レコード大賞
『日本レコード大賞』(にほんレコードたいしょう)は、1959年に始まった日本で最も有名な音楽に関する賞である。略称は「レコ大」(レコたい)。英語表記は「THE JAPAN RECORD AWARD」(ザ・ジャパン・レコード・アワード)。
主催は公益社団法人日本作曲家協会、後援はラジオ東京(KRテレビ、現TBS)である。
なお歌手が受賞を辞退した場合又は歌手がその年に死去した場合、その楽曲は大賞受賞曲とはならない。
放送上の番組名は『輝く!日本レコード大賞』[1](かがやく! にほんレコードたいしょう)。民放では数少ないテレビ・ラジオの同時放送番組でもある。 歴代最多の大賞受賞アーチストは、4回のEXILEである。
目次
概要
企画にあたってはアメリカのグラミー賞をヒントにして、2人の作曲家(古賀政男、服部良一)と音楽評論家平井賢による話し合いからグラミー賞創設の翌年1959年に作られた。
日本に刺激を受けたアジアの国々が続々と音楽賞を作った。
第46回(2004年)から東京都渋谷区本町の新国立劇場・中劇場で開かれている。
年別詳細
1950年代 1959
1960年代 1960 - 1961 - 1962 - 1963 - 1964 - 1965 - 1966 - 1967 - 1968 - 1969
1970年代 1970 - 1971 - 1972 - 1973 - 1974 - 1975 - 1976 - 1977 - 1978 - 1979
1980年代 1980 - 1981 - 1982 - 1983 - 1984 - 1985 - 1986 - 1987 - 1988 - 1989
1990年代 1990 - 1991 - 1992 - 1993 - 1994 - 1995 - 1996 - 1997 - 1998 - 1999
2000年代 2000 - 2001 - 2002 - 2003 - 2004 - 2005 - 2006 - 2007 - 2008 - 2009
2010年代 2010 - 2011 - 2012 - 2013 - 2014
種類
各賞
各賞受賞者には東郷青児作の楯が授与される。またかつてはTBS賞として新制作協会員の吉田芳夫作のブロンズ像が贈られていた。
- 「日本レコード大賞」
- 対象年度に発売されたすべての邦楽シングルCDの中で「作曲、編曲、作詩を通じて芸術性、独創性、企画性が顕著な『作品』」、「優れた歌唱によって活かされた『作品』」、「大衆の強い支持を得た上、その年度を強く反映・代表したと認められた『作品』」、以上3点に該当する『1作品』に贈る。そのため、賞の授与対象は対象曲を歌唱した歌手に限らず作詞・作曲・編曲者・所属プロダクション・所属レコード会社が対象になる。審査対象は、「優秀作品賞」に選ばれた作品とする。
- 過去には副賞としてテレビ番組スポンサーの1社(自動車メーカー)から車が贈られた。
- 「最優秀歌唱賞」
- 対象年度内の作品を最も的確に表現し、さらに高めた『歌手』に贈る。審査対象は「金賞」に選ばれた作品の歌手としていたが、第50回(2008年)からは11月下旬から12月上旬にかけて行われる選考委員会で決定されることになった。
- 「優秀作品賞」
- 大衆の強い支持を得て作品としても芸術性・独創性に優れ、その年度を反映したと認められた『作品』に贈る。「金賞」や「ゴールド・ディスク賞」という名称が使われていた時期もあったが、第50回(2008年)からは「優秀作品賞」に変更された。
- 「最優秀新人賞」
- 「新人賞」の中から最も優秀と認められた『歌手』に贈る。
- 「新人賞」
- 対象年度内に於いてデビュー(初めて芸能活動として歌う)し大衆に支持され、将来性を認められた『歌手』に贈る。
- 「作曲賞」「編曲賞」「作詩賞」
- 特に作曲・編曲・作詩の分野で独創的であると認められた『作品・作者』に贈る。
- 「企画賞」
- 独創的な企画意図をもって製作され、それによって成果を上げ大衆音楽に大きな貢献をした『作品』(ミュージックビデオを含む)に贈る。
- 「功労賞」
- 長年に亘りレコードやCDを中心とする音楽活動を展開し、日本音楽界に大きな貢献をした『者』に贈る。
- 「特別賞」
- 対象年度に於いて社会的に最も世の中を賑わせ注目された『人』、『楽曲』、『作品』、『現象』などに贈る。その他にも年によって特別な賞が設けられる場合がある。
- 「特別功労賞」
