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2011年9月3日 (土) 16:05時点における版
田中 角栄(たなか かくえい、1918年5月4日 - 1993年12月16日)は、日本の政治家。元衆議院議員(16期)、内閣総理大臣(第64代、第65代)。
目次
概略
高等教育を受けていないという学歴で首相まで上り詰めたことから「今太閤」と呼ばれる一方、「コンピュータ付きブルドーザー」と形容される知識量・実行力や、巧みな官僚操縦術を見せつけるなど、党人政治家と官僚政治家の長所を併せ持った稀有な存在であった。首相在任中には、中華人民共和国との間の日中国交正常化や日中記者交換協定、金大中事件、第一次オイルショックなどの政治課題に対応。日本列島改造論で一世を風靡したが、後にその政策が狂乱物価を招いたことや、金脈問題への批判によって首相を辞職。さらにアメリカの航空機製造大手のロッキード社による全日空への航空機売込みに絡む収賄事件である「ロッキード事件」で逮捕され自民党を離党した。
首相退任後やロッキード事件による逮捕後も最大派閥となった田中派(木曜クラブ)を背景に政局に対する発言力を保ち続け、「(目白の)闇将軍」の異名を執った。
道路法の全面改正や、道路・港湾・空港などの整備を行う各々の特別会計法や日本列島改造論によるグリーンピアなど、衆議院議員として100本を超える議員立法を成立させ、戦後の日本の社会基盤整備に後年功罪言われる大きな影響を残した。また、社会基盤整備を直接担当する建設省や運輸省、大臣として着任していた通産省や郵政省などに強い影響力を持ち、政治家による官僚統制の象徴、族議員の嚆矢となった。
経歴
小学校卒業まで
新潟県刈羽郡二田村大字坂田(現・柏崎市)に父・田中角次、母・フメの二男として生まれる。田中家は農家だが父・角次は牛馬商、祖父・捨吉は農業の傍ら宮大工を業としていた。角栄の幼少年時代には家産が傾き極貧下の生活を余儀なくされる。幼いころ吃音があり、浪花節を練習して矯正した。
1933年二田高等小学校卒業。田中自身は「中央工学校」卒と明記していたが、大蔵大臣就任時の挨拶に見られるように「高小卒業」を一つのアピールにしていたこともあり、今日に至るまでこのイメージが強い。
上京
- 1934年3月 - 上京。旧制海城中学校に編入する予定だったが[1]、住み込みで井上工業に働きながら、神田の中央工学校土木科に通う。途中海軍兵学校への入学を真剣に考えたこともあったが、以下のように実業の道に入った。
- 1936年3月 - 中央工学校土木科を卒業。建築技師として自活。
- 1937年 - 「共栄建築事務所」を設立する。
- 1939年4月 - 応召、満州国で兵役に就く。
- 1940年3月 - 陸軍騎兵上等兵となる。
- 1941年2月 - 大病を患い内地へ帰還。
- 1941年10月 - 治癒と共に除隊。東京の飯田橋で田中建築事務所を開設。
- 1942年3月 - 事務所の家主の娘、坂本はなと結婚。
- 1942年11月 - 長男正法が誕生(1947年9月、5歳で死亡)
- 1943年12月 - 田中土建工業を設立。
- 理研工業(理化学研究所の産業部門)などの仕事で急成長する。
- 1944年1月 - 長女眞紀子が誕生。
- 1945年8月 - 日本の第二次世界大戦における敗戦。
初出馬から首相就任まで
- 1946年4月 - 第22回衆議院総選挙。
- 1947年4月 - 第23回総選挙。
- 1948年5月 - 民主自由党へ参加。
- 1948年10月 - 第2次吉田茂内閣の法務政務次官に就任。
- 1948年12月 - 炭鉱国管疑獄により逮捕。
- 1949年1月 - 第24回総選挙で拘置所から立候補し再選される。
