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沼津市(ぬまづし)は、静岡県の東部、伊豆半島の付け根に位置する特例市

概要[編集]

駿河湾に臨む伊豆半島の付け根、愛鷹山の麓に位置する港町である。 東駿河湾地域の中心都市であり沼津都市圏を形成する。

古来、東海道の陸路と海路を繋ぐ交通拠点であり、江戸時代には沼津城が築かれ東海道の宿場町として栄えるなど人・物・情報の交流拠点として、この地域の政治経済や商業、文化の中心的役割を担ってきた。

気候が温暖である他、箱根伊豆半島富士山への観光拠点としても便利な立地条件でもあるため、保養地としても発達した。 明治時代から1969年に亘っては、政財界の著名人が別荘を建てて、皇室沼津御用邸を構えたために、「海の有る軽井沢」とも称された。 井上靖を初めとする文人墨客所縁の地でもある。

水産業が盛んであり、干物の「の開き」、「雑節」の生産は市ごとの統計が廃止される2005年(平成17年)まで日本一の規模であった他、近年では新鮮な魚介類を求め沼津港を訪れる観光客が増加している。 だがここ十数年間では経済状況が悪化し、人口の減少が続いている。

地理[編集]

市街地から程近い香貫山は市民の憩いの場となっており、駿河湾に面した千本松原には沼津ゆかりの作家、芹沢光治良若山牧水らの文学碑が点在する。なお、市街地を流れる狩野川は静岡県を流れる一級河川の中で唯一北上する川である。

富士市との間には浮島沼が広がっている。静岡県下最長の60kmの海岸線は砂浜からリアス式海岸まで変化に富み、それを生かしたレジャースポーツも盛んであり、大瀬崎は全国的に有名なダイビングスポットである。

駿河トラフ南海トラフの北端の海溝)の東端が市の沖にあるため、深海魚のラブカタカアシガニ等の水揚げがある一方、プレート境界型の大地震東海地震)の危険性が指摘されており、国・静岡県・周辺自治体とともに地震対策、特に津波対策に力が入れられている。自主防災組織の活動も活発であるほか、自治体による防災設備の拡充にも力が注がれている。

自然地理[編集]

山岳丘陵
河川水路
湖水池沼

テンプレート:Wide image

地質
ファイル:Numazu city center area Aerial photograph.1988.jpg
沼津市中心部の空中写真。
1988年撮影の14枚を合成作成。国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)を基に作成。
  • 北部地域(愛鷹山とその裾野)
愛鷹山は、富士山と同じ成層火山だったと言われる。噴火口は須津川大沢川の源流部、赤渕川の谷頭部と考えられており、いずれもすり鉢状の地形である。愛鷹山火山活動で噴出し玄武岩安山岩であり、その上は、厚さ10〜15mの火山灰で形成された愛鷹ローム層が東部から南東部まで覆っている。
  • 中部地域(千本浜と平野部)
箱根火山の噴火での火山灰による堆積や駿河湾狩野川黄瀬川などの土砂の運搬、堆積作用により、沼津の平野部や千本浜が作られたと言われる。縄文時代黄瀬川が運んできた土砂が堆積して、平町、三枚橋、市場町、吉田町などの低地ができた。千本浜は海岸に富士川上流から運ばれてくる土砂が東に向かう潮流に乗り、原、片浜、千本浜地区に堆積し砂丘になった。この砂丘で、愛鷹山から流れて来る川がせき止められて、浮島沼が出来た。
  • 東部地域(香貫山とその周辺)
徳倉山の南側から鷲頭山を経て大平山に至る山麓は凝灰岩で構成されている。凝灰岩は柔らかく、耐熱性が高く、「江浦石」として認知されていた。また、凝灰岩火山灰が海中に堆積して出来た岩なので、鮫の化石も確認されている。要するに、数千年前まで海底にあったのが隆起したを物語っている。 海岸は我入道、島郷、静浦の大久保ノ鼻まで緩やかであるが、そこから急に出入りが多くリアス式海岸のようになっており、口野は最も湾入が深い所である。
  • 南部地域(三浦地区)
大瀬崎は、西浦の西端に突き出た1㎞の岬があり、戸田地区の井田火山達磨火山によって出来た岬である。岬の先端には湧き水が出ている。静浦から西浦に続く海岸は発端丈火山達磨山の裾野が陥没して出来たものである。淡島火山活動によって出来た。

