岡田克也
日本の政治家 岡田 克也 おかだ かつや
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生年月日 | 1953年7月14日((2024-1953)+((12-7)*100+(21-14)>=0)-1歳) |
出生地 | 三重県四日市市 |
没年月日 | |
死没地 | |
出身校 | 東京大学法学部卒業 |
前職 | 通商産業省大臣官房 総務課企画調査官 |
現職 | |
所属政党 | (自由民主党→) (新生党→) (新進党→) (国民の声→) (民政党→) 民主党 |
所属委員会 | |
議員会館 | |
選挙区 | (旧三重県第1区→)
三重県第3区 |
当選回数 | 7回
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元首 | |
称号・勲章 | 法学士(東京大学・1976年) |
世襲の有無 | 無 |
親族 | 村上誠一郎(義兄) |
配偶者 | |
サイン | [[画像:|128px|サイン]] |
公式サイト | 岡田かつや ホームページ |
第142代 外務大臣 | |
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内閣 | 鳩山由紀夫内閣 |
就任期間 | 2009年9月16日 - 現職
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第4代 民主党代表 | |
内閣 | |
就任期間 | 2004年5月13日 |
衆議院議員 | |
内閣 | |
就任期間 | 1990年 - 現職
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内閣 | |
就任期間 | -
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就任期間 | -
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その他の職歴 | |
岡田 克也(おかだ かつや、1953年(和暦??年)7月14日 - )は日本の政治家、元官僚。衆議院議員(7期)。外務大臣。衆議院安全保障委員長、民主党幹事長、副代表、民主党代表(4代)などを歴任した。
自民党出身で、細川内閣・羽田内閣に参加後、鳩山由紀夫内閣で外務大臣に就任した。
目次
略歴[編集]
生い立ち、官僚時代[編集]
三重県四日市市にイオングループの創業家の次男として生まれる。男3人兄弟の真ん中である。
四日市市立中部西小学校・四日市市立中部中学校を卒業後、父親が経営するイオングループの大阪進出に伴い、父と共に大阪に移住し、大阪教育大学附属高等学校池田校舎を経て東京大学法学部を卒業。公のための仕事に就くという幼少時からの夢のため、1976年通商産業省に入省。同期には高橋はるみ北海道知事らがいた。
通産省では中小企業対策や石油問題などを手がけた。1985年に米国ハーバード大学国際問題研究所に派遣され、研究員として1年滞在。留学中はエズラ・ヴォーゲルに師事した。この頃から政治への問題意識を抱き始め、同時に官僚として出来ることの限界に気付くようになる。
政界入り[編集]
四日市市を地盤としていた竹下派議員・山本幸雄の後継者としての出馬を竹下登が早大の1年後輩である父・岡田卓也を通じて打診、克也が「やってもいい」と意欲を見せたことで出馬に至った[1]。1988年7月、大臣官房総務課の企画調査官を最後に通産省を退官。自民党新人として1990年の第39回衆議院議員総選挙に出馬、滑り込みであったが当選した。自民党離党後の第40回衆議院議員総選挙ではトップ当選、以後、強力な地盤で選挙に強くなり、小選挙区制が有利に働き、三重3区で大差で連続当選している。
