菅直人
菅 直人 (かん なおと) | |
在任期間 | 2010年(和暦??年)6月8日 - (現職) |
生没年月日 | 1946年10月10日((2024-1946)+((11-10)*100+(23-10)>=0)-1歳) - |
出生地 | |
出身校 | 東京工業大学理学部卒業 |
学位・資格 | |
前職 | 菅・高橋特許法律事務所所長 |
世襲の有無 | 無 |
選挙区 | (旧東京都第7区→) 東京都第18区 |
当選回数 | 衆10回 |
党派 | (社会市民連合→) (社会民主連合→) (新党さきがけ→) (旧民主党→) 民主党 |
花押 | |
菅 直人[1](かん なおと、1946年10月10日 - )は日本の政治家。内閣総理大臣(第94代)、衆議院議員(10期)、民主党代表(第8代)。
閣僚としては厚生大臣(第85代)、財務大臣(第13代)、内閣府特命担当大臣(科学技術政策担当、経済財政政策担当)、党職としては社会民主連合副代表、新党さきがけ副代表、民主党代表(初代・第3代・第8代)などを歴任した。
目次
経歴
生い立ち
1946年10月10日、山口県宇部市に菅寿雄、純子の長男として生まれた(本籍地は岡山県久米郡福渡町(のち御津郡建部町、現岡山市北区建部町)。父寿雄は地元の宇部曹達(現セントラル硝子)に勤める技術者から、のちに重役に出世した。ごく普通のサラリーマン家庭に育った直人は、何不自由なく、のびのびと育った。
宇部市立神原小学校、琴芝小学校、神原中学校を経て、地元の進学校県立宇部高校に進む。宇部高校2年の夏に、父の転勤に伴って一家は東京三鷹市に引っ越した。都立小山台高校2年に編入し、卒業。
東京工業大学理学部応用物理学科に入学。学生運動にのめり込んだ。「全学改革推進会議」を立ち上げ、リーダーとして活躍した。
きちんと卒業研究をしたいとの自身の意向により一年留年し、1970年に東工大を卒業。
政界入り
市川房枝の選挙事務所代表を務め、選挙参謀として市川の当選に尽力したことが政界入りのきっかけ。その後、1976年の第34回衆院選に東京都第7区(当時)から無所属で立候補し落選したが、こうした活動が江田三郎の目に止まり、誘われる形で社会市民連合に参加。 1977年の第11回参院選では社会市民連合から出馬したがまたも落選し、1979年の第35回衆院選では社会市民連合から名称を変更した社会民主連合から出馬し、またも落選したが、1980年の第36回衆院選で初当選。土地問題などを中心に市民派の政策通として頭角を現した。
1981年には丸山ワクチンの不可思議な不認可問題を追及し、後の薬害エイズ事件につながる官僚との対立姿勢を見せた。
社会民主連合では主な役職として1978年副代表、1985年に副書記長兼政策委員長を務めた。1986年の総選挙で社会民主連合は4議席を獲得したが、選挙直後に2人ずつ日本社会党会派と民社党会派に分かれて所属することになり(その結果民社党会派が日本共産党会派を数で上回り、議会内ポストを共産党会派に渡すことを阻止した)、菅は社会党会派に属した。この形式は、1990年の総選挙まで続いた。
国鉄分割民営化では民営化支持を表明した。
1992年6月13日、PKO国会において、衆議院本会議で中西啓介・議員運営委員長の解任決議案に賛成の討論を行ったが、制限時間を過ぎても演説を続け、衛視に壇上から押し出され降壇させられるなどPKO協力法の成立に激しく抵抗した。
非自民連立政権から自社さ政権へ
- KKライン
1993年に成立した細川非自民連立政権では、衆議院外務委員長に就任した。1994年の社会民主連合解散後は新党さきがけに入党。村山自社さ連立政権では、新党さきがけ政策調査会長として、政策調整に当たった。当時の自民党政務調査会長の加藤紘一とは「KKライン」と呼ばれ、この時代に「住専処理スキーム」が決定された。
厚生大臣として
1996年1月、村山内閣総辞職後成立した第1次橋本内閣で厚生大臣(第74代)として入閣した。
- 薬害エイズ事件
- 薬害エイズ事件の処理に当たり、当時官僚が無いと主張していた行政の明白な過ちを証明する“郡司ファイル”(当時の厚生省生物製剤課長・郡司篤晃がまとめていたのでこの別名がある)を菅直人指揮の下にプロジェクトを組んで発見させ、官僚の抵抗を押し切って提出。血液製剤によるエイズに感染した多くの被害者たちに対して、初めて行政の責任を認めた。薬害エイズ事件の被害者たちに菅が土下座をして謝罪した事で被害者の感動を呼び、この厚生大臣在職中に得た功績が、菅が現実に官僚と戦った稀有な政治家としての大きな人気・政治的資産獲得の基盤となり、後の民主党結党に繋がる事になる。さらにこの事件の菅の処理は、彼が対談を行っていたカレル・ヴァン・ウォルフレンらから、日本に初めて官僚の説明責任という概念を持ち込み、「アカウンタビリティ」という言葉を定着させた、と高く評価された。
- 不法投棄問題
