バンダイ

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株式会社バンダイ(英文社名:BANDAI Co., Ltd.)は、バンダイナムコグループ玩具模型既製服(アパレル)・生活用品等を手がけるメーカー。「変身」を商標登録している。

概要[編集]

1950年代[編集]

創業者、山科直治の義兄久々津一夫が経営する繊維会社「萬代産業」の玩具製造小会社「萬代屋」として浅草にて創業。「萬代」(万代)とは武経七書の一つに数えられる兵法書六韜」に登場する語の「萬代不易」(永久不変の意)に由来し、創業者の山科直治が「いつの世も人の心を満たす物を作り、絶えない企業の発展を願う」という意味だとしている。

当初は萬代産業の余りの布切れで作った人形を販売。その後、1950年初の自社製品のゴムまり「リズムボール」発売、「B26ナイトプレイン」が50万個以上のヒットになり、これ以降、金属玩具を主力とするようになる。輸出が中心で国内には輸出の余りを販売しており、玩具業界では評判が悪かったが国内向けの玩具開発をてがけるようになる。創業〜1960年代当時は、教育のバンダイと言われた。

1960年代[編集]

玩具メーカーとしては後発であり旧来の玩具業界から反発が強かった。そこで同じく後発のタカラエポック社と組んで1961年に「玩具三社会」を設立。三社共同の玩具見本市を開催したり、新入社員の研修を合同で行うようになる。後にトミーニチガン学習研究社が加わり「玩具六社会」になる。

1960年代半ばより「クレイジーフォーム」「わんぱくフリッパー」「サンダーバード」などのヒットにより大手に成長する。しかし1968年に提唱した「無返品取引」が「バンダイは返品負担を問屋に押しつけるんだ!」と玩具流通業界の反発にあう。さらに「キャプテンスカーレット」の失敗により、「バンダイ倒産近し」という「黒い噂」が生まれる。それと共にバンダイ不買運動が起こる。

こうした騒動は「無返品取引」を撤回し、さらに「キャプテンスカーレット」の売上不振で倒産した今井科学(イマイ)の業務をバンダイが引き継ぐことで終息した。

1970年代[編集]

1960年代の失敗の反省から、キャラクター玩具は1971年発足の子会社ポピーに任されるようになった。後にポピーがバンダイに合併されるまではバンダイ本社はほとんどキャラクター玩具を扱っていなかったため、現在のバンダイのキャラクター玩具はポピーが基盤となっている。1970年代にポピーは急成長し、売上でバンダイ本社を抜くようになり、ポピー社員はバンダイ社員の羨望をうけることになる。ポピー誕生のきっかけは、仮面ライダーを作る際、東映渡邊亮徳と親友の山科誠山科直治、東映さらにバンダイの関係者、映画監督の深作欣二との間でキャラクター玩具業界進出を志ざしたものである。

ポピーは東宝ゴジラシリーズ等の特撮怪獣映画スーパー戦隊シリーズ仮面ライダーシリーズメタルヒーローシリーズ等の東映の特撮・アニメ、ウルトラマンシリーズ等の円谷プロの特撮をはじめとした、作品の世界観やキャラクターを使用した玩具・雑貨・既製服などを商品化する「キャラクターマーチャンダイジング」ビジネスを得意としている。ただし、これらの内、バンダイないしポピーが当初から玩具をてがけていたのは仮面ライダーとスーパー戦隊とメタルヒーローのみであった。

番組企画当初より登場キャラクターのデザイン等への参加および介入することでおよそ1年間の商品販売計画を策定しており、現在のキャラクター玩具ビジネスの基本ラインは、同社のスタイルを踏襲したものが多い。

1967年に経営破綻した模型メーカーのコグレのプラモデルの金型を買い取ったことから本社内に模型部を発足。前述の今井科学の静岡工場と金型と社員を買収して、1971年に子会社のバンダイ模型を設立。静岡県の清水工場を拠点にバンダイ模型が企画開発と生産を行い、本社の模型部が営業と販売を行う体制となる。

旧今井製品の再版を土台にスタートしたため「バンダイは倒産した会社の金型を使っている!」と業界内での評価は悪く、新製品の開発が急がれミリタリーや自動車の模型などを開発する。特に1/48機甲師団シリーズは手頃な価格と内部構造の再現で、1970年代前半は田宮模型の1/35ミリタリーミニチュアシリーズと並ぶ人気商品となる。また1970年代中頃の一時期、米国モノグラム社の販売代理店となり、同社の優れた1/48航空機キットを全国に低価格で供給した。同じ頃東映の大ヒット映画「トラック野郎」の版権を取得し、主人公の乗った11tトラック「一番星」をモデル化。当初得意の1/48スケールの販売だけだったが、後に全長55センチの超大型1/20スケールのものを発売、25年以上経った現在も販売を継続している。

1978年には、宇宙戦艦ヤマト超合金ブームの人気を受け、ブルマァクの倒産により商品ライセンスを失った円谷プロダクションウルトラシリーズ商品ライセンスを獲得。以後バンダイのウルトラシリーズは、大ヒットする。

