松野頼三
日本の政治家 松野 頼三 まつの らいぞう
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生年月日 | 1917年2月12日 |
出生地 | 熊本県山鹿市 |
没年月日 | 2006年5月10日((2006-1917)+((5-2)*100+(10-12)>=0)-1歳没) |
死没地 | 東京都 |
出身校 | 慶應義塾大学法学部卒業 海軍経理学校卒業 |
前職 | 日立製作所従業員 |
現職 | |
所属政党 | (日本自由党→) (民主自由党→) (自由党→) 自由民主党 |
所属委員会 | |
議員会館 | |
選挙区 | |
当選回数 | 15回
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元首 | |
称号・勲章 | 海軍主計少佐 正三位 旭日大綬章 法学士(慶應義塾大学) |
世襲の有無 | 有 |
親族 | 松野長八(祖父) 野田卯太郎(祖父) 松野鶴平(父) 野田俊作(おじ) 松野頼久(長男) 塚田徹(娘婿) |
配偶者 | |
サイン | [[画像:|128px|サイン]] |
公式サイト | [ ] |
第36代 農林大臣 | |
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内閣 | 第1次佐藤第2次改造内閣 |
就任期間 | 1966年8月1日 - 1966年12月3日
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第20代 防衛庁長官 | |
内閣 | 第1次佐藤第1次改造内閣 |
就任期間 | 1965年6月3日 - 1966年8月1日
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第16代 労働大臣 | |
内閣 | 第2次岸改造内閣 |
就任期間 | 1959年6月18日 |
総理府総務長官 | |
内閣 | 第2次岸内閣 |
就任期間 | 1958年6月12日 - 1959年6月18日
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衆議院議員 | |
内閣 | |
就任期間 | 1947年 - 1990年
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その他の職歴 | |
松野 頼三(まつの らいぞう、1917年(和暦??年)2月12日 - 2006年(和暦??年)5月10日)は、日本の政治家。階級は海軍主計少佐。位階は正三位。勲等は旭日大綬章。総理府総務長官、労働大臣、防衛庁長官、農林大臣を歴任した。
目次
来歴[編集]
生い立ち[編集]
熊本県山鹿市出身。松野鶴平の三男として生まれる。麻布中学校を経て慶應義塾大学法学部政治学科を卒業後、日立製作所に入社。1940年(和暦??年)に海軍経理学校に入学し、海軍士官(海軍主計少佐)として終戦を迎える。
政界へ[編集]
戦後、衆議院議員であった父・鶴平が公職追放にあったため、身代わりとして政界に入ることになる。吉田茂首相秘書官を経て、1947年(和暦??年)4月、第23回衆議院議員総選挙に自由党公認で熊本一区(旧)から立候補して当選する。以後、当選15回。
1955年(和暦??年)、保守合同により自由民主党に参加する。自民党では佐藤派に所属し、田中角栄、保利茂、愛知揆一、橋本登美三郎とともに「佐藤派五奉行」の一人に数えられる。
この間、岸信介・佐藤栄作兄弟に重用され、1955年(和暦??年)6月、第2次岸内閣の総理府総務長官として初入閣し、その後も、1959年(和暦??年)労働大臣、1965年(和暦??年)6月、第1次佐藤改造内閣で防衛庁長官。1966年(和暦??年)8月、農林大臣を歴任した。
角福戦争・三木おろし[編集]
佐藤引退を受けて、自民党内で巻き起こった角福戦争では、佐藤の意を受けて福田赳夫を支持した。田中退陣後は福田派に客分格として参加、三木武夫内閣時に自民党政務調査会長に送り込まれるなどしたが、三木おろしの渦中で、次第に福田と疎遠になり、三木シンパとなる。
三木は、松野を中曽根康弘の後任の幹事長に起用しようとするが、福田、大平正芳の反対に遭い、総務会長に就任。これを期に福田派を離脱した。領袖であった福田からは、「はぐれガラス」と批判されたが、福田派の中で唯一松野の意見を支持したのが小泉純一郎であったという。なお、松野は小泉の父・小泉純也とは盟友関係であり、同じ福田派の小泉の後見人的立場でもあった。