- 1950年4月 - 建築士法案を提出、成立。
- 1950年11月 - 長岡鉄道(現越後交通)社長に就任、田中土建工業は閉鎖。
- 1951年6月 - 炭鉱国管疑獄で無罪が確定。
- 1952年6月 - 議員立法により新道路法成立。
- 1953年4月 - 中央工学校の校長に就任。(1972年に退任)
- 1954年5月 - 自由党副幹事長。佐藤栄作との関係が次第に深くなる。
- 1955年3月 - 衆議院商工委員長。
- 1955年11月 - 自由民主党の結党に参加。
- 1957年7月 - 第1次岸信介改造内閣で郵政大臣に就任。
- 1961年7月 - 自民党政務調査会長。
- 1963年7月 - 第2次池田勇人内閣の改造で大蔵大臣。
- 第1次佐藤栄作内閣まで留任。
- 1965年6月 - 大蔵大臣を辞任し、自民党幹事長に就任。
- 1966年6月 - 社団法人日本空手協会会長に就任。(1968年5月辞任)
- 1966年12月 - 自民党幹事長を辞任。
- 1968年5月 - 自民党都市政策調査会長として「都市政策大綱」を発表。
- 1968年11月 - 自民党幹事長に復帰。
- 1969年4月 - 眞紀子が鈴木直人元衆議院議員の三男、直紀と結婚。直紀は婿養子として田中家に入る。
- 1971年7月 - 第3次佐藤栄作内閣の改造で通商産業大臣。
- 1971年10月 - 日米繊維交渉が決着。
- 1972年5月 - 佐藤派から田中派が分離独立。
- 1972年6月 - 「日本列島改造論」を発表。
- 1972年7月5日 - 佐藤栄作が支持した福田赳夫を破り自由民主党総裁に当選。
- 1972年7月6日 - 第1次田中角栄内閣が成立。
首相在任時
- 1972年9月 - 日米首脳会談後に中華人民共和国を訪問。
- 1972年12月 - 第33回総選挙。
- 1973年 - 地価や物価の急上昇が社会問題化。
- 1973年5月 - 小選挙区導入(小選挙区比例代表並立制)を提案。
- 野党と世論の猛反発を浴びて撤回に追い込まれた(カクマンダーと称された)。
- 1973年8月 - 金大中事件発生。
- 1973年9月 - 西ヨーロッパ訪問。
- 1973年10月 - ソビエト連邦訪問。
- 1973年10月16日 - 第四次中東戦争から第一次オイルショックが発生。
- 1973年11月 - 第2次田中角栄内閣第1次内閣改造。
- 福田赳夫が大蔵大臣就任。需要抑制・省エネルギー政策へ転換し、電源開発促進税法等電源3法を成立させ柏崎刈羽原子力発電所への補助金へ当てる。
- 1974年1月 - 東南アジア訪問。
- 1974年7月 - 第10回参議院選挙。
- 大敗し、与野党伯仲状態になる。三木武夫や福田赳夫が閣外へ去る。
- 1974年9月 - メキシコ訪問。
- 1974年10月 - 月刊誌文藝春秋で「田中角栄研究」「淋しき越山会の女王」が掲載。
- 立花隆らが金脈問題を追及する。
- 1974年11月 - 国会での追及を受け、第2次田中角栄内閣第2次内閣改造後に総辞職を表明。
- 1974年12月9日 - 内閣総辞職。
首相退陣後
- 1976年 - ロッキード事件発生。
- 1976年12月 - 第34回総選挙。
- トップ当選するが、自民党は大敗し、三木武夫内閣は総辞職、福田赳夫内閣発足。
- 1978年12月 - 第1次大平正芳内閣発足。田中が強く支持。
- 1979年10月 - 第35回総選挙。
- 1980年6月 - 第36回総選挙。
- 1982年11月 - 上越新幹線暫定開業(大宮 - 新潟)。
- 1982年11月 - 第1次中曽根康弘内閣発足。
- 田中の全面的な支持を受け、「田中曽根内閣」と揶揄される。
- 1983年10月 - ロッキード事件の一審判決。