1977年冬に発売した宇宙戦艦ヤマトでは1/500、1/700等キャラクター系キットに対する初のスケール表示の導入や、艦首を広げたディフォルメモデル、主役メカだけでなく脇役メカや悪役側メカもシリーズに加えるなどの商品展開のディスプレイキットが大ヒット。それまでゼンマイモーター駆動による「玩具」色が強かったキャラクター系キットがディスプレイキット主体に転換される結果となった。その商品展開は機動戦士ガンダム関連キット(通称「ガンプラ」)に継承されて1980年代以降の爆発的ヒットにつながり、プラモデルの取扱はキャラクター系キットに特化され、数多くのヒット商品を産み出す。

1980年代[編集]

1980年に山科直治は35歳の長男山科誠に社長職を譲り会長職に退く。この時期、バンダイグループは玩具業界一に成長しており、山科直治は「勝負はついた」という趣旨の発言をしている。

山科誠は出版社の編集者を志望していたが、その志望が叶えられなかったことと前述の「黒い噂」の時期であり山科直治が「長男を入社させるくらいだからバンダイは大丈夫なんだ」とアピールするためバンダイに入社。このため玩具事業には興味を持たず、文房具、アパレル、菓子、映像、音楽、パソコン、アミューズメントなど事業の多角化に進むことになる。これは表面上は少子化で玩具事業の成長が見込めないためとされたが、山科誠が玩具事業にいる古参社員を煙たがったためともされている。

一方、1980年代の玩具業界は成長が頭打ちになり、限られたパイを巡って競争が激化、前述の「玩具六社会」は1984年に解散。その中でゲーム会社は急成長し任天堂セガはバンダイの売上を追い抜く。

この流れに対応し1980年代中盤には独自のテレビゲーム機の販売を行うもファミリーコンピュータ(ファミコン)をはじめとする他社ハードのサードパーティーとしてソフトの製造・販売を手がけるようになる。「なぜ、ファミコンをするのか?」と言われたものの、ファミコン参入第1弾「キン肉マン マッスルタッグマッチ」のヒットで軌道に乗る。

1982年にガンプラの販売において「ヤミ再販」(メーカーが価格を決め、流通業者にそれを守らせること)と「抱き合わせ販売」(ガンダム以外の商品も買わないとガンダムを売らない)を行い守らなかった場合には出荷停止を行ったことから独占禁止法違反にあたるとしてバンダイとポピーが公正取引委員会の立入検査を受ける。1983年に公正取引委員会のヤミ再販排除の勧告を受諾する。しかしもう一つの問題である「抱き合わせ販売」は不問となる。

1983年に株式上場に向けバンダイ本社を存続会社としてグループ8社の合併を行う。

1986年に玩具メーカーとして初めて東証2部上場を果たす。これにより社員たちの中にあった「所詮、俺たちは下町のおもちゃメーカーじゃないか」という卑下する気持ちが払拭できたとある。

なお山科直治は第二次世界大戦で中国に出征しており、「戦時中の贖罪」として1985年に中国福建省に日中合弁会社・中国福萬(福建)玩具有限公司を設立。ビジネス上の狙いとしては、円高で日本国内での玩具製造のコストが上がったため、円高の影響がない中国で製造しようということである。これ以降、バンダイは海外生産の比率を上げていくことになり、現在では9割が海外生産である。

1989年の第39回創立記念式典で山科誠は「バンダイランド」の構想を語る。これはディズニーを手本としたレジャー施設の構想である。また多角化を一層押し進め、玩具会社から脱皮し、ディズニーのような総合エンタテインメント企業を目指すことも語られた。この「日本のディズニー」という目標は現在のバンダイでも継承されている。

1989年に提携していたコアランドテクノロジー株式会社を子会社化し、商号を株式会社「バンプレスト」に変更。杉浦幸昌が初代社長になった。ただしこの際に、人的に相当な流出入の変化があったため、バンプレストとコアランドテクノロジーの関係は法人格を引き継いだだけの関係にすぎないと捉える向きもある。

1990年代[編集]

海外では1993年にアメリカでパワーレンジャーが大ヒットをとばす。しかし前述のようにゲーム機で任天堂やセガに後れをとったと考えたバンダイは1994年に「プレイディア」、1996年に「ピピンアットマーク」を販売するも失敗。これに加え、同時期の玩具事業の不振、スーパーファミコン用ソフトの不振により1997年3月期の連結決算は上場以来初の赤字となる見通しになった。

こうした経営不振から1997年、セガとの間で「セガバンダイ」として合併を行うと発表された。これに関してセガの中山社長は「ピピンが成功していたら合併はなかったろう」としている。逆にセガとしてはセガが弱い低年齢向けのキャラクターで強みがあるバンダイとの合併はメリットがあった。また当時、セガはライバルのSCEにゲーム機戦争で負けつつあり、この合併は「敗者連合」とされた。

しかしたまごっちの大ヒットや、バンダイ社内からの反発も強く構想は破談。ただこの2要素が破談の「決定的要因ではない」としている。

セガの方が企業規模が大きい上に「社風が米国流でドライ」だったため、合理化の名の下にリストラ(解雇)の懸念があったのである。またバンダイ系列の問屋を統合して誕生したハピネットでは存続会社のトウショウ社員ばかりが優遇されていた「ハピネットの悪夢」も強く想起され、合併の存続会社がセガである以上、リストラされなかったとしてもバンダイ社員は不遇になると思われた。さらに、かつてのバンダイでは考えられなかったが、一流上場企業の社員としての誇りが「セガバンダイ」の名前に強く反発した。また合併反対派が山科直治を取り込んだことも影響した。

