吉田松陰

提供: Yourpedia
移動: 案内検索

吉田 松陰(よしだ しょういん)は、日本武士長州藩士)、思想家教育者兵学者地域研究家。一般的に明治維新の精神的指導者・理論者として知られる。

名前[編集]

幼時の名字は杉(本姓不明)。幼名は寅之助。吉田家に養子入り後、大次郎と改める。通称は寅次郎。矩方(のりかた)。は義卿、は松陰の他、二十一回猛士。「二十一回」については、名字の「杉」の字を「十」「八」「三」に分解し、これらを合計した数字が「二十一」となること、および、「吉田」の「吉」を「十一口」、「田」を「十口」に分解でき、これらを組み合わせると「二十一回」となることによりつけられている。

生涯[編集]

文政13年(1830年)8月4日、萩城下松本村で長州藩士・杉百合之助の次男として生まれる。天保5年(1834年)、叔父で山鹿流兵学師範である吉田大助養子となるが、天保6年(1835年)に大助が死亡したため、同じく叔父の玉木文之進が開いた松下村塾で指導を受けた。11歳の時、藩主・毛利慶親への御前講義の出来栄えが見事であったことにより、その才能が認められた。松陰は、子ども時代、父や兄の梅太郎とともに畑仕事に出かけ、草取りや耕作をしながら四書五経の素読、「文政十年の詔」[1]、「神国由来」[2]、その他頼山陽の詩などを、父が音読し、後から兄弟が復唱した。夜も仕事しながら兄弟に書を授け本を読ませた[3]

しかしアヘン戦争が西洋列強に大敗したことを知って山鹿流兵学が時代遅れになったことを痛感すると、西洋兵学を学ぶために嘉永3年(1850年)に九州に遊学する。ついで、江戸に出て佐久間象山に師事する。

嘉永5年(1852年)、友人である宮部鼎蔵らと東北旅行を計画するが、出発日の約束を守るため、長州藩からの過書手形通行手形)の発行を待たず脱藩。この東北遊学では、水戸会沢正志斎と面会、会津日新館の見学を始め、東北の鉱山の様子等を見学。秋田では相馬大作事件の真相を地区住民に尋ね、津軽では津軽海峡を通行するという外国船を見学しようとした。江戸に帰着後、罪に問われて士籍剥奪・世禄没収の処分を受けた。

嘉永6年(1853年)、マシュー・ペリー浦賀に来航すると、師の佐久間象山と黒船を視察し、西洋の先進文明に心を打たれ、外国留学を決意。同郷で足軽の金子重之輔長崎に寄港していたプチャーチンロシア軍艦に乗り込もうとするが、ヨーロッパで勃発したクリミア戦争イギリスが参戦した事から同艦が予定を繰り上げて出航した為に失敗(一説ではプチャーチンの暗殺を計画していたともいわれる)。

安政元年(1854年)にペリーが日米和親条約締結の為に再航した際には吉田松陰は、足軽の金子重之輔と二人で、海岸につないであった漁民の小舟を盗んで旗艦ポーハタン号に漕ぎ寄せ、乗船した。しかし、渡航は拒否された。二人が船上にいる間に、二人の荷物を乗せたまま小舟は流された。そのため、しかたなく、吉田松陰は幕府に自首した(一説ではペリーの暗殺を計画していたともいわれる)。 また、吉田のみならずこの密航事件に連座して佐久間象山も投獄されている。幕府の一部ではこのときに象山、松陰両名を死罪にしようという動きもあったが、老中首座の 阿部正弘が反対したため、助命され長州へ檻送された後に野山獄に幽囚された。この獄中で密航の動機とその思想的背景を『幽囚録』に記した。

安政2年(1855年)に出獄を許されたが、杉家に幽閉の処分となる。

安政4年(1857年)に叔父が主宰していた松下村塾の名を引き継ぎ、杉家の敷地に松下村塾を開塾する。この松下村塾において松陰は久坂玄瑞高杉晋作伊藤博文山縣有朋吉田稔麿入江九一前原一誠品川弥二郎山田顕義などの面々を教育していった[4]。 なお、松陰の松下村塾は一方的に師匠が弟子に教えるものではなく、松陰が弟子と一緒に意見を交わしたり、文学だけでなく登山や水泳なども行なうという「生きた学問」だったといわれる。