- 1983年12月 - 第37回総選挙。
- 1984年10月 - 自民党総裁選。
- 1985年2月7日 - 創政会が発足。
- 1985年2月27日 - 脳梗塞で倒れ入院。
- 言語障害や行動障害が残り、政治活動は不可能に。
- 1985年6月 - 田中事務所が閉鎖。
- 1985年9月 - ロッキード事件控訴審開始、田中は欠席。
- 1985年10月 - 関越自動車道全通。
- 1986年7月 - 第38回総選挙。
- トップ当選。田中は選挙運動が全く行えず、越山会などの支持者のみが活動。自民党は圧勝。
- 1987年7月 - 竹下が経世会を旗揚げ。
- 田中派の大半が参加。二階堂グループは木曜クラブに留まり、中間派も含めて田中派は分裂。
- 1987年7月 - ロッキード事件の二審判決。
- 1987年10月 - 竹下が田中邸を訪問。
- 眞紀子に門前払いされる。後に皇民党事件として表面化。
- 1987年11月 - 竹下内閣が発足。
- 1989年10月 - 直紀が次期総選挙への田中角栄の不出馬を発表。
- 1990年1月24日 - 衆議院解散により政界を引退。
- 衆議院議員勤続43年、当選16回。各地の越山会も解散。
- 1990年2月 - 第39回総選挙。
- 1992年8月 - 中国訪問。
- 中国政府の招待で20年ぶりに訪中し、眞紀子などが同行。
- 1992年12月 - 経世会が分裂。
- 1993年7月 - 第40回総選挙。
- 1993年12月16日 - 75歳で死去。
没後
- 1995年2月 - 榎本敏夫に対するロッキード事件上告審の判決理由で、最高裁判所が田中の5億円収受を認定する(首相の犯罪)。
- 1998年4月 - 田中角栄記念館が新潟県柏崎市(旧西山町)に開館。
- 2000年 - 朝日新聞の「この1000年の『日本の政治リーダー』読者人気投票」で、坂本龍馬、徳川家康、織田信長に次いで第4位の得票を得る。
- 2007年7月16日 - 新潟県中越沖地震で墓石が倒壊する。
人間関係
大平正芳とは長らく盟友関係にあり、田中の首相就任の際には大平の協力が、大平の首相就任の際には田中の支援があった。田中政権の成立にあたっては「内政は田中、外交は大平」との方針でいくことが二人の間で交わされており、大平は自派(宏池会)からの三役就任の声を押し切って外相を引き受けた。日中国交正常化交渉の実務を取り仕切り、日中航空協定では党内の批判の矢面に立ち交渉を取りまとめた。
党人派川島正次郎副総裁と田中は佐藤内閣で近い関係にあり、長期佐藤政権を作ることで川島は田中の総理への道を切り開いた。 一方、官僚出身政治家として対極にあった福田赳夫や、「クリーン政治」を訴え自らの逮捕を容認した三木武夫とは激しく対立した。特に福田との「角福戦争」は、第2次大平内閣時に総理大臣指名選挙での党分裂状態や不信任案の福田派欠席による可決までエスカレートした。
正妻・はなとの間には1男1女を儲けたが、長男の正法は夭折し、成人したのは長女の眞紀子のみだった。はなは病弱のため、田中が首相の時には眞紀子がファーストレディの役目を代行した。角栄と眞紀子は「一卵性親子」とも呼ばれた。眞紀子は父親を崇拝する余り、現在でもロッキード事件を否定したり、父親の不名誉である(と眞紀子が信じている)愛人・隠し子の存在に関しても相手側を激しく批判するなど、数々のトラブルを起こし続けている。