当初、経世会に所属していたが、政治資金規正法や選挙制度の改正をめぐって竹下登ら守旧派と対立し、離脱。羽田孜、後藤田正晴らと共に政治改革を訴え、若手国会議員の代表格として頭角を現していく。
一連の政争を重ねる中で「一国の総理大臣が、金集めがうまいかどうかで決まる」(本人談)という当時の自民党の派閥政治を目の当たりにし、愕然とする。1993年、宮澤内閣改造内閣不信任案に賛成して自民党を集団離党、3年半の自民党生活に終止符を打った。
その後は、羽田、小沢一郎に従って新生党結党に参加し、翌1994年新進党に合流。二大政党時代を目指すが、1996年の総選挙敗北後の党内抗争激化を受け、翌1997年に小沢が新進党解党を宣言する。有権者を裏切る行為だとして岡田は解党に強く反対するも、決定は覆らなかった。以後、小沢とは民主党と自由党の合併まで袂を分かつこととなる。
民主党時代[編集]
新進党の解党後、国民の声、民政党を経て民主党結党に参加、政策調査会長代理に就任。以後、衆議院安全保障委員長、政策調査会長、幹事長代理を歴任する。2002年の民主党代表選に立候補するも菅直人に敗れ、幹事長に就任する。
2004年、菅が年金未納問題で代表を辞任し、有力後継候補と目されていた小沢一郎も同様に国民年金未払が発覚し出馬を辞退。この事態により、岡田が同年5月18日より代表を務めた。
代表就任以降、「野党」ではなく「政権準備党」を名乗るなどして衆議院選挙での政権交代をアピールした。菅・小沢の辞任・辞退を受けて急遽代表に就任したため、その行く末を危ぶむ声も多かった。2004年7月11日の参議院通常選挙では自民党を1議席上回る50議席を獲得した。
2004年9月13日の代表選挙で無投票再選を果たす。役員人事で幹事長に川端達夫、代表代行に藤井裕久を任命する。
2005年8月の郵政民営化問題を契機とする衆議院解散(郵政解散)で自民党が分裂選挙となったことから、当初は「政権獲得千載一遇のチャンス」などといわれたが、小泉劇場の前に民主党は埋没し、9月11日の総選挙では公示前勢力を64議席下回る113議席に終わり大敗。岡田は9月12日に代表を引責辞任した。
2006年9月、民主党の改造人事で民主党副代表に就任。
2007年、政治改革推進本部長、衆議院予算委員会筆頭理事、党地球温暖化対策本部長に就任。
2009年3月、小沢一郎の秘書が西松建設からの違法献金容疑で逮捕され、5月に小沢が代表を辞任すると、党若手議員からの支持を受けて代表選挙に出馬した。事前の世論調査では優位に立っていたが、対立候補の鳩山由紀夫に僅差で敗れ、幹事長に就任。
2009年8月の第45回衆議院議員総選挙では小選挙区制導入以来、自身最多得票数で再選。9月に発足した鳩山由紀夫内閣で外務大臣に就任。
政策・主張[編集]
外交・国際問題[編集]
- 日米同盟を基軸としながらも、中国重視の姿勢を見せている。国際貢献には積極的な姿勢をみせ、日本国憲法第9条を改正した上で国連を中心とした集団的安全保障への参加と武力行使を容認する姿勢をみせている[2]。これは前代表の菅直人が提唱した穏健な国防・改憲議論とは一線を隔すものであり、この路線は後任の前原体制にも引き継がれた。
- 中台問題では訪台や台湾当局者の会談の際に独立反対を明言し、台湾側から厳しく批判された[3]。
- 靖国問題では、中国などからの批判に対して説明不足であることを理由に、当時の小泉首相に重ねて参拝中止を要求、中国などを説得出来ないのなら参拝すべきではないとした。
- 「民主党核軍縮促進議員連盟」を作り、核不拡散・核軍縮の提言を行っている。非保有国への核使用を無条件に違法とする国際法の確立や非核三原則の東北アジアにおける共有を提案し、将来的な核兵器の廃絶を目指している[4]。
- 歴史教科書問題では、(日本の侵略戦争について謝罪した1995年の)村山談話に基づいて、「韓国・日本・中国共通の教科書を作るのが最も理想的」と繰り返し主張している[5][6]。