- 1996年8月、シュレッダーダストの大量不法投棄で問題になった香川県豊島(てしま)へ、厚生大臣としては初めて現地視察に入り、問題解決の端緒となった。またこの年に出版した著書『大臣』(岩波新書)は、前書きで自身が「現役の政治家が岩波新書から本を出すとは異例だが」と書く通り、前代未聞の出来事でベストセラーとなった。
- 基礎年金番号制度の導入
- 菅の厚生大臣在任中に、基礎年金番号制度の導入が閣議決定された(導入は小泉純一郎が厚相だった1997年1月で、当時総指揮を取っていたのは橋本龍太郎総理大臣(当時)であった)。そのため、2007年の年金記録問題(「消えた年金記録」問題)について責任を問う主張があった(自民党では2007年3月に、年金問題に関するパンフレットを作成し、当時の年金問題の責任者は菅直人であったと言う事を併せて示した。これについては自民党内からも批判の声が上がり、またそれに対して、菅は「言いがかり以外の何ものでもない」と反論した)。
また、衆議院の会議録(136-衆-厚生委員会-28号)によると1996年6月12日に国保、介護保険の件で年金からの天引きを提案。 これにより後に後期高齢者医療制度が問題化した際、民主党が年金からの天引きを批判するのはおかしいのではないかとの指摘もある。
- O157とカイワレ問題
- O157 も参照
- また、1996年8月のO157騒動の時には、「大阪府内の業者が出荷したカイワレ大根が原因となった可能性は否定できない」と発表。その直後からカイワレ大根への風評被害が発生し、結果倒産・破産するカイワレ農家や業者(その大半が自営業者や零細企業であった)が続出、自殺者まで出る事態となった。これらの経緯を受け、菅は記者会見の場でカイワレのサラダを食べることで、安全性のアピールを図った。その一方で、「O157以外の通常自然界に存在するはずの細菌も一切検出されなかったのだから、事件後消毒されたことは明白で証拠隠滅が図られた」などと主張した。
この問題については東京と大阪でカイワレ業者らによる損害賠償請求訴訟が起こされ、双方とも第二審で公表方法の過失が認定され、国が敗訴した。
大阪地裁での判決について、菅は、ホームページ上で「十分な科学的根拠がない」と判決が認定した疫学調査は集団食中毒などでは極めて有効な調査方法であるとして「裁判官の判断は疑問」と反論した。
民主党時代
結党・初代党代表
1996年9月28日、新党さきがけの鳩山由紀夫が旧民主党を旗揚げすると、これに菅も参加し、抽象的だった党の理念や政策を具体化した。菅は鳩山と共に代表となり旧民主党がスタートした。結党当初は衆議院議員50人、参議院議員5人の計55人が参加した。1998年4月27日に新進党分党後に誕生した統一会派「民主友愛太陽国民連合(民友連)」と合流して、新民主党を結成し、代表となる。合流当初は衆議院議員98人、参議院議員38人の136人が参加した。
1998年7月12日の第18回参院選で27議席を獲得する。橋本龍太郎首相は敗北の責任から内閣総辞職に追込まれた。総理大臣指名選挙では、小沢自由党と日本共産党は第一回投票から菅に投票し決選投票では公明・改革クラブ・社民党・さきがけの支持もあり参議院では首相に指名されたが、衆議院の優越により衆議院の議決で指名された小渕恵三が首相となった。
1998年の金融国会では、「われわれの要求が受け入れられれば政府の退陣は求めない」と発言し、所謂政策新人類と呼ばれた自民党若手議員らとともに、金融関連再生法案の策定に励み、実際に丸呑みと揶揄されるほど、菅らの主張が受け入れられたが(ただし、菅は雑誌で不良債権発生当時の都市銀行役員等の刑事責任を問えと雑誌で発言した事があるが、これは受け入れられなかった)、小沢一郎らは「参院選で大勝した直後に政局にしないとは弱腰極まりない」と批判するなど、この言動に対する評価は二分された。菅の金融問題への対応は素早く、経済学者金子勝は朝まで生テレビにて菅を、政治家としては最も早く金融に着目・解決のためのスキームをまとめさせたとして、菅の功績を高く評価する発言をしている。
1999年(平成11年)に2回行われた民主党代表選挙では、1月には再選するも松沢成文に善戦を許し、9月には鳩山由紀夫に敗北したが、党政策調査会長に就任した。
二度目の党代表就任
2000年(平成12年)に党幹事長に就任。2002年(平成14年)に党代表の鳩山由紀夫の辞任を受けて、党幹事長代理の岡田克也と党代表選挙を争い、党代表に再び就任した。その後、岡田には党幹事長就任を要請するなど党内融和を積極的に進めた。
民由合併・マニフェストの導入
2003年9月26日に小沢一郎が党首を務める自由党との合同を実現した(民由合併)。