気候[編集]

静岡県太平洋岸式の東海気候区に属している。特に沼津市は温暖な伊豆半島に接している事から、温暖で滅多に雪が降らない。房総半島三浦半島の気候と近いと言われる。

気温

沼津市の平均気温は、16.5℃で三島市の平均気温15.3℃と比較しても高い。これは富士山裾野や箱根山に接する地域に比較して、気温が穏やかな傾向だからである。そのため、冬は寒さが厳しい日があまりなく、夏は海洋の影響で涼しい海風が吹き、温暖な恵まれ地域である。尚、全国的に冷夏だった時期でも、比較的温かく農産物に被害は殆どなかった。

降水量

沼津市の年間降水量は、約2000mm程度で駿河湾に面した他の地域と同等。降水量が多い時期は、5〜9月までの数ヶ月間で、12月〜2月は非常に少ない。年平均日照時間数が県内でも多く、1年の54%が晴れの日である。

湿度

沼津市の年間平均湿度は、65〜70%程度で、降水との関係で6〜9月が高く、11月〜3月まで低い。特に極端な傾向はない。 は11月末頃からおり始め、3月ぐらいに終わる。時折、4月に晩霜が発生し、農産物に被害を出す事もある。

都市情報[編集]

市章は、 カタカナの「ヌ」に千本松原の松葉を組み合わせ図案化した物である。1927年制定。現存する静岡県の市町村の市章としては、最古のものである。

沼津市民憲章[編集]

私たち沼津市民は

  1. 緑と水と空、このかけがえのない自然を守り育て、清潔な環境をつくります。
  2. すすんで心身をきたえ、健康と文化の向上につとめます。
  3. 仕事に生きがいを見いだし、意欲をもって働きます。
  4. 人権を尊重し、時間と規則を守ります。
  5. 善意と思いやりをもって、温かい家庭と社会を育てます。

都市名の由来[編集]

沼津の名は、現存する中では1208年吾妻鏡が初出である[1]。 当時は狩野川河口がの群生地であったため、蓼原という名もあった(この名前は居住区住所として狩野川河口地域に現存する)。

名の由来は富士山からの地下水のため、が多かったことに関係し、同市の浮島沼界隈は今日でも水田の広がる農業地帯だが、弥生時代3世紀)には既にこの沼地周辺で原始的な稲作が行われるようになった[2] ほどの、水の豊富な地域である。ただ同地域は地盤が緩く、このため東海道新幹線東海道本線よりも北側の愛鷹山麓を迂回する形となった。

この地下水は季節によって水量の変化はあるものの、地下数メートルという浅いところに帯水層が存在する。現在は下水道などの発達により、目に見えて冠水することはないが、かつては水捌けが余り良くないことから、沼津駅西側のあまねガード(半地下式の駅の南北を結ぶ主要道路)が1974年七夕豪雨の際に水没したほか、1960年代頃までの当市内では地下道や窪地がしばしば冠水するなどの被害もあったという[3]

なお沼津のに適したなだらかな海岸線を指しており、現在の沼津港界隈をあらわしている。このなだらかな海岸線と狩野川河口近辺の比較的水深のある海という地形は、漁港や交通のための港として利用された。こうして沼津は人の集まるところとなり、沼津宿から駿東郡沼津町(当時の郡役所所在地)を経て、周辺地域との合併により現在の当市の姿になっていった。

人口[編集]

600px
沼津市と全国の年齢別人口分布(2005年) 沼津市の年齢・男女別人口分布(2005年)
紫色 ― 沼津市
緑色 ― 日本全国
青色 ― 男性
赤色 ― 女性

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沼津市(に相当する地域)の人口の推移
テンプレート:人口統計/22
総務省統計局 国勢調査より

行政[編集]

沼津市の行政[編集]