- 東シナ海ガス油田問題について「微妙な問題は信頼関係を大事にしながら話し合うべきだ」と日本側の権益に消極的な姿勢を示している。
- 在日韓国人をはじめとする永住外国人住民の法的地位向上を推進する議員連盟会長として永住外国人に地方参政権を持たせることを主張している。
- 沖縄返還及び非核三原則に纏わる4つの密約(西山事件の問題他)は全て公開されるべきであるとする立場で、外務省にも2009年11月までに報告するよう命じている。
経済・財政[編集]
- 「自由で公正な社会」を標榜する。経済政策では「小泉(元)総理以上の市場経済主義者」を自認するなど、政府の役割を認めながらも自由主義的な傾向が強く[7]、民主党内では改革派と見られている。一方で、「実質的な機会の平等」を実現するため教育の重要性を繰り返し説いている。
- 政策の優先順位が低いとして道路予算の見直しを訴えている。三重県の道路建設促進協議会の顧問就任も拒否している。
- 自動車ユーザーにガソリン税の暫定税率を負担させながら道路特定財源の一般財源化を行うのは、租税法定主義の原則から問題があるとして、暫定税率の廃止を主張している[8]。
- 財政再建に向けて積極的に提言をしており、公共事業費の削減[9]、公務員の人件費2割削減[4]、特別会計の1割削減[10]などの歳出カットを訴えている。
- 所得格差是正のため、所得税や相続税の最高税率見直しを含む累進課税の強化を実行すべきだと述べている。[11]
- 年金の基礎部分にあてる財源として、将来的な消費税引き上げの議論を始めるべきだとしている[10]。
- 日本経団連の政党に対する政策評価を批判している。評価の理由説明が不十分な上、各企業の政党に対する献金について介入するやり方に問題があるとしている。[12]
環境[編集]
- 地球温暖化問題に対する危機意識が強いとされる。日本として二酸化炭素排出量を2020年までに25%、2050年までに60%削減させることを法律に明記させるべきだとしている。[13]
- 企業が出す二酸化炭素に課税する環境税の導入を提案している。[14]
行政改革・社会保障[編集]
- 積極的に税源を移譲するなどして地方主権を進め、国と地方のあり方を変えるべきだとしている。[15]
- 政策を官僚に丸投げするやり方を批判し、政治家主体の行政を実現すると語っている。
- 役人の天下り問題には厳しい姿勢を取っており、全面禁止を主張している。[16]
- 将来的には子ども手当てを月4万円に引き上げるべきだと言っている。それには高額所得者に有利な配偶者控除や扶養控除制度の廃止、歳出の削減に加えて新たな財源の手当てが必要だとしている。[17]
- 河野太郎、野田毅ら自民党議員の有志を含む超党派で取りまとめた年金抜本改革案を発表している。年金一元化、基礎年金の全額税方式といった従来の案に加え、270兆円の純債務を別勘定に切り離す、20年程度で新方式へ完全移行することなどを提唱している。[18]
- 国会開会式での天皇のおことばについて、「陛下の思いが少しは入った言葉がいただけるような工夫を考えてほしい」と述べ、宮内庁に対しておことばの見直しを検討するよう求めた[19]。この発言については西岡武夫参院議院運営委員長が「極めて不適切な発言だ」と批判するなど、与野党から批判の声があがっている[20]。ちなみに、国会の開会式でのおことばの作成は宮内庁ではなく内閣官房総務官室で作成している。詳細はおことば#おことばをめぐる問題を参照。
選挙関連[編集]
- 政治家への入口を狭くしてしまうことが組織全体の活力の低下につながるとして、国会議員の親族が同一選挙区から連続で立候補する世襲規制を打ち出している。[21]
- 2005年の衆議院選挙後にTBSの「新・調査情報」のインタビューにて「政治は真面目なものであるべき」と主張するなど小泉内閣における「劇場型民主主義」に対して批判的な姿勢を取った。
