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** [[7月15日]] 第2夜祭 | ** [[7月15日]] 第2夜祭 | ||
** [[7月16日]] 第3夜祭 | ** [[7月16日]] 第3夜祭 | ||
− | :: [[8月15日]] | + | :: [[8月15日]]は大東亜戦争の[[終戦記念日]]であるが、『終戦』そのものは神社にとって特別な意味を持たないため、特定の行事は行われていない。しかし年間を通して最も多くの参拝者があり、靖国神社支援団体等による式典や英霊の遺族・戦友他、大臣・政治家の参拝も行わる。靖国では一年間で最も注目される日である。 |
* [[10月17日]] 神宮神嘗祭遥拝式 | * [[10月17日]] 神宮神嘗祭遥拝式 | ||
* 10月17日 - 20日 秋季例大祭 | * 10月17日 - 20日 秋季例大祭 | ||
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* [[1931年]]([[昭和]]6)3月 : 福羽家の招魂祠を元宮として境内に移動。 | * [[1931年]]([[昭和]]6)3月 : 福羽家の招魂祠を元宮として境内に移動。 | ||
* [[1938年]](昭和13)4月 : 新招魂斎庭、造営。 | * [[1938年]](昭和13)4月 : 新招魂斎庭、造営。 | ||
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* 1945年(昭和20)10月 : [[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]、靖国神社存続を決定。 | * 1945年(昭和20)10月 : [[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]、靖国神社存続を決定。 | ||
* 1945年(昭和20)11月19日 : 臨時大招魂祭 | * 1945年(昭和20)11月19日 : 臨時大招魂祭 | ||
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− | [[大東亜戦争]] | + | [[大東亜戦争]][[戦後]]60年にあたる2005年[[8月15日]]、靖国神社境内では様々な催しが行われた。午前9時からは[[英霊にこたえる会]]主催の「第30回全国戦没者慰霊大祭」が拝殿にて行われた。その後、午前10時より能楽堂前にて「日本の声-英霊に感謝する集い」が行われ、放鳩式が開催された。 |
また、神社外苑では午前10時30分より「戦後60年国民の集い」(主催[[みんなで靖国神社に参拝する国民の会]]・[[日本会議]]・[[英霊にこたえる会]]、2部構成)が行われた。第1部の「第19回戦没者追悼中央国民集会」は毎年開催されており、[[国学院大学]][[教授]]大原康男の司会による開会の辞の後、国歌斉唱・靖国神社拝礼が行われた。その後、1945年8月15日正午に放送された「[[玉音放送|終戦の詔書]]」いわゆる「玉音放送」を聴き、主催者の挨拶が行われた。そして、「各界からの提言」として当時は[[自由民主党 (日本)|自由民主党]](当時)[[衆議院]]議員の[[平沼赳夫]]、[[埼玉大学]]教授の[[長谷川三千子]]、[[ノンフィクション作家]]の[[クライン孝子]]、小野田自然塾理事長の[[小野田寛郎]]が提言を行った。正午の時報とともに戦没者への黙祷を行い、政府主催の[[全国戦没者追悼式]]の実況放送から天皇の言葉を聴いた。その後、同年6月27日~6月28日に行われた[[明仁|今上天皇]]と[[美智子 (皇室)|美智子皇后]]の[[サイパン島|サイパン]]行幸啓の報告等がなされ、最後に「海ゆかば」を斉唱し、第1部は終了した。 | また、神社外苑では午前10時30分より「戦後60年国民の集い」(主催[[みんなで靖国神社に参拝する国民の会]]・[[日本会議]]・[[英霊にこたえる会]]、2部構成)が行われた。第1部の「第19回戦没者追悼中央国民集会」は毎年開催されており、[[国学院大学]][[教授]]大原康男の司会による開会の辞の後、国歌斉唱・靖国神社拝礼が行われた。その後、1945年8月15日正午に放送された「[[玉音放送|終戦の詔書]]」いわゆる「玉音放送」を聴き、主催者の挨拶が行われた。そして、「各界からの提言」として当時は[[自由民主党 (日本)|自由民主党]](当時)[[衆議院]]議員の[[平沼赳夫]]、[[埼玉大学]]教授の[[長谷川三千子]]、[[ノンフィクション作家]]の[[クライン孝子]]、小野田自然塾理事長の[[小野田寛郎]]が提言を行った。正午の時報とともに戦没者への黙祷を行い、政府主催の[[全国戦没者追悼式]]の実況放送から天皇の言葉を聴いた。その後、同年6月27日~6月28日に行われた[[明仁|今上天皇]]と[[美智子 (皇室)|美智子皇后]]の[[サイパン島|サイパン]]行幸啓の報告等がなされ、最後に「海ゆかば」を斉唱し、第1部は終了した。 | ||