この時の責任を取り、山科誠は社長職を辞任し会長に退くも後任の茂木隆は山科誠派で、「山科体制」は維持された。

セガとは合併破談後も業務提携が続けられしばらくの間、セガのゲーム機向けのソフトを優先的に開発することとなる。

ピピンの事業はその後も続けられたが1998年に撤退、同事業をてがけていたBDE(バンダイ・デジタル・エンタテインメント)は解散する。これに伴った特別損失270億円を計上。このためたまごっちのヒットにより1998年3月期の連結決算は2882億円と過去最高だったにもかかわらず、単独決算では赤字に転落する。

さらにたまごっちのブームの終息を見極められず、大量の在庫を抱えてしまい、1999年3月期では単独決算、連結決算ともに赤字になる。単独決算は2期連続の赤字である。この責任を取り、茂木隆は退職。山科誠も名誉会長職に退き、「山科体制」は崩壊した。

1999年に山科誠が推進した多角化を放棄し、赤字事業を清算するためバンダイ入社三年目の高須武男が社長に就任。高須が「泥をかぶった」形で事業の整理が始まる。彼の就任中に音楽、映像、海外販社などの事業が撤退ないし縮小することになる。玩具事業に不慣れな高須武男を山科直治時代からの「大番頭」である杉浦幸昌が会長職から支援した。

同年には携帯ゲーム機市場における任天堂の一強体制を打破すべく、携帯ゲーム機「ワンダースワン」を投入し、一定の成功を収める。

2000年代以降[編集]

2002年に長さ方向の寸法を短縮したNゲージサイズのショーティーモデルの塗装済みキットである「Bトレインショーティー」を発売。同様の鉄道模型に近い商品としてNゲージサイズの先頭車両をリアルに再現した食玩「スタートレイン」やレール幅がZゲージより小さい電池駆動のスケールモデルZZ TRAIN」も「Bトレインショーティー」と前後して発売されている。

2003年3月期の連結決算で営業利益と経常利益が過去最高を達成。本物のドラえもんを作る「リアル・ドリーム・ドラえもん・プロジェクト」を開始。一方、2000年に「ワンダースワン」の後継機として登場した「ワンダースワンカラー」は人気ソフトの不足や任天堂の「ゲームボーイアドバンス」による攻勢によってジリ貧に陥り、2003年に携帯ゲーム機のハード開発から事実上の撤退を表明している。

杉浦幸昌は定年65歳の内規に従い会長職を辞した。彼の引退を記念して以前社長を勤めたバンプレストの本社があった千葉県松戸市にあるビルを改装し、バンダイミュージアムとして開館。前述の「バンダイランド」の構想を持っていた同社としては不満の残るものだったものの、特撮ヒーロー関連の展示やガンダムの世界観に基づいた博物館とバーを運営するなどした。2006年8月31日に閉館。2007年4月28日、栃木県壬生町におもちゃのまちバンダイミュージアムとして装いも新たに開館。

また文化事業にも熱心なところを見せ、バブル崩壊後各社が活動を縮小する中で、世界有数のトイ・コレクションを藤田文化財団から譲り受け、軽井沢ワールドトイミュージアム(現在閉館)と栃木県壬生町の新バンダイミュージアムで公開している。同ミュージアムでは19世紀の蒸気機関模型や20世紀初頭の炭鉱模型が展示されている。また、ンダイミュージアムでは玩具だけでなく、エジソンの発明品が一堂に展示されている。

2004年4月、本社ビルを現在の場所へ移転する。この新社屋のエレベーターは4基あり、それぞれバンダイが商品化しているキャラクターの声(プリモプエル仮面ライダー1号アンパンマンアムロ・レイ)がアナウンスするというユニークな作りになっている。

2005年9月、それまで業務提携などを行ってきたナムコと共同で持株会社を設立し経営統合。前述の高須武男の手腕により「経営は万全」とした上での統合である。持株会社バンダイナムコホールディングスの子会社となった。この経営統合で誕生した総合アミューズメント(AM)事業グループバンダイナムコグループは、現在AM業界では任天堂、セガサミーグループに次ぐ第3位の事業規模を誇る。この時は「セガバンダイ」の時と違い、「バンダイナムコ」の名前に対する反発はほとんどなかった。

2006年3月1日、旧イマイ時代からプラモデルを生産していた静岡市清水区の静岡ワークスから静岡市葵区の新工場に移転し、「バンダイホビーセンター」として稼動を開始。開発・設計・金型・生産という、ガンプラに関わる営業とプロモーション以外の分野をまとめて担当し、開発から生産までを施設内に一括することで生産効率と品質の向上が図られている。

2006年3月31日、バンダイナムコグループの事業再編の一環として、家庭用ビデオゲーム事業部門をナムコを母体としたゲーム事業部門「バンダイナムコゲームス」へ統合(旧・バンダイゲーム事業部門が手がけるゲームは、当面「バンダイ」ブランドで発売する)。バンダイは主にトイホビー事業専門の会社組織となった。

