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2020年1月11日 (土) 00:10時点における最新版
阪神タイガース(はんしん-、Hanshin Tigers)とは、日本のプロ野球球団で、セントラル・リーグの球団のひとつ。2005・2006年度ペナントレース実数での観客動員数は12球団の中で唯一300万人を超え最多。阪急阪神東宝グループの系列。なお「Tigers」の英語での発音は「タイガーズ」の方が正しい。
目次
- 1 球団の歴史
- 2 チーム成績・記録
- 3 チーム特徴
- 4 球団の伝統
- 5 阪神ファン・応援スタイル
- 6 ユニフォームの変遷
- 7 スポンサー
- 8 歴代本拠地
- 9 歴代監督
- 10 永久欠番
- 11 欠番扱い
- 12 ノーヒットノーラン達成者
- 13 歴代の球団歌
- 14 キーワード
- 15 関連項目
- 16 外部リンク
球団の歴史[編集]
戦前期[編集]
- 1935年、前年末の大日本東京野球倶楽部(東京ジャイアンツ)設立をうけて、阪神電気鉄道が職業野球団を組織する準備を始めた。ジャイアンツは読売新聞が部数の拡大を目的として設立した球団で、特定のリーグに所属しないそれまでのプロ球団とは違い、数チームでリーグを結成した上で安定した興行を行いたいという新聞本社の考えから対戦相手を探していた。特に、東京、大阪、名古屋の三大都市圏で試合を行うことを目指していたので、大阪近郊に甲子園球場という日本最大の球場を持っていた阪神電気鉄道が球団を設立することになったのである。
- 1935年10月25日の門前眞佐人との入団契約を皮切りに山口政信、藤村富美男、藤井勇といった甲子園のスター選手と都市対抗野球の強豪・大連実業の松木謙治郎らを集め、同年12月10日に「株式会社大阪野球倶楽部」、球団名大阪タイガース(おおさか-)が発足した。日本運動協会(のち宝塚運動協会)、天勝野球団、大日本東京野球倶楽部に続く日本で4番目のプロ野球チームであった。
- 翌1936年にも、川崎コロムビアの若林忠志(1月9日)や立教大学の景浦將(2月28日)等の有力選手と契約し、同年4月の球団結成記念試合までに17名の選手を獲得した。同年2月5日には、東京ジャイアンツ、名古屋、阪急等とともに日本職業野球連盟を結成している。これは、現在の日本野球機構にあたる組織であり、同日が日本プロ野球リーグのはじまりである。
- 1936年の公式戦は、春(第1回日本職業野球リーグ戦)・夏(連盟結成記念全日本野球選手権)・秋(第2回全日本野球選手権)の3シーズンに分けて東京、大阪、名古屋の各都市圏でいくつかの大会を開催する方式だった。最初のシーズンである春は、東京ジャイアンツがアメリカ合衆国遠征を行っていて出場しなかった(後に名古屋金鯱軍も内外遠征を行っている)ためシーズン優勝は決めなかったが、開催された3大会でタイガースはいずれも1位を逃した。松木や景浦率いる打線にエース若林といった豪華な布陣を考えれば、これは芳しくない成績であった。
- 1936年夏と秋のシーズンは、各大会で1位になった回数でシーズン優勝を決める勝ち点制だった。夏、名古屋大会で1位になったタイガースは、東京大会、大阪大会で1位になった名古屋、阪急と優勝決定戦を行うこととなっていたが、直前になって中止され、初優勝を逃した。また親会社同士が競争関係にある阪急に勝てなかったことから、初代監督の森茂雄が解任され、石本秀一が新監督に就任した。同年秋、打倒沢村栄治に闘志を燃やす松木や景浦を中心として各大会を戦い抜き、24勝6敗1分と抜群の成績を残したが、優勝を決める勝ち点は2.5で東京ジャイアンツと並んだ。このため、同年12月に洲崎球場で優勝決定戦が行われたが、1勝2敗で惜敗した。
- 戦前・戦中は常に東京ジャイアンツ(1940年に東京巨人に改称)と優勝争いを繰り広げた強豪チームであった。特に1937年秋、1938年春には、御園生崇男に加えて1937年春から豪腕西村幸生が加入した磐石の投手陣と、松木、山口、景浦、藤井、田中義雄らの強力打線を擁してプロ野球初の2連覇を達成した。さらに、春秋2シーズン制を採用していたこの2年間は、春と秋のシーズン優勝チーム同士が戦う年度優勝決定戦でいずれもジャイアンツを破り、年度優勝に輝いた。
- 1940年9月、戦局悪化による敵性英語の使用禁止をうけ球団名を大阪タイガースから阪神に改称した。軍の召集により選手数が不足する苦しい状況で、1944年には監督兼主戦投手の若林忠志が35試合中31試合に登板してタイトルを総なめにし、3度目の優勝を遂げた。戦争が激化するなか、1944年の総進軍大会、ならびに1945年1月の正月大会(非公式大会)に「猛虎(阪神と産業の合同チーム)」の名称で参加したのを最後に、同年3月に活動を停止した。
戦後期(40年代、50年代)[編集]
- 戦後、1945年11月の東西対抗戦(非公式大会)より復帰し、翌年3月に球団名を大阪タイガースに戻した。したがって、翌1947年に大リーグに倣って職業野球全球団がニックネームを導入したさい、タイガースだけは球団名の変更を行う必要がなかった。1946年の愛称は「猛虎」(参照)。
- 1947年、若林が1944年と同様に投手兼監督として最高殊勲選手賞(MVP)を受賞する活躍をみせ、戦後初優勝となる通算4度目の優勝を飾った。1番打者・呉昌征から始まり金田正泰、藤村、土井垣武などリーグ屈指の強打者を並べた打線は「ダイナマイト打線」と呼ばれた。特に4番打者であった藤村は、物干し竿と呼ばれる長いバットを用いて本塁打を量産し、ミスタータイガースと呼ばれた。1949年には、チーム順位が6位にもかかわらず藤村が最高殊勲選手賞を受賞した。
- 1949年オフの新球団加盟問題では、当初は毎日オリオンズら新球団の加盟に消極的ながら賛成していた。しかし最終的には反対派にまわり、2リーグ分立に際して読売ジャイアンツ等とともにセ・リーグを創設した。阪神に裏切られた形となった新球団毎日は、戦力確保のためにタイガースの選手を集中的に引き抜いた。監督兼主戦投手の若林を始め、打撃、守備の中心である呉(1番中堅手)、別当薫(3番右翼手)、土井垣(5番捕手)、本堂保次(6番二塁手)ら6名が毎日に移籍した(ちなみに別府星野組の左腕投手・荒巻淳もタイガース入団が内定していたが、毎日に奪われている)。さらに遊撃手・長谷川善三までもが西鉄クリッパースへ移籍。門前眞佐人が大洋ホエールズへ移籍するなど、ダイナマイト打線は崩壊した。
- セ・リーグ元年の1950年、阪神は移籍した若林にかわり松木が監督に就任し、毎日の引き抜きにあわずに残留した藤村、金田、後藤次男、藤村隆男、梶岡忠義、白坂長栄らを中心にチームを構成して前年を上回る4位という順位を確保した。しかし新規に加盟した球団を除けば最下位であり、レギュラーの3分の2が流出した影響は深刻であった。
- 一方、チームの再建のため、ファームの結成や本格的なスカウト制度の導入などの改革により、世代交代の準備を進めた結果、1950年代には吉田義男、渡辺省三、小山正明、田宮謙次郎、藤本勝巳などの若手選手達が次々と主力になり、好成績を収めた。しかし投打が今一歩噛み合わず、水原茂監督率いる巨人が黄金時代の真っ直中にあるなかでタイガースは優勝から遠ざかることになった。
2度のリーグ制覇(60年代)[編集]
- フランチャイズ制度の正式導入に伴い保護地域が兵庫県となったことから、1961年に社名を「株式会社阪神タイガース」、チーム名も阪神タイガースに変更して、心機一転をはかった。しかし同年はチームの成績が低迷した上に、主力選手と度々衝突を繰り返した金田正泰監督がシーズン中に解任されるなど、チームは混乱した。金田の後任として、巨人時代に7度のシーズン優勝を誇る名将・藤本定義ヘッドコーチが監督に就任した。
- 1962年、藤本監督の下、小山、村山実の両エースの力投と遊撃手・吉田、三塁手・三宅秀史、二塁手・鎌田実らによる守りの野球で2リーグ分立後では初となる通算5度目の優勝を果たした。日本シリーズでは東映フライヤーズと対戦したが、2勝4敗1分で敗退した。村山の最高殊勲選手賞(MVP)選出が当時の慣行で日本シリーズ開催の直前に発表されたため、両輪として活躍した小山をはじめとして、チーム内の雰囲気が悪かったことが大きく影響したといわれる(シーズンMVP発表は翌年よりシリーズ後に変更)。
- 1964年、エース小山と大毎オリオンズの4番打者山内一弘とのトレードを成立させて打撃を強化する一方、ジーン・バッキーらが小山の穴を埋め、6度目の優勝を果たした。大洋ホエールズがあと1勝すれば優勝という絶体絶命のピンチに追い詰められながらも、最後に9連勝で逆転優勝を決めた奇跡的なシーズンであった。しかし、東京オリンピックの影響で早く始まった日本シリーズでは、南海ホークス相手に先に王手を掛けながらジョー・スタンカに2試合連続完封負けを喫し、3勝4敗で惜敗した。
迷走から日本一へ(1970年~1985年)[編集]
- 1970年、村山が選手兼任監督に就任。江夏豊と田淵幸一の「黄金のバッテリー」や吉田からレギュラーを奪った藤田平といった個性的で人気と実力を兼ね備えた選手達とミスタータイガース村山監督をそろえたチームは、1964年以来の優勝を期待させた。しかし、当時は王貞治や長嶋茂雄ら群を抜いた戦力を持つ巨人が絶頂期を迎えていた。そのため、1970年2位、1971年5位、1972年2位と期待に応えられなかった。1972年には村山が監督の肩書のまま投手に専念したため、金田正泰が監督代行を務めている。村山はこの年限りで引退。
- 1973年、金田監督が復帰。同年、9連覇を目指す巨人と激しい優勝争いを行い、残り2試合で1勝すれば優勝というところまでこぎつけたものの中日球場での中日ドラゴンズ戦では星野仙一を攻略できずに2-4で敗れ、地元甲子園での最終戦では巨人に0-9と完敗して優勝を逃した。試合終了後敗戦に怒ったファンが球場に乱入し、巨人の主力選手に殴る蹴るの暴行を加えるなど混乱した。
- 1975年、吉田が監督に就任。優勝が期待されたが、エース江夏の不調などから3位に終わった。その年のオフに江夏を江本孟紀、島野育夫らとのトレードで南海へ放出。翌1976年は当時新記録のシーズン193本塁打など打撃陣は好調。ハル・ブリーデン、マイク・ラインバック、掛布雅之らの活躍により、巨人と激しく優勝争いを演じるが結局2ゲーム差の2位に終わる。後藤次男監督時代の1978年には球団初の最下位に沈み、後藤は責任を取る形で辞任した。