- 企業・団体からの政治献金は全面的に禁止するべきとし、併せてインターネット献金の普及、個人献金の税額控除、公設秘書の増員などの制度の導入を主張している。[22]
政策・主張 (外務大臣として)[編集]
「アジア非核地帯構想」を提唱[編集]
- 2009年10月12日、パキスタンを訪問。海上自衛隊のインド洋での給油活動の継続を求めるパキスタン政府に対して、鳩山由紀夫内閣は給油活動延長の意思はないことを説明し、理解を求めた。また、パキスタンが核保有国であることを非難し、『核のないアジア』を提唱したが、ザルダリ大統領からは「日本は(同じく核保有国の)インドを説得して欲しい」と反論された。[23] これに対して、岡田は「インドの国防費の拡大は中国をにらんだものだ。」「オバマ米大統領は核のない世界を提唱したが、自分は核のないアジアを提唱したい」など述べたが、同意は得られなかった。[1]
- また、同日に行われたクレーシ外相と会談で、核の不拡散問題について、パキスタンが疑念を抱かれるようなことがあれば、国際社会の対応は厳しくなる」と述べ、第3国などに核物質などが流出することがないように管理の徹底を求めたが、クレーシ外相は「パキスタンは責任ある核兵器国である。核物質の管理に責任を持って対応している」と不快感を示し、「パキスタンの安全保障上の懸念も理解してほしい。南アジア地域の安定を図りたい。パキスタンは攻撃的ではなく防衛的な政策をとっている」と反論した。[2]
人物像[編集]
個人として[編集]
- 身長176cm、体重76Kg、血液型O型
- 支持者には「真面目でクリーン」といったイメージで捉えられることがあり、「ミスター・クリーン」と呼ばれることもある[24]。その容姿などから「ロボコップ」とあだ名されることもある[25][26]。
- 趣味は読書・映画鑑賞など。他にも音楽をレトロなカセットテープで聞くことがあり、GACKTの「君に逢いたくて」を好んでいる。
- 10代からカエルの置物を収集している[24]。海外に出かけた際にも「安価でどこの国にもあり、またお土産に何を買うかあらかじめ決めておけば悩まなくても良いから」という理由で、必ず買い求めるようにしている[27][28]。東京の事務所にはカエルの置物が大量に飾られている[24]。“カエル”には二つの意味があり、一つは「海外へ出張しても、無事妻や子供達の元へ『帰る』」という思い、もう一つは「政権を『変える』」という意味が篭っているとされる。
- 実兄がイオングループ社長、実父が創業者と、イオンに一家で関わっている事から、グループとの関係性が取り沙汰されることがある[29][30](かつて小泉純一郎首相の靖国神社参拝に反対した際、西村眞悟からは「中国の代弁者をした奴が総理になれるわけがない。あんな奴はスーパー経営でもしとったらええねん」と罵倒された)が、イオンとの関係を取り上げられることを嫌う。
- 今日では中堅流通グループとなったイオンだが、岡田の少年期はジャスコが三重を中心とした地域企業から関西・全国へと拡大していく過程であり、父の苦労する姿のほうが印象に残っているという。[31]
- 高校時代に進学していた大阪教育大学附属高等学校池田校舎で、当時の学園紛争に巻き込まれ、同校には後にハーグ事件をおこす西川純らが中心となって「学園封鎖」の先頭に立っていた。大多数の学生が学園封鎖に賛成していたが、岡田はごく少数の封鎖反対派の立場に回り、「高校生は将来の日本を背負うために今は勉強すべきだ。政治の問題を学校に持ってくることが本末転倒ではないか」と主張し譲らなかったという。
- 大学時代は勉強より読書に夢中だった。大学の教養課程では、佐藤誠三郎の名物ゼミに所属し、社会科学の古典を週に何冊も読んだという。当時衝撃を受けた本としてドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を挙げ、三兄弟の中でもイワンに共感を覚えたという。