東京・神楽坂の芸者、辻和子との間に2男1女がいる(1女は夭折、2男は田中の子として認知されている)。彼女らは政界の表舞台には立たず、政治地盤の継承も行わなかった。二男の京は音楽プロデューサーやバー経営者で、後に母子でそれぞれ田中への回想録を出版した。眞紀子は、辻や腹違いの兄弟たちがこの世に存在している事自体を快く思っておらず、父・角栄の葬儀の際、彼らの焼香さえも決して許さなかったなど、その憎悪には凄まじいものがある。更に、神楽坂という土地すらも激しく嫌っており、角栄亡き今も「神楽坂なんて大嫌いだ。近付きたくもない。」と周囲に語っている。また秘書であった佐藤昭子との間の1女は認知されていない田中の子供とされている。
2575坪(約8500㎡)の敷地を誇る東京都文京区目白台の自邸は「目白御殿」と呼ばれ、政財界の要人が常時ここを訪れたことから「目白詣で」いわれた。この当時、政治用語で「目白」と言えば田中角栄のことを指していた。
中華人民共和国からは「日中国交回復を決断した偉大な政治家」として尊敬され、鄧小平が1978年に来日した際に田中邸を訪問するなど、田中がロッキード事件により訴追された後も多くの中国政府の要人が田中邸を訪問した。田中家と中華人民共和国政府の友好関係は、「最初に井戸を掘った」角栄の死後も眞紀子が継承している。
経済界での人脈も広く培っていた。その中で、田中が「刎頸の友」と呼んだ国際興業の小佐野賢治は、後に共にロッキード事件で刑事責任を問われた。この事件では小佐野を介して右翼団体の大物活動家である児玉誉士夫との接点が指摘された。この方面の人脈については今でも不透明な部分が多い。
派閥
田中派は自民党内最大の派閥であり、最盛期では約130人の国会議員が所属していた。その中には、二階堂進、金丸信、竹下登などの当時の党幹部が含まれ、中堅には後に竹下派七奉行と呼ばれた羽田孜・橋本龍太郎・小渕恵三・小沢一郎・梶山静六・奥田敬和・渡部恒三、他に綿貫民輔などであった。なお、小沢は早世した正法と同じ1942年生まれで、田中は特に小沢をかわいがったとされる。その後、七奉行の中で羽田・小沢・奥田・渡部の4人は自民党から離党し、民主党への流れを作った。
派閥の肥大化、権力の掌握にあたって非常に機能的に組織されていたのが秘書集団であった。それが最も機能的に働いたのが第1次大平正芳内閣発足前夜の自民党総裁予備選であった。当初、現役総理の福田は「予備選に負けた側は本選を下りるべき」と明言するほど党員票の差があると見られていた。大平を推す田中派は後藤田正晴の指示の下、秘書集団が東京を中心とする党員を戸別訪問する「ローラー作戦」を展開することによって結果は逆転、一転福田を本選辞退に追い込んだ。有名なところでは金庫番と言われた佐藤昭子、スポークスマン的な役割を担った早坂茂三、選挙戦を新潟から支えた国家老本間幸一、目白にあって城代家老と言われた山田泰司、総理大臣秘書を努めた榎本敏夫などがいる。しかし、角栄が倒れた後は眞紀子によって遠ざけられた者も少なくない。
ロッキード事件による逮捕で自民党を離党した後も党内最大派閥の実質的な支配者として君臨し、「闇将軍」と呼ばれた。自派からの自民党総裁選立候補を許さず、内閣総理大臣の権威を失墜させ、日本の政治権力構造を不透明なものにしたが、配下(子分)からの不満が起こり、最終的には竹下登の離脱で田中派が崩壊した。
典型的な党人派政治家であったが、多くの官僚出身者も迎え入れた。特に自分の内閣で内閣官房副長官(事務担当)を務めた元警察庁長官の後藤田正晴は重用され、田中が倒れた後も自民党政権の中枢に座り続けた。
芸能界からも積極的にスカウトを行い、参議院選挙では全国区で山口淑子(大鷹淑子、李香蘭)、山東昭子、宮田輝などを当選させた。また、田中からの勧誘を断った芸能人に対しては、他党からの出馬をしないように言い含めたともされる。
選挙区