- 1978年オフ、小津球団社長が就任。小津は低迷するチームの改革を図るためには大規模な改革が必要と考え、正捕手・4番打者の田淵とエース級の古沢憲司を西武ライオンズの竹之内雅史、真弓明信、若菜嘉晴との交換トレードで放出。さらに江川事件で巨人が江川卓と契約しようとすると、これに対抗してドラフト会議で江川を1位指名した。しかし巨人入団を強く望む江川との交渉に難航し、結局江川を巨人に移籍させ、その見返りとして巨人のエース・小林繁を獲得した。
- 主力級選手の放出獲得を次々と行ったことで批判を浴びた上、1979年以降も最下位は免れたもののチーム成績は低迷が続いた。この間、監督はドン・ブレイザー、1980年途中からの中西太と監督がめまぐるしく交代するがチームは3~5位という状況であった。
- 1982年、安藤統男が監督に就任。成績は奮わなかったが、戦力が厚みを増し1985年の日本一につながった。
- 1985年、吉田が監督に復帰。この年は21年ぶりのリーグ優勝を果たすが、それを目前にした8月12日、中埜肇球団社長が日航機墜落事故で死亡するという悲劇も起こる。結果的にはこの大事件により、阪神ナインは一層奮起したとも言われる。1番・真弓、3番・ランディ・バース、4番・掛布、5番・岡田彰布らの強力打線(第2次ダイナマイト打線)がシーズン219本塁打を記録(2004年に読売ジャイアンツに破られるまではセ・リーグ記録だった)し、中西清起、福間納、山本和行らがリリーフ投手として大車輪の活躍をした。1985年の日本シリーズでは、4勝2敗で西武を下し日本一を達成した。同年の最優秀選手(MVP)となったバースは同年、翌年にわたり、2年連続で三冠王という偉業を成し遂げた。1986年にはシーズン打率.389・シーズン長打率.777・7試合連続本塁打・13試合連続打点の日本新記録をマークし、いずれの記録も現在でも破られていない。
- また、阪神は1985年の日本シリーズで西武ライオンズ球場では3戦(第1戦、第2戦、第6戦)全勝しており、2005年の交流戦においても(ただし球場はグッドウィルドームとなっている)2連勝して20年越しでの所沢5連勝を飾った。
低迷期(1986年~2001年)[編集]
- 日本一になった1985年からわずか1年後の1986年は、掛布の骨折と平田の負傷による戦線離脱、岡田などの主力選手の不振が影響し、夏のロードで広島・巨人との優勝争いから脱落して、3位に。その翌年の1987年に最下位に沈み、吉田監督は辞任。その後長らく成績不振がつづいた。
- 1988年、村山監督が復帰。「少年隊」トリオの和田豊、大野久、中野佐資を登用するなど若手への世代交代を進める。しかし、バースの帰国、掛布の引退などアクシデントが重なり最下位に沈む。1989年は新外国人のセシル・フィルダーが大活躍するも三振してバットを叩きつけた際に骨折して帰国。シーズン中から監督問題が浮上し、村山監督が辞任。
- 1990年、中村勝広監督が就任。ヤクルトを解雇されたラリー・パリッシュを獲得し、打ち勝つ野球を目指し、5月中盤までは岡田・パリッシュが好調だったが、両名の失速と投手陣の不振とともに順位を下げ、6月20日に最下位に転落して以降、2度と浮上することはなく、最下位に終わる。1991年は開幕55試合で15勝40敗という目を覆わんばかりの成績不振で、中村監督の途中解任まで取り沙汰されたほどであった。しかし、この年の後半戦は、猪俣隆、葛西稔といった若手投手が台頭し、5連続先発投手完投勝利を収めたこともある。
- 1992年、不振に陥っていた主砲の岡田に代わり、それまでほとんど実績がなかった亀山努、新庄剛志の両俊足外野手が大活躍(亀新フィーバー)。甲子園のラッキーゾーンが撤去されて外野が広くなったこともあり、仲田幸司、中込伸、湯舟敏郎、野田浩司、弓長起浩、田村勤ら投手陣も大活躍し、和田豊、トーマス・オマリー、ジム・パチョレック、八木裕らと共に、ヤクルトスワローズと久々に優勝争いを繰り広げ最終カードまで優勝争いを持ち込んだが、惜しくも2位に終わった。
- 中村監督は1995年シーズン途中で辞任。
- 1996年、藤田監督が就任。怪我の亀山に代わり桧山進次郎が台頭するも、新庄や主力選手との確執によりシーズン途中で辞任。
- 1997年に吉田監督が再復帰。しかしチームを再生することはできず1998年限りで辞任。
- 1999年、「ID野球」の教祖・野村克也監督を招聘して猛虎再生を託した。野村は新庄の投手起用や、伊藤敦規、葛西稔、遠山奨志らの奇抜な投手交代、赤星憲広をはじめとする俊足選手の獲得、エース井川慶(現・ニューヨーク・ヤンキース)、若き主砲濱中治の育成、不逞選手の解雇など手を尽くし低迷脱出を図った。しかし、チームの柱となる選手の獲得をたびたび球団に要請するも金銭的な理由で断られ、深刻な戦力不足から3年連続最下位に沈むと、沙知代夫人の脱税の責任を取って2001年シーズン限りで退団した。
2000年代[編集]
2000年、オリックスから星野伸之がFAで入団。ヤクルトからカツノリを獲得するなど補強を行い、4月に9連勝して首位に立ち、5月には大阪近鉄バファローズからトレードで吉田剛、西川慎一を、6月には日本ハムから金銭トレードでマイカ・フランクリンをそれぞれ獲得。吉田が活躍を見せ、新庄剛志が4番に座り自己最多の28本塁打を放ったが、トニー・タラスコら外国人打者の期待外れや前年に続いて先発投手陣の不振が響き、結果は球団創設以来初となる3年連続の最下位。オフに新庄がFAでメジャーリーグのニューヨーク・メッツに、大豊が中日に移籍した。佐々木誠、フランクリンらが退団した。
2001年、ルーキーや若手が台頭。井川慶が防御率2位となり、福原も先発、リリーフに奮闘。新人の赤星憲広が盗塁王、新人王を獲得。同じく新人の沖原佳典と藤本敦士も常時レギュラーを張り、若手の濱中治と上坂太一郎らの台頭。ロッテからテスト入団したベテラン成本年秀が抑えの切り札として復活しカムバック賞を受賞した。更に交換トレードで西武から谷中真二を、近鉄から酒井弘樹をそれぞれ獲得。エドワード・ペレスとイバン・クルーズら外国人選手を獲得、中盤にはトム・エバンスを獲得して戦力補強も行うも、外国人打者の尽く期待外れ。さらに中堅、ベテラン選手が軒並み不調。井川、谷中、福原以外の先発陣の不振、酒井も一軍未登板もあって、2年連続で球団ワーストを更新する4年連続最下位。シーズン後に吉田剛が引退、酒井弘樹が退団、塩谷和彦をトレードで放出する。野村監督は就任時からチームの柱となる選手の獲得を球団に度々要請するも金銭的な理由で断られそんな中、12月5日、野村は成績不振に加えて夫人の野村沙知代の脱税容疑での逮捕の責任を取る形で監督辞任。後任はこの年まで中日の監督を務めた星野仙一が就任。オリックスからジョージ・アリアスを獲得、FAで日本ハムから片岡篤史、交換トレードでオリックスから斉藤秀光が加入、更にはデリック・ホワイトらの外国人選手を獲得。
2002年、開幕7連勝と好スタートを切って首位争いに絡んだが、矢野、赤星がケガで離脱。特に正捕手の矢野の離脱が致命的で吉本亮や中谷仁が矢野の代役を果たし切れず。夏場以降は巨人に圧倒されて順位を下げるも、結果的に4位となり5年ぶりに最下位を脱出(しかしながら10年連続Bクラスとなった)。シーズン中にエバンスと西武の橋本武広の交換トレードを行い、オフには広島からFAで金本知憲、日本ハムから下柳剛、野口寿浩らをトレードで獲得。更に2年越しのラブコールが実りジェフ・ウィリアムスを獲得。更には元ニューヨーク・ヤンキースの伊良部秀輝を加入させた。
2003年、開幕より快進撃を続け、優勝マジックをセ・リーグ史上最速となる7月8日に点灯させ、9月15日に18年ぶりのリーグ優勝を果たした。日本シリーズは福岡ダイエーホークスと対戦するが、甲子園でのゲームを全てものにする一方で福岡でのゲームを全て落とし3勝4敗で敗れた。シリーズ終了後、星野は健康問題を理由に監督を退任し、シニアディレクター職に転ずる。また、星野に招聘されたコーチ陣のうち、島野育夫はフロントに転出して管理部長、オマリーは駐米スカウトとして球団に残ったが、田淵幸一、達川光男、西本聖は退団した。岡田彰布が監督に就任。
2004年、自由獲得枠で獲得した鳥谷敬を抜擢するなど戦力の増強を図ったものの、主力選手の不振と、マイク・キンケードの期待はずれの不振、ジェロッド・リガンの負傷による離脱で大幅な戦力低下が響いて4位だった。10月4日、井川慶がノーヒットノーランを達成。シーズン後、藪恵壹がFAで大リーグ・オークランド・アスレチックスへ移籍し、伊良部、アリアス、リガンを戦力外とした。八木裕が現役引退。
2005年、ウィリアムス、藤川球児、久保田智之のJFK、桟原将司、橋本健太郎、江草仁貴など救援投手陣の活躍、更に広島から移籍してきたアンディ・シーツ、金本、今岡誠によるクリーンナップが安定した成績を残した。先発投手陣は井川、福原の不振もあってやや不調だったが、JFKを筆頭とする強力中継ぎ・抑え陣で完全にカバーし、チーム防御率はリーグ1位となった。また、優勝を決定付ける本塁打を放った中村豊、5年連続盗塁王を獲得した赤星、レギュラー初年で2番打者を務めた鳥谷敬、下位打線に座ったシェーン・スペンサーの意外性なども打線の中で大きな役割を担った。この年から導入された交流戦で好成績をあげて首位に立つと、シーズン終了まで1度もその座を譲ることなくリーグ優勝を飾った。この時、下柳が規定投球回未到達ながら最多勝を獲得した。千葉ロッテマリーンズとの日本シリーズでは、第3戦までに30失点と投手陣が崩壊。打線もホームランが全く打てないばかりか1度もリードを奪えず、日本シリーズ史上4チーム目の0勝4敗で敗退。
2006年、最後まで中日との優勝争いを繰り広げ、シーズン終盤に9連勝したものの、今岡の不振、久保田の負傷などが響いて2位となったファーム日本選手権でロッテに6対0で勝利し、日本一達成。オフに井川がポスティングシステムで大リーグ・ニューヨーク・ヤンキースへ移籍したため、大リーグからエステバン・ジャンとライアン・ボーグルソンを獲得するなど、井川の穴を埋めるための補強を進めた。