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* [http://www.kantei.go.jp/jp/singi/tuitou/index.html 追悼・平和祈念のための記念碑等施設の在り方を考える懇談会] | * [http://www.kantei.go.jp/jp/singi/tuitou/index.html 追悼・平和祈念のための記念碑等施設の在り方を考える懇談会] | ||
* [http://www.sankei.co.jp/pr/seiron/koukoku/2003/0309/ronbun1-1.html 靖国特集 靖国を訴えた台湾の女性国会議員の背後関係] | * [http://www.sankei.co.jp/pr/seiron/koukoku/2003/0309/ronbun1-1.html 靖国特集 靖国を訴えた台湾の女性国会議員の背後関係] | ||
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2020年1月12日 (日) 20:08時点における最新版
靖国神社(靖國神社、やすくにじんじゃ)は、東京都千代田区にある神社である。
近代以降の日本が関係した国内外の事変・戦争において、朝廷側及び日本政府側で戦役に付し、戦没した軍人・軍属等を、顕彰・崇敬等の目的で祭神として祀る神社である。現在の宮司は南部利昭。
単一宗教法人であり、神社本庁には加盟していない単立神社である。東京の九段に鎮座する事から、単に「九段」あるいは「九段下」などと通称される事も多い。桜の名所としても知られる。
靖国神社
Yasukuni Jinja | |
創建 | 明治2年(1869年) |
所在地 | 東京都千代田区九段北三丁目1番1号 |
主祭神 | 護国の英霊 246万6532柱 |
社格等 | 別格官幣社・勅祭社 |
本殿の様式 | 神明造 |
例祭 | 4月21日~23日 10月17日~20日 |
外部リンク | 靖国神社 公式サイト |
目次
基本情報[編集]
- 摂末社 : 元宮、鎮霊社
- その他施設 : 遊就館(宝物遺品館)、靖国偕行文庫など
- 創建建築設計実務者:伊東忠太
- 最寄り駅: 東京地下鉄(東京メトロ)半蔵門線/東西線、東京都交通局(都営地下鉄)新宿線「九段下駅」下車「1番出口」より徒歩1分。
社名の由来[編集]
神社の名は『春秋左氏伝』第六巻僖公二十三年秋条の「吾以靖国也」(吾以つて国を靖んずるなり)を典拠として明治天皇が命名したものである。靖国神社自身は正字体で靖國神社(靖の旁の青の下部が円、国は旧字)と表記している。
沿革[編集]
- 明治2年6月29日(新暦1869年8月6日)に戊辰戦争での朝廷方戦死者を慰霊するため、大村益次郎の献策により東京招魂社(とうきょうしょうこんしゃ)として創建された。
- 1879年に「靖国神社」に改称。同時に別格官幣社となった。戦前においては神社行政を総括した内務省ではなく、陸軍省および海軍省によって共同管理される特殊な存在であり、国家神道の象徴として捉えられていた。
- 戦後は政教分離政策の推進により宗教法人となり、日本政府との直接的な関係はないとされている。一方で1961年、遊就館(当時「宝物遺品館」)に展示するBC級戦犯の遺書や顔写真の収集について、厚生省が遺族に出品を依頼、神社に便宜を図っていた事が2006年7月に発覚。
歴代宮司[編集]
- 青山清:1879年(明治12年)6月16日 - 1891年(明治24年)2月6日(在職中に死去)
- 賀茂水穂:1891年(明治24年)2月17日 - 1909年(明治42年)4月28日
- 賀茂百樹:1909年(明治42年)3月29日 - 1938年(昭和13年)4月21日
- 鈴木孝雄:1938年(昭和13年)4月21日 - 1946年(昭和21年)1月17日
- 筑波藤麿:1946年(昭和21年)1月25日 - 1978年(昭和53年)3月20日(在職中に死去)
- 松平永芳:1978年(昭和53年)7月1日 - 1992年(平成4年)3月31日
- 大野俊康:1992年(平成4年)4月1日 - 1997年(平成9年)5月20日
- 湯沢貞:1997年(平成9年)5月21日 - 2004年(平成16年)9月10日
- 南部利昭:2004年(平成16年)9月11日 -
祭神[編集]
靖国神社本殿に祀られている「祭神」は神話に登場する神や天皇などではなく、「日本の為に命を捧げた」戦没者、英霊(英でた霊)であり、246万6532柱(2004年10月17日現在)が祀られている。国籍は日本国民及び死亡時に日本国民であった人(日本領であった台湾・朝鮮半島などの出身者を含む)に限られている。
祭神・合祀に関する内規[編集]
靖国神社は、合祀について以下の規定がある。(2004年10月17日現在)
合祀対象者[編集]
軍人・軍属[編集]
- 戦地、事変地、および終戦後の各外地に於いて、戦死、戦傷死、戦病死した者。
- 戦地、事変地、および終戦後の各外地に於いて、公務に基因して受傷罹病し、内地に帰還療養中に受傷罹病が原因により死亡した者。
- 満州事変以降、内地勤務中公務のため、受傷罹病し、受傷罹病が原因で死亡した者。
- サンフランシスコ講和条約第11条により死亡した者(戦争裁判受刑者で、ABC級に関わらず死刑になった者。政府では「法務死者」、靖国神社では「昭和殉難者」という)。
- 「未帰還者に関する特別措置法」による戦時死亡宣告により、公務上、負傷や疾病にかかり、それが原因で死亡したとみなされた者。
準軍属およびその他[編集]