- 尊敬する歴史上の人物として織田信長をあげており、本人曰く「日本の歴史上最高の人物だと思う。変革期・激動期に、旧来の考えにとらわれず信念に基づいて行動した。タブーをおそれない改革精神と実行力を見習いたい。やり方は荒ぽかったが、あの時代はあれしかなかったと思っている」と述べている。
政治家として[編集]
- 政策通として知られ、環境から経済、安全保障まで幅広い分野に精通している[26]。
- 国会議員の世襲反対の立場から、強力な地盤がありながら、三重3区を子供など血縁者に継がせない方針である。
- 民主党代表時代には、手堅い手腕でボトムアップによる全会一致主義の党運営を行った。一方、党内で意見が分かれた場合には代表預かりとすることが多かった。
- 演説の内容が細かく、大下英治の著書によると、民主党の藤田幸久元衆議院議員が有権者に「小泉総理は生命保険のキャッチフレーズを提示したが、岡田代表は約款を読んでいる」と揶揄されたと言った。
- 派閥政治を嫌い、党内のどのグループにも属していない。
エピソード[編集]
- 会合に出席するため朝4時半に目覚まし時計をセットしたものの1時間寝過ごし、人生で初めて寝坊をした。翌日も寝坊してしまい、おかしいと思って時計を調べてみると壊れていたという。その時計は初当選以来20年近く使い続けていたものだった。[32]
- 業界からの献金だけでなく、支持者からの贈り物は一切受け取らず、直筆の礼状を添えて送り返しているというが、贈り物として届いた伊勢エビを受け取らず腐らせてしまったり、生花の贈り物も拒否して枯らしてしまったという出来事もあった。
- 新進党議員総会において一方的に解散を宣言した小沢一郎に対し、声を荒げて食い下がる場面があった。
- 2005年に行われた衆議院解散総選挙の直前にライブドア代表取締役社長の堀江貴文の要請で堀江と会談を行ったが出馬要請を見送った。理由は「堀江氏が真面目に政治に取り組む姿勢を感じられなかったこと、有権者を見下すような発言を行ったため」と岡田は述べている。
- 民主党参議院議員だった大橋巨泉が、議員在職当時、毎日新聞のインタビューで、岡田の真面目さを「議会が終わったらすぐ図書館」と形容した。大橋流の例え話だったのだが、大橋によると、後日二人が会った時、岡田が「僕は議会の後図書館に行ったことはありません」と真面目に反論したという。
- 利益供与や金銭の遣り取りに敏感で、同僚議員との食事であっても割り勘を原則とするため、党若手議員との懇親会を開いた際も「食事を済ませてから来てほしい」と事前に通告していた[33]。
主な発言[編集]
- 「今の説明、私は納得できません。新進党と書いていただいた有権者に対する裏切りだ!」
- 1997年、両院議員総会で新進党解党を宣言した小沢一郎に対し。
- 「イラクの状況から米軍が駐留する責任はあるが自衛隊は憲法上撤退すべきだ」
- ハワード・ベーカー駐日米国大使との会談中に。
- 「金大中前大統領が言われた未来志向のレールの上をうまく走っていないとすれば、主に日本側に問題があると思う」
- 羅鍾一駐日大使との会談中に。
- 「(拉致被害者)5人の方が『いたい』というなら日本にとどめておくことは当然だが、政府が決める必要はなかった。そのことで北朝鮮が態度を硬化させた。世論に迎合しすぎだ」
- 2003年1月19日、拉致被害者5人を北朝鮮に返さないとした日本政府の方針に対してのNHK討論番組における発言。
- 「アルコール中毒で悩んでいる人の目の前にビールを置いたり、糖尿病患者の目の前に饅頭を置いたりするようなものだ。病が深くなるだけで何の意味もない」
- 2008年12月23日、鹿児島県曽於市での講演での発言。2008年度第2次補正予算案に盛り込まれた定額給付金について。[34]