2007年、4月から5月にかけて先発投手陣・打撃陣の不振で9連敗を喫し、交流戦でも9勝14敗1分の10位と低迷して借金は最大で9を抱えたが、リーグ戦再開後は少ない打点をJFKら中継ぎ陣が守る野球で、上位の巨人、中日と戦った7月の13戦を10勝3敗で切り抜け、この月を15勝6敗と大きく勝ち越す。8月の長期ロードも12勝8敗1分で2年ぶりに勝ち越し、シーズン終盤には10連勝して一時首位に立った。しかし、9月後半にJFKが失点を許す場面が目立ち、更に先発・打撃陣ともに不振に陥って8連敗を喫するなど失速し、最終的には3位に終わった。中日とのクライマックスシリーズ第1ステージは0勝2敗で敗退。この年は、先発陣の完投が杉山直久、能見篤史、上園啓史による3回だけ(12球団最少)で、2003年のオリックス以来4年ぶりに、規定投球回数に到達した投手がいなかった。更に打率・得点も12球団中最下位だった。その一方で桜井広大、狩野恵輔ら若手選手が一定の活躍を見せたシーズンでもあった。アンディ・シーツが現役引退。FAで広島から新井貴浩、トレードでオリックスから平野恵一、日本ハムから金村曉、MLBからルー・フォードを獲得。
2008年、シーズン序盤から首位を独走し、5月6日の対巨人戦ではプロ野球史上2球団目の通算4500勝を達成し、更に7月8日時点で巨人に最大13ゲーム差をつけ、同22日には優勝マジックを点灯させたが、主力の新井、矢野、藤川を北京オリンピック出場によって欠き、藤川の代わりに抑えを務めていた久保田の不振、オリンピック後は新井の腰痛、横浜を含む下位球団との試合を取りこぼすことが多かったこと、今岡の不振によって5番バッターが固定できなかったことや前年から続く先発陣の弱さも重なって、中継ぎエースのJFK3人に過度に依存する試合運びとなり、追い上げを見せた巨人に10月8日の直接対決最終戦で敗れ、巨人に13ゲーム差を逆転されて優勝を逃した。13ゲーム差を逆転されたのはセ・リーグ新記録だった。リーグ優勝を逃した直後、岡田は責任を取るとして監督辞任の意向を表明。クライマックスシリーズ第1ステージでは京セラドーム大阪で中日と対戦するが、1勝2敗で2年連続の第1ステージ敗退となった。岡田はクライマックスシリーズ後に正式に監督を辞任し、後任には真弓明信が就任。
2009年、4月は金本が絶好調だったものの、WBCに出場した岩田稔や正捕手の矢野、先発転向した久保田が故障で開幕に間に合わなかった。新井・鳥谷の打撃不振や新外国人ケビン・メンチの成績不振もあって、巨人や中日に圧倒され前半戦は低迷し、チーム改善の一角として6月にクレイグ・ブラゼルを獲得。後半戦は新井・鳥谷の復調、能見・桜井の躍進、スコット・アッチソンや藤川などリリーフ陣の活躍もあり、徐々に調子を上げる。前半大きく負け越していた巨人戦で、球団新記録となる5カード連続の勝ち越しを記録し対戦成績を五分に戻したこともあり、8カード連続で勝ち越しを決めるなど、最終的には東京ヤクルトスワローズと3位争いとなる。しかし、最終戦でヤクルトに連敗し4位に終わり、初めてCS進出を逃す。この年はベストナイン、ゴールデングラブ賞共に受賞者なし、タイトル獲得者もなしで、3つとも受賞者がいないのは1995年以来14年ぶりであり、規定打席数以上で打率3割を超えた打者も2000年以来9年ぶりにいないなど、特に野手陣の不振が目立ったシーズンだった。さらに12球団で唯一5連勝を経験できなかった。オフにシアトル・マリナーズから城島健司、コロラド・ロッキーズからマット・マートンなどを獲得する一方で、9年間チームを支え続けた赤星がこの年限りで引退し、藤本がFAでヤクルトに移籍、今岡、ウィリアムスらが退団した。また駐米スカウトのオマリーを外国人選手の不振の引責で解任し、シーツが後任として就任した。
2010年代[編集]
2010年、城島、マートンなどの新加入選手を加え、新井、鳥谷、平野、ブラゼルなど主力の打棒が威力を発揮。8月には1試合22得点(球団記録更新)挙げるなど、1リーグ時代を除けば球団最高のチーム打率.290、3割打者と90打点以上も5人ずつという記録を残している。また若手野手の藤川俊介、上本博紀、大和(前田大和)を起用し、走塁面でも攻撃力につなげた。しかし開幕前に負傷した主砲の金本はフルイニング出場が途切れ、復帰後も攻守での問題点を見せた。一方、投手陣では久保田、藤川などのリリーフ陣、久保康友、ジェイソン・スタンリッジなどの先発陣は好調でも、岩田、能見の怪我離脱や、安藤、下柳、福原の不調が重なった先発陣のコマ不足に見舞われた。鶴直人、西村憲、高卒ルーキーの秋山拓巳などの若手投手を抜擢するも先発・中継ぎは安定感に欠けた。前半戦は巨人との首位争いとなり、後半戦は巨人、中日との首位争いとなり、9月に阪神にも一時的にマジックが点灯したこともあった。しかし、前述の投手陣の不調により最終的には、首位中日と1ゲーム差の2位。初めて甲子園で行われたクライマックスシリーズの第1ステージの対巨人戦は0勝2敗で敗退。オフにはFAで小林宏之と藤井彰人を獲得する一方で、長らく正捕手を務めた矢野が引退し、星野仙一シニアディレクターが、楽天の監督に就任するため退団した。
2011年、3月11日に発生した東日本大震災の影響で、開幕日が当初の3月25日(神宮球場での対ヤクルト戦)から4月12日の甲子園での対広島戦に変更となり、阪神にとって1993年以来18年ぶりの甲子園開幕戦をとなり40年ぶりの甲子園での開幕戦勝利を挙げた。開幕当初は先発陣の安定した活躍で上々の滑り出しをしたものの、打線が不調に陥り、久保田と小林宏の不振もあり、交流戦半ばで最下位に加えて最大11の借金を抱えた。その直後の6月8日から、代打出場が主だった関本をスタメン起用し、負傷した城島に替わり藤井彰人を正捕手として起用し始めたことでチーム状況が好転する。不振だった各打者も復調し、投手では、先発のランディ・メッセンジャーが、能見と並ぶ12勝でチームの勝ち頭になると、中継ぎではベテランの福原、若手の小嶋達也、西村、セットアッパーでは新人の榎田大樹が定着し、徐々に投打が噛み合うようになる。何度か主力選手の離脱もあったが、上本、柴田講平、大和などの若手選手の起用や活躍もあり、月間成績も6月から8月まで連続で勝ち越し、8月終了時には借金を完済し、2位に浮上する。しかし、9月に入るとそれまで好調だった投手陣が安定感を失い、それまでに対戦成績の良かった首位ヤクルト相手に6連敗を喫するなど、球団ワースト記録を更新する6カード連続での勝ち越し無しの記録を作り一気に失速して4位で終わる。真弓明信は監督を辞任、後任の監督には和田豊が就任。この年、下柳、桜井、葛城らが退団。
2012年、阪神球団設立以来初めてキャプテン制度(野手と投手にそれぞれキャプテンを置く)を導入。野手に鳥谷敬、投手に藤川球児がそれぞれ就任。開幕9試合の4月10日に5勝2敗2分で首位となるなど、4月は勝ち越したものの5月以降はすべての月間で負け越した。交流戦に入り5連敗で勝率5割を切ると、以降は勝率5割以上になる事がなく、前半戦、前半戦を借金10の5位でターン。後半戦直後に7連敗 、8月11日に対広島戦に敗れ8連敗でクライマックスシリーズ自力進出を消滅させ、9月25日の対ヤクルト戦(神宮)で敗れてBクラスが確定、首位巨人と31.5ゲーム差、3位ヤクルトと11.5ゲーム差の5位に終わる。411得点、58本塁打はリーグ最少、24無得点試合はリーグ新記録で、規定打席到達者の最高打率が鳥谷の.262など貧打線に苦しんだシーズンとなった。巨人とは途中9連敗、 東京ドームでは開幕から2分けを挟んで8連敗、前シーズンから10連敗の9敗2分に終わり、シーズン通しては5勝15敗4分に終わる。2位の中日にもナゴヤドームで開幕から1分を挟んで8連敗するなど、シーズン通して7勝15敗2分に終わり、上位2球団とドーム球場の試合で大きく負け越す結果となった。城島健司と金本知憲が現役引退。オフには、藤川球児が海外FA権を行使し、メジャーリーグのシカゴ・カブスへ移籍。元メジャ-リーガーの西岡剛と福留孝介を獲得し、FAでオリックスの日高剛を獲得している。ドラフトでは、大阪桐蔭高校の藤浪晋太郎を1位指名でオリックス、ヤクルト、ロッテとの4球団競合の末に獲得している。
2013年、開幕から巨人と首位争いをしていたが、6月2日に阪神が今季初の首位に立つものの、6月13日に巨人が首位に返り咲くと以降は首位に立つ事が出来ないまま、巨人と5ゲーム差で迎えた8月27日からの3連戦で3連敗した事も響き、9月22日に阪神が対ヤクルト戦(甲子園)に6対7で敗れた事で巨人のリーグ優勝が決定した。翌23日の同戦に2対0で勝利し、3年ぶりにクライマックスシリーズ進出が決定し、10月3日の対DeNA戦(横浜)で7対3で勝利し、3年ぶりのシーズン勝ち越しと、2位を確定させた。広島とのCSファーストステージ(甲子園)は2連敗で敗退。桧山進次郎が引退。
2014年、前年に続き巨人と広島との優勝争いとなり、8月には一時は首位の巨人と0.5ゲーム差となるが、9月以降に阪神が失速し、26日に巨人の優勝が決定するが、翌27日の対ヤクルト戦(甲子園)に勝利し、2年連続でクライマックスシリーズへの進出が決定し、10月6日に2年連続2位が決定した。マートンが首位打者、マウロ・ゴメスが打点王、メッセンジャーが最多勝と最多奪三振、呉昇桓が最多セーブを獲得するなど、NPB史上初めて1シーズン4人の外国人選手がタイトルを獲得。また福原忍の最優秀中継ぎ投手と合わせて、1シーズンで5人、6部門のタイトル獲得はそれぞれ球団タイ記録。広島とのCSファーストステージ(甲子園)は第2戦で延長12回表に0対0とした時点で2位の阪神の勝ち上がりが決定し、1勝1分で球団初のファイナルステージに進出。巨人とのファイナルステージ(東京ドーム)は、ファイナルステージ史上初の4連勝で、初めてCSを勝ち抜いての日本シリーズ進出となったが、福岡ソフトバンクホークスとの日本シリーズは1勝4敗で敗退した。
チーム成績・記録[編集]
- リーグ優勝 9回
- (1937年秋、1938年春、1944年、1947年、1962年、1964年、1985年、2003年、2005年)
- 日本一 1回
- (1985年)
- Aクラス 42回
- (1937春~1940年、1942年~1948年、1951年~1960年、1962年~1970年、1972年~1973年、1975年~1976年、1981年~1982年、1985年~1986年、1992年、2003年、2005年~2006年)
- Bクラス 28回
- (1941年、1949年、1950年、1961年、1971年、1974年、1977年~1980年、1983年~1984年、1987年~1991年、1993年~2002年、2004年)
- 最多勝利 87勝(2003年、2005年)
- 最多敗戦 84敗(1995年)
- 最多引分 13分(1976年)
- 最高勝率 .829(1938年春)
- 最低勝率 .331(1987年)
- 最多連勝 14連勝(1937年、1946年)