- 長年に亘り音楽活動・評論活動を展開し、音楽界に大きな貢献をした『故人』に贈る。
- 「日本作曲家協会奨励賞」
- 第48回(2006年)から新設された賞。日本作曲家協会が日本の心を伝え未来のある実力ある『歌手』に期待を込めて贈る賞。第56回(2014年)からは、魅力的な歌唱で大衆の支持を集めている『歌手』も受賞対象になる。
- 「優秀アルバム賞」
- 対象年度に発売されたすべての邦楽アルバムCDの中で芸術性・独創性に優れ、その年度を強く反映・代表したと認められた『作品』に贈られる。
- 「最優秀アルバム賞」
- 優秀アルバム賞該当の中から最も優れた『作品』に贈られる。
- 「特別映画音楽賞」「特別歌謡音楽賞」
- 社会的に世の中を賑わせ、注目された『音楽作品(特別映画音楽賞は映画音楽作品)』・『人』に贈られる。第56回(2014年)から新設。
過去に存在した各賞
- 「童謡賞」
- 第1回(1959年)から第15回(1973年)まで子供向けの童謡やアニメソングに与えられた賞だった。建前としてはレコード大賞を童謡が受賞した際には「歌謡曲賞」を設けることになっていた[2]が、結局「歌謡曲賞」が設けられることはなかった。ザ・テンプターズの『おかあさん』がヒットした際には、同曲も「童謡賞」の対象にすべきかという議論があったという[3]。第16回(1974年)にヤングアイドル賞の導入により廃止された。そのヤングアイドル賞も1回限りで廃止された。
- 「歌唱賞」
- 優れた歌唱によって活かされた作品に贈られる賞として定義され、文字通り歌手の歌唱力を評価したものである。作詩賞、作曲賞、編曲賞と共に第1回(1959年)から設けられた賞である。第11回(1969年)からは最優秀歌唱賞が設けられその候補としての位置付けとなり、さらに第19回(1977年)までは大賞の最有力候補としての位置付けでもあった(第17回(1975年)から第19回(1977年)までの3年間は大賞候補10組作品の中から歌唱賞5組作品が選出され、さらにその中から大賞と最優秀歌唱賞が決定された)。第20回(1978年)からは金賞の導入により廃止された。
- 「大衆賞」
- 第11回(1969年)から第19回(1977年)まで、大衆に支持された歌手や楽曲に与えられた賞だった。当初は歌唱賞と同様に大賞候補としての位置付けだったが、第17回(1975年)からは大賞候補の枠外の位置付けとなった。第47回(2005年)に1度だけ復活した。
- 「特別大衆賞」
- 1980年に引退した山口百恵のそれまでの実績を称え与えられた(第22回)。他に都はるみ、中森明菜、瀬川瑛子が受賞している。
- 「ゴールデン・アイドル賞」
- 第23回(1981年)から第25回(1983年)までデビュー2年目に顕著な活躍をした歌手に与えられた。
- 「ベストアルバム賞」「アルバム大賞」
- 対象年度に発売されたすべての邦楽アルバムCDの中で最も芸術性・独創性に優れ、その年度を強く反映・代表したと認められた作品に贈る。第50回(2008年)からは優秀アルバム賞・最優秀アルバム賞として復活。
- 「吉田正賞」
- 作曲家・吉田正の偉大な業績を記念し伝統的な日本の歌を充実させ、前進させた作曲家に贈る。
- 「美空ひばりメモリアル選奨」
- 歌手・美空ひばりが戦後日本の社会、歌謡史に残した偉大な業績を称え、それを記念するに相応しい豊かな魅力と力量を持った歌手に贈る。初めて制定された第31回(1989年)当初は「美空ひばり賞」だったが、第35回(1993年)に「美空ひばりメモリアル選奨」に変更、第42回(2000年)を以て最後となる。
- 「ロングセラー賞」
- 第21回(1979年)に新設された賞。その頃、金賞(現在の「優秀作品賞」)に選ばれていたのは、前年11月下旬 - 当年11月中旬に発売されたレコードに限られていたが、1979年には「夢追い酒」(渥美二郎)、「花街の母」(金田たつえ)、「みちづれ」(牧村三枝子)、「北国の春」(千昌夫)といった、発売されて数年経っている曲が立て続けに大ヒットしたため、この賞が新設された。その年の金賞の対象期間より前に発売され、その年に売上(通算)が100万枚に達したレコードに贈られていた。その後も「ロングセラー賞」は毎年選出されていたが、第25回(1983年)を最後に消滅。
レコード大賞受賞曲一覧
※第32 - 34回(1990 - 1992年)は歌謡曲・演歌部門とポップス・ロック部門
- それ以外の各部門賞受賞曲については各回の項を参照。
