二階堂進

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二階堂 進(にかいどう すすむ、1909年10月16日 - 2000年2月3日)は、日本政治家、元自由民主党衆議院議員鹿児島県肝属郡高山村(現、肝付町)出身。






経歴[編集]

生い立ち[編集]

鎌倉時代以来の名家の出身であり、生家二階堂屋敷は国の重要文化財

旧制鹿児島県立志布志中学校(現在の志布志高校)を卒業するが、勉強が苦手で志望校をことごとく落ちる。 1932年アメリカ合衆国に渡り、苦学の末、南カリフォルニア大学政治経済科を卒業、 南カリフォルニア大学大学院国際関係科に進むが、無理がたたって結核にかかる。 一時は死を覚悟したが、不屈の闘志と、肺の病患部を切除するという当時最新の手術が成功し、回復。 大学院を卒業する。

戦前の活動[編集]

日米関係が悪化する中で日本とアメリカの架け橋になろうとして全米各地を遊説して回るが、 志半ばのうちに1941年8月に日本に帰国。 帰国後は、外務省に嘱託として勤務するが、役所勤めは性に合わず、 1942年第21回衆議院議員総選挙に翼賛政治体制協議会の推薦を受けずに立候補、 日米平和などを唱えるが落選する。選挙後、山本実彦の秘書となる。

初当選[編集]

戦後の1946年4月、第22回衆議院議員総選挙に鹿児島全県区(大選挙区制)から立候補し、当選する。以後、故郷の鹿児島3区を地盤とし、引退するまで16回当選を果たす(1955年の第27回衆議院議員総選挙からは13回連続当選)。なお、同選挙区では後に「ミスター税調」と呼ばれた山中貞則などと激しく争った。当選後の二階堂は、日本協同党結成に参画する。この協同党は以後、中間派の諸政党を糾合し、協同民主党国民協同党となる。その過程で二階堂は、後年田中角栄をめぐり袂を分かつことになる三木武夫と知り合う。

田中角栄との出会い[編集]

その後、日本民主党に参加し、1955年の保守合同により自民党に参加した。 労働政務次官、衆議院建設委員長、商工委員長などを歴任。 その間田中角栄と商工委員長時代に面識を持ち、以後一本気な薩摩男らしく 「趣味は田中角栄」と公言する程、惚れ込む。

田中内閣[編集]

1966年、第一次佐藤栄作内閣の科学技術庁長官北海道開発庁長官として初入閣。1967年の第二次佐藤内閣で再任。佐藤派内で田中擁立に向けて地歩を固め、1972年田中派を結成する。念願の第一次田中内閣では内閣官房長官に就任、内閣の大番頭役として政権を支え、田中首相、大平正芳外相と共に訪中し、日中共同声明を発表する。第二次田中内閣で官房長官に留任。その後自民党幹事長に就任し、田中内閣を最後まで支えた。

「灰色高官」[編集]

1976年ロッキード事件の渦中で「灰色高官」として二階堂の名も取りざたされたため、表舞台から遠ざかる。しかし自民党の田中支配が進む中で二階堂も復権を果たし、鈴木善幸内閣下の1980年に自民党総務会長、木曜クラブ田中派)会長に、1981年には再び党幹事長に就任した。1982年中曽根康弘内閣で幹事長に留任するが、1983年の田中判決選挙で自民党が大敗した責任を取る形で幹事長を辞任した。このとき出された中曽根康弘総裁の「いわゆる田中氏の政治的影響を一切排除する」という声明は後に中曽根が当初はもっとソフトに声明を出そうとしていたが二階堂の方から言い出したので驚いたと語っている。

灰色高官といわれた二階堂であったが、金集め自体はヘタであり、後には無頓着になった。金銭面は、田中や竹下が面倒をみていた。田中派から竹下が派閥を割った時に二階堂派の人数が少なかったのはこれも影響している。

二階堂副総裁擁立問題[編集]