自らの選挙区である新潟県への社会基盤整備には特に熱心だった。「雪国と都会の格差の解消」「国土の均衡ある発展」を唱え、関越自動車道や上越新幹線のような大規模事業から、長岡市や小千谷市などの都市部での融雪装置設置や、山間部の各集落が冬でも孤立しないためのトンネル整備(小千谷市の塩谷トンネル等が知られる。当時戸数60戸の集落に10億円の建設費用を掛けて建設された為、反発も少なからずあった)等の生活密着型事業や柏崎刈羽原子力発電所誘致など、多様な公共事業を誘致した。さらに自身のためのテレビ番組も持ち、選挙民の陳情を番組で直接吸い上げると共に、業績を強烈にアピールした。
選挙区の旧新潟3区の全市町村で結成された後援会組織「越山会」は、鉄の団結と評された。越山会は、建設業者による公共事業受注と選挙の際の田中への投票という交換取引の場ともなり、地域住民の生活向上に大きく貢献する有効な組織となった反面、自民党政治の典型である利益誘導や金権体質への強い批判を受け、公共事業へ過度に依存したいびつな産業構造も残した。これらの公共事業の実施に際しては、長岡市の信濃川河川敷買収・利用問題などで自らや親族が役員を務める「ファミリー企業」への利益供与が疑われ、金脈問題への追及を受けることになった。しかし、ロッキード事件後も、越山会は田中に圧倒的な得票での当選を続けさせて、中央政界での政治的影響力を与え続けた。
自らの選挙区で後継者を定めることはなく、自らがトップに君臨し続けたため、桜井新の離反などが起こった。1990年の引退時には越山会を解散し、自主投票となったが、1993年の総選挙では旧越山会会員の多くが眞紀子を支持した。眞紀子の当選後にお国入りした際「目白の骨董品が参りました」と紹介された。
上越新幹線の浦佐駅(南魚沼市)東口には、田中の巨大な銅像が建立されている(1985年除幕)。二階堂進が揮毫した。2005年「冬に雪をかぶって可哀相だ」との眞紀子からの要望によって銅像の上には新たに屋根が設けられた。一方、自ら校長も務めた母校の中央工学校が校内に銅像を立てようとした際には、「学校に政治を持ち込むのは良くない。自分は母校のために何もしていない」と言いこれを断っている。
外交
1972年1月にニクソン・アメリカ大統領が中華人民共和国を訪問したこと、三木武夫が総裁選における田中支持の条件として日中国交「回復」を条件としたことなどにより、日中国交回復への決断を早急に行った。この際に中華人民共和国と対立する中華民国と断交したことと、中華人民共和国政府に対し無期上限無しの支援を決定したことに対する批判は今も根強くある(「敵」との急な国交断絶を一方的に行なった結果として中華民国政府に日本企業の資産を没収され、政府は企業に対して莫大な補償を行った)。また、中華人民共和国との国交樹立の際、中華民国政府との断交は今に至るまで絶対条件である(例:コスタリカ・韓国等)。
日中国交回復は田中による最大の政治的業績と現在も中華人民共和国政府に見なされ、「最初に日中外交の井戸を掘った恩人」と呼ばれる。生粋の大陸派である田中の意図としては、これを「裏安保」と呼び、アメリカと中国を天秤にかけて、アメリカ従属体勢からの脱却を模索したものであったが、その意図は達成されたとは言えない状況である。また、ヘンリー・キッシンジャーをして「裏切り者」と言わしめ、アメリカを怒らせる結果にもなった。後のロッキード事件は、これを原因としてアメリカが田中を失脚させたという説もある(上述の通り異説もある)。
また、北方領土交渉に関してはブレジネフに「未解決か?」と聞き、ブレジネフは「ダー(イエス=解決である)」と答えた。
北朝鮮に対しては、1973年に金日成の提案した祖国統一5大綱領を支持するなど融和的であり、地元である新潟県で起きた拉致問題に対しても無関心であった。要出典
また、日本国首相として初めてアメリカ大統領の訪日を実現させている。
野党との関係
議員活動が長く、議員立法などで野党との協力を行う場面も多かった。民社党との間で、1965年の「日韓国会」(日韓基本条約承認)から春日一幸とのパイプがあった。