2006年6月には、ウィルコムW-SIMを使い、子供向けPHS、「キッズケータイpapipo!」を発売した。1997年発売の「たまぴっち」以来のPHS端末の発売であり、これまで発売してきた「メルプチ」の発展版になる。

2008年4月1日、バンダイナムコゲームスがバンプレストを吸収合併しゲームソフト事業とアミューズメント機器事業を継承、プライズ事業(UFOキャッチャーなどの景品の開発・販売)は新会社バンプレストを設立し継承。

2009年4月20日、公式ショッピングサイト「プレミアムバンダイ」を開設。一般流通では販売しづらい商品や大人用アパレル商品などを中心にさまざまな商品展開を実施している。

バンダイ御曹司がハマった愛欲と金欲[編集]

おもちゃ業界のリーディングカンパニーであるバンダイ(バンダイナムコグループ)の名に傷をつける事態が水面下で起きている。震源は、かつて同社の社長、会長を務めた創業家の「御曹司」だ。旧知の関係者が苦りきった顔でこう語る。

「バンダイの創業者が私財を投じて設立した、障害児におもちゃを貸し出す事業を支援する財団があります。御曹司はその理事長に納まっているのですが、触ってはいけない財団の基本財産に手を付け、自身の会社の負債の穴埋めに使ってしまったようなのです」

会社法違反(特別背任)の疑いで逮捕された大王製紙井川意高(もとたか)前会長を彷彿とさせる新たな「事件」が起こっている。

バンダイは1950年に東京都台東区で「萬代屋」として産声を上げた。創業者の山科直治(なおはる)氏は金沢市出身で、地元の商業学校卒業後、繊維メーカーに就職したが、一念発起して上京し、おもちゃの世界に飛び込んだ。当時の本社は30坪ほどの木造家屋で、2階が家族の住居、1階が倉庫兼用の店舗だったという。

当初はセルロイド製の人形やゴムまりなどを販売していたが、「もぐらたたきゲーム」や、「鉄腕アトム」といったキャラクター商品が次々とヒット。80年代に入ると「ガンプラ」(アニメ「機動戦士ガンダム」のプラモデル)が大ブームとなって業績を大きく伸ばし、グループ全体で年商約4千億円を誇る大企業になった。

「直治さんは創業者にありがちなワンマン社長でしたが、人情に厚く、社員から非常に慕われていました。97年に79歳で亡くなりましたが、バンダイを一代で業界トップに成長させた名経営者でした」(財界ジャーナリストの小宮和行氏)

この立志伝中の人物の跡を継いだのが、長男の山科誠氏(66)だった。

子どものころからシナリオライターや小説家にあこがれ、慶応大卒業後、小学館に入社した。しかし、希望した書籍編集ではなく営業担当になったこともあり、わずか2年でバンダイへ転職。28歳で取締役、35歳で社長になった。

「アイデアマンで、『たまごっち』を大ヒットさせるなど功績もありましたが、97年に旧セガ・エンタープライゼスとの合併話を独断で強引に進め、社員の猛反発を受けて頓挫。責任を取って社長を辞めました。趣味人といった風情の人物で、社長向きではないように感じましたね」(小宮氏)

社長辞任後も会長として経営に携わったが、業績悪化などの責任を取って99年に代表権のない名誉会長に。2004年には取締役からも外れた。それでもバンダイの5.1%の株を所有する大株主だった(バンダイは2005年、ゲーム大手のナムコと経営統合し、共同持ち株会社「バンダイナムコホールディングス」を設立)。

山科氏は社長在任中から「茶屋二郎」というペンネームで念願の作家活動を始め、『遠く永い夢』(日新報道)、『一八六八年 終りの始まり』(講談社)といった歴史小説などを執筆してきた。ただ、作家業は道楽の域を出なかったようだ。山科氏自身が雑誌にこう綴っている。

「本が売れなくても気にしない全くのノー天気作家」「飲み屋のママに『先生』と言われた瞬間、すべては文学者という至福な時空に様変わりして勘定書などは空に飛んで行ってしまう」(「財界」07年2月27日号)

私財を投じた父、財布にした息子[編集]

還暦を過ぎ、本来なら悠々自適の楽隠居で、文筆活動に専念すればよさそうなものである。ところが、実際には冒頭で触れた「金銭トラブル」が持ち上がった。

事件の舞台となったのは「財団法人日本おもちゃ図書館財団」(以下、おもちゃ財団)である。

「おもちゃ図書館」とは、障害のある子どもに遊び場を提供し、おもちゃの無料貸し出しを行うボランティア活動で、1981年に東京都三鷹市で始まり、全国に広まっていった。

「経営が順調なうちに何か一つ残したい」

そう考えた山科直治氏は、おもちゃ図書館の活動を支援することにし、1984年に4億3千万円の私財を投じ、おもちゃ財団を設立した。

現在、おもちゃ図書館は全国約500カ所で活動し、主に公民館のような公共施設を利用して月1、2回程度開館するところが多いが、常設館もある。

財団の内部資料によると、基本財産は2010年3月末時点で、約3億円の普通預金と、約38万のバンダイナムコホールディングス株(簿価で約3億円。以下、バンダイ株)から成っていた。