三冠達成者
レコード大賞の主要な賞である大賞、最優秀新人賞(第10回以前は新人賞)、最優秀歌唱賞(第10回以前は歌唱賞)の3賞をすべて獲得している歌手は、2013年現在以下の5人となっている(三冠達成順、新人賞・最優秀新人賞以外は初受賞回を記載)。
- 都はるみ:第6回新人賞(アンコ椿は恋の花)、第18回大賞(北の宿から)、第22回最優秀歌唱賞(大阪しぐれ)
- 細川たかし:第17回最優秀新人賞(心のこり)、第24回大賞(北酒場)、第26回最優秀歌唱賞(浪花節だよ人生は)
- 北島三郎:第4回新人賞(なみだ船)、第28回最優秀歌唱賞(北の漁場)、第33回大賞(北の大地)
- 氷川きよし:第42回最優秀新人賞(箱根八里の半次郎)、第45回最優秀歌唱賞(白雲の城)、第48回大賞(一剣)
- 近藤真彦:第23回最優秀新人賞(ギンギラギンにさりげなく)、第29回大賞(愚か者)、第52回最優秀歌唱賞(心 ざんばら)
沿革
発表の模様はテレビ(TBS系 (JNN) 地上波全国28局ネット)とラジオ(JRN全国17局ネット)で生中継されている(第42回(2000年)から第47回(2005年)まではTBS系BSデジタル放送のBS-i(現・BS-TBS)でも放送されていた)。また、第44回(2002年)からCS放送・TBSチャンネルで過去に放送された回をその年の放送分につき1回(2008年からは2回)限りではあるが毎年12月に再放送を行っている(TBSに現存している第10回(1968年)以降の放送分。CMはカットされるが、その部分には地上波で今年放送される回の5 - 15秒の番宣が挿入されている。過去には編成の関係で年明けの1月に放送されたこともある)。この放送は『NHK紅白歌合戦』(NHK)、『新春かくし芸大会』(フジテレビ系列)と双璧をなす年末年始恒例大型番組の一つであり「国民的番組」としての地位を築いてきた。
草創期
番組の放送当初は本選と発表会とに分かれていた。第10回(1968年)まで開催日は固定されておらず、主に年末の昼間にモノクロで放送された。会場も神田共立講堂など小規模の会場で行われており、賞自体の知名度も極めて低かった。水原弘は第1回のレコード大賞を受賞した際に「レコード大賞って何だ?」と言ったというエピソードがある[8]。また、美空ひばりが出演しても客席がガラガラだった事もあったという。
TBSに現存する映像はモノクロ放送の最後となった第10回(1968年。開催会場は渋谷公会堂)が最古である。同年には開始10周年を記念した特別番組「10周年記念音楽会」(1968年12月28日放送)が放映され、それまでの各賞受賞者達が勢揃いした。この特番は鮮明なカラーのビデオ映像の完全版VTRが現存している。これ以前の本選の模様はニュース映像の一部、写真、ラジオの音声のみが現存している。
第11回(1969年)からは出場歌手の日程調整をつけ易くするため、大晦日の『NHK紅白歌合戦』(NHK) が始まる前の19 - 21時に本選を開催・生中継する様になった。会場も帝国劇場に移され、元NHKアナウンサーで人気司会者であった高橋圭三を司会進行役に起用した。また、カラーでの放送も開始された。レコード大賞授賞式が大晦日のTBSの定番プログラムとなる前は『オールスター大行進』という人気歌手・バラエティータレントが大量に出演するショー番組が恒例番組として放送されていた関係で第11回(1969年)の放送は「オールスター大行進」という副題が付されており、受賞歌手以外のタレント(美空ひばり・橋幸夫・ザ・ドリフターズ・コント55号など)も出演していた。
第11回(1969年)以降はすべて鮮明なカラーのビデオ映像の完全版VTRが現存している。
本番組とNHK紅白歌合戦の出演者の移動に関しては後述も含め、様々な展開があったが、特にこの時代というのは本番組終了の8:50分過ぎのレコード大賞出演者が番組エンディングまで出演し帝国劇場(千代田区日比谷)を出て、9:00の渋谷区神南のNHKホールでのNHK紅白歌合戦のオープニングに間に合うかという「数分間の都心大移動」が見ものでもあった(平日と違い交通量が極めて少ない為に、大概の出演者は間に合うが、稀に間に合わない場合は「○○さんは只今移動中です」という注釈が紅白司会者よりされる)。NHK紅白歌合戦は当時はオープニングに出演者が白組と紅組の対戦者毎に一人ずつ紹介される段取りになっていた(近年のオープニングは一人一人の紹介でなく出演者が一斉に出るという形になった〈そもそも後述の通りNHK紅白歌合戦の開始時間が早まりレコード大賞と時間帯が被る為に不可能になる〉)。