  • 市長:栗原裕康(くりはらひろやす、2008年11月10日就任 2期目)
歴代市長[4]
氏名 就任日 退任日 備考
官選沼津市長
1 和田伝太郎 1923年(大正12年)11月16日 1925年(大正14年)12月11日
2 大場藤五郎 1926年(大正15年)2月25日 1927年(昭和2年)3月4日
3 森田泰次郎 1927年(昭和2年)3月10日 1930年(昭和5年)11月22日
4 和田伝太郎 1930年(昭和5年)12月20日 1933年(昭和8年)7月7日
5 小山田正直 1933年(昭和8年)10月18日 1935年(昭和10年)7月27日
6 森田泰次郎 1936年(昭和11年)1月30日 1940年(昭和15年)1月29日
7 名取栄一 1940年(昭和15年)2月9日 1941年(昭和16年)11月25日
8 小川三郎 1941年(昭和16年)12月24日 1942年(昭和17年)12月16日
9 芝辻一郎 1943年(昭和18年)1月16日 1945年(昭和20年)10月11日
10 勝亦千城 1945年(昭和20年)11月23日 1946年(昭和21年)11月22日
公選沼津市長
11 山本立太郎 1947年(昭和22年)4月5日 1947年(昭和22年)6月20日
12 長倉宜一 1947年(昭和22年)7月11日 1949年(昭和24年)7月5日
13 塩谷六太郎 1949年(昭和24年)7月21日 1953年(昭和28年)7月20日
14 高木恵太郎 1953年(昭和28年)7月21日 1957年(昭和32年)7月20日
15 - 17 塩谷六太郎 1957年(昭和32年)7月21日 1969年(昭和44年)7月20日
18 原精一 1969年(昭和44年)7月21日 1973年(昭和48年)7月20日
19 - 20 井手敏彦 1973年(昭和48年)7月21日 1978年(昭和53年)8月31日
21 - 22 庄司辰雄 1978年(昭和53年)9月23日 1986年(昭和61年)9月22日
23 渡辺朗 1986年(昭和61年)9月23日 1990年(平成2年)9月22日
24 - 25 桜田光雄 1990年(平成2年)9月23日 1996年(平成8年)9月30日
26 - 28 斎藤衛 1996年(平成8年)11月10日 2008年(平成20年)11月9日
29 - 30 栗原裕康 2008年(平成20年)11月10日 現職
  • 市議会:定数28人(2011年5月に任用された議員の任期は2015年5月1日まで)

国や静岡県の主な機関[編集]

政令指定都市構想[編集]

当市、三島市御殿場市裾野市伊豆の国市田方郡函南町駿東郡清水町長泉町小山町の5市4町で組織する「東部広域都市づくり研究会」が、大規模合併による政令指定都市への移行を目指していたが、意見がまとまらず2008年2月に解散した。構想の経緯や解散後については静岡県東部 政令指定都市構想を参照。

姉妹都市・提携都市[編集]

姉妹都市
友好都市

歴史[編集]

古代珠流河国発祥の地。近世には沼津藩沼津城の城下町として、また東海道宿場町港町として栄えた。

7世紀以前の当市周辺は、珠流河国(するがのくに)と呼ばれており、領域は近世駿河国から廬原国(現在の県央)を除き、伊豆国を加えた範囲となる。

古代から中世まで
戦国時代から江戸時代まで
明治から第二次世界大戦まで
第二次大戦後

災害史(主に地震、津波)[編集]

沼津市は、平野部の軟弱地域であり、地震時における地盤振動が激しく、増幅しやすい。沿岸部は液状化による噴砂や地盤の軟弱化が起こり易い。津波による施設の破壊、台風による氾濫水の長期湛水の可能性がある。

石油コンビナート反対運動[編集]

沼津市・三島市石油コンビナート反対運動は、公害予防運動の最初の成功例として、後の公害予防行政や公害反対運動にも影響を与える。さらに公害対策基本法を制定するきっかけにもなった[7]

第一次石油コンビナート計画 沼津、三島の石油コンビナート計画は、1961年昭和36年)2月に静岡県が「第六次静岡県総合開発計画」で、沼津、三島を含めた東駿河湾地域を重化学工業の最重点地域と位置付けた。

沼津市は、火力発電所、江浦湾の巨大タンカー接岸施設の設置が予定されていた。当初は公害問題が顕著ではなかった事もあり、漁業補償以外に特に異議はなかった。1961年(昭和36年)3月にアラビア石油を中核に、昭和電工住友化学東京電力が計画に参加。前後して、漁民らによる反対運動が活発化したが、同年末に補償問題に目処がついた事から沈静化。