- 「陛下の思いが少しは入った言葉がいただけるような工夫を考えてほしい」
- 2009年10月23日、国会開会式での天皇陛下のお言葉について閣議後の閣僚懇談会で述べ、宮内庁に対しお言葉の見直しを検討するよう求めた[19]。
その他[編集]
- 自民党時代、初当選を果たした総選挙においてジャスコの従業員を動員して選挙活動を行っていたと共産党から指摘された。[35]
- 2004年、通産省勤務時代に岡田家の資産管理会社の取締役を務めていたことが週刊文春の取材で明らかになり、これが公務員の兼職禁止規定違反にあたるものだったとして代表定例会見で説明、謝罪している[36]。一方で、自身の釈明がマスコミ取材まで行われず、結果的に公訴時効以後にまでに時間がかかったこと、自身のプロフィールに公務員法違反時の勤務先の記載のないことに関しては、経歴をどこまで書くかは本人に委ねられていることを挙げ、隠していたわけではないと釈明した。
- 2009年7月、鳩山由紀夫の「故人献金」に端を発する政治資金報告書虚偽記載問題に関連して、鳩山の対応を「自民党にも様々な疑惑があるが、自ら非を認めて謝罪をしたのは鳩山氏だけだ」と評価した。[37]。
- 2009年3月、「岡田克也と(民主党の当時の代表との不適切な関係を指摘されている)西松建設が怪しい」との見出しで報道した週刊朝日[38]に対し、誤解を与える広告であるとして抗議をおこなった[39]。後日、週刊朝日側が誤りを認め、謝罪している[40]。
- 2007年、新興宗教崇教真光の第48回秋季大祭に出席し、民主党の石井一副代表と共に祝辞を述べている。
- 2009年元旦に、立正佼成会四日市教会で年越参り、立正佼成会桑名教会で元旦参りをしている[41]。
関係団体[編集]
- 在日韓国人をはじめとする永住外国人住民の法的地位向上を推進する議員連盟会長
- 民主党日韓議員交流委員会顧問
- 北京オリンピックを支援する議員の会副会長を務めた。
- 日韓議員連盟所属
- NGO海外活動推進議員連盟
- 核軍縮促進議員連盟
家族 親族[編集]
- 3人の子供がいる
系譜[編集]
- 岡田家
- 1758年、初代惣左衛門が現在の三重県四日市市にて太物〈綿・麻織物〉・小間物等を売り歩く行商人として、「篠原屋」を創業。6代目の惣右衛門が個人経営から株式会社組織・岡田屋呉服店に改組した[42]。7代目の卓也は日本の単なる一地方の呉服屋にすぎなかった岡田屋を世界に通用するイオンジャスコグループに発展・拡大させた。
┏元也 惣左衛門━惣右衛門━惣助━惣八━惣右衛門━惣右衛門━卓也━╋克也 ┗男
文献[編集]
著書[編集]
- 『政権交代―この国を変える』 講談社、2008年6月、ISBN 406214607X
関連文献[編集]
- 『岡田克也、父と子の野望』榊原夏、扶桑社、2004年、ISBN 4594048250
関連項目[編集]
脚注[編集]
- ↑ 文藝春秋2009年10月号 奥野修司「岡田と菅『新権力者』の肖像」
- ↑ 『読売新聞』2004年7月16日。
- ↑ 林建良 (2004-09-28) 林建良 台湾を苛めて中国の機嫌を取る岡田代表:時局コメンタリー 時局コメンタリー 時局心話會 2004-09-28 [ arch. ] 2009-10-25
- ↑ 4.0 4.1 岡田克也 () 岡田克也 東北アジア非核兵器地帯条約(案) PDF 岡田かつや ホームページ [ arch. ] 2009-10-25
- ↑ 2004年6月におこなわれたウリ党議長(当時)辛基南との会談
- ↑ 2009年10月7日、東京外国特派員協会の講演
- ↑ 衆議院予算委員会 平成16年02月10日
- ↑ http://katsuya.weblogs.jp/blog/2008/04/post-9c48.html#more