理事長ポストは1997年に、初代の直治氏から2代目の誠氏へ受け継がれた。山科親子と同郷の森喜朗元首相も、理事の一人だ。

バンダイも長年この財団を支援してきた。例えば2010年度は、バンダイが300万円、グループ会社のハピネットとバンダイロジパルがそれぞれ100万円と50万円を寄付している。

民間の公益活動を促す政策提言をしている公益法人協会の太田達男理事長によると、財団法人の基本財産は、動かさないのが"基本のキ"だ。

「基本財産は、法人格が与えられる基礎となる財産であり、法人の『命』といっていい。理事長の一存で好き勝手に動かしていい性質のものではありません」

ところが、おもちゃ財団では、そうした「常識」は通らなかった。

名義は「財団法人 日本おもちゃ図書館財団 理事長 山科誠」。中身を見ると「山科ホールディングス」(以下、山科HD)や「サンカ」といった会社との間で、数百万円から数千万円ものカネが頻繁にやりとりされている。山科HDもサンカも、山科氏の資産を運用するための個人会社で、代表は山科氏だ。山科HDの元役員がこう証言する。

「山科さんは財団のお金を運用して利益を出し、持ち出した分は後で返せばいいと思っていたようです。私は山科さんに言われるがままに、基本財産の現金を株式などで運用しましたが、1億円以上の赤字を出し、返すことが徐々に苦しくなりました。また、バンダイ株は株価が高いときに売り、安いときに買い戻すように運用し、一時はかなり利益を出しましたが、その運用益は財団ではなく山科HDに入れました」

「数字の帳尻だけ合わせておいて」[編集]

今年初めまで財団の経理を担当していた女性も、内情をこう明かす。

「3年くらい前から、山科理事長はしょっちゅう財団のお金を引き出し、決算期や理事会に報告を上げるときだけ口座に戻して帳尻を合わせていました。報告書を上げたらまたすぐ引き出す。その繰り返しでした」

山科氏にとって財団の基本財産は「第2の財布」だったようだが、そんなむちゃなやりくりが長続きするはずもない。案の定、2012年3月期の収支報告書では、基本財産からバンダイ株が消失し、代わりに預金が約3億円増えていた。この"異常事態"に気づいた財団幹部は山科氏に詰め寄った。

「収支報告書は6月の理事会に提出して承認を得なければなりません。山科理事長に聞くと、『額面どおりに売って処分した』なんてシレッと言う。基本財産を処分するなんて、理事会で話し合ったことすらない。『これは違法行為ですよ。私は理事会で問いただされても、何も答えられません』と言うと、理事長は『数字の帳尻だけ合わせておいてくれれば、あとは自分が説明するから』と言いました。結局、理事会では誰も気づかなかったのか、問題の収支報告書がそのまま通ってしまいましたが......」

株が現金に化けた理由について、前出の山科HD元役員はこう説明する。

「財団のバンダイ株は昨年末ごろにすべて売って現金化しました。それを3月の決算前に買い戻そうとしたのですが、株価が上がっていて買い戻せなかった。それで収支報告書に保有株が記載できなかったのです」

その後、さらに驚くべき事態に発展していく。

3月末時点では、株はなくなったものの、財団の預金口座には約6億円の現金があった。ところが、山科HD関係者によると、その口座の残高が今年9月下旬には5千万円まで目減りしていたというのだ。本当に5億円以上のカネが消えたのか。前出の財団幹部は首を振るばかり。

「私は基本財産の通帳を見せてもらったこともなければ、どこにあるのかも知りません。山科理事長と、理事長の会社の税理士しか触れないのです」

「一般社団法人及び一般財団法人に関する法律」には、「理事は、一般財団法人の財産のうち一般財団法人の目的である事業を行うために不可欠なものとして定款で定めた基本財産があるときは、定款で定めるところにより、これを維持しなければならず、かつ、これについて一般財団法人の目的である事業を行うことを妨げることとなる処分をしてはならない」(第172条2項)とある。そしておもちゃ財団の定款にはこうある。

「基本財産は、これを処分し、又は担保に供することができない。ただし、本財団の事業遂行上止むを得ない理由があるときは、理事会において、理事現在数の3分の2以上の議決を経、厚生労働大臣の承認を得て、その一部を処分し、又はその全部若しくは一部を担保に供することができる」(第8条)

つまり、おもちゃ財団の基本財産は、理事会の議決と所管大臣の承認があって初めて動かせる。今回指摘されているような行為は、明白な違法行為なのだ。

"愛人"に綴った「一つになろう」[編集]

北沢栄・元東北公益文科大教授(公益学)はこう指摘する。

「理事会に諮らずに勝手に使った段階で、背任罪にあたることは間違いない。財団は、勝手に使われた基本財産を取り返す必要がある。使途をきっちり調査したうえで、理事長が返さなければ、刑事告発せざるを得ないでしょう」

おもちゃ財団を所管する厚生労働省も戸惑いを隠さない。

「法人からきちんと話を聞いて状況を把握しないと、明確なコメントはできませんが、不適切な運営が本当になされているのならば、財団の解散も含め、しかるべき対応をとることになります」(障害福祉課)

