朝田善之助
朝田 善之助(あさだ ぜんのすけ、1902年5月25日戸籍上は7月4日 - 1983年4月29日)は京都府出身の部落解放運動家、経営者。
長男勝三(近畿建物代表取締役、近建ビル管理代表取締役、京屋代表取締役)、次男隆(近畿商事代表取締役)、孫華美(勝三の長女、近建ビル管理代表取締役社長)、善三(勝三の長男、近建ビル管理代表取締役社長、京都ビルメンテナンス協会長)。朝田自身も近建ビル管理の監査役を勤めた。
京都府愛宕郡田中村(現在の京都市左京区)の被差別部落に生まれ育ち、田中尋常小学校卒業後、靴職人となる。
1918年、米騒動で社会運動に目覚める。1922年、全国水平社の創立大会に参加。
1928年、三・一五事件の後、全国水平社本部の再建にあたって、1940年まで本部幹部を務める。
1931年、全国水平社解消意見を提出し、物議をかもす。
戦時中は松本治一郎らの全国水平社主流派に抗し、1940年8月、北原泰作たちと共に時局便乗の部落厚生皇民運動を組織して全国水平社の解消を企てたため、全国水平社から除名処分を受ける。
戦後は部落解放全国委員会結成に参加し、同委員会京都府連合会を組織、委員長に就任。1951年、朝鮮人部落の生活を差別的に描いた小説「特殊部落」を部落差別を興味本位で取り上げた差別小説だと、市当局を追及するよう旧知の市幹部からの依頼を受け指導したオールロマンス闘争をきっかけに、行政闘争路線を活発化させた。
1960年代前半、解放同盟が共産党員幹部によって主導されていた時、朝田は中央幹部の中で唯一、それに対抗し、独自の解放理論の構築に努力を傾注、また、自らの影響下にある京都市協議会名義で大会に意見書を提出、中央本部批判の論陣を張った。
1965年、同和対策審議会答申への対応に関する意見の食い違い、及び松本治一郎の参議院選挙に関する対立から、松本委員長、田中織之進書記長ら社会党系幹部らと共産党系幹部との関係が悪化し、社会党系幹部は共産党系運動論に対置する新たなよりどころとして朝田に接近し、同年の大会運動方針案起草を担当。第20回大会は朝田ら主導の運動方針案を可決し、役員改選では殆どの共産党員を中央執行委員から解任、社会党系幹部と朝田らが新たな主流派を形成した。
同時に、朝田が委員長を務めていた京都府連内部では、多数派であった共産党系幹部と朝田らとの対立が深まり、同年末から翌年にかけて分裂、府連書記局が設置されていた会館の帰属をめぐって、部落問題研究所との間に紛争が発生した(文化厚生会館事件)。
1967年、前年に死去した松本の後を承け、部落解放同盟中央本部の第2代中央執行委員長に就任。
1969年、共産党の部落問題に関する見解を集大成した形で発刊された党農民漁民部編『今日の部落問題』では、朝田の理論的主張を北原の主張とともに、「部落解放同盟内の社会民主主義者による日和見主義理論」として批判、朝田ら解放同盟執行部はこれらの主張を同盟に対する誹謗中傷と看做して、同書発刊直後に開かれた第24回大会では、来賓として出席した共産党代表を紹介だけにとどめ祝辞を読ませないとする対抗措置をとった。
大会の後間もなく発生した矢田教育事件で共産党員教師が解放同盟矢田支部員を刑事告訴したのを契機に共産党との対立が表面化、共産党に呼応する動きを見せた同盟員に対する統制処分を主導した。
1971年には部落解放同盟全国大会で部落差別に関する3つのテーゼを定式化。これは朝田理論と呼ばれ、部落解放理論として永らく主導的な役割を果たした。
しかし1975年、部落解放同盟内部の派閥抗争により中央執行委員を解任され、さらに部落解放同盟京都府連合会の内紛によって部落解放同盟から排除される。以後は、改良住宅家賃値上げ反対同盟を独自に結成したが、部落解放運動の主流に復帰することはできなかった。
多数の部落解放運動家を育成し、朝田学校と呼ばれる流派を率いた反面、人間的には偏狭で好悪の情が強く、部落解放同盟内部にも敵が多く、指導者の器ではないとも評された。
1983年、死去。部落解放同盟は同盟葬を執行した。
著書に『差別と闘いつづけて』(1969年)がある。