- 最多連敗 12連敗(1998年、1999年)
その他の記録[編集]
- 最小ゲーム差 0.5ゲーム(1937年春、1973年)
- 最大ゲーム差 37.5ゲーム(1987年)
- 最多本塁打 219本(1985年)
- 最少本塁打 1本(1944年)
- 最高打率 .345(1936年夏)
- 最低打率 .197(1941年)
- 最高防御率 1.53(1944年)
- 最低防御率 4.79(1978年)
チーム特徴[編集]
- ニックネームの「タイガース」は阪神電鉄社員の公募によって決定した。この際、何人かが「タイガース」という名称を応募したが、抽選の結果、事業課所属の松原三郎が考案者として認定された。松原は大阪の姉妹都市であるデトロイトを本拠地としていたデトロイト・タイガースを参考にしてこの名称を応募したとされているが、デトロイト・タイガースとは無関係に「タイガース」というニックネームを考えた者も多数いたと言われている。このニックネームについては、英語表記「Tigers」を正しく発音すると「タイガーズ」であるが、正式名称は片仮名表記であるため、タイガーズとするのは誤りである。当時の球団名においては、複数形のsを英語で「ズ」と発音する場合にも正式名称を「ス」とすることは一般的であった。
- 球団名「阪神タイガース」は、親会社が「阪神」電鉄である事と、本拠地である甲子園球場が大阪市と神戸市の間の「阪神」地区に位置している事との2つの意味をあわせもった球団名である(ちなみに西宮市を所轄する兵庫県の県民局は「阪神南県民局」である)。設立当初は「大阪タイガース」という球団名であったが、タイガース以外にも阪急、南海が大阪にあったことから略称として「阪神」が使われており、さらに甲子園球場が大阪府ではなく兵庫県に位置していたため、当時ヘッドコーチだった青田昇等の意見により、1961年に改称した。改称以前の1954年に発足したファームの新日本リーグにも、神戸を本拠とした事もあり、阪神ジャガースの名称でチームを組織していた。
- 球団名を一文字で表記する時は一般的に「神」とする。本来であれば略称「阪神」の一文字目の「阪」の字を用いるべきだが、かつて阪急との混乱を避けるために、阪神は「神」、阪急は「急」としていた名残りである。1993年に横浜大洋ホエールズ(「洋」)が横浜ベイスターズとなって以降は、現存するプロ野球チームの中では略称に最初の文字を使わない唯一の球団となっている。
またプロ野球の歴史に関して記述した本の中では球団名が「大阪タイガース」だった頃にも球団名を「大阪」ではなく「阪神」としているものもあるが、これは一文字で表記した場合に「大」だと大洋・大映・大毎・太平洋クラブなど、また「阪」では前述のように阪急と混同する可能性があるためのやむをえない措置である。 - 球団歌は『阪神タイガースの歌(旧:大阪タイガースの歌)』である。空をかける太陽と、輝く選手達を掛けて覇気を歌い上げる見事な歌詞と美しい曲調で知られ、阪神ファンのみならず、プロ野球ファンの間で最も有名な応援歌とされる。特に阪神地域では、野球に興味が無かったり、他球団のファンであっても歌う事が出来るほどである。歌詞の冒頭をとって六甲颪(ろっこうおろし)と呼ばれる。
- 球団マスコットは次の2人である。ともに、チーム名「タイガース」にちなんで虎をモチーフとしている。初期のトラッキーには初登場の年を表す背番号があったが、背中には名前を書くようになり、初登場の年は胸番号に移行した。なお、親会社の阪神電気鉄道およびその関連企業のマスコットとしても使われている。
- ホームゲームでは本拠地である阪神甲子園球場を使う事が多いが、1948年のフランチャイズ制仮導入までは、ホームゲームを本拠地で行う習慣はなく、甲子園球場や後楽園球場、西宮球場などの中から日程上都合のいい球場を選んで行っていた。又、フランチャイズ制導入後も、甲子園球場のナイター設備が導入されるまでは大阪球場でナイターを行うなど、他球場での主催試合も行った。また、大阪ドーム(2006年7月1日より「京セラドーム大阪」)でも1997年の開場から主催試合を行っているが、2005年から2007年までの3年間は準本拠地として使用する。甲子園球場以外での主催試合でも関西を中心とした西日本を主にしている事が特徴である。
- 大阪ドーム開場以前は、1988~90年にはグリーンスタジアム神戸(現:スカイマークスタジアム)、91~96年には西宮球場で年間数試合が行われた。
- 現在では、大阪ドームの他に倉敷マスカットスタジアムや松山坊ちゃんスタジアム(2007年は主催試合なし)で年1~2試合程度主催試合を行う。以前は西京極球場でも毎年一試合を行っていたが、2005年(西武戦)を最後に主催試合を行っていない(2006年は一試合を予定していたが甲子園球場に振りかえ、2007年はオープン戦すら行っていない)。
- 選手寮は兵庫県西宮市の虎風荘であり、隣接するファームの本拠地阪神鳴尾浜球場と合わせて「タイガースデン(Tigers Den、虎の穴)」と称する。当初は、虎の穴とガーデンとを掛け合わせて「タイガーデン(Tiger Den)」としていたが、タイガー魔法瓶との商標権の関係で、2003年末に改称した。
- 監督はチームの生え抜き選手が就任する事が多いが、優勝から遠ざかっていた1960年代には藤本定義が、低迷が続いた近年は野村克也、星野仙一といった他球団の監督として実績を残した人材を起用することにより、両時期とも低迷を脱した。
- セントラル・リーグでは唯一の関西の球団である。1リーグ時代には南海ホークス、阪急ブレーブスなども関西の人気チームであったが、2リーグ分立後は読売ジャイアンツの試合は常にテレビ中継が行われるようになり、同一リーグのために日本シリーズや交流戦以外でも巨人と対戦するタイガースは、関西の野球ファンの人気を一身に集めるようになった。そのため、読売新聞系の「スポーツ報知」を除く関西版のスポーツ新聞の1面を飾る事が多い。
- 巨人と阪神の設立当時の名称は東京ジャイアンツと大阪タイガースであり、「アンチ東京」という意味で阪神タイガースは関西を代表する団体といえる。
- ドラフト会議においては、長期的視野を要する高校生よりも大学生、社会人選手を進んで取る傾向にあり、逆指名制度、自由獲得枠、希望選手枠といった即戦力を獲得するための制度を最も積極的に使っているため、選手の平均年齢が比較的高い。しかし、2004年ドラフト会議において指名した辻本賢人はドラフト会議史上最年少の15歳であり、球界関係者を驚かせた。
- 1985年10月16日に関西テレビ放送が放映した阪神戦(明治神宮野球場でのヤクルト戦で、21年ぶりの優勝が決まった試合)の関西地区での視聴率は56.7%(ビデオリサーチ調べ)。これは関西地区におけるプロ野球中継の最高視聴率である。
球団の伝統[編集]
- 時代に合わせて本拠地球場・応援歌など球団のあり方を変化させてきた読売ジャイアンツなどの他球団に対し、タイガースは常に伝統を重んじるとして大きな変更が行われないのが伝統となっている。
- 球団名「タイガース」は、戦前戦中の英語が使用出来なかった時期を除き、一貫して使われてきた愛称である。戦前のプロ野球チームでは「セネタース」「イーグルス」などの愛称があったが、球団の消滅にともないこれらの愛称もなくなり、現在でも使われているものは、「ジャイアンツ」と「タイガース」だけである。ただし、2005年に「イーグルス」が復活した。
- 球団歌、『阪神タイガースの歌』(六甲おろし)は球団結成と同時に『大阪タイガースの歌』として作られたもので、戦前から現在まで用いられている球団歌は他にない。他球団の応援歌は、歌詞に問題があったり、球団が消滅するなどして、いずれも現在では使われていないが、『大阪タイガースの歌』だけは、歌詞中の大阪タイガースという単語を阪神タイガースに変えただけで現在も使われている。なお、歌詞の中で連呼される感嘆詞「オウ」は大阪タイガースの「大」に掛けたものであるが、掲示板によると、球団名を改めた後もそのまま残った。
- 阪神甲子園球場は球団結成時からの本拠地であり、現在のプロ野球で本拠地となっているものの中では最古である。元々は高校野球で使用する事を目的として造られた球場だが、甲子園球場を傘下に持つ阪神電鉄の球団という事で、阪神タイガースの本拠地となり、現在にいたっている。
- プロ野球最初の公式リーグ戦である1936年春から現在まで戦争による中断を除いた全公式シーズンに参加しており、かつ創立当時から親会社が変わっていないのはタイガースのみである。同様の球団は他に読売ジャイアンツがあるが、アメリカ合衆国遠征のために1936年春のシーズンを欠場している。タイガースのように、非常に長い期間経営母体がかわらずに存続するプロ野球チームというのは、世界的にも極めて少ない。テレビ中継などでは阪神巨人戦は「伝統の一戦」と紹介される。
- 球団旗も結成当初から黒と黄色の横縞に、左上に赤い丸で囲まれた猛虎のマークが使われているが、1984年に虎のイラストと丸の大きさが変更され、「HANSHIN Tigers」の球団ロゴが付け加えられるというマイナーチェンジが施されただけである。しかし、版権という概念が確立されていなかった1960年代には他球団も含めていい加減な扱われ方をされており、正面を向いた猛虎のイラストが黄色い丸で囲まれた球団旗も当時出版された選手名鑑などで見受けられる。また、ホーム用ユニフォームの胸に描かれる"Tigers"の書体も、1960年に細部が変更されたのみで創設以来一貫して使用され続けている。
- タイガースが全選手・監督・コーチをそろえて毎年キャンプイン前の1月に広田神社(武運長久⇒優勝を祈願)に参拝する行事は、球団創立時からの伝統である。又、現在では、開幕前の3月に西宮神社(商売繁盛⇒球団収益を祈願)に参拝する事も伝統的な行事となっている。
阪神ファン・応援スタイル[編集]
阪神ファン を参照
ユニフォームの変遷[編集]
- 1936年~1940年 球団創設時は「Tigers」2種類、「OSAKA」1種類のユニフォームを使用。縞帽子はこの頃から登場している。ロゴは黒で縁取りは黄色。
- 1940年~1944年★ 軍部の指導によりロゴを「阪神」に変更。1944年からは国防色の採用が義務付けられ、グレーの縦縞が廃止される。ホーム用はラインを廃止(袖の猛虎マークは消滅しなかったが戦後に入ってからいったん消滅している)。
- 1945年~1948年 戦前期の縦縞ユニフォームを復活。しかし、耐用期間が短くわずか3年間で廃止された。
