中川昭一

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中川 昭一 (2006年1月撮影)

中川 昭一(なかがわ しょういち、1953年7月19日2009年10月3日)は、日本政治家

衆議院議員を8期務め、農林水産大臣経済産業大臣内閣府特命担当大臣金融担当)などの要職を歴任した。

人物[編集]

自由民主党衆議院議員として、初めは北海道第5区小選挙区比例代表並立制導入後は北海道第11区から選出され、2009年(平成21年)の落選まで、連続8期を務めた。

その間、農林水産大臣経済産業大臣財務大臣内閣府特命担当大臣(金融担当)などの閣僚経験を得たほか、安倍政権下では自由民主党政務調査会長のほか、集団的自衛権に関する自由民主党特命委員長を務めた。また、北朝鮮日本人拉致事件に関しては超党派の北朝鮮拉致疑惑日本人救済議員連盟の会長代行、党内では拉致問題特命委員長を務めた。

外交では親台派と知られ、中華民国総統であった李登輝とは懇意であった。中川が大臣に就任する際には李からの祝意が寄せられ、また中川は李を人間として慕っていた。

人物像[編集]

父親は、農林水産大臣や科学技術庁長官を歴任した中川一郎、叔父には元参議院議員中川義雄がいた。尊敬する政治家としては、父・中川一郎のほか、かつてのイギリス首相、ヘンリー・ジョン・テンプルを挙げていた。

趣味は水鉄砲サッカー、自宅で花を育てることであり、特技はテニスであった。政界きっての読書家としても知られ、自身のウェブサイトにも読書の感想を多く記していた。

2004年(平成16年)の、いわゆる『年金未納問題』では、中川が国会議員当選以来一度も年金保険料を納入していなかったことが明らかとなったが、議員年金には加入していた。

テレビの報道番組報道2001』(フジテレビ)には度々出演していた中川だが、同番組での注目度は高く、中川が出演する際には視聴率が上昇していたという。

経歴[編集]

生い立ち[編集]

1953年昭和28年)7月19日、当時北海道開発庁に勤務していた中川一郎と、その妻・貞子の長男として、東京都渋谷区宮代町(現在の渋谷区広尾)に生まれた。本籍地は、北海道広尾郡広尾町。父一郎は、新婚間もなく東京に赴任していた。

昭一には口唇口蓋裂(兎唇)の障害があり、幼児期と大学卒業後の2回、形成手術を受けている[1]

学生時代[編集]

新宿区立落合第一小学校から麻布中学校・高等学校に進学した。中学受験時、母・貞子は昭一を家庭教師に頼らせず、参考書を用いての自学のみで合格させたという。麻布時代には、それまで行っていたサッカーを大学受験のために止めたが、心臓肥大を患うこととなった。家では護憲派の学者・宮沢俊義の話をし、父・中川一郎に憤怒されたことがあるという。

現役受験後には慶應義塾大学経済学部へ入学したものの約1年間で退学、高校卒業から2年を経た1974年(昭和49年)、東京大学文科Ⅰ類に再入学し、同大学法学部政治学科に学んだ。

銀行員時代[編集]

大学卒業後の1978年(昭和53年)4月、中川は日本興業銀行に入行、その後約5年間に渡って同行に勤めた。

父の急死政界入り[編集]

1983年(昭和58年)1月、自由民主党衆議院議員在職中だった父・一郎が自殺する。

中川は翌月、銀行を退職、同年12月に行われた第37回衆議院議員総選挙に、自由民主党の公認を得て北海道5区から立候補した。弔い選挙となったこの選挙には、父・中川一郎の側近として秘書を務めていた鈴木宗男も立候補、2人による後継争いは、マスコミから「骨肉の争い」と書き立てられた。

選挙の結果、中川はトップ当選し、自由民主党の公認が得られなかった鈴木も下位で初当選した。衆議院議員就任後中川は、石原慎太郎率いる自由革新同友会(旧中川一郎派)に所属、その後は清和会→ 亀井グループ→ 志帥会と歩み、農水系・保守派の有力議員としての地歩を築くことになる。

1992年(平成4年)夏には、党友組織 『自由国民会議』初代代表であり音楽家の黛敏郎と共に、宮澤内閣(当時)の官房長官加藤紘一が企てた今上天皇中華人民共和国訪問阻止運動の先頭に立った。

農林水産大臣[編集]

1998年(平成10年)に小渕内閣が発足すると、中川は農林水産大臣として初入閣し、その後小渕内閣第1次改造内閣まで同職を務めた。

父・中川一郎は初代・農林水産大臣であり、農林水産省の銘板も父の毛氈によるものであったが、大臣就任後に初登庁した中川は、その銘板に向かって一礼し、「しっかりやれって親父が言っているみたいだ」との感想を述べた。

経済産業大臣小泉改革[編集]

2003年(平成15年)5月に組閣された小泉再改造内閣経済産業大臣に就任し、同職には2005年(平成17年)10月まで留まった。

同内閣では一連の小泉改革に貢献するとともに、大臣としてはメキシコフィリピンとの自由貿易協定(FTA)締結などの成果をあげた。中川は小泉純一郎からの信頼が厚く、小泉からファーストネーム(「昭一」)で呼ばれる数少ない国会議員のひとりとなっていた。

他方、小泉が進めた郵政民営化には賛成しながらも、平沼赳夫をリーダーとする郵政民営化法案への相反組に対しても半ば同情的だった。中川と平沼とは、銀行員時代からの兄弟のような間柄であり、初めて選挙に立候補した際には応援に駆けつけた。また、中川は2003年(平成15年)、それまで自身が務めていた拉致議連会長職に後任として就任するよう、安倍晋三とともに平沼に三顧の礼をもって打診した経緯がある。

政調会長安倍内閣[編集]

2006年(平成18年)の自由民主党総裁選挙では、当時内閣官房長官だった安倍晋三を支持し、安倍総裁誕生の後には同党政調会長に就任した。

2007年(平成19年)、政府税制調査会会長・本間正明愛人問題に際しては、「道徳の問題」と断じ、本間辞任への流れを作った。また、2007年度予算案の衆議院採決において、民主党は解任決議案を多発して抗戦、多くの自民党議員がこれを「大義なき抵抗」と批判したのに対して、中川は「民主党は、本当に採決を阻止したいならもっと徹底的に抵抗するべきだった」という主旨の講演を行った。

同年8月の安倍改造内閣人事ないし自民党役員人事では重要ポストへの起用が確実視されていた中川であるが、結果的には入閣や党重要役員への就任はなかった。

福田康夫政権下[編集]

2007年(平成18年)9月、首相・安倍晋三は健康問題等を理由に突然辞任、それを受けてた中川は、すぐさま麻生太郎“首相”実現に向けての活動を開始した。直後に麻生と会談して支持を伝え、総裁選立候補のための推薦人のひとりとなった。また、出演したテレビ番組では、当時流布されていた 『麻生クーデター説』を強く否定した。選挙戦では、麻生に同行し、他の応援議員らとともに東京・新宿駅前での街頭演説などにも参加したが、結果は対抗候補であった福田康夫が勝利し、同月福田康夫内閣が発足した。

同月、所属派閥の領袖であった伊吹文明自民党幹事長に就任、中川が伊吹派志帥会)会長代行を務めることとなった。その後中川は中曽根康弘らを講師として招いた政策勉強会を開催したほか、同年11月には、保守派の議員で集まる勉強会、『