黄金期
1969年から1988年にかけての20年間、テレビ歌番組の隆盛と共に番組の最盛期を迎えた。テレビ中継の最高視聴率(ビデオリサーチ・関東地区調べ)は第19回(1977年)の50.8%[9]で『NHK紅白歌合戦』と並ぶ大晦日の「国民的行事」となり、また放送時間も次第に拡大し18時台のスタートとなった。中でも第27回(1985年)には会場が日本武道館となり、授賞式の華やかさは最高潮を迎えた。
第20回(1978年)からTBSの音声多重放送の開始に伴い、テレビでのステレオ放送が始まった。以降、すべてステレオ放送となる。
なお、ステージにはビッグバンドと当時の常識ではあり得ない規模のストリング・オーケストラ(弦楽合奏団)、各種管打楽器(オーボエ、ホルン、ティンパニなど)、それに合唱団が並び、ほとんど全ての楽曲の伴奏を務めた。指揮は作曲家・編曲家でもある長洲忠彦が担当(第2回目~第30回目まで)。クラシックの指揮者のような格式ある棒さばきで、レコード大賞のステージになくてはならない存在であった。
衰退期
元号が平成に変わった1989年以降、『NHK紅白歌合戦』がそれまでの21時から19時20分と大幅に開始時刻を早めたことで、紅白とのバッティングが生じる事も多くなり出演者の移動がままならなくなる。また、第11回から第29回(1987年)まで、常に30% - 40%前後の高い数字を維持してきた視聴率も、第30回でなんとか20%台に踏みとどまったのを最後に、翌年以降は一気に下落した。そのため紅白にも出場する歌手が慌しく移動する様子を生中継するのが風物詩の1つとなった(2005年まで)。
一気に衰退した打開策として第32回(1990年)から大賞を「ポップス・ロック部門」と「歌謡曲・演歌部門」に分割したが共に効果がなかったため、第35回(1993年)から再統一している。
第36回(1994年)から第45回(2003年)までは、会場を東京・赤坂のTBS放送センター(ビッグハット)で開催された。第46回(2004年)以降は渋谷のNHK放送センターから比較的近い距離にある新国立劇場に変更されたが、これは『NHK紅白歌合戦』(NHKホールが会場)や『年忘れにっぽんの歌』(テレビ東京、新宿コマ劇場が会場)と掛け持ちする歌手の移動に配慮したのと、手狭でテレビ的に見栄えが悪かった会場からの変更で視聴率上昇を期待したためである。
また平成に入ると音楽に対する考えの変化から、賞取りレースに左右されない音楽活動をしたいことなどを理由に受賞そのものを辞退する一部有力アーティストが増えるようになり権威は大きく低下した。大賞のMr.Childrenが授賞式に出席しないという異例の事態となった第36回(1994年)以降、授賞式に出席しないアーティストを受賞させない方針となった。
2005年は過去最低の10.0%(関東地区・ビデオリサーチ調べ)を記録するほど低迷することとなった。スポンサー面では第47回(2005年)になると常連だったスポンサーの多くが降板。さらに他番組のスポンサー枠の確保でスポンサー枠が縮小された。
放送日変更
第48回(2006年)から放送日を大晦日から12月30日に変更した。放送時間は前年より30分拡大した18:30 - 21:54となった。会場は前年同様に新国立劇場。
なお、放送時間が拡大された第48回より歴代の受賞曲VTRをダイジェストで流すコーナー「日本レコード大賞メモリアル」が登場。視聴率は17.0%と前年を7%上回る。17%超えをしたのは、1998年の第40回以来実に8年振り。翌年以降も同様の編成が行われていた。
しかし、第51回(2009年)は前年に比べて3.4%低い13.5%。
2010年の第52回は、2006年・2007年と同じ18:30 - 21:54の3時間半に戻ることが発表され、事後番組は放送されなくなった。さらに、事前番組は前日と当日の2日間にわたって放送されることになった(29日18:30 - 20:54の『レコード大賞前夜祭 あの頃あのメロディー 日本の歌謡史50年スペシャル』と30日17:00 - 17:54の『日本レコード大賞ナビ』)[10]。視聴率は前年に比べて1.5ポイント高い15.0%に回復した。