- 軍の要請に基づいて戦闘に参加し、当該戦闘に基づく負傷または疾病により死亡した者。(満州開拓団員・満州開拓青年義勇隊員・沖縄県一般邦人・南方および満州開発要員・洋上魚漁監視員)
- 特別未帰還者の死没者。(ソビエト連邦・樺太・満州・中国に抑留中、死亡した者・戦時死亡宣告により死亡とみなされた者)
- 国家総動員法に基づく徴用または協力者中の死没者。(学徒・徴用工・女子挺身隊員・報国隊員・日本赤十字社救護看護婦)
- 船舶運営会の運航する船舶の乗務員で死亡した者。
- 国民義勇隊員で、その業務に従事中に死亡した者。(学域組織隊・地域組織隊・職域組織隊)
- 旧防空法により防空従事中の警防団員。
- 交換船沈没により死亡した乗員。(つまり、「阿波丸事件」のことを指す。)
- 沖縄の疎開学童死没者。(つまり、「対馬丸」のことを指す。)
- 外務省等職員。(関東局職員・朝鮮総督府職員・台湾総督府職員・樺太庁職員。)
合祀手順[編集]
戦前[編集]
戦前は、靖国神社への合祀は陸海軍の審査で内定し、天皇の勅許を経て決定された。合祀祭に天皇が祭主として出席した時期もあり、合祀は死者・遺族にとって最大の名誉であると考えられることが多かった。 敗戦により、靖国神社は一宗教法人化、また陸海軍は廃止されたため、この合祀制度は消滅した。
戦後[編集]
戦後になると合祀制度は形を改めたが、1952年当時には未合祀の戦没者が約200万人に上り、遺族や元軍人を中心に「合祀促進運動」が起こった。
これに対応するため、1956年に厚生省(当時)が定めた新しい合祀手順は次の通りである。
- 厚生省引揚援護局が各都道府県に対し「靖国神社合祀事務協力」という通知を出す。
- 各都道府県は、1953年8月に成立の恩給法と戦傷病者戦没者遺族等援護法で「公務死」と認められた者を「合祀予定者」と選び、厚生省引揚援護局に提出する。
- その名簿を厚生省から靖国神社に送付する。
- 靖国神社にて、名簿により合祀する。
なお合祀に関しては、本人・遺族の意向は基本的に考慮されておらず、神社側の判断のみで行われている。このため、キリスト教信者や特に海外出身の被祀者について遺族が不満を抱く事例がまま見られ、中には裁判に至っているものもある。ただし、現在(70年代以降?)の公務殉職者の遺族に対しては「合祀可否の問い合わせ」をしており、回答期限内に「拒否」の回答がない場合に限って合祀している。
被祀者の遺骨・位牌などはなく、霊璽簿に氏名を記入し、合祀祭を行うことで、「御霊(みたま)」を招来して祀っている。祭神であるという理由から「柱(はしら)」という単位で数える。
祭神の内訳[編集]
祭神は2004年10月17日現在、以下のようになっている。
- 戊辰戦争・明治維新 : 7751柱
- 新政府軍側のみ、遊就館の靖国の神々の一覧表では「明治維新」のみ。
- 西南戦争 : 6971柱
- 政府軍側のみ。
- 台湾出兵 : 1130柱
- 遊就館の靖国の神々の一覧表では、「台湾討伐」とある。
- 壬午事変 : 14柱[1]
- 江華島事件 2柱[2]
- 京城事変 6柱[3]
(遊就館の「靖国の神々の一覧表」では、壬午事変、江華島事件、京城事変はなぜか一覧表にない)
- 日清戦争 : 1万3619柱
- 義和団事件 : 1256柱(遊就館の「靖国の神々」の一覧表では、「北清事変」とある)
- 日露戦争 : 8万8429柱
- 第一次世界大戦 : 4850柱
- 済南事件 : 185柱
- 中村大尉事件外19柱[4]
- 満州事変 : 1万7176柱
- 支那事変 : 19万1250柱
- 大東亜戦争 : 213万3915柱
- 計 : 246万6532柱
幕末から明治期[編集]
- 戊辰戦争の新政府軍側の戦没者を祀ったことが靖国神社の起源だが、幕末の吉田松陰、坂本龍馬、高杉晋作、中岡慎太郎、武市半平太、橋本左内、大村益次郎なども、『維新殉難者』として合祀した。これは、合祀対象の基準を、黒船来航までさかのぼって設けたため。
- 戊辰戦争で幕府側で戦った会津藩をはじめとする諸藩兵や、新選組や彰義隊などの旧幕臣の戦死者は祀らない。
- ただし禁門の変で長州勢との戦いで戦死した会津藩兵らは、朝廷(天皇)を守護したとして祀る。
- 明治維新の功労者でも、その後に反乱を起こし、あるいは反乱に加担した西郷隆盛や江藤新平、前原一誠等は祀られていない。また、慶応四年(1868年)二月十五日に土佐の隊旗を奪ったフランス人水兵を殺害した土佐藩士の内、堺の妙国寺で切腹をした11人も祀る。
- 明治期の著名な軍人では乃木希典や東郷平八郎も、戦時の死没者でないため祀らない。
女性[編集]
- 5万7千余柱を祀る。西南戦争、日清戦争、日露戦争、大東亜戦争における軍病院、病院船の従軍・救護看護婦などである。沖縄戦での「ひめゆり」「白梅」等の7女学校の生徒、北のひめゆり事件の女性[5]などを含む。
学童[編集]
- 学徒動員中に軍需工場で爆死した学徒。輸送船「対馬丸」で沖縄から鹿児島への学童疎開中に敵潜水艦により撃沈された小学校児童達も祀る。
戦後の合祀[編集]
- シベリア抑留等での死者、戦争終了後に自決した者
- いわゆるA級戦犯とされ刑死した者、BC級戦犯として刑死した者。(『昭和殉難者』として祀る)
- なお戦後に殉職した自衛官、海上保安官、政府職員などに関しては祀らない(各県の護国神社では祀るケースもある)。
鎮霊社の祭神[編集]