おもちゃ図書館の創設者で財団の元理事である小林るつ子さんは、憤りをあらわにした。

「あきれてモノが言えません。これが事実なら、誠さんは福祉を食い物にしたことになる。お父様の直治さんは、私が自分のお金をおもちゃ図書館につぎ込んでいるのを知って、それじゃいけないと支援してくださった。でも、誠さんはそういうお父様の志を何も受け継いでいない。財団の発足当初は、旧厚生省のOBが事務局長に就任していましたが、誠さんの代になって排除してしまった。自分の意のままにならない人は置きたくなかったのでしょう。こんなことなら、財団はいっそ解体して、一から出直したほうがいい」

それにしても、資産家のはずの山科氏が、なぜこんな「禁じ手」に出たのか。原因はその人柄にあると、友人や知人は口をそろえる。

「要するに、脇の甘いお坊ちゃんなんです。悪い人ではないけれど、ヨイショに弱くて、周囲は怪しげな人ばかり。安易なもうけ話に乗っては、だまされていました」(20年来の知人)

「女性関係も派手だったし、不動産投資にハマったり、趣味のヨットに大金をつぎ込んだりしていました」(会社関係者)

既婚者の山科氏が艶福家であることは、自他ともに認めるところだったようだ。バンダイの社長を辞任したころ、「山科元社長と女優・山咲千里の気になる噂」(「週刊実話」97年6月19日号)といった見出しが週刊誌をにぎわせた。女優のかたせ梨乃との関係をにおわせる怪文書が社内で出回ったことも報じられた。

不倫関係がこじれて裁判に発展したこともある。

裁判で提出された陳述書によると、山科氏は1991年から2002年にかけて芸術家のAさんと交際した。40代後半のAさんは、高島礼子似の清楚な和風美人だ。Aさんが話す。

「年は離れていましたが、文学や日本の伝統文化など趣味が合いました。山科さんは奥さんと不仲で離婚する予定だと言うので、つい付き合ってしまいました。いまでは一時の気の迷いだったと猛省しています」

山科氏はAさんへの思いをラブレターに綿々と綴っていた。以下、その触りだけご紹介すると--。

〈あなたは男から見ると楊貴妃であり、傾城傾国の運勢を持った女性ということになります。男にとっては最も魅力的な女性でありながら、逆に最も危険な女になるということです〉

〈魂は私に語っています。聖なる剣と聖なる燭台が一つになって、二人は永遠の命を得られる聖なる王宮に入ることができると〉(原文ママ)

山科氏はAさんと海外へたびたび出かけ、1本5千円もする花を毎月30本贈り、揚げ句の果てには2億円以上かけて一戸建てを購入し、プレゼントしたという。別れた後で、その購入資金を返すか返さないかで訴訟となり、Aさんが3500万円を支払うことで和解が成立した。くだんのラブレターは、訴訟の証拠として採用されたものの一部だ。

そんな女性関係以上にカネがかかったのが、怪しげな投資話だったという。

ゴルフ場買収や不動産投資などを繰り返し、多額の負債を抱えた山科氏は昨年、IT関連の会社を本格稼働させた。動画配信事業が軸で、当初は「次のグーグルを目指す」「わが人生最後の大チャレンジ」と鼻息は荒かったというが、うまくいかなかったようだ。

「事業のパートナーに選んだ人物が名うてのワルで、通常では考えられない外注などを行い、巨額の損失を会社に与えた。被害は約5億円と聞いています」(前出の山科HD元役員)

この失敗が山科氏の"自転車操業"を破綻させる決定打になったようだ。別の山科HD元幹部が言う。

「山科さんは、バンダイ株が最高値のときで約150億円、不動産で約20億円の個人資産を持っていました。しかし、数々のトラブルや失敗で株を手放し、不動産にもほとんど抵当を付けられてしまっています」

社長時代掲げた「夢」を奪うのか[編集]

世間知らずのボンボンが「愛欲」と「金欲」に迷って資産を蕩尽し、手を付けてはいけない財団のカネを使い込んでしまったのか。

東京・銀座の山科HDが入っているビルを訪ね、山科氏が男性2人と連れだって出てきたところを直撃した。それまで上機嫌で話していた山科氏に「週刊朝日ですが......」と切り出すと、途端に顔色が変わり、「いま大事なお客さんと一緒だから。それに取材には答えないと伝えたはずです」と取り付く島もなかった。

かつて山科家の会社だったバンダイは、「おっしゃることが事実かどうか確認できないので、コメントのしようがありません」(広報IR担当)と言うばかり。

財団理事の森元首相に取材を申し込むと、代理人の弁護士から以下のような回答が書面で返ってきた。

「森喜朗氏は直治氏の晩年、『息子のことをよろしく頼む』と言われていました。(山科氏の問題については)それ自体が真実かどうか、知りません。仮に真実だったとしても、その事実を全く知りません。財団の資産の現状も知りません」

旧厚生省児童家庭局長で財団の初代副理事長だった金田一郎氏はこう話す。

「事務局に役人OBがいれば、基本財産を流用させたりはしなかったでしょう。直治さんは事業家として大変素晴らしい方で尊敬していましたが、誠さんはバンダイの経営すらあまり熱心ではないようでした。直治さんが『息子は事業には向いてない。小説を書くほうが好きなんだ』とぼやいていたのを覚えています」

