 | ○ 26/321 | 500 | |
第42回総選挙 | ● 20/332 | 480 | |
第43回総選挙 | ● 9/316 | 480 | |
第44回総選挙 | ○ 9/292 | 480 |
参議院
選挙 | 当選/候補者 | 非改選 | 定数 | 備考 |
---|---|---|---|---|
(結党時) | -/- | - | - | 参議院は存在せず |
第1回通常選挙 | ○ 4/42 | - | 250 | 第1回のみ全員選挙 |
第2回通常選挙 | ○ 2/50 | 2 | 250 | |
第3回通常選挙 | ● 0/16 | 1 | 250 | |
第4回通常選挙 | ○ 2/34 | 0 | 250 | |
第5回通常選挙 | ○ 1/36 | 2 | 250 | |
第6回通常選挙 | ○ 3/47 | 1 | 250 | |
第7回通常選挙 | ○ 3/48 | 1 | 250 | |
第8回通常選挙 | ○ 4/49 | 3 | 250 | |
第9回通常選挙 | ○ 6/51 | 4 | 252 | |
第10回通常選挙 | ○ 13/54 | 5 | 252 | |
第11回通常選挙 | ● 5/52 | 11 | 252 | |
第12回通常選挙 | ● 7/52 | 5 | 252 | |
第13回通常選挙 | ○ 7/71 | 7 | 252 | |
第14回通常選挙 | ○ 9/71 | 7 | 252 | |
第15回通常選挙 | ● 5/71 | 9 | 252 | |
第16回通常選挙 | ● 6/71 | 5 | 252 | |
第17回通常選挙 | ○ 8/72 | 6 | 252 | |
第18回通常選挙 | ○ 15/70 | 8 | 252 | |
第19回通常選挙 | ● 5/72 | 15 | 247 | |
第20回通常選挙 | ● 4/71 | 5 | 242 | |
第21回通常選挙 | ● 3/63 | 4 | 242 |
(参考文献:石川真澄(一部山口二郎による加筆)『戦後政治史』2004年8月、岩波書店・岩波新書、ISBN 4-00-430904-2)
- 当選者に追加公認は含まず。追加公認には会派に加わった無所属を含む。
- 第22回総選挙の定数には、選挙を実施できなかった沖縄選挙区(定数2)含む。
- 『戦後政治史』にない追加公認は2 国会議員会派別議員数の推移(召集日ベース)(衆議院、1990年~1999年)・国会議員会派別議員数の推移(召集日ベース)(衆議院、1993年~2000年)・2 国会議員会派別議員数の推移(召集日ベース)(衆議院、2000年~2006年)、(2) 参議院(1990年~1999年)(2) 参議院(1994年~2004年)・(2) 参議院(2000年~2006年)にある、選挙直後の国会召集日の会派所属者数から判断した。ただし、第20回通常選挙直後の召集はない。
地方政治
- 与党の自治体 65
- 党地方議員(団)は、中央における国会議員団と同様に、当該級の委員会(指導機関)の指導を受ける。
関連団体
党が参加(加盟)する団体・運動
- 平和・民主・革新の日本をめざす全国の会(全国革新懇)
- 党と無党派による革新統一戦線運動
- 安保破棄中央実行委員会
- 憲法改悪阻止各界連絡会議(憲法会議)
- 消費税廃止各界連絡会(各界連)
- 中央社会保障推進協議会(中央社保協)
- 社会保障の拡充を求める労働組合や生活協同組合などとの共闘組織
関連団体
- 新日本出版社
- 党幹部の著書やしんぶん赤旗関連の書籍を多く発行する。
- ジャパンプレスサービス
- しんぶん赤旗の記事を英訳
- 日本民主青年同盟(民青同盟)
- 日本共産党が相談相手であると同組織自身が規定している。
国際党間交流
- インド共産党
- インド共産党 (マルクス主義)(CPIM)
- 中国共産党
- 日中共産党の関係を参照
- ベトナム共産党
- ベネズエラ共産党
- スウェーデン左翼党
- デンマーク社会主義人民党
- チュニジア立憲民主連合
- チェコ・モラビア共産党
- キプロス勤労人民進歩党
- ギリシャ共産党
- スペイン共産党
- ハンガリー労働者党
- スリランカ共産党
- エルサルバドル・ファラブンド・マルティ民族解放戦線党
- ニカラグア・サンディニスタ民族解放戦線党
- キューバ共産党
- ブラジル共産党(PCdoB)
- ブラジル社会主義人民党
- アメリカ共産党
- チュニジア立憲民主連合
- イタリア・共産主義再建党
共同関係等
協力・共同関係或いは執行部に党員が多いとみられる団体など。
- 民主主義科学者協会(民科)
- 日本アジア・アフリカ・ラテンアメリカ連帯委員会(日本AALA)
- 新日本婦人の会(新婦人)
- 婦人民主クラブ(婦民。旧・婦民(再建))
主催行事
脚注
- ↑ こうした「活動実態のない党員」については同党に限らず、例えば自民党においては、党費のみ納入するだけの「幽霊党員」や「他人(=選挙区支部長たる代議士)が党費を肩代わりする」などの問題点が繰り返し指摘されている
- ↑ しんぶん赤旗別刷り学習党活動版
- ↑ 日本共産党 宮本たけしホームページ
- ↑ 日本共産党の青年支部って? 2000年11月9日(木)「しんぶん赤旗」
- ↑ 5.0 5.1 日本共産党規約(2000年11月24日改定)
- ↑ 第18条 例:つくば市委員会
- ↑ 川上徹『査問』 筑摩書房、1997年、235p. ISBN 4480818081
- ↑ 宮地健一 共産党、私の21日間の“監禁”『査問』体験
- ↑ 日本共産党・民青同盟悪魔の辞典+ キンピー問題笑える査問録音公開中 - 笑える査問実況録音
- ↑ 共産党の新本部ビル完成 自民を上回り最大
- ↑ この事件は宮本顕治らが検挙された際に死体が発見されたもので、当局は当時「リンチ殺人事件」として発表した。死因については諸説ある。日本共産党は、スパイ嫌疑で調査をうけていたスパイが急死したことを特高が自らの不法行為を覆い隠し、日本共産党にダメージを与えるために「リンチ」と事実を捻じ曲げて発表した事件であると主張している。宮本顕治は治安維持法等被告事件の裁判でこの事件の経過について全面的に事実を検証して明らかにしたとしている(宮本顕治『宮本顕治公判記録』新日本出版社 ISBN 978-4-406-00408-4)。当時の裁判所はこの事件について宮本に「殺人」の汚名を着せることはついにできず判決では「傷害致死」とされた。戦後、政治犯釈放命令により宮本は釈放されたが、昭和22年5月29日付けの、東京地方検察庁検事正の木内曽益の名による復権「証明書」では、この事件の判決自体が「将来に向て其の刑の言渡を受けざりしものと看做す」とされた。
なお、死亡した人物については「スパイではなかった」、との立花隆(『日本共産党の研究』講談社)による主張にたいして、日本共産党は、『犬は吠えても歴史は進む』を発表して、立花に全面的に反論している) - ↑ 安東仁兵衛 「日本における新しい社会民主主義を創造しよう」
- ↑ 「「解同」横暴・利権あさり どこまで追い込んできたか 不公正な同和行政の完全終結を」しんぶん赤旗 2007年3月4日付。なお、同記事によれば、解放同盟の推薦候補は与野党にまたがっており、民主党を中心に、社民党、自民党、公明党、新社会党にも推薦候補が存在する。
- ↑ 2007年1月4日(木)「しんぶん赤旗」 崩れ出した「解同」タブー
- ↑ 共産党は公明党ほどではないが、浮動票の影響を受けにくいため、投票率が下がるほど得票率は上がると言われている。ただし無党派層に限定すれば3割程度得票しているため一概には言えない。例えば、1996年 - 1998年の躍進は、左派系の浮動票の受け皿になったものとの指摘もある。なお、元党地方役員の宮地健一によれば、共産党は『しんぶん赤旗』日曜版発行部数の2倍を基礎票として計算しているという。「2)、HN合計数増減とHN比率」。Hは日刊紙(本紙(Honshi)の頭文字)、Nは日曜版(Nichiyo-ban)を意味する。
- ↑ ただし、憲法問題などの個別の分野では、他党との協力・共同が行われている場合もある。また、地方選挙については市町村長選や地方議員選挙で現在も1人区での当選があり、高知やかつての長野など、無所属候補と連携しながらも政党としては単独与党の県もある。首長選による公認候補の当選は、兵庫県南光町で町長となった山田兼三の例がある。
- ↑ 「参院選での「平和共同候補」を求める運動について」
- ↑ 「「9条ネット」とは どんな団体ですか?」
- ↑ (2007年3月13日(火)「しんぶん赤旗」 日本共産党躍進の 流れを首都・東京から 明治公園での志位委員長の訴えから)
- ↑ 参院選候補選定「直接やる。カギは1人区」
- ↑ 2008年1月5日(土)「しんぶん赤旗」 新しい政治つくる歴史的転機 総選挙勝利へ意気高く 党名を高く掲げ、日本改革の方針を語ろう 2008年党旗びらき 志位委員長があいさつ
- ↑ 2008年1月7日(月)「しんぶん赤旗」 今年の国会と選挙にどうのぞむか NHK日曜討論 志位委員長の発言(大要)
- ↑ 「健四郎代議士日記 擁立」
- ↑ 日本共産党24回党大会/中央委員会の機構と人事
- ↑ 日本共産党が与党の自治体
- ↑ 日本共産党/議員数 地方議員数
- ↑ 2008年4月、党所属だった県議早川昌枝が離党届を提出するも、同年5月1日、除籍処分。同日早川は新会派(1人会派)結成。共産党会派消滅。
関連項目
人物
Category:日本共産党の人物も参照のこと
参考文献
党の公式文献
- 日本共産党中央委員会『日本共産党の八十年』(日本共産党中央委員会出版局、2003年) ISBN 4530043932
- 日本共産党中央委員会『日本共産党第23回党大会決定集』(日本共産党中央委員会出版局、2004年)
- 日本共産党中央委員会『自由と民主主義の宣言』(日本共産党中央委員会出版局)
党員による著作
- 不破哲三『私の戦後六〇年 日本共産党議長の証言』(新潮社、2005年8月)
- 不破哲三『日本共産党史を語る』(新日本出版社)
- 宮本顕治『日本革命の展望』上下(新日本出版社)
- 宮本顕治『日本共産党の立場』(新日本出版社)
- 犬丸義一『日本共産党の創立』(青木書店、1982年9月) ISBN 4250820394
党外部の人の著作
- 朝日新聞社編『日本共産党』(朝日新聞社)
- 立花隆『日本共産党の研究』全三巻(講談社文庫)
- 戸川猪佐武 『小説自民党対共産党』(角川文庫)
- 小泉信三『共産主義批判の常識』(講談社学術文庫/新潮社)
- 思想運動研究所編『日本共産党事典(資料編)』(全貌社)
- テリー伊藤『お笑い革命日本共産党』(飛鳥新社)
離党した人の著作
- 兵本達吉『日本共産党の戦後秘史』(産経新聞社)
- 油井喜夫『汚名』(毎日新聞社 1999年 287頁)ISBN 4620313513。
- 油井喜夫『虚構 - 日本共産党の闇の事件 - 』(社会評論社 2000年 286頁)ISBN 4784514090
- 筆坂秀世『日本共産党』(新潮新書/新潮社) ISBN 4106101645
当局側の文献
- 警備研究会『日本共産党101問』(立花書房)
- 著者の実態不明。公安警察関係者のグループと見られる。
- 『日本共産党 - その路線とジレンマ - 』(別冊治安フォーラム 立花書房)