1969年11月、政治評論家藤原弘達が創価学会と公明党の政教一致を批判する『創価学会を斬る』を出版したが、創価学会と公明党はこの著作に対し出版以前から出版社・書店などに圧力をかけた(「言論出版妨害事件」)。その際田中は藤原に対し「公明党は議席さえ与えておけばご機嫌な連中だ。あまり絡むな」と忠告したと言う。藤原はこうした田中の姿勢を問題視し、「創価学会・公明党の本質を直視していない」と批判している。田中は社会党の勢力を相対的に弱めるため創価学会と公明党には甘い態度をとり続けたと言われ、田中派所属議員の中にも公明党議員と親密な関係を持つ者が少なくなかった。
その甲斐あって後に、公民両党が定数5の新潟3区で長年に亘り候補を擁立せず、事実上の角栄支援=選挙協力をした。
新潟では戦前の農民運動の影響で日本社会党の力が比較的強く、革新系首長・議員も多くいたが、田中はこれらとも別け隔てなく接し協力も惜しまなかった。そのため、中央政界で社会党が田中批判を行っても、新潟ではそのトーンが落ちるという指摘もあった。
闇将軍
ロッキード事件による逮捕され自民党を離党した後も、田中は田中派を背景に政界影響力を維持し続け、「闇将軍」とも呼称された。特に大平正芳、鈴木善幸、中曽根康弘の首相就任には田中の支持が不可欠であった。また閣僚人事にも関与し、法務大臣にはロッキード事件との絡みもあり田中に近い議員を起用させ続けた。しかし、選挙における自民党の低迷と新潟3区での田中自身の大量得票という二律背反した結果も招いた。1985年に病床に就くとその力は急速に失われた。
角栄語録
- 「三国峠をダイナマイトでふっ飛ばせば新潟に雪は降らない。そしてその土を日本海に運んで佐渡と陸繋ぎにしよう」
- 「政治は数であり、数は力、力は金だ」
- 「これからは東京から新潟へ出稼ぎに行く時代が来る」
- 「俺の目標は、年寄りも孫も一緒に、楽しく暮らせる世の中をつくることなんだ」
- 「中国国民全員が手ぬぐいを買えば8億本売れる」(日中国交正常化の際の発言)
その他
- 演説や答弁を始める時「まぁーこのー」と前置きしてから話を始めることがあり、現在でも田中の演説のものまねをする際、この前置きの言葉が使われることが多い。
- バセドウ病の持病があった。
- 六法全書を隅から丸暗記して、覚えたページは破り捨てたという(食べた、ともいう)。
- 馬主として長女の眞紀子から名を取ったマキノホープ、マキノカツラ、マキノサクラ、マキノスガタなどの馬を所有していた。
- 軽井沢の別荘で田中の番記者を集め「俺の不愉快になることを書くな、俺はお前達の首はいつでも切れる。俺は権力の近くに長くいたから、マスコミの弱みを全て知っている」と恫喝をしたことがある。その場にいた番記者は苦笑したりするだけで記事にしなかった。この軽井沢放言事件を正面から取り上げたのは文芸春秋と週刊現代だけである。
- 中曽根康弘を「遠目の富士山」「出たがり屋の婆芸者」「なるものになったらお前らなんか見向きもしない。天井向いて歩く」、橋本龍太郎を「備前長船の風切り小僧」「あのタイプは切れるが人に好かれない」宮澤喜一を「英語屋」「あれは一流の秘書官で政治家じゃない」「金襴緞子のお姫様」、小渕恵三を「光平さんの倅は目立たない男だ。ビルの谷間のラーメン屋。なかなかやるねぇ。」池田大作を「ありゃ法華経を唱えるヒトラーだ」などと言うなど、毒舌ながらも決して的外れではない人物評で知られた。
- 自派閥のメンバーには絶対的な服従を強いる強権的な姿勢が目立った反面、敵対する勢力に対しては最後まで追い詰めることは避け、しばしば苦境に立った政敵に救いの手を差し伸べた。
- 小室直樹の著作を愛読し、これを高く評価していた。小室はロッキード事件の際「田中無罪論」を展開したが、それ以前からの読者である。