- 1965年に筑波藤麿宮司の発案で、拝殿に向かって左奥に「鎮霊社」という小さな社が建てられた。嘉永6(1853)年以降の戦争・事変について、本殿においては合祀対象外となった御霊と、諸外国の戦没者の御霊の二座を祀る。毎朝神職によって御饌祭が奉仕されている。
- 靖国神社では、「鎮霊社の御祭神は奉慰の対象だが、御本殿の御祭神は奉慰顕彰の対象」とする。
今日の靖国神社[編集]
年中行事[編集]
毎月1, 11, 21日は月次祭。永代神楽祭は毎日(戦没者ゆかりの日)。
- 1月1日 新年祭
- 1月7日 昭和天皇武蔵野陵遥拝式
- 1月30日 孝明天皇後月輪東山陵遥拝式
- 2月11日 建国記念祭
- 2月17日 祈年祭
- 4月21日 - 23日 春季例大祭
- 4月29日 昭和祭
- 6月29日 御創立記念日祭・献詠披講式
- 7月13日 - 16日 みたままつり
- 10月17日 神宮神嘗祭遥拝式
- 10月17日 - 20日 秋季例大祭
- 11月3日 明治祭
- 11月23日 新嘗祭
- 12月23日 天皇御誕辰奉祝祭
- 12月25日 大正天皇多摩陵遥拝式・煤拂式
- 12月31日 除夜祭・大祓式
靖国神社の1日[編集]
- 6:00・・・拝殿にある大太鼓が21回打たれて、菊の紋章が付いた神門が開けられる。
- 8:00・・・神職が神様の食事を供える。
- 9:00・・・「朝拝」:大太鼓が打たれ、全ての職員が拝殿に集合し行われる。全員で「大祓詞」を唱え、天皇が詠んだ和歌を朗詠し、英霊に拝礼する。
- 14:00・・・「永代神楽祭」:その日が命日とされる英霊の為に巫女が神楽を奉奏する。
- 15:00・・・神職が祭神に食事を供える。
- 19:00・・・神社の全ての門が閉じられる。
組織[編集]
靖国神社は、神社本庁発足の時点より神社本庁に属していない。これは、「靖国神社は日本国の護持の神社であり、いつかは国に返すべきなので、特定の宗教法人の包括下に入るべきではない」という靖国神社・神社本庁双方の判断により、神社本庁ほかの包括宗教法人に属さない単立神社となったものである。このような経緯のため、靖国神社と神社本庁とは包括・被包括の関係にないながらも密接な協調関係を保っており、例えば神社本庁は靖国神社崇敬奉賛会の法人会員となっている。神社本庁に属さない神社であるため、宮司ほかの神職は、必ずしも神社本庁の神職の資格を持った人物である必要はない。実際、六代目の松平宮司はもともと神職ではなかった。この場合、祭式などの研修をまず受ける事になる。
内部組織[編集]
靖国神社では2005年1月現在、総勢108人が靖国神社で働いている。
- 役職・部署
- 宮司
- 権宮司
- 祭務部
- 祭儀課
- 調査課
- 総務部
- 総務課
- 人事課
- 管理課
- 広報課
- 文庫室
- 宣徳部
- 崇敬奉賛課
- 宣徳課
- 経理部
- 経理課
- 事業課
- 遊就館部
- 史料課
- 展示課
- 社務実習生
施設・建造物[編集]
(九段下駅方面から)
- 「靖國神社」社号標
- 大鳥居(第一鳥居)
- 1974年完成した、鋼管製の鳥居。柱の高さが約25メートル、笠木(上の横木)の長さは約34メートルあり、重量は100トン。震度7の地震や、風速80メートルの強風でも壊れないと言われている。
- 大鳥居近くにある
- 赤い石
- 大鳥居近くにある
- 戦跡の石
- 慰霊の泉
- 戦場で水がなくて苦しんだ御霊に対し、水を捧げるために作られた記念碑。東京キワニスクラブが、1967年に奉納した。
- 大燈籠
- 大手水舎
- 1940年、アメリカで暮らしていた日本人が奉納したもの。
- 白鳩鳩舎
- 平和の象徴である「白鳩」を育てている。神門脇にある。
- 第二鳥居
- 神門
- 斉館社務所
- 能楽堂
- 拝殿
- 1901年に建築された。尚、普通の日の拝殿には「白色」の幕が掛かっているが、団体参拝の時や祭日は「紫色」の幕となる。
- 本殿
- 1872年に尾張の伊藤平左衛門設計の下に造られた。1989年に当時の姿に復元されたもの。
- 霊璽簿奉安殿
- 霊璽簿(御霊の名を記してある簿)を保管する場所。1972年に建てられた。
- 元宮
- 幕末期に京都で造られた小祠を、1931年に靖国神社に奉納したもの。一般参拝可能。
- 鎮霊社
- 1965年建立。靖国神社本殿に祀られていない霊と、諸外国の戦死者や戦争で亡くなった人の霊が祀られている。一般には公開されておらず、参拝もできない状態が長く続いていた。2006年10月12日に拝殿脇から参道が設けられ、元宮と共に一般参拝が可能になった。
- 南門
- 軍犬慰霊像
- 戦場で死んだ軍犬の霊を慰撫するため、1992年3月に奉納された。
- 戦没馬慰霊像
- 戦場で死んだ軍馬の霊を慰撫するため、1958年に奉納された。
- 鳩魂塔
- 通信に使われた伝書鳩の霊を慰撫するため、1982年に奉納された。
- 母の像
- 戦争で父を亡くした母が子供を育ててくれた事に感謝し、1974年に建てられた。
- 靖国会館(旧「国防館」)
- 1階は休憩所と図書館「靖国偕行文庫」がある。
- 遊就館(博物館)
- 神池庭園
- 明治初期に造られ、1999年10月に整備・復元作業が行われた。
- 相撲場
- 春の例大祭に、全力士が奉納相撲を行う場所。
- 招魂斎庭(跡)
- 招魂斎庭は例大祭に合祀を行なう時に最初に神霊を招ぎ下ろす祭壇である。その重要性にも拘らず、現在その殆どを駐車場にしてしまい、一部からは批判されている。
神社の収入[編集]