安政5年(1858年)、幕府が無勅許で日米修好通商条約を締結したことを知って激怒し、討幕を表明して老中首座である間部詮勝の暗殺を計画する。だが、弟子の久坂玄瑞、高杉晋作や桂小五郎(木戸孝允)らは反対して同調しなかったため、計画は頓挫した。さらに、松陰は幕府が日本最大の障害になっていると批判し、倒幕をも持ちかけている。結果、松陰は捕らえられ、野山獄に幽囚される。

安政6年(1859年10月27日、安政の大獄に連座し、江戸に檻送され、評定所で取り調べの結果、斬首刑に処された。享年30(満29歳没)。

年譜[編集]

  • 文政13年8月4日1830年9月20日)、長門国萩松本村(現・山口県萩市椿東椎原)に家禄26石の萩藩士・杉百合之助、瀧の次男として生まれる。
  • 天保5年(1834年)、父の弟である吉田大助の仮養子[5]となる。吉田家は山鹿流兵学師範として毛利氏に仕え家禄は57石余の家柄であった。
  • 天保6年(1835年)、大助の死とともに吉田家を嗣ぐ。
  • 天保11年(1840年)、藩主・毛利慶親の御前で『武教全書』戦法篇を講義し、藩校明倫館の兵学教授として出仕する。
  • 天保13年(1842年)、叔父の玉木文之進が私塾を開き松下村塾と名付ける。
  • 弘化2年(1845年)、山田亦介村田清風の甥)から長沼流兵学を学び、翌年免許を受ける。
  • 嘉永3年(1850年)、九州の平戸へ遊学。山鹿流兵学者の山鹿万介葉山左内に学ぶ。また肥後熊本で、宮部鼎蔵を知る。
  • 嘉永4年(1851年)、平戸藩主の参勤交代に従い江戸へ出る。佐久間象山に学ぶ。東北地方へ遊学する際、通行手形の発行が遅れたため、宮部鼎蔵らとの約束を守る為に通行手形無しで他藩に赴くという脱藩行為を行う。
  • 嘉永5年(1852年)、脱藩の罪で士籍家禄を奪われ杉家の育(はごくみ)となる。
  • 嘉永6年(1853年)、アメリカ合衆国のペリー艦隊の来航を見ており、外国留学の意志を固め、金子重之輔長崎に寄港していたロシア帝国軍艦に乗り込もうとするが、失敗。
  • 安政元年(1854年)、伊豆下田港にて、再航したペリー艦隊に金子と二人で赴き、密航を訴えるが拒否される。事が敗れた後、そのことを直ちに幕府に自首し、長州藩へ檻送され野山獄に幽囚される。
  • 安政2年(1855年)、生家で預かりの身となるが、家族の薦めにより講義を行う。
  • 安政4年(1857年)、叔父の玉木文之進が開いていた私塾松下村塾を引き受けて主宰者となり、高杉晋作を始め、幕末維新の指導者となる人材を多く育てる。
  • 安政5年(1858年)、幕府が勅許なく日米修好通商条約を結ぶと激しくこれを非難、老中の間部詮勝の暗殺を企て、警戒した藩によって再び投獄される。
  • 安政6年(1859年)、幕命により江戸に送致される。老中暗殺計画を自供して自らの思想を語り、江戸伝馬町の獄において斬首刑に処される、享年30(満29歳没)。

ゆかりの地[編集]