計画では沼津市の大平、徳倉一帯をコンビナート候補として上げていたが、地盤の問題で三島市梅名、函南町仁田になってしまった事から、沼津市として水産資源が豊富な江浦湾を犠牲にしてまでコンビナート計画をする理由を失ってしまった。その後、沼津市独自に牛臥に誘致しようとしたが立ち消えとなる。昭和37年7月に昭和電工がコンビナート計画が離脱した事で、計画全体が事実上頓挫した。

第二次石油コンビナート計画 第一次で頓挫した石油コンビナート計画だったが、関係者は東駿河湾地域でのコンビナート計画の復活を模索していた。但し、1962年(昭和37年)5月に発表された全国総合開発計画内に東駿河湾地域は含まれていなかった。もっとくも、同年7月には閣議決定工業整備特別地域として指定された。

静岡県は、第一次の頓挫した原因が地域間の利害関係の対立であった事から、沼津市、清水町、三島市の二市一町合併を推進。三島市がこの動きを警戒して、石油コンビナート計画復活への伏線を含んだ合併協議を牽制した。 ちょうどその頃から、三島市が全国初の「環境衛生都市宣言」をしたこと、全国各地で公害問題が顕著になり始めた事から、環境意識が高まり始めた。

1963年(昭和38年)12月の合併協議会の終了間際、静岡県が石油コンビナート計画の復活を電撃発表する。この電撃発表に三島市が反発する。 第二次石油コンビナート計画は、住友化学が中核に、富士石油、東京電力が参加し、沼津市は静浦の大久保の鼻に巨大タンカー接岸施設、牛臥山付近に火力発電所、三島のコンビナートまでのパイプラインが予定されていた。 当時、既に公害問題が顕著になり始めていた事もあって、最新の公害対策を施すとの静岡県の説明に対して地域住民が不信感を持つようになった。沼津市としては、1963年(昭和38年)10月に片浜愛鷹地区の工業団地計画を提案して計画を推進する立場であった。

先の三島市での環境意識の高まりもあり、電撃発表の翌日には三島市で住民による反対運動が起き始めた。沼津市としての反対運動は、牛臥山での火力発電所予定地の下香貫での大気汚染に懸念する声が高まり反対運動が始まる。1964年(昭和39年)2月には連合自治会会長が兼任する形で反対同盟が結成される[8]。特に、御用邸を擁するほどの「天下に誇るべき住環境」を守る意識が強かったと言われる。

1964年(昭和39年)5月には、三島市の反対運動により富士石油が計画離脱。沼津市の方も火力発電所計画が白紙。ところが、先の片浜愛鷹の工業団地計画に住友化学、富士石油が石油コンビナートを設置するとの動きを見せ、片浜地区でも反対運動が活発化する。

同年9月16日に沼津市は計画撤回を表明し、更に市議会で反対決議が可決された。これにより、第二次石油コンビナート問題は完全決着した。

千本松原[編集]

詳細は 千本松原 (静岡県) を参照

千本松原は、沼津市中心部の南から狩野川河口まで10㎞程度の海岸線にある白砂青松の松原を指す。千本松原の由来は、戦国時代に武田と小田原北条との合戦で、浜の松が全部伐採されてしまった事から、農民は潮風被害に悩まされた。そこで、江戸時代に増誉長円が、お経を唱えながら松の苗を植えていき、最終的に千本程度植えた。これを知った江戸幕府は、「枝一本を折れば腕一本と引き替えにする」と厳命し、長円の松を保護した。この松が千本松原そのものであると言われている。

千本松原の東間門付近に「六代松の碑」がある。平家滅亡時に、平六代北条時政に捕らえれ、千本松原で処刑されそうなった場所。結局、その時、助けた文覚が後に文覚の謀反により、連座で処刑されてしまう。その時の首を千本松原に葬った場所が、「六代松」と呼ばれる。

ディアナ号沈没[編集]

1853年、江戸幕府に開国を求めて日本に来航したロシア提督プチャーチンは、下田において日露和親条約を締結。ところが、安政大地震に遭遇し、ディアナ号が損傷。結局、戸田沖に来た際に、損傷が原因で沈没してまった。そこで、彼らが帰国するために、戸田で地元の船大工と乗組員と協力して西洋式帆船を建造、君沢形1番船「ヘダ号」を完全させて、彼らを無事帰国させる。このヘダ号の技術が、後に日本の近代造船技術の発展に大きく寄与した。

地域[編集]

静岡県東部での地位[編集]