2005年までの大晦日は渋谷区神南(原宿)のNHKホール(『NHK紅白歌合戦』)、渋谷区初台の新国立劇場(『日本レコード大賞』)、新宿区歌舞伎町の新宿コマ劇場[11](『年忘れにっぽんの歌』 特に大御所歌手や演歌歌手ら)相互の大移動を短時間でこなす出場者のスケジュールの余裕のなさがあったが、2006年以降はレコード大賞を1日ずらしたことである程度緩和された。
各回の放送概要
回 | 年 | 日 | 司会者 | 会場 | 平均視聴率 | |||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
男性 | 女性 | 補助 | ||||||
1 | 1959年 | 12月27日 | 芥川隆行 | 不在 | 不在 | 神田共立講堂 | 記録なし | |
2 | 1960年 | 12月30日 | ||||||
3 | 1961年 | 12月28日 | ||||||
4 | 1962年 | 12月27日 | 日比谷公会堂 | 10.8% | ||||
5 | 1963年 | 20.7% | ||||||
6 | 1964年 | 12月26日 | 14.6% | |||||
7 | 1965年 | 12月25日 | 三木鮎郎 | 神田共立講堂 | 14.2% | |||
8 | 1966年 | 12月24日 | 日比谷公会堂 | 13.5% | ||||
9 | 1967年 | 12月16日 | 渋谷公会堂 | 12.5% | ||||
10 | 1968年 | 12月21日 | 10.3% | |||||
11 | 1969年 | 12月31日 | 高橋圭三 | (浅丘ルリ子) | 帝国劇場 | 30.9% | ||
12 | 1970年 | (佐良直美) | (堺正章、加藤茶) | 36.7% | ||||
13 | 1971年 | 山本陽子 | (沢田雅美) | 36.3% | ||||
14 | 1972年 | 森光子 | 46.5% | |||||
15 | 1973年 | 玉置宏 | 44.1% | |||||
16 | 1974年 | 小川哲哉 | 45.7% | |||||
17 | 1975年 | 43.0% | ||||||
18 | 1976年 | 不在 | 41.9% | |||||
19 | 1977年 | 高橋圭三 久米宏 |
黒柳徹子 | (小島一慶) | 50.8% | |||
20 | 1978年 | 不在 | 42.9% | |||||
21 | 1979年 | 高橋圭三 | 檀ふみ | 43.3% | ||||
22 | 1980年 | 高橋圭三 渡辺謙太郎 |
中田喜子 | 34.3% | ||||
23 | 1981年 | 竹下景子 | 35.3% | |||||
24 | 1982年 | 高橋圭三、児玉清 | (松宮一彦) | 31.3% | ||||
25 | 1983年 | 高橋圭三 | 松宮一彦 | 32.7% | ||||
26 | 1984年 | 森本毅郎 | 不在 | 30.4% | ||||
27 | 1985年 | 倍賞美津子 | 日本武道館 | 31.4% | ||||
28 | 1986年 | 竹下景子 | 29.8% | |||||
29 | 1987年 | 関口宏 | 三雲孝江 | 29.4% | ||||
30 | 1988年 | 21.7% | ||||||
31 | 1989年 | 板東英二 | 楠田枝里子 | 14.0% | ||||
32 | 1990年 | 和田アキ子 | 12.5% | |||||
33 | 1991年 | 布施明、石田純一 | 黒柳徹子 | 山本文郎 | 14.7% | |||
34 | 1992年 | 神田正輝 | 15.1% | |||||
35 | 1993年 | 宮本亜門 | 牧瀬里穂 | 13.3% | ||||
36 | 1994年 | TBS放送センター | 15.3% | |||||
37 | 1995年 | 西田敏行、中山秀征 | 渡辺真理 | 不在 | 17.2% | |||
38 | 1996年 | 堺正章 | 飯島直子 | 雨宮塔子 | 16.6% | |||
39 | 1997年 | 草野満代 | 16.5% | |||||
40 | 1998年 | 江角マキコ | 18.5% | |||||
41 | 1999年 | 黒木瞳 | 進藤晶子 | 14.1% | ||||
42 | 2000年 | 14.0% | ||||||
43 | 2001年 | 米倉涼子 | 安住紳一郎 | 小倉弘子 | 14.0% | |||