  • 吉田松陰の故郷である山口県萩市には、誕生地、投獄された野山獄、教鞭をとった松下村塾があり、死後100日目に遺髪を埋めた遺髪塚である松陰墓地(市指定史跡)、明治23年(1890年)に建てられた松陰神社(県社)がある。他にも、山口県下関市桜山神社には、高杉晋作発案で、招魂墓がある。
  • 静岡県下田市には、ペリー艦隊へ乗艦し密航を試みた場所であり、数多くの吉田松陰に関する史跡が点在している。
  • 処刑直後葬られた小塚原回向院(東京都荒川区)の墓地に現在も墓石が残る。
  • 文久3年(1863年)に改葬された、現在の東京都世田谷区若林の墓所には明治15年(1882年)に松陰神社が創建された。
  • 吉田松陰が収容されていた江戸伝馬町牢屋敷跡の「十思公園(東京都中央区日本橋小伝馬町)」には「吉田松陰終焉乃地碑」と「留魂碑」がある。
  • 吉田松陰が弟子の金子重之輔を従えてペリー艦隊を見つめている姿を彫刻したという銅像が、山口県萩市椿東の吉田松陰誕生地にある。題字は、佐藤栄作首相が書いた。

思想[編集]

一君万民論[編集]

「天下は万民の天下にあらず、天下は一人の天下なり」と主張して、藩校明倫館の元学頭・山県太華と論争を行っている。「一人の天下」という事は、国家は天皇が支配するものという意味であり、天皇の下に万民は平等になる。但し、天皇のために万民が死にもの狂いで尽くす事が必要である。

一種の擬似平等主義であり、幕府(ひいては藩)の権威を否定する過激な思想であった。但し、天下は万民の天下なり、という国家は国民の共有であるし、君主はその国民に支えられて存在するという点からすれば、吉田松陰には天皇があっても国民がないのではという批判もある。ちなみに「一君万民」の語を松陰が用いたことはない。

飛耳長目[編集]

塾生に何時も、情報を収集し将来の判断材料にせよと説いた、これが松陰の「飛耳長目(ひじちょうもく)」である。自身東北から九州まで脚を伸ばし各地の動静を探った。萩の野山獄に監禁後は弟子たちに触覚の役割をさせていた。長州藩に対しても主要藩へ情報探索者を送り込むことを進言し、また江戸や長崎に遊学中の者に「報知賞」を特別に支給せよと主張した。松陰の時代に対する優れた予見は、「飛耳長目」に負う所が大きい。

草莽崛起[編集]

「草莽(そうもう)」は『孟子』においては草木の間に潜む隠者を指し、転じて一般大衆を指す。「崛起(くっき)」は一斉に立ち上がることを指す。“在野の人よ、立ち上がれ”の意。

安政の大獄で収監される直前(安政8年(1859年)4月7日)、友人北山安世に宛てて書いた書状の中で「今の幕府も諸侯も最早酔人なれば扶持の術なし。草莽崛起の人を望む外頼なし。されど本藩の恩と天朝の徳とは如何にして忘るゝに方なし。草莽崛起の力を以て、近くは本藩を維持し、遠くは天朝の中興を補佐し奉れば、匹夫の諒に負くが如くなれど、神州の大功ある人と云ふべし」と記して、初めて用いた。

対外思想[編集]

『幽囚録』で「今急武備を修め、艦略具はり礟略足らば、則ち宜しく蝦夷を開拓して諸侯を封建し、間に乗じて加摸察加(カムチャッカ)・隩都加(オホーツク)を奪ひ、琉球に諭し、朝覲会同すること内諸侯と比しからめ朝鮮を責めて質を納れ貢を奉じ、古の盛時の如くにし、北は満州の地を割き、南は台湾、呂宋(ルソン)諸島を収め、進取の勢を漸示すべし」と記し、北海道の開拓、琉球(現在の沖縄。当時は半独立国であった)の日本領化、李氏朝鮮の日本への属国化、満洲台湾フィリピンの領有を主張した。松下村塾出身者の何人かが明治維新後に政府の中心で活躍した為、松陰の思想は日本のアジア進出の対外政策に大きな影響を与えることとなった。

発言[編集]

立志尚特異 (志を立てるためには人と異なることを恐れてはならない)
俗流與議難 (世俗の意見に惑わされてもいけない)
不思身後業 (死んだ後の業苦を思い煩うな)
且偸目前安 (目先の安楽は一時しのぎと知れ)
百年一瞬耳 (百年の時は一瞬にすぎない)
君子勿素餐 (君たちはどうかいたずらに時を過ごすことなかれ)