ファイル:Numazu arcadeMeitengai street.jpg
アーケード名店街
撮影時間が午前8時45分であるため開いている店はまだないが、昼頃に行っても2〜3割程度はシャッターが下りたままである。

当市には静岡県東部総合庁舎が置かれるなど、静岡県は県東部の拠点都市として位置付けている。このため、全国紙の支局、郵便事業統括支店東京電力の支店(静岡県の富士川以東を統括)も置かれている。金融機関もスルガ銀行静岡中央銀行の2行が本店を設置している。三島市裾野市駿東郡清水町長泉町と市街地が連続し、都市圏を形成している。

鉄道では東海道本線御殿場線の分岐点であり、道路網では東名高速道路沼津IC伊豆半島への玄関口となるなど、交通の要衝となっている。しかし、西湘バイパス小田原箱根道路と直結するなど、競合する相模湾岸の道路の整備の結果、首都圏から当市を経由しない伊豆半島へのアクセスが増えている。また、新幹線駅は上記に述べた通り、緩い地盤を避けるために当市内には設置されておらず、隣接する三島市と富士市に置かれている。

百貨店や大規模な商店街などがあり、商業の売上高も静岡や浜松に次ぐ規模である。要出典物流の上でも浮島沼辺りの国道1号沿いに倉庫街があり、地域の商業を支えている。しかし、旧来の商店街は個人経営の店が多いことや後述する人口減少にも伴い活気が往年ほどには見られず、沼津駅の南に少し離れて位置する「アーケード名店街」と呼ばれるかつての高級商店の並ぶ通りにおいては、シャッター通り化といった現象も見られる。

1876年8月21日の静岡県成立以降、静岡市浜松市と並ぶ拠点都市として発展してきたが、近年は人口減少が続き、人口規模では富士市が上回るなど、拠点性は縮小傾向にある。現状を打開するために周辺市町と政令指定都市構想を検討しているが、当市や周辺市町の財政が健全で合併の必要性が薄いことなどから進展していない。

産業[編集]

当市の産業はバランスがよく不況に強い構造となっている。[9]

  • 産業大分類別就業者比率:第一次産業3.1%、第二次産業31.5%、第三次産業65.0%

農業[編集]

温暖な気候と変化に富んだ地形を生かして、多彩な農産物が生産されている。

当市の農地は三つに大別することができる。

  • 北部 - 愛鷹山の裾野に広がる丘陵地帯で、茶畑や畑作が中心である。
  • 中央部 - 中央部に広がる平地部で、浮島地区の泥炭地及び狩野川による沖積地を利用した稲作が盛んである。
  • 南部 - 静浦・内浦・西浦地区が該当し、丘陵地帯を利用した温州みかんの生産が盛んである。
主な農産物
  • 温州みかん - 当市の主力農産物。高級みかん「寿太郎温州」は当市で開発されたものである。
  • - 皇室献上茶に二度選ばれ、品評会で好成績を収めるなど「ぬまづ茶」ブランドを確立している[10]
  • プチヴェール - 静岡県磐田市で開発された品種で、当市への定着が目指されている。
  • あしたか牛 - 愛鷹山山麓で一定の条件の下で育てられた高級食肉牛。ブランド化が目指されている。
  • ホウレンソウ生乳など。

水産業[編集]

水産業が盛んで、焼津市を抜き静岡県下最大の規模を誇る。変化に富む長い海岸線を持ち複数の漁港を有するなど、予てから当市では漁業が盛んに行われていたが、2005年漁村であった田方郡戸田村を編入したため、静岡県内でも有数の漁獲高を誇る港町となった。また、沼津港周辺には水産加工業者が集積している。

漁業[編集]

イワシサバを中心とする漁船漁業やマダイマアジハマチ等の養殖・栽培漁業など沿岸漁業を主体とする多様な漁業が営まれている。特に、サバ類の漁獲量は静岡県全体のおよそ80%、マダイ、ハマチの海面養殖漁業に至ってはほぼ100%のシェアを占めている[11]。また、戸田港は遠洋漁業の基地になっている他、戸田沖には駿河湾海溝があるため、タカアシガニアオメエソなど高値で取引される珍しい深海魚等の水産物が漁獲される。