ダグラス・グラマン事件[編集]
1979年(和暦??年)、ダグラス・グラマン事件で、日商岩井から政治献金を受けたとして松野の名が上がり、この政治献金問題で5月に衆参両院の証人喚問を受けた。市川房枝に諄々と説かれるような喚問を受けた松野は絶句したという。結局、松野は「政治家松野を育てる献金であった」と献金を認める答弁をした(政治資金規正法違反や収賄罪に関しては刑事時効が成立)。7月25日に衆議院議員を辞職し、自民党を離党した。
10月7日の第35回衆議院議員総選挙に立候補したが落選。1980年(和暦??年)1980年6月22日の第36回衆議院議員総選挙に再度立候補し当選、自民党に復党した。中曽根康弘内閣では、二階堂擁立構想に動いた。
政界引退後[編集]
1990年(和暦??年)2月18日の第39回衆議院議員総選挙に落選し、政界を引退。その後は、細川護煕の政治指南役をつとめ、細川の議員辞職後、後継に長男の松野頼久を推した。政界引退後も「政界のご意見番」として、小泉内閣発足後は「小泉首相の師」として積極的にマスコミに登場していた。
藤井裕久は、松野が2003年(和暦??年)の民由合併に関与したとの趣旨の発言をしている。(BS11デジタルINsideOUT 2009年8月31日)
2006年(和暦??年)5月10日、心不全のため東京都内の病院で死去した。享年89。死去する数日前までマスコミの取材に応じていた。死後、同日付けで従六位から正三位に昇叙され、旭日大綬章が授与された。
メディア[編集]
テレビ[編集]
『週刊アサ秘ジャーナル』(TBS系)にたびたび出演し、自身の初出馬の折にリヤカーに乗って選挙運動した話や、往年の政治家たちの思い出などユーモアを交えつつ司会の浅草キッドらと政治談議を繰り広げた。グラビアアイドルが好きなことをよく話しており、「活力になるから興味をもつ」と理由を語っていた。
雑誌[編集]
自由民主党の顧問となってからは週刊朝日編集部の依頼で自らが幹事役となり有力な若手代議士と永田町の某料亭で鍋をつつきながら政治にまつわる裏話を聞き出した。この企画は「永田町の闇鍋」と呼ばれ同誌の年末恒例企画となっていた。
ラジオ[編集]
ミッキー安川とは旧友で、かつては同じアパートに住んでいた事もあった。安川の番組『ミッキー安川のずばり勝負』(ラジオ日本)にもしばしば出演した。
ミッキー安川が「松野さん、若さを保つ秘訣は?」と質問すると、「そりゃ、ミッキー、若い奴と付き合うことさ」と答えていた。また、ラジオ出演時には、アシスタントの篠田奈々の手を毎回にぎって帰った。「松野さん、あんた、何で毎回手をにぎって帰るのよ」と尋ねられると、「若さを保つためだな。年をとると、古くからの友人と話すことは、お墓とか人の批判ばっかりだよ、ミッキー。こうやって若い人の手をにぎると、若さを保てるんだなー」と語っていた。
ラジオ番組中で、一度だけ番組で松野が謝罪をしたことがあった。「この前、ラジオのファンから批判の手紙をもらったよ。松野さんは、いつも何かを食べながらしゃべっているから、食べないでやってほしいと書いてあってね。ミッキー、ラジオってのは恐ろしいもんだな。みかんとかを食べながら話していることが多かったが、ラジオ放送ってのは『心眼』があるね。耳で聞くぶん、心眼ってものがあるんだな。○○さん、申し訳なかった。食べながら話すのは止めましょう」と語った。
家族[編集]
祖父である松野長八は、地方政界で活動し村長などを務めた。母方の祖父である野田卯太郎は衆議院議員を務め、卯太郎の子にあたる野田俊作も福岡県知事や参議院議員を歴任した。父である松野鶴平(通称:ヅル平)は参議院議長などを歴任した。長男の松野頼久や娘婿の塚田徹も衆議院議員を務めている。
著作[編集]
- 『保守本流の思想と行動――松野頼三覚え書』(朝日出版社, 1985年)
- 『細川・小沢政権陰陽のバランスが崩れるとき――権力のけもの道を知りつくした男松野頼三』(日本テレビ放送網, 1994年)
- 『松野頼三オーラルヒストリー(上・下)』(政策研究大学院大学C.O.E.オーラル・政策研究プロジェクト, 2003年)
関連項目[編集]
外部リンク[編集]
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