年間予算は20億円を越えるが、全て戦没者遺族、戦友などからの奉納金などで維持・運営されている。これは戦前も同様であり、国家からは全ての神社に与えられた名目的な補助金以外に金銭的支援はなかった。更に、大鳥居を金属徴用されるなど国家総動員体制に組み込まれており、一般に言われるような他の神社との区別は一切なかったことが分かる。
近年では遺族会に代表される戦争世代が亡くなり続けている為、主要な収入源である大口の寄付も減少し続けており、財政難に陥っている。
靖国神社問題でマスコミから注目を浴びている為、近年の一般参拝者は増加しており、参拝者数は年間約600万人で、終戦記念日である8月15日の1日で20万人に上るが、財政難を解消するほどの収益にはなっていない。
靖国神社が描かれた郵便切手[編集]
靖国神社を描いた郵便切手は、これまで4種類発行されている。
- 17銭切手(1943年2月21日発行:普通切手)
- 7銭切手(1944年6月29日発行:鎮座75周年記念切手)
- 27銭切手(1945年2月2日発行:普通切手)
- 1円切手(1946年3月ごろ発行:普通切手)
戦争が激化したごろから発行された切手であったが、最後の1円切手のみはデザインする暇がなかったため、戦時中に計画されたものが戦後になって発行された。しかし1947年に在庫が無かった7銭記念切手を除く3種がGHQによって使用禁止された。
正式参拝[編集]
正式参拝は神道の作法で行われるのが正しい。参集所から参入し、手水を取り、修祓(しゅばつ)を受けて本殿に昇り、玉串を奉げる。その後、二礼二拍手一礼し、退出の時に、御神酒を受け取る。社頭参拝は、鳥居をくぐり、手水を取り、拝殿前で二礼二拍手一礼をする。
なお、首相が参拝する時には、日本国憲法第20条で規定された政教分離(特定の宗教の流儀を実行すると国家がその宗教に援助を与えているとみなされる虞がある)に反する虞があるため、本殿に昇殿はしても二礼二拍手一礼を行わない場合がある。
桜の名所[編集]
境内は東京都内でも有数の桜の名所である。そのため毎年3月下旬から4月上旬にかけて多くの花見客で混雑し、屋台も多数出店されている。このように桜が境内に多く植えられるのは、散華した兵士を象徴であるとの指摘もある。
気象庁は境内にある3本のソメイヨシノを、東京都で桜の開花日を決定する標準木として指定している。そのため東京都の“桜の開花宣言”はこの標準木が咲いた時に行われている。
歴史[編集]
年表[編集]
<>内は関連事項。
- 1862年(文久2)12月 : <京都霊山で殉難志士の招魂祭が初めて行なわれる。>
- 1868年(慶応4/明治1)1月 : <戊辰戦争。1869年5月まで>
- 1868年(慶応4/明治1)閏4月20日 : 東海道先鋒総督府達で、死傷者の一覧作成を命じる
- 1868年(慶応4/明治1)閏4月28日 : 東海道先鋒総督府達で、招魂祭を行うことを示す
- 1868年(慶応4/明治1)5月10日 : <太政官布告で、京都東山に戦死者を祭ること(のちの霊山護国神社)を示す>
- 1868年(慶応4/明治1)5月28日 : <行政官達で、戦死者の一覧を神祇官に提出することを命じる>
- 1868年(慶応4/明治1)6月2日 : 招魂祭。江戸城西丸大広間にて。
- 1868年(慶応4/明治1)7月8日 : <神祇官達で、招魂祭を行うことを示す>
- 1868年(慶応4/明治1)7月10日-11日 : <招魂祭。京都の川東操錬場>
- 1869年(明治2)6月12日 : 軍務官達で、東京招魂社を建てることを示す。
- 1869年(明治2)6月29日 : 東京招魂社、創建。
- 1869年(明治2)6月 : 第1回合祀祭。(新規合祀 : 3588柱)
- 1872年(明治5)5月10日 : 本殿、造営。
- 1874年(明治7)2月 : <台湾出兵>
- 1874年(明治7)8月 : 第2回合祀祭(新規合祀 : 192柱)
- 1874年(明治7)11月 : 第3回合祀祭(新規合祀 : 16柱)
- 1875年(明治8)2月22日 : 臨時祭
- 1875年(明治8)2月 : 第4回合祀祭(新規合祀 : 12柱)
- 1875年(明治8)7月 : 第5回合祀祭(新規合祀 : 1柱)
- 1876年(明治9)1月 : 第6回合祀祭(新規合祀 : 1柱)
- 1877年(明治10)1月 : 第7回合祀祭(新規合祀 : 131柱)
- 1877年(明治10)2月 : <西南戦争>
- 1877年(明治10)11月14日 : 臨時祭
- 1877年(明治10)11月 : 第8回合祀祭(新規合祀 : 6505柱)
- 1878年(明治11)7月 : 第9回合祀祭(新規合祀 : 160柱)
- 1878年(明治11)11月 : 第10回合祀祭(新規合祀 : 4柱)
- 1879年(明治12)6月4日 : 別格官幣社に列格。靖国神社に改称。(太政官達)
- 1879年(明治12)6月 : 第11回合祀祭(新規合祀 : 266柱)
- 1882年(明治15)2月 : 遊就館、開館。
- 1882年(明治15)11月 : 第12回合祀祭(新規合祀 : 12柱)
- 1883年(明治16)5月 : 第13回合祀祭(新規合祀 : 80柱)
- 1884年(明治17)11月 : 第14回合祀祭(新規合祀 : 47柱)
- 1885年(明治18)5月 : 第15回合祀祭(新規合祀 : 6柱)
- 1888年(明治21)5月 : 第16回合祀祭(新規合祀 : 607柱)