- 1947年~1951年 縦縞なしの無地で前立てライン付きのユニフォームを採用。2リーグ分裂後も使用されたが1951年夏で廃止。
- 1948年~1949年★ ユニフォームの生地に濃紺を採用。
- このユニフォームは縦縞の生地が手に入らなかったために間に合わせで作られたものだが、第1次ダイナマイト打線の時代と重なったこともあって老若男女問わずファンの認知度は高い。
- 1951年~1953年 オールスターを境に前立てラインのないユニフォームに変更。ホーム・ビジターともに同一スタイル。
- 1953年~1960年 伝統の縦縞と白地の縞帽子が復活。
- 1954年 ビジター用のロゴが「OSAKA」となる。
- 1958年★ ロゴの黄色の縁取りがなくなる。ホーム用の白地の帽子とストッキングを廃止し、ビジター用と同じものに統一。
- 1960年 ホーム用ユニフォームの「Tigers」の書体変更。胸番号を採用。帽子のマークをOからOTに変更。
- 1961年~1965年 球団名改称によりビジター用ユニフォームを「HANSHIN」に変更。帽子はHTマークに。
- 1962年夏からビジター用胸番号は背番号と同じ丸い字体に。
- 1965年~1973年★ 襟・袖・パンツに太いラインが登場。背番号書体変更。
- 1970年 虎のワッペンが変更され、背中に名前が入る。背番号書体変更。
- 1972年 HTマークのTが白、Hが黄色となる。
- 1974年~1975年★ それまでの黒に加えて黄色のストライプを採用。ビジター用は1年間のみの使用だったが、1975年からギザギザラインが登場し、派手な印象となった。このユニフォームからニットで作られるようになる。帽子のHTマークのデザインも変更され、従来よりやや大きめの現在の形となる。
- 1975年~1978年★ ホーム用にギザギザラインが登場。また、ビジター用がグレーからブルーに変更される。ブルーの生地は1983年まで使用された。なお、2006年の交流戦での阪神主催試合では、この復刻版ユニフォームを使用。
- 1979年~1981年 プルオーバー・タイプ初登場。黒と黄色のノーマルラインに変更。同時にホーム用からパンツのラインが消え地味な印象となった(ビジター用は1983年まで使用)。また、この年からストッキングの黄色のストライプも廃止され、黒一色となっている。なお、2005年の交流戦での阪神主催試合と2006年の交流戦のビジター用では、この復刻版ユニフォームが使用され、交流戦終了後にチャリティーオークションに出された。
- 1982年~1987年 黄色を排してモノトーンスタイルと縞帽子を復活。また、1984年からホーム用の背番号の書体が角型となる。同時にビジター用もグレーの縦縞となった。
- 1988年~1990年 ボタン・タイプのユニフォームが登場。ビジター用のHTマークが白色から銀色に変更される。
- 1991年~2000年 1985年優勝時のプルオーバー・タイプが復活。ホーム用の縞帽子が1999年限りで廃止され、2000年からビジター用の黒帽子に統一された。
- 2001年~2006年 プルオーバータイプに代わって、ボタン付きプルオーバータイプ(ボタンが外れるのは上から数個、後の残りはダミー)を採用。ビジター用デザインが大きく一新され、サンディエゴ・パドレス風のスタイルとなった。背中のネームを廃止し、左袖の虎のマークをモノトーンに変更。しかし背中のネームは2年後に復活し、虎のマークは1年でカラーに戻っている。2004年からは球団のスポンサー企業である上新電機のロゴ『Joshin』が右袖に入るようになった。なお、左袖の虎のマークは2005年の1年間に限りホーム・ビジターとも70周年記念ロゴに変更されている。
- 2007年~ 前年までのユニフォームに引き続き、ボタン付きプルオーバータイプを採用。ホーム用にはチームカラーである黄色が1981年以来久々に取り入れられ、袖の下(わき腹にあたる部分)には黒色を配したデザインとなった。ビジター用は前年まで用いられてきたラケットラインを廃止し、ホーム用と同じくわき腹部分に黒色を配したデザインとなる。背番号の書体が丸みを帯び、1962年夏~65年まで使用された書体(いわゆる“オタマジャクシ”)を彷彿させるデザインとなった。帽子もデザイン変更が行われ、ホーム用が2005年・2006年の交流戦でも使用された1974年~1981年(ビジター用は1983年)タイプが復活、ビジター用は従来の黒帽子のつばのフチに白のラインが入れられている。なお、素材は従来のものに比べ軽量化が施されており、更に防汚性に強い素材となった。
- 年代の後に★がついているものに関しては、阪神タイガース公式サイト内・T-SHOPと以下の阪神タイガースショップにて「クラシックコレクション」として復刻版ユニフォームが販売されている。
- なおデザインの詳細は阪神タイガース公式サイト内・綱島理友のユニフォーム物語を参照のこと。
スポンサー[編集]
セ・リーグでは、各球団の申し合わせにより、2002年度からホーム用ユニフォームに限定して、スポンサー広告を掲載できるようになった。
歴代本拠地[編集]
- 1936年~現在 阪神甲子園球場(1936年から1963年までは甲子園球場、1964年から現球場名に変更)
- ※2005~2007年は、兵庫県のオリックスが大阪府の近鉄を吸収合併した事によるダブルフランチャイズ問題の暫定処置として、大阪ドーム(2006年7月1日から「京セラドーム大阪」に変更)を準本拠地として使用する事が認められている。このため、高校野球で阪神甲子園球場が使えない時期などには、大阪ドーム(京セラドーム大阪)で主催試合を行う。(実際はドーム開場年から毎年使用している)
2軍の本拠地は阪神鳴尾浜球場(同県同市)を使用している。尚、阪神甲子園球場と鳴尾浜球場は互いに徒歩圏内にあり、2軍の選手も1軍から声がかかれば自転車でもすぐにファーム本拠地から1軍本拠地に行く事ができ非常に利便性が高い。12球団の中でも1軍の本拠地とファーム本拠地間の距離は西武ライオンズの次に短く、互いの球場を徒歩で行き来出来るのも12球団の中では阪神と西武の2球団のみである。
歴代監督[編集]
※太字は優勝達成監督を表す。登録上の監督ではなく、監督代行など実際の指揮権を持っていた者を記す。
- 森茂雄(1936年春~1936年夏)
- 石本秀一(1936年秋~1939年)
- 松木謙治郎(1940年~1941年【第1次】)※1
- 若林忠志(1942年~1944年【第1次】)
- 藤村富美男(1946年【第1次】)※2
- 若林忠志(1947年~1949年【第2次】)
- 松木謙治郎(1950年~1954年【第2次】)
- 岸一郎(1955年)
- 藤村富美男(1955年~1957年【第2次】)
- 田中義雄(1958年~1959年)
- 金田正泰(1960年~1961年【第1次】)※3
- 藤本定義(1961年~1965年【第1次】)
- 杉下茂(1966年)
- 藤本定義(1966年~1968年【第2次】)
- 後藤次男(1969年【第1次】)
- 村山実(1970年~1972年4月21日【第1次】)
- 金田正泰(1972年4月22日~1974年【第2次】)
- 吉田義男(1975年~1977年【第1次】)
- 後藤次男(1978年【第2次】)
- ドン・ブレイザー(1979年~1980年)
- 中西太(1980年~1981年)
- 安藤統男(1982年~1984年)
- 6月13日~6月15日は佐藤孝夫が監督代行
- 吉田義男(1985年~1987年【第2次】)
- 村山実(1988年~1989年【第2次】)
- 中村勝広(1990年~1995年7月23日)
- 藤田平(1995年7月24~1996年9月11日)
- 柴田猛(1996年9月12日~1996年末)
- 吉田義男(1997年~1998年【第3次】)
- 野村克也(1999年~2001年)
- 星野仙一(2002年~2003年)
- 岡田彰布(2004年~)
- ※1 ここから阪神
- ※2 ここから大阪タイガース(第2次)
- ※3 ここから阪神タイガース
永久欠番[編集]
- 球団初の永久欠番を与えられた藤村は球団創設時に入団し、兵役でチームを抜けた時も欠番となっていたため、藤村以外にタイガースで#10をつけた者は存在しない。日本プロ野球において、ただ1人だけが付けた永久欠番は、藤村の#10だけである(現存するチームにおいて。なお2005年創設の東北楽天ゴールデンイーグルスを除く)。「藤村の前に藤村なし、藤村の後に藤村なし」といわれる所以であり、彼がタイガース最大の功労者である証であろう。
- 阪神一筋・不滅の大エース。1960年代・1970年代の阪神は、村山の存在なくしては語れない。1959年の天覧試合での巨人・長嶋茂雄との名勝負や、1970年には、先発投手でありながら、シーズンを通して防御率が1点を切る不滅の大記録(0.98)など、記録にも記憶にも残る名投手であった。
- 吉田の背番号#23については、球史に残る名遊撃手の番号を付けるに値する実力を持った選手がいないとして、吉田が引退した1970年以降欠番となっていたが、監督としての球団史上初の日本一への貢献などが評価され、1987年に永久欠番となった。
- タイガースにおいて、その功績をたたえて永久欠番が認定されているのは上の3名のみである。
欠番扱い[編集]
- 1993年に所属した松永浩美が背負った02番については(入団当初は2番だがシーズン途中から02番になる)、現在は日本野球機構が0と00を除く0番台と100番台以上の番号を(支配下登録選手の背番号としては)使わない方針に変更されたため、今後使用される事はないと考えられる(なお、西武ライオンズではチームスタッフの背番号として0番台の背番号が使われている。また、マンガドカベンプロ野球編では、マンガなので、実在の背番号と重ならないように01, 02, 03, 04, 05が使われている)。
- この他、正式な永久欠番ではないが、星野仙一(前監督・現シニアディレクター)の#77についても、タイガースを建て直し2003年にリーグ優勝を果たした功労者として称えるため、事実上欠番とすることを当時の球団社長が述べている。
ノーヒットノーラン達成者[編集]
阪神には球団史上9人の投手がこれまでにノーヒットノーランを達成している。
年月日 | 選手名 | スコア | 相手 | 球場 |
1940年8月3日 | 三輪八郎 | 1-0 | 巨人 | 大連 |
1946年6月16日 | 呉昌征 | 11-0 | セネタース | 西宮 |