同年11月9日の第43回衆院選では「高速道路の原則無料化」、「小学校低学年の30人以下の学級実現」などをマニフェスト(政策綱領)に掲げ、公示前勢力を大幅に上回る177議席を獲得し、比例代表では自民党を上回った。菅は党代表として、やがて衆院選を迎えるに当たり、時の小泉首相に対し、自民党はマニフェストを国民の前に提示するのかどうかを迫り、期限や事後チェック付きの政権公約としてのマニフェストと従来の公約との違いを自民党にも明確化するよう迫った経緯がある。小泉首相は、政党統一の政権公約として期限や事後チェックなどマニフェストとしての扱いを受けることを嫌い明言を避け続けていたが、実際に2003年衆院選が行なわれる段になると、小泉自民党を含む主要政党のほとんどがマニフェストを掲げて選挙戦を戦うこととなり、結果として菅および民主党が日本におけるマニフェスト選挙の定着に大きな役割を果たすこととなった。菅個人は、この2003年衆院選において初めて比例を辞退して小選挙区のみで出馬し、比例上位優遇で国替えしてきた鳩山邦夫に完勝した(ただし、鳩山邦夫も比例復活)。
年金未納問題・党代表辞職へ
政治家の年金未納問題 も参照 2004年6月、小泉首相との党首討論において、年金一元化を実行すると言いながらまったく着手しようとしない内閣の姿勢を「“オレオレ詐欺”ならぬ“やるやる詐欺”じゃないですか」と批判した。
小泉内閣の閣僚の国民年金未納が相次いで発覚した際、菅は街頭演説で「ふざけてますよね。“未納三兄弟”っていうんですよ」と自民党議員を批判し、年金未納問題に火を付けることとなった(“未納三兄弟”は、1999年に流行った歌“だんご3兄弟”にちなむ)。年金未納閣僚は、3人に留まらず、その後も続々と発覚し続けた。これをチャンスと捉えて民主党「次の内閣」全員の国民年金納付書を公開して国民にアピールしようとしたところ、菅自身の厚生大臣時代の年金未払い記録が明らかとなった。菅は行政側のミスであると何度も主張したが、行政側がその都度強く否定し、マスコミ報道等による世論の風当たりにより、同年5月10日に党代表を辞任せざるを得ない状況に追い込まれた。菅の代表辞任後に厚生労働省自身が、菅の主張を認めて謝罪し、菅の厚生大臣時代の国民年金未納期間も国民年金に加入していたということに訂正された。菅が主張したとおり国民年金の資格喪失は「行政上のミス」によるものであるにも関わらず、事後納付もできないため、未納は解消されず(未納期間2ヶ月)、「自身の無年金のおかしさに気付き、対応しなかったのは、政治家としてうかつさがあった」といった指摘もなされた[2]。この点につき自身は、年金の専門家であるはずの社会保険庁職員でさえ誤った手続きをしてしまう現状の年金制度の複雑さを指摘し、一元化を目指すべきだとしている。
同年7月、菅は年金未納騒動を吹っ切り自己を見つめ直したいという意図から伝統的な「お遍路さん」スタイルで四国八十八カ所巡りを開始した。また、この間法政大学大学院の客員教授に就任し、「国民主権論」と題して講義を行った 。
2005年9月11日の第44回衆院選(小泉首相の解散による郵政選挙)では、東京都の民主党候補では僅差ながらも唯一小選挙区での勝利を果たした。なお、この郵政選挙では、長年の宿敵と言われた土屋正忠武蔵野市長(当時)が自民党公認(比例単独2位)でついに立候補し、事実上の一騎打ちとなった。郵政民営化・刺客選挙を展開して時流に乗る自民党に対し、民主党は党全体が大逆風を受けていたが、そんな中、菅は全開票所で勝利し、面目を保った(土屋正忠候補は比例復活当選)。
同年9月17日民主党敗北を受けて党代表を辞任した岡田克也の後任を決める党代表選挙に立候補し、小沢一郎からも本命視されていたものの、投票直前の演説で若き日からの辛酸と情熱を巧みに訴えた若手の代表格前原誠司に2票差で敗れた。その後、党国会対策委員長就任を要請されたが、これを固辞し、一兵卒として前原民主党を支えると表明した。
党代表戦に敗れた後は、団塊の世代を取り込むための「団塊党」なる運動や、バイオマスの活用を盛んに提唱し始めた。
代表代行時代(トロイカ体制)
2006年4月7日、「堀江メール問題」による前原執行部総退陣を受けて行われた代表選挙に再度立候補し、小沢一郎と激しく争い47票差で敗れた。その後、党代表代行に就任。2009年5月に小沢が西松建設の違法献金疑惑に関連して自身の公設秘書が逮捕された件で辞任すると、後任の代表となった鳩山由紀夫により、引き続き党代表代行に再任された。党代表代行として国会論戦について主に担当した。
- 「子供の生産性」発言
2007年1月、柳澤伯夫厚生労働大臣の「産む機械」発言が政治問題化した際、代表代行としてこれを批判したところ、2月6日、自民党中川秀直幹事長によって、「東京は日本で一番生産性の低い大都市。何の生産性か、それは子どもの出生率において…」という民主党大会(2007年1月)における菅の演説が中川のホームページで取り上げられ、「出生率と生産性を結びつけるということは、出産と機械が結びつくことではないのか」と反撃されたのを皮切りに、翌日、公明党議員からも、名古屋市内での演説(2007年1月18日)や、山陰中央新報のインタビュー(2006年8月5日)における同様の発言を非難され、波紋を呼んだ。これら「産む生産性」発言の真意については、「12月の衆院本会議で同様の趣旨の発言をしているので議事録を読んでください」、「生産性のいい景気のいい地域では、出生率の点では低いところが多い」と弁明した後、自身のホームページで「広辞苑によれば、生産という言葉には出産という意味がある」と反論した。