都内のおもちゃ図書館を訪ねると、障害のある子どもたちが遊んでいた。10年以上通っているという20代後半の男性もいた。

「ここは本当に気を使わなくていい場所です。みんなが親類のようなもので、親としても安らかな気持ちになります」(母親の一人)

山科氏はバンダイの社長だった1983年、「夢・クリエイション」という企業スローガンを掲げた。子どもに夢を与えるべき会社の2代目が、障害のある子どもたちの喜びを奪うなど言語道断である。

日本国外での展開[編集]

バンダイグループは日本国外において、現地の人気キャラクターを盛んに玩具化し、「新 キャプテン・スカーレット」や「バットマン」、「ベン10」などの玩具が現地の子会社を通じて発売されている。

1990年代にスーパー戦隊シリーズを日本国外向けにした作品である「マイティ・モーフィン・パワーレンジャー」の玩具をアメリカを始めとする日本国外で発売し、大成功を収めた。以後、パワーレンジャーシリーズの玩具を毎年、発売している。

2000年代以後はそれらに加えて、現地のキャラクターをアニメ化して展開している。アメリカではアメリカングリーティング社が開発したグリーティングカードのキャラクターである「ストロベリーショートケーキを、ヨーロッパではフランスの絵本を題材とした「ベルフラワーバニーズ」などをアニメ化している。

「マイティ・モーフィン・パワーレンジャー」の成功に合わせて、ガンダムシリーズなどの日本のキャラクターの玩具も日本国外で発売を行っている。

沿革[編集]