- 田代則春『日本共産党の変遷と過激派集団の理論と実践』(立花書房)
- 弘津恭輔『共産主義運動の研究』(立花書房)
その他
- 大野達三『警備公安警察の素顔』(新日本出版社)ISBN 4406015922
- 塩田庄兵衛『日本社会運動史』(岩波書店)
外部リンク
- 日本共産党中央委員会(党中央公式サイト) - 各地方委員会・議員リンク
- 日本共産党資料館(日本共産党の主要資料を紹介)
- さざ波通信:日本共産党と現代日本政治を考えるサイト
- 『共産党問題、社会主義問題を考える』
日本共産党(にほんきょうさんとう、英:Japanese Communist Party,JCP)は、日本の政党である。
党名
公式の文書及び機関紙『しんぶん赤旗』紙面や公式サイトでの表記は「日本共産党」としているが、日本マスメディアでは「共産党」との略称がほとんどである。英称のJapanese Communist Partyの頭文字によるJCPという表記もある。
また、日本国内に数多く存在する他の「共産党」と特に区別するため「日本共産党(不破派)」「日本共産党(志位派)」などの表記もあるが、特殊な事例に限られる(分派の一覧はCategory:日本共産党諸派参照)。
概要
「理論的基礎」として科学的社会主義を標榜し、究極目標としての「社会主義・共産主義」を掲げているが、資本主義の枠内で、対米従属と大企業支配の打破を当面の目標としている。
2024年現在の国会に議席をもつ党派では日本で最も歴史が長い(自由民主党の結成は1955年である。55年体制を参照)。「合わせられた4枚の赤旗の上に稲穂と歯車」がシンボルマークである。
党勢
日本共産党の2007年7月末現在の国会勢力は、衆議院議員9名、参議院議員7名である。地方議員数は2006年5月3日時点で3,403人と、第一党の地方議会勢力となっている。(自民党所属の地方議員は無所属で会派を組んでいることも多い。)※後述。また、十数人の党員首長を抱えている。※後述
党員約40万人、機関紙「しんぶん赤旗」発行部数約173万部、支部を職場・地域・学園に約2万4000(2005年現在)置く、などのように、発達した資本主義国の共産主義政党としては、最大の規模を持つ。
ただし、「綱領を読了した党員が34.2%」(日本共産党第24回党大会決議、2006年1月)「選挙戦への活動参加は、多くの党組織で6割から7割台にとどまった」(同大会第4回中央委員会総会での幹部会報告、2005年10月)という実態もある。
既に死亡した党員について遺族が届け出忘れ・事務処理の遅れなどで党員として集計していたりする場合もある。さらには、本人からの離党の届け・未結集の党員などについて、支部からの要請にもかかわらず、所轄する地区委員会が離党としての処理を行なわず、数年間に渡り引き続き党員として集計され続けている例も多く確認されている。
また、党費納入の率を上げるように促す文書がしばしば出されたり、選挙のときに全党員の決起を呼びかける文書(行動への参加、全党員の日刊紙購読の訴え)が出されるなどの事例が見られることから、「40万人」とされる党員のうち、全てが積極的に党員としての政治活動・選挙活動を行っているわけではない[1]。
結党時は当時の情勢から非合法を余儀なくされたが、当時の政権政党が大政翼賛会の結成に伴って自主的に解体へと向かい、その結果、戦後結成された政党には戦前からの連続性が途絶えているのに対して、戦時中も存続したことから「日本の政党で最も長い連続性を保っている政党」と考えられている。その点で、鶴見俊輔が“今の自分がどの位日和ったかが測れる党”と「北極星」に擬えたこともあった。
財政
日本共産党の資金源は(1)事業(機関紙)収入(2)党費(3)個人寄付によって成り立っている。日本の議員は一般に政治資金面で党よりも自己の収入や政治献金に多く依存し、組織的には政治家個人を推す後援会を基盤とするが、日本共産党の場合は資金・組織の両面で党が主柱になっている。「見返りを求めない企業献金などあり得ず、政治を腐敗させる元凶」として企業献金を受け取らず、団体献金についても「団体に所属する構成員の思想・信条の自由を侵害する」という理由で受け取っていない。よって贈収賄で逮捕された議員は皆無であるが、痴漢・変態行為によって逮捕された党員は多数いる(但し、共産党員による痴漢・変態行為は共産党の財政と直接の関係はない)。
また政党交付金(政党助成金)を憲法違反の制度であるとして受け取りを唯一拒否しているため、共産党が受け取る政党交付金は他党に配分される。かつて第二院クラブが登録しておいて受け取りを拒否し、自党が受け取るはずの助成金を国庫に戻させていたが、共産党は登録をすること自体が政党助成制度を認めるとして登録をしないため、共産党が受け取る政党交付金は他党に配分される事態になっている。
その政治資金の大半は機関紙発行の資金として運用している。
機関紙『しんぶん赤旗』は、独自の編集方針で定評があり、非党員の支持者・中立者の読者も多く抱えるが読者数の後退に苦しんでおり、同党自身「『しんぶん赤旗』の読者数は、1990年に286万人だったのが、現在、199万人余になっている。」(同党第22回党大会決議、2000年11月)としている。
綱領
日本共産党は、2004年1月13日から1月17日にかけて第23回党大会を開催し、綱領の全面的な改定を決定した。
現状認識と政治的目標
日本の現状規定は、次の通りである。「わが国は、高度に発達した資本主義国でありながら、国土や軍事などの重要な部分をアメリカに握られた事実上の従属国となっている」。これを踏まえ、当面の主張として、(1)大企業(独占資本)へのさまざまな民主的規制と、軍縮や無駄な公共事業の中止を財源とした社会保障の充実。(2)対米従属を批判し、日米安全保障条約の廃棄と非同盟・中立の日本を実現する。特に軍事同盟・軍事ブロックからの離脱を目指す。(3)憲法改定を許さず民主主義の徹底を図る、という3点を挙げている。
自衛隊の取扱い
1960年代までは、対米従属の自衛隊は解消し、対米従属解消後に改憲を視野に入れた自衛のための組織を持つという、いわゆる「中立自衛」政策をとっていたが、1994年の第20回大会で、現行の憲法9条(非軍備・非戦)を将来にわたっての保持を主張することを明示した。その後、現在の同党の自衛隊政策案は、(1)軍事同盟である日米安保条約の解消前はできるかぎり軍縮し、(2)日米安保条約解消後も国民が望めば存続し、(3)国民が国際情勢などから解消しても問題ないと判断すれば自衛隊をなくす、という『段階的解消論』に立っている。
22回大会では、(1)(2)の段階で万が一急迫不正の主権侵害があれば、自衛隊も活用することを正式に決定している。いわば廃止を目指しつつも国民が望めば自衛隊を存続し、必要があれば「活用」する、というのが同党の現在の政策案である。この政策は同じ護憲政党であっても自衛隊容認から転じて「非武装の日本を目指す」(2006年)との政策に戻った社会民主党とは逆である。ただし他党と比べて「専守防衛」の武力行使自体にもかなり慎重ではある。「自衛隊『活用』」論についてはこの大会前に、党員からの少なくない批判や削除要求が挙げられた[2]。
2005年のスマトラ沖地震、2008年の四川大地震の際には人道支援による自衛隊派遣を容認する立場を取った。[3]
2007年6月に陸上自衛隊情報保全隊が密かに収集していたイラク戦争反戦の市民団体や著名人のリストを入手し、公表した(情報保全隊の市民活動監視問題を参照されたし)。
「民主連合政府」構想
複数政党と諸団体による「民主連合政府」を政権構想として掲げており、早期の単独政権は目指していない。党の準綱領的な方針である『自由と民主主義の宣言』では、「3つの自由」として、(1)生存の自由、(2)市民的政治的自由、(3)民族の自由を将来に渡って堅持することを公約している。特に、(2)市民的政治的自由では、旧社会主義諸国の否定的経験も踏まえ、議会制民主主義や三権分立の堅持と発展、言論・出版の自由やその他一切の表現の自由、信教の自由、学問の自由、団結権、人身の自由、文化の自由、芸術の自由の擁護、(以上、自由、自由権、人権も参照のこと)と発展、また少数民族、個人生活の自由の擁護や国定哲学の否定を謳っている。
天皇制の取扱い
天皇制に関しては戦前の絶対主義的天皇制からの現憲法での根本的転換がなされたとして、また「護憲」の立場から憲法の条文どおりの象徴天皇制を容認している。ただし、天皇制自体については現在においても「世襲制は平等に反する」「封建制の遺物」と否定的であり、政権政党となった場合、国民の合意に基づき天皇制を廃止するのが最終目標としている。
国会開会式への天皇の出席や皇室外交についても、「憲法違反」として認めておらず、中止を主張している。このため国会議員団は国会開会式に参加しない。
組織
党員
18歳以上の日本国民で、党の綱領と規約を認める人は、2人の党員の推薦を受け、支部の決定と上級機関の確認を経て、党員になることができる。入党手続きの前に「党を知る会」が開かれ、党についての説明と、意思確認が行なわれる事が多い。入党に際し掛かる費用は「入党費」(300円)である。
反社会的活動に従事する者や、また国家権力によるスパイ活動を防止するため、警察官・自衛隊員・公安調査官及び各機関の関係者の入党は認めない。関係の切れた元職員の党員は存在する。規約により、他党に所属しつつ入党(重党籍)することは出来ない。他党の元党員が入党することは可能ではあるが、通常の入党手続き(地区委員会の承認)とは異なり「都道府県委員会または中央委員会の承認を受ける」とされている。
党員は基本的には「支部」に所属して活動する。義務である党費は「実収入の1パーセント」(規約第46条)である。
ただし、議員ないしは首長となった場合は国や地方より支払われる給与を一旦党本部に納め、それから経費を引かれた額を党が給与として支払うというシステムをとっているため、これを党費として見る場合は収入の1パーセントより遥かに多い金額を党に納めていることとなる。議員や首長の歳費から差し引かれた資金は議会活動に関わる資金(調査費など)として使用される。また、選挙や社会運動を行なう上でカンパ(個人献金)を呼びかけることも多い。逆に、生活に困窮している党員に対しては党費の減免制度がある。
なお、規約上の規定は無いが、しんぶん赤旗の日刊紙を読むことも事実上の義務となっている(かつては規約で義務化されていた)。
「永年党員」(党歴30年以上)、「50年党員」(党歴50年以上)の表彰制度がある。著名な50年党員として俳優の花沢徳衛などがいる。
党の主要な役職に就いたり、公職の選挙に立候補しない限り、親しい人以外に党員であることを積極的に公表する人は極めて少ない。
地方組織
職場、居住地域、学園などに、3人以上の党員で「支部」を形成(労働運動、女性運動などの専従者・役員は支部の代わりに「グループ」を形成)。かつて「支部」は「細胞」と呼ばれていた。支部は「党の基礎組織」とし、支部 - 地区 - 都道府県 - 中央の形で縦割りに組織している。各級は党会議あるいは総会により、指導機関である「委員会」(支部は「支部長」の場合もある)を選出する。
- 「支部」は、企業・団体内につくられるもの(職場支部、労組グループ、婦人運動グループなど)から、市町村などの区域内をいくつかにわけた各地単位(地域支部、居住支部)、大学などに通う学生単位(学園支部)、更には階層ごとに組織されるもの(青年支部[4]、複数の学校にまたがる学生支部など)など、様々な形態で存在する。居住地域の「支部」は、他の政党には見られないきめ細かさで、都市部では比較的身近に存在し、議員主体の政党でない同党の特徴と言える。