- 東京都知事選挙
2007年4月の東京都知事選挙への出馬待望論が民主党内でたびたび沸き起こった。背景には民主党が都議会で与党だったにも関わらず独自候補の擁立を図る小沢執行部の方針と人選がなかなか決まらぬお家事情があり、党中央の要職にある菅本人が出馬の可能性を否定し続ける中、石原都知事に対抗できる目玉候補として朝日新聞などにも立候補を促され続けたが、これまでどおり「国政に携わり政権交代を実現する」ため「太陽が西から出ても、出ることはない」と固辞を貫いた。その一方で浅野史郎前宮城県知事など党内外の知名度の高い人物に出馬を打診したとされるがことごとく失敗した。この問題では、菅直人と親交関係にある五十嵐敬喜法政大学教授らが立ち上げた市民団体「浅野史郎さんのハートに火をつける会」(現都民のハートに火をつける会)などの説得に応える形で浅野が立候補を決意したことで、民主党は独自候補の擁立を見送って社民党などとともに支援に回ることとなった。
- 道路特定財源・暫定税率問題
2008年2月、民主党道路特定財源・暫定税率問題対策本部長として、小沢代表のもとでガソリン国会の陣頭指揮を取り、国会論戦、テレビ出演、地方視察を精力的に行う。 自民党の二階俊博、古賀誠のことを「なんとしても道路利権を守ろうという決意が表れている「利権顔」」と発言した。これに対して、二階は身体的特徴をあげつらう差別発言ではないかと反論した。また同年3月、日銀総裁の後任人事をめぐり、民主党は武藤敏郎副総裁の人事に反対したが、大蔵省出身というだけではなく大蔵省の利権顔、「ミスター大蔵省」だと発言した(2008年3月8日NHKの番組で)。さらに、その後街頭遊説において、「みなさん、自民党道路族は威張っているが、じつは国土交通省の利権を守る番犬なんですからね」と述べ、道路族幹部を重ねて激しく批判した。
- 麻生内閣に対して
麻生内閣発足後は、衆議院解散・総選挙を一刻も早く行い、国民の信を問うべきであるとの主張を続けていた。また最近は衆議院予算委員会で度々質問に立ち、菅の質問、麻生の答弁がマスコミに頻繁に取り上げられた。
- 東京都町田市の街頭演説会で麻生内閣が景気対策として提案している定額給付金を毒まんじゅうとして「(通常国会召集の日までに)毒まんじゅうを分離する予算修正案を用意し、国会に出したい。毒まんじゅう分離法案を与野党で通して雇用対策などを実行し、解散して国民の信を問うべきだ」と語った。
- 2009年2月4日、衆院予算委員会で麻生首相に「民主党の経済対策は真水で57兆円、総額87兆円。この方が国民のためになる」とアピールした。これに対し、与謝野馨経済財政担当相は「数字の競争ならばいくらでもできる」と述べた。
鳩山由紀夫内閣
2009年9月16日、鳩山由紀夫内閣発足により、内閣府特命担当大臣(経済財政政策・科学技術政策担当)に就任した。あわせて、国務大臣として「税財政の骨格や経済運営の基本方針等について企画立案及び行政各部の所管する事務の調整」も担当することになった。内閣法第9条に基づく内閣総理大臣臨時代理の指定順位は第1位となり、いわゆる「副総理」格としての入閣となった。ポスト鳩山の呼び声もあるが、国家戦略局設置のための法案の年内での国会提出が見送られ、その前身となる国家戦略室もうまく稼動していないとされ、閣内における存在感を発揮し切れていないと評されることもあった。
2010年1月7日、財務大臣の藤井裕久の体調不良による辞任に伴い、後任の財務大臣に横滑りの形で就任した。また、内閣府特命担当大臣(経済財政政策担当)は続投する。なお、これまで務めていた職務のうち、「税財政の骨格や経済運営の基本方針等について企画立案及び行政各部の所管する事務の調整」に関する職務は内閣府特命担当大臣(行政刷新担当)の仙谷由人が、内閣府特命担当大臣(科学技術政策担当)は文部科学大臣の川端達夫がそれぞれ兼務する形で引き継がれた。鳩山内閣の支持率が低下する中、菅は各種世論調査で「次期首相にふさわしい人物」の上位に位置するなどポスト鳩山の有力候補の一人と目された。
内閣総理大臣
2010年6月2日の鳩山首相の退陣表明を受け、後継を選出する民主党代表選挙への出馬を表明。6月4日、2010年民主党代表選挙にて勝利し、同日の首班指名選挙によって第94代内閣総理大臣に指名され、6月8日に正式に就任した。
年譜
- 1946年10月10日、山口県宇部市で出生(父・寿雄、母・純子)。本籍地は岡山県久米郡福渡町(のち御津郡建部町、現岡山市北区建部町)。
- 1959年3月、宇部市立琴芝小学校卒業。
- 1962年3月、宇部市立神原中学校卒業。
- 1962年4月、山口県立宇部高等学校入学。
- 1963年夏、父親の転勤に伴い、東京都立小山台高等学校に編入。
- 1965年3月、東京都立小山台高等学校卒業
- 1965年4月、父親の母校でもある東京工業大学理学部応用物理学科に入学。
- 1970年3月、東京工業大学理学部応用物理学科を卒業。
- 1971年、弁理士試験に合格。