主な水産物
戸田港には多くのタカアシガニが水揚げされる。戸田沖にはタカアシガニが生息しやすいといわれる駿河湾海溝があり、大正時代にはすでに戸田港に大量に水揚げされていたとされる。かつて、どの市場でも見向きもされていなかったタカアシガニを、初めて食用として出したのが戸田の旅館であると言われている[12]。また、タカアシガニの甲羅が人面に似ているため、戸田ではこの甲羅に色を塗り「タカアシガニの魔除けの面」として軒先に吊るす風習がある。この風習の起源は江戸時代とも言われているが、現在でも戸田の民家の軒先で見ることができる他、観光客が戸田の商店等で買うこともできる。
  • トウジン(地元ではゲホウとも)
  • アオメエソ(地元では「めひかり」、「とろぼっち」とも)など
主な漁港

沼津港戸田港井田港西浦港内浦港静浦港

水産加工業[編集]

沼津市は、干物の町と言ってもいいほど、とても干物の生産が盛んである。

沼津港周辺では「干物」や「雑節」を中心とした多様な水産加工業が形成されており、全国でも有数の水産加工品の産地としての「沼津産」ブランドを築いている。

  • 沼津のひもの
当市のアジの干物生産量は、市ごとの統計調査が廃止される平成17年度まで全国の約半分を占め、日本一であった。
沼津のひものの歴史は江戸時代まで遡り、当時は駿河湾で取れる新鮮な魚介類を家庭で保存するための手段として発達したと言われている。明治時代には売買される水産加工品となり、大正時代には他地域に出荷され産業に変化していった。現在では「沼津産ひもの」として全国に出荷されている。
富士山の良質で豊富な湧水や強い浜風、沼津の温暖な気候などの環境と、巨大マーケットである首都圏に近いという地理的条件が産業としての「沼津のひもの」を成功に導いたと言われている。
  • 雑節の生産量は市ごとの統計調査が廃止される平成17年度まで全国の約1/3を占め、日本一であった。

工業[編集]

戦後まもなく大手電気機械メーカーが多数進出し、当市の産業の核になると共に地域の中小企業との調和の取れた集積により、当市の発展に少なくない影響を与えた。首都圏の100km圏内である事や、沼津IC国道1号などの有利な条件の下で順調な発展を遂げてきたが、近年ではフジクラ沼津事業所の縮小、ジヤトコ沼津工場の撤退や新規事業所進出の減少など停滞がみられる。

静岡県の進めるファルマバレープロジャクトや、技能五輪国際大会の当市開催を契機にしたものづくりの振興など、地域の工業の活性化と当市の工業の更なる発展が目指されている。

金融業[編集]

当市内に営業拠点を置く金融機関・証券会社等。なお、スルガ銀行、静岡中央銀行は沼津市を本店としている。

金融機関
証券会社

商業[編集]

当市は商圏人口100万人の沼津商圏を擁しており、静岡県東部地域の商業の中心地となっている。特に沼津駅前には商店街、百貨店やアミューズメント施設が集積しており、静岡県東部随一の繁華街となっている。しかしながら、長崎屋丸井沼津西武などの大型店の相次ぐ撤退、近年の郊外化の影響などにより当市においても中心市街地の空洞化が進行して往年の活気が無い状態が続いている。

中心市街地の店舗は撤退、閉店が相次ぐ一方で郊外店は増加するという悪循環に陥っている。この状況を打開するために、市は沼津駅の高架化を中心とする沼津駅周辺総合整備事業を掲げているが、駅の高架化に先駆けて完成した再開発ビルイーラdeは集客や周辺への波及効果などの点において、目的を完全には達成できていないのが現状である。

市内の主な商業施設[編集]

主な商店街

  • 沼津仲見世商店街
  • 新仲見世商店街
  • 駅前名店街
  • マイロード 大手町商店街
  • 沼津あげつち商店街
  • 沼津上本通り商店街
  • アーケード名店街
  • 本町商店街
  • リコー通り商店街
  • 沼津港商店街
  • 沼津ぐるめ街道

大規模商業施設

沼津駅周辺

沼津市街

郊外店

本社や拠点を置く主な企業[編集]

本社
拠点

マスメディア[編集]

教育[編集]

大学・短期大学[編集]

東海大学の学部再編により開発工学部の廃止が決定され、開発工学部が置かれる沼津キャンパスは2010年度からの新入生募集を停止する。沼津キャンパスは在学生が卒業する2012年度以降も大学として利用する方針が発表されている。