- 「地区」は、東京都23区では特別区単位で存在し、人口と党員の少ない地域では、県を2~3つにわけた程度の広範囲の名称を冠する「地区」も存在する。
- トヨタ自動車や東京大学など多くの党員を抱える職場・学園、一つの市町村区域内に2つ以上の支部がある場合、地方議員を抱える場合などに補助機関として「委員会」が組織されている(党規約[5][6]など)。
現在の日本共産党規約[5]では、「地方的な性質の問題については、その地方の実情に応じて、都道府県機関と地区機関で自治的に処理する。」とし、民主集中制でありながら、一定の党内自治権を謳っている。かつては上意下達的な指揮命令権が確立されており地域の実情が考慮されていない傾向が強かった。その傾向により活動や自治体運営のうえで障害が発生する事もあったため、近年ではその反省からか「指導」はかなり控えめになっている。
「査問」問題
日本共産党はいわゆる「査問」の存在を否定しているが、かつて「査問」に付され党を除名されたり、後年離党した査問経験者が、その経験談を著作やウェブサイト上で公開し、告発している。[7][8]。また、2002年に日本共産党を除名された人物に対する査問の様子とされる録音資料がブログ上で公開されている[9]。最も著名な例である1972年の「新日和見主義事件」では、査問の対象者は長期間一室に監禁され、家族への連絡も許されなかったなどの証言もあり、「重大な人権侵害」との指摘がある。
事務所
日本共産党の事務所は、本部、伊豆学習会館、都道府県委員会事務所、地区委員会事務所の党機関事務所と、衆議院議員ブロック事務所、参議院議員都府県事務所がある。他に補助機関(市委員会)の事務所や党地方議員(議員団)の事務所が存在する場合がある。選挙事務所は別の場合が多い。なおしんぶん赤旗の編集局と支局は党事務所とは別に存在する。
本部
代々木駅・北参道駅に近い東京都渋谷区千駄ヶ谷四丁目の東日本旅客鉄道中央本線沿いにある。地上8階・地下2階の「2期棟」(2005年完成)と、地上11階・地下1階の「1期棟」(2002年完成)で構成され、延べ床面積は約16000㎡で、延べ床面積では日本の政党本部ビルでは最大規模である[10]。総工費は85億円で、多くは党員・支持者からによる寄付や無利子借入金による。
「日本共産党中央委員会」を掲げ、中央委員会の諸機関が入居しており、中央委員会総会が開催できる500人収容可能の「大会議室」を有する。一方で、党大会は収容人数の問題から行わず、またしんぶん赤旗編集局は向かいの別のビルに入居している。
この他エントランスホールは8時から20時まで自由に出入りできるようにするなど、一部が一般に開放されている点が特徴。本部見学も行われている。なおこの場所は、元々映画館であった建物を党の合法化以降使用し始めたものであり、後に改築・建て増しを繰り返し、8棟のビルからなる本部となった。本部内は「平成日本のよふけ」で公開されたこともある。
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本部ビル
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本部入口
伊豆学習会館
静岡県熱海市上多賀の伊豆多賀駅西方約2kmの山中にある。社会主義や公式党史などを学ぶ「党学校」などが開かれる他、党大会が付属大講堂で開催される。そのため、宿泊施設も存在する。この場所は、江戸城築城の際に石を切り出したところであるという。
地方
都道府県委員会、地区委員会は事務所を有しており、場所を公開し、勤務員が常勤している。地区委員会の事務所は概ね民家・小商店・オフィスビルの一フロア程度の規模が多く、ほとんどはしんぶん赤旗の新聞販売店(配達拠点・管理)の機能を併せ持っている。
県庁所在地の場合、県委員会と地区委員会の事務所が同じ建物内にある場合もある。
機関紙誌
中央
日本共産党は多くの中央機関紙誌を発行しており、党員・後援会員以外の人も購読する事ができる。
中央機関紙として日刊の『しんぶん赤旗』(ブランケット判)と週刊の『しんぶん赤旗日曜版』(タブロイド判)を発行している。かつては学生党員向けの『学生新聞』も発行されていた。
『前衛』、『女性のひろば』、『議会と自治体』、『月刊学習』などの月刊機関誌を発行している。これら雑誌は、日本国内一般書店での取扱が可能である。
かつては、『世界政治 - 論評と資料』(『世界政治資料』。1992年12月の第875号を以って廃刊)、『理論政策』(『理論政策資料』。1993年1月の第300号を以って廃刊)などの刊行物もあり、1983年に開始された写真誌『グラフこんにちは日本共産党です』は2000年12月17日の第372号を以って「休刊」している。
なお、1989年の消費税導入当初には新聞などの広告に「日本共産党は消費税廃止を主張していますが、流通取り扱い上価格は税込みとします」という文言が入っていた。
地方
都道府県委員会等の地方指導機関が発行する地方機関紙がある。『○○民報』(○○には当該地名が入る)という名称が非常に多い。中には党関連の別組織が発行している例(『京都民報』、『大阪民主新報』)もある。その他、地方議会議員(団)が発行する広報紙がある。
普及協力
同党は新日本出版社の発行する月刊『経済』の普及(宣伝)に協力している。同党の事務所で販売や定期購読の申し込みを受け付けている。また、日本民主青年同盟の発行する『民主青年新聞』『われら高校生』(いずれも週刊紙)の購読の仲介もしている。
かつては小中学生向けの『少年少女新聞』や雑誌としては『文化評論』『あすの農村』『労働運動』などもあったが、休刊もしくは廃刊している。
歴史
戦前非合法時代
1922年の同党創設当時、治安警察法、治安維持法などの治安立法により非合法活動という形を取って行動せざるを得なかった。これは、ほかの資本主義国では、既存の社会民主主義政党からの分離という形で共産党が結成され、そのために最初は合法性を有していたことと比較すると、日本の独自の事情があった、と言うことができる。日本の場合は、逆に共産党から離脱したものが、社会民主主義政党をつくっていった(堺利彦・山川均・荒畑寒村など労農派が中心)。同党は1922年7月15日に日本共産党として設立され(9月創立説もある)、11月にコミンテルンに加盟し、コミンテルン日本支部・日本共産党となった(最初の「綱領草案」は日本で論議して審議未了)。1924年に解党の議論が出るが、すぐに再建された。その際、堺や山川ら労農派の中心メンバーや、後に国家社会主義者に転向し日本革新党を結党する赤松克麿らが離脱している。
「綱領草案」(1923年)、「27年テーゼ」(1927年)、「32年テーゼ」(1932年)という3つの綱領的文書(後の二者はソビエト連邦(ソ連)に本部をおいていたコミンテルンで片山潜などの意見を取り入れながら決定されたもの)によって、日本の支配構造を、絶対主義的天皇制を主柱とし、寄生地主制と財閥による独占資本主義という3つのブロックの結合だと規定。ブルジョア民主主義革命を通じて社会主義革命に至るとする二段階革命論の革命路線を確立した。「32年テーゼ」では、民主主義革命の主要任務を、絶対主義的天皇制の打倒、寄生的土地所有の廃止、7時間労働制として、「帝国主義戦争と警察的天皇制反対、米と土地と自由のため、労働者、農民の政府のための人民革命を中心スローガンとした(同テーゼ)。この思考はソ連成立以前のツァーリによるロシア帝国の絶対支配と日本の皇室制度に対して、経済的側面からの共通点を過大評価しており、一部のインテリや学生には支持を得たが広範な大衆にはなかなか浸透していかなかった経緯がある。逆に、その日本の皇室がもっていた独自の精神的な立場を、「天皇制」という用語はみごとに表現していたため、戦後「天皇制」の用語は、共産党関係に局限されることなく、広く学問的にも、社会的にも使用されるようになった。
党組織は、非合法の党本体と、合法政党や労働団体など諸団体に入って活動する合法部門の2つの柱を持ち、非合法の地下活動を展開しながら、労働農民党などの合法政党に顔を出して選挙活動を支えた。戦前の同党幹部であった野呂栄太郎らの『日本資本主義発達史講座』などの理論活動、小林多喜二や宮本百合子らのプロレタリア文学活動にも多大な影響を与えた。
1927年の第16回衆議院議員総選挙では党推薦で労働農民党京都府連合会委員長の山本宣治が当選し、事実上初めての「日本共産党の国会議員」が誕生した。1929年山本は右翼に刺殺され、党は山本を正式に日本共産党員に加えた。
他方で27年テーゼ時代には、コミンテルンの方針の影響を受け、社会民主主義との闘争の強調や、ファシズムと社会民主主義を同列に置く「社会ファシズム」論を採用し、労働組合運動などに影響が生まれた。社会民主主義の労農派とは1927年から1937年まで10年間、論争を繰り広げた(日本民主革命論争・日本資本主義論争)。「東京市電争議における幹部暗殺計画・車庫放火事件」や「川崎メーデー武装蜂起事件」を敢行。コミンテルンからの資金が枯渇すると、資金強奪計画を練り、「赤色ギャング団」を結成。「中国銀行岡山本店襲撃計画」など、不法事案を引き起こした。しかしこの中には、警察が潜入させた人物によって引き起こされたものもあった。それが下記のスパイ査問事件(公式には治安維持法等被告事件。スパイ査問などという表現は存在しない)へとつながることになる。
同党は繰り返し政府から弾圧を受け、堺利彦らは解党を唱え1924年にいったん解党を申し合わせ、翌年再建。さらに1928年の三・一五事件や1929年の四・一六事件で治安維持法に基づく一斉検挙を受けた。
この頃の党の活動としては、いわゆる満州事変に際して「奉天ならびに一切の占領地から、即時軍隊を撤退せよ」「帝国主義日本と中国反動の一切の軍事行動に反対せよ」とするステートメントを出し、反戦デーにおいて非合法集会・デモ行進を組織した。また、日中戦争に際しては、戦争反対とともに、出征兵士の家族の生活保障や国防献金徴収反対などの「生活闘争」との結合を企図した。日本共産党は軍隊の中にも浸透を図り、1932年には「兵士の友」などの陸海軍兵士にむけた雑誌を刊行。軍港の呉では「聳ゆるマスト」という水兵むけ新聞を出し、海軍にも組織化をすすめた(数ヶ月後に弾圧され壊滅)。当時の指導部は革命近しとして、1930年には労働者に竹槍をもたせ「武装メーデー」と称する行進をおこなわせる事件も起きた。
特別高等警察(特高警察)と政府は、治安維持法に違反する共産党を壊滅させるために、共産党内部に協力者をつくり出すこと、あるいは工作をする人員を送り込むことを戦略的方針とし、協力者や工作員のなかには主要幹部にまでなる者もいた。特高警察は、検挙の手引きとともに、検挙だけでは共産党の後継が依然再生産されることを重く見て、1930年代からは共産党の社会的信用の失墜を企図した事件をおこさせることで根源的な壊滅を図った。特に後年松本清張は『昭和史発掘』のなかで、「スパイM」(松村昇、本名・飯塚盈延)として、1932年の熱海での全国代表者会議での大量逮捕(熱海事件)、川崎第百銀行大森支店襲撃事件を主導したとされる人物について論じている。翌年には中心幹部であった佐野学・鍋山貞親が転向声明を出す事態となった。こうした一連の事件によって、獄中でも党員に動揺が走り大量転向が起きた。後に「フィクサー(黒幕)」と呼ばれ暗躍する田中清玄らの転向・離党もこの時期である。闘争方針の中心に「スパイ・挑発者の党からの追放」が据えられたのもこの頃である。