- 馬喰(ばくろう、馬商人)の家出身のせいか、味付けの濃い食べ物を好んだ。日中国交樹立の際に、中国側にお気に入りの味噌汁とあんパンを出された事が中国側への破格の譲歩につながったとも言われる。そのため首相在任中は常にミネラルウォーターを持ち歩いていた。
- 全国の選挙情勢をくまなく把握していたことで知られ、その見通しは滅多に狂わなかったという。
- 家紋は剣片喰(かたばみ)である。
- 苦学生である角栄は教育問題、とりわけ公立教育の重要性を認識しており、首相在任時には公立学校の教員の給与を引き上げたり、教員の地位や質の向上を図ることに努めた。しかしながら日教組は教員の給与が上がれば労働争議の大義名分がなくなるとしてこの政策に強く反発した。
- 1957年12月31日、第8回NHK紅白歌合戦に審査委員として出演した(当時、郵政大臣)。
- 総理大臣を務めたことがあるにも関わらず、勲章を受章していない(ロッキード事件の影響かと思われる。なお、リクルート事件に関与した総理大臣は受賞している(竹下登・中曽根康弘・橋本龍太郎など))また、昭和天皇は田中には好意を持っていなかったという。
- 日本文芸社発行の週刊漫画ゴラクに連載された、「柳都物語」は田中角栄をモデルにした物と思われる。
ニックネーム、渾名
- 「今太閤」 - 本人は織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の戦国三傑において信長を理想としており、自分が秀吉に擬えられることは好んでいなかった(太閤、豊臣秀吉参照)。
- 「コンピューター付きブルドーザー」
- 「角さん」
- 「自民党周辺居住者」
- 「目白の闇将軍」
- 「キングメーカー」
一族
家族・親族
田中角栄関連の映画・オリジナルビデオ
- 『日本の首領 野望篇』(1978年、東映)、平山英格のモデルは、田中角栄。平山英格役は、金子信雄
- 『日本の首領 完結篇』(1978年、東映)、平山英格のモデルは、田中角栄。平山英格役は、金子信雄
- 『日本の黒幕』(1979年、東映)、平山栄吉のモデルは、田中角栄。平山栄吉役は、金田龍之介
田中角栄を題材にした楽曲
- 「田中音頭」(歌:三波春夫)‐1972年発表。
脚注
- ↑ 出典:『人間田中角栄』 馬弓良彦 ダイヤモンド社
関連人物
- 吉田茂
- 池田勇人
- 佐藤栄作
- 福田赳夫
- 椎名悦三郎
- 大平正芳
- 中曽根康弘
- 小佐野賢治
- 佐藤昭子
- 早坂茂三
- 竹下登
- 小沢一郎
- 二階堂進
- 石破二朗
- 川島正次郎
- 保利茂
- 橋本登美三郎
- 愛知揆一
- 松野頼三
- 江崎真澄
- 木村武雄
- 山下元利
- 小坂徳三郎
- 大野市郎
- 白洲次郎
- 木村禧八郎
- ジェラルド・フォード
- ヘンリー・キッシンジャー
関連項目
- 日中国交正常化
- 親中派
- 三角大福
- 佐藤派五奉行
- 越後交通
- 新潟総合テレビ
- 砂防会館
- 大蔵大臣アワー
- 木曜クラブ
- マキノホープ
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外部リンク
- (財)田中角榮記念館(道の駅・西山ふるさと公苑内)
歴代内閣総理大臣 | |||||
第63代 佐藤栄作 |
第64・65代 1972年 ‐ 1974年 |
第66代 三木武夫 | |||
第代 [[]] |
第代 |
第代 [[]] | |||
第代 [[]] |
第代 |
第代 [[]] | |||
第代 [[]] |
第代 |
第代 [[]] | |||
第代 [[]] |
第代 |
第代 [[]] | |||
伊藤博文 黑田清隆 山縣有朋 松方正義 大隈重信 桂太郎 西園寺公望 山本權兵衞 寺内正毅 原敬 |