1948年8月24日 | 梶岡忠義 | 3-0 | 南海 | 神宮 |
1952年5月7日 | 真田重男 | 12-0 | 広島 | 甲子園 |
1965年6月28日 | G.バッキー | 7-0 | 巨人 | 甲子園 |
1973年8月30日 | 江夏豊 | 1-0 | 中日 | 甲子園 |
1992年6月14日 | 湯舟敏郎 | 6-0 | 広島 | 甲子園 |
1998年5月26日 | 川尻哲郎 | 2-0 | 中日 | 倉敷 |
2004年10月4日 | 井川慶 | 1-0 | 広島 | 広島 |
- 特に江夏のケースは11回裏に自らサヨナラホームランを放ちノーヒットノーランを達成するという名勝負となった。延長でのノーヒットノーランはこれが唯一の記録である。
- 完全試合についてはまだ誰も達成していない。
- これまでノーヒットノーランを記録したシーズンはいずれも優勝を逃している。
歴代の球団歌[編集]
- 大阪タイガースの歌(作詞:佐藤惣之助 作曲:古関裕而 歌:中野忠晴とコロムビア・ナカノリズムボーイズ、若山彰)
- 阪神タイガースの歌(球団名変更にともなう改題、歌詞変更 歌:立川清登、中村鋭一、道上洋三、唐渡吉則ら多数)
- 公認の球団歌はこの「タイガースの歌」(別称・六甲颪)だけだが、その他に球団応援歌も多数ある。
- 他多数
キーワード[編集]
ミスタータイガース[編集]
元は、球団創設時から在籍し、1940年代後半に不動の4番打者となった藤村富美男をたたえてファンが付けた呼称。藤村の引退後に何人かの選手が後継者として同様に呼ばれた。一般的には藤村の他、村山実、田淵幸一、掛布雅之の4人を指す。
ダイナマイト打線[編集]
タイガース打線の代名詞。1946年に日刊スポーツの記者が命名し、1947年の優勝時に広まった。1940年代後半を第1次、1985年を第2次、2003年を第3次という。また、命名前の1930年代後半を第0次と呼ぶこともある。
- 第0次 松木謙治郎-藤村富美男-山口政信-景浦將-藤井勇-伊賀上良平-田中義雄-西村幸生-岡田宗芳
- 第1次 呉昌征-金田正泰-別当薫-藤村富美男-土井垣武-本堂保次-安居玉一-若林忠志-長谷川善三
- 第2次 真弓明信-弘田澄男-バース-掛布雅之-岡田彰布-佐野仙好-平田勝男-木戸克彦-ゲイル
- 第3次今岡誠-赤星憲広-金本知憲-桧山進次郎-アリアス-片岡篤史-矢野輝弘-藤本敦士-ムーア
バックスクリーン三連発[編集]
1985年4月17日、甲子園球場での巨人戦の7回裏。巨人の槙原から、3番バース、4番掛布、5番岡田がバックスクリーンへ三者連続ホームランを放ち、阪神21年ぶり優勝への勢いを決定づけた。
また、2003年5月9日、横浜スタジアムでの横浜戦。横浜の吉見から、4番濱中、5番片岡、6番アリアスがバックスクリーンではないものの、レフト方向に三者連続ホームランを放ち、18年前のバックスクリーン三連発を彷彿させた。こちらは「平成の三連発」とも称される。
いろは順背番号とポジション順背番号[編集]
- 1936年春、設立したばかりのタイガースは在籍していた選手17名の背番号を名前のいろは順で決めた。ただし、若林忠志と佐藤武夫は、当初与えられた背番号4と背番号13は縁起が悪いと考え、空き番号であった18、19にそれぞれ変更している。エース若林が偶然付けた18番は、後にエースナンバーと呼ばれるようになった。
- 1950年、リーグが分立し、ファームの結成などの改革を行ったタイガースは背番号をポジション別に改めた。1~8が投手、9~11が監督、助監督、主将、12~14が捕手、15~20が内野手、21~24が外野手、それ以降をファームの選手とした。9~11が捕手に使われていないのは、1リーグ時代からの功労者である背番号9の松木謙治郎と背番号10の藤村富美男の番号を変えないように配慮したためである。後に背番号10は藤村の永久欠番となった。
伝統の一戦・阪神vs巨人戦[編集]
概要[編集]
- 阪神と巨人の対戦カードを伝統の一戦と呼ぶ。創立当初の阪神は、阪神電鉄のライバル会社の阪急電鉄の球団である阪急を最大のライバルとしていたが、毎年のように巨人と優勝争いを行い熱戦をみせたため、対巨人戦はこう呼ばれて特別視されるようになった。「西の景浦、東の沢村」「職業野球は沢村が投げて、景浦が打ってはじまった」と呼ばれて戦前の野球ファンの注目の的となった豪腕沢村栄治と強打者景浦將の対戦にはじまり、ミスタータイガース村山実とミスタージャイアンツ長嶋茂雄、奪三振王江夏豊と本塁打王王貞治、ミスタータイガース掛布雅之と巨人のエース江川卓といった幾多の名勝負を生んだ。しかし近年はどちらかのチームが一方的に強い情勢が続いている。
年度優勝決定戦と太平洋ホームラン[編集]
- 1936年秋は複数大会開催による勝ち点制だった。各大会ごとに単独1位のチームに勝ち点1、同率1位のチームに勝ち点0.5を与え、6大会の勝ち点の合計でシーズン優勝を争った。タイガースは最後の東京第2次リーグ戦(第2次東京大会)を残して勝ち点2となり、首位の巨人の勝ち点2.5に迫っていた。第2次東京大会ではタイガースと阪急が1位を争っていたが、巨人が故意に阪急に敗退する公認の八百長試合を行ったことで、タイガースは単独1位を逃し、勝ち点2.5で巨人と並んだため年度優勝決定戦を行うことになった。
- 同年12月に洲崎球場で行われた年度優勝決定戦では、1勝2敗で惜敗したものの、景浦將が打者として12打数6安打、投手として13回を自責点1に抑える驚異的な活躍をみせた。特に第1戦で巨人のエース沢村栄治から放った場外ホームランは東京湾に落ち、「太平洋ホームラン」と呼ばれた。当時のボールは本塁打さえ滅多に出ないほどに飛びにくいもので、その上景浦が打ち返した球が魔球として知られる沢村の三段ドロップだったことから、この場外ホームランは多くの野球ファンを驚かせた。
- 1936年秋の優勝決定戦では破れたものの、翌1937年秋のシーズンに初優勝して臨んだ春優勝チーム・ジャイアンツとの年度優勝決定戦(7戦4勝制)では、沢村栄治を打ち崩して4勝2敗で前年の雪辱を果たした。さらに、翌年春のシーズンを制して迎えた年度優勝決定戦ではまたも巨人と対戦し、初戦のサヨナラ勝ちで勢いに乗ると4連勝で年度連覇を果たした。同年限りで2シーズン制は終了し、年度優勝決定戦は廃止された。
- なお、1937年と38年の日本一はリーグの通算優勝回数には数えられていない。これはこの2年間のリーグ戦はそれぞれ独立したシーズンであるためで、阪神の通算優勝は1937年秋季大会、1938年の春季大会でそれぞれカウントされている。
世紀の落球とV9[編集]
- 1973年、江夏豊と上田次朗の両エースや主砲田淵幸一らの活躍により、東京オリンピックが開催された1964年以来9年ぶりの優勝に向けて、8連覇中の巨人と激しい優勝争いをしていた。そのような状況下で、8月5日の巨人戦、9回2死から池田純一がセンターフライを落球して逆転負けを喫した。この年、阪神が僅差で優勝を逃したことから、これを世紀の落球と呼ぶようになり、池田が戦犯のごとく扱われた。実際には、グラウンドの状態が悪かったことから足をとられて転倒してしまっただけであり、特別ひどい守備だったわけではない。この年、池田は勝負強い打撃と好守でチームの優勝争いに貢献した(詳しくは池田の項目を参照)。その後、8月30日に江夏のノーヒットノーランで中日を事実上優勝戦線から脱落させたが、翌8月31日には巨人が首位に立った。10月10日の後楽園での巨人-阪神戦では、田淵が倉田誠から逆転満塁ホームランを放ち、江夏が最後を締めて勝利、流れは阪神に傾いたかに見えた。翌10月11日の同カードは、一時は7-0とリードしながら巨人が追い上げ、逆転に次ぐ逆転で10-10の引き分けに終わった。
- 残り2試合を残して僅差の首位、あと1勝で優勝というところまでせまっていた10月20日の中日戦(中日球場)では、中日キラー上田の先発が予想されたが、金田正泰監督は裏をかいて先発投手に江夏を指名した(この時、オーダー表を提出する役目を担っていた当時の岡本伊三美ヘッドコーチは、先発投手の名前に「江夏」と書かれているのを見て「本当にこれでいいんですか?」と金田監督に念押ししている)。しかし、江夏が木俣達彦にホームランを打たれて勝ち越されると、打線は星野仙一(後の中日、阪神監督)らに抑え込まれて2-4で敗戦した(星野は巨人への反骨心とすでにAクラス入りが決まっていたことから真ん中にボールを集めたといわれるが、かちかちになった阪神打線はこれを打てなかった。詳しくは中田潤の「新庄くんは、アホじゃない!」を参照)。
- この試合が間もなく終わろうとする時間に、中日球場のそばを通る新幹線に巨人ナインを乗せた「ひかり」が通り過ぎた話は有名である。「ひかり」号が通過していくのが映った試合映像は今でも保存されている。ナインの一人はスコアボードを見ようと頑張ったが果たせず、名古屋駅到着時に巨人ファンが試合経過を知らせ、それを聞いて車内のムードが明るくなったと伝えられている(山際淳司のドキュメント小説では、新幹線車内で選手が持ち込んだラジオの試合中継をナインが聞いており、中日勝利が決まった途端王貞治がうれしさのあまり叫んだ、と描写されている)。こうして、10月22日(本来は21日であったが雨天で順延)の対巨人最終戦で勝ったチームが優勝ということになった。
- 48,000人の大観衆を集めたこの試合も阪神は0-9でまさかの大敗を喫し、巨人のV9を許した。午後4時18分、最後の打者・カークランドが三振に倒れた瞬間、敗戦と不甲斐なさ過ぎる阪神に怒り、7回辺りからベンチ上などで暴れたり危険物を投げ飛ばしていたりしていたファンが暴徒と化し、一塁側スタンドから乱入したファンは巨人ベンチに襲い掛かった。このため、近所の甲子園署から200人、また兵庫県警の機動隊が70人出動し、県警からの要請で金田監督がファンの前で「お詫び」をするおまけまで付いた。県警に追い散らされたファンは「帰れ!」コールを浴びせかけ、最後は阪神選手を翌日までロッカールームに缶詰めにした(後藤和昭談)。
- この「世紀の試合」はテレビはよみうりテレビにより日本テレビ系列(解説・村山実)で、またラジオは数局が中継していたが、途中から実況席にも危険物などが投げ込まれ、500人ほどのファンが襲い掛かってきた。テレビはマイクコードを抜かれたため、中継の最後の方では荒れ狂う甲子園のグラウンドの映像のみとなってしまい、放送終了後テレビカメラや当時高価だったVTR機材といった放送機材はファンによって徹底的に破壊されてしまった(ちなみによみうりテレビは犯人が誰か特定できなかったため弁償請求できなかったという。またこの暴挙のため優勝の瞬間は鮮明なVTR映像では残っていない)。なお当時の映像は映画フィルムに転写したものが残っている。