- 1974年、市川房枝を第10回参議院議員通常選挙に担ぎ、選挙事務長を務め、当選させる。
- 1976年12月5日、第34回衆議院議員総選挙に旧東京7区から無所属で出馬し落選。
- 1977年7月10日、第11回参議院議員通常選挙で社会市民連合から出馬し落選。
- 1978年、社会民主連合副代表に就任。
- 1979年10月7日、第35回衆議院議員総選挙で社会民主連合から出馬し落選。
- 1980年6月22日、第36回衆議院議員総選挙で初当選。
- 1983年12月18日、第37回衆議院議員総選挙で当選(2期目)。
- 1985年、党副書記長兼政策委員長に就任。
- 1986年7月6日、第38回衆議院議員総選挙で当選(3期目)。
- 1990年2月18日、第39回衆議院議員総選挙で当選(4期目)。
- 1993年7月18日、第40回衆議院議員総選挙で当選(5期目)。
- 1994年、社会民主連合の解散に伴い、新党さきがけに入党。後に党政策調査会長に就任。
- 1996年1月11日、第1次橋本内閣で厚生大臣(第74代)として入閣。
- 1996年9月28日、鳩山由紀夫と民主党を結成。鳩山と共に共同代表に就任。
- 1996年10月20日、第41回衆議院議員総選挙に東京18区より立候補し当選(6期目)。
- 1998年4月27日、新民主党の代表に就任。
- 1999年9月、党代表選挙で鳩山由紀夫に敗北。党政策調査会長に就任。
- 2000年、党幹事長に就任。
- 2000年6月25日、第42回衆議院議員総選挙で当選(7期目)。
- 2002年12月、代表選挙で岡田克也を破り党代表に就任。
- 2003年11月9日、第43回衆議院議員総選挙でともに旧民主党結党時のメンバーだった自民党公認の鳩山邦夫を破って当選(8期目)。鳩山邦夫は比例で復活。
- 2004年5月、年金未納が発覚して代表を辞任。
- 2005年4月、法政大学大学院の客員教授に就任、講義を行う(2005年10月まで)。
- 2005年9月11日、第44回衆議院議員総選挙で地方選挙で長年の宿敵であった土屋正忠前武蔵野市長を小選挙区で破り当選(9期目)。土屋正忠は比例で復活。東京の小選挙区では唯一の当選者となる。
- 2005年9月17日、衆院選敗北を受けて岡田が党代表を辞任する。党代表選挙に立候補して、前原誠司に敗北。
- 2006年4月7日、堀江メール問題で前原執行部が退陣。党代表選挙に再度立候補して小沢一郎に敗北。党代表代行に就任。
- 2009年5月17日、小沢に替わり党代表となっている鳩山由紀夫により党代表代行に再任。
- 2009年8月30日、第45回衆議院議員総選挙で当選(10期目)。
- 2009年9月16日、鳩山由紀夫内閣の副総理兼内閣府特命担当大臣に就任。
- 2010年1月7日、財務大臣に就任。同時に国家戦略担当国務大臣及び科学技術政策担当国務大臣は退任。
- 2010年3月19日、民主党東京都連会長辞任(後任は、民主党東京都連通常総会開催まで海江田万里衆議院議員が民主党東京都連会長職務代行に就任)。
- 2010年6月4日、民主党第8代代表に就任。同日、第94代内閣総理大臣に指名。同年6月8日、内閣総理大臣に就任。
主な政策・主張
- 防衛に関しては、自衛隊に治安維持活動、国際協力を行う部隊の創設を政策として持っている。
- 台湾問題に関しては台湾の国連加盟を中国が容認し、国連加盟国同士の問題として国連の場で平和的解決を目指すべきと主張している。
- 北朝鮮の日本人拉致問題・核問題について、政府の対応とは異なる発想の解決を目指すべきだと提唱。菅は新人議員時代に菅の先輩議員にあたる田英夫の求めに応じ、在日韓国人政治犯釈放の要望書に署名。この中には後年明らかとなる北朝鮮による日本人拉致問題の容疑者辛光洙をはじめとする北朝鮮スパイ容疑者10名が含まれていた。その事実を事前に看破できなかった要出典ことが、公明党・社会党など同じく署名を行った議員とともに批判をされた。しかしながら、近年の北朝鮮に関する言動は苛烈であり要出典、西村眞悟の選挙応援演説の際に「フセインやスターリンの銅像が倒れた歴史の中で、北朝鮮のあの大きな銅像も倒れる日が来ると確信している」と発言している。この発言をとりあげた北朝鮮当局は、菅直人はもともと信念も政策も何も無い政治家だと一方的に非難、激しく個人攻撃を行った。菅の拉致問題への政策は、拉致被害者全員の原状回復・核問題の解決・国交正常化・経済支援の三本柱を別々に行うのではなく、パッケージとして行う政策を提唱している
- 長崎県諫早湾干拓事業に対して、自然環境保全の観点から反対を表明していた。そして1997年4月、水門が閉められる正にその時間に現地事業事務所を訪問し、テレビカメラの前で「誰の指示でやっているのか。責任者を出せ」と述べた。
- 菅は自民党議員に多い世襲を批判しているが、自身に関しては菅の長男である菅源太郎が、2003年の衆議院議員総選挙に菅家の本籍地でもある岡山1区から民主党公認候補として立候補した。この長男の立候補に関して菅は、地盤が全く異なっており、地盤・看板・カバンといった世襲の弊害の元を引き継いでおらず、世襲ではないと指摘。民主党内規では、同一選挙区の世襲を禁止しているため、菅の主張はこれに沿ったものと思われる。