- 1888年(明治21)11月 : 第17回合祀祭(新規合祀 : 18柱)
- 1889年(明治22)5月 : 第18回合祀祭(新規合祀 : 1460柱)
- 1889年(明治22)11月 : 第19回合祀祭(新規合祀 : 61柱)
- 1891年(明治24)11月 : 第20回合祀祭(新規合祀 : 1272柱)
- 1893年(明治26)11月 : 第21回合祀祭(新規合祀 : 80柱)
- 1894年(明治27)8月 : <日清戦争。翌年4月まで>
- 1895年(明治28)11月17日 : 臨時大祭
- 1895年(明治28)11月 : 第22回合祀祭(新規合祀 : 1496柱)
- 1896年(明治29)5月6日 : 臨時大祭
- 1896年(明治29)5月 : 第23回合祀祭(新規合祀 : 143柱)
- 1896年(明治29)11月 : 第24回合祀祭(新規合祀 : 97柱)
- 1898年(明治31)11月5日 : 臨時大祭
- 1898年(明治31)11月 : 第25回合祀祭(新規合祀 : 1万1383柱)
- 1899年(明治32)5月 : 第26回合祀祭(新規合祀 : 340柱)
- 1899年(明治32)11月 : 第27回合祀祭(新規合祀 : 83柱)
- 1900年(明治33)5月 : 第28回合祀祭(新規合祀 : 35柱)
- 1900年(明治33)5月 : <義和団事変。9月まで>
- 1901年(明治34)10月31日 : 臨時大祭
- 1901年(明治34)10月 : 拝殿、造営。
- 1901年(明治34)11月 : 第29回合祀祭(新規合祀 : 1282柱)
- 1904年(明治37)2月 : <日露戦争。翌年9月まで>
- 1904年(明治37)5月 : 第30回合祀祭(新規合祀 : 89柱)
- 1905年(明治38)5月3日 : 臨時大祭
- 1905年(明治38)5月 : 第31回合祀祭(新規合祀 : 3万883柱)
- 1906年(明治39)5月2日 : 臨時大祭
- 1906年(明治39)5月 : 第32回合祀祭(新規合祀 : 2万9960柱)
- 1907年(明治40)5月3日 : 臨時大祭
- 1907年(明治40)5月 : 第33回合祀祭(新規合祀 : 2万4657柱)
- 1908年(明治41)5月5日 : 臨時大祭
- 1908年(明治41)5月 : 第34回合祀祭(新規合祀 : 1943柱)
- 1909年(明治42)5月5日 : 臨時大祭
- 1909年(明治42)5月 : 第35回合祀祭(新規合祀 : 817柱)
- 1910年(明治43)5月5日 : 臨時大祭
- 1910年(明治43)5月 : 第36回合祀祭(新規合祀 : 141柱)
- 1911年(明治44)5月5日 : 臨時大祭
- 1911年(明治44)5月 : 第37回合祀祭(新規合祀 : 631柱、計 : 11万8499柱)
- 1914年(大正3)7月 : <第一次世界大戦。1918年11月まで>
- 1919年(大正8)5月 : 鎮座五十年記念祭
- 1923年(大正12)9月 : <関東大震災>
- 1931年(昭和6)3月 : 福羽家の招魂祠を元宮として境内に移動。
- 1938年(昭和13)4月 : 新招魂斎庭、造営。
- 1937年(昭和12)7月7日 : <支那事変。1945年まで>
- 1941年(昭和16)12月8日 : <大東亜戦争。1945年まで>
- 1945年(昭和20)8月15日 : <敗戦の詔、日本軍降伏>
- 1945年(昭和20)10月 : GHQ、靖国神社存続を決定。
- 1945年(昭和20)11月19日 : 臨時大招魂祭
- 1945年(昭和20)12月 : 神道指令
- 1946年(昭和21)5月1日 : 第67回合祀祭(新規合祀 : 2万6969柱)
- 1946年(昭和21)9月 : 宗教法人に登記。
- 1947年(昭和22) : 合祀祭(新規合祀 : 5万9337柱)
- 1947年(昭和22)7月13日 : 初のみたま祭。
- 1951年(昭和26)10月18日 : 戦後初の例大祭。
- 1952年(昭和27)4月28日 : <サンフランシスコ講和条約発効>
- 1955年(昭和30)8月14日 : 終戦時自決者540柱の慰霊祭
- 1955年(昭和30)10月17日 : 臨時大祭。
- 1956年(昭和31) : 合祀祭(新規合祀 : 11万2609柱)
- 1957年(昭和32) : 合祀祭(新規合祀 : 47万10柱)
- 1958年(昭和33) : 合祀祭(新規合祀 : 21万7536柱)
- 1959年(昭和34)4月8日 : 臨時大祭。
- 1959年(昭和34)4月 : 合祀祭(新規合祀 : 346柱)※BC級軍事裁判刑死者
- 1959年(昭和34)10月4日 : 合祀祭(北白川宮能久親王・北白川宮永久王)
- 1959年(昭和34)10月 : 合祀祭(新規合祀 : 479柱)※BC級軍事裁判刑死者
- 1959年(昭和34)11月5日 : 創立90周年記念大祭
- 1960年(昭和35)8月15日 : アジア・太平洋戦争殉国者顕彰慰霊祭
- 1964年(昭和39)8月15日 : 政府主催の全国戦没者追悼式が行われる。(翌年より、日本武道館で開催)
- 1965年(昭和40)7月 : 鎮霊社を境内に建立
- 1965年(昭和40)10月19日 : 臨時大祭。