高橋是清 加藤友三郎 清浦奎吾 加藤高明 若槻禮次郎 田中義一 濱口雄幸 犬養毅 齋藤實 岡田啓介 |
廣田弘毅 林銑十郎 近衞文麿 平沼騏一郎 阿部信行 米内光政 東條英機 小磯國昭 鈴木貫太郎 東久邇宮稔彦王 |
幣原喜重郎 吉田茂 片山哲 芦田均 鳩山一郎 石橋湛山 岸信介 池田勇人 佐藤榮作 田中角榮 |
三木武夫 福田赳夫 大平正芳 鈴木善幸 中曾根康弘 竹下登 宇野宗佑 海部俊樹 宮澤喜一 細川護熙 羽田孜 |
村山富市 橋本龍太郎 小渕恵三 森喜朗 小泉純一郎 安倍晋三 福田康夫 麻生太郎 鳩山由紀夫 菅直人 野田佳彦 |
歴代の経済産業大臣(通商産業大臣) |
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通商産業大臣 |
稲垣平太郎 - 池田勇人 - 高瀬荘太郎 - 横尾龍 - 高橋龍太郎 - 池田勇人 - 小笠原三九郎 - 岡野清豪 - 愛知揆一 - 石橋湛山 - 水田三喜男 - 前尾繁三郎 - 高碕達之助 - 池田勇人 - 石井光次郎 - 椎名悦三郎 - 佐藤栄作 - 福田一 - 櫻内義雄 - 三木武夫 - 菅野和太郎 - 椎名悦三郎 - 大平正芳 - 宮澤喜一 - 田中角栄 - 中曽根康弘 - 河本敏夫 - 田中龍夫 - 河本敏夫 - 江崎真澄 - 佐々木義武 - 田中六助 - 安倍晋太郎 - 山中貞則 - 宇野宗佑 - 小此木彦三郎 - 村田敬次郎 - 渡辺美智雄 - 田村元 - 三塚博 - 梶山静六 - 松永光 - 武藤嘉文 - 中尾栄一 - 渡部恒三 - 森喜朗 - 熊谷弘 - 畑英次郎 - 橋本龍太郎 - 塚原俊平 - 佐藤信二 - 堀内光雄 - 与謝野馨 - 深谷隆司 - 平沼赳夫 |
経済産業大臣 |
平沼赳夫 - 中川昭一 - 二階俊博 - 甘利明 |
歴代の財務大臣(大蔵大臣) |
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大蔵大臣(大日本帝国憲法下) |
松方正義 - 渡辺国武 - 松方正義 - 渡辺国武 - 松方正義 - 井上馨 -松田正久 - 松方正義 - 渡辺国武 - 西園寺公望 - 曾禰荒助 - 阪谷芳郎 - 松田正久 - 桂太郎 - 山本達雄 - 若槻礼次郎 - 高橋是清 - 若槻禮次郎 - 武富時敏 - 寺内正毅 - 勝田主計 - 高橋是清 - 市来乙彦 - 井上準之助 - 勝田主計 - 濱口雄幸 - 早速整爾 - 片岡直温 - 高橋是清 - 三土忠造 - 井上準之助 - 高橋是清 - 藤井真信 - 高橋是清 - 町田忠治 - 馬場鍈一 - 結城豊太郎 - 賀屋興宣 - 池田成彬 - 石渡荘太郎 - 青木一男 - 櫻内幸雄 - 河田烈 - 小倉正恒 - 賀屋興宣 - 石渡荘太郎 - 津島壽一 - 広瀬豊作 - 津島壽一 - 渋沢敬三 - 石橋湛山 |
大蔵大臣(日本国憲法下) |
片山哲 - 矢野庄太郎 - 栗栖赳夫 - 北村徳太郎 - 吉田茂 - 泉山三六 - 大屋晋三 - 池田勇人 - 向井忠晴 - 小笠原三九郎 - 一万田尚登 - 池田勇人 - 一万田尚登 - 佐藤栄作 - 水田三喜男 - 田中角栄 - 福田赳夫 - 水田三喜男 - 福田赳夫 - 水田三喜男 - 植木庚子郎 - 愛知揆一 - 田中角栄 - 福田赳夫 - 大平正芳 - 坊秀男 - 村山達雄 - 金子一平 - 竹下登 - 渡辺美智雄 - 竹下登 - 宮澤喜一 - 竹下登 - 村山達雄 - 橋本龍太郎 - 海部俊樹 - 羽田孜 - 林義郎 - 藤井裕久 - 武村正義 - 久保亘 - 三塚博 - 橋本龍太郎 - 松永光 - 宮澤喜一 |
財務大臣 |
宮澤喜一 - 塩川正十郎 - 谷垣禎一 - 尾身幸次 - 額賀福志郎 |