1984年、自民党副総裁に就任。中曽根再選をめぐり、これに反対する福田赳夫シャム双生児といわれたほど仲の良かった鈴木善幸前総理ら党の最高顧問に加え、公明党民社党も関与する「二階堂擁立構想」が持ち上がる。二階堂自身も、田中派内の総裁候補擁立の空気を背景に政権意欲を持つが田中の賛成を得られず断念した。このとき会談した田中に「幻の山崎首班」と冷やかされたうえになぜ相談しなかったのかといわれ頭に血が上って大激論になったと覚書「蘭は幽山にあり」にある。派閥全盛時代の当時では追い出されても仕方ない造反行為であったが不問に付されている。

二階堂グループ[編集]

二階堂擁立劇は結局田中の支持を受けることが出来ずに立ち消えになったが、角栄の派内での求心力は衰えた。時を同じくして体調が優れない福永健司衆議院議長の退任問題が持ち上がると中曽根と金丸らから議長就任の話も出るが側近の小坂徳三郎、また角栄の指示もあって拒否し、後任には坂田道太が就任した。竹下の台頭を嫌う角栄は一旦つぶしたはずの二階堂の総理の目を暗に示すことによって派内のバランスを保とうとしたが、若手の世代交代の停滞の苛立ちはますます募りその後の創政会結成につながってゆく。創政会結成から20日後に角栄が脳梗塞で政治生命を絶たれると田中派内で台頭した竹下登金丸信ら創政会グループと派の主導権をめぐり対立。1986年、総選挙で大勝し任期が1年延びた中曽根から再度議長を打診されるが固辞すると、今度は外相を打診されるが断り副総裁に残る旨を伝えるが中曽根は副総裁を置く気はなく無役となった。二階堂は無役となったことを解任と受け止めている。1987年、竹下派の木曜クラブ離脱に当たっては、江崎真澄山下元利小坂徳三郎らと残留した。田中派と称されてきた木曜クラブは、以降、二階堂グループと呼ばれる。田中派の正統な後継者であると自ら任じ、中曽根後継の総裁選挙への出馬を検討したが、推薦人50名を得られず断念した。

政界引退と最期[編集]

1990年の総選挙で角栄が引退し、二階堂グループも大幅に人数を減らしたため解散。同年春の叙勲で勲一等旭日大綬章受章。以降の二階堂は党内での求心力も衰え、出番のないまま1996年に政界を引退する。

1991年には日本人で10人目の国連平和賞を受賞。同年8月22日にメダルと感謝状が授与された。

2000年2月3日、心不全のため東京都新宿区の病院で死去。享年??。叙・従二位

その他[編集]

1970年代後半から、アントニオ猪木新日本プロレスコミッショナーとして擁立され、たびたびプロレス中継に立会人として登場した。当時は重鎮政治家がプロレスのコミッショナーを務める例は珍しくなかった。

鹿屋体育大学を誘致したのは二階堂であるとされる。当時の文部大臣奥野誠亮が「あんな田舎に…」と難色を示したのに対し「そんなことを言っているから過疎や過密が問題になる。田舎だからこそ作るんだ」と一喝したといわれる。

その鹿屋体育大学設立にまつわる話を、後年文部大臣となった森喜朗昭和天皇に奏上したところ、天皇が「うんうん、二階堂か。あれならやるなあ。」と漏らしたとされている。

葉巻党として有名だった。

文献[編集]

関連項目[編集]

官職
先代:
日本の旗 日本 内閣官房長官
第36・37代:1972年 - 1974年
次代:
先代:
日本の旗 日本 北海道開発庁長官
第27・28代:1966年 - 1967年
次代:
先代:
日本の旗 日本 科学技術庁長官
第18・19代:1966年 - 1967年
次代:
党職
先代:
自由民主党副総裁
1984年 - 1986年
次代:
先代:
自由民主党幹事長
第14代 : 1974年
第20代 : 1981年 - 1983年
次代:
先代:
自由民主党総務会長
第24代 : 1980年 - 1981年
次代:
先代:
政治同友会より改称
木曜クラブ会長
初代 : 1980年 - 1990年
次代:
解散