- 1969年(昭和44)10月19日 : 創立100周年記念大祭
- 1972年(昭和47)3月13日 : 霊璽簿奉安殿、造営。
- 1976年(昭和51)6月22日:『英霊にこたえる会』結成。
- 1978年(昭和53)10月17日 : 合祀祭(新規合祀: 14柱)※極東国際軍事裁判刑死者および関連死亡者。この年より靖国神社は『昭和殉難者』との呼称を用いる。
- 1980年(昭和55)11月16日 : 靖国神社奉賛会、設立
- 1985年(昭和60)9月 : 日露戦役80年慰霊顕彰祭
- 1989年(平成1)1月 : 創立120年記念大祭。
- 1998年(平成10)12月 : 靖国神社奉賛会、解散。靖国神社崇敬奉賛会に再組織。
- 2001年(平成13)7月18日 : 同日付の朝日新聞が「大韓民国政府が、靖国神社に合祀されている朝鮮人の位牌の返還を求めている。」と報じた。しかし、靖国神社には「位牌」は存在しない。
- 2002年(平成14)7月13日:現在の『遊就館』、落成。
- 2004年(平成16)9月:新参集殿、落成。
- 2005年(平成17)1月5日:2004年9月よりウェブサイトが攻撃を受けていると神社が発表した。この攻撃は中華人民共和国ドメインから行われたもので、首相の靖国神社参拝等に反発した中華人民共和国人のネット利用者による行為と考えられている。
- 2005年(平成17)6月4日:「北関大捷碑(ほっかんたいしょうひ)」を政府が韓国へ返還する方向で検討に入った、というニュースが報道される。
- 2005年(平成17)6月14日:靖国神社に合祀されている中華民国人の遺族ら約50人が、魂を取り戻すための伝統儀式を行うため訪問。神社側は拒否しなかったものの、これに反対する関係者らが集まったため、警察の要請を受け中止した。
- 2006年(平成18)10月12日:元宮と鎮霊社の一般参拝を再開。(午前9時~午後4時まで)
国家管理[編集]
靖国神社を国家管理に戻そうとする、「国家護持運動」が嘗てあった。自由民主党は、1969年に国家管理化を目指す「靖国神社法案」を国会に提出するも、55年体制下の保革対立の中廃案となる。以後、1973年まで5回同法案を提出したが、審議未了により廃案となった。
国家管理に関しては、現在の神社形式、神道による祭祀を維持する以上、憲法の「政教分離」に反するという意見が多く、法制化のためには何らかの「非宗教化」が必要になるとされる。
2005年8月15日の靖国神社[編集]
大東亜戦争戦後60年にあたる2005年8月15日、靖国神社境内では様々な催しが行われた。午前9時からは英霊にこたえる会主催の「第30回全国戦没者慰霊大祭」が拝殿にて行われた。その後、午前10時より能楽堂前にて「日本の声-英霊に感謝する集い」が行われ、放鳩式が開催された。
また、神社外苑では午前10時30分より「戦後60年国民の集い」(主催みんなで靖国神社に参拝する国民の会・日本会議・英霊にこたえる会、2部構成)が行われた。第1部の「第19回戦没者追悼中央国民集会」は毎年開催されており、国学院大学教授大原康男の司会による開会の辞の後、国歌斉唱・靖国神社拝礼が行われた。その後、1945年8月15日正午に放送された「終戦の詔書」いわゆる「玉音放送」を聴き、主催者の挨拶が行われた。そして、「各界からの提言」として当時は自由民主党(当時)衆議院議員の平沼赳夫、埼玉大学教授の長谷川三千子、ノンフィクション作家のクライン孝子、小野田自然塾理事長の小野田寛郎が提言を行った。正午の時報とともに戦没者への黙祷を行い、政府主催の全国戦没者追悼式の実況放送から天皇の言葉を聴いた。その後、同年6月27日~6月28日に行われた今上天皇と美智子皇后のサイパン行幸啓の報告等がなされ、最後に「海ゆかば」を斉唱し、第1部は終了した。
第2部の「靖国のこころ~追悼と感謝の集い~」は、「終戦60年・日本への提言」として東京都知事の石原慎太郎、自由民主党の古屋圭司、衛藤晟一、山谷えり子、民主党の松原仁、西村眞悟(当時)、靖国神社に参拝する全国地方議員の会の野村有信、評論家の西尾幹二、日本青年会議所の高竹和明、日本相撲協会の出来山双一、世界イスラム連盟のイドリスノ・マジッド、台湾総統府国策顧問の金美齢が提言を述べた。また、英霊に奉げる歌としてつのだ☆ひろ・今尾滋・あべまりあ・三枝万祐・長野安恒が歌を歌った。
なお、この日靖国神社には20万5千人以上の参拝者が訪れ、昇殿参拝者も5600人以上となった。
2006年8月15日には朝日新聞のカメラマンや記者も入ろうとしたが靖国神社側が「12日付の朝刊で神社周辺の施設、不動産と社員寮を記載し職員のプライバシー問題があった」とし取材拒否した[1]。
関連項目[編集]
友好団体[編集]
- 一般人が構成する靖国友好団体
- 靖国神社崇敬奉賛会
- 財団法人日本遺族会
- 日本会議(「日本を守る国民会議」と「日本を守る会」が統合)
- 英霊にこたえる会
- 全国戦友会連合会(略称:戦友連)
- 全日本学生文化会議
- 靖国神社清掃奉仕有志の会
- 首相の靖国神社参拝を求める青年実行委員会
- みんなで靖国神社に参拝する国民の会
- 小泉首相の靖国神社参拝を支持する国民の会
- 国会議員・地方議員等が構成する靖国友好団体
諸外国の国立墓地・戦没者慰霊施設[編集]
多くは日本と違い、無宗教の墓苑とされているが、国教やそれに相当するものが存在し、事実上国教による墓苑となっているケースもある。