1932年5月、全教の活動家である松原(本名・宮上則武)が「超スパイ(プロヴァカートル、挑発者)」としてリンチされ、一命を取り留めたが除名された。しかし松原は、そもそも党員ではなかった。8月15日、朝鮮人活動家の尹基協が「スパイ」容疑で射殺された。手を下したのは村上多喜雄だが、スパイと断定して殺させたのは、本物のスパイである松村であったという。松原も尹も、スパイ容疑は濡れ衣というのが有力である。「スパイ・挑発者の党からの追放」は党内の疑心暗鬼を煽る結果にもなり、特高警察にとっては全てが好都合にことが進んだ。
1933年、中央委員(当時)宮本顕治らが「スパイ」容疑のある人物2人を取り調べていた際に、1人が死亡する事件が発生した。(日本共産党査問リンチ事件)[11]。
このように党内の動揺は愈々激しくなり、ついに1935年3月、活動していた中央委員が検挙され中央部が壊滅、統一的な運動は不可能になった。
この間に、1936年のフランスやスペインで「人民戦線」とよばれる統一戦線政府が成立し、コミンテルンが方針転換した。モスクワから帰国した日本共産党幹部によって「人民戦線運動」が呼びかけられたが、大きな広がりにはならなかった。
その後も、同党の再建をめざす運動(関西における運動)や、個々の党員による活動は存在したが、いずれも弾圧の対象となった(『日本共産党の七十年』には、1936年1月に関西地方委員会の検挙、11月に名古屋での検挙、1937年12月にコミンテルンの指示で日本に入国して活動していた小林陽之助の検挙、1940年5月に山代吉宗(作家山代巴の夫)や戦後国会議員になった春日正一らの検挙が記録されている)。また、国外に亡命していた野坂参三は、延安で日本軍捕虜の教育活動をして、戦後の運動再建に備えていた。また、宮本顕治は、裁判闘争をつづけ、その中で日本において共産党の活動が生まれるのは必然的なものだと公判廷で主張した。
終戦と合法化
1945年8月15日の第二次世界大戦の終戦後、日本共産党は徳田球一を書記長として合法政党として再建された。出獄した幹部は、釈放を喜び、はじめのうち連合国軍を「解放軍」と規定した(現在は否定している)。1946年の第22回総選挙では5議席を獲得し、初めて帝国議会に議席を得た。
独自の憲法草案として、日本国憲法の制定前の時期に「日本人民共和国憲法草案」を発表。日本国憲法制定時の採決では、「天皇制の存続による民主化の不徹底」や内閣総理大臣吉田茂の「自衛戦争の否定」発言などを理由に、反対票を投じている。
連合軍に解放された党は、急激にその勢力を増していった。各地域や職場・学校では党員による細胞(現在の「支部」)が組織され、学生運動や労働運動を活発に展開した。1947年には、階級闘争の高揚の中で「吉田内閣打倒」を掲げる二・一ゼネストと呼ばれる大規模なゼネラル・ストライキが計画されていたが、前日のダグラス・マッカーサーの中止命令を受け全官公庁共同闘争委員会の伊井弥四郎議長が同日夜、ゼネスト中止指令をラジオ放送を通じて発し、これによって二・一ストは敗北し、戦後の労働運動の大きなつまずきとなった。
その後も国民の生活困窮を背景に党勢を拡大し、片山・芦田内閣の迷走で社会党に失望した有権者層の一部を吸収したために、1949年の第24回総選挙では35議席を獲得した。
1950年問題(分裂、武装闘争方針)
米ソの冷戦が激化し、中国で中国共産党が勝利し朝鮮半島での緊張が高まると、米国は、「日本を中立・非武装化して中国をアジアの拠点とする」というそれまでの戦略を転換させ、日本を「反共の砦」と位置づけるようになる。反共・封じ込め政策に基づくいわゆる「逆コース」である。このため日本の朝鮮戦争(1950年)の出撃基地化、日米安保条約の締結(1951年)、「戦犯」の復帰、警察予備隊(のちの自衛隊、1950年)の創設がおこなわれ、共産主義者とその同調者とされたものにレッドパージがかけられた。1950年にマッカーサーは共産党の国会議員など24人の公職追放・政治活動の禁止を指令。日本共産党は中央委員会を解体し、幹部だった徳田球一らは非合法活動に移行。中国に渡航して「北京機関」とよばれる機関がつくられた。日本には徳田らが指名した臨時中央指導部が残った。
この頃、中国共産党勝利により、武装闘争による革命という路線を普遍化しようとしていたスターリンと毛沢東らは、コミンフォルムを通じて、当時の日本共産党の「占領下での革命」論(平和革命論)を批判。このコミンフォルム論評の評価をめぐり、党内で意見が別れた。さらに後にソ連・中国が徳田らの主流派を支持する形で他の反主流派を批判するキャンペーンを展開し、資金などの応援もしたため、占領軍による弾圧とあいまって、日本共産党は分裂・混乱に陥った。
党は、徳田ら主流派(所感派)、宮本顕治ら国際派、春日庄次郎、野田弥三郎ら日本共産党国際主義者団、福本和夫ら統一協議会、中西功ら団結派など大小数派に分裂した。また1950年には徳田要請問題が発生し、徳田が証人喚問される事態になった。
主流派は1951年10月の第5回全国協議会(5全協)で、「農村部でのゲリラ戦」を規定した新たな方針「日本共産党の当面の要求」「軍事方針」を採択。「山村工作隊」「中核自衛隊」などの武装組織を建設し、武器製造法を記載した「栄養分析法」等を発刊。全国各地で火焔瓶闘争や騒擾事件などを引き起こし、治安を乱した。徳田を中心とした主流派の主導した武装闘争路線は到底、国民の支持を得られた出来事ではなく、それと同時に離党者を生む結果となった。1952年に行われた第25回総選挙では公認候補が全員落選するなど、著しい党勢の衰退を招くことになっていった。この1950年代の同党の分裂と混乱を、同党自身は「五〇年問題」(50年問題)・「五〇年分裂」(50年分裂)と呼んでいる。
1952年、政府はこれら武装闘争を取り締まるためとして、破壊活動防止法(破防法)を制定した。日本共産党は同法の「調査対象団体」に指定された。6全協とその後の総括・宮本路線などのソフトイメージで武闘路線を放棄したと言われている現在も、敵の出方論を主張しているという理由から公安警察や公安調査庁により“調査活動”が現在も続けられている。特に警察は日本共産党幹部宅盗聴事件、アジトからの隠しカメラを用いた党本部監視、果ては菅生事件など、明るみに出ただけでも複数の非合法な手段を用いてスパイ行為及び組織破壊工作をしており、党はその不当性を訴えているが、『警察白書』では、2006年現在も共産党を調査対象団体とし、数ページを割いて動静を追跡している。警察学校での「初任科教養」においても、党の綱領や決定について、きわめて批判的な講義がなされている。一方、破壊活動防止法に基づく調査活動を行っている公安調査庁では、現在では公然情報の整理と分析に留まっているが、時々職員によるスパイ工作が発覚し、党組織や日本国民救援会などの人権団体を通じて抗議活動が行なわれている。共産党は破防法を成立時から強く批判し、法曹・法学界でも破防法そのものが憲法違反であるとの意見が多数ある。
1955年、現実を無視した武装闘争路線は破綻し、党の再統一と改革を模索せざるをえなくなった。後に共産党の公式見解上ではこのことを契機に自分自身の力によって中ソなどの大国の干渉を払拭して自主独立の路線を確立するに至ったとされている。さらに徳田に統率された主流派も書記長である徳田が亡命先の北京で客死したことや、その後の指導権争いなど一連の騒動で疲弊しており、国内にいた宮本らの国際派と合流せざるを得ない状態になったとしている。
その後開催された党の第6回全国協議会(6全協)および1958年の第7回党大会で党の団結と統一を果たすに至ったがそこに達するまでは相当の紆余曲折があった。後に選挙において得票率は徐徐に回復してきたが、インテリに対しての大きな威信と指導力を取り戻すことはなかなかできなかった。宮本顕治(のちに、幹部会委員長・議長にも)が書記長に就任後はいわゆる宮本体制を整えていったが、自主独立といわれる路線を構築する要因となったきっかけは、フルシチョフの修正主義を批判したことと、友党関係を築いていた当時の中国共産党とでの文化大革命による干渉がおき、以降はソ連共産党と中国共産党から離反し、外部の意向に拠らず独自に活動を展開することになる。これを契機に不破哲三や上田耕一郎といった改革派を次々と党の中央の要職に抜擢し「自由と民主主義の宣言」や「宗教についての日本共産党の見解と態度」(宗教決議)を打ち出したり、マルクス・レーニン主義を科学的社会主義、プロレタリア独裁の放棄など名称の変更や改訂を行ったり当時ヨーロッパで提唱されていたユーロコミュニズムの主張と類似するような動きを開始した。これは国際共産主義運動の動向・意向に敏感に従っていたそれまでの党のあり方と異なる点で、以後の日本共産党の特徴になった。
なお、大武礼一郎ら所感派の一部は合流せず、日本共産党 (行動派)(下部組織に日本人民戦線)を結成した。
「自主独立路線」
中ソに盲従することで党組織に壊滅的な打撃を受けた経験から、同党は「自主独立の重大性を認識させる契機」(同党第20回大会報告)となったという。しかし、同党が「ソ連などの覇権主義にたいする認識は、はじめから全面的であったわけではありません」(同)とのべているように、50年問題解決後も、ソ連のユーゴスラビア非難への同調、ソ連のハンガリー侵攻への支持をした。ハンガリー事件を契機に、学生などが共産党の影響をはなれ、全学連などにいた学生党員を中心に日本共産党に反対する共産主義グループがつくられていった。
合法活動路線への転換や1956年のスターリン批判を経て、元党員のトロツキー主義者らは日本トロツキスト聯盟(後の革命的共産主義者同盟)を結成、全日本学生自治会総連合の一部活動家らは共産主義者同盟を結成した。1960年の安保闘争では穏健路線を取り、強硬な運動を主張する全学連と激しく対立。共産党は彼らをまとめて「トロツキスト」と非難した(必ずしも批判された側すべてが「トロツキー」主義者であったわけではない)。
1961年には綱領草案を巡る論争の中から日本独占資本を主敵とし、当面する革命を社会主義革命とする「一つの敵」論を主張する春日庄次郎、山田六左衛門ら構造改革派が離脱し共産主義労働者党を結成。1964年には中・ソ対立の中で党の中国共産党寄り路線に反対するとし、国会での部分的核実験停止条約批准に賛成票を投じた衆議院議員の志賀義雄や、同じく同条約批准に賛成の意向を示した参議院議員の鈴木市蔵ら親ソ連派が除名され、「日本共産党 (日本のこえ)」を結成。文化人では、中野重治・野間宏らがこの時離反している。
1964年にソ連のアメリカ評価、核兵器政策をめぐって日本共産党はソ連共産党と対立し、論争を公然化させた。このなかで、当時国会議員だった志賀義雄や鈴木市蔵が国会でソ連が推進する部分的核実験停止条約に賛成し、日本共産党は「党の決定にそむくもの」として除名した。ソ連は志賀グループを公然と支持し、日ソ両党は激しい論争となった。