- 憲法改正論議に対しては、代表時代に「日本の国のあるべき姿を示す新たな憲法を作る」とした「創憲」を唱えており、「憲法発布から60年目に当たる2006年までに国民的運動を集約する形で民主党として新たな憲法のあり方を国民に示せるようにしたい」と主張していた。
- 首相の在任期間について「首相というのは少なくとも4年間は同じ人物が続けるべきだ。常々、鳩山首相にも言っている」と述べた。一方、参院選で自民党が大敗し、ねじれ国会となった際には「安倍首相が総理の座にいるかぎり国民が納得できる政治はできない」などと早急に辞任や解散をすべきと発言している。
- 日米関係について、「政治的には日米同盟が果たしてきた役割は大きかったし、これからもアジア、世界の安定のために最も重要な関係だ」と述べた。
- 沖縄県の米軍普天間基地移設問題について「基地問題はどうにもならない。もうタッチしたくない」と語っことを、民主党の参院議員、喜納昌吉が2010年6月1日発売の著作『沖縄の自己決定権』の中で暴露した。『沖縄の自己決定権』によれば、喜納昌吉に対し「沖縄問題は重くてどうしようもない。もう沖縄は独立した方がいいよ」と語ったとされる。
人物像
政治家として
- 高校時代に読んだオルダス・ハクスリーの『すばらしい新世界』の影響を受け、自身の政治哲学として「最小不幸社会」の実現を掲げている。
- 「イラ菅」というニックネームが示すように、癇癪持ちで短気な性格で知られる。もっとも近年は丸くなったとの評も多い。
- 政治家としての変わり身の早さから三木武夫、武村正義と並ぶ「バルカン政治家」(欧州の火薬庫といわれ駆け引きにあけくれたバルカン半島にちなむ)ともいわれ、「バル菅」とも称されている。
- 中尾則幸は1998年第18回参議院議員通常選挙で当初は北海道選挙区から出馬を希望していたが、定数4から2に変更されたことで92年初当選同期の現職峰崎直樹に同候補の座を奪われ比例区へ転出。さきがけ時代からの同志で中尾の後見人的存在であった幹事長代理鳩山由紀夫が民主党代表の菅に「くれぐれも、犠牲を払った中尾君が再選出来るように宜しく頼む」と上位にランクするように依頼したが結果は当選圏外。それ以後の鳩山は菅に対して不信感を露わにし、(中尾の友人)でジャーナリストのばばこういちにまで吐露した。
- 1980年の解散総選挙で議員に当選するまで、選挙で3回落選している(そのうち1回は参議院選挙)。また弁理士試験も3回落ちている。
- 1978年度版の平凡社百科年鑑に名前が載るなど、議員になる前から市民運動家としてそれなりの知名度を持っていた。
- 当時菅の選挙を手伝っていたジャーナリストの下村健一(元TBSアナウンサー)によると、「初当選から十年で自民党に対抗しうる勢力をつくり、その後十年で天下をとる」話を聞かされていたという(因みに下村以外に当時学生だった久和ひとみも菅の事務所に出入りしており、選挙の際はウグイス隊長を務めた。また、歌人の俵万智も久和の下でウグイス嬢を務めた)。
- 自身のO-157に関連する対応でカイワレ大根が打撃を受けた時には、カイワレ大根、狂牛病が騒がれると牛丼、トリインフルエンザが騒がれると焼き鳥をそれぞれ食べた。自著『大臣』で、カイワレ大根を食べるプレゼンテーションは知り合いの雑誌編集者からのアドバイスだったことを明らかにしている。なお、カイワレ大根のパフォーマンスについては、東京地裁の判決文において、「(カイワレ業者などが)納得するのであれば、批判の限りでない」が「(カイワレ大根がO-157に汚染されていたという)自ら招いた疑いを解くことができると期待してのことであれば、国民の知性を低く見過ぎるのではあるまいか」と批評されている。
- 2003年1月の衆院予算委員会において、当時の首相・小泉純一郎に対して国債30兆枠についての公約違反を厳しく追及し、「この程度の公約を守れなかったことは大したことではない」との失言を引き出したことがある。
- 近年では自民党の山崎拓、加藤紘一、国民新党の亀井静香としばしば意見交換を交わすなど連携を深めており、4人の頭文字から「YKKK」とも称されている。山崎は2008年12月14日に4人そろって出演したテレビ朝日系の番組サンデープロジェクト内において「この4人が政界再編の一つの軸となり得る」と強調、その動向が注目された。
- 民主党東京都総支部連合会の会長も務めている。『WILL』10月号において、「除名覚悟で民主政権を内部告発する!」と称する論文を掲載するなど、所属政党である民主党を激しく批判した板橋区選出東京都議会議員の土屋敬之に離党を勧告。土屋は、離党勧告の撤回と質問への回答を要求する抗議文を都連宛に送付している。
- 1991年、所属する民主党の党議拘束が外された国旗国歌法案の議決の際、民主党の一部議員や共産党、社民党と同じく、法案に反対した。また、一度も日本国歌である君が代を歌ったことはないと発言要出典したことがある。こういった経緯もあり、保守系勢力からの批判も多い。