- 阪神は「優勝するもの」と想定して、田淵を起用した日本シリーズ用のポスターもあらかじめ大量に印刷していたが(制作時点ではパ・リーグの覇者が決まっていなかったため、「阪神-パリーグ優勝チーム」という表記だった)、当然お蔵入りとなった。もっとも、阪神ファンの有名人による目撃談があることから、ごく少数のみ早々と阪神電鉄の駅などに貼られていたという説もある。また、優勝記念に作られたマッチも外に配れず、阪神電鉄の保養所で使われていた。
- 一方、江夏は自伝「左腕の誇り」の中で、「阪神の長田球団社長から10月20日の中日戦の前日に呼び出され、明日の中日戦には勝つなと八百長を指示された」と記している。当時は広告収入という考えがなく、阪神や巨人のような人気球団は優勝したところで大して収入は増えないばかりか、選手の年俸が上がるため利益は下がるという現象が起きていた。そのことを踏まえると現実味のある話だが、それではなぜポスターが製作されたのかという矛盾が生じる。もし八百長指示が事実だったとしたら、考えられるのは阪神本社と球団との意見の不一致であろう。この話は世間に伝わり「阪神は優勝戦線に最後まで残って結局優勝できないという結果を望んでいる」という噂がたった。現在では広告収入が得られるようになったのでまず考えられないことである。それから32年後の2005年、優勝を決めた試合で、巨人の前で胴上げをし、32年前の雪辱をはたした。
史上最短試合と史上最長試合[編集]
- 1946年7月26日の対パシフィック戦(西宮)では13:15の開始から14:10の終了まで試合時間わずか55分という日本プロ野球史上最短試合時間記録を達成した(1-0で勝利)。この試合では先発の渡辺誠太郎が5安打・88球で完封勝利、またパシフィック先発・湯浅芳彰も7安打・93球で完投したが、両軍合わせてファウルが6球しかなかったことがこの記録につながった(ファウルが少ないのは当時のプロ野球の特徴で、1時間以内で終わった12試合はいずれも1リーグ時代のものである)。なお1940年8月11日の対阪急戦(大連、1-0で勝利)は史上2番目となる試合時間56分(開始16:55、終了17:51)の記録が残っているが、この中には阪急捕手・井野川利春の突き指の手当ての時間が含まれており、これがなければ試合時間は52分ぐらいで済んだのではないかと言われている。現在では、投手の投球間隔の変化やグラウンド整備、投球練習などの多用により、コールドゲームであっても更新は絶望的である。
- 1992年9月11日、優勝をかけての直接対決となった対ヤクルト戦(甲子園)では日本プロ野球史上最長試合時間も記録した。この試合では9回、八木裕の打球がレフトフェンスのラバーに当たった上でスタンドに入り、いったんはサヨナラ本塁打とされ、スコアボードにも9回裏にスコアが表示されたが、ヤクルトのレフト・城友博とセンター・飯田哲也が即座に猛抗議した。このようなケースは公認野球規則の想定外の出来事であったため、審判団の協議によりエンタイトルツーベースに訂正された(ルールブックに記載されていない出来事を審判団がその場で判断するのは妥当であり誤審ではない)。しかし中村勝広監督は当然この判定に納得せず、37分間にわたって試合が中断した。そのまま延長戦となったが決着はつかず、延長15回(当時は時間無制限で延長15回引き分け再試合制)6時間26分の熱戦の末、3-3の引き分けとなった。後々、この試合で勝てなかったことが優勝を逃した原因と言われた。また、この試合の終了時刻である翌日午前0時26分は日本プロ野球史上最も遅い試合終了時刻である。なお、この試合を中継していたサンテレビは「試合開始から終了まで」ノーカット完全生中継を行った。2001年にパ・リーグだけでなく、セ・リーグにおいても延長戦が12回に短縮されたため、試合時間の更新は見込めない(※)。なお、後日談として、このとき最初に「ホームラン」のジャッジをしていた二塁塁審・平光清は長時間にわたる中断を招いた責任をとり、このシーズン限りでセ・リーグ審判員を退職している。
投手の偵察メンバー第1号[編集]
- 1950年4月22日、熊本・水前寺での対中日ドラゴンズ戦でのこと。中日の先発投手が左の清水秀雄か右の服部受弘か迷った松木謙治郎監督はメンバー表の1番に「左翼手・干場一夫」と書いて提出、服部の先発が分かると干場に代えて左打者の金田正泰を送った。
この策は成功し、金田の二塁打を足がかりに阪神が1点を先制した(ただし、試合は7-9で敗れている)。
2度の放棄試合[編集]
- プロ野球において、複数の試合を放棄試合として没収されたのはパシフィックとタイガースの2チームだけである。パシフィックについては、プロ野球が再開された1946年に、戦前までタイガースに所属していた藤井勇らを強行出場させたため、彼らが出場した4試合ともに試合終了後に没収試合(試合記録は成立したがスコアは0-9でパシフィックの負け)となっただけであり、試合途中で複数回にわたって試合を没収されたのは2度の放棄試合を記録したタイガースだけである。
- 1回目の放棄試合は1954年7月25日、中日を大阪球場(当時甲子園には設備がなかったため、ナイターは大阪球場で行った)に迎えた試合。10回裏の攻撃で杉村正一郎球審へ暴力行為をはたらいた藤村富美男が退場を宣告されたが、杉村球審は「退場」とは言わず「風呂で汗を流しては」などと言い、これを藤村が理解していなかったため、本当に風呂で汗を流した後再び打席に立とうとして杉村球審に阻止された。この光景が奇異に写ったのか、事情を理解していないファンがグラウンドになだれ込んで抗議を行い、事態収拾が付かなくなったため、ホームチームであるタイガースに責任があるとして没収試合となった。この騒動で藤村は出場停止20日制裁金5万円、松木謙治郎監督は出場停止5日制裁金3万円の処分を受けた。
- 2度目は1967年9月23日、地元甲子園に大洋を迎えた試合。1回表に大洋が3点を奪い、なお2死満塁で森中千香良を打席に迎える。2ナッシングからジーン・バッキーの投げた3球目を森中は空振りし、捕手の和田徹がショートバウンドで捕球し森中にタッチしようとしたが、森中はベンチに引き上げようとしていたため「1塁に行く意思がない」と判断。森中にタッチ、ホームベースを踏む、1塁送球のいずれも行わずにボールをマウンドに転がしてベンチに引き上げた。これを見た大洋ベンチは森中に1塁に走るよう、また3塁走者の松原誠には本塁突入を指示。松原が生還したことで大洋に追加点が入った。
ここで大谷泰司球審が阪神ベンチへ行き、藤本定義監督に「今のは3ストライクのジェスチャーで、アウトの成立ではない」と説明(この場面では振り逃げが成立するため、スリーストライクをとられた時点ではアウトとならない)し、阪神ナインに再び守備につくように命じた。これに対し藤本は「スリーアウトと言ったから和田は引き上げた」と反論し、後藤次男・山田伝両コーチを交えて抗議。その際に大谷の胸を何度か突いた。33分の中断後、大谷が「暴行を働いた藤本監督を退場させることを条件に試合を再開する」と説明したが、これに対し阪神側の態度が再び硬化。その後も阪神ナインは守備につくのを拒否し続けたため、放棄試合が成立した。 - 2005年9月7日にも対中日戦(ナゴヤドーム)で岡田彰布監督が審判の判定に不服を申し立て、放棄試合になりかけた試合があった。
3-1で迎えた9回裏・無死2・3塁の場面で、谷繁元信が2塁ゴロを放った。2塁手の関本健太郎がバックホームしたが判定はセーフとなり、3塁走者のアレックス・オチョアが生還。これに対して岡田監督がベンチを飛び出して猛抗議、選手をベンチに引き上げさせてしまった。その際に、橘高淳主審に暴力行為を振るおうとした岡田監督を止めに入った平田勝男ヘッドコーチが橘高を突く形になり退場処分を受けた。結局、18分の中断の後に試合が再開された。この後、延長11回中村豊のホームランで阪神が勝ち越し勝利を収めた。
佐野事件[編集]
- 1977年4月29日、川崎球場での大洋戦で起きた事故。阪神が7-6とリードした9回裏1死1塁で、大洋の清水透が打った大飛球を左翼手の佐野仙好がフェンスに激突しながら好捕した。しかし、当時の川崎球場のフェンスはコンクリートが剥き出しだったため、佐野は頭蓋骨を陥没骨折して、ボールを捕球したままうずくまった。捕球を確認してレフト線審の田中俊幸はアウトを宣告したうえで担架を要請するしぐさを行った。佐野の目は剥いており、ただ事ではないと思った中堅手池辺巌も外野から同様の合図をしたため(重傷者が出たのだから当然ボールデッドになるものと思っていた)選手、コーチが心配して佐野に駆け寄った。その間に、一塁走者の野口善男がタッチアップして本塁に到達し、7-7の同点となった。これに対し、吉田義男監督は「突発事故の発生によりタイムが宣告されるケースだから得点は認められない」と田中線審に抗議したが、審判団は「守備側プレーヤーの負傷ではプレー中にタイムを宣告することができない」として抗議を退けた。結局、吉田監督は提訴試合とすることを条件に試合再開を認め試合は時間切れのため7-7の引き分けに終わった。提訴を受けたリーグはこの件は規則に定められた突発事故に当たらないと結論づけ阪神の提訴は取り下げられた。
- 野球規則5.10(c)には「突発事故によりプレーヤーがプレイできなくなるか、あるいは審判員がその職務を果たせなくなった場合(球審は"タイム"を宣告しなければならない)」とある。しかし同時に、同5.10(h)に「審判員はプレイの進行中に、"タイム"を宣告してはならない。ただし、本条(b)項、 または(c)項の〔付記〕に該当するときは、この限りではない」となっている。(b)項は「ライトの故障のために、審判員がプレイを見るのに困難となるか不可能となった場合」であり付記もライト故障に準じるもののである。(c)項付記は「プレイングフィールド外への本塁打、または死球の場合のように、一個またはそれ以上の安全進塁権が認められた場合、走者が不慮の事故のために、その安全進塁権を行使することが出来なくなったときは、その場から控えのプレーヤーに代走させる事ができる。」という攻撃側の突発事故を想定したものとなっている。つまり審判が試合中にタイムをかけられるのはこの2つに限られており佐野負傷という守備側に問題が発生した状況は野球規則上に書かれている審判がタイムをかけられる状況ではなく、タイムを宣告しなかったのは規則に則った正しい処置であった、と結論付けられた。
