朝廷

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朝廷(ちょうてい)とは、君主制下で官僚組織をともなった政府および政権で、とりわけ中国と日本におけるものを指す。また、君主政治執務を行う場所や建物(朝堂院朝政朝儀を行う廟堂)。

字義

  • 「朝」には夜が明けて太陽が中天に達するまでの時を示す以外に「向く」という意味があり、これが臣下が君主(天子)に向き合うことに用いられるようになった。また、単独でも「廷」と同義に用いられた。
  • 「廷」とは君主が会見し政務を行う場所を意味し、同義に用いられる「庭」は「廷」となる大きな建物を意味する。中国語の「庭」には、草木・池などを配し、整えられた場所としての「にわ」の意味はなく、この意には「園」が用いられる。

中国の朝廷[編集]

中国で「朝廷」の語は、前漢の『戦国策』「朝廷之臣莫不畏王」、『論語』郷党第十「其在宗廟朝廷、便便言、唯謹爾」、『淮南子』巻九 主術訓「是故朝廷蕪而無迹、田野辟而無草」などに見られ、「廷」の文字の成立からして、朝廷の観念は少なくとも周代まで遡り、中央集権的政治概念としての確立は始皇帝が中国を統一した代となる。

礼記』玉藻「朝服以日視朝於内朝」や『国語』魯語下「自卿以下,合官職於外朝,合家事於内朝。」とあるように、中国では早くも周代から国家的行事や儀式の場を外朝もしくは外廷、王宮で暮らす人々の生活の場を内朝もしくは内廷として区別していた。なお、外朝と内廷の双方を往き来できる皇帝の側近として、去勢した男子による宦官が設けられた。

朝においては、紫禁城のうち太和殿、中和殿、保和殿を「外朝三殿」(もしくは「前殿」)と称し、乾清宮、交泰殿、坤寧宮は「後三宮」と称し、前者が外朝、後者が内朝とされていた。

日本の朝廷[編集]

日本において「朝廷」という言葉が見えるのは、『古事記』の開化天皇紀に「次朝廷別王」と記されたのが現存文献で確認できる初出で、『日本書紀』では崇神天皇紀《崇神天皇60年(38年)七月己酉条》「聞神宝献于朝廷」まで遡って記され、また、「朝庭」が当てられたものでは、景行天皇紀《景行天皇51年(121年)八月壬子条》「則進上於朝庭」がある。しかし、いずれも実在自体が疑われる天皇に関するものである。

『日本書紀』用明天皇紀《用明天皇元年(586年)五月条》に「不荒朝庭」とあるのは実在する場所を推測させる具体的な記述であるが、推古天皇紀で「朝庭」または「庭」として度々言及され、十七条憲法の官吏の出退について説かれた8条に「群卿百寮、早朝晏退」(官吏は早く朝(まい)りて晏(おそ)く退け)とあって政務を執る場所として明確な推古天皇の小墾田宮が発掘調査から実在が裏付けられた最古の「朝庭」である。

「朝廷」と「朝庭」[編集]

中国では「朝廷」と「朝庭」は同義に用いられ、記紀でも混用されているが、中国での字義に広場の意味はないにも関わらず、日本史学では後に「朝堂院」と総称される政務・儀式を執り行う建物群に囲まれた広場を指して特に「朝庭」と区別して用いる。

詳細は 朝庭 を参照

『日本書紀』推古天皇紀《推古天皇16年(608年)八月壬子条》「召唐客於朝庭」と記された、隋使裴世清が天皇に来朝の挨拶をしたとされる小墾田宮の「朝庭」を指して、吉村武彦は、「朝庭は、普通は『朝廷』の字を使うが、ここはのちの朝堂院にあたるスペースの中央広場であるから、『朝庭』の方が的確である」と述べている。また、熊谷公男は、「左右対称の整然とした配置をとった『朝庭』を付設した宮は、小墾田宮がはじめてであった可能性が高い」としている。

朝政と朝儀[編集]

「朝廷」で執り行われたのが朝政と朝儀である。

朝政は、天皇が早朝に政務をみる「あさまつりごと」として始まり、後に転じて、朝廷の政務一般を指す「ちょうせい」となった。

「あさまつりごと」参照

朝儀とは、さまざまな公の儀式の総称であり、天皇即位儀元日朝賀任官叙位改元の宣詔、告朔などの朝拝を中心とする儀式と、節会や外国使への賜饗などの饗宴を中心とする儀式とがあった。
詳細は 朝儀 を参照

朝堂院[編集]

詳細は 朝堂院 を参照

朝堂院は朝政と朝儀が執り行われた朝廷の正庁であり、小墾田宮の「朝庭」は住まいである「宮」から分離して朝堂院の原型が姿を見せており、「朝堂」を置いて政務を執る「朝堂政治」が開始されたのを推古天皇治下とするが、その規模が確認されたものでは、条坊制により日本史上最初に建設された都城とされる藤原京(藤原宮)の朝堂院が最古である。