44 | 2002年 | 菊川怜 | 13.3% | |||||
45 | 2003年 | 不在 | 12.7% | |||||
46 | 2004年 | 伊東美咲 | 小林麻耶 | 新国立劇場 | 10.4% | |||
47 | 2005年 | 綾瀬はるか | 10.0% | |||||
48 | 2006年 | 12月30日 | 蛯原友里 押切もえ |
17.0% | ||||
49 | 2007年 | 16.8% | ||||||
50 | 2008年 | 上戸彩、松下奈緒 | 16.9% | |||||
51 | 2009年 | 藤原紀香 | 加藤シルビア 枡田絵理奈 |
13.5% | ||||
52 | 2010年 | 15.0% | ||||||
53 | 2011年 | 14.9%[12] | ||||||
54 | 2012年 | 安住紳一郎 | 新垣結衣 | 枡田絵理奈 吉田明世[13] |
16.6%[14][15] | |||
55 | 2013年 | 上戸彩 | 17.6% | |||||
56 | 2014年 | 仲間由紀恵 | 15.6% |
- 視聴率は関東地区、ビデオリサーチ調べ。赤数字は最高視聴率で、青数字は最低視聴率。
- 第1 - 3回の視聴率はビデオリサーチ設立前につき記録なし。
- 第4回〜第44回の視聴率の出典は『全記録 テレビ視聴率50年戦争―そのとき一億人が感動した』134-135頁。
- 通常アナウンサーは同授賞式では進行役となる事が一般だが第29・30回(1987・1988年)の三雲については進行役という扱いでなく男性司会と同等の位置付けがなされていたため、ここでは女性司会の欄に記載する事とする。
- 19:00を境とした2部制で放送した年は、第2部の数値を示してある。
ラジオ中継実況
- ? - 第40回(1998年):松宮一彦(TBSアナウンサー)
- 第41 - 49回(1999 - 2007年):小島一慶(元TBSアナウンサー)
- 第50回 - 53回(2008 - 2011年):向井政生(TBSアナウンサー)
- 第51回(2009年):新井麻希(当時TBSアナウンサー)
- 第54回 - (2012年 - ):駒田健吾(TBSアナウンサー)[16]
出演者補足
- 司会者は第11回(1969年)から第25回(1983年)まで高橋が長く務めていたがその後は幾度か司会者が変更され、第38回(1996年)から第53回(2011年)までは堺が務めていた。アシスタントにはその年に最も輝いているタレントや女優、キャスター、その当時のTBSの最も人気のあるアナウンサーなどが選ばれている。また、最近は番組の途中で司会者全員衣装を変えるのが恒例となっている。審査会場や他のライブ会場からのリポート担当、曲ナレーションのみのために声だけ出演をするアナウンサーなども回によっては存在する。
- ナレーションは第41回(1999年)から第51回(2009年)までケイ・グラントが担当しているが、第48回(2006年)のみ大塚明夫が担当した。
- 第11回(1969年)の浅丘と第12回(1970年)の佐良直美は厳密には「特別ゲスト」扱いとしての出演だが、実質的には高橋のアシスタント役的な役割を番組内では務めた。また第12回(1970年)の堺・加藤、第13・14回(1971・1972年)の沢田雅美、第24回(1982年)の松宮一彦アナ、第19回(1977年)の小島については観客へのインタビュー役を担当するための司会補佐として出演した。
- 第19回(1977年)より高橋は授賞式の進行一切を統括する「総合司会」として別のMC席から式全般の進行統括、最優秀歌唱賞・大賞・最優秀新人賞等の受賞者発表等を行い、総合司会者の高橋の下に更に総合司会の下に「司会」としてもう1人の男性司会者と女性司会がコンビとなって歌手へのインタビュー、各部門賞受賞者発表等を行う形となっていた。なお、それ以外の年(第21・25回(1979・1983年))についてもMC席は高橋1人が常在し女性司会はインタビューなどのある際にその都度登場するパターンで授賞式が進行され、厳密には一般的な男女ペア形式での司会スタイルとは異なる形となっていた。
過去のレコード大賞受賞歌手の副賞変遷
- 第12回(1970年)~第13回(1971年)・第15回(1973年):セリカ(トヨタ自動車)
- 第14回(1972年):世界一周旅行