- 2010年1月26日の参議院予算委員会に財務大臣として出席し、「公共事業は、一兆円出したら一兆円の経済効果しかない」などと従来型公共事業を批判した上で、子ども手当の経済効果はそれを上回ると言う趣旨の発言をした。これに対し、自由民主党の林芳正委員から、「それは乗数効果のことを言っているのか」「子ども手当の乗数効果はいくらか?」などと質問され答に窮して質疑を止めて官僚を呼び、再開後「子ども手当の消費性向は70%を見込んでいる」と答弁した。
- これに対し、再び林芳正委員から「乗数効果と消費性向の違い」について質問されると、再び質疑を止めて官僚を呼び、再開後、最終的には「乗数効果についての計算はしていない」と答弁した。答弁ではこれらを含め、計4回、答弁を止めて官僚を呼んだ。このことについて、林芳正委員は、「よく整理をして、この政策の効果はこれぐらいだというのが、ばらばらばらばら役所の人が紙を持ってきて慌てて答えるというふうにならないようにしておいていただきたいと思います。」と苦言を呈した。
その他
- 身長175㎝、体重70㎏。
- 趣味はスキューバダイビング(但しライセンスは未取得)、囲碁(小沢一郎とは20年来の囲碁仲間)。
- 歴史上の人物では児玉源太郎を尊敬しており、長男の源太郎という名前はこれに因んでいる。
- 新党さきがけ政調会長に就任する以前は、東京都武蔵野市境の自己所有マンション(2室)に居住していたが、深夜・早朝のマスコミ対応を余儀なくされたため、周囲の住民への配慮から、同市吉祥寺本町の借家に転居し、現在もそこに居住している。
- 武蔵野市では元市長の土屋正忠と長年に渡って都議選での代理戦争など主導権争いを続けている。通称「土菅戦争」(どかんせんそう)と地元では呼ばれている。
- 1999年に「週刊文春」で報じられた戸野本優子との不倫疑惑に関して菅自身は男女関係を否定。その際の「一夜は共にしたが男女関係はない」「(妻から)脇が甘いと言われた」という表現が、世間の流行語となった。愛妻家・恐妻家としても有名であり、不倫騒動後には「『バカたれ』と叱られた」と釈明した。
- 酒好きで、酒を飲まないのは年に5日程度と発言している。また大福にウィスキーなど和菓子を肴に酒を飲むのを好む(テレビ出演時の発言)。
- 好きな食べ物は焼魚・漬物など和食党である。
- 猫好きであり、自宅には拾って来て育てている猫がいる。
- 2004年に発生した新潟県中越地震によって発生した上越新幹線脱線事故について、公式ウェブサイトに「新幹線を迅速に止めるため、最後尾からパラシュートを出す」とのアイデアを紹介している。
- 本宮ひろ志が、参議院選挙に全国区から立候補、選挙の様子をリアルタイムで執筆し連載する予定だった漫画『やぶれかぶれ』に秘書らとともに、本宮の指南役として登場している。
- 東京工業大学在学中に麻雀点数計算機を発明。特許を取得し、いくつかの企業に製品化を持ち掛けたが、実用化には至っていない。現在もその試作機が存在し、千葉県いすみ市の麻雀博物館に展示されている。
- 元秘書に、秘書給与詐欺事件で実刑判決を受けた山本譲司がいる。
主な所属議員連盟
一族
家族・親族
- 実家
- 自家
- 母親は岡山県金光町議会議長を務めた地方政治家である。
- 長男 源太郎(政治運動家)
- 衆議院議員立候補経験がある。
- 二男
- 他家
- いとこ・義兄 姫井成(開業医)
- 浅口市金光町で開業医を営んでおり、2010年4月の浅口市長選に立候補し自身も3度に渡って応援したものの落選した。これを受け多くのメディアが民主退潮と報じた。
系譜
- 平安時代を代表する学者・詩人であり、有能な政治家でもあった菅原道真(学問の神様)の末裔を自称(仮冒)する“美作菅家党”とよばれる豪族が、中世の岡山県勝田郡を拠点に活動していた。その一族の有元佐弘の孫・佐常は下神目村に住み菅納左近と称して菅氏の祖となる。菅直人の父祖は代々下神目出身で、その末裔であるという。
- なお江戸時代、菅家は庄屋を務めた家柄であったといわれ、現在も下神目には菅姓を名乗る何軒かの家があり、その家紋は菅原氏の紋の「梅鉢」である。
- 美作菅家党は有元家を宗家として近世作州の名門とされている。しかし菅公の後裔とはしながらも、確実な系譜はないというのが実状である。
- 祖父の實は開業医であり、岡山県久米郡医師会長、郡会議員等を歴任した。
(有元筑後守) (菅納左近) 菅原道真……(中略)……忠勝━祐頼━佐高━佐弘━佐顕━佐常━━━┓ ┃ ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛ ┃ ┗(中略)…利兵衛為重━勘八━利兵衛━善三郎勝重━實太郎重秀━元太郎家重━實忠重━寿雄━直人┳源太郎 ┗男
著書
- 『新・都市土地論』飛鳥新社、1988年12月、ISBN 4870310481
- 『国会論争「土地政策」』新評論、1992年11月、ISBN 4794801599