- ↑ http://katsuya.weblogs.jp/blog/2007/06/post_c68e.html#more
- ↑ 10.0 10.1 2009年5月15日、民主党代表選討論会ほかで発言
- ↑ http://katsuya.weblogs.jp/blog/2006/05/post_62e4.html#more
- ↑ http://katsuya.weblogs.jp/blog/2007/11/post_d9a7.html#more
- ↑ http://katsuya.weblogs.jp/blog/2008/06/post-437b.html#more
- ↑ http://katsuya.weblogs.jp/blog/2007/11/post_d9a7.html#more 及び2007年参院選民主党マニフェスト
- ↑ http://www.dpj.or.jp/news/?num=788
- ↑ http://www.katsuya.net/upload/pdf/daihyou_koyaku.pdf
- ↑ http://katsuya.weblogs.jp/blog/2006/01/post_8091.html#more
- ↑ http://www.katsuya.net/upload/pdf/nenkinseidokaikaku.pdf
- ↑ 19.0 19.1 (2009-10-23) 「お言葉に陛下の思いを」と外相 閣僚懇で宮内庁に検討要請 共同通信 47NEWS [ arch. ] 2009-10-24
- ↑ (2009-10-23) 外相「天皇お言葉」発言、政治利用との批判も 読売新聞 [ arch. ] 2009-10-24
- ↑ http://katsuya.weblogs.jp/blog/2009/04/post-a548.html#more
- ↑ http://katsuya.weblogs.jp/blog/2009/04/post-e143.html#more
- ↑ 2009年10月12日23時00分 読売新聞
- ↑ 24.0 24.1 24.2 次期首相とも目される「ミスター・クリーン」、民主党・岡田克也氏の素顔AFPBB News、2009年5月2日記事
- ↑ (2009年5月12日) 融通効かない“ロボコップ岡田” 民主後継争い激化 iza(産経新聞) 2009年5月12日 [ arch. ] 2009年7月7日
- ↑ 26.0 26.1 (2009年5月14日) 岡田氏、政策通の原理主義者 頑固な「ロボコップ」 iza(産経新聞) 2009年5月14日 [ arch. ] 2009年7月7日
- ↑ 岡田かつやホームページ(2007年10月31日)
- ↑ 岡田かつや TALK-ABOUT(2009年3月18日)
- ↑ 都市伝説 岡田代表誕生でイオン特売!? iza 2009年5月15日01:21配信
- ↑ どうなる民主党総裁選 株式市場→鳩山支持!? イオンは岡田効果否定 日本証券新聞 2009年5月18日13:00配信
- ↑ 著書『政権交代』
- ↑ http://katsuya.weblogs.jp/blog/2008/08/post-11f3.html#more
- ↑ http://www.nikkei.co.jp/news/seiji/20090626AT3S2502J25062009.html
- ↑ 読売新聞 「アルコール中毒の人にビール」岡田副代表が定額給付金批判[リンク切れ]
- ↑ 衆議院予算委員会 2号 平成2年3月8日 原文へのリンクが容易ではないので、ミラーページを参照のこと。