- しかしながら規則上は正しい処置ではあったとしても人道上の問題ありとして規則が再検討され、人命に関わるような事態の場合にはプレイ中であっても審判がタイムを宣告できるように内規が定められた。この事件以降、川崎球場をはじめとしたフェンスが剥き出しになっていた球場は安全のためにラバーを張ることとなった。なお、佐野はグラウンド内に乗り入れた救急車で病院へと運ばれて一命をとりとめ、その後復帰し、85年の優勝にも貢献した。現在はスカウトとして阪神で活躍している。
前年Aクラス時の開幕戦[編集]
長期ロードは本拠地が「高校野球の聖地」であるが故のタイガースにとっては辛い風物詩だが、前年(2003年以降は前々年)Aクラスに入り本拠地開幕権を得ても、甲子園で開幕を迎えられない。
選抜高等学校野球大会は毎年3月下旬から4月上旬まで甲子園で行われるが、セントラル・リーグの開幕がこの時期になると当然甲子園でのプロ野球開催が不可能になってしまう。従ってこの間に第1節が設定されてしまうと地元開催ができなくなるわけで、実際に選抜が行われている時期に第1節が設定されると開幕を地元で迎えられなくなる。そのような場合の対処法として、以下の4つのパターンがあった(フランチャイズ制が確立し、現行の6球団制となった1953年以降、大阪ドームで開幕戦を行った2005年以前に絞る。なお2002年はFIFAワールドカップ日韓大会対策の特例処置だったが、阪神はビジター開幕。2003年以後、新シーズン開幕のホーム開催権利は2年前のリーグ戦上位3球団に与えられる)。
- 前年Bクラスチームの本拠地で開幕を迎える
- 前年Aクラスチームの本拠地で開幕を迎える
- 地方球場での主催ゲームで開幕を迎える
- 地方球場でのビジター試合で開幕戦を迎える
こういう事態が考えられるから、かつては連盟が阪神に配慮して第1節を選抜開幕前、もしくは終了後に設定したというケースがあったが、開幕前は1956年のみ(対戦相手は広島)で、それ以外のケースはすべて終了後。すなわち配慮を得られない限り阪神の地元開幕は無理というわけであり、これが高校野球の聖地を本拠にするが故の悲しい風物詩と呼ばれる所以である。
2005年・2007年は大阪ドーム(京セラドーム大阪)で開催したが、オリックス・バファローズの専用球場の使用権も絡んでいるため2008年以降が注目される。
道頓堀[編集]
大阪市を流れる川の名前。21年ぶりのリーグ優勝が決まった1985年10月16日、道頓堀川では熱狂的なタイガースファンが優勝を祝って夜中にもかかわらず戎橋の橋梁から飛び込む姿が相次ぎ注目を浴びた。更に2003年、18年ぶりのリーグ優勝を決めた際にも5300人を越すファンが戎橋から道頓堀川に飛び込み、うち1人が溺死、遺体で発見されるという事件が起きた。そのため2005年には大阪市と大阪府警察本部などが対策をとり、その結果飛び込みがなくなることはなかったが少数にとどめる事ができた。
ただし、道頓堀と甲子園球場はかなり離れており、少なくとも徒歩で移動できるような距離ではない。道頓堀は、甲子園球場へのアクセスである阪神電車のターミナル・梅田駅のあるキタではなく、南海ホークスの本拠地であった大阪球場や、大阪近鉄バファローズの本拠地であった大阪ドームに近いミナミに位置する。
「阪神優勝」のロゴ商標問題[編集]
- 2003年、18年ぶりのリーグ優勝で大きく話題になった際、「阪神優勝」のロゴを千葉県在住の男性が登録商標届出を出し、Tシャツや靴下などの商品を全国量販店などに発売した。しかし、これが阪神タイガース球団から商標権侵害となる恐れがあるとして係争となった。当初男性は「阪神地区の優勝の意味」と主張したが、同年末、特許庁は商標を無効とする判断をした。(なお、この男性は同時に「巨人優勝」の登録商標を申請したが即座に却下されたと言う。)
JFK[編集]
阪神タイガースにおいては、左投手のジェフ・ウィリアムス、右投手の藤川球児の2人のセットアッパーと、守護神久保田智之の3名のことを指す。2005年優勝への原動力の一つとなった。 なお2007年現在は、久保田智之とジェフ・ウィリアムスがセットアッパー、藤川球児がクローザーという順番になっている。
村上ファンドと阪神電鉄の阪急との経営統合[編集]
- 2005年の優勝フィーバーの裏で、親企業・阪神電鉄の株式を村上世彰率いる投資会社「MACアセットマネージメント」(通称・村上ファンド)が買い増しし、同電鉄の筆頭株主になった。
- 村上ファンド側は「既成権力に立ち向かう反骨精神や関西人の気骨がグループ全体に影響をもたらすだろう」として、当球団の株式上場を提案。
- これに星野仙一シニアディレクターは「タイガースはファンのもの」だと反論し、更に牧田俊洋球団代表も株式上場の計画がないことを公言。
- これを受けて10月11日に行われた村上と阪神電鉄・西川恭爾社長とのトップ会談後に、村上は「(タイガースの株式上場は)ファンの意見を聴いた上で考慮したい」と発表。だが、その2日後の13日に東京放送(TBS)の株式7%を購入したことまで発覚し、更に事態は急転している。
- 楽天はTBSに共同持株会社の設立を提案しているが、既に両企業はそれぞれにプロ野球チーム(TBSが横浜ベイスターズ、楽天が楽天イーグルス)を保有しており、村上ファンドも阪神電鉄(阪神タイガース親会社)・TBS(横浜ベイスターズ親会社)・西武鉄道(西武ライオンズ親会社)の株式を保有していることから、結果的には複数のプロ野球チームを保有してしまうことになるため、野球協約で定められた「1企業(関連企業含む)の複数のプロ野球チーム経営の禁止」に抵触する恐れがあり、場合によっては球界再々編の可能性もありうる。この協約抵触問題はすでにフジサンケイグループ内での複数球団の株式保有問題(フジテレビが東京ヤクルトスワローズの、ニッポン放送が横浜ベイスターズの株式を保有している。詳細は両球団の項目参照)が前々からあった他、さらに村上ファンドに出資している企業の一つにオリックス(オリックス・バファローズ親会社)があげられていることから、事態は一層混沌化している。
- この騒動で村上側を支持したファンは少なく、マスコミもマンチェスター・ユナイテッドなどの例を出して、スポーツチームの株式上場に否定的であった。実質的に村上はタイガースファンを敵に回した形であった。
- その後、村上ファンドはインサイダー取引容疑の発覚により解散した。
- この結果に「村上が捕まったのは阪神電鉄買収騒動で警視庁内部のタイガースファンを敵に回したからだ」というジョークが広まった。
- その後2006年6月19日に阪急電鉄グループの持株会社・阪急ホールディングス(現:阪急阪神ホールディングス)がTOBにより阪急・阪神の経営統合が事実上決定した(この経緯は阪急・阪神経営統合参照)。その結果、阪神電鉄を子会社化し阪神タイガースの経営権を獲得。経営統合の話し合いの中で、タイガースに関しては「阪神タイガース」のままで存続させることにしたものの、7月5日に行われたプロ野球オーナー会議において西武と広島以外の賛成で、経営譲渡(表面上、阪神電鉄から阪急阪神ホールディングスに経営スポンサーが変更される)と見なされ、阪急ホールディングス(当時)は加盟料30億円の支払いを課されることとなった。しかしこの決定には十分な論議がなされておらず、阪神側はこの対応を不服として減免措置を含め再検討を要求した。この結果、同年11月14日に加盟手数料1億円を除く29億円を免除することがオーナー会議で決定され、12月中に正式決定した。
交流戦専用ユニフォーム[編集]
- 2005年から日本版インターリーグ(交流戦)が開始された事を受けて、タイガースではこの期間中に限り、専用ユニフォームを着用してゲームを行っている。これは交流戦が開始された2005年が球団創立70周年という記念の年に当たる事、また綱島理友が1999年から2004年まで週刊ベースボールで連載していた「ユニフォーム物語」で歴代のユニフォームが紹介され、それによって「オールドユニフォームを着て闘う選手の姿が見てみたい」というファンの声が高まった事、さらに岡田彰布監督の「交流戦では普段見られないものを見せるべきだ」という考えが一致したことに起因する。
- 2005年はホーム用のみ過去のデザインを復刻させた“復刻版ユニフォーム”を専用ユニフォームとして使用。縦縞に黄色と黒色の縁取りを施した、1979年~1981年までのモデルを採用した。ビジターでは復刻版ユニフォームは着用せず、通常のビジター用ユニフォームで試合を行っている。
- 2006年は「縦縞をビジターでも見てみたい」というファンからの要望が多かったため、2005年度に使用した復刻版ユニフォームをビジターの試合で着用した。ホームでは逆に、同時期(1979年~1983年)にビジターで着用していた水色地のモデルを使用。従って、ホームゲームでは結果的に「ビジターvsビジター」、ビジターゲームでは「ホームvsホーム」という趣で行われた(東北楽天ゴールデンイーグルス・カラーユニフォーム対決の項を参照)。
- 2007年の交流戦用ユニフォームは復刻版ではなく、服飾デザイナーのコシノヒロコがユニフォームをデザイン。70年以上一度も変更されることの無かった胸のロゴデザインが改められ筆記体となり、背番号は彼女がかつて手がけた近鉄のユニフォームと同じ書体になった。どちらも文字色は黄色であり、ホーム用・ビジター用共に同じものを用いている。藤井寺時代の近鉄と同じラグランスタイルが採用されており、ホーム用は白地に黒の縦縞、ビジター用は黒地に黄色の縦縞が入っている。ラグランスリーブは共に黒で、黄色のラインが配されていた。
関連項目[編集]
- 阪神ファン
- 阪神タイガースの選手一覧
- 阪神タイガース歴代4番打者一覧
- 阪神タイガース主催試合の地方球場一覧
- 死のロード
- オール阪神・巨人
- オール阪神
- オール巨人
- 尼崎中央・三和・出屋敷商店街
- 阪神電鉄バス
- 男どアホウ甲子園
- ホームゲーム中継制作局
- ビジターゲーム中継制作局
- 地元ケーブルテレビ局
- ベイ・コミュニケーションズ(オリジナル番組制作)
検定
- タイガース検定:12球団初の球団公認の検定試験。
ゲームキューブ。2003年に優勝モデル発売された
外部リンク[編集]
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