- 大韓民国: 国立顕忠院、5・18墓地(光州市)
- 中華民国: 忠烈祠
- 中華人民共和国: 八宝山革命公墓
- 朝鮮民主主義人民共和国: 革命烈士陵(平壌市大城山)、愛国烈士陵(平壌市兄弟山)
- インドネシア: インドネシア国立英雄墓地
- アメリカ合衆国: アーリントン国立墓地
- ドイツ: ビットブルク墓地(コルメス丘顕彰墓地)、ノイエ・ヴァッヘ国立中央戦没者追悼所、ボン北墓地追悼所、「白バラ」抵抗運動記念碑
- フランス: 凱旋門 (ただし、一人の無名戦士をたたえるという扱いになっている。)
文献[編集]
- 高橋哲哉『靖国問題』(ちくま新書)筑摩書房、2005年4月、ISBN 4480062327
- 吉田裕『昭和天皇の終戦史』(岩波書店、岩波新書、1992年) ISBN 4004302579
- 板垣正『靖国神社公式参拝の総括』展転社、2000年6月、ISBN 4886561810
- 江藤淳、小堀桂一郎共編『新版靖国論集 日本の鎮魂の伝統のために』近代出版社、2004年7月(復刻版)、ISBN 4907816146
- 大江志乃夫『靖国神社』(岩波新書)岩波書店、1984年3月、ISBN 4004202590
- 小堀桂一郎『靖国神社と日本人』(PHP新書)PHP研究所、1998年7月、ISBN 4569601502
- 小堀桂一郎・渡部昇一編『新世紀の靖国神社 決定版 全論点』近代出版社、2005年10月、ISBN 4907816189
- 打越和子『靖国のこえに耳を澄ませて 戦歿学徒十七人の肖像』明成社、2002年7月、ISBN 494421913X
- 神社新報社政教研究室編『神宮と憲法』神社新報社、1963年
- 大原康男編著『「靖国神社への呪縛」を解く』(小学館文庫)小学館、2003年7月、ISBN 4094057315
- 田中伸尚『靖国の戦後史』(岩波新書)岩波書店、2002年6月、ISBN 4004307880
- 新野哲也『日本人と靖国神社』光人社、2003年6月、ISBN 4769810962
- 村上重良『慰霊と招魂 靖国の思想』(岩波新書)岩波書店、1974年1月、ISBN 4004121566
- 百地章『靖国と憲法』成文堂、2003年11月、ISBN 4792303664
- 靖国神社社務所『靖国神社 祭典と行事のすべて』1986年
- 新田均『首相が靖国参拝してどこが悪い!!』PHP研究所、2005年8月、ISBN 4569643655
- 新田均『「現人神」「国家神道」という幻想 近代日本を歪めた俗説を糺す。』PHP研究所、2003年2月、ISBN 4569626548
- 日本会議編『首相の靖国神社参拝は当然です!』明成社、2005年10月、ISBN 4944219385
- 屋山太郎『なぜ中韓になめられるのか』扶桑社、2005年9月、ISBN 459405028X
- 宮本辰彦『この国を愛するために 靖国』国書刊行会、2005年8月、ISBN 4336047219
靖国神社を舞台・モデルにした作品[編集]
歌謡[編集]
舞台[編集]
- 「同期の桜」
脚注[編集]
- ↑ 陸軍省 公文録・明治十五年・第百八巻・明治十五年九月~十一月 "故工兵中尉堀本礼造外二名并朝鮮国ニテ戦死巡査及公使館雇ノ者等靖国神社ヘ合祀ノ件"、 JACAR(アジア歴史資料センター)Ref. A01100233700. 「同省朝鮮国日本公使館護衛隊ハ鎮守ニ等シキ勤労アルヲ以テ鎮戍ノ軍隊ニ准シ従軍年ニ加算セント請フ之ヲ允ス」
- ↑ 一等水夫故松村千代松招魂社ヘ合祀 (公文録・明治八年・第三百七巻・朝鮮講信録(三)) JACAR(アジア歴史資料センター)Ref. A01100130400. 故松村千代松招魂社合祀ノ儀上請 山口県士族 一等水夫 故松村千代松 右之者本年九月中雲揚艦朝鮮江華島ニ於テ暴撃ヲ受ケ候節奮激突戦台場ニ乗入逐ニ深手ヲ負ヒ帰艦之後之力為メ同月二十二日致死去実ニ愍然之儀ニ付来ル明治九年一月招魂社例祭之節合祀被仰付候様仕度此段
- ↑ 陸軍省稟告故磯林歩兵大尉外五名靖国神社ヘ合祀ノ件 (公文別録・朝鮮事変始末・明治十七年・第二巻・明治十七年)アジア歴史資料センター Ref. A03023658800
- ↑ refcode=C05021974300&page=1&magnification=100 昭和7年4月23日 第1511号 7.4.23 靖国神社臨時大祭祭式次第書並に先着諸員の件(2)アジア歴史資料センターレファレンスコード:C05021974300
- ↑ 戦争終了後の昭和20年8月20日、ソ連軍の攻撃を受けた樺太庁真岡町において、電話網を守る為に残り、内地に通話を続け自決殉職した電話交換手の女性
関連項目[編集]
- 靖国神社問題
- 靖国神社崇敬奉賛会
- 神社
- 護国神社
- 国家神道
- 北関大捷碑
- 千鳥ケ淵戦没者墓苑
- 東京都慰霊堂
- 東京都戦没者霊苑
- 弥生慰霊堂
- 遊就館
- 同期の桜
- 岩手県議会靖国神社訴訟
- 愛媛県靖国神社玉串訴訟
- 靖国神社法案
外部リンク[編集]
- 靖国神社(公式サイト)
- 靖国神社公式参拝関係年表
- 靖国神社崇敬奉賛会(崇敬者団体)
- 英霊にこたえる会(関連団体)
- 追悼・平和祈念のための記念碑等施設の在り方を考える懇談会
- 靖国特集 靖国を訴えた台湾の女性国会議員の背後関係
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