至誠にして動かざる者は未だこれ有らざるなり

志を立ててもって万事の源となす

志士は溝壑に在るを忘れず

己に真の志あれば、無志はおのずから引き去る
恐るるにたらず

凡そ生まれて人たらば宜しく人の禽獣に異なる所以を知るべし

体は私なり、心は公なり
公を役にして私に殉う者を小人と為す

人賢愚ありと雖も各々一二の才能なきはなし
湊合して大成する時は必ず全備する所あらん

死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし
生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし

一族[編集]

  • 父:杉常道(1804-1865)
  • 母:滝(1807-1890)
  • 兄:梅太郎(民治)(1828-1910)
  • 妹:芳子(千代)(1832-1924) - 児玉祐之の妻
  • 妹:寿(1839-1881) - 小田村伊之助(楫取素彦)の妻
  • 妹:艶(1841-1843) - 早世
  • 妹:美和子(文)(1843-1921) - 久坂玄瑞の妻、後に楫取素彦後妻。
  • 弟:敏三郎(1845-1876)

系譜[編集]





肖像[編集]

松陰の「写真」なるものが存在するが[7]、松下村塾生のなかでも昭和時代まで生きた渡辺蒿蔵が、松陰のものではないと否定している[8]。しかし、そもそもこの「写真」は「絵画を撮影したもの」[9]の一つであり、もし渡辺がこれを見たのであれば、彼が否定したのは当然であろう。

影響[編集]

詳細は陽明学を参照

日本では幕末から近代にかけて陽明学が重要な思想とされ、松陰を含めて熱心に読まれたのに対して、清朝では陽明学は忘れられていた。清朝末期の動乱、とりわけ日清戦争以後、明治日本に清末の知識人が注目するようになると、すでに中国本土では衰微していた陽明学にも俄然注意が向けられるようになった。明治期、中国からの留学生が増加の一途を辿るが、そうした学生達にもこの明治期の陽明学熱が伝わり、新しい中国の国づくりを考える若い思想家・運動家のなかでも陽明学が逆輸入され、読まれるようになった。「陽明学」という呼称が、中国に伝わったのもこの頃で、こうしたなか、松陰の著作も中国で読まれるようになる。後に今文公羊学を掲げる康有為は吉田松陰の『幽室文稿』を含む陽明学を研究したといわれる。また、康有為の弟子の梁啓超1905年、上海で『松陰文鈔』を出版するほど、陽明学を奉じた吉田松陰を称揚した。

資料・文献[編集]

吉田松陰を主題とする作品[編集]

小説
漫画
映画
テレビドラマ
歌謡曲

関連項目[編集]

Commons-logo.png
ウィキクォート吉田松陰に関する引用句集があります。

脚注[編集]

  1. 11代将軍家斉を太政大臣に任じた詔書で、家斉が京都へ参内せず江戸城で詔を受けた無礼を悲憤慷慨した文
  2. 賀茂神社の神官玉田永教(たまだ ながのり)が論じた国体論
  3. 海原徹(2003年)25-26ページ
  4. 高杉と久坂を村塾の双璧、これに吉田、入江を加えて松門四天王などと称される。
  5. 当主の死に備えて藩当局へ申し出て許可を得る文字通り仮の養子、叔父大介はまだ28歳であったにもかかわらずの仮養子縁組なので、かなり重病であったことが分かる。天保6年(1839年)4月3日没、享年29歳(海原徹(2003年)23ページ
  6. 杉氏系譜
  7. 国立国会図書館 吉田松陰 | 近代日本人の肖像
  8. 「松陰の写真と称するものの鑑定を乞ふ。曰く、全然異人なり。」(広瀬豊「渡辺嵩蔵談話第二」1931年4月、大和書房版『吉田松陰全集』10巻、365頁)。
  9. ご利用について|近代日本人の肖像

外部リンク[編集]

このページはウィキペディア日本語版由来のコンテンツを利用しています。もとの記事、画像は吉田松陰にあります。執筆者のリストは履歴をご覧ください。Yourpediaと同じくWikipediaGFDLのライセンスで提供されています。コンテンツを再利用する際には同じくGFDLのライセンスを採用してください。