朝堂院はその後平城京難波京長岡京平安京と都が移っても建設され続けた。平安時代876年貞観18年)、1058年康平元年)に焼失し、そのたびに再建されたが1177年安元3年)の安元の大火ののちは再建されなかった。

内裏の焼失により里内裏が現れるようになって後、天皇が政務を執る場所は朝堂院の有無にかかわらず天皇の私的な住まいであった内裏に移り、朝儀は主に内裏の紫宸殿でおこなわれることとなった。

また、退位した天皇(上皇)が「天皇家の当主」である資格をもって政務を行う院政も朝堂院外で行われたが、これも朝廷に含められる。

なお、中国の場合とは異なり、日本では、天皇の私的な住まいである内裏の七殿五舎後宮)には宦官が置かれず、もっぱら女官によって秩序が維持された。

大和朝廷[編集]

奈良時代以前の古墳時代から飛鳥時代にかけての畿内政権は、主に飛鳥近辺の大和地方に宮を置いていたので「大和時代の朝廷」という意味合いで「大和朝廷」と呼称されてきた。しかし、大和地方は古墳時代当時は「倭」もしくは「大倭」と表記され「大和」の表記が後のものであることと、1970年以降、古墳時代の政治組織にかかわる研究の進展から、朝廷の語源である「君主制下で官僚組織をともなった政府および政権」というよりも、古墳時代に関しては「ヤマト政権」または「ヤマト王権」と呼ばれることが多くなっており、「大和朝廷」の表記は少なくなっている。

このことについて、関和彦は、「朝廷」は「天皇の政治の場」であり、4世紀5世紀の政権を「大和朝廷」と呼ぶことは不適切であると主張し、鬼頭清明もまた、一般向けの書物のなかで、磐井の乱当時の近畿には複数の王朝が併立することも考えられ、また、継体朝以前は「天皇家の直接的祖先にあたる大和朝廷と無関係の場合も考えられる」として「大和朝廷」の語は継体天皇以後に限って用いるべきと説明している。

朝廷の分裂[編集]

壬申の乱の際、大海人皇子を中心とする飛鳥朝廷と大友皇子(弘文天皇)を中心とする近江朝廷とが対立した。この内乱では飛鳥朝廷側が勝利し、大海人皇子は天武天皇として即位した。

また、建武の新政ののち、朝廷は後醍醐天皇を奉じる大覚寺統南朝(吉野朝廷)と、持明院統に属する光明天皇を擁して京都に所在した北朝とに分かれて対立した。ここでは、朝廷が2つに分立したことから、この時代を「南北朝時代」と呼んでいる。

さらに、薬子の変における嵯峨天皇平城上皇の関係、また治承・寿永の乱終末期における安徳天皇後鳥羽天皇の関係など、一君万民を建前とする朝廷からすれば異例の事態といえる。

遠の朝廷[編集]

大宰府 も参照 律令体制下の日本の地方制度は五畿七道と称される。七道のうち、東海道東山道北陸道南海道山陽道山陰道はいずれも畿内5か国(五畿)に接していた。唯一、陸接していない西海道すなわち現在の九州地方には、中央からの出先機関として大宰府が置かれ、大陸との外交や軍事を主任務とし、筑前国司を兼帯するとともに西海道に属する諸国の人事行政司法の一部を総管した。その権限の大きさから「遠の朝廷(とおのみかど)」「西御門」と呼ばれた。

なお、大宰府跡の発掘調査により、大宰府政庁は、第1期(7世紀後半-8世紀初頭)、第2期(8世紀初頭-10世紀中葉)、第3期(10世紀中葉-12世紀)の3つの建て替え時期のあったことが判明した。そのうち、第2期と第3期では朝堂院形式が採用されており、条坊も整備されて、律令国家確立期にあたる8世紀初頭には、景観の上でも「遠の朝廷」と呼ぶにふさわしい状態となったことがわかる。

武家政権樹立以降[編集]

鎌倉幕府成立により政治の実権が武家に移って以降も、天皇を長とする「朝廷」は存在し続けた。

今日において「朝廷」という言葉は「幕府」に対応する言葉としてよく使われるが、これは天皇貴族公家政権)と武家(武家政権)を対立した存在として捉えるようになった江戸時代中期以降の影響が強い。鎌倉時代室町時代にあって征夷大将軍(公方)による政権は「幕府」と呼称されておらず、「武家政権=幕府」という用例が一般的になったのは江戸幕府も後期に至ってからであった。そもそも「朝廷」は京都を指す固有名詞ではなく、「江戸幕府」を指して「朝廷」と呼ぶ例さえ広く見られたのである。武家政権(幕府)に対する公家政権(朝廷)という用法は近世もしくは近代の所産といえる。

1867年(慶応3年)の大政奉還王政復古によって政治権力を回復した「朝廷」は、旧制を模した太政官制を採用した。しかし、これは律令制を廃して成立した全く異質なもので、旧来の朝廷機構は事実上廃止され、新政府によって近代国家の体裁が整えられ、 1885年(明治18年)に太政官制を廃止して内閣制度が発足したことにより、政治機構としての「朝廷」は名実共に消滅した。

出典[編集]

関連項目[編集]