- ↑ 同会見で、岡田と民主党が当時批判していた小泉総理(当時)の勤務実態のない不動産会社に関するプロフィールへの記載の問題と比較した質問に対し、説明の場を設けていることを理由に「開き直っている小泉さんと一緒くたに議論されることは、極めて不本意」という旨の弁明を行った。一連の経緯について、当時国家公務員法を知らなかったことが原因とした説明に対し、岡田が法学部出身であることなどから「俄かに信じがたい」と週刊文春が批判している。また、党をあげて問題視してきた小泉のプロフィールへの記載の問題に関して、「経歴をどこまで書くかは本人に委ねられている」として、自らお墨付きを与えることになり、この問題は立ち消えになった。
- ↑ 。献金偽装、自民が騒ぎ立てている…民主・岡田氏 読売新聞 2009年7月4日
- ↑ 週刊朝日 2009年4月3日号
- ↑ (2009年3月24日) 西松報道、「週刊朝日」に抗議=民主・岡田氏 時事通信 2009年3月24日 [ arch. ] 2009年6月6日
- ↑ 週刊朝日 2009年4月10日増大号
- ↑ 2009年1月1日活動記録岡田かつやホームページ
- ↑ livedoor ニュース、榊原夏著『岡田克也、父と子の野望』より
外部リンク[編集]
- 岡田かつやホームページ(公式サイト)
- 岡田かつや TALK-ABOUT(公式ブログ)
- 岡田かつや YOUTUBE公式チャンネル(公式動画)
- 民主党・三重県総支部連合会
官職 | ||
---|---|---|
先代: | 外務大臣 第142代:2009年 -
|
次代: 現職
|
党職 | ||
先代: | 民主党代表 第4代:2004年 - 2005年
|
次代: |
先代: | 民主党幹事長 第4代 : 2002年 - 2004年
第8代 : 2009年 |
次代: |
先代: | 民主党政策調査会長 第4代 : 2000年 - 2002年
|
次代: |
歴代の外務大臣 |
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外務大臣(太政官達第69号) |
井上馨 - 伊藤博文 - 大隈重信 - 青木周藏 - 榎本武揚 - 陸奥宗光 - 西園寺公望 - 大隈重信 - 西德二郎 |
外務大臣(外務省官制(明治31年勅令第258号)) |
大隈重信 - 青木周藏 - 加藤高明 - 曾禰荒助 - 小村壽太郎 - 加藤高明 - 西園寺公望 - 林董 - 寺内正毅 - 小村壽太郎 - 内田康哉 - 桂太郎 - 加藤高明 - 牧野伸顯 - 加藤高明 - 大隈重信 - 石井菊次郎 - 寺内正毅 - 本野一郎 - 後藤新平 - 内田康哉 - 山本權兵衞 - 伊集院彦吉 - 松井慶四郎 - 幣原喜重郎 -
田中義一 - 幣原喜重郎 - 犬養毅 - 芳澤謙吉 - 齋藤實 - 内田康哉 - 廣田弘毅 - 有田八郎 - 林銑十郎 - 佐藤尚武 - 廣田弘毅 - 宇垣一成 - 近衞文麿 - 有田八郎 - 阿部信行 - 野村吉三郎 - 有田八郎 - 松岡洋右 - 豐田貞次郎 - 東郷茂德 - 東條英機 - 谷正之 - 重光葵 - 鈴木貫太郎 - 東郷茂德 - 重光葵 - 吉田茂 - 芦田均 - 吉田茂 |
外務大臣(外務省設置法(昭和24年法律第135号)) |
吉田茂 |
外務大臣(外務省設置法(昭和26年法律第283号)) |
吉田茂 - 岡崎勝男 - 重光葵 - 岸信介 - 藤山愛一郎 - 小坂善太郎 - 大平正芳 - 椎名悦三郎 - 三木武夫 - 愛知揆一 - 福田赳夫 - 大平正芳 - 木村俊夫 - 宮澤喜一 - 小坂善太郎 - 鳩山威一郎 - 園田直 - 大来佐武郎 - 伊東正義 - 園田直 - 櫻内義雄 - 安倍晋太郎 - 倉成正 - 宇野宗佑 - 三塚博 - 中山太郎 - 渡辺美智雄 - 武藤嘉文 - 羽田孜 - 柿澤弘治 - 河野洋平 - 池田行彦 - 小渕恵三 - 高村正彦 - 河野洋平 |
外務大臣(外務省設置法(平成11年法律第94号)) |
河野洋平 - 田中眞紀子 - 小泉純一郎 - 川口順子 - 町村信孝 - 麻生太郎 - 町村信孝 - 高村正彦 |