  • 1950年 山科直治が萬代屋を創設し、社長に就く。
  • 1961年 社名をバンダイに変更。
  • 1961年 バンダイ、タカラ、エポックで「玩具三社会」設立。
  • 1963年 バンダイ運輸を設立。
  • 1963年 玩具三社会にトミー工業とニチガンが加わり、「玩具五社会」になる。
  • 1963年 バンダイ初のテレビキャラクター商品鉄腕アトムを発売。
  • 1967年 経営破綻した模型メーカーのコグレの製品金型を買い取って模型市場へ参入。
  • 1967年 玩具五社会に学習研究社が加わり「玩具六社会」になる。
  • 1969年 経営不振に陥った模型メーカーの今井科学の工場と金型を譲り受ける。
  • 1970年 ジャパン・トンカ設立。
  • 1971年 キャラクター玩具メーカーとしてポピー(現:バンダイ・ボーイズトイ事業部)設立。
    その後系列のユタカが2001年に社名をポピーに変更したが、2007年にプレックスに吸収され再度ブランドが消滅している。
  • 1971年 バンダイ模型を設立。
  • 1976年 「うごく絵本」で出版事業に進出。
  • 1978年 バンダイ出版設立。『ウルトラシリーズ』の商品ライセンスを獲得。ウルトラマンの関連グッズが大ヒット。
  • 1978年 玩具自動販売機事業に進出。
  • 1980年 山科直治が会長に退き、長男の山科誠(現:日本BS放送社長)が社長に就任。プラスチック製のガンダムプラモデル(ガンプラ)を発売し大ブームになる。
  • 1980年 ジャパン・トンカをマミートに名称変更。
  • 1981年 玩具菓子事業に進出。
  • 1981年-1982年 世界各国に相次いで支社を設立する。
  • 1982年 『マシンロボ』発売。エモーション ビデオ課設立(後のバンダイビジュアル)。
  • 1983年 バンダイを存続会社として、ポピー、バンダイ模型、バンダイ工業、バンダイオーバーシーズ、マミート、セレンテ、バンダイ出版の7社を吸収合併した新生バンダイがスタート。これをきっかけにしてコーポレート・アイデンディティー(CI)と、キャッチコピー「夢・クリエイション 楽しいときを創る企業(メインスポンサーにおける提供時の読み)」を掲げる。AE企画(Account Executive Planning、後のバンダイビジュアル)設立、バンダイの映像ソフト販売代理店になる。
  • 1983年 アパレル事業部を設立。
  • 1984年 ビデオ課がネットワーク フロンティア事業部として分社化。
  • 1984年 玩具六社会、解散。
  • 1985年 ファミコンソフト『キン肉マン マッスルタッグマッチ』がミリオンセラーを記録。
  • 1985年 中国福建省に日中合弁会社・中国福萬(福建)玩具有限公司を設立。中国市場に進出。
  • 1986年 東証2部に上場。資本金107億9600万円。ファミリートレーナーを発売。
  • 1986年 『子象物語 地上に降りた天使』で映画分野に進出。
  • 1986年 マテル社との共同出資でマーバ・コーポレーションを設立。バービーを販売。
  • 1987年 ウォルト・ディズニー・カンパニーと映像ソフト販売契約を結ぶ(1989年に契約終了)。『聖闘士星矢』クロスシリーズがヒットする。
  • 1987年 タイに合併会社 BANDAI AND K.C. CO., LTD.を設立。
  • 1987年 ミサワホーム日本公文教育研究会と共同で小型コンピューターの開発会社「コンピュータープレゼンス」を設立。
  • 1988年 東証1部に上場。ネットワーク フロンティア事業部を吸収し、メディア事業部が発足。
  • 1988年 「森は生きている/12カ月のニーナ」でミュージカル事業に進出。
  • 1989年 AE企画がバンダイビジュアル販売と社名を変更。北野武監督のデビュー作『その男、凶暴につき』を制作。以降全ての北野作品に関わっている。
  • 1989年 バンダイ牧場開設。
  • 1990年 文化放送からレコード会社、アポロン音楽工業を譲受し『株式会社アポロン』に社名変更
  • 1991年 バンダイビジュアル販売がバンダイビジュアルと社名を変更。
  • 1991年 ハピネット設立。
  • 1992年 メディア事業部の映像ソフト事業をバンダイビジュアルに統合。
  • 1992年 バンダイ運輸をバンダイロジパルに社名変更。
  • 1993年 アメリカで『パワーレンジャー』関連商品が大ヒット。
  • 1994年 サンライズがグループ企業となる。プレイディアを発売。
  • 1995年 米国に慈善事業であるThe Bandai Foundationを設立
  • 1996年 ピピンアットマーク、『たまごっち』発売、ウルトラマンシリーズのTV放送&映画メディアの復活、TVシリーズの『ウルトラマンティガ』、映画の『ウルトラマンゼアス』大ヒット。
  • 1996年 バンダイ・シンガポール設立。
  • 1996年 株式会社アポロンをバンダイ・ミュージックエンタテインメントに社名変更(その後2000年に解散、音源はエモーションミュージックが管理)
  • 1997年 ハイパーヨーヨーデジタルモンスターを発売。
  • 1997年 たまごっちの爆発的ヒットにより多くの人々の労働時間を空費させることができたことに対して、企画・開発元のウィズと共同でイグノーベル賞の経済学賞を受賞。
  • 1998年 たまごっちが社会現象にまでなり売上高を大幅に伸ばしたが、機を逸した大増産で供給過多に陥り、ピピンアットマークの販売不振も重なったことで126億円に上る損失を計上し上場以来初の赤字となる。
  • 1999年 高須武男(三和銀行・現三菱東京UFJ銀行出身)が社長に就任。携帯ゲーム機ワンダースワンを発売。
  • 2000年 ワンダースワンカラーを発売。
  • 2000年 キャラクター研究所を設立。
  • 2000年 セイカノートがグループ会社になる。
  • 2001年 葦プロダクション(現: プロダクション リード )がグループ企業となる。※現在は資本関係を解消。
  • 2002年 ツクダオリジナル(現:パルボックス)がグループ企業に、『出撃!マシンロボレスキュー』としてマシンロボ復活。
  • 2002年 ガンダムコレクション(1/400統一スケールガンダムシリーズ)発売。
  • 2002年 キャラクター研究所が開発した第1号キャラクター『くまのがっこう』の絵本がブロンズ新社から出版される。
  • 2002年6月 iモード開発者の松永真理社外取締役に迎える。
  • 2003年 バンダイ初のミュージアム施設『バンダイミュージアム』設立。
  • 2004年 本社ビルを移転する。
  • 2004年ドラえもん・ザ・ロボット」を発売。
  • 2004年 子会社のバンプレストが遊園地浅草花やしき」を当時の運営会社トーゴから譲受。
  • 2005年 現社長・上野和典就任。ピープルが株式公開(JASDAQ証券取引所に株式上場)を契機に、資本提携を行いグループ会社入りへ。ナムコと共同持株会社バンダイナムコホールディングスを設立、経営統合。
  • 2006年 ゲーム事業部門をバンダイナムコゲームスへ統合。ウルトラシリーズ40周年、たまごっち10周年。
  • 2007年 『データカードダス』の『大怪獣バトル ULTRA MONSTERS』とたまごっち関連のデータカードダスが大ヒット。同時にデータカードダスが定番商品に。
  • 2008年1月 TYOから円谷プロダクションの株式33.4%を取得。
  • 2009年7月 TYOから円谷プロダクションの株式15.6%を取得、持ち株比率49.0%になる。
  • 2010年7月 バンダイ創立60周年。ウルトラマンシリーズの本格的なアクションフィギュアULTRA-ACT発売。
  • 2012年 1984年に発売し、シリーズ化したタマゴラスのリメイク企画でウルトラマンシリーズのキャラクターを卵型の変形玩具にしたウルトラエッグが発売。マシンロボNEXTでマシンロボがスポットライト的に復活。

バンダイによるアニメ・特撮のゲーム化作品[編集]

開発は全て外注。関わったとしても企画あたりまで。

アニメ[編集]

特撮[編集]

ゲームのアニメ化作品[編集]

主な商品[編集]

かつて販売していた商品[編集]

玩具
テレビゲーム機
ゲームソフト
ゲーム周辺機器
電子ゲーム
  • コンピュータ・ウォーゲームシリーズ - 複雑な計算を瞬時に判定するマイコン(専用の自動判定機)を使用した誰にでも手軽にシミュレーションを楽しめるタイプのゲームシリーズ。
    • 01
    • 02
    • 03 ゴジラ GODZILLA
  • LCD GAME DIGITALシリーズ
  • テクトロンシリーズ
  • サウンドバトラー
  • ワンダースワン
その他

提供番組[編集]

90秒

関連項目[編集]

参考文献[編集]

脚注[編集]

  1. 1.0 1.1 BS11の再放送でも提供。

外部リンク[編集]