- 第16回(1974年)~第27回(1985年):クラウン(トヨタ自動車)
- 第28回(1986年):ルーチェ(マツダ)
審査委員
- 第55回(2013年)
- 審査委員長:川崎浩(毎日新聞)
- 審査委員・幹事(23人):=23人に審査委員長含む
放送スタッフ
- 第55回(2013年)
- ナレーション:ジョン・カビラ
- 演奏
- 音楽監督・編曲・指揮:服部隆之
- 編曲:宮下博次、渡辺俊幸
- THE BAND:倉田信雄/田代修二、渡辺直樹、伊藤史朗、萓谷亮一、古川昌義、古川望、菅坡雅彦、横山均、二井田ひとみ、広原正典、花坂義孝、Bob Zung、近藤淳、上里稔、木戸やすひろ、比山貴咏史、山田洋子
- RUSH by TAKASHI KATO:加藤高志/押鐘貴之、伊能修、松本亜土、渡辺一雄、氏川恵美子、岡部憲、加藤亜紀子、杉野裕、入江茜、藤堂昌彦、古川原裕仁、榎戸崇浩、渡部安見子、秋山俊行、堀沢真己、丸山泰雄、森田香織、岩永知樹、朝川朋之
- Additional Musicians:高島政晴、和智秀樹、川瀬正人、藤田乙比古、堂山敦史、石橋雅一
- ミュージシャンコーディネート:フェイス・ミュージック
- 振り付け:花柳糸之、MIKIKO
- 踊り:花柳糸之社中、55周年アニバーサリーメドレーダンサー
- 新国立劇場スタッフ
- TM:荒木健一
- TP:原田幸治
- TD:山下直
- SW:寺尾昭彦
- カメラ:中野啓
- カムリモート:野坂和恵
- テクノクレーン:坂野昇
- VE:石川浩之
- 照明:近藤明人、原昇
- 音声:森和哉、相馬敦
- PA:池戸和幸、小暮倫見
- 音効:岡本智宏、花谷伸也
- 連絡回線:小沼誠、小池真一
- プロンプター:重永光信、田中晶子
- 美術プロデューサー:飯田稔
- 美術デザイン:山口智広
- 美術制作:川﨑光紘
- 装置:古川俊一、打越裕
- 大道具操作:斎田聡
- 美術メガシステム:庄子泰広
- 電飾:斉藤貴之、森田光俊
- 装飾:野呂利勝
- フロアー装飾:渡邊卓也
- 特殊効果:畑中力
- 楽器:高井啓光
- 衣装:原口恵里
- 持道具:寺澤麻由美
- 床山:細野一郎
- 化粧:城戸とも美
- 新国立劇場・中劇場フロアースタッフ
- MC担当:金原将公、小林弘典、河本恭平、深谷俊介
- 音cue:寺田淳史
- プロンプター:松原拓也
- アナブース:細谷知世、小林秀行
- 綱元:田邊和弘
- ステージ:荻原好武、佐藤康昭、新美伯、田中善明、染谷智
- OAサブ
- TD:伊東修
- VE:高橋康弘
- 音声:照屋哲
- 音効:太田誠也
- CG:木村健二、森須裕紀、大竹祐介
- 回線:佐藤圭
- VTRルーム:浦邉啓、大江剛史
- MA:橋本大
- 編集:藤森唯史
- TK:葛貫明子
- VTR担当:岩本啓助、清宮嘉浩、前島隆昭、藤野大作、有田直美、橋本詳吾
- 演出:木田将也
- 構成:伊藤正宏、中野俊成、小泉泰成、安念高志
- 編成:渡辺信也
- 宣伝:鈴木慎治
- デジタルコンテンツ:古谷英一
- Twitter Web/Twitter:松尾智和
- モバイル:斉藤さやか
- Web:内山保志
- 公開:廣中信行、松元裕二、齊藤絵里子、三橋祐太郎
- TK:長谷川道子
- AP:鹿渡弘之、神田祐子、佐藤誠子
- 制作進行:熊倉哲央
- 演出スタッフ:蟻川拓人、橘信吾、五井翔太、青木俊司、小関美保子、石田桂子
- ライブ演出:柴田猛司
- 舞台監督:高柳健人、植木修一
- 総合演出:服部英司
- プロデューサー:片山剛、大木真太郎
- 制作プロデューサー:落合芳行
- 技術協力:MBS、東通、ティエルシー、エヌ・エス・ティー、TAMCO、TBSテックス、テクト、ラ・ルーチェ、NEXION、ダブルビジョン、PRG、SJP INC.、MTPlanning、CIRCLE
- 資料協力:レコチョク、Twitter Japan
- 楽器協力:ローランド
- 協力:新国立劇場運営財団
- 制作協力:BMC
- 製作著作:TBS
ネット局
テレビ
JNN系列で第47回(2005年)まで12月31日にネットして来た番組であるが、以前はクロスネット局[17]が多く、JNN系列でも曜日によって他系列を同時ネットしている局も多くあった。その反面、JNN系列以外でも曜日によってJNNを同時ネットしている局もあり、番組をネットした局もあった。先発局でJNN系列局が以前金曜日の19:30 - 21:00枠で日本テレビを同時ネットしている局が多数あったり水曜日の20:00 - 21:30(その後19:30 - 21:00)の枠、土曜日の19:30 - 22:00枠、日曜日の19:00 - 21:00枠が日本テレビ同時枠だったりした局があった。