また、1966年、「文化大革命」を契機として中国共産党(主に毛沢東)から日本共産党へ「修正主義」との批判が加えられ、ここでも激しい論争となった。世界の共産党でも同じような現象がおきたが中国に同調するグループが各地でつくられ、山口県委員会などが中国派の中心になった。「共産党は一九六六年に、従来の非妥協的新中共路線とたもとをわかち、“現代修正主義”〔ソ連〕と“左派教条主義”〔中国〕との断絶ははっきりし、両派はこのうえない痛烈な表現で直接お互いに指導者に攻撃を加えた。八月には最後に残った二人の日本共産党代表が北京を離れたが、出発のさい紅衛兵に激しく殴打された」(アメリカ国務省情報調査局年次報告1968年版)。この過程でも中国派は党規約にそむいたかどで除名された。このように日中共産党の関係が悪化し、日本共産党の自主独立路線に反発するという名目で西沢隆二、安斎庫治、原田長司、大隈鉄二、福田正義ら親中共派が離脱、「日本労働党」、「日本共産党 (左派)」、「日本共産党革命左派神奈川県委員会」、「日本共産党 (マルクス・レーニン主義)」(後の労働者共産党)、「日本共産党 (解放戦線)」、「日本労働者党」などを結成した。合法闘争路線への転換以後のこれらの党内闘争は総じて、コミンテルン支部時代に掲げていたプロレタリア国際主義理念などを錦の御旗として掲げていたものの、実質的には武装闘争路線への回帰や外国の党の指導を受け入れることを路線として掲げていたもので、とりわけ中国からの日本共産党内部への干渉、多数派工作とその破綻と見ることができる。
こうして、ソ連と中国との激烈な論争で大量の除名や分派を生み出しながら、同党は1960年代後半ごろに「自主独立」路線を確立した。以後、ソ連によるチェコスロバキア侵略(プラハの春)・アフガニスタン侵略、中国によるベトナム侵攻を批判した。また、カンボジアのポル・ポト政権、北朝鮮指導部(朝鮮労働党)によるとされる日本人拉致事件・大韓航空機爆破事件・ラングーン事件・日本漁船銃撃事件などにも厳しい態度をとり、「社会主義国」一般に対しても同じ姿勢をとるようになった。
1968年の「プラハの春」に際して、党中央はソビエト連邦共産党を明確に批判したが、一部の党組織には、ソ連とワルシャワ条約機構軍を擁護する文書が密かに流された。ソ連派が党内に潜伏していたと見られる。野坂参三はずっと後になってから、「ソ連内通者」として「除名」される。
その後、1972年には日本民主青年同盟(民青同盟)幹部らについて、いわゆる「新日和見主義事件」が発生し、1970年代後半から1990年代前半に掛けて名古屋大学教授田口富久治などのネオ・マルクス主義学者党員が除籍された。自党からの分派を含め、共産党は新左翼の共産同・ブントや革共同中核派、革共同革マル派、革労協、社会主義労働者党(社労党)などの政治団体・運動を1980年頃までは「トロツキスト暴力集団」、それ以降は「ニセ「左翼」暴力集団」と呼んで非難し、政治などの問題で共闘を拒絶し、排斥した。(党派闘争参照)
前述のように、高揚した学生運動の中で、民青同盟の学生対策のグループ、全学連グループ、「ジャパンプレスサービス」グループ、平和運動グループの中に、大衆運動主義とでも言いうる「新日和見主義」が発生したと党中央は非難した。しかし、それは、議会主義への傾斜を確実ならしめるための組織的な予防措置とみなしうるものであった。こうして、川上徹・高野孟・山川暁夫などが処分され、全学連の早乙女・松尾なども第一線から身を引くことを余儀なくされた。「新日和見主義」なる分派は実際には組織だって結成されていたわけではなかった(新日和見主義事件)。
さらに、1976年に「自由と民主主義の宣言」という準綱領文書を採択し、ここでソ連モデルとは違う社会主義像を提起した。この流れは「ユーロ・ニッポコミュニズム」(欧州(西欧)的・日本的な共産主義)と言われた。
ただし、同党はソ連を覇権主義と批判しつつも、その解体にいたるまで「社会主義の生成期」がソ連社会であるとして、ソ連を社会主義の過渡期の社会として規定しつづけた。また、核兵器問題など外交問題での一致点に限定して、ソ連やルーマニアの指導者と共同声明を出したこともあった。
スターリン支配のコミンテルンから戦後のコミンフォルム、そしてコミンフォルム解散後もソ連共産党が各国の共産党を金銭的援助とともに「指導」する傾向が、長く続いた。共産主義政党がそれぞれの国に根付いていく過程で、とりわけアジア諸国の共産党はソ連(あるいは中国)との対立から「自主独立」を掲げる傾向を強くした。日本共産党と大国の共産党の相克も、そうした中で生じたものであった。
こうして、集団的に排除された、あるいは分裂した「分派」グループは、今日独自の力学と理論で運動を展開し、日本共産党との思想的・運動的な一致点はもはや無く、公然と「日本共産党打倒」を呼びかけている党派もある。政党との行動ではむしろ日本社会党や新進党、民主党、社会民主党などと共同歩調をとるようになっている。集団的な「復党」の動きも見られない(個人はある)。民主統一同盟や元第四インターナショナル・中核派活動家村岡到の個人党派「政治グループ稲妻」など、新左翼への譲歩を前提として日本共産党との共闘を呼びかけた動きや、第四インター各グループが「よりまし」として選挙で共産党への投票を呼びかける動きもあるが、共産党側は「反省も無しに共闘には応じられない」と拒否している。もっとも1990年代以降、日米安保新ガイドライン改定反対、有事法制反対、憲法改定反対などの運動で、両者が集会を共にする機会は増えている。
「55年体制」下
1955年頃から宮本顕治が事実上の指導者になり、1960年代半ばには党の指導者と実務面の指導者を二重にして継承する体制を確立、不破哲三に実務面を継承させた(議長宮本、委員長不破体制)。これにより一枚岩体制が確立し、戦前から問題であった内部抗争や金銭的腐敗を一掃し、「クリーンな党のイメージ」の確立に成功する。
合法路線復帰以後は党勢を拡大し、1960年の第29回総選挙からは、原則として全選挙区に公認候補を擁立するようになった。その後1970年代初めまで得票率を伸ばし続け、1972年12月に田代文久が特別委員会の石炭対策委員会の委員長に選出され、共産議員として初の国会委員長が誕生した。その後、いったん落ち込んだものの1979年10月7日投開票の第35回総選挙では最高の39議席を得る。
1979年10月に林百郎が衆議院懲罰委員長に選出され、共産議員として初の国会常任委員会委員長が誕生した。その後は自民党や産経新聞を中心とする「自由社会を守れ」キャンペーンやサンケイ新聞事件などの強烈なネガティブキャンペーンの影響で落ち込む。この当時、『小説吉田学校』を執筆した戸川猪佐武が、『小説自民党対共産党』という本を出している。「70年代は自共対決の時代」と持て囃されたこともあった。
日本社会党と日本共産党は、日本政治の中では革新陣営に属し、中道の民社党、公明党をはさんで保守の自由民主党に対峙する位置にあった。「55年体制」の成立以来、政権は一貫して自民党の手にあり、社共共闘、あるいは全野党共闘により政権交代を樹立するというのが当初の社共の方針であった。社会党内部には社共の協力より社公民の協力を重視すべきだという意見があり、これがしだいに力を持った。民公、特に強い反共主義姿勢を持つ民社の側(特に春日一幸)からの、共産排除要求もあった。これに同調したのが、社会党内の構造改革派・社公民路線派の一部が社会党左派に追われる形で独立した社会民主連合であった[12]。共産党が勢力を伸ばすにつれて、総評系労組(特に官公労)など、各種運動団体で社共の主導権争いが激化し、それらの団体を主な支持基盤とした社会党との関係にも悪影響を及ぼした。
1979年4月、東京都知事選挙で革新統一候補の元総評議長太田薫が敗れると、社会党は公明党との関係強化(1980年1月にいわゆる〈社公合意〉を締結した)による右傾化を進め社共共闘は瓦解した(社会党側からは「共闘を通じて社会党員・支持者が共産党に流れてゆき、票と議席が減っていったことに不信感を持った」とも言われている)。1980年代には、「自民党と“共産党を除く”全野党の国会対策委員長による会談」(国対政治)が常態化して、共産党の排除が進んだ。
日本共産党は1960年代から、国政選挙では当選の可能性を度外視して全ての選挙区で候補を擁立する戦術を取っていた。社共共闘の破綻後は、地方選挙でも独自候補を積極的に擁立し、日本全国で少数派としての存在を示した。この戦術は、当選者が複数の中選挙区制では有効であった。定数1(小選挙区制)の選挙区では自民党と競り合う社会党の票を奪うことで、しばしば自民党候補の過半数以下での当選という結果をもたらした。自民党の長期支配が続く中、共産党の独自擁立も結果として自民党政権継続に有利に作用する要素として取り込まれていったと見られることもある。
その一方、地方の首長選挙で自民党と社会党が同調して、日本共産党以外全政党相乗りの候補が出現するようになると、「日本共産党の存在によって選択肢が確保され」ているとして「オール与党」批判の宣伝を行うようになった。ただ、滋賀県の武村正義、神奈川県の長洲一二、岡山県の長野士郎、世田谷区の大場啓二など、日本共産党も相乗りに加わっている候補も一部に存在した。それについては「革新首長に自民党が同調し、乗っ取っていく過程に生じた一時期のものであり、次の出馬の際には共産党は排除されていった」と主張している。事実、共産党を含む相乗りは長続きせず、後に相乗り候補対共産党候補という構図が出来上がっている。
創共協定
公明党の母体である創価学会とは、1974年12月28日、松本清張の仲介で相互不可侵・共存を約した協定を10年間の約束で結んだ。創共協定(共創協定)と呼ばれる。しかし、自民党との関係悪化を恐れた公明党の抵抗もあり、協定は翌年の公表とほぼ同時に死文化。1980年、創価学会による宮本顕治宅盗聴事件が発覚すると、両者の対立は決定的となり、協定の更新は行われなかった。
部落解放同盟との対立
部落問題も参照
他に目立ったのが部落解放同盟との対立である。解放同盟は元々、共産党の影響力が強く、1960年代前半までは両者は友好的な関係にあったが、1965年10月8日、内閣同和対策審議会答申が出されたことが大きな転換点となった。社会党員など同盟内の他の潮流は、部落差別の存在を認め、「その早急な解決こそ、国の責務であり、同時に国民的課題である」と明記した答申の内容をおおむね肯定的に評価し、同対審答申完全実施要求国民運動を提起することで一致したのに対し、共産党や同党員である解放同盟の活動家はこの答申を「毒饅頭」と批判した。その結果、同盟内で急速に支持を失い、同年の第20回大会では、共産党系代議員の提出した修正案は否決、同対審答申完全実施要求国民運動の展開を骨子とした運動方針が採択され、役員選挙では共産党員である中央執行委員のほとんどが解任された。共産党はこの動きを「一部反党修正主義者、右翼社会民主主義者の幹部」による策動として強く非難した。
大会以後間もなく、京都府連の分裂が表面化、その余波で、府連書記局が設置されていた文化厚生会館の帰属をめぐり、解放同盟京都府連と部落問題研究所との間で紛争が発生した(文化厚生会館事件)。さらに同和対策事業特別措置法制定が急ピッチで進んでいた1969年2月、党農民漁民部編『今日の部落問題』を刊行し、その中で解放同盟指導部を「改良主義的、融和主義的偏向から自民党政府と安上がりの時限立法による特別措置で妥協した」と批判。同盟中央は抗議の意志を示すため、同書刊行直後に開かれた全国大会に来賓として出席した共産党議員を紹介だけにとどめ、祝辞を読ませないとする対抗措置がとられるなど、さらに関係は悪化した。同年大阪で起きた「矢田教育事件」では、当時の解放同盟や教職員組合、地方行政が取り組んでいた越境入学問題に消極的だった共産党員教員が、解放同盟大阪府連矢田支部による糾弾の対象となり、刑事事件に進展。共産党は、党組織を挙げて解放同盟と対決する姿勢を明確にし、両者の対立は決定的なものになった。同盟中央は、共産党に呼応する動きを見せた同盟員に対して除名・無期限権利停止などの処分で対抗した。こうして、1970年には部落解放同盟正常化全国連絡会議(のちの全国部落解放運動連合会)が発足した。共産党やその支持者たちはこの経緯について「本来、部落差別にたいして、大同団結して活動をすすめるべき部落解放運動に暴力や利権、組織分断を持ち込み、路線対立から親戚や親子関係の分断をはじめとした地域の人びとを二分する大きな誤りを持ち込む結果となった」と主張している。その頂点としていわれる事件が、1974年の兵庫県立八鹿高校における、八鹿高校事件の発生であった。