高等専門学校[編集]

高等学校[編集]

県立

市立

私立


なお、静岡県立沼津商業高等学校という高校がある。この学校は昭和30年代まで当市内の所在であったが、校地等の関係で昭和40年代に隣の駿東郡清水町に移転し、現在は当市内には所在しない。

中学校[編集]

市立


私立

小学校[編集]

市立

  • 沼津市立第一小学校(代戯館→沼津兵学校附属小学校)
  • 沼津市立第二小学校
  • 沼津市立原小学校
  • 沼津市立片浜小学校
  • 沼津市立大岡小学校
  • 沼津市立金岡小学校
  • 沼津市立愛鷹小学校
  • 沼津市立西浦小学校
  • 沼津市立浮島小学校
  • 沼津市立大平小学校
  • 沼津市立第三小学校
  • 沼津市立第四小学校
  • 沼津市立第五小学校
  • 沼津市立千本小学校
  • 沼津市立内浦小学校
  • 沼津市立静浦小学校
  • 沼津市立静浦東小学校(平成22年静浦小学校と統合)
  • 沼津市立静浦西小学校(平成22年静浦小学校と統合)
  • 沼津市立開北小学校
  • 沼津市立香貫小学校
  • 沼津市立今沢小学校
  • 沼津市立門池小学校
  • 沼津市立沢田小学校
  • 沼津市立大岡南小学校
  • 沼津市立原東小学校
  • 沼津市立戸田小学校

私立

特別支援学校[編集]

専修学校[編集]

学校法人の施設[編集]

学校教育以外の施設[編集]

自動車教習所
  • 東部自動車学校
  • 黄瀬川自動車学校

公共職業能力開発施設
  • 静岡県立沼津技術専門校(愛称:沼津テクノカレッジ)
  • 静岡県立あしたか職業訓練校

交通[編集]

当市は財界の保養地としても発展したために、鉄道道路などの交通網の整備が明治の早い段階から推し進められて来た。

東海道本線は当初、箱根を貫通するトンネルの開削技術がなかったことから北の御殿場を通る現在の御殿場線ルートを採用したが、これに伴い25パーミル(1000分の25)の急勾配が発生した。そのため、沼津には勾配を超えるための補助機関車を解結するための機関区が置かれ、結果として同線における重要な駅と位置づけられることになった。

1934年丹那トンネルの開通により東海道本線のルートが現行のものになった後も、1949年までは同線の電化区間が東京から沼津までであったため、ここで電気機関車蒸気機関車との付け替えを行った。

鉄道[編集]

東海道本線は、沼津 - 東京間に直通乗入れが複数ある。また、特急「あさぎり」も、御殿場線小田急線を経由し、沼津と新宿を結んでいた。

東海道新幹線を利用する場合は、沼津から三島まで東海道本線で1駅連絡することになる。

なお、市内を通る鉄道は、すべて東海旅客鉄道(JR東海)管轄である。

中心駅:沼津駅

JR東海道本線
沼津駅、片浜駅原駅
JR御殿場線
沼津駅、大岡駅

道路[編集]

高速道路[編集]

※新東名は沼津市を通ってはいるが市内にインターチェンジジャンクションはない(長泉沼津ICは沼津市でなく長泉町に位置する)。

自動車専用道路[編集]

国道[編集]

県道[編集]

道の駅[編集]


バス[編集]

コミュニティバス
  • ビーバス南北循環(伊豆箱根バス)
  • ミューバス片浜循環・原循環(富士急シティバス)
路線バス
東名ハイウェイバス東名沼津東名愛鷹
高速バス (沼津駅北口バスターミナル)
  • 東京駅線(富士急シティバス)
  • 新宿・渋谷線(富士急シティバス・京王バス東)
  • 成田空港行き(富士急静岡バス・京成バス)
  • 大阪あべの橋線 「金太郎号」(夜行)(富士急湘南バス・近鉄バス)

船舶[編集]

軌道[編集]

1963年昭和38年)に廃止された路面電車を、同様に廃止された蛇松線のルートを通ってLRTとして復活しようとする動きがある。

索道[編集]

空港[編集]

市内に空港は無いが以下の2つが主に使用される。

観光[編集]

主な史跡・旧跡等[編集]