静岡放送では、放送日が金曜日だった第13回(1971年)に番組をネットせず、日本テレビ系の番組を同時ネットした。また南海放送(愛媛県。日本テレビ系)では、木曜日にTBS系番組を同時ネットしていた年に限り同番組をネットしていた[18]。
近畿広域圏ではTVネットワーク腸捻転時代(1974年の第16回まで)は朝日放送(ABC)にてネット。翌年(1975年)の第17回から毎日放送(MBS)でのネットになる。
福島県では、1971年の第13回から1982年の第24回まで福島テレビ(当時TBS系とフジテレビ系のクロスネット局[17]。現在はフジテレビ系)にネットされていたが、1983年の第25回からはTBS系新局として開局したテレビユー福島でのネットになる。
1978年・1980年はTV中継の同時ネット局のみロールスーパー方式(ネット局は略称・ロゴ出し)で紹介した。
2001〜2005年の5年間は系列BSデジタル放送・BS-i(現・BS-TBS)でもサイマル放送が行われていた。
ラジオ
1978年(第20回)当時は20局以上ネットしていたが、2014年(第56回)は8局(うち、4局は途中とびのり)に留まっている。
JNN(テレビ)とJRN(ラジオ)との兼営局の一部が、テレビとラジオで同時放送している。なお、福井放送のように、テレビがJNN系列でない局が、ラジオだけで放送するケースもある。
青森放送(RAB)ではかつて『JRNナイター』を放送した曜日のみ途中飛び乗り放送していたが、現在は放送していない。
西日本放送(RNC)では1997年のJRN加入後も含めてネットする事はなかったが、2005年に初めてネットした。前述のRABと同様、JRNナイターの絡みから実現したものと思われる。こちらも現在は放送していない。
毎日放送では1975年ネットチェンジからテレビとラジオで同時放送されて来たが、2006年以降についてはラジオが自社制作枠の確保による編成上の理由で放送されなくなった。第54回(2012年)は再びネットしたが、第55回(2013年)以降は自社制作枠の確保のため、再び放送されなくなった。
パロディー
- お笑いマンガ道場(ダジャレマンガの一種で『マンガ輝け!レコード大賞』をやっていた)
脚注・出典
- ↑ 時期は不明だが、当初は「!」がなかった
- ↑ 長田暁二『昭和の童謡アラカルト―戦後編』ぎょうせい、1985年、139頁。ISBN 4324001243
- ↑ 『昭和の童謡アラカルト―戦後編』160-161頁
- ↑ 元々は1922年に吹き込まれ、1928年に、大ヒットした二村定一の楽曲で、1961年にフランク永井がカバーした。
- ↑ 「矢切の渡し」は元々、ちあきなおみのシングル「酒場川」(1976年発売)のB面として発表された楽曲で、1982年には、ちあきのA面シングルとして発売されている。翌1983年に細川たかしがカバーし、レコード大賞を受賞した。
- ↑ 現在の音源元はUPFRONT WORKS/ライスミュージック。
- ↑ 現在の音源元はBeing group。
- ↑ 引田惣弥『全記録 テレビ視聴率50年戦争―そのとき一億人が感動した』講談社、2004年、133頁。ISBN 4062122227
- ↑ 『全記録 テレビ視聴率50年戦争―そのとき一億人が感動した』133-136頁。
- ↑ TBS・携帯サイトより
- ↑ 2009年から五反田ゆうぽうとホール
- ↑ レコ大視聴率、関東地区で14.9%/芸能社会速報/デイリースポーツonline当日13時に閲覧。
- ↑ 「Yahoo!テレビ.Gガイド」の番組解説欄に記載。
- ↑ 【レコ大】AKB2連覇で視聴率16.6%、4年ぶり16%台に回復 オリコン2013年1月2日閲覧
- ↑ ビデオリサーチ週間高視聴率番組 2012年12月24日 - 30日 2013年2月11日閲覧。
- ↑ TBSラジオ広報誌「954press」2012年12月 - 2013年1月号5項に掲載
- ↑ 17.0 17.1 JNN系列局は排他協定の規則により、クロスネットは禁止となっている。
- ↑ 愛媛県では、1992年の第33回から、この年にTBS系新局として開局したあいテレビでネットされている。