現在でも共産党・解放同盟両者の関係は極めて険悪である。共産党は、「部落解放同盟」の呼称の使用を極力避け、「解同」と必ず鉤括弧書きで表記する(なお、解放同盟側は「解放同盟」「同盟」の略称を用いる)。1990年代初頭までは「朝田・松井派」と、解放同盟側を分派として糾弾する姿勢をとっていた。すなわち、「解放同盟を自称しているが、実態は利権あさりの集団に過ぎない」という党見解を反映したものである[13]。また、共産党は「志賀義雄一派と結びついた反共勢力が指導部を占拠(「解同」朝田派)し、「部落民以外はすべて差別者」とする部落排外主義を振りかざして、反対勢力を組織から排除しました。」[14]という認識を示している。裏返せば、共産党内の親ソ派を排除した抗争が、解放同盟に飛び火したと認識していることになる。
現在一部の自治体では、地域の街づくり会議などで、互いの陣営が同席することも見られるようになった。これらは、地域の過疎化や世代交代によって、それぞれの勢力が減少傾向にあることや、部落差別の早期解消に向けて、一致点での共同を進めようとする努力の結果だともいえる。しかし、政治戦においては、支持政党の違いによる軋轢は今なお強く残っている。特定の選挙で野党共闘が成立した場合、結果的に同一の候補を支援することがあっても、一定の距離を保ちつつ、互いに独自の支援活動をすることが多いのが現状である。
ソ連解体後と現在
1991年8月のクーデターとソ連共産党の解散に際しては、ソ連共産党の解散を「もろ手を上げて歓迎する」という宮本顕治の発言が発表された(8月31日付毎日新聞によるインタビューでの発言)。この発言の翌日、常任幹部会はこの宮本発言を受けて「大国主義・覇権主義の歴史的巨悪の党の終焉を歓迎する - ソ連共産党の解体にさいして」という声明を発表した。その一方、ソ連・東欧諸国の脱社会主義への動きを「歴史の逆行」とも評しており、その整合性に疑問の声も上がった。ほぼ時を同じくして、政府与党や社会党(現在の社会民主党)を含む他の野党、マスコミなどにより「体制選択論」「冷戦終結論」「保革対立消滅論」が大々的に宣伝され、党員の所属する労組・団体の弱体化が進み、政治・社会運動からの撤退などの要求を突きつけられるなど、その後の選挙では苦戦を強いられた。
戦後60年間国会では小政党の域に留まっており、国政与党になったことはないが、ソ連解体後、世界で多くの共産党が改名または解散する中で、共産党の名と議会勢力をともに維持している。1990年代後半には日本社会党からの離反層を取り込み、集合離散の続いた他党候補者の濫立も有利に作用して衆議院で一時的に勢力を回復し、1998年の参議院選挙では、15議席を獲得し、非改選議員とあわせて予算を伴う法案の提出権を初めて獲得した。その後は小選挙区制の定着による二大政党制指向の強まりや総議員定数の削減、昨今の日本周辺の国際情勢も相まって国会の議席が後退した。『しんぶん赤旗』の発行部数も、ピーク時の半分ほどにまで減少している。また、当選人数が1人であり大政党に有利な傾向の強い小選挙区制では共産党候補の当選はきわめて難しいものとなっている。1996年の第41回総選挙では、小選挙区で2議席(京都3区の寺前巌と高知1区の山原健二郎)を獲得したが、それ以降、小選挙区での当選はない。
2000年の第7回中央委員会総会(7中総)では、党規約から「前衛党」規定が削除された。また、同年不破哲三に代わり志位和夫が委員長となり、不破は宮本に代わり議長となった。この不破・志位体制の成立により、宮本の影響力は低下した。2006年1月11日 - 1月14日に開催された第24回党大会で、いわゆる「現実・柔軟路線」を指導してきた不破哲三が、議長職を高齢と健康などを理由に退き、「委員長志位・書記局長市田体制」が確立した。
共産党の全選挙区擁立戦術は、与党である自民党・公明党の選挙協力体制が緊密化するにつれて、結果的に野党間の候補共倒れ、連立与党候補の過半数に満たない得票率での当選という結果を激増させた。また、共産党候補の供託金没収選挙区も大幅に増え、党の財政を圧迫する要因となった(このため党内でも政党として政党交付金を受け取るべきであるとの意見が党大会前の公開討論の中でも主張されるようになっている)。この間、日本社会党・新進党に代わり民主党が野党第一党となった。
2001年の第19回参議院議員選挙で東京都選挙区から当選者を出したのを最後に、2003年の第43回衆議院議員総選挙、2004年の第20回参議院議員選挙、2005年の第44回衆議院議員総選挙、2007年の第21回参議院議員選挙では、選挙区での当選者を出すことができなかった。
第44回総選挙では47年ぶりに全選挙区擁立(推薦を含む)を中止したため、25選挙区の「共産空白区」が出てきた。「共産空白区」では与党候補と野党候補が大差の付く選挙区が多く、選挙への影響は小さかった。共産党の小選挙区候補者全275名のうち、223名が10%の得票に届かず供託金を没収された。全300選挙区に候補者を立て235選挙区で没収された前回とさほど変わらない結果だった。共産党自身については、得票数の減少に歯止めがかかった。投票率が上がったため得票率は下がっている。
2006年の国政選挙では、4月と10月に計三選挙区で行われた衆議院議員補欠選挙で、いずれも独自の公認候補を擁立したが、すべての選挙区で落選、供託金も没収されている。また、2007年4月に行われた参議院議員補欠選挙では、福島県選挙区で公認候補を、沖縄県選挙区では、民主党や社民党などと共同推薦候補を擁立したが、いずれも落選、福島県では供託金を没収されている。[15]
2007年の参院選東京都選挙区で公認候補が落選したことで、東京都でそれまで51年間に渡って維持してきた参議院での共産党の議席を完全に失った。現在、共産党が擁している国会議員(衆議院9名、参議院7名)の中に選挙区での当選者は存在せず、すべて比例代表区からの選出である。
今のところ国政選挙で単独での小選挙区当選は難しい現状にあるが、保守政党色の強い野党第一党の民主党はもとより、護憲という立場で政策距離が近い社会民主党との選挙協力の目処も現時点では立っていない。[16]その一方、最近の市町村合併にともなう各地の地方選挙では着実に当選者を出し、政党所属の地方議員の総数では第1党の位置を保っている。また他党との協力については東京都多摩地区や青森県、沖縄県などで一定の野党共闘が実現している。国会内では、2007年9月4日に野党の国対委員長会談に復帰し、他の野党との共闘を強化することになった。
2007年9月8日の第5回中央委員会総会で、次の総選挙から、すべての小選挙区に候補を擁立するのではなく、その小選挙区での比例区の得票率が8%以上の選挙区に擁立する選挙区を絞り込む(ただし、各都道府県で最低1人は候補の擁立を目指す)方針を幹部会は提案した。9月9日、中央委員会はこの提案に賛成し、決定した。この背景には、得票率が10%を割ると供託金が没収されることによって、党財政の悪化の原因となっていることが背景にあるとされる。方針に従い、次期衆議院選挙では前回の05年総選挙の39人(重複を含む)を大幅に上回る70人の候補者の擁立を目標としている。
有権者の投票行動から見た場合、共産党は与党(自民党・公明党)とはもちろん他の野党とも、特に国政に於いては政策的距離がきわめて大きいため、いわゆる無党派層の支持者において特に、選挙のたびに候補者選択に苦慮することになり、野党間の選挙共闘が成立しにくい。小選挙区制の性質上、現在の共産党の戦術が野党に極めて不利に働くことも事実である。得票総数では与党(自民・公明)を上回りながら、野党候補が落選するという事態が多発し、批判票が分散する事態となっている。そのため、政策的に遠い民主党とはともかく、社共共闘の復活への待望論は少なからずある。
支持者の一部には「当選の可能性がない以上、選挙区では民主党候補に投票する」動き(戦略投票)が一定数出ていることに対する警戒感は選挙の度に機関紙上で強調されている。その一方、共産主義の固守を願う支持者や党員の一部からは、既に政策転換が過ぎる(「右」展開)という批判もある。
「共産党に意見表明の機会を与えることはフェアネス(公平)ではない」との発言が出た椿事件以降、マスコミ報道が共産党の動向について取り上げる機会は減ってきている。大きな選挙で候補を立ててもほとんど取り上げられず、政策提言や意見表明は機関紙などの自前メディアや街頭演説・ビラ配布など、自前の活動で届けることが大きな手段となっている。但し、葛飾区や豊後高田市などでビラ配布を理由に党員や議員が逮捕される事件が相次いでおり、政策宣伝自体が非常に困難な事態となっている。
革新懇運動
「社公合意」など日本社会党が右傾化していく状況の中で、日本共産党は「軍事費を削って福祉にまわせ」「非核の一点で結集を」などと呼びかけ、政党の組み合わせによる「革新共闘」を模索するのではなく、「思想、信条、支持政党、の違いを超えた国民多数の革新的な運動の結集」により、新たな革新戦線を全国的に追求する「革新懇話会=革新懇運動」をすすめた。だがこれも、社会党と共産党との間で揺れ動く革新浮動層を共産党に取り込むための方便と見られることも多く、成瀬昇(元愛知県評議長)、西岡瑠璃子(元参議院議員・歌人)、栗原透(元社会党高知県委員長)、矢山有作(元衆議院議員)ら元社会党員も多数参加しているにもかかわらず、具体的な選挙共闘としては愛知県・高知県などを除いて現在まで余り大きな成果は得られていない。
革新懇は全国組織の「全国革新懇」、都道府県や市区町村、学区などの単位で結成されている「地域革新懇」、職場ごとの「職場革新懇」など、様々な単位で結成され、活動している。
小選挙区制下での他党との関係
小選挙区制下、党は「現在の政党に共闘可能な政党は見あたらない」とし、多くの選挙区に独自候補をたてる戦術は、事実上、与党に有利に作用し、野党候補の一本化(主に民主党候補)により政権交代を望む者からは、「与党批判票の分散」、「利敵行為」と指摘されることがある。
他党との政策的な違いと共に、主に二つの理由も挙げられる。
こうした態度が、時に旧社会党やその後継である民主党・社民党、さらには、部落解放同盟、新左翼などからも「独善的体質」「セクト主義」として非難されており、また新聞紙上でもそういったイメージで取り上げられることがしばしばある(主なものとして山口二郎や天木直人、筆坂秀世、森田実などの論、日刊ゲンダイの記事など)。
前述したような権力闘争の歴史的遺恨というだけでなく、日本共産党が過去に特に労働運動の分野で社会民主主義の労使協調路線や御用組合(と共産党が判断した組合)に対して痛烈な批判を行ったこと、現在も社民主義や「第三の道」路線に対して決して友好的な態度を取っていないことも背景にある。