- 『変革の時代』開発社、1995年6月、ISBN 4759100938
- 『日本大転換 二十一世紀へ希望を手渡すために』光文社、1996年10月、ISBN 4334971261
- 『民益論 われら官僚主導を排す』(鳩山由紀夫との共著)、PHP研究所、1997年7月、ISBN 4569556426
- 『大臣』(『岩波新書』)、岩波書店、1998年5月、ISBN 4004305586
- 『改革政権準備完了 私に賭けてください』光文社、2002年9月、ISBN 4334973582
- 『総理大臣の器 「菅」対「小泉」マニフェスト対決』幻冬舎、2003年10月、ISBN 4344004051
- 『政権交代のシナリオ 「新しい日本」をつくるために』(小沢一郎との共著)、PHP研究所、2003年11月、ISBN 4569631908
- 『菅直人 市民運動から政治闘争へ 90年代の証言 』(五百旗頭真・伊藤元重・薬師寺克行編)、朝日新聞出版、2008年6月 、ISBN 4022504447
脚注
関連書籍
- 『がんばれ菅直人』板垣英憲著、同文書院、1996年、ISBN 4810373304
- 『日本変革 菅直人+小沢一郎は政治をどう変えるのか』板垣英憲著、ベストセラーズ、2003年、ISBN 4584159769
- 『菅直人の一歩 : 薬害エイズ問題でなぜ官僚に勝てたのか?』伊藤雄一郎、ハローケイエンターテインメント、1996年、ISBN 4584182469
- 『菅直人総理待望論 菅直人政権で日本はこう変わる』木下厚著、あっぷる出版社、ISBN 4871771482
- 『菅直人は天下を取れるか』山口朝雄著、エール出版社、1998年、ISBN 4753917576
- 『沖縄の自己決定権』喜納 昌吉 (著) 、未来社、2010年、ISBN-10: 4624301145
関連項目
外部リンク
官職 | ||
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先代: | 内閣総理大臣 第94代 : 2010年 -
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次代: 現職
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先代: | 国務大臣(副総理) 2009年 - 2010年
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次代: ー
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先代: | 財務大臣 第13代:2010年
|
次代: |
先代: | 特命担当大臣(経済財政政策) 第13代 : 2009年 - 2010年
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次代: |
先代: | 特命担当大臣(科学技術政策) 2009年 - 2010年
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次代: |
先代: | 厚生大臣 第80代:1996年
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次代: |
党職 | ||
先代: | 民主党代表 初代 : 1998年 - 1999年
第3代 : 2002年 - 2004年 第8代 : 2010年 - |
次代: |
先代: | 民主党代表代行 2006年 - 2009年
|
次代: ー
|
先代: | 民主党幹事長 第2代:2000年 - 2002年
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次代: |
先代: | 民主党政策調査会長 第3代:1999年 - 2000年
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次代: |
先代: 結成
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(旧)民主党代表 初・第2代 : 1996年 - 1998年
初代時は鳩山由紀夫との共同代表制 |
次代: 民主党へ
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歴代内閣総理大臣 | |||||
第93代 鳩山由紀夫 |
第94代 2010年 - |
第代 [[]] | |||
第代 [[]] |
第代 |
第代 [[]] | |||
第代 [[]] |
第代 |
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第代 [[]] |
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