  • 井田松江古墳群(県指定史跡)
  • 松蔭寺(白隠ゆかりの寺)
  • 日枝神社(国の重要文化財『紙本著色山王霊験記』を所蔵)
  • 沼津御用邸記念公園
  • 引手力命神社(大瀬神社)

観光地[編集]


祭り[編集]

  • 大瀬祭り(4月4日)
  • 海人祭
  • 沼津夏祭り(7月最終土日)
  • サンセットページェント(8月下旬)
  • 酒塚祭り(11月23日勤労感謝の日)
  • よさこい東海道
  • 水祝儀
  • 戸田盆踊り大会・海上花火大会

スポーツ[編集]

当市を舞台とした作品[編集]

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小説
映画
雑誌企画

沼津に関連する有名人[編集]

沼津出身者・沼津市民[編集]

政治


経済


文学


芸術


学術


スポーツ


芸能


マスメディア


架空の人物


当市に縁の有る人物[編集]

文学
  • 井上靖小説家、文化勲章受章者、沼津市名誉市民)
  • 大岡信(詩人、文化勲章受章者、沼津市名誉市民)
井上靖と大岡信の両名は、出身地がそれぞれ外の都市である。井上は天城湯ヶ島(現・伊豆市湯ヶ島)出身、大岡は三島出身。共に出身校が旧制沼津中学校(戦後の静岡県立沼津東高等学校)であるため、その理由で井上は生前に、大岡は2003年の文化勲章受章時に、名誉市民が授与されている。大岡は、同時期に出身地である三島市からも名誉市民が授与され、異例の2市同時名誉市民授与となった。
1932年に静浦志下に滞在して「思ひ出」を、1947年には三津で「斜陽」の第一章から第二章を執筆した。
芸能
養父が当市出身。家庭の事情で中学2年まで土肥町に住んでいた関係で、晩年は沼津に住んでいた。沼津の観光大使にも就任した事がある。
沼津マリーナにヨットを所有し、週末にはクルージングに訪れていた。当市の内浦湾では「タモリ茶碗(カップ)」を冠するヨットレースが行われている。
父が当市出身。観光大使に就任したこともある。
芸術
母親が当市出身。沼津第五小学校を卒業。自分にとってのファッションの原点は沼津にあると言っており、「いつになっても僕のホームタウンは沼津」と述べている。来日の際には、必ず沼津まで出向く。
政治
当市(当時は駿東郡楊原村)に別荘を持っていた。また、馬込港にある瓜島が、地元で西郷島と呼ばれているのは、これに由来すると言われている。
沼津兵学校の教頭であった。
出生地が沼津。
大蔵省に入省後、最初に配属された任地であり沼津税務署署長として着任し、在職していた。

その他[編集]

脚注[編集]

  1. 沼津市公式サイト: 弥生時代
  2. 沼津市公式サイト: 狩野川台風
  3. 歴代知事編纂会編『日本の歴代市長』第2巻、歴代知事編纂会、1984年。『朝日新聞』。
  4. 在日米軍施設・区域別一覧 - 防衛省(2013年3月現在、同年11月25日閲覧)
  5. 誰か昭和を思わざる 大正ラプソディー (大正2年1〜6月)
  6. 宮本憲一『公害対策基本法』佐々木・鶴見・富永・中村・正村・村上編集委員 2005年 259頁-260頁
  7. 沼津市の反対運動は、住民向けの学習会が市内各地で模様され、反対運動の原動力となった。反対運動は、革新派だけでなく保守派との連携が沼津市の反対運動の特徴と言われる。そのため、同じ保守派でも市長派と反市長派と対立するようになった。
  8. 沼津市公式サイト: ぬまづ自慢 これが一番・これが唯一・産業
  9. JAなんすん ぬまづ茶の歴史
  10. 沼津市役所 産業立地総合支援サイト 産業振興資料
  11. 静岡農政事務所 - 西伊豆戸田のタカアシガニ 産地のあゆみ
  12. “西友「沼津店」、WM主力業態に注力 SuCいまだ発展途上”. 日本食糧新聞(日本食糧新聞社). (2004年4月12日)
  13. “「西友楽市沼津松長」がオープン”. 日本食糧新聞(日本食糧新聞社). (2000年8月30日)
  14. 沼津市公式サイト: この子のかわいさ 沼津地方の子守唄

関連項目[編集]


外部リンク[編集]

テンプレート:静岡県の自治体 テンプレート:日本の特例市

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