2006年1月23日に書記局長市田忠義と社民党全国連合幹事長の又市征治が会談し、平和憲法維持を目指すべく関係改善し共闘を示唆する報道がされた。
5月20日には「平和共同候補」(護憲派の統一候補)擁立運動を「新社会党の手先の役割を果たしている」として、痛烈に批判した[17]。さらに、2007年5月1日号「しんぶん赤旗」では、擁立運動の確認団体「9条ネット」と新社会党や部落解放同盟との関係を重ねて強調し、全否定する見解を載せた[18]。解放同盟の支援を受ける候補は新社会党のみならず、民主、社民、自民、公明にも存在する。
他党の反応とその事例
同様に他の野党も、共産党との連携に極めて消極的な事が多い。この傾向は小選挙区となる以前からも一定程度みられる現象である。
1990年の総選挙の際には、定数3で共産党議員が長く議席を保持してきた選挙区に、当時の社会党が新人候補を立てたケース(東京9区や和歌山1区など)、現在の民主党が定数1の沖縄県議補欠選挙で泡沫候補を立てて野党票を割り革新系無所属候補の当選を「阻害」したケースも見受けられる。前者は自党の議席獲得を狙ったものとも言えるが(当時の社会党は長期低落傾向にあった。そのため土井ブームによる復調は千載一遇の好機と見られており、また政権交代を狙う党に、候補の空白区があるのはおかしいとする逆の批判もあったのである)、後者のケースは、まさにここで問題とされている「共産党的行動パターン」を、他の野党が行った事例といえよう。
小選挙区制となって以降、国政・地方選を問わず、共産党は孤立する傾向をより深めている。以下、いくつかの事例を挙げる。
2006年の沖縄県知事選では、糸数慶子を推すことで、主要選挙では稀な事実上の国政全野党共闘が成立した。民主党内部では長島昭久など右派などから「共産と手を組んでいる」候補への批判が公然と行われ、与党側も「共産と手を組んだ民主」など他の野党への攻撃材料にした。結果は与党推薦の仲井眞弘多に敗れた。このように、与党側を中心とした「共産と手を組むことが悪なのは自明」論の影響力は大きく、他の野党は与党やマスコミに共産との協力を批判されると、容易に動揺する傾向が見られる。
こういった社会的風潮もあり、表だった協力関係ではなく共産党側に「配慮」を求める動きも見られる。しかし、このことが共産党側の神経を逆なでし、野党間の泥仕合となるケースがままある。
2004年には、参議院大阪選挙区で、当時辞職中の辻元清美を共同候補にするために、現職議員の宮本岳志に引退を「強要」したとされる(宮本岳志の項目参照)。結果、辻元も宮本も落選した。
2007年2月に行われた愛知県知事選挙もほぼこのパターンである。共産党は当初、民主党の候補予定者であった前犬山市長の石田芳弘を共同で推そうとして協議を呼びかけた。石田氏自身は含みを持たせていたものの、陣営としてはこれを拒絶。共産党は急遽自前の候補者を推薦させざるを得なくなった。民主党が共産支持票による得票の増加よりも自民・公明両党からの「ネガティブキャンペーン」による票の減少を恐れたためとされる。選挙結果は、共産党推薦候補の阿部精六が予想を上回る票を獲得し(もっとも同党が愛知県で持つとされるいわゆる「基礎票」には遠く及ばなかったが)、現職で3選を目指していた神田真秋を急激に追い上げていた石田は僅差で敗北した。
2007年3月の東京都知事選では、共産党推薦の吉田万三と、市民団体が擁立し民主・社民の実質的な支援を受ける浅野史郎、現職知事の石原慎太郎の有力三候補が競う形となった。共産党は現職の石原都知事を批判しており、浅野もまた反石原という点では一致していた。石原都知事の圧倒的優勢を覆すため、市民団体は「反石原」で吉田の出馬取り下げを要求した。これに対し、吉田陣営との話し合いもしないまま(ただし市民団体側は事前の申し入れはしていたと反論)に取り下げを強要されたと吉田陣営が反発。志位和夫は「(浅野と)石原都政はうり二つ」[19]と断言しこれを拒否した。
その理由は、民主党が都議会において「オール与党」体制の一翼を占め、学校の卒業式での国旗国歌の義務化を議会で最初に要請したのが民主党議員であるというものであった。さらに、吉田は集会等で「他に共闘対象となる候補者が出れば、自分は降りてその人を支援しても良い」と発言していたが、同席していた民主党都議は共産党との共闘を明確に拒否した。このような足並みの乱れもあり、選挙は石原が前回に続いて大勝した。
- その直後の都議会では、民主党や東京・生活者ネットワークは、知事提案の議案にすべて賛成した(社民党は都議会の議席をもっていないが、議席のあった2001年までは知事提案にすべて賛成する石原与党であった)と、共産党側は批判している。
この三例の共通点は、民主党が共産党側に何の利益も与えず、「無償で」自候補への協力を強制したと共産党側が主張していることにある。その真偽は定かでないものの、共産党の反応が極めて厳しいことは確かである。このような真偽不明な双方の見解の相違が頻出し、特に共産党側が事態の打開を望まないともとれる態度を示す点が特徴的である。
また、他党が共産党候補の支持を表明したのは、保坂展人が狛江市長矢野裕を応援した例や、新社会党や沖縄社会大衆党などによる推薦・支持など、ある程度限られる。
- ちなみに、「大規模開発計画撤回」を公約に掲げ当選した、共産党員である陸前高田市長中里長門は、「反小沢一郎」を志向する自民党陸前高田支部の支援をうけていた。共産党の候補を自民党が応援し、民主党と対決したのは全国でもここだけである。このように地方の市町村では、リバタリアン志向の一部の民主党員よりもむしろコミュニタリアン志向の一部の自民党員との間で共闘関係になる場合もある。例えば、京都府城陽市でも、前市長大西忠を自民党京都府連と共産党が支えるという構図になっていた。自民党市議団と民主党は対立候補を支援)。また、かつての国労のような労使闘争に対して、自民党と共産党は対立で一致するため、地方公務員労組の支援を受ける民主党左派や社民党に対しては共闘しやすいのも一端である。逆に、組合間の対立感情などで両者が対立した場合は、相対的に組合との関係が薄い自民党と協力関係が生じることもある。また、解放同盟批判については、自共共闘が成立しやすい。もっとも、自民党は解放同盟の支援を受けることもあり、同党にとっての解放同盟批判は、多分に圧力団体に服従を求める意味合いが強い。世羅高校事件のように、結果として自民党に一方的に有利な解決(国旗及び国歌に関する法律の成立)が図られたこともある。
現在の状況
民主党は、小沢一郎が代表になってからは、小沢が共産党との協力の可能性に言及する変化も見られるが[20]、選挙では実態として、両党の協力はほとんど行われていない。
次の総選挙である第45回衆議院議員総選挙の方針では、小選挙区の候補を大幅に減らすことになった。これは、野党共闘目的ではなく、小選挙区では候補者を立てるだけの力がないところがあるという判断から、比例区と支持基盤のある小選挙区に候補を絞り込もうとする方針転換である[21][22]。また、大連立騒動などから改めて民主党を自民党と「同質・同類の党」と批判し、明確に共闘を否定した。一方、自民党の松浪健四郎は、共産党の独自候補擁立が自党有利になるとの見解を示している[23]。
現在の執行体制
中央委員会
中央委員会は、最高機関である党大会に次ぐ機関であり、全党を指導し対外的に党を代表する機関であるが、中央委員会総会は規約では年2回以上の開催という規定であるので、日常的には中央委員会常任幹部会が最高指導機関である。日本共産党規約に役職としての最高職の明文規定は無いが、中央委員会議長、中央委員会幹部会委員長、中央委員会書記局長が党三役(党首を含む)である。
- 中央委員:130 人
- 准中央委員:14 人[24]
- 中央役員
- 中央委員会議長: 空席
- 中央委員会幹部会委員長: 志位和夫
- 中央委員会幹部会副委員長: 石井郁子、緒方靖夫、浜野忠夫
- 中央委員会常任幹部会
- 中央委員会幹部会
- 委員数 50。委員長、副委員長を含む。
- 中央委員会書記局長: 市田忠義
- 中央委員会政策委員会責任者: 小池晃
- 中央委員会国会対策委員長: 穀田恵二
- 中央委員会参議院議員団長: 小池晃
- 中央委員会参議院議員幹事長: 小池晃
- 部署など
分野ごとに各種委員会・部局(経済政策委員会、国際部、出版局など)が設けられている。 また、シンクタンクとして「社会科学研究所」(所長:不破哲三、副所長:山口富男)がある。
所属国会議員
- 衆議院(9名)
- 高橋千鶴子 比例代表単独 東北ブロック比例区
- 塩川鉄也 比例代表復活 北関東ブロック埼玉県8区
- 志位和夫 比例代表単独 南関東ブロック比例区
- 笠井亮 比例代表単独 東京ブロック比例区
- 佐々木憲昭 比例代表単独 東海ブロック比例区
- 石井郁子 比例代表単独 近畿ブロック比例区
- 穀田恵二 比例代表復活 近畿ブロック京都府1区
- 吉井英勝 比例代表復活 近畿ブロック大阪府13区
- 赤嶺政賢 比例代表復活 九州ブロック沖縄県1区
- 参議院(7名)
- 全国比例代表
歴代執行部
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党勢の推移
衆議院
選挙 | 当選/候補者 | 定数 | 備考 |
---|---|---|---|
(結党時) | -/- | 464 | 結党時は非合法 |
第22回総選挙 | ○ 5/143 | 468 | 追加公認+1 |
第23回総選挙 | ● 4/120 | 466 | |
第24回総選挙 | ○ 35/115 | 466 | |
第25回総選挙 | ● 0/107 | 466 | |
第26回総選挙 | ○ 1/85 | 466 | |
第27回総選挙 | ○ 2/60 | 467 | |
第28回総選挙 | ● 1/114 | 467 | |
第29回総選挙 | ○ 3/118 | 467 | |
第30回総選挙 | ○ 5/118 | 467 | |
第31回総選挙 | ○ 5/123 | 486 | |
第32回総選挙 | ○ 14/123 | 486 | |
第33回総選挙 | ○ 38/122 | 491 | 追加公認+1、沖縄人民党より合流+1 |
第34回総選挙 | ● 17/128 | 511</td><td>追加公認+2 | |
第35回総選挙 | ○ 39/128 | 511</td><td>追加公認+2 | |
第36回総選挙 | ● 29/129 | 511 | |
第37回総選挙 | ● 26/129 | 511</td><td>追加公認+1 | |
第38回総選挙 | ○ 26/129 | 512</td><td>追加公認+1 | |
第39回総選挙 | ● 16/131 | 512 | |
第40回総選挙 | ● 15/129 | 511 | |
第41回総選挙 | ○ 26/321 | 500 | |
第42回総選挙 | ● 20/332 | 480 | |
第43回総選挙 | ● 9/316 | 480 | |
第44回総選挙 | ○ 9/292 | 480 |
参議院
選挙 | 当選/候補者 | 非改選 | 定数 | 備考 |
---|---|---|---|---|
(結党時) | -/- | - | - | 参議院は存在せず |
第1回通常選挙 | ○ 4/42 | - | 250 | 第1回のみ全員選挙 |
第2回通常選挙 | ○ 2/50 | 2 | 250 | |
第3回通常選挙 | ● 0/16 | 1 | 250 | |
第4回通常選挙 | ○ 2/34 | 0 | 250 | |
第5回通常選挙 | ○ 1/36 | 2 | 250 | |
第6回通常選挙 | ○ 3/47 | 1 | 250 | |
第7回通常選挙 | ○ 3/48 | 1 | 250 | |
第8回通常選挙 | ○ 4/49 | 3 | 250 | |
第9回通常選挙 | ○ 6/51 | 4 | 252 | |
第10回通常選挙 | ○ 13/54 | 5 | 252 | |
第11回通常選挙 | ● 5/52 | 11 | 252 | |
第12回通常選挙 | ● 7/52 | 5 | 252 | |
第13回通常選挙 | ○ 7/71 | 7 | 252 | |
第14回通常選挙 | ○ 9/71 | 7 | 252 | |
第15回通常選挙 | ● 5/71 | 9 | 252 | |
第16回通常選挙 | ● 6/71 | 5 | 252 | |
第17回通常選挙 | ○ 8/72 | 6 | 252 | |
第18回通常選挙 | ○ 15/70 | 8 | 252 | |
第19回通常選挙 | ● 5/72 | 15 | 247 | |
第20回通常選挙 | ● 4/71 | 5 | 242 | |
第21回通常選挙 | ● 3/63 | 4 | 242 |
(参考文献:石川真澄(一部山口二郎による加筆)『戦後政治史』2004年8月、岩波書店・岩波新書、ISBN 4-00-430904-2)
- 当選者に追加公認は含まず。追加公認には会派に加わった無所属を含む。
- 第22回総選挙の定数には、選挙を実施できなかった沖縄選挙区(定数2)含む。
- 『戦後政治史』にない追加公認は2 国会議員会派別議員数の推移(召集日ベース)(衆議院、1990年~1999年)・国会議員会派別議員数の推移(召集日ベース)(衆議院、1993年~2000年)・2 国会議員会派別議員数の推移(召集日ベース)(衆議院、2000年~2006年)、(2) 参議院(1990年~1999年)(2) 参議院(1994年~2004年)・(2) 参議院(2000年~2006年)にある、選挙直後の国会召集日の会派所属者数から判断した。ただし、第20回通常選挙直後の召集はない。
地方政治
- 与党の自治体 65
- 党地方議員(団)は、中央における国会議員団と同様に、当該級の委員会(指導機関)の指導を受ける。
関連団体
党が参加(加盟)する団体・運動
- 平和・民主・革新の日本をめざす全国の会(全国革新懇)
- 党と無党派による革新統一戦線運動
- 安保破棄中央実行委員会
- 憲法改悪阻止各界連絡会議(憲法会議)
- 消費税廃止各界連絡会(各界連)
- 中央社会保障推進協議会(中央社保協)
- 社会保障の拡充を求める労働組合や生活協同組合などとの共闘組織
関連団体
- 新日本出版社
- 党幹部の著書やしんぶん赤旗関連の書籍を多く発行する。
- ジャパンプレスサービス
- しんぶん赤旗の記事を英訳
- 日本民主青年同盟(民青同盟)
- 日本共産党が相談相手であると同組織自身が規定している。
国際党間交流
- インド共産党
- インド共産党 (マルクス主義)(CPIM)
- 中国共産党
- 日中共産党の関係を参照
- ベトナム共産党
- ベネズエラ共産党
- スウェーデン左翼党
- デンマーク社会主義人民党
- チュニジア立憲民主連合
- チェコ・モラビア共産党
- キプロス勤労人民進歩党
- ギリシャ共産党
- スペイン共産党
- ハンガリー労働者党
- スリランカ共産党
- エルサルバドル・ファラブンド・マルティ民族解放戦線党
- ニカラグア・サンディニスタ民族解放戦線党
- キューバ共産党
- ブラジル共産党(PCdoB)
- ブラジル社会主義人民党
- アメリカ共産党
- チュニジア立憲民主連合
- イタリア・共産主義再建党
共同関係等
協力・共同関係或いは執行部に党員が多いとみられる団体など。
- 民主主義科学者協会(民科)
- 日本アジア・アフリカ・ラテンアメリカ連帯委員会(日本AALA)
- 新日本婦人の会(新婦人)
- 婦人民主クラブ(婦民。旧・婦民(再建))
主催行事
脚注
- ↑ こうした「活動実態のない党員」については同党に限らず、例えば自民党においては、党費のみ納入するだけの「幽霊党員」や「他人(=選挙区支部長たる代議士)が党費を肩代わりする」などの問題点が繰り返し指摘されている
- ↑ しんぶん赤旗別刷り学習党活動版
- ↑ 日本共産党 宮本たけしホームページ
- ↑ 日本共産党の青年支部って? 2000年11月9日(木)「しんぶん赤旗」
- ↑ 5.0 5.1 日本共産党規約(2000年11月24日改定)
- ↑ 第18条 例:つくば市委員会
- ↑ 川上徹『査問』 筑摩書房、1997年、235p. ISBN 4480818081
- ↑ 宮地健一 共産党、私の21日間の“監禁”『査問』体験
- ↑ 日本共産党・民青同盟悪魔の辞典+ キンピー問題笑える査問録音公開中 - 笑える査問実況録音
- ↑ 共産党の新本部ビル完成 自民を上回り最大
- ↑ この事件は宮本顕治らが検挙された際に死体が発見されたもので、当局は当時「リンチ殺人事件」として発表した。死因については諸説ある。日本共産党は、スパイ嫌疑で調査をうけていたスパイが急死したことを特高が自らの不法行為を覆い隠し、日本共産党にダメージを与えるために「リンチ」と事実を捻じ曲げて発表した事件であると主張している。宮本顕治は治安維持法等被告事件の裁判でこの事件の経過について全面的に事実を検証して明らかにしたとしている(宮本顕治『宮本顕治公判記録』新日本出版社 ISBN 978-4-406-00408-4)。当時の裁判所はこの事件について宮本に「殺人」の汚名を着せることはついにできず判決では「傷害致死」とされた。戦後、政治犯釈放命令により宮本は釈放されたが、昭和22年5月29日付けの、東京地方検察庁検事正の木内曽益の名による復権「証明書」では、この事件の判決自体が「将来に向て其の刑の言渡を受けざりしものと看做す」とされた。
なお、死亡した人物については「スパイではなかった」、との立花隆(『日本共産党の研究』講談社)による主張にたいして、日本共産党は、『犬は吠えても歴史は進む』を発表して、立花に全面的に反論している) - ↑ 安東仁兵衛 「日本における新しい社会民主主義を創造しよう」
- ↑ 「「解同」横暴・利権あさり どこまで追い込んできたか 不公正な同和行政の完全終結を」しんぶん赤旗 2007年3月4日付。なお、同記事によれば、解放同盟の推薦候補は与野党にまたがっており、民主党を中心に、社民党、自民党、公明党、新社会党にも推薦候補が存在する。
- ↑ 2007年1月4日(木)「しんぶん赤旗」 崩れ出した「解同」タブー
- ↑ 共産党は公明党ほどではないが、浮動票の影響を受けにくいため、投票率が下がるほど得票率は上がると言われている。ただし無党派層に限定すれば3割程度得票しているため一概には言えない。例えば、1996年 - 1998年の躍進は、左派系の浮動票の受け皿になったものとの指摘もある。なお、元党地方役員の宮地健一によれば、共産党は『しんぶん赤旗』日曜版発行部数の2倍を基礎票として計算しているという。「2)、HN合計数増減とHN比率」。Hは日刊紙(本紙(Honshi)の頭文字)、Nは日曜版(Nichiyo-ban)を意味する。
- ↑ ただし、憲法問題などの個別の分野では、他党との協力・共同が行われている場合もある。また、地方選挙については市町村長選や地方議員選挙で現在も1人区での当選があり、高知やかつての長野など、無所属候補と連携しながらも政党としては単独与党の県もある。首長選による公認候補の当選は、兵庫県南光町で町長となった山田兼三の例がある。
- ↑ 「参院選での「平和共同候補」を求める運動について」
- ↑ 「「9条ネット」とは どんな団体ですか?」
- ↑ (2007年3月13日(火)「しんぶん赤旗」 日本共産党躍進の 流れを首都・東京から 明治公園での志位委員長の訴えから)
- ↑ 参院選候補選定「直接やる。カギは1人区」
- ↑ 2008年1月5日(土)「しんぶん赤旗」 新しい政治つくる歴史的転機 総選挙勝利へ意気高く 党名を高く掲げ、日本改革の方針を語ろう 2008年党旗びらき 志位委員長があいさつ
- ↑ 2008年1月7日(月)「しんぶん赤旗」 今年の国会と選挙にどうのぞむか NHK日曜討論 志位委員長の発言(大要)
- ↑ 「健四郎代議士日記 擁立」
- ↑ 日本共産党24回党大会/中央委員会の機構と人事
- ↑ 日本共産党が与党の自治体
- ↑ 日本共産党/議員数 地方議員数
- ↑ 2008年4月、党所属だった県議早川昌枝が離党届を提出するも、同年5月1日、除籍処分。同日早川は新会派(1人会派)結成。共産党会派消滅。
関連項目
人物
Category:日本共産党の人物も参照のこと
参考文献
党の公式文献
- 日本共産党中央委員会『日本共産党の八十年』(日本共産党中央委員会出版局、2003年) ISBN 4530043932
- 日本共産党中央委員会『日本共産党第23回党大会決定集』(日本共産党中央委員会出版局、2004年)
- 日本共産党中央委員会『自由と民主主義の宣言』(日本共産党中央委員会出版局)
党員による著作
- 不破哲三『私の戦後六〇年 日本共産党議長の証言』(新潮社、2005年8月)
- 不破哲三『日本共産党史を語る』(新日本出版社)
- 宮本顕治『日本革命の展望』上下(新日本出版社)
- 宮本顕治『日本共産党の立場』(新日本出版社)
- 犬丸義一『日本共産党の創立』(青木書店、1982年9月) ISBN 4250820394
党外部の人の著作
- 朝日新聞社編『日本共産党』(朝日新聞社)
- 立花隆『日本共産党の研究』全三巻(講談社文庫)
- 戸川猪佐武 『小説自民党対共産党』(角川文庫)
- 小泉信三『共産主義批判の常識』(講談社学術文庫/新潮社)
- 思想運動研究所編『日本共産党事典(資料編)』(全貌社)
- テリー伊藤『お笑い革命日本共産党』(飛鳥新社)
離党した人の著作
- 兵本達吉『日本共産党の戦後秘史』(産経新聞社)
- 油井喜夫『汚名』(毎日新聞社 1999年 287頁)ISBN 4620313513。
- 油井喜夫『虚構 - 日本共産党の闇の事件 - 』(社会評論社 2000年 286頁)ISBN 4784514090
- 筆坂秀世『日本共産党』(新潮新書/新潮社) ISBN 4106101645
当局側の文献
- 警備研究会『日本共産党101問』(立花書房)
- 著者の実態不明。公安警察関係者のグループと見られる。
- 『日本共産党 - その路線とジレンマ - 』(別冊治安フォーラム 立花書房)
- 田代則春『日本共産党の変遷と過激派集団の理論と実践』(立花書房)
- 弘津恭輔『共産主義運動の研究』(立花書房)
その他
- 大野達三『警備公安警察の素顔』(新日本出版社)ISBN 4406015922
- 塩田庄兵衛『日本社会運動史』(岩波書店)
外部リンク
- 日本共産党中央委員会(党中央公式サイト) - 各地方委員会・議員リンク
- 日本共産党資料館(日本共産党の主要資料を紹介)
- さざ波通信:日本共産党と現代日本政治を考えるサイト
- 『共産